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ローゼンベルク家の食卓

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2009年2月の日記

【ex8-20】グローイングアップ!

2009/02/03 19:25 番外十海
ちびヨーコ、風見&ロイと合流。しかし魔女が追って来て…

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【ex8-21】再び悪夢の中へ

2009/02/03 19:28 番外十海
 カルヴィン・ランドール・Jrは四角い、細長い建物の中に居た。中はがらんとしていて人の気配はない。
 夢の中に入ったことは間違いなさそうだ。
 身にまとっているのは裏地の赤い黒のマントに白のドレスシャツ、髪は長く舌先に触れる犬歯は鋭く尖っている。だが昨夜と異なり、目を閉じてさえひしひしと感じられるはずの仲間たちの気配はない。
 意識を集中すると遠くかすかに木霊のような波を感じる。彼らも夢に入ってはいる。だが、この場にいるのは……

 自分一人、か。

 しかし、その寂しさを補うかのように、細く伸びた廊下にも、壁にも、天上にも、乱雑かつうすっぺらな装飾が施されていた。
 紙を切り抜いた幽霊、ビニールのコウモリ、発泡スチロールやプラスチックのカボチャ。床にも壁にも天井にも、Gの生じるありとあらゆるところに飾りがぶら下がっている。

 ランドールはわずかに眉をしかめた。ああ、またここに来てしまったのか。ジュニア・ハイのハロウィン。本来なら楽しいイベントだが彼にとっては苦々しい思い出の根付く場所と時間。
 確かに魔女は自分の『心の闇』を狙ってきたのだ。

 不愉快だ。
 こんな所にはあと一秒だって居たくはない。早く抜け出してヨーコたちを探そう。

 無造作に踏み出すと、天上からぶらさがる何かが顔に触れた。
 紙の幽霊か、それともコウモリか?

「う」

 強烈な臭気に思わず顔をそむける。本来なら決して不快なにおいではない。むしろ食欲をそそるはずなのだが、物には限度と言うものがある。
 しかも、こいつはいい具合に腐敗している。それにこの大きさはどうだ。まるでリンゴだ。
 見渡す限り続く廊下には不自然なほど大粒のニンニクを、大量に連ねてリースにしたものがぶらーんと、何本もぶらさがっていた。

 悪趣味な!

 ざらりと払いのけた手のひらに鋭い痛みが走る。

「くっ」

 腐ったニンニクの中に鋭く尖らせたえんぴつが仕込まれていた。えぐられた傷口に、濃い赤がにじみ……滴る。

「ドラキュラは故郷に帰れ」

 単調な声が背後でささやく。とっさにマントを翻して打ち払った。

 いつの間にそこに居たのだろう。顔のないおぼろな影がひしめいていた。手に手に輪にしたロープや杭を振り上げ、異口同音に叫ぶ。抑揚のない機械じみた合成音声のような声で。

「ドラキュラは故郷に帰れ」
「吸血鬼を吊るせ!」

「しつこいぞ……」

 真っ赤な血の滴り落ちた場所から、棘の生えたツルがにょきにょきと、芽生えて伸びて、ランドールの右手にからみついた。だが鋭い棘が彼の手を傷つけることはない。

 びしり!

 茨の鞭を閃かせ、押し寄せる顔のない影を引き裂いた。一撃食らうなり、影どもは降り積もったほこりのようにあっけなく千切れてくたくたと崩れ落ちる。だが、数が尋常ではない。後から、後から押し寄せる。

「ドラキュラはぁああああ故郷にぃいい帰れ」
「吸血鬼を吊るせぇええええ」
「首を撥ねろ」
「首を撥ねろ」
「口にニンニクをつめて」
「首を撥ねろ」

 ひしめく影の向こうにぞろりと、三日月型の刃が踊る。
 いくら切り裂いても、はね飛ばしても一向に数が減らない。とがった杭の先端が顔や腕を引っ掻く。一つ一つの傷は小さいが、確実に数が増えて行く。
 満身創痍、荒く息を吐きながらランドールはだらりと手をたらして立ち尽くした。

「首を撥ねろ」
「首を撥ねろ」
「断頭だ」
「処刑だ」
「打ち首だ」

 ゆらゆらと影の頭上に見え隠れしながら三日月の刃が近づいてくる。
 右手にからみつく鞭が形を変える。ひらべったく、細長く……鋭い切っ先をそなえて。

「吸血鬼を処刑しろ!」

 今だ。
 振り向き様、右手を繰り出す。手にした十字架が深々と赤い衣に包まれた痩せた胸に食い込む。
 握りしめる手のひらが焼け付き、白い煙が上がる。

 一度は乗り越えたはずの悪夢。だが、あの時は彼女が一緒だった。己の負うた心の闇は、やはり最終的には自分一人で打ち破らねばならないのだ……。

 意志の力で痛みをねじふせ、一気に貫き通した。

「さて……どんな気分かな。吸血鬼に十字架で串刺しにされると言うのは?」
「げぇええっ」

 山羊角の魔女はごぼっと喉を鳴らし、口から大量にどす黒い霧を吐き出しながら乾涸びて行く。縮んで行く。

「この傷はもう、乗り越えた」

 十字架から手を離す。かさかさに乾ききって軽く、うすっぺらになった魔女の体が崩れ落ちる。身につけていた赤い衣もすっかり色あせて灰色にわずかに赤みが混じる程度。それすらも刻一刻と失われて行く。
 ばさり、とマントを翻した。鮮やかに裏地の赤がひらめき、幻の校舎も、ハロウィンの飾り付けも、ニンニクのリースも何もかも全て消え失せる。
 立っているのはランドールただ一人。

 そっと手を伸ばして触れる。長く伸びた黒髪を束ねる赤いリボンに。

「痛っ」

 高ぶりが引いてきたせいか……十字架で焼けた右の手のひらがずくん、とうずく。
 だが、些細なことだ。

 そして、彼は歩き出す。悠然とマントを翻し、優雅な足取りで……振り向かずに前へと。
 
 
 ※ ※ ※
 
 
 サリーこと結城朔也は暗い部屋に居た。窓と言う窓が真っ黒に塗りつぶされている。
 手足の指先から凍てつく冷気が忍び寄る。

(寒い……)

 襟元をかきあわせて気づく。身につけたものが変わっていた。白い小袖に緋色の袴。また、無意識のうちに巫女装束をまとってしまったらしい。

「うぅ……」

 だれかが呻いている。はっと顔を向けると、部屋の中央に鉄の寝台があった。

 背の高い男がうつぶせに張りつけにされている。手首に、足首に鉄の輪が食い込み、彼の手足をベッドの支柱にがっちりとくくり着けていた。
 闇の中、むき出しの背中が白く浮かぶ。がっしりした骨格の上を包む均整のとれた引き締まった筋肉、滑らかな肌。しかし、そこには一面に深々と無数の細長い針が突き立てられていた。
 まるで展翅版に留められた蝶の標本だ。
 闇が凝縮したような真っ黒な男がのしかかり、赤い髪の毛をまさぐっていた。執拗になでまわし、しゃぶり、顔をすり寄せる。合間に自らの胸に手を入れ、ぞろりと針を引き抜き、獲物の背に突き立てる。

「よ……せ……フレディ……」
「ずうっとお前をこうしてやりたかったんだよ……」
「や……め……ろ……」
「遠慮するな。好きなんだろう? お前の体がそう言ってるぜ、そら」
「う……く……あ、あ……」

 新たな針が皮膚に突き刺さり、貫かれるたびに歯を食いしばり血の涙を流す。
 傷口から吹き出す血が背中に広がり、不吉な翼の模様を描き出す。

 あれは、ディフ?
 
 手足の自由を奪われたまま、なす術もなく影の男に弄ばれるその姿は普段の快活で堂々とした彼からは想像もつかない。けれど………確かにディフだ。

 影の男はにたり、と白い歯を見せてせせら笑い、己の体の中からさらに鋭く、さらに長い針を引き出した。
 先端から緑色の粘液が滴り落ち、組み敷かれた虜の肌を焼く。
 食いしばった歯の間からくぐもった悲鳴が漏れる。影の男は手にした針をこれ見よがしに振りかざした。

「やめろ!」

 一歩踏み出した瞬間、背後からやせ細った腕にがっちりと羽交い締めにされる。むわっと濃密な獣の息がにおい、耳元で聞き覚えのある女の声がささやいた。

「優しいねえサリー。その優しさが命取りだよ」
「ぐっ」

 間近に見下ろす魔女の顔は、半ば焼けこげて一層、凄惨さを増していた。横に割れ裂けた金色の瞳がほくそ笑む。
 にゅるり……どす黒い肉厚の舌が魔女の口から繰り出され、首筋を這いずる。骨張った指が装束の内側に潜り込み、胸元をまさぐり太ももをなであげる……執拗に、ねっちりと。
 ぞわっと鳥肌が立った。

「ああ、きれいだねえ。いい肌をしてるね。すべすべしてる……いっそひん剥いてもらい受けようか。あたしの焼けこげた肌の代わりに」
「やめろ……その手を……離せっ」

 ぐいっと乱暴に襟元をはだけられる。乱れた白衣の合間から胸が鎖骨のあたりまで露になり、冷気にさらされる。

「助けを呼んでも無駄だよ。お前の大好きな『よーこちゃん』も、今頃は……」

 乱杭歯をむき出しにして魔女があざ笑った。

(嘘だ)
 
 きりっと唇を噛む。
 羊子さんに何かあれば真っ先に自分がわかる。夢の中にいればなおさらに。仕掛けられる悪意までは感知することができないけれど……少なくとも今、この瞬間は羊子さんは無事だ。

 目の前ではディフが凍り付いたように動きを止められていた。ヘーゼルブラウンの瞳を恐怖に見開いて……最悪の瞬間のまま固定されている。
 
 ディフは心根のまっすぐな人だ。だれに対しても誠実で、見ず知らずの他人の子にさえ母親にも似た無償の愛を惜しみなく注ぐ。
 それ故、夢魔の嗜虐心をそそったのだろう。オティアを介して彼の心の闇に付け込み、浸食し、あまつさえ自分を誘い込むための囮に仕立て上げたのか。
 ひしひしと冷たい怒りがわき起こり、サクヤの中を満たして行く。

 許さない。

 右手の中に赤い組紐で綴られた金色の鈴が出現する。
 緑、黄色、朱色、青、白。五色のリボンとともに大小の『夢守りの鈴』をブドウの房のように綴ったそれは、羊子のものに比べるとほっそりした作りで、持ち運ぶ際にかさばらないように工夫されていた。
 それこそ上着のポケットにもしのばせたり、大きめのストラップと言っても通じそうなくらいに。

 シャリン。
 
 鈴の音に魔女がびくん、とすくみあがる。人を絶望のどん底に封じ込めておきながら自身は苦手なもの、恐いものにひどく敏感で苦痛にも弱い。
 だからこそ敵を呪いで弱い姿に変えていたぶるのだろう。

「玉の御統(みすまる)、御統に……」
「何をぶつぶつ言ってるんだいっ」

 ぱちっ、ぱちっと空中に青白い稲妻が走る。

「あな玉や、みたま、二谷渡らす」
「ええい、おやめっ! その歌をおやめっ」

 きりきりと胸板に爪が突き立てられる。だが、やめるものか。
 ひるまず一段と強く鈴を打ち振り、ひといきに雷神の御名を呼ばわった。

「阿遅志貫高日子根の神ぞ」

 どん!

 轟雷とどろき、はるか天空の高みより、青白く輝くの光の御柱降り来たる。禍々しい闇を切り裂き、真っ向から魔女を打ち据えた。
 ぱりっと微弱な電気がサクヤの体を駆け抜け、髪の毛を。巫女装束の裾を舞い上がらせる。
 だが、それは彼にとって慣れ親しんだ感触で、多少くすぐったくはあるものの不快だとも痛いとも感じない。

 もだえ苦しみながら光の柱の中で魔女が焼かれて行く。手が、足が、顔が乾涸び肉が溶け、皮が張り付く。角と骨だけになってもまだ魔女は叫んでいた。
 サクヤは無造作に右手を振るって鈴を打ち鳴らす。

 シャリン!

 澄んだ音色とともに魔女の体は形を失い、灰色の芥と成り果てぼろりと崩れ落ちた。欠片も残さず散り失せて、同時に鉄の寝台も消えた。

「ふぅ」

 小さく息を吐くとサリーは乱れた装束を整え、うずくまる友人の傍らに歩み寄った。

「……ディフ。こんな所にいちゃだめです」
「……あ……サリー……」

 むき出しの肩にやわらかな毛布をかけた。

「これは、夢です。ただの夢。目覚めたら全て忘れてしまう」
「そう……か……夢なのか………」
「はい」

 ほほ笑みかける。恐怖と苦痛のあまり虚ろになっていたディフの顔に、ようやく安堵の表情が浮かんだ。

「さあ、行って。レオンさんが待ってますよ」
「うん………」

 背中を苛む針は消え失せ、代わりに柔らかな金色の翼が広がる。背後から彼の体を包み込むように。
 
「レオン………」

 愛おしげにつぶやくうちにディフの体は徐々に薄れ、光の中に消えて行った。

 良かった。もう、大丈夫だ。

 不意に目の前の空間が揺らぎ、黒いマントをまとった背の高い男が現れた。思わず身構えるが、ネイビーブルーの瞳を見て安堵する。

「サリー! ここに居たのか」
「ランドールさん」
「ヨーコは? 一緒じゃなかったのか?」
「あ……羊子さん!」

 ターン……と遠くで銃声が響いた。2人ははっと顔を見合わせ、走り出した。

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【ex8-22】go-go-go-ahead!

2009/02/03 19:30 番外十海
 
 昼の光、夜の光、何もない光。
 ゆらぎ、瞬き、ひらめいて、今と過去との隙間を照らす。

 宵闇、薄闇、木の下闇。
 明け闇、夕闇、星間の闇。
 漆黒、暗黒、真の黒。 時の障壁(かべ)すら飲み込んで。

 瀝青(ピッチ)のように青黒く、タールのように真っ黒で。
 見ることは見られること。
 闇の深淵をのぞくとき、向こうも私を見ているのだ。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 静かだ。
 見えるものは全て青い磨りガラスを通したみたいにうっすらと青みを帯びている。それなのに色も、形も見分けることができた。振り仰ぐ空にはぽっかりと丸い月。
 満月をほんの少し通り過ぎた十六夜の月。
 ああ、きれいだな……。

 手をかざして月の光に触れてみる。

「え?」

 白衣じゃない。洋服の袖だ。紺色の袖に白いセーラーカラー、リボンの色はえんじ色。

 これ……高校の制服じゃない!

 何で、こんな格好を?

 慌てて周囲を見回す。だれもいない。確かに、他にも居たはずなのに。年下の男の子が2人一緒だった。ああ、でもあれはだれだったんだろう?
 サクヤちゃん……?
 蒼太?
 それとも……。

 ああ、だめだ、めまいがしそう。何でこんなに寒いのだろう。何で、こんなに。
 煌煌と照らす月の光は金の色。だけど熱のない冷たい光。手先指先足の先、体の先端からしんしんと染み通り、温もりを奪って行く。

「羊子」
「……え?」

 低いおだやかな声が名前を呼ぶ。
 ひとめ会いたいと願い続けた、夢の中で面影さえ追うことすら許されなかった人がそこに居た。足下に長く彩のない銀色の影を引いて。皺の寄った目元に優しい光を宿し、ほほ笑んで腕を広げている。

「羊子。探したよ」
「上原………さん………」

 抱きしめる腕をどうして拒むことができるだろう? 自分を見守り、導き、悪夢に立ち向かう術を教えてくれた人。
 いつからだろう。この人を師としてではなく、先輩としてでもなく、一人の男性として慕っていたのは……。
 いつから、なんて関係ない。私は、この人が好き。バレンタインのチョコを渡すとか、手をつないで歩くとか、2人だけにしか通じない暗号を駆使してメールをやりとりするとか……
 そんな、同年代の男子と交わすささやかな恋心なんかじゃ追いつかないほど、彼を求めていた。親子ほど年が離れていても、この想いは止められない。
 たとえ子どもと思われていても、彼のそばにいられるだけで胸が高鳴った。一緒に戦えるだけで十分だった。『よくやった』ただその一言で心臓が喜びにうち震えた。

 切ないけれど幸せな時間がずっと続いて行くって信じていた……信じていたのに。
 背に回された腕に力がこもり、ぐいっと引き寄せられた。足も腰も胸もあますところなく密着し、引き締まった体を。肌の熱さを直に感じた。
 彼の指が髪を撫でる。くすぐったい。

「あ……」
「可愛いな」

 背中、肩、腰。まんべんなくなで回され、そのたびに密着した体がよじれてこね回される。
 上気した肌から少女の肢体には不釣り合いな、成熟した女の香りがにおいたつ。
 首筋に顔が寄せられた。
 
「ああ、いいにおいだ」

 ささやかれる吐息にびくん、と全身がすくみあがる。
 逃げようとするとさらに強く抱きすくめられ、なでられた。

 どうしよう。
 熱いよ。
 熱くて、もどかしくて、じれったくて。ああ、いっそこのまま、溶けてしまえたらいいのに。

 耳もとに口がよせられ、優しいささやきが耳をくすぐる。 

「ずっと、一緒に居よう。もう一人で泣くこともない」

 閉じかけたまぶたをぱちりと見開く。

「ずっとお前を愛してあげるよ」
「うれしい……な……」

 すうっと目を細めた。

「でも、それは聞けない」

 ターン、と響く銃声一発。
『彼』が胸をおさえてよろよろと後じさる。苦痛に顔を歪めている。指の間から真っ赤な血が吹き出し、こぼれ落ちる。
 わき起こる後悔の念をねじ伏せ、右手を伸ばした。

 ヨーコの手の中に小さな拳銃が光っていた。縦に連なる中折れ式の二本の銃身、ハイスタンダードデリンジャー。表面は摩滅しているがぴかぴかに磨き上げられ、グリップに一筋斜めの傷が走る。
 上部の銃口からうっすらと煙がたちのぼっていた。

「お前はあの人じゃない。あの人はもういない。この銃が私の手の中にあることがその証」

 油断なく狙いをつける。弾はもう一発残っている。もとより夢の中では装填数など問題ではないのだが……
 彼は言った。
 二発しか撃てないが故に威嚇の余裕も外す猶予もない。常に真剣勝負、確実に当てねばならない。そんなギリギリの空気が恋しくてこの銃を使うのだと。

 紺色の制服が崩れ落ち、つかの間なめらかな裸身が露になる。
 白い小袖に緋色の袴の巫女装束、さらにふわりと薄い白布の上衣……千早がヨーコの身を包む。神楽を奉納する時などにまとう、巫女の盛装。身に着けるとそれだけで心が研ぎすまされる。

「それにね……あなた、あの人なら決して言わないことを言ったもの」

 一緒に来るなと彼は言った。
 残って後に続く者を導けと。
 女として想われることが叶わぬのなら、せめて戦友として共に散ろうとした自分にただ一度の口づけで報いて。

 だから私はここに在る。

「バカな娘だね。せっかくいい夢を見せてあげようと思ったのに」

 口をゆがめて吐き出すと、『あの人』の姿は歪んで引きつれ、赤い衣をまとった背の高い痩せた女に変わった。顔は焼けただれ、片方の腕は半ばで切断されている。生々しい傷口からはタールのような黒い粘つく液が滴っていた。

「まんざらでもなかったみたいじゃないか。ええ? 私でよければたっぷり可愛がってあげるよ?」
「はい、ストーップ!」

 びしっと魔女の左の角に銃弾が当たり、上半分を木っ端みじんと吹き飛ばす。ぱらぱらと欠片が飛び散り、魔女は口をぱくぱく、白目をむいてへたりこむ。

「それ以上は青少年の教育上、好ましくなくってよ?」

 デリンジャーをかまえたまま、ヨーコはこの上もなくにこやかに笑いかけた。

「風見! ロイ!」
「はい!」
「おそばに」

 音もなく浅葱色の陣羽織を羽織った若武者と、青装束の金髪ニンジャが現れる。

「お、お前たち、何故ここに! 夢の入り口でばらばらに分断したはずなのに。どうやってここまで入り込んだんだ!」
「ダイブのタイミングをずらしたのでござるよ!」
「何ぃ?」
「あの時、拙者たちは夢には入らず現実に留まったのでござる」
「お前がヨーコ先生たちに罠を仕掛けたのを見計らってから、改めて先生の夢に入ったんだ」

 ロイと風見が夢に入った時、3人の魔女は既にサリーとランドール、ヨーコにかかり切りだった。
 5人全員、一度に入っていれば最初の段階でかく乱することもできたろうが、新たにダイブしてきたハンターたちに手を回す余裕はなかったのである。

「悪夢の気配がぷんぷんにおってござった。探すまでもない。悪夢狩人にとって初歩中の初歩でござる」
「そんなバカな……この女の意識には、そんなことは欠片も……」
「ええ、そうでしょうね。これは私の指示じゃない。この子らが独自に判断して動いた結果ですもの」

 ヨーコは誇らしげに。そして愛おしげに教え子たちを見やった。

「この子らと今、共に在ること。それが私が戦い続ける意味。生きてきた時間の証。お前ごときに消せはしない……」

 手の中のデリンジャーに視線を落とす。ほんの一瞬だけ。
 きっと顔を上げるとヨーコはかすかな笑みすら浮かべて魔女を正面から見据えた。

「奪えはしない」
「っけええええ、ばかばかしい、くだらないっ! そんなにそのガキどもが大事か、そんなにそんなにそんなに!」

 魔女は口角から泡を飛ばしてわめき散らした。手も足も真っ黒に染まり、歪んで引き延ばされてゆく。
 不健康ながらも美しかった女の面影が消え失せ、いびつな影に欠けた角、金の瞳、鎌状の腕を振り回すおぞましいながらもどこかこっけいな妖物と成り果てる。

「だったら3人まとめて引き裂いてやる、食ってやるうう!」

 ぐわっと大口開けて飛びかかる化け物をびしっと指差し、ヨーコは命じた。

「成敗!」

 風見が滑るように走り出し、ロイが弧を描いて宙に飛ぶ。オーバーアクション気味のニンジャに妖物が気を取られた瞬間、間合いを詰めた風見が大小二本の太刀を抜き放つ。

 鞘から太刀を抜く動きがそのまま斬撃へとつながり、右に下に二筋の銀光が走る。

「飛燕十字斬!!」
「ぎぇっ」

 ざん、ざざんっと影の化け物に十字架の印が刻まれる。刻印された聖なる印にじりじり灼かれてもだえ苦しむ『ビビ』にさらに止めの一撃。

「忍び(それがし)の心の刃受けるでゴザル……」

 至近距離からロイが両手で放った衝撃波が魔女の全身を内側から押し広げて、膨張させる。

「心威発剄!」

 ほとばしる鋭気一閃。ぶわっと風船が破裂するように散り散りに、木っ端みじんと吹き飛ばした。青く霞む月光の森に、魔女の断末魔の絶叫が響く。
 ほんのしばらくの間、落ち葉が舞い散るようにはらはらと切れ切れになった黒い影が漂っていたが。
 シャリン、と鳴らされた鈴の音に追われ祓われ浄められ、跡形もなく掻き消える。

「お見事」
「先生!」
「先生っ」

 ヨーコはちょこまかと教え子たちに歩み寄り、ぽん、ぽん、と背中を叩いた。

「よくやったな、風見。えらかったぞ、ロイ」

 満面の笑みを浮かべてつやつやとした黒髪を。柔らかな金色の髪をくしゃくしゃとなで回す。あの時立ち止まっていたら、この子たちには会えなかった。こうして肩を並べて戦うこともなかった。

 彼と出会うこともなかった。

 自分たちが救ってきた人たちも、未だ悪夢に苦しめられたまま。命さえ落としていたかもしれない。
 悔しいけど。ほんっと、心底シャクだけど。『あの人』の言うことは正しかったのだ……。

 がさっと青い木々が揺れ、巫女姿のサクヤと黒尽くめのランドールが姿を現した。
 
「よーこさん」
「あ、サクヤちゃん」
「銃声聞こえたから……心配した」
「うん、もう、大丈夫」

 青い光。青い木、青い地面。夢魔の紡いだ幻が希薄になり、形を失ってゆく。

 ああ。月光の森が消えて行く。
 あの人と最後に会った場所。
 最初で最後のキスを交わした場所が……。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「あ」

 湿った風。海のにおい。波の音。現実が戻ってきた……いや、現実『に』戻ったのか。
 藍色の空には星が輝き、ほっそりした三日月は既に西の地平に沈んでいる。

「今、何時?」
「23時デス」
「ふむ。ダイブしたのが20時ごろだから、そんなもんか」

 うずく右手を抱えながら、ランドールはひっそりと立っていた。ヨーコから少し離れて……けれどあくまで顔の見える位置をキープしつつ。
 子どもになっていた時の記憶は鮮明に残っている。思い返すだに己の不甲斐なさにはらわたが焼ける思いだ。

 君を守りたかった。
 それなのに、私のしたことと言ったら……べそべそ泣きながら『お姉ちゃん』の後をついて回っただけ。
 
 情けないにもほどが有る。
 うつむき、苦い笑みを噛み潰した瞬間、風に乗って小さなつぶやきが聞こえた。

「寒……ぃ……」

 はっとして顔を上げる。
 何てこった。彼女、ずぶ濡れじゃないか!

 白いキモノも、赤いハカマも濡れそぼり、ぺったりと体に張り付いている。背筋こそぴんと伸ばしているが青ざめ、ガタガタ震えている……。
 
 自分が何をしようとしているのか。
 意識するより早く走り寄っていた。

「ヨーコ」
「どしたの、カル……わぷっ」

 自らのコートの前を開いて包み込み、抱きしめた。

「ふぇ……?」
 
 ヨーコは一瞬体を堅くしたが、目をぱちくりさせてじーっと見上げてきた。
 髪を撫でる。ああ、やっぱりぐしょ濡れだ。いったい何があったんだ。まさか海水浴でもしたんじゃあるまいね、君?
 腕の中の彼女がぴくんと震える。寒さのせいだけではなさそうだ。

「カル……」

 すっぽりと包まれてしまった。
 自分の体とはまるでつくりが違う。がっしりとした骨格も。引き締まった筋肉も、何もかも。
 もう、小さなカル坊やじゃないんだ。

「私が子どもだったとき、君は私を守ってくれた。ちゃんと覚えているよ……ありがとう」

 参ったな。このタイミングでそれ、言うか? ああ、まったくこの人は。

(守られていたのはむしろ私)
(頼ってくれる弟がいたから『お姉ちゃん』でいられた)

 震える手でランドールの服を握った。ずっと折り畳んでリュックに入れてあったからすっかりしわくちゃだ。でも。

「あったかい。あったかいなぁ……」

 それだけ言うと、ヨーコはランドールの胸に顔をうずめた。
 見られるのが恥ずかしかったのだ。
 とめどなくあふれる涙を、風見やロイ、サクヤに見られてしまうのが。
 大きな手のひらが頬を包む。優しい指先が涙を拭ってくれる。繰り返されたばかりの喪失の痛みがふわっと溶けて、拡散して行った。

「っつっ」
「………」

 怪我してる!
 この人ってば……。

 赤く爛れた右手に顔をよせ、口づける。
 ただ願うだけで良かった。彼の痛みを癒したい、と。

「……えらかったね、カル」
「ありがとう」

 心の底から愛おしいと思った。自分を包んでくれる温もり、今、この瞬間ほほ笑みかけてくるサファイアブルーの瞳、波打つ黒い髪。
 その身に宿る弱さ、強ささえも、全て。

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【ex8-23】エピローグ

2009/02/03 19:31 番外十海
  • 12/22から23日にかけて続いた魔女との戦いもこれにて一件落着。
  • けれど事件の後に実はもう一つ、クライマックスがあったのです……。

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グッドモーニング

2009/02/03 19:32 番外十海
 12月23日、夜22時45分。
 じきにクリスマスイブが始まろうと言うこの時刻に至っても、ヒルトン・サンフランシスコのロビーを行き交う人の数は一向に減る兆しを見せない。最上階のシティスケープレストランはディナーの時間こそ既にラストオーダーを締め切っていたが、ドリンクは未だ営業時間内。

 泊まり客のみならずレストランを利用する客も行き来する入り口にタクシーが止まり、また新たな客が訪れた。
 すかさず出迎えに出たベルボーイの表情が一瞬固まる……ホテルマンの意地と良識を発揮してあくまで笑顔で。

「……いらっしゃいませ」

 まず出てきたのは金髪の少年と黒髪の少年が2人。微妙に疲れてはいるが表情は明るい。足が砂だらけでこの寒い中海岸でも散歩してきたのか、潮の香りがした。
 最後に背の高いハンサムな男がさっそうと降りて来た。身につけた濃いブルーグレーのウールのスーツは少しばかり皺がよってはいるものの高級品。
 コートはどうしたのかと思ったら腕に抱えていた。内側にすっぽりと、小柄な黒髪の女性を包み込んで。

 前を歩く少年たちも、抱えている当人も、さもそれが当然のことなのだと言わんばかりに悠然とロビーを横切り、エレベーターへと向かう。
 居合わせた人々の視線が一斉に集中し、抱えられた女性がぺったりと顔をスーツの胸に伏せた。

 風変わりな5人づれはほどなく降りて来たエレベーターに乗り込み、人々の視界から姿を消す。伝統あるホテルのロビーの時間が再び流れだすまでにわずかな『間』があった。

 エレベーターの扉が閉まるとヨーコはやっとぽそぽそと小さな声を出すことができた。

「カ、カル……も、大丈夫だから……じ、自分で歩けるから」
「じっとして、ヨーコ。バランスを崩すと危ないよ」
「う……うん」

 最初はコートを羽織らせただけだった。しかしランドールのコートは小柄なヨーコには長過ぎて、大奥のお女中よろしく長々とトレーン(裾)引いてしまったので、それならばと抱き上げて運んできた訳だ。

(ああああああ。すれ違う人の視線が……って言うかサクヤちゃんはともかく、風見もロイも何も言わないのがかえっていたたまれないよっ)

 ちら、ちらと姫抱きに抱き上げられた先生の様子をうかがってはいるものの、教え子2人は必要以上に口を挟まない。
 子どもの時ならいざ知らず、今の自分たちは先生をあんな風に軽々と運ぶ事はできない。ここはランドールさんに任せるのが一番いいんだ、と。

 サクヤはヨーコのそばを離れるつもりはなかった。今は2人とも消耗しきっている。自分がこうして歩くことができるのは、おたがいに支え合ってどうにか持ちこたえているからだ。
 離れたらその瞬間、そろって意識を失ってしまうかもしれない。

 エレベーターを降りて廊下を通り、部屋に戻る。22日の夜以来、ほぼ24時間ぶりの帰還だった。

「ふわ……」
「やっぱ寒いな……エアコンつけよう」
 
 ランドールは迷わずバスルームに歩いて行き、ドアの手前でようやくヨーコの体を降ろした。

「すぐ、シャワーを浴びるんだ。いいね?」
「……OK」

 こくん、とうなずく黒髪をかきわけ、額にキスして送り出す。相変わらず裾をひきずっているが、この距離なら大丈夫だろう。すぐ脱ぐだろうし……おっと。

 慌ててドアを閉めてリビングに引き返した。

「あ、ランドールさん」

 居間にはサクヤだけが座っていた。高校生2人は寝室に引き上げたらしい。
 2人とも不眠不休の大活躍だったしな……小さな子どもを3人もかかえて慣れない土地で大変だったろう。

「大丈夫かい、サリー。君も疲れているようだね」
「ええ……正直、ちょっと動くのがつらいです。今夜はここに泊まってっちゃおうかな」
「その方がよさそうだね。確か、そこのソファがサブベッドになるはずだ」

 かちっとボタンを押して背もたれを倒す。

「ほんとだ。何でソファが二つもあるのか不思議だったんだ」
「毛布と枕をとってこよう。ベッドルームに予備があるはずだ」

 ヨーコの使っている部屋から枕と毛布をとってくると、サリーはクッションを抱えてすやすやと寝息を立てていた。毛布をかけて、灯りを落とす。

「……おやすみ」

 しまった、コートを彼女に着せたままだった。
 財布も車の鍵も全部ポケットの中だ……今、バスルームに入るなどもっての他。これでは帰るに帰れない。
 しかたない、しばらく待とう。

 ならば、その間にしておきたいことがある。

 寝室に移動する。やはり、寒い。
 シーツは清潔でさらさらしているが手で触れるとひやりとした。エアコンのスイッチを入れたが、果たして彼女が上がってくるまでにどれほどの効果があるだろう。
 電気毛布でもあればいいのだが……何か温かいものはないだろうか。

 ああ、そうだ。

 
 ※ ※ ※ ※


 寝室に引き上げると、風見光一はさっさと服を脱ぎ始めた。ジャケットを脱いで、その下のフリースも、シャツも、Tシャツも。さらにはジーンズまでそりゃもうさっさと潔く。
 あっと言う間に靴下まで脱いで、裏返して砂を払っている。

「あー、やっぱり、こんなとこまで砂だらけだよ……」
「こ、コウイチっ?」

 2秒ほど硬直してから、ロイはあわてて顔をそらした。
 
「いや、さすがにこの格好のまま寝る訳には行かないだろ?」

 そう言いつつもうほとんど脱いでるし!

「寝るの優先にして風呂は明日入るとしても、せめて着替えだけでも」
「そ、ソウダネ」
「ロイも早く着替えろよ。じゃしじゃしして気持ち悪いだろ?」
「ソ、ソウダネ」

 部屋のすみっこでニンジュツで鍛えた瞬発力を惜しみなく発揮し、高速で着替える。そんなロイの姿を見て風見は思った。
 相変わらずシャイな奴だな、と。

「あ、パンツだけでもかえとくかなー」

 ぱんつ!

 わずか三音節の単語がロイの思春期の頭脳を灼き尽くす。

(ど、ど、ど、どうしよう。ボクはいったい、どうすればーっっ!)

 悪魔がささやく。
 振り返れ、と。同じ部屋で着替えている以上、ちらっと見てしまってもそれは不可抗力であって決して意図的なノゾキではない。自然な成り行きなのだ。

 さあ、勇気を出せ、ロイ・アーバンシュタイン(それは勇気か?)
 振り向くのだ。(いいのか?)
 さあ。
 さあ。
 さあ、さあ、さあ、さあ!

 コイトタワーから飛び降りる覚悟で振り向いたロイの目に写ったものは!
 
 さっさとパジャマに着替えていた風見光一の姿だった。

(ああ………)

 たくさんほっとして、ちょっぴりがっかり。

(いいんだ……これでいいんだ……)

「夜明けまでちょっと仮眠とっとかないとなーさすがにもたないよ」

 そんなロイの心の葛藤などしる由もなく、風見はダブルベッドにころんっと横になっている。

「ソ、ソウダネ」

 さっきからこの一言しか口に出してない。

「ロイもほら、早く寝ないとだめだぞー」

 ちらっと横目で見る。自分の隣をぽんぽんと叩いていた。

「え、いや、でも」

 伏し目がちになり、新婚さんよろしくもじもじしていると、そこはかとなくさみしそうな声で言われた。

「やっぱり一人の方が落ち着く……か? だったら俺、リビング行くから……わ」

 ニンジャの運動能力を駆使してベッドの横にぴゅんっと高速移動。

「失礼シマス」
「礼儀正しいなあ……はい、どうぞ」

 くすくす笑うコウイチの隣に潜り込む。そーっと、そーっと、熱めの風呂に入る時のようにゆっくりと。
 そして、灯りを消した。

「懐かしいな。ちっちゃい頃はさー、よく一緒に寝たよな……」
「ソ、ソウダネ」

 広い、広い、キングサイズのダブルベッド。とりあえず一緒に入ったものの、寝姿を直視するにしのびず、どうしても背を向けてしまう。

「ほんと…………やっと安心したよ………ずーっと気が張ってて……どうしたらいいか、わかんなくて……」
「コウイチ……もう大丈夫だよ。大丈夫だから」
「うん…………ありがとな、ロイ。お前がいてくれて、ほんっとによかった」
「う、うん」

 すやすやと穏やかな寝息が聞こえてくる。疲れてたんだろうな。
 そろり、と勇気を振り絞って寝返りを打ってみる。

「っっ!」

 至近距離にコウイチの寝顔があった。
 不覚。
 ニンジャたるもの、この気配に気づかなかったとは!

 腕も足も投げ出して仰向けに眠っている。
 すべすべとした頬がすぐそばに。きりっと通った鼻筋、そして、形のよい唇。
 なまじ夜目がきくだけに、無防備この上ない寝姿の全てがくっきりはっきり網膜に焼き付いてしまった。

 ほっぺやでこに挨拶程度のキスならじゃれあうついでにしょっちゅうやっている。だが、唇はまだ未知の領域だ。
 コウイチはよく眠っている。

 再び悪魔がささやいた。
 この状況でなら、寝返りついでに触れたと言い訳もできる。

 どうする。
 チャレンジしてみるか?
 不幸にして生着替えは見逃したが………
 暗闇は人を大胆にする。ロイが沈黙のうちに境界線を越えようとしたまさにその瞬間。

「んー……」

 ころん、と風見が寝返りをうち、転がり込んできた。
 横向きに寝ていたロイの腕の中にジャストイン。あまつさえこてん、ともたれかかってきたではないか。

「!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 確かな重さと温もり。そしてストライプのパジャマの襟元からちらりとのぞく鎖骨。
 限界だった。

 その瞬間、ロイの中で超新星が弾け、理性も情熱も思考も何もかも真っ白に焼き付くし…………暗黒に飲み込まれていった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 熱いシャワーを浴びて、肌や髪にこびりついていた塩を洗い流す。お湯が触れた瞬間、ほんの少しひりひりした。本当はバスタブにじっくり浸かりたいところだけど、今それをやったら確実に風呂の中で、寝る。
 と言うか、落ちる。

(あー……だめ、今にも、寝そう)

 これでもサクヤちゃんが付き添ってくれてたからここまでもったんだろうな……。自分も疲れてるだろうに。

 アメリカのドライヤーはハイパワーかつ大型で、すぐに髪の湿気が飛んだ。あまりかけているとパサつきそうなので早々に切り上げる。バスローブを羽織り、黒いコートを手にした。

 うーん、やっぱり大きいよ。
 これじゃ引きずりもする。

 抱え上げられた時の記憶がよみがえり、あわてて鏡から目を避けた。だめ、いかに眼鏡無しとは言え今、この瞬間、自分の顔を直視する自信がない。
 ひたひたとリビングに向かう。

「カルー………あれ?」

 ソファベッドの上でサクヤがすやすやと眠っていた。
 毛布を整え、頭をなでる。

「おやすみ、サクヤちゃん」

 ランドールの姿はどこにもない。
 帰っちゃったのかな。コート、置いたままなのに。

 ほてほてと歩いて風見とロイの部屋まで行く。ドアの前で耳をすませる……どうやら眠っているようだ。

「おつかれさん」

 ドア越しに投げキッス一つ。足音を忍ばせて自分の寝室に戻った。
 クローゼットを開けて空いたハンガーを取り出す。コートをかけて、形をととのえ、備え付けのブラシで砂を払った。

 湿気を吸ってるから中に戻すのはまずい。
 んしょっとのびあがり、ハンガーを開け放したクローゼットのドアの上端に引っ掛けようとしたが、届かない。
 椅子をひっぱってきて踏み台にして………よし。

 やっぱり大人の体は便利だ。ある程度のレベルまでは自分で解決できるもの。
 するりとバスローブを肩から落とし、パジャマの上着を羽織る。大きめのを愛用しているから、膝のあたりまで余裕で届く。乾いた布につつまれて、ほう……と息を吐いた。

 クローゼットにずらりと並ぶドレスに目を向ける。
 こんなにいっぱい、しかも自分にぴったりな服をどこから見つけてきたのだろう? どんな顔して選んだのだろう?
 おやすみぐらい、言いたかったな……黙って帰らなくってもいいのに。

 ベッドによじのぼると、枕のところにウサギのぬいぐるみが置かれていた。
 ロイの祖父から送られてきたものだ。中に拳銃をしのばせて。

(だれだぁ? こんなものここに置いたのは)

 首をかしげてシーツの合間にもぐりこむ。覚悟していた冷気は伝わってこなかった。
 その代わりにもわっと自分以外の生き物の温もりに包まれる。
 あったかい……。
 にゅっと腕の間にふかふかの毛皮をまとった長い鼻面が突き出される。

「カル?」

 布団の中でわさわさと長い丈夫な尻尾が揺れ動く。あっためてくれたんだ。

「ったく、木下藤吉郎じゃないんだから」
「わふ?」

 首をかしげてる。ネイビーブルーの瞳にとまどいの色がにじんでいる。

「……いいの、こっちのこと……」

 腕を伸ばして太い、頑丈な首に回して抱き寄せた。ふかふかした毛皮に顔をうずめる。
 
「ああ……あったかいなぁ」
「うぅ」

 わずかに後じさろうとする気配がした。もう自分の役割は果たしたと言わんばかりに。
 今にも溶け落ちそうな意識をふるいおこしてすがりつき、耳もとにささやく。

「行かないで………一人にしないで………今、一人で眠ったら……」

 熱のない月の光。彩のない銀の影。振り返りたくない禁じられた記憶。

「こわい夢を見てしまう、きっと。だから…………」

 声が震える。こまった。あなたといると涙が押さえられない。泣き虫になってしまうよ。どうしよう。

「お願い、カルヴィン……」

 温かいベッドの中、夢と現の狭間を漂いながらか細い声を聞いた。その瞬間、ランドールは思った。
 ただ、彼女を抱きしめたいと。不器用な前足ではなく両腕でしっかりと。
 
「……ありがとう……」

 何てすべすべして、なめらかで、華奢なのだろう。肩も、背中も、腕も丸みがあって。骨格そのものからして自分とはまるでつくりが違うのか。
 それに……いいにおいがする。ボディソープでもない。香水ともちょっと違う。ほんのりとかすかに、柔らかく。温もりとともにたちのぼり、嗅ぐほどに安らぎに満たされる。
 わずかに湿り気の残る髪に顔をうずめた。

 ああ、そうか。
 これは『君』の香りだ。君自身が生み出し、その身にまとう天性の香りなのだね……………。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 翌朝。
 爽やかに目覚めた風見光一は、隣に眠るロイを起こさぬようそっと抜け出し、リビングに向かった。

「あれ?」

 ソファの上でだれかがすやすや眠ってる。一瞬、先生がこんなとこで? と思ったけれど、よく見るとサクヤさんだった。
 ほんと、そっくりだな。ちっちゃい頃の2人を見てしまったから余計に。

 ふと見るとテーブルの上に赤い眼鏡が置かれていた。

 ヨーコ先生のだ。
 置き忘れちゃったんだな。ないと困るだろう。そっと手のひらですくいあげ、先生の部屋へ向かう。
 ドアは開いていた。

 不用心なんだか、信頼されてるんだか。遠慮しながらもそっと中を伺う。
 おかしい、クローゼットが開けっ放しだ!
 思わず一歩中に踏み込み、凍り付いた。
 
「え」

 ベッドの中ですやすやと、幸せそうに抱き合って眠ってる人たちがいた。そりゃあもう天使のように健やかに、満ち足りた笑みを浮かべて。

 100324_2322~01.JPG
 ※写真はイメージです
 stitch by Kasuri

「…??!!」

 頭の中で猛烈な勢いで心の声が飛び交っているのに、現実には声が出ない。ただ、ぱくぱくと口を動かすだけ。

(どうする、ここはやはり、サクヤさんとロイも起こすか? あー、でも、ヨーコ先生のこんなシーン見たら……)

 サクヤさんはともかく、ロイが暴れる。

 色んな考えが浮かんでは消え、浮かんでは消える。どうしよう、今のうちにヨーコ先生だけサクヤさんの隣に移動させちゃおうか?
 せめて、ベッドの中でも離しておいた方がいいじゃないか?

 一歩も動けないまま、とりあえず手を伸ばしてみて、はたと動きが止まる。

(いや、しかし………ヨーコ先生もランドールさんもいい大人なんだし……それに……)

 そろーっと指の間からベッドに眠る2人を伺う。
 幸せそうな寝顔だ。
 とてもじゃないけど、引き離すなんてできない。このままにしておこう。

(良い夢を……2人とも)

 そろりそろりと部屋を出て、静かに静かにドアを閉めた。
 
 
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モーニングアフター

2009/02/03 19:33 番外十海
 携帯が鳴っている。
 枕元の定位置にしては何だか遠い。夢うつつのうちに手を伸ばしてまさぐる……おや。
 何てことだ、ズボンごと下に落ちている。ひっぱりあげてポケットから抜き出し、開いて耳に当てる。

「ハロー」
「社長!」
「やあ、シンディ」
「やあ、じゃありません。まったく昨日から何度電話したと思ってるんです? また放浪ですか?」
「あ、いや……ちゃんとシスコにいるよ」
「安心しました。それじゃあ、今夜のクリスマスパーティーのことはお忘れじゃないんですね?」
「ああ、覚えているよ」
「ん……」

 傍らに眠るあたたかな体がすり寄って来る。ああ、すまないね、急に動いたからびっくりさせてしまったか。

「社長? おわかりとは思いますが、会社主催のパーティーに社長が不在ではしめしがつかないんですよ?」
「あ、うん、聞こえている。それじゃあ、また夜に」

 携帯を切って、はたと目を開ける。

(ここは、どこだ?)

「んん……」

 ヨーコが顔をこすって、目を開けた。良かった、かろうじて寝間着は着ているようだ。まだ完全に目が覚めてはいないらしい。とろんとした瞳でこっちを見上げて、にこっと笑った。
 こう言う時は、何て言うべきなのだろう?
 
「おはよう、カル」
「…………おはよう」
 
 まったく無邪気と言うか……無防備にもほどがある。頼むから君、私以外の男の前でこんなことをしてはいけないよ?
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

 着替えを終えたヨーコはサクヤと2人、リビングで向き合っていた。風見とロイとランドールは下のコーヒースタンドへ食料を買いに行っている。
 サクヤはさっきからにこにこして何も言わない。透き通った瞳を直視できなくて何となく視線をそらす。

「おめでとう?」
「わかんない……まだ……」
「うん。でも、いいんじゃない」

 添い寝だけで実際には何もなかった、なんてことは今更口に出す前にわかっているし伝わっている。問題はもっと根本的な部分にあった。
 沈黙したままヨーコは天井を見て、床を見て、それから自分の手を見て、わきわきと握って、開く。そんな所に答えが書いてあるはずもない。
 ちらっと横目でサクヤの顔をうかがう。

「……………………………だって、だって、カルはゲイの人だし、私は女だしっ」

 一度言い出すと止まらない。ずっと心の中で目をそらしていたあれやこれやがぽこぽことあふれ出す。曖昧な形のまま放っておいたことが、口にした瞬間、はっきりと意味を備えた言の葉に変わる。

「昨日だって………きっと、どうせ触るなら私のお尻よか風見の尻がーとか思ってたし。私の裸よりテリーのヌードの方がいいって思ってる。それに、それに」

 こくん、とつばをのみこんだ。

「まだキスもしてないんだよ?」

 額や頬、手にするのとは別の物。友達でもない。弟でもない。お姉ちゃんとも違う。異性としてときめく相手に触れる特別なキスは、まだ一度だってしていないのだ。
 そんな乙女の心の葛藤を知ってか知らずか。さらりんさくりと返答される。

「してきたら?」

 あまりの率直さ、身もふたもないサクヤのお言葉にヨーコは口をぱくぱくさせるばかり。気分は酸欠の金魚か池のコイ。

「どうしたのさ、いつもポジティブシンキンの人のくせに」
「君の事は友達としてしか見られない、とか……妹だと思ってるとか…………答え聞くのが………………恐い」
「聞いてきてもいいけど」

 手加減無用、遠慮無し。変に気をつかってもってまわった言い方をしたところで何を言おうとしてるのかは互いに一目瞭然、昔からそうだった。
 質問を考えた時点で答えが見えてしまう。確認以上の意味が、ない。強く心の動く問題に関しては特にその傾向が強い。

「何となくこうなる気がしてたんだ」
「い……いつから?」
「うーん、最初にランドールさんから電話がかかってきた時?」
「なっ」
「確信したのは、昨日かな」
「……海岸で合流したとき?」
「ううん。ほら、ちっちゃくなった時、俺のアパートで一緒に寝たでしょ。3人でくっついて」
「うん」
「今朝起きてきたときのよーこちゃん、あの時と同じ顔してた」
「っ」

 図星。
 確かにあの時の記憶と感覚が残っていた。だからベッドの中にカルがいるのを見つけても、驚きこそすれ蹴り出そうと言う気には微塵もならなかった。

「限界まで疲れてる時に他の人とくっついて一緒に眠って、こんなに早く起きてくるなんて。しかもちゃんと動いてしゃべるなんて、あり得ないもの」
「そんなにレアな状況?」
「体を締め付けるからって服も全部脱いじゃうでしょ?」
「うん」
「でもランドールさんとくっついてるのはOKだったんだ」
「……………………うん」
「どうして自分で気づかないかな、よーこちゃん」
「だって、なんか……上原さんのときとは……微妙に違うんだもの………」
「相手も時間も違うもの。違ってて当然だよ」
「そ、そうかな」
「俺も、よーこちゃんがいいって言うならそれでいいって思ってるし」
「そうなの?」
「うん」

 なるほど、確かに変化しているのだ。自分も、サクヤも。
 
「曖昧なままで日本にもどったらたぶん、こじれるよ。こっちに居るうちにちゃんと言わなきゃ。ね?」
「う………」

 わかっている。
 けれど言ったらその瞬間、友情とも恋心ともつかない、だけどそれなりにあたたかくて心地よい今のつながりが失われてしまう。
 だったらこのままの方が……なんて安全ゾーンに逃げ込もうとした所にさくっと最後通牒を突きつけられた。

「よーこちゃんが言わずに帰ったら、俺そのうちランドールさんに言っちゃうかもよ?」
「うあああああん、そ、それだけはっ」
「だって単なる事実でしかないもの」

 意志疎通しすぎと言うのも便利なようで厄介だ。脅しじゃない、そのつもりもないとわかってしまう。
 そう、きっとサクヤちゃんは、言う。普通の会話の中で、さらりと言う。

「い、いい。自分で、聞く」
「うん」

 結果がどうであれ、伝えなきゃいけない。自分の言葉で、彼の目を見て……直接。
 困った顔するかな。
 驚くかな。
 怒る……かな。

「あ」
「どしたの」
「お腹…………すいた………」

 へにゃあっとヨーコの体から力が抜け、くたくたとソファに沈み込む。
 今の会話でかなり消耗しちゃったらしい。

「はい、キャラメル」
「……ありがとう。どしたの、これ?」
「風見くんが置いてった。先生がおなかすいたーって言ったらあげてくださいって」


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Stay here,anytime…

2009/02/03 19:34 番外十海
 午前中にヨーコたちは買い物に行った。何でも知り合いの古書店にどうしても行かなければいけない用事があると言う。
 何故かサリーは猫に変身して彼女のコートの中に入っていった。

 終わってから待ち合わせたユニオン・スクエアのコーヒースタンドでヨーコが言った。

「ゴールデンゲートブリッジ公園に行きたいな」

 サンフランシスコの典型的な観光名所の一つだ。ある意味ベタなお約束の土地。

「いいですよ。俺らも自転車返却しに行かなきゃなんないし」
「あ、でもさすがにもう2人乗りする訳には行かないデスね……」

 幸い、会社主催のクリスマスパーティーが始まるのは夕方だ。まだ時間がある。ごく自然に申し出た。

「私が送って行こう。君たちは自転車で行くといい」

 そしてサリーをアパートに送り届け、その後ゴールデンゲートブリッジ公園でコウイチたちと待ち合わせ、四人で公園を歩き回った。
 赤い吊り橋を背に写真も写した。

「うわーっ、フルハウスとおんなじだ、ね、先生、ほら!」
「……う、うん、そうだね」

 妙だな。彼女、さっきから元気がない。確かに楽しそうではあるのだが……。
 カリフォルニアの青空は今日も鉛色の雲に覆われている。魔女を倒し本来の年齢に戻った今、もう恐ろしいとは思わない。が……午後から急に冷え込んできた。
 昨夜あんなに冷えたばかりなのに大丈夫だろうか。ただでさえヨーコは小さい。脂肪の付き方も少ないから体温が奪われるのも早いはずだ。
 
「……冷えてきたね。そろそろ降りようか」
「待って」

 展望台を降りようとするランドールをヨーコが呼び止めた。風見とロイは5分ほど前に貸し自転車の返却時間が迫っているから、と先に走って行った。

 今、この場所に残っているのは2人だけ。
 サファイアブルーの瞳が怪訝そうに見下ろしてくる。

 ……できるものなら。このまま言わずに秘めておきたい。そうして友人とも家族ともつかない曖昧な位置をキープして、この心地よい絆を続けて行けたらいいのに。
 でも、もう引き返せない。

 ヨーコは無意識のうちに首にかけた勾玉を握りしめた。

「ヨーコ?」

 優しい人。あたたかい人。あなたへのこの気持ちが恋なのか、愛なのか自分でもわからない。だけど、大切で愛おしい。

(自分はこの人を求めているのだろうか? 欲しがっているのだろうか?)

 濃い、深い青い瞳をまっすぐに見つめて言い切った。耳まで真っ赤になって、小刻みに震えながら。

「あなたが好きです、カルヴィン・ランドールJr。あなたが男でも女でも。私が男でも女でも、それ以外の存在だとしても、この気持ちは変わらない」

 ああ、言ってしまった。とうとう言っちゃった。今すぐにでも回れ右して逃亡したい!
 でも足がすくんで動けない。

「嬉しいよ、ヨーコ」

 彼はうなずいた。少年のように無邪気な笑顔で、心の底からうれしそうに。

(え?)

 とくん、と心臓が高鳴る。冷たい空気を押しのけて、ほんの少し頬の表面が熱くなった。

「私もヨウコ・ユウキと言う生き物を愛している」
「本当?」
「ああ。君は私にとって大切な人だ」
「………………」

 あぁ。英語のloveって罪な言葉だ。根本的に日本語のloveとはまるで意味が違うもの。友人への愛も、家族への愛も、全部love。
 たかだか四文字の言葉にはかない望みを抱いてしまう……それ故に真実が見えた瞬間、言葉にこめられた想いの差が、際立つ。
 自分の察しの良さが。勘の鋭さが恨めしい。

(ただ無邪気に、あなたの言葉を文字通りに受け取めることができたら良かったのに……)

 顔が、上手く動かせない。微笑むことも泣くこともできず曖昧な形のままゆらゆら定まらない。

「ヨーコ? どうしたんだい」

 首をかしげてる。やっぱりわかってないんだね。
 どうしよう……これ幸いと笑ってごまかそうか。それとも、いっそ自分で自分にとどめを刺してしまおうか。
 決めかねたまま、戸惑う彼をちょい、ちょい、と手招きした。素直に近づいてくる。

「ちょっとかがんでくれる?」
「こうかい?」
「……OK、それでいい」

 ヨーコはのびあがり、波撃つ黒い髪をかきあげて……唇を重ねた。
 触れるだけのキス。でも今までとは明らかに違う。家族でもない。友達にでもない。切なさと愛しさをこめて恋しい人に贈る口づけ。
 流れる涙が伝わり、甘いはずのキスにぴりっと海の味を添える。

(ヨーコ……泣いて? でも、何故?)

 小さな手のひらが頬を包み、耳元にささやく。

「アリガトウ」

 これは日本語だ。彼女の生まれた国の言葉。
 
 冷たい空気が頬に触れる。ヨーコが離れて行く。赤いコートが翻り、海からの風がさらりとした黒髪を容赦なく吹き乱す。

 舌にかすかに残る涙の味。
 その刹那、ただ一つの事実が晴れた空から降り注ぐ稲妻となりカルヴィン・ランドールの意識を照らし出した。
 まばゆい光が埋もれていた事実を浮かび上がらせる……明るい場所も、陰となる場所も、何もかもくっきりと。残酷なほど鮮やかに。

 ぱしぱしと音を立てて頭の中で、つい今しがた贈られた言葉が崩壊する。見えない指先で組み替えられ、瞬く間に全く別の意味を作り上げた。
 そして、真実が顕われる。

 そうだったのか!

(彼女は私に恋している)
(友でもなく。兄でも、弟でもなく、男として)
(一人の男として慕っている。想っている)

 チリン!
 鈴の音に我に返る。ヨーコが背を向け、走り出していた。

「ヨーコ!」

 追いかけるが、なかなか距離が縮まらない。まったく、小さいくせに何て足が早いんだ! 羽根でも生えてるのか、君は。
 だが私も普段から体を鍛えているんだ。そう簡単には振り切られない。
 展望台を降りきる前に、ひらひら逃げる赤ずきんをつかまえた。

「おばかっ! 何で、ここで追っかけてくるか!」

 怒っているのか。
 泣いているのか。
 うつむいたまま、彼女は声を振り絞った。叫びと呼ぶにはあまりにか細く、切れ切れに。

「せめて、一人で静かに泣かせてあげようとか……ちょっとは、気を利かせてくれてもいいじゃない……」
 
 無茶を言うな。こんな君を、一人にできるわけがない。

 自分は何をしたいのか。何を言おうとしているのか。相手を傷つけずに思う所を伝え、なめらかに事を運ぶ。息をするのと同じくらい自然にできたはずの駆け引きが、できない。
 湯水のように湧き出し、巧みに操れるはずの相手を慰める言葉が……今、全く出てこない。

 焦り、戸惑い、途方にくれた挙げ句、ようやく口をついて出た言葉はあまりに少ない。ただ自分の中に渦巻く気持ちを紡ぎもせず、織りもせず、染めることすらできずに生(き)のまま吐き出しただけだった。

「……君を抱きしめる手を………私は、失くしてしまったのかな………」
「……失くしちゃったの?」

 やっと、顔を上げてくれた。眼鏡の後ろで濃い茶色の瞳が濡れていた。うっすら施していた化粧も全て流れてしまったのか。
 目の前の彼女はまるで幼い少女のようだ。

 ぽろり、と涙が一筋こぼれる。
 かすかに……ほんのかすかにヨーコはほほ笑んだ。べそをかいていた少女の面影が薄れてかすみ、まぎれも無く成熟した女の笑みにとってかわる。
 彼女は細い腕を広げて、抱きしめてくれた。ぴょん、と飛びつく元気なハグではない。広げた親鳥の翼で包み込むような静かな抱擁だった。

「失くしてなんかいない。失いたくない。もしも、もしもそうなっても……私が、あなたを抱きしめるから……」

 澱みのない声音できっぱり言い切る。背に回された手のひらがすがりつくようにコートを握りしめるのがわかった。

「………いいよ……ね?」

 消え入りそうに小さな声で懇願された。

(すまない………)

 君を愛している。

 君は大切な人だ。とても、とても愛しい人だけど、こうして抱き合っていてもただ愛しいだけで、狂おしい劣情は伴わない。
 君が私を望んでも、この身が君を求めることがない限り……私は願わなくてはいけないんだ。
 いつかこの手が他のだれかを抱く日が来ることを。

 ええい、焦れったい。
 プレイボーイを気取っていても大事な局面では何も言えなくなるなんて。過去に星の数ほど吐いた甘ったるい台詞の幾千分の一でいい、役に立ってはくれないものか。
 彼女の心を包んではくれないのか。

(あまりに大切な人だから、手練手管が使えない。使おうと言う気にすらならない)

「………………ありがとう、ヨーコ」

 赤いコートの下で震える彼女の体に腕を回して抱き寄せる。
 肩が震え、かすかなすすり泣きが聞こえてきた。

 すまない。昨日から私は君を泣かせてばかりだ。

 つややかな黒髪の上にひらりと白い花びらのようなものが散り落ちる。触れるそばから溶けて雫となってこぼれ落ちる。

 冷たい。

 ぼんやりとヨーコは思った。
 カリフォルニアにも雪が降ることってあるんだ……どこからか飛んできたのかな……風花。淡雪よりもなお儚い。

 抱き寄せられた時、ほのかに感じた。「ありがとう」を聞いた瞬間、わかってしまった。
 彼の『愛してる』と私の『好き』は同じなのだと。
 だけど彼が恋しい人に求めるのはそれだけじゃない……。ベッドの中で身を寄せ合った時でさえ彼を欲しいとは思わなかった。ただ触れ合う肌の伝える温もりが心地よくて。包み込む優しい腕に身を委ね、安らいだ。

(同じ……なんだ)

 いっそ男に生まれていたのなら、あなたを求めることができたの……かな……。
 あなたが望んだように。

(悔シイ)
(悲シイ)
(ヤルセナイ)

「好きだよ……カル。あなたが、好き……」
「うん。それは、よく、わかってる」
 
 
 
 
(切ない)
 
 

 
「だから……お願い」

 刻まれた記憶が喉を震わせる。深く息を吸い、かろうじて漏れかけた嗚咽を封じ込めた。

「私を置いて行かないで。君は残れ、なんてまちがっても言わないで……お願いだから」

 かすかに身じろぎする気配がした。うなずいたのだろうか。それとも……。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 自転車を返却してもどってきたら、先生とランドールさんはもう展望台から降りていた。
 さっきまでちらちら降っていた雪は既にやんでいる。やっぱり風花だったんだな。

「お待たせしましたー……あれ、先生?」
「どうかシタんですか?」
「な、何でもない……何でもない」

 嘘だ。
 目が赤い。

 何があったんだろう。
 気になる、けれど言葉にしてはいけないような気がして……ロイと顔を見合わせ、口をつぐむ。

「帰ろうか。ホテルまで送らせてくれ。いいね?」

 こくっとヨーコ先生がうなずいた。

 ホテルに戻るまでの間、ヨーコ先生は助手席でだまってうつむいていた。
 ランドールさんもほとんどしゃべらない。
 後部座席の自分とロイも自然と無口になる。静まり返った車の中に、ラジオから流れるクリスマスの歌だけが響く。高いきれいな声の女性シンガー。歌詞は英語だけど最近はそこそこわかるようになってきた。
 
 
 I don't want a lot for Christmas(私はクリスマスには多くは望まない)
 There is just one thing I need(必要なのはただ一つ)
 
 〜All I Want For Chritmas Is You(恋人たちのクリスマス)/マライア・キャリー/より〜
 
 ユニオン・スクエアにさしかかったところでヨーコ先生がぽつりと言った。

「止めて」
「どうしたんだい?」
「少し、歩きたい……」

 手を伸ばして、そっとランドールさんの袖を握った。

「OK……」
「そこのパーキング、今、空くから」

 確かにその通りだった。
 道路脇のパーキングスペースに車を止めて、歩き出す。クリスマスイブのにぎわいの中、腕を組んで歩く先生とランドールさんの姿はとても穏やかで……。
 何故かはわからないけれど、今朝、ベッドの中でぴったり身を寄せ合ってる姿を思い出し、あわてて頭から振り払った。
 自分には兄も姉もいないけれど。姉さんのデートを目撃しちゃった弟の気分って、こんな感じかな。

「あ」

 きらびやかなショーウィンドウの前で先生が足を止める。
 ガラスの向こう側に作られた、雪山に見立てた白いベルベットのスロープの中にカメオのブローチが並んでいた。

「……すてき………」

 先生はガラスに顔をよせてうっとりと目を細めている。すっと手を伸ばして、縦長の六角形のブローチを指差した。濃いサファイアブルーのメノウにほの白く、ドレスをまというずくまる女性の姿が浮き彫りにされていた。

「アルフォンス・ミュシャの絵をモチーフにしてるのね。初めて見た」

 そっとガラスを撫でると、先生はランドールさんの腕にもたれかかって。信じられないようなことを口にした!

「あれ、ほしい」

 冗談だろっ?
 アイス買ってきてとかメロンパン食べたいとか、そんな可愛らしいレベルじゃないよこれはっ。
 俺の知ってる先生は、そんな、無茶なわがまま言うような人じゃなかったはずだ!
 一体何があったんだ、ヨーコ先生……。

(あー、風見びっくりしてるなあ)

 ちらっとヨーコは教え子の顔をうかがい、それからランドールの顔を見上げた。

(わかってる。私は、ずるい)
(あなたの弱みにつけ込んでる)
(これは、わがまま)

 あなたを困らせたいのか。振られた記念が欲しいのか。
 ううん。多分、違うな。この絵でなければ欲しいとは思わなかった。

「この絵のタイトル、知ってる?」
「……いや。何て、言うのかな」

 妙だ。

 確かに今の自分には負い目がある。プレゼントの一つで少しでも回復できるのなら迷わずそうしたい所だが。
 こんなに高価なものを自分からねだるなんてヨーコらしくない。その危うさが不安をかき立てる。胸の奥に埋まる棘のようにひしひしと、不吉な予感を引き寄せる。

「夜のやすらぎ」

 絵のタイトルを聞いた瞬間、ランドールの躊躇いは一つの意志に固まった。

「なら………私からは、贈れない」

 その時、彼の目には彼女しか写らなかった。少しとまどった表情を浮かべて、まだ赤みの残る瞳で見上げてくる。自分だけを、ただまっすぐに。

「ヨーコ……怖いんだ。これを君に与えたら、私は………君を、失ってしまう気がする」

 それは、嫌だ。
 かすかに笑いかける。

「君を失いたくないと……私が言うのは、卑怯だね。でも……」

 彼女の顔から全ての表情が消える。見開かれた瞳をのぞきこみ、低い声でささやいた。

「これは贈らない」
「カ……ル………」

 小さく口の端が震えている。また、泣かせてしまうのだろうか。怒るのだろうか。それとも?
  
「カル!」

 ヨーコは顔いっぱいに屈託のない笑みを浮かべて、ランドールに飛びつき、抱きついた。

「大好き。大好き。大好き」

 何の見返りも求めず、ただ一途に、真っすぐに。太陽の光、オレンジの実、赤いハイビスカスの花。冬の街角にあざやかな真夏の色と輝きが弾ける。彼女の中からあふれ出す。

「……愛してる」

 あたたかな雫があふれ出す。あとから、あとから、ほほえみと共に。
 求めたのは安らぎの思い出。
 返されたのは『今』と『これから』。

 透き通った雫をたたえたネイビーブルーの瞳が教えてくれる。答えてくれる。

 支えてくれる優しい腕は、これからも傍にあると。


(桑港悪夢狩り紀行/了)



「……あーのぉ……」

 頃合いを見計らって風見光一は遠慮しながらもつとめて普通に、なにげなーく普通に声をかけた。

「ヨーコ先生、ランドールさん。ちょーっと早いけど何か食べに行きませんかー?若人としては、出来れば日本食でお米食べたいとこなんですが?」

「……あ」
「ラーメンでも、可」
「あるんだ」
「はい」


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★プレゼントは私

2009/02/03 19:50 短編十海
「ヒウェル」

 あと三日でクリスマスと言う日、飯が終わってからディフに呼び止められる。
 またお小言か?『用もないのに事務所に来るな』とか。『最近、オティアにひっつく時間が増えてないか』とか『少しは空気を読め』とか何とか……。
 自分としちゃあ目一杯節度ある態度をとってるつもりなんだが、やっぱ『まま』の目から見ればいろいろ突っ込みたいこともあるのかもしれん。

 やれやれ、素直に聞くのも友情のうちだ、お聞きしましょうかね……。

「ちょっと知恵を貸してほしいんだが。いいか?」
「何だ?」

 意表をつかれる。しかも、こいつ、ほんのり頬を赤らめてそわそわしてるじゃねえか。

「いや、レオンへの誕生日のプレゼント、何を贈ろうかと思ってさ。何か欲しいものあるかって聞いてもいっつも料理のリクエストしかしないし」
「あー、そりゃ、まあ、ねえ……」

 なんだ。そう言うことか。
 親友時代からずっと同じことしてるから癖になっちゃってるんだろうなあ。一言『君』とか気軽に言えるような間柄じゃなかったし。

「今年は、ほら。結婚してから最初の誕生日だろ?」
「ちょっとは特別なことしたいって? いいねえ新婚さんは……あ、そうだ、ちょい耳かせよ」
「何だ?」
「まずリボンを用意してだね」
「うん」
「あいつの好きそうな花もあったほうがいいかな……それで、お前さんがリボンくるくるまきつけて……お花も添えて……プレゼントはわ、た、しって」
 
 090108_0014~01.JPG ※月梨さん画「ぷれぜんとは…」

「阿呆か、お前は!」

 あ、あ、何、その冷めた目は。

「まてまて、まだあるぞ」
「まだあるのか」
「定番のカウボーイのコスプレってのはどうだ? ほら、居間に飾ってあるテンガロンハット被って、プレイメイト風に」
 
 090107_0056~01.JPG ※月梨さん画「カウボーイ」

「お前……やっぱり阿呆だろ」

 うーわー、今度は三白眼で睨みつけてきたよ。

「お前に聞いた俺がバカだった」
「いいアイディアだと思うんだけどなあ?」
「ヒウェル?」

 この上もなくにこやかにほほ笑むと、ディフはべきっと指を鳴らした。ネイビーブルーのセーターの下で、二の腕の筋肉が盛り上がるのがはっきりわかった。

「……ごめんなさい、もう言いません」


(でも思い切って首にリボン巻くぐらいはやっちゃうかもしれない)

(プレゼントは私/了)

やっぱ魔女だ…

2009/02/03 20:09 番外十海
 角の生えた金の目の女はもういない。どうやって? どこへ? 知ったことか。ようやく現実が戻って来たんだこれ以上、得体のしれない女のことなんざ考えたかねぇ。

 あー、なんかくらくらしてきたぞ……くそ、俺としたことが逃げ時を見失うなんて。ついでにこの傷も夢になってくんねぇかな。

 心中密かに悪態をついていると、何やら弾力のあるあったかいものに包まれた。それはあまりにも小さくて、到底俺の全身を包み込むには足りなかったけれど……。
 背中に回された手はとてもあたたかくて。すり寄せられた頬からは子ども特有のほのかに甘い香りがした。

「ヒウェル……ありがとう」

 ヨーコがちっちゃな手を広げて抱きしめてくれていた。あーあ、そんなにひっつくなよ、服が汚れちまうぜ。
 口の端を引っ張り上げて笑いかける。

「どーいたしまして……そんな面すんなよ。大丈夫、これぐらいの傷、痛くもかゆくもないさ」
「うそ」

 すうっと傷の上をなでられた。

(このちび魔女は! Sか。絶対どSだろお前!)

 襲って来るであろう痛みと皮膚の内側をこすられる感触を覚悟して身構えた。が。
 
「う……え? あれ?」

 痛くない?
 おそるおそる手を触れる。
 傷が……ほとんど塞がっていた。皮膚にうっすら引っ掻き傷が残っているけれど、それだけだ。あんなに血が出てたのに。

「ふぅ……」

 ふらっとヨーコの体がゆれる。慌てて抱きとめた。

「おい、しっかりしろ!」
「お願い……携帯……貸して……一刻を争うの」

 息も絶え絶えにささやかれる。慌てて携帯をひっぱりだし、血で汚れた小さな手に握らせた。

「ああ、わかったよ、携帯でも何でも使えってんだ、そら!」
「さんきゅ」

 いきなり目をぱっちり開き、あっと思ったらもう慣れた手つきでぷちぷちやってやがる。
 
 1001479151_26.jpg ※月梨さん画「やっぱ魔女だ」
 
 もっしもーし、お嬢さーん。さっきまでぐったりしてたくせにやけに元気じゃねーか。

「……もしもし? そう、あたし。今どこ? ……OK。けっこう近いね。じゃ、このまま動かずにいるから」

 日本語でしゃべってる。くそ、これじゃ何話してんだかほとんどわかりゃしねえ。

「ロイ、わかった? うん。待ってる」

 ぷちっと切って、しばらくいじくってから差し出してきた。

「サンキュ、ヒウェル。助かった」

 確認したらしっかり発信履歴は消してある。これじゃだれにかけたかわかりゃしねえや。
 だが、逆にこの抜け目のなさ故に一層、とある確信を強めた。

「やっぱりお前ヨーコか? ヨーコなんだなっ」
「え? 何のこと?」

 小首かしげてイノセントに笑いやがって。だがもうごまかされないぞ。

「ホットドックのレシピが同じだった。それにさっき君、俺の怪我治したろう。高校ん時、マックスの傷を治したのと同じだ……」
「あー、そんなこともあったねえ」
「やっぱり! 同姓同名の別人じゃなくてヨーコ・ユウキ本人なんだな?」

 ついっと顎をなでられた。サクランボみたいな唇をすぼめて何とも艶めいた表情を見せる。
 参ったね。もし、俺が女に恋するタイプの男だったら……全身を貫く甘美な期待にうち震えていたことだろう。婉然とほほ笑むそのちっぽけな唇が、ごほうびにキスの一つもしてくれるんじゃないかって。
 ったく、シャレにならんぞ、こんな年端も行かぬ少女に手玉にとられるなんて。
 何とも背徳的じゃないか。ええ?

「……ヒウェル。これは夢だよ。ぐっすり眠って、朝起きたらすぐ忘れなさい。OK?」
「……」

 素直にうなずく。ゲイで良かったよ、つくづく。

「あ、おむかえがきたー。それじゃね!」

 キィイ、とタイヤのきしる音に顔を上げる。高校生ぐらいの男の子が2人、自転車に乗って走ってきた。金髪のと、黒髪のと。
 息せき切って駆けつたって感じだな。吐き出す息がぽわぽわと白い。

「先生!」
「ご無事でしたカ!」

 ヨーコはてててっと走って行くと、黒髪の方の後ろにちょこんとまたがり、手を振って来た。

「Bye、ヒウェル! よいクリスマスを!」

 ぽかーんとして手を振り返した。
 ちび魔女を載せた自転車が遠ざかる。黄昏の闇の中、徐々に藍色にとけ込み霞んで行く。やがて角を曲がって見えなくなった。

 ああ、まったく夢を見てる気分だ。早いとこ帰ろう。その前に、濃いブラックコーヒーを一杯やりたい気分だ。
 本は無事……フィフもちゃんと表紙に居る。
 だがダウンジャケットは引き裂かれ、中身がはみ出し見るも無惨な有様に。おまけに血を吸ってずっしり重たい。やれやれ、買ったばかりの新品なのに。

 ひっくり返った自転車を起こしてまたがった。何てこったい、帰りは上り坂だ。
 よれよれとペダルを踏みながら考える。
 一日分の料金を払ってこいつを借りた訳だが、もう用済みな訳で。早めに返却したらレンタル料金……返してくれるだろうか?

次へ→【ex8-20】グローイングアップ!

復活

2009/02/03 21:09 番外十海
「しっかりつかまってください、先生……飛ばします」
「OK」

 キンと凍えた空気がびゅんびゅんと耳元を通り過ぎる。自転車の荷台をしっかり膝ではさみ、風見光一の背中にしがみついた。

「ヨーコ先生っ!」
「ん? 何だ、ロイ、切羽詰まった声出して」
「い……いえ、何でもありまセン。しっかりつかまってクダサイ!」

(せめて、せめてサドルに………いや違うっ! ああこんな時にボクはまた何てことをっ)

「大丈夫かな、ロイ」
「んー、まあ、理由はだいたい想像がつく。それにしても懐かしいなあ。前もこーやってお前とチャリに2人乗りしたよね?」
「しましたね……」

 あの時はまだ仲間も少なくて、2人きりで戦った。ロイはまだアメリカで、サクヤも、蒼太でさえまだ完全に『現役復帰』はしていなかったから。
 カラカラと車輪が回る。藍色に霞む夜の景色が後ろに飛びずさる。

「ところで、どこに向かって走ってるんだ?」
「海岸です。呪いの解除法の一つに『海の水を浴びる』ってのがあるんで」
「この季節に?」
「月の光を浴びるってのもあるそうです」

 空を見上げる。鉛色の分厚い雲にかくれて月は見えない。

「できればそっちに当たりたいな……む」

 吹きすぎる風の中にかすかに、肉の焼けるにおいを嗅いだ。まだ、魔女はあきらめていないようだ。

「急げ、風見」
「はい!」

 ロイがスピードを落とし、後ろに着く。
 ちらりと振り返る。ほほ笑んでうなずいた。守られてるんだ、と思った。もう自分一人できりきりと警戒しないでいいんだと。

 長い、急なこう配の坂道を下る。湿った空気に混じる濃密な潮の香りを嗅いだ。
 
 キキィッ!

 コンクリートの突堤の際自転車を止める。
 ざざざ、ざざあ、ざざざ、ざあ……。波の打ち寄せる音がすぐそばから聞こえてくる。小さな砂浜の向こうに夜の海が広がっていた。
 ぴょい、と飛び降りると風見が前のカゴに入れていた紺色のバッグから神楽鈴を取り出した。

「先生、この鈴持ってて」
「お守りデス」
「いや、お前らが持ってろ」
「ボクらは大丈夫です!」
「これがありますから」

 2人はそれぞれジャケットの内側から隠し持っていた武器を取り出し、構えた。
 風見はベルトのホルスターから小太刀を2本。ロイは内ポケットから手裏剣を。

「行って、先生」
「……すまんっ」

 階段を降りて、砂浜を走り出す。黒いガラスを削ったような波が打ち寄せる波打ち際目指して。
 背後でガキっと堅いもののぶつかる音がした。

「風見……ロイっ!」

 たまらず振り返る。
 魔女が踊っていた。半ば焼けこげた赤い長衣を翻し、歪な三日月の刃と化した両手を振りかざして。きぃっと空間を掻きむしる。
 ぱっきん、と夜空が割れて赤い傷口が開く。空間の裂け目からぼろぼろと黒い羽虫の群れがこぼれ落ちる。後から後から砂のようにぼろぼろと。

「二番煎じか! 同じ手は食わないぞ」

 風見が二本の小太刀を十字に構える。
 と、その刹那、赤い衣が触手のように伸びて風見の手首に巻きつき、動きを封じてしまった!

「くっ」
「させないよ、風使い。お前らの手の内は承知の上さ!」

 勝ち誇る魔女の背後でぽつりとつぶやいた者がいる。

「それはどうかな」
「お前! いつの間にそこに!」
「たとえ目には見えねど、某が心と技の一撃受けるでゴザルよ!」

 ロイは至近距離から無造作に掌底突きを繰り出した。右の手のひら、親指の付け根と小指の付け根の交差する手首に近い部分が魔女の脇腹に当たる。
 予想外に軽い当たりだったのか、魔女の顔に一瞬、あざけりの笑みが浮かぶ。

 が。

「心威発剄!!」

 気合いとともに掌底から衝撃派が発せられ、枯れ木のように痩せた体が吹っ飛んだ。
 同時に風見の手首に絡み付いていた赤い布が力を失い、だらりと垂れ下がる。

「風よ走れ、《烈風》!」

 わき起こる風の刃が真っ向から羽虫の群れにぶち当たる。

「っ!」

 強い?
 昨夜、夢の中で戦った時の比ではない。数も。虫そのもののしぶとさも。

「教えてあげる……何で私がこんなに強いのかを………」

 魔女が顔をのけぞらせて高らかに笑った。ロイの一撃をくらって吹っ飛んだはずなのに、ほとんどダメージを受けていないようだ。

「この力は元はと言えば、お前たちの大事な大事なヨーコ先生のものなんだよ……」
「何っ」

 脳裏に閃く悪夢の記憶。紐状の影に貫かれ、先生は子どもの姿になってしまった。

「あ……あの時に!」
「そうさ。あの女の培ってきた技も術も、並外れた意志の強さが生み出す力も、今はあたしのものなんだよ……妹たちとはできが違う。こんな芸当だってできるんだ」

 じゅわじゅわと音を立てて魔女の傷が癒えて行く。焼けこげた顔も、髪も元に戻って行く。 

「どうやらヨーコ先生も使い魔を呼び寄せる力をお持ちのようだね……お前たちの言葉で何て呼ぶかは知らないけれど」

 ざわざわと新たな羽虫の群れがわき出す。さっきの群れより数が多い。

「うわ……」
「せめてもの情けだ。大好きな先生の力で葬ってあげるよ……覚悟おし!」
「笑わせるな!」

 黒雲となってざわめく毒虫の群れを前に、風見は凛とした声で言い放った。

「先生が本気出したら、こんなもんじゃない!」
「そもそも、こんな趣味の悪い式なんか呼ぶものか!」
「おお、その通りだ。いいこと言うな、ロイ」
「ふん、生意気な……その口、塞いでくれるわ!」

 不吉な唸りとともに羽虫の群れが2人の少年を飲み込んだ。

「うっ」

 目が開けられない。息をするのも苦しい。細かい針がびしびしと手を、顔を切り裂く。裂かれた場所から不吉な痛みが染み通り、皮膚を溶かし肉を侵す。

「ロイ……はな……れるな………」
「御意っ!」

「風よ舞え、旋風!」

 自分とロイの周りに風の渦を作り、羽虫の流れを遮断する。とりあえず息はつけた、だがいつまで持つだろう?

 ブゥウウン。ゴゥウンン、ブゥウウワオオオンン。

 不吉な黒い雲は一段と厚みを増している。歪み、うずまく羽音の向こうで魔女が笑っていた。
 
「ヒャハハハハハハ、キャーハハハハハハハ!」

 夜空を切り裂くけたたましい魔女の高笑いを背後に聞きながら、ヨーコは走った。湿った砂に足をとられながら、波打ち際目指して。
 本当はすぐにでも引き返したい。あいつらのそばにいたい!
 だけど。

 それは、彼らの心を無にすること。裏切ること。
 元に戻る可能性があるのなら、それに賭ける。

 ちゃぷん。
 凍える水が足首を濡らす。靴下がじっとり湿った。だが、まだ子どもの靴だ。

「まだだ……これじゃ足りない」

 がちがち鳴る奥歯を噛み締め、さらに海の中に入る。水は足首から膝に上がるがまだ解けない。思い切って腰のあたりまで海に浸かった。
 岸辺では風見の操る護りの風と、魔女の巻き起こす禍つ風がぶつかり合い、せめぎ合う。ただでさえ不安定な海辺の空気がうねり、吸い寄せられ、不意に突風が巻き起こる。

「わっ」

 ひときわ大きな波が盛り上がり、ざぶんと頭から飲み込まれる。足下をすくわれ、海中でもがいた。
 その瞬間……雲が途切れ、ほっそりとした三日月が現れる。清らかな青白い光が降り注ぎ、波頭を白く浮かび上がらせた……。

 シャリン!

「っ!」

 勝ち誇っていた魔女の体が凍り付く。

「あ……うぁ……そんな……まさか………」

 癒えたはずの顔の表面がぼろぼろと崩れ落ち、元の焼けただれた無惨な状態に戻って行く。呼び出された羽虫の群れも見る間に勢いを失い、風見の風の刃に削がれて行く。

 シャラリン!

 鈴の音が、今度ははっきりと鳴り響いた。
 
「先生!」

 海の中にすっくと羊子先生が立っている。白の小袖に緋色の袴、巫女装束をまとい、高々と掲げた右手には緑、黄色、朱色、青、白の五色の布をなびかせた赤い神楽鈴を握って。

 09131_121_Ed.JPG ※月梨さん画「羊子復活」

 海の水を満たした左の手のひらを胸の前に捧げ持つ。清らかなオレンジ色の光が結晶し幻の聖杯が顕われる。
 杯の水面に写る月に微笑みかけると、羊子はふわっと聖杯に満ちる水を空中に放った。

 降り注ぐ柔らかな光の雫が触れた瞬間、風見とロイの手足や顔に生じた無数の切り傷が癒えた。神経を直に灼いていた痛みすら薄れて消え失せる。

「ヨーコ先生!」
「……待たせたな」

 ざ、ざ、ざーっと波を蹴立てて海から上がるや、羊子は身軽に砂浜を駆け抜け、ふわり、と突堤の上に飛び上がってきた。

「お、おのれ、おのれ、おーのーれーっ」
「吸い取った所で所詮は借り物の力。あなたが使いこなすには、ちょーっとばかり荷が重かったようね、Ma'am?」

 ついさっきあんなに風見とロイを苦しめた毒虫の群れは今や風の刃に打ち倒されて跡形もない。

「ずいぶんとまあうちの子たちを可愛がってくれたじゃない?」

 にやり、とヨーコの口元に不敵な笑みが浮かぶ。

「そう言えばあなた、神聖な力が苦手だったわよね……たっぷりお見舞いしてあげるから………覚悟しろ!」

 しゃらりと鈴を鳴らす。凛とした声が空気を震わせる。

「極めて汚きも滞り無れば穢れとはあらじ」

 ひっと喉を引きつらせて魔女が後じさる。禊はついさっき海の水ですませたばかりだ。今の羊子はちょいと俗な言い方をすれば巫女さんパワー全開120%。魔女が苦手とする『神聖な力』を駆使するのに申し分のない状態にあった。

「内外の玉垣清く淨しと申す……」

 すっと手を伸ばして風見の小太刀に触れる。

「この剣をば八握生剣と為し」

 翻して今度はロイの腕に。

「この手をば蛇比禮蜂禮品品物比禮と為さん」

 触れた場所から涼やかな光が広がり、2人の体を包み込んだ。

「神通神妙神力……加持奉る!」

 しゃらり、と鈴が鳴り響く。もう、魔女の呪いは及ばない。

「行け!」
「はい!」
「御意!」

 魔女が破れかぶれの金切り声を上げて飛びかかって来る。
 勝負はすれ違い様の一瞬で決した。

 がっきん!

 砕かれた三日月の刃がくるくると円を描いて宙に飛び、ざん、と砂浜に突き立った。どぶどぶとどす黒い粘液の滴る腕を押さえて魔女はよろめき、地面に伸びる自らの影に飛び込むようにして姿を消した。

「逃げたか……気配が消えた。夢の中に引っ込んだな」
「先生、大丈夫ですかっ、ずぶぬれですよっ」
「何の、これしき。古人に曰く、心頭滅却すれば火もまた涼し!」
「センセ、それ用法間違ってマス」
「いちいち細かいなあ。要するに、気力の問題なんだよ!」
「……カイロ使います?」
「もらう」
「俺とロイの間に入っててください。風避けになります」
「……うん……あ」

 ぴくん、とヨーコは顔を跳ね上げた。

「サクヤちゃんが、戻った」
「わかるんですかっ?」
「うん……今、こっちに向かってる」
「さすが……うわっ」
「どうした?」
「荷物が……」

 風見の背負っていたリュックサックが不自然な形に膨れ上がっている。

「何入れてたんだ? これ」
「Mr.ランドールの服です」
「あー、変身した時の」
「子ども服から紳士服に戻ってる……」
「と、言うことは」

 風見の胸ポケットの中で携帯が鳴った。引っ張り出した携帯は、赤い組紐の先に金色の鈴が下がっていた。サクヤのものだ。

「ハロー?」
「やあ、コウイチ」
「ランドールさん! 元に戻れたんですね!」
「ああ。テリーくんのおかげでね」
「テリーさん……そこに居るんですか?」
「うん。彼は今、その……お休み中だ。ヨーコとサリーはそこにいるのかい?」
「先生と、サクヤさんは………」

 横合いからにゅっとヨーコが鼻先をつっこみ電話に出た。

「Hi, カル! 復活おめでとう」
「ヨーコ! その声、戻ったんだね?」
「ええ。すっかり元通り。今、どこ?」
「テリーくんの部屋に」
「ってことはサンセットか……OK、カル。すぐにこっちに飛んでらっしゃい。東に向かってほぼ真っすぐに。あたしたちが今いるのはね……」

 周囲を見回す。子どもの目線では気づかなかったことが色々と見えてくる。霞のかかっていた意識もはっきりして、記憶と場所の間に横たわる溝がすっきり埋まった。

「八月の結婚式覚えてる? あのレストランのそばの海岸なの」
「ああ。あの店か……よく、覚えているよ」
「近くまで来たら合図するわ」
「わかった」

 そっと電話越しに囁く。今なら安心して彼を呼べる……そう、今なら。

「………………………………………………待ってるよ、カル」
「すぐ行くよ。それじゃ」

 
次へ→全員集合

全員集合

2009/02/03 21:10 番外十海
 
 電話を切るとランドールは二階の窓を開けた。
 やっと大人の手が通り抜けるぐらいに細く。テリーはまだ目を覚まさない……幸い。念のため通話記録を消去して、元通り携帯をデスクの引き出しにしまった。

「……ありがとう。感謝しているよ」

 軽く唇を重ねてお休みのキスを贈り、窓から外に出た。夜の空気の中をひらひらと薄い丈夫な皮膜の翼が泳ぐ。
 町中にいるにしては少々、サイズの大きなコウモリが東を目指して飛び立った。

 
 ※ ※ ※ ※
 

「先生、質問」
「どーした、風見?」
「……結婚式って、だれの? ランドールさんも一緒だったんですか?」
「うん。マックスのね。八月にあのレストランでやったの」
「あー、はい、あそこに見えるお店ですね……そっか、所長さん、奥さんいたんだ」
「うんにゃ。どっちかっつーと彼が嫁」
「え?」
「ええ?」
「旦那は高校の先輩でね。カルの会社の顧問弁護士やってる人で、レオンハルト・ローゼンベルクっつーの」
「ああ、それでMr.ランドールも招待されてたんデスネ」
「そゆこと。サクヤちゃんも一緒だったんだよ」

 どう言うことなんだろう。ヨーコ先生とロイはさらっと話してるけど……何か今、すごいこと聞いちゃったような気がする。

「えーっと、えーと、つまりそのマクラウドさんが結婚した相手って」
「要するにMrとMrの結婚式だったんデスネ」
「そゆこと……ロイ。あれの準備して」
「了解」

 てきぱきとサクヤとランドールを誘導する準備を進めるヨーコとロイを見ながら風見光一は一人、目を点にして立ち尽くしていた。
 
 
 ※ ※ ※ ※


 サンフランシスコの夜空をコウモリが飛ぶ。
 南からはフクロウが。
 どちらも目指すは同じ場所。

 ロイは静かに目を開いた。

「……来ました。羽音が二つ……鳥と、コウモリです」
「OK。ロイ、合図を」
「御意!」

 ぱしゅっと地面に立てた小さな筒から、光玉が一筋夜空に上がった。

「たーまーやー」
「花火ちがいマス! これは煙玉です!」
「光ってるけどな」
「No! 由緒正しいニンジャ道具なのデス!」
「あー、はいはい……あ、来た」

 フクロウが地面に舞い降りる。翼を収めたと思ったら、すっとサクヤが立ち上がった。

「サクヤちゃん!」
「よーこさん………」
「無事でよかった」

 2人は静かに抱き合った。

「冷たっ、よーこさんずぶ濡れだよっ?」
「あー、ちょっくら海で禊してきたから!」

 やや遅れてコウモリが地面に舞い降り、すっくと立ち上がる。素早くロイが紳士服の詰まったリュックサックを差し出した。

「Mr.ランドール、これを」
「……ありがとう」

 社長が着替える間、四人は例に寄って行儀良く目をそらしていた。

「もーいーかーい?」
「……お待たせ」

 
 ※ ※ ※ ※


「ハロー、蒼太?」
「羊子さんっ! 元に戻れたんですね?」
「ええ。力になってくれて……ありがとう」
「良かった、本当に」
「和尚、そこにいる? ダイブの許可をもらいたい」
「その件ならもう許可をもらってる。存分にやってこい、とさ」
「ありがと。それじゃ、行ってくるね」

 通信を終えるとヨーコは一同の顔を見渡した。
 昨夜と同じ五人がそろった。
 ただし、今度はダイブの行き先が違う。

「今回の犠牲者は、私たち自身。自分の夢にダイブすることになる。おそらく、私たちか、親しい誰かの心の闇を利用して襲って来る……それが、ナイトメアの手口」
「親しい人?」
「友人や家族。特に今回の相手は絡め手がお好きなようだから、心してかかって」

 緊張した面持ちでうなずく。

「もしもの時は風見、ロイ」
「はい」
「ハイ」
「私の指示を待つ必要はない。己の判断で動け。OK?」

「………」

 風見とロイは互いに目を見合わせた。わずかに不安の色が走るがそれも一瞬。

「わかりました!」
「お、きれいに声がそろったね。頼もしい……それじゃ、サクヤちゃん」
「うん」

 ぱしぃん。
 サクヤとヨーコは同時に両手を打ち鳴らし、祝詞を唱え始めた。

「掛まくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に」

 黄泉の国から戻ったイザナギノミコトが海で禊をした故事に基づく祝詞。
 波打ち際は常世と現世の交わる所。浜辺に打ち上げられるものは寄りモノと呼ばれ、海の彼方より訪れる神の寄代とされた。

「禊祓へ給ひし時に成り座せる祓戸の大神等 諸々の禍事 罪 穢有らむをば」

 しゃらりと神楽鈴が鳴り、五色のひれが宙を舞う。

「祓へ給ひ 清め給へともうす事を」

「祓へ給ひ 清め給へともうす事を」

 リン、リン、リン。サクヤもまた、自らの首にかかった小さな鈴を振った。

「聞し食せと 恐み恐みもうす………」

「神通神妙神力……」

 大小二つの鈴の音が互いに響き合い、幾重にも重なり溶け合って一つの音色を奏でる。

「加持奉る!」

 空気が揺れる。
 ほんのわずかな揺らぎ。

 まばたきよりも早く、狩人たちは境目を越えた。

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ベッドメイキング

2009/02/03 21:13 番外十海
 隣に在った温もりが、ふっと薄らぐ。ロイはぱちりと目を開いた。
 手足が妙に重たい。頭が砂がつまったようにぼんやりして、うまく思考が回らない。とりあえず、ここは自分の部屋じゃない……それだけは理解できる。

 えーっと、今は……そうだ、旅行中だった。
 アメリカ。
 サンフランシスコに。
 そして……確か……。

「あ」

 昨日はコウイチと一緒に眠った。このベッドで。

「あ、あれ、コウイチ?」

 がばっと起き上がる。当然ながら風見の姿はない。隣にも、部屋のどこにも、バスルームにすら気配がしない。

(ボクは……何てもったいないことを………)

 はぁ、と盛大なため息が漏れる。できるものなら一晩中でも起きたまま、コウイチの寝顔を見守っていたかった。
 もはや唇にキスなんて高望みはしない。

 そろっと風見の眠っていた場所に手を触れる。ああ、まだほのかに温かい。
 確かにコウイチはここにいたんだ。偶然とは言え、ボクの腕の中に…………。

 預けられた確かな重さと温もり、んでもってストライプのパジャマの合間からのぞく、鎖骨。

「う」

 いきなり血圧が急上昇し、思考がクリアになった、ついでにわき起こる鎖骨の記憶もすさまじいまでの羞恥心も強烈にクリアになったまさにその瞬間。

 風見光一が戻ってきた。

(う、わ、わ、わ、コ、コ、コ)

 あわててベッドからとびおり、ばさばさと毛布をふるった。

「………何してんだ、ロイ」
「ベッドメイキング」
「そうかー。きっちりしてるな、ロイは。ごめんな、寝っぱなしでぐしゃぐしゃのまま起きてっちゃって」
「う、ううん、いいんだ、慣れてるカラっ」

 とことこと歩いて来ると風見はロイと並んでベッドに手をかけ、枕をふるった。
 いけない、つい、襟元に目が行ってしまう! そ、そうだ、とりあえず、話題をそらそう!

「サリーさんとヨーコ先生は……まだ眠ってるのかなぁ」

 ぎっくん。
 風見の肩が不自然にはねあがり、動きが止まった。

「コウイチ?」

 ぎくしゃくと首を回してロイの方を見ると、風見はカクカクと首を上下に揺すった。まるでブリキのロボットのように、カクカクと。

「う、うん、よく寝てたよ」
「ソウカ」
「3人とも」
「え?」

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義理と人情のバレンタイン

2009/02/14 0:25 短編十海
(バレンタイン前日、社会科教務室にて)

ロイ「ヨーコ先生、質問よろしいでしょうか?」
ヨーコ「ん? どーしたロイ。まーた深刻な顔しちゃって」
ロイ「日本のバレンタインデーはアメリカとは習慣が違いますよネ?」
ヨーコ「ああ。アメリカだと男女関係なく恋人同士で贈り物したりするよな。ぬいぐるみのクマとセットになったハートチョコとか」
ロイ「ハイ」(そわそわそわ)

ヨーコ「まあ、あれだ。日本でも友チョコなんてのもあるから気軽に贈ってもいいんじゃないか?」
ロイ「トモチョコ、ですか」
ヨーコ「うん。お友達同士で交換するんだ。あと義理チョコな」
ロイ「ギリチョコ……」
ヨーコ「そーそー。本命くんにあげたいのに気づかれたらどうしよう、そうだわ、大きく『義理』って書いておけば! なーんて矛盾に満ちた心の葛藤を優しくオブラートで包んでくれる奥ゆかしい風習で……」

ロイ「ありがとうございました!」(しゅたっ)

ヨーコ「おーい! ………行っちゃったよ。しかも窓から。ここ、二階だぞ?」


そして当日。
ロイがどんなのを贈ったかはこちらでご確認ください↓
 
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※月梨さん画「バレンタインの贈り物」(クリックで拡大)

スペースの都合で若干一名、入りきれなかった奴もいたりするんですが、気にしない方向で。
 
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※月梨さん画「ひろってプリーズ」

そしてロイから「由緒正しき義理チョコ」をいただいた風見くんは……

風見「先生、ちょっと買い物つきあってもらえませんか?」
ヨーコ「ん? いいけど、何買うの」
風見「チョコレート」
ヨーコ「ふーん……いいよ、あたしもお返しのチョコ買い足しときたいし。駅前の松越デパートでいいか?」
風見「いいですよ」
ヨーコ「あそこのテナントのチョコ、逸品ぞろいなんだー」(うきうき)
風見「(スキップしてるし……)」

そしてデパートのバレンタインフェア会場にて。

風見「すいませーん、このハートチョコ一つください」
店員「はい。メッセージはお入れしますか?」
風見「はい、お願いします(かきかき)これで」
店員「あの…………本当にこれでよろしいので?」
風見「はい!」(爽やかな笑顔)

爽やかに友チョコを返すのでした。
 
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※月梨さん画「それでも彼は幸せ(きっと)」

風見「やっぱ義理と言ったらこれだよな!」
ロイ「(ああコウイチ……そのちょっとズレたところもむちゃくちゃキュートだよっ)」
風見「それと、これはうちの妹からな。ロイおにいちゃんにって」
ロイ「Oh?」
風見「勘違いするな、義理だぞ、義理! 俺もじっちゃんももらってるんだ」
ロイ「そっか……義理チョコか……」

ちょっぴりふぞろいな形のチョコクッキーは風見くんとおそろのピンクの袋入り。

なお、当然のことながらバレンタイン当日にチョコ売り場でハートチョコを買い求めた風見くんの姿はクラスの女子に目撃され……

女子1「風見くん、風見くん! バレンタインにチョコ買ってなかった?」
風見「うん、買った。ロイにあげたんだ」
女子一同「えーっ」
風見「俺ももらったから、お返し。君らもよくやってるだろ? 友達同士で」

女子一同「(それ絶対友チョコ違うと思う……)」

風見「よーこ先生にもあげてるじゃないか」

女子1「あれは……何って言うか……餌付け?」

(ヨーコ「おいしー、おいしー、すっごいしあわせーっ」(ぱりぱり、さくさくさく……))

女子2「食べてる姿見てるとなんか癒されるし」
女子1「お返しもよーこ先生のくれるのなら外れないしね!」
 
(ヨーコ「はい、これお返し! みんなで食べて」)
 
風見「な? やっぱり普通じゃないか!」(爽)

女子一同「(やっぱ風見くん………わかってない)」


(義理と人情のバレンタイン/了)

【4-10】ラテと小エビと七面鳥

2009/02/27 22:23 四話十海
  • 2006年11月の出来事。
  • プチ家出から無事に帰宅はしたものの、居場所がないと感じるシエン。家に帰る時間を次第に引き延ばすようになる。
  • 遊ばない夜遊び。名前も覚えないトモダチ。希薄な絆の中に自分を分散し、時間をつぶす。
  • そんな彼がある日出会ったのは……。

【4-10-0】登場人物紹介

2009/02/27 22:24 四話十海
  • より詳しい人物紹介はこちらをご覧下さい。
 
【シエン・セーブル/Sien-Sable】
 不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
 外見はオティアとほぼ同じ。
 オティアより穏やかだが、臆病でもろい所がある。
 笑顔を絶やさない穏やかで聞き分けの良い子。
 そんな仮面を脱ぎ捨てて、ようやく本当の顔を見せるようになった。
 たとえそれが沈んだ無表情でも。微笑みが消えても。
 
【オティア・セーブル/Otir-Sable 】 
 不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
 ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
 極度の人間不信だがヒウェルに心を開きつつあった。
 一時期空気扱いしていたがそれも気になる心の裏返し。
 とうとう想いを受け入れたがその一方で双子の兄弟と生まれてはじめての大げんかが勃発。
 ポーカーフェイスの裏側で揺れ動く心はいまだに安らげない。

【エリック/Hans-Eric-Svensson】 
 シスコ市警の科学捜査官。ディフの警官時代の後輩、23歳。
 ライトブロンド、瞳は青緑色、身長186cm。
 金属フレームの眼鏡着用。
 実は結構骨のある奴なのだが警察官ってのは基本的に強面さんが多いので署内での立場は弱かったりする。
 デンマークからの移民を祖父に持つ誇り高きバイキングの末裔。
 
【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】 
 通称レオン
 弁護士。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ライトブラウンの髪と瞳、身長180cm、着やせするタイプで意外と筋肉質。
 一見、温厚そうな美人さん、実は腹黒。実家は金持ちだが家族への情は薄い。
 ディフの旦那で双子の『ぱぱ』。
 最近忙しくて出張が増えた。
 
【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】 
 通称ディフ、もしくはマックス。
 元警察官、今は私立探偵。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
 裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
 レオンの嫁で双子の『まま』。
 多感な子どもたちを抱えて悩みは尽きない。
  
【オーレ/Oule】
 四話めにしてようやく本編に登場したオティアの飼い猫。
 白毛に青い瞳、左のお腹にすこしゆがんだカフェオーレ色の丸いぶちがある。
 最愛の『おうじさま』=オティアを守る天下無敵のお姫様。
 趣味はフリークライミングとトレッキング(いずれも室内)、好物はエビ。
 エドワーズ古書店の看板猫リズの末娘。
  
【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
 フリーの記者。26歳。
 黒髪、アンバーアイ、身長180cm、細身(と言うか貧弱)
 フレーム小さめの眼鏡着用。適度にスレたこずるい小悪党。
 オティアへの想いがようやく通じるが、それはすなわちシエンの失恋でもあり…。
 今回果たして人物紹介に出してもいいんだろうかってぐらいに出番無し。
 
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【4-10-1】はらぺこバイキング

2009/02/27 22:25 四話十海
 
 坂道をバンが走って行く。ゴトンゴトンと角張った車体をゆすり、比較的ゆっくりと。

 乗り心地より収納力を優先した車体の横にはサンフランシスコ市警のロゴが印刷されていた。
 お決まりの緊急用の回転灯はダッシュボードの上に。出動時はぺかぺか点灯させてサイレンを鳴らしてフルにすっ飛ばしたが今は静かに標準速度。
 この車に乗る者の任務は現場に始まり現場に終わるのだ。

 運転しているK9課のクィンシー・ネルソンは警察犬を訓練し、共に捜査にあたるハンドラーだ。今は犬ならぬ移動用車両のハンドルを握っている。その隣には爆発物処理班のギルバート・ワルターが座り、後部には二頭のシェパード犬、警察犬ヒューイと爆発物探知犬デューイ、そしてもう一匹……いや、一人。

「すまんな、エリック。せまい上に犬くさくて」
「やー、乗せてもらっただけでも御の字ですって」

 鑑識課のハンス・エリック・スヴェンソンが四角い金属のケースをひょろ長い足の間に挟み、もふもふの犬に両脇を挟まれて乗っていた。
 三人と二匹の捜査官たちは誘拐事件を無事解決し、意気揚々と署に引き上げる途中だった。

 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 生後半年にも満たない乳幼児がさらわれ、犯人は警察に電話をかけてきた。

『赤ん坊のいる所に爆弾しかけといたぜ、ヒャッホーッ! 赤ちゃんがぐずったらドッカーンと行くかもな!』

 科学捜査班が集めた証拠から人質が監禁されている場所を割り出し、爆発物処理班とともに急行。ヒューイが赤ん坊のにおいを追跡し、発見した部屋では同時にデューイも反応した。
 幸い、犯人は事前に予行演習と称して小規模な爆破事件を起こしていた。おかげで爆弾の仕組みはある程度解明されていたがそれでも油断は禁物。
 科学捜査班と爆発物処理班の連携で慎重に救出作業が行われ、爆弾も爆発することなく処理された。

 ところが引き上げる途中で予想外の事が起きた。処理班の本部近くに引き上げてきたヒューイとデューイが、野次馬の一人に激しく反応したのだ。

『何だ、この犬どもは!』
『失礼。班長のマクダネル警部補です』
『あんたが責任者か! この野良犬どもをどうにかしてくれ!』
『彼らは警察犬です。この黒い犬は誘拐された赤ん坊のにおいを追うように命じられた。こっちの茶色の犬は爆弾を発見するように命じられている』
『それがどうしたってんだ? おい、そいつ唸ってるぞ!』
『彼らが唸るには、理由がある。失礼ですがミスター、あなたは……赤ん坊と爆弾、その両方と接触していましたね? それもかなり長い時間』
『うっ』
『署までご同行願おう』

 予想外の快挙。だが現場で容疑者を逮捕したため、パトカーに乗る人数が増え、結局一番スペースを取る人間……すなわちエリックがあぶれた。
 かくして彼はヒューイとデューイの乗るバンに便乗して署に引き上げる事になったのだった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 ごっつい首を両手で抱き寄せるとエリックはわしゃわしゃと二頭の友人たちをなで回した。任務の後にほめられるのが何より好きなのだ。

「ヒューイもデューイもお手柄だったね」
「帰ったらたっぷりご馳走食わせてやるからな!」
「わう」
「……あれ?」

 ぐらりとエリックの長身が傾き、ヒューイにしがみつく。

「うう?」
「どうした、エリック!」
「なんか、世界がぐるっと回ったような」

 後ろを振り返ったワルターが血相を変えた。

「おい、お前顔が真っ青だぞ!」
「くぅ〜ん」
「わうっ」
「うわ、手が冷たい……しっかりしろっ」

 ただならぬ気配を察したのか、両脇のシェパードがぐいぐい体をすりよせ、顔を舐める。

「あー……そう言えば……備蓄食料切らしてたから、しばらく食事してないよーな」

 それだけではない。現場に急行する直前まで、人質の行方を割り出すために不眠不休で突貫作業を進めていた。その前は予行演習に使われた爆弾の分析。
 仮に食料があったとしても食える状態ではなかった。

「おい、ヒューイ、デューイ、あっためてやれ!」
「あー、ふかふかだ……あったかいなぁ……」
「しっかりしろ! そうだ、何か糖分の高い食い物……チョコレートとか」
「そんな危険なもの置いてあるわけないだろう」
「そうだった」

 チョコレートはうっかり犬が食べれば中毒を起こす。それ以前にこの車の中に存在する食べ物はドッグフードだけ。栄養価は優れているが、今ひとつ即効性に乏しい。

「おいネルソン、どっか食い物補給できるとこに止めてくれ」
「OK」
「そーいやセントバーナード犬ってシェパードの血も混じってたんですよね……」
「おーい、エリックー! しっかりしろー! お前バイキングの末裔だろうが!」
「や、ここ海じゃないし」
「へりくつこねてる場合かーっ」

 二頭のシェパードのぬくもりとワルターの怒鳴り声でかろうじて、ヴァルハラの入り口あたりに浮遊しかけた魂を引き戻している間に車が止まった。
 窓の外に見慣れた緑の円と人魚のロゴマークの看板がぶら下がっていた。

「よし、降りるぞ、ほら立て!」
「了解……あ、ネルソンも何か飲む?」
「いいから早く行け」

 ワルターに引っ張られ、空腹と体温の低下でへれへれになりながらエリックはコーヒースタンドに入っていった。濃密なコーヒーの香りに意識がはっきりする……ほんのちょっとだけ。パンに、肉、カスタードクリーム、パイ生地、煮たリンゴ、ジャム。食べ物のにおいが鮮明に鼻腔に、喉に、脳みそに染みる。

「もうすぐ食い物のある所に連れてってやるからなー。しっかり歩けー」
「Ja,Ja,Ja」

 よれよれとレジ脇のガラスケースに近づき、中身を物色した。

「何にしよっかなー。あ、エビのサンドイッチがある……あとカフェラテと……」
「キャラメルマキアートにしとけ」
「……そーする」

 ぼーっとしながら注文をすませ、コーヒーが出てくるのを待ちながらぼんやりと客席を眺めていると。

「……あれ?」

 店の一角にふいっと目が吸い寄せられる。空腹で焦点の定まらないぼやけた視界の中で、そこだけくっきりと色鮮やかに目に映った。

 クリーム色のダッフルコートを羽織った金髪に紫の瞳の少年。あの子なんか見覚えあるぞ。
 記憶の中の情報を検索してみる。

(……ああ、センパイのとこの双子だ。でも一人しかいないな。オティアとシエン、どっちだろう……)

 眉間にうっすら縦じわが浮いてる。あまり楽しそうじゃないな。他に行くところがなくてしかたなくここに居るみたいだ。
 だれかと待ち合わせしているのでもない。食事やコーヒータイムのために来たのでもない。ただこの場所に居て、時間が過ぎるのをじっと待ってる。

(何かあったのかな。センパイは、このことを知ってるんだろうか?)

「お待たせしました。小エビのサンドイッチとキャラメルマキアート、トールのお客様」
「おい、エリック」
「……あ、はい!」

 あの子を一人で残して行っていいものか。気がかりだが、今の自分は勤務中だ。ワルターが一緒だし、しかも外には同僚たちを待たせている。ただ気になるから、だけで留まるのが許される状況ではない。

「こぼすなよ」
「……うん」

 後ろ髪を引かれる思いで店を出て、バンに戻った。

「ただいま」
「何買ってきた」
「キャラメルマキアート……」
「いい選択だ、飲んどけ」
「でも」
「お前このままだと十中八九、署につく前にぶっ倒れるぞ」
「じゃ、失礼して……」

 ずぞーっと紙コップの中身をすする。泡立つミルクとキャラメルシロップの甘さが舌に染みる。ちょっと遅れてコーヒーの熱さと苦さが広がった。

「はぁ……生き返る」
「……………」

 飲みながらデューイの視線が気になってしかたない。長い鼻面をこっちに向けて、上目遣いでじー……。ねだりこそしないが、静かに訴えている。くれると言うならいつでもお相伴に預かりますよ、と。
 好物なのだ。コーヒーが。
 彼のためだけに爆発物処理班には、オーガニック栽培のコーヒー(もちろんデカフェ)が常備してあると言う。

「署から連絡があったぞ。戻ったら警部補が来てほしいってさ」
「どこに?」
「取調室。容疑者の尋問に立ち会えって」
「了解……」

 容疑者の逃げ道を塞ぎ、『落とす』には証拠を分析した本人が同席し、直に説明するのが効果的だ。可能な限りは。マクダネル警部補の信条と捜査法にはエリックも絶大な信頼を寄せていた。

「モテモテだな。今のうちにサンドイッチも食っとけ」
「うん……」

 ぺりっと袋を破って小エビのサンドイッチをかじる。中身をこぼさないように慎重に。マヨネーズベースのソースのたっぷりからまったぷりぷりした小エビが口の中で弾けた。

「はぁ……美味しい」
「また、エビか」
「うん、エビ」
「飽きないのかね」
「全然?」

 もっしょもっしょとサンドイッチをかじり、コーヒーをすする。ちらっと振り返ると、遠ざかるコーヒースタンドの看板が見えた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 あと数分、エリックが店に留まっていれば、先ほど自分が心引かれた少年と瓜二つの少年がもう一人、入って来るのを目撃しただろう。
 着ている紺色のコートと髪の毛の長さが違う程度でぱっと見はほとんど区別がつかない。
 どこか沈んだ表情さえも。

 シエンは既に席を立っていた。兄弟が店に入るより前に来るとわかっていたように。飲み終わったカップをゴミ箱に捨てて出入り口へと歩いて行き、2人並んで歩き出す。
 一言も言葉を交わさぬまま。
 互いに目すら合わせぬまま。それでも並んで、とぼとぼと、活力の欠けた足取りで。

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【4-10-2】遊ばない夜遊び

2009/02/27 22:26 四話十海
 
 緑色の円の中の白い人魚。たっぷり濃厚な苦みの利いたラテ系のコーヒーがメインのコーヒースタンドチェーン。歩いていて、ひょいと見上げるとすぐに出くわす。
 支店の数はおそらくアメリカ合衆国でもトップクラス、ユニオン・スクエア界隈だけでも確認しただけで4軒はあるだろうか。 

 最初に来たときは純粋にコーヒーを買うのが目的だった。
 この所、レオンは忙しくてほとんど事務所に居ない。ロスはもとよりフロリダやメキシコ、時には東海岸まで、それこそ州境を越えて飛び回っている。泊まりがけの出張も増えた。レオンが忙しいと、必然的にアレックスも忙しくなる。
 自分ではレオンほど上手くコーヒーは入れられないし、紅茶だけでは物足りない時もある。

 そんな時はここでコーヒーを買うことにしていた。ほどよく苦くて、きっちり熱い。自動販売機より断然美味しい。コーヒーが欲しくなるとエレベーターで下に降り、厚手の紙コップに入ったラテを手にして事務所に戻る。それだけだった。

 ……けれど。

 深い霧のハロウィン。その翌日のささやかな家出。

 オティアと別々の部屋で眠るようになって以来、シエンがこの店で過ごす時間は確実に増えていた。

 それまで双子はずっと一緒にランチをとっていた。シエンが探偵事務所に降りて行くこともあれば、オティアが法律事務所まで上がってくることもあった。
 しかしあの夜を境目に、シエンは一人でランチタイムを過ごしている。外に食べに出る時も一人。買いに行く時も一人。

 弁当を持参している時も一人で食べて、終わるとふらりと外に出てコーヒースタンドでラテを一杯買う。そしてテーブルにすわり、ちびちび飲みながら時間をつぶすのだ。

 だれかと話すでもなし。本を読むでもなし。音楽を聞くでもなし。ただ時間が過ぎるのを待つ。じっと待つ。
 そして休み時間が終わる前に席を立ち、空っぽのコップをゴミ箱に捨てて店を出る。毎日そのくり返し。
 最初は20分前。それが18分前、15分前、10分前と少しずつ戻る時間が遅くなり、最近はぎりぎりまで座っている。心配したアレックスが一度探しに来たことがあった。

 それ以来、あまり遅くまでぼーっとしているとオティアが迎えに来る。
 そして2人は黙って歩く。とぼとぼと歩いて事務所のあるオフィスビルに戻り、エレベーターに乗り込む。
 二階でオティアが降りて、シエンは上へ。ひとこともしゃべらず、視線すら合わせずに。

 最初は昼休みだけだった。
 けれど11月の最初の水曜日、バイトが終わってとぼとぼとケーブルカーの駅に向かう途中にふらりとコーヒースタンドに入ってみた。
 ちょっと寄り道するだけだ。家に帰る時間を引き延ばすだけ。
 椅子に腰掛け、コーヒーを飲むでもなしにただガラス窓の外が暮れて行くのを眺めた。

 家に帰るころにはすっかり暗くなっていた。
 何となく本宅の玄関から入りづらくて隣の部屋……去年までディフの住んでいた部屋。10月までは自分とオティアの住んでいた部屋。今はオティア一人が住んでいる部屋のドアから入った。
 ソファで本を読むオティアの横をすり抜ける。オーレがちらっとこっちを見て小さく「みゃっ」と鳴いた。
 オティアにはヒウェルがいる。もうここには自分の場所はない。
 
 ディフは本宅のリビングで待っていた。眉間にかすかに皺をよせ、黙って新聞を広げていた。入って行くと弾かれたように顔をあげ、こっちを見た。その瞬間、表情がゆるみ、肩の力が抜けたのがはっきりとわかった。

「……お帰り」
「ただいま」
「飯、できてるぞ」
「……ん」

 一人分とりわけられた食事を口に運びながら思い出す。そうだ、今日は買い物の日だったんだ、って。
 どうしよう。すっぽかしちゃった。
 あやまった方がいいのかな。

(ごめんなさい)
(勝手に一人で帰ってごめんなさい。約束やぶってごめんなさい)

 胸の中で繰り返すばかりで、口にすることができない。
 食べ終わって、食器を片付けているとディフがぽつりと言った。

「シエン。オティアがいるからお前が無事なのはわかる。だが、遅くなるなら自分で一言連絡入れろ」

 はっと顔を上げる。先回りされた気がした。
 穏やかなヘーゼルブラウンの瞳に何て答えればいいのかわからなくて、結局、視線をそらして黙って部屋に戻った。
 息をひそめて足早に、ほとんど逃げるようにして。

 悔しいような、もどかしいような、もやもやした息苦しさがのど元にせり上がり、息が詰まる。
 いっそ嫌ってくれたら楽なのに。怒ってくれたらすっきりするのに。何でそんなに優しいの?
 血もつながっていない、法律で定められた義務がある訳じゃない。なのに、どうして『親』みたいに振る舞おうとするの?

 その優しさが、かえって……痛い。きりきりと胸を締めつける。
 その一方でシエンの意識はかしゃかしゃと冷静に計算機を弾いていた。

 どうせ自分がどこにいるか、オティアを通してディフにはわかっちゃうんだ。

 少しぐらい遅く帰っても、何の問題もない。だったら心配かけてることにはならない。
 バイトが終わってから家に帰るまでの時間に何をしていても、それは自分の自由なんだから。
 
 次の日の夕方、帰り道の途中。シエンはすたすたとコーヒースタンドに入った。
 次の日も。
 またその次の日も。

 夕方のスタンドは、学校が終わる時間でもあるからか、昼休みと比べて同じ年頃の子が多かった。
 おかげで一人でぽつんと座っていても目立たない。枯れ葉の間にうずくまるウズラみたいにざわざわした空間にまぎれむことができる。時間をつぶすことができる。

 通い続けるうちにたまに話す相手もできたけれど、お互いに無理に近づこうとはしない。その時顔を合わせて適当に話して、それだけ。
 向こうは自分を友達だと思ってるっぽい。次に顔を合わせた時も親しげに手なんか振って近づいてくるけれど、別に友達って訳じゃない。ほとんど名前も覚えていないけど、笑って話を合わせることはできる。

 だれかと話していれば、一人で過ごすより、時計は早く過ぎる。
 そんな風に過ごしていたある日のこと。

 赤いチェックのシャツにグリーンのパーカー、グレイのダウンジャケットを来た男の子が話しかけてきた。

「あれ、お前、セーブルじゃん。どっちだっけ、Oのつく方? Sで始まる方?」
「シエンだよ」

 目の前の顔と記憶を重ね合わせる。髪の毛はトウモロコシみたいな、カボチャみたいなオレンジに近い赤。くしゃくしゃのツンツンで伸び放題、ディフと違ってだいぶ毛質は固そうだ。
 ほお骨の周りにそばかすが散っている。だいぶ薄くなってるけど、ぽつぽつと。瞳は明るいブルー……中学の時の同級生の一人に似ているような気がした。

「えーっと……もしかして……ビリー?」
「当たり」

 にまっと人懐っこい笑みを浮かべると、向かいの席に腰を降ろしてきた。

「今どーしてんだよ」
「バイトの帰り」
「何か予定あるのか」
「別に?」
「そっか、じゃーちょっとつきあえ……おーい、ユージン、こっちこっち!」

 鳶色の髪のひょろりとした少年が加わり、3人でスタンドを出た。

「どこ行くの」
「んー、とりあえずゲーセンかな。2人で対戦やってもすぐ飽きるから」

 ゲームセンターはコーヒースタンドとは比べ物にならないくらいにぎやかな音にあふれ、赤や青、黄色、緑の光が点滅するめまぐるしい空間だった。
 くらくらしていると、ゲームの筐体の前に引っ張って行かれた。

「ほら、お前もここ座れって」
「これ、どうやって使うの」
「お前、もしかしてやったことないのか?」
「……うん」
「しょうがねえなあ、それじゃ、見本見せてやるから。見てろ、ビリーさまの華麗なるテクニックを!」

 自慢するだけあってそこそこ上手かったけれど、あっさりユージンに負けていた。
 シエンとの対戦も最初の一回こそ勝ったものの、コツをつかんでからはシエンの一人勝ち。

「くっ、やるな、お前。いい筋してるじゃん」
「そうかな」

 気づくとかなりの時間が過ぎていた。もう夕食は終わっている。そろそろ家に帰ってもいいだろう。
 ほっとして「もう帰る」と言い出すと、ビリーは自分の携帯を引っ張り出した。

「んじゃ番号教えてくれよ」

 自分からはメールも電話もしたことはないけれど、以来、ちょくちょく一緒に出かけるようになった。
 親しくなるにつれてぽつぽつと自分の今の状況を(さしさわりのない程度に言葉を選んで)話すようにもなった。
 オティアと一緒にある夫婦の家で世話になってる。バイトをしながら、ホームスクーリングで高校の勉強をしてる、と。

「ふーんそっか。ラッキーだったな」

 じろじろと無遠慮にビリーはシエンの服装や顔色を確認して、うなずいた。

「ちゃんと面倒見てもらってるみたいだし?」
「……一応ね」
「俺が今いるとこはさー、同じ里親でもけっこうな人数がわらわら群れてっから、ちびどもがうるさくって。なっかなか一人になれねーの! って言うか一人になる暇、ない」
「そうなんだ」

 だからこんなとこでふらふら遊んでるのかな。
 ゲームの合間にコーラを飲んでるときにそれとなく聞いてみた。あいまいな顔で、「まあな」とうなずいた。

「親父もお袋も『いい人』だよ。ちゃんと飯も食わせてくれるし着るものの面倒も見てくれるし」

 青い瞳の奥に暗い色がゆらぐ。無意識なのだろうか、にぎった拳でごしごしと頬のあたりをこすっている。

「……絶対俺のこと殴らないし」

 ぎくり、とした。中学のとき、ビリーは実の親と一緒に暮らしていたはずだ。けれどしょっちゅう学校を休んでいたし、目の周りや頬に痣をつくっていた。
 先生にはドアにぶつけたとか、階段で転んだとか、必死で言い訳をしていたけれど……。

「わかってるんだ。2人とも悪い人じゃない。ちゃんと俺のこと考えてくれてるって。でも息苦しいっつーか……なんか、ウザイ」

 ぐしゃぐしゃと髪の毛をかきまわすビリーの顔に、今は痣も傷もない。着ている服もいつも清潔で、顔色もいい。

「俺が夜遅くこそっと帰るだろ、そーすっとじーっとこう居間で待ってんの。心配してるんですよーって顔してさ。そのくせ、お帰り、としか言わないんだ」

(あ)

 11月の最初の水曜日の夜、居間で静かに自分を待っていたディフの面影がよぎる。

「血のつながってない赤の他人なんだ。卒業しちまえばそれっきりなんだからほっといてくれりゃーいいんだよ」

 そっぽを向いて言い捨てるビリーの顔は頬から目にかけて赤くそまり、怒ってると言うよりも。拗ねてると言うよりもむしろ、泣きそうになるのをこらえてるように見えた。

「無理に親になろうとしなくていいのに」
「……わかるよ」
「え?」
「家の……『まま』も、同じだから」
「そっか。お前も大変だな!」

 なんとなく、居場所を見つけたような気がした。家に帰る時間を引き延ばすための、避難所のような、隠れ家のような小さな場所を。

 こうして毎日、シエンの『夜遊び』は続いた。ただ、だらだらと帰る時間を引き延ばすために。夕飯の時間をずらすために。
 無為に時間をつぶすよりは早く過ぎてくれる。気がまぎれる。

 こんな風にふらふらしてるうちに、ディフは自分のことを見捨てちゃうかもしれない。だったらそれでもかまわない。今までずっとそうだった。

(嘘だ、本当はわかってる)
(ディフは自分を見捨てたりしない。だけど今は、かえってそれがつらい)
(知らんふりしてくれればいいのに。見ないふりしていてくれればいいのに)

 無理に親になろうとしなくていい。

 でも……親って何なんだろう?

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【4-10-3】七面鳥の日

2009/02/27 22:27 四話十海
 
 11月の第四木曜日は休みだった。夕食の献立はぎっしり詰め物をした七面鳥の丸焼きとパンプキンパイに根菜のスープ、野菜サラダにコーンブレッド。久しぶりにディフと一緒にキッチンで夕食を作った。
 大きな七面鳥は2、3日前からずっと冷蔵庫に入っていて何に使うのかと思ったけれど(クリスマスにしてはまだ早いし)この日のためだったんだ。

「冷凍のをゆっくり時間をかけて解凍したんだ」
「冷蔵庫で?」
「ああ。去年のクリスマスんときは流しのすみで1日置いといたけどな。じっくり時間かけた方がいいらしい」
 
 中味を洗って溶かしたバターをしみ込ませ、ダイス型に切ったパンときざんだタマネギ、パセリをつめこむ。

「本当はセロリを使うんだけど、食えない奴がいるからな」
「ん」
「代わりにこいつを入れる」
「ジンジャー?」
「ああ。肉のくさみがいい具合にとれるし、ニンニクと違って息が臭くならない」
 
 詰め物をした七面鳥を焼き網を敷いたロースターに入れてオーブンへ。焦げないようにアルミホイルでみっちり包む。
 手羽とももの部分は火の通りが早いので二重にぐるぐる巻き付けて、最初の一時間は強火で。あとは弱火でじんわりと。焦らず、じっくり焼き上げる。中に仕込まれた目印が弾けて飛び出したら出来上がり。

「まだ昼間だよ? 早くない?」
「焼き上がるまでに5時間かかる」
「そんなに?」
「去年のクリスマスもそれぐらいかけただろ?」
 
 確かにその通り。七面鳥の丸焼きなんてめったにしないから忘れていた。
 それに……。
 去年のクリスマスから今までの間に、あまりに多くのことが起きた。大きな変化があった。住む場所、眠る部屋、一緒に居る時間の長い人。変わらないものもあれば、表面だけ同じに見えてがらりと中味が変わってしまったものもある。

「よし、次はパイとコーンブレッドだ」
「うん。今日はオーブンたくさん使うね」
「ああ、大活躍だ」
「熱くなってきちゃった」
「熱量が半端じゃないからな」

 大きなカボチャをざくっと切るのはディフの仕事だ。わしゃわしゃと種をかき出し、刻んで茹でる。

 料理をするのは好き。作り方を教わるのも楽しい。だけどそれ以外のことはほとんど話さない。
 暗い、冷たい湖の上に張った氷の上。今いる所はかろうじて持ちこたえているけれど、次の一歩が無事に体を支えてくれる保証はない。いつ、踏み抜くかはわからない。

 茹でたカボチャをせっせと裏ごしするシエンの隣で、ディフがざっかざっかと猛烈な勢いでパイ皮を折り曲げる。
 どこか危うい静けさの中、ひたすら手を動かした。
 
「ただいま」
「お帰り」

 レオンは相変わらずカレンダーの休みもおかまい無しに休日出勤。だけど今日は珍しく帰りが早かった。
 七面鳥を真ん中に久しぶりに5人で食卓を囲む。
 11月23日、第四木曜日は感謝祭。七面鳥ととうもろこし、カボチャでお祝いする日。

 焼き上がった七面鳥を食卓の上で薄く切り分け、ソースを添える。一口じっくり味わってから、ヒウェルが偉そうに感想を述べた。

「ふむ。去年のクリスマスよか上達したな。ちーとばかし皮が焦げっぽいが」
「言ってろ。今年のクリスマスにはもっと上達してやる」

 レオンが静かにほほ笑んだ。

「期待してるよ」
「……うん。がんばる」

 まだ乾杯のワインにほんの一口くちをつけただけなのにディフは耳まで赤くして、うれしそうに目を細めた。こんな風に顔全体で笑うのは久しぶりに見るような気がした。

「骨はこっちの皿に避けとけ。無理にかじるな」
「うん」
「味足りなかったらソース足せよ。塩もある」
「大丈夫。美味しいよ」
「そうか」

(この人たちは今はこんな風に笑いかけてくれる。でもいつ自分に背を向けるかわからない)
(明日、捨てられちゃうかもしれない)

 シエンはまだ理解できずにいた。心細く思うのは、失いたくないからだと。
 親なんかいらない。必要なのは安定した生活を送るための後ろ盾。レオンも、ディフもただそれだけの存在でしかない。かたくなにそう思っていた。自分に言い聞かせていた。

 愛想の良い笑顔。快活な笑顔。可愛らしい笑顔。素直さ、従順さ、人なつっこさ。繕うことをやめ、ほとんど『素の顔』を晒しているにも関わらず自分が受け入れられている。その事実を、認められずにいた。

 すがったら、負ける。

 藁の中の七面鳥。
 干草の中の七面鳥。
 転げよじれてぐるぐるごろごろ。
 藁の中の七面鳥。

(負けるって、何に対して?)
(勝ち負けの基準って何?)

 すがりたい。でもすがれない。拒まれるのが怖いから、その必要はないのだと切り捨てる。
 ここは自分の本当の居場所じゃないんだ、と。

 それでもあたたかい焼きたてのコーンブレッドを口に運ぶとほっとした。何故なのかはわからないけれど。
 
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【4-10-4】相席、いいかな?

2009/02/27 22:28 四話十海
 
 開けて次の日。
 
 木曜日が休みの週って何となく中途半端だ。土曜日までの間にぽつりと入った金曜日。思い切って連休にしている学校や会社も多いだろうに、夕方のコーヒースタンドはむしろいつもより混んでいた。

 他所から来た人が増えているのかな。

 そんなことを考えながら、シエンはいつものように隅っこのテーブルでラテをすすり、ちまちまとスコーンをかじった。
 見た目がホットビスケットに似ているから選んでみたけれど、パサパサしていて少し食べにくい。
 サンドイッチかマフィンの方が良かったかな。

 残すのはもったいないから、一口食べて、ラテをすすって、少しずつ喉の奥に流し込む。もくもくと口を動かしていると、不意に皿の上に影が落ちる。

「ここ、空いてるかな?」

 よく通る声だが濁音がほんの少しだけ強い。Rの発音が独特で、内側にこもったように響く。変わったしゃべり方だ。
 見上げるとひょろりと背の高い男が立っていた。
 肌は白く、短く刈られた明るい金色の髪がツンツンと逆立っている。金属フレームの眼鏡の向こうの瞳は青と緑を半々に掛け合わせた深みのある色で、角度によってどちらの色にも見える。
 みっしり編んだ白のセーターの上に明るいベージュのコートを羽織り、瞳の色と同じ青緑のマフラーを巻いていた。

「相席、いい?」

 手にしたトレイにはトールサイズの紙コップとサンドイッチが載っている。会社員? いや、ひょっとしたら大学生かも。
 背は高いけど迫力はない。人畜無害っぽい相手だし……店は混んでる。他の人と相席するよりはこの人の方がマシだな。

「いいよ」
「ありがとう」

 向かいの席に、ちょっと角度をずらして斜めになるようにして座ってきた。正面から向き合わずにすんで少しほっとした。
 座るとまずコップの中味をずぞーっとすすり、続いてあぐ、とサンドイッチにかじりつく。中味を落とさず、器用に噛みとった……と、思ったら口にマヨネーズがついていた。
 微妙におしい。
 もぐもぐと幸せそうに口を動かし、ごくん、と飲み込む。まだ気づく様子がない。

「……ついてるよ」
「え?」
「口。マヨネーズ」
「あれ、ほんとだ……ま、いいや。食べ終わってからふくよ」

 豪快なのか。横着なのか。きちんとしてる人に見えたんだけどなあ。

「ありがとう」
「……ん」

 後はもくもくと口を動かしてサンドイッチを食べている。
 今まで何度かこう言うことがあったけど、みんな食べるのも飲むのもそっちのけで声をかけてきた。
 年はいくつ?
 家は近いの?
 いつも来るの? 一人?
 それなのにこの人は何も聞いてこない。マイペースに食べて、飲んでいるだけ。

「それ……エビ?」

 かえって落ち着かなくて、とうとう自分から声をかけてしまった。

「うん、いつもエビ」
「飽きない?」
「全然。好きだし」

 ヒウェルのチョコレートみたいなものなのかな。

「うちの猫もエビ、好きなんだ」
「ふうん。猫、飼ってるんだ」
「俺じゃなくて、兄弟がね」
「そっか。かわいい?」
「うん、最初はちょっと怖かったけど、ちっちゃいし、かしこいし」
「いいね……オレも好きだな、猫。でっかいのも、ちっちゃいのも」
「ふうん……大きいのも平気なんだ」
「君は、ちがうの?」
「ちょっと、苦手かも」

 サンドイッチを食べ終わると、金髪の眼鏡の青年は紙ナプキンで念入りに口のまわりを拭った。それでもまだ一カ所、口の端に白くマヨネーズが残っている。
 器用なのか、不器用なのか。

「まだついてるよ」
「え?」
「ここ」

 自分の顔の同じ位置をちょんちょん、と指でつついてみせた。くいっと紙ナプキンでぬぐって、ひろげて、確かめている。
 ひょこっと青緑の瞳が見開かれた。

「わあ、ほんとだ。ありがとう」
「別に、大したことじゃないし」
「君はそれ、好きなの?」

 半分ほど残ったスコーンに目を落とす。

「……う……ん………でも……」

 知らない人だからなのか。相手の身にまとうどこかひょうひょうとした……そのくせ穏やかな空気のせいなのか。
 ぽろりと本音を口にしていた。

「うちで焼いたのの方が、美味しい」
「そっか」

 軽くうなずく金髪の青年のポケットで、ヴィーンっと何かが振動した。

「おっと」

 携帯を引き出し、画面に目を走らせている。

「そろそろ行かないと。それじゃあ、ね。相席してくれて、ありがとう」
 
 遠ざかるひょろりとした背中を見送る。ほぼ入れ違いにビリーとユージンが店に入ってきた。
 
「よお、シエン! 待たせたな! さ、行こうか」
「……うん」

 店を出ると、雑踏の向こうにちらりとツンツンに尖った白っぽい金髪頭が見えたような気がした。

 あの人、結局名前も聞いてこなかった。何となく以前、どこかで見たことがあるような……多分、気のせいだよね。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 いつもの週末より街はにぎわい、行き交う人の数も多かった。カラオケに行ってもなかなか部屋が空かず、ロビーで待たされた。

「あーもー人多いなあ」

 待ってる間にコーラをすすりながらビリーが肩をすくめた。

「感謝祭後の週末だから、しょうがない」
「っかーっ、感謝祭か! うちも兄貴どもや姉貴どもがわしゃわしゃ押し掛けてきてさ」
「そうなんだ」
「そーだよ。せまっ苦しいったらありゃしねえや。血のつながった身内って訳でもないのにご苦労さんなこった」

 どうやら、感謝祭には家族が集まるものらしい。
 ふと、疑問がわいた。自分やオティア、ヒウェルはともかく、どうしてレオンもディフも家族を呼ばないんだろう。あるいは、家族の所に帰らないのだろう?

 レオンはあまり実家と折り合いが良くないらしい。けれどディフは?

(どうして? ディフにはお父さんも、お母さんも、お兄さんもいるのに。仲がいいんでしょ? 好きなんでしょ? いつもそう言ってたのに)

 自分たちが来てから、一度も実家に帰っていない……。

「シエン」

(俺のことなんか放っておいて、本当の家族のとこに帰ればいいのに)

「おい、シエン!」
「……あ、ごめん」
「部屋空いたってさ。行くぞ」
「うん」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 時刻は夜の九時を回ろうとしている。
 ディフは一人でリビングに座っていた。肩の上には小さな白い子猫。レオンがいないのを知っているのか、今夜はなかなか本宅から退散なさろうとしない。
 
「いいのか、お前? オティアが心配してるぞ?」
「にう」

 顎の下をくすぐって、ふと思い出す。ほんとうに一人になりたい時は、あの子はオーレさえ閉め出してしまうのだと。

 気づいた瞬間、立ち上がっていた。肩の上でオーレがバランスを崩し、がしっと全力でしがみついてきた。
 セーターの上から尖ったちっぽけな爪が刺さり、首輪の鈴がちりちりと鳴る。

「みゃっ」
「おっと。大丈夫か?」
「にう!」

 ぴしり、と長い尻尾で頬を叩かれる。

「ごめん。気をつけるよ」
「に」

 お姫様はいたくご機嫌斜め。目を半開きにして耳を伏せてしっぽをぱったんぱったんとやっていたが、不意に耳をぴんと立てて境目のドアの方に向き直った。

「にゃーっ」

 甲高い声。尻尾を高々とあげて床に飛び降り、とことこと、『おうじさま』に向かって一直線。

「オティア」
「………待ってるのか?」
「ああ」

 だれを、なんて今更口にするまでもない。
 白い子猫を抱きあげると、オティアはぼそりと言った。

「……かえって逆効果だ」
「そう……か。お前が言うなら、そうなんだろうな」
 
 部屋に戻って行く少年を見送ると、ディフは深くため息をついた。ためらってから、電話台の脇のメモ帳から一枚破りとってペンを走らせ、キッチンのテーブルに載せて……寝室へと向かう。
 足取りが重い。自然とうつむいてしまう。夜の暗さ、静けさが妙にべったりと手足にまとわりつく。

 いかんな。とりあえず風呂にでも入ろう。
 あったまって。
 さっぱりして。
 そうすりゃ、このうっとおしい湿った気分も少しは軽くなるだろうさ。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「それじゃ、またな!」
 
 その頃、シエンはコーヒースタンドの前で『友達』と別れた所だった。
 結局、ほとんどビリーとユージンが歌ってるのを聞くだけで自分では歌わなかった。

 吐く息が、白い。一人になると、夜の暗さを改めて実感する。ケーブルカーの駅に向かって歩き出そうとすると、向こうから若い男が数名、歩いて来た。
 誰はばかることなく大声でしゃべりながら、道の幅いっぱいに横に広がって。時折耳障りな金切り声まであげている。

 ダウンジャケットの下からシャツの裾をだらりとはみ出させ、靴のかかとをつぶし、ジーンズは腰の辺りまでだらしなくずりおろしている。
 そろいもそろって打ち合わせでもしたみたいにしまりのない服装。そのくせ目つきは鋭く、ぎらぎらした嫌な光を宿していた。
 上着に打った金属の鋲が、ぎらりと光る。ベルトから下げたチェーンがじゃらじゃら鳴っている。いや、わざと鳴るように体をゆすっているのだ。

 近づくと、ぷーんと酒のにおいがした。

 いやだな。
 早く通り過ぎよう。

 歩調を早めてすれ違おうとすると、不意に行く手を遮られた。

「あ……」

 さっきまであれほど騒いでいたのに、今は黙っている。一言もしゃべらない。ただ全員ぎらつく目でこっちを見ている。
 横に避けようとすると、すっとスライドしてわざと正面に立ちふさがってきた。

(どうしよう)
 
 一歩後じさりする。
 ずいっと近づいてきた。それだけじゃない。取り囲むようにして、じりじりと迫って来る。
 走って逃げようか。でも追いかけてきたらどうしよう?
 背筋をひやりと冷たいものが走る。記憶の奥底の扉が開き、未だ癒えぬ恐怖がじわり、と染み出してきた。
 
(怖い!)
 

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【4-10-5】エビの人

2009/02/27 22:30 四話十海
 
 その瞬間。
 
「やあ、待った? 遅れてごめんよ」

 快活な声で呼びかけられた。振り向くと、背の高い金髪の眼鏡の男がにこやかに笑っていた。白いセーターに緑のマフラー、明るいベージュのコート。肌の色も髪の色も着ているものも白っぽく、暗がりの中にぽうっと浮かび上がって見える。

(あ。エビの人だ)

『エビの人』はすたすたと近づくと、シエンの肩越しに一瞬だけ、険しい目つきで男どもを睨んだ。
 眼鏡越しに青緑の瞳をすがめて、じろりと。

 ファッションで悪のふりをしている遊び人と、本物の悪党の区別はつく。こいつらは境界線上をふらついてはいるが前者だ。
 週末の夜に一杯引っ掛けて、仲間とつるんでハメを外しているだけ。
 一人一人に分割してやれば、憑き物が落ちたみたいに大人しくなって、俺は悪くないよと口をそろえて言うタイプの寄せ集め。

 バッジを見せるまでもない。
 示すだけで十分だ。視線に乗せて、己の確固たる意志を。

(彼に手を出すな)
(自分はお前たちを退けるのにどんな努力もいとわない)
(決して後へは退かない)

「…………」

 男どもは肩をそびやかして目をそらし、我勝ちに脇道へと退散して行く。
 バイキングのひと睨みはアルコールで霞んだ脳みそにも十分、突き刺さるほどの鋭さをそなえていた。
 素性を知らないまでも叶わない相手と悟ったのだ。自分たちより手強い奴と、日常的に渡り合っている人間なのだと。

「……大丈夫?」
「う……うん」
「そっか。今帰り?」
「うん」
「歩き? バス?」
「ケーブルカー……」
「そっか。じゃあ、オレと同じだね」

 話しながら何となく一緒に歩き出す。ケーブルカーの駅を目指し、少し距離を置いて並んで歩く。
 駅につくと、ちょうどソーマ地区に向かう下りのラインがやってきた所だった。

「俺……こっちだから」
「そっか。じゃあオレとは逆方向だね」
 
 ケーブルカーに乗る直前、シエンは小さな声でお礼を言った。

「ありがとう」と。

 エリックはほほ笑んで小さく手を振り、入れ違いにやってきた上りのラインに乗り込んだ。

 センパイのマンションは駅のすぐ近くだ。人通りも多いし、ひとまず安心してもいいだろう。

(ほんとは家まで送りたいけど。それはちょっと行き過ぎ……だよね)

 手すりから身を乗り出し、遠ざかる車両を見送った。
 話してみてわかった。あの子が双子のどちらなのか。猫を飼っているのはオティア。あの子はその兄弟。
 つまり彼の名前は……。

(おやすみ、シエン)

 少年の乗ったケーブルカーはやがてテールランプが見えるだけに。それさえもすぐに小さな点となり、街の灯りにまぎれて行った。
   
 
 ※ ※ ※ ※

 
 風呂から上がり、髪の毛を拭っていると、今やすっかりおなじみになった指に何ぞのまとわりつく感触を覚えた。
 引き抜くと長い赤い髪がぞろりと一塊、からみついている。どうやらまたごっそりと抜けたらしい。
 苦い笑いを浮かべると、ディフは無造作に髪の毛を丸めてくずかごに放り込んだ。

 寝間着に着替え、ガウンを羽織る。
 レオンは今夜はフロリダ泊まりだ。電話するにはまだ早いか……な。

 念のため、もう一度リビングをのぞいてみると、キッチンの方角からかすかに人の気配がした。
 
(ひょっとして……)

 食堂をのぞきこむ。
 シエンがぽつんと座ってもくもくと、七面鳥のシチューを口に運んでいた。

「あ……」

 紫の瞳の奥に一瞬、安堵の光が見えた。そうであればいいと願う自分の心が見せた錯覚でしかないのかもしれないが。

「帰ってたのか」
「ん」
「飯、わかったか」
「うん、メモがあったし」

 良かった。ちゃんと、見てくれたのだ。

「そっか……あー、その、シエン」
「何?」

 また表情が消えちまった。まずったな。どうにも引き際がつかめない。すまん、余計なこと言って。あとひとこと言ったら退散するから。
 祈るような気持ちで言葉を綴る。ためらいながら。とまどいながら。

「……………………………………………お帰り」
「ただいま」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 オティアはベッドの上で目を開けた。とろとろと霞みかけた意識が急に現実に引き戻された。シエンが帰ってきたのだろう。
 寝返りを打つ。
 月明かりの中、嫌でも隣のベッドが目に入ってしまう。布団も、枕もない、空っぽのシエンのベッドが。
 反射的に布団に潜り込んだ。
 どうしてまだ眠れないんだろう。時間通りに薬を飲んだはずなのに。前は眠れたはずなのに……おかしいな。
 でも考えるのがめんどうくさい。

「……に」

 オーレがにゅっと鼻をくっつけてきた。

「冷たいな」
「にう」

 もふもふと腕の中に潜り込むと、オーレはぴったりと胸元に顔を埋めてしまった。自分以外の生き物の温もりと柔らかさに安堵する。張りつめていた気持ちが和らぐ……ほんの少しだけ。

「そうだな、そこに入ってろ」
「みう」

 白いふかふかの毛皮に顔を寄せ、無理矢理目をとじる。

(いいや、もう眠れなくても……)

 せめて早く時間が過ぎればいい。夜なんかとっとと終わればいい。
 朝が早く来ればいい。

 ブゥフーーーーーーーーーーーウゥウウウ………。

 風が鳴る。断末魔の獣の唸りにも似た音を響かせて。
 闇の中、オーレが目を開き、ひっそりと毛を逆立てた。
 
 
(ラテと小エビと七面鳥/了)
 
【4-11】ホリディ・シーズン1