▼ グッドモーニング
12月23日、夜22時45分。
じきにクリスマスイブが始まろうと言うこの時刻に至っても、ヒルトン・サンフランシスコのロビーを行き交う人の数は一向に減る兆しを見せない。最上階のシティスケープレストランはディナーの時間こそ既にラストオーダーを締め切っていたが、ドリンクは未だ営業時間内。
泊まり客のみならずレストランを利用する客も行き来する入り口にタクシーが止まり、また新たな客が訪れた。
すかさず出迎えに出たベルボーイの表情が一瞬固まる……ホテルマンの意地と良識を発揮してあくまで笑顔で。
「……いらっしゃいませ」
まず出てきたのは金髪の少年と黒髪の少年が2人。微妙に疲れてはいるが表情は明るい。足が砂だらけでこの寒い中海岸でも散歩してきたのか、潮の香りがした。
最後に背の高いハンサムな男がさっそうと降りて来た。身につけた濃いブルーグレーのウールのスーツは少しばかり皺がよってはいるものの高級品。
コートはどうしたのかと思ったら腕に抱えていた。内側にすっぽりと、小柄な黒髪の女性を包み込んで。
前を歩く少年たちも、抱えている当人も、さもそれが当然のことなのだと言わんばかりに悠然とロビーを横切り、エレベーターへと向かう。
居合わせた人々の視線が一斉に集中し、抱えられた女性がぺったりと顔をスーツの胸に伏せた。
風変わりな5人づれはほどなく降りて来たエレベーターに乗り込み、人々の視界から姿を消す。伝統あるホテルのロビーの時間が再び流れだすまでにわずかな『間』があった。
エレベーターの扉が閉まるとヨーコはやっとぽそぽそと小さな声を出すことができた。
「カ、カル……も、大丈夫だから……じ、自分で歩けるから」
「じっとして、ヨーコ。バランスを崩すと危ないよ」
「う……うん」
最初はコートを羽織らせただけだった。しかしランドールのコートは小柄なヨーコには長過ぎて、大奥のお女中よろしく長々とトレーン(裾)引いてしまったので、それならばと抱き上げて運んできた訳だ。
(ああああああ。すれ違う人の視線が……って言うかサクヤちゃんはともかく、風見もロイも何も言わないのがかえっていたたまれないよっ)
ちら、ちらと姫抱きに抱き上げられた先生の様子をうかがってはいるものの、教え子2人は必要以上に口を挟まない。
子どもの時ならいざ知らず、今の自分たちは先生をあんな風に軽々と運ぶ事はできない。ここはランドールさんに任せるのが一番いいんだ、と。
サクヤはヨーコのそばを離れるつもりはなかった。今は2人とも消耗しきっている。自分がこうして歩くことができるのは、おたがいに支え合ってどうにか持ちこたえているからだ。
離れたらその瞬間、そろって意識を失ってしまうかもしれない。
エレベーターを降りて廊下を通り、部屋に戻る。22日の夜以来、ほぼ24時間ぶりの帰還だった。
「ふわ……」
「やっぱ寒いな……エアコンつけよう」
ランドールは迷わずバスルームに歩いて行き、ドアの手前でようやくヨーコの体を降ろした。
「すぐ、シャワーを浴びるんだ。いいね?」
「……OK」
こくん、とうなずく黒髪をかきわけ、額にキスして送り出す。相変わらず裾をひきずっているが、この距離なら大丈夫だろう。すぐ脱ぐだろうし……おっと。
慌ててドアを閉めてリビングに引き返した。
「あ、ランドールさん」
居間にはサクヤだけが座っていた。高校生2人は寝室に引き上げたらしい。
2人とも不眠不休の大活躍だったしな……小さな子どもを3人もかかえて慣れない土地で大変だったろう。
「大丈夫かい、サリー。君も疲れているようだね」
「ええ……正直、ちょっと動くのがつらいです。今夜はここに泊まってっちゃおうかな」
「その方がよさそうだね。確か、そこのソファがサブベッドになるはずだ」
かちっとボタンを押して背もたれを倒す。
「ほんとだ。何でソファが二つもあるのか不思議だったんだ」
「毛布と枕をとってこよう。ベッドルームに予備があるはずだ」
ヨーコの使っている部屋から枕と毛布をとってくると、サリーはクッションを抱えてすやすやと寝息を立てていた。毛布をかけて、灯りを落とす。
「……おやすみ」
しまった、コートを彼女に着せたままだった。
財布も車の鍵も全部ポケットの中だ……今、バスルームに入るなどもっての他。これでは帰るに帰れない。
しかたない、しばらく待とう。
ならば、その間にしておきたいことがある。
寝室に移動する。やはり、寒い。
シーツは清潔でさらさらしているが手で触れるとひやりとした。エアコンのスイッチを入れたが、果たして彼女が上がってくるまでにどれほどの効果があるだろう。
電気毛布でもあればいいのだが……何か温かいものはないだろうか。
ああ、そうだ。
※ ※ ※ ※
寝室に引き上げると、風見光一はさっさと服を脱ぎ始めた。ジャケットを脱いで、その下のフリースも、シャツも、Tシャツも。さらにはジーンズまでそりゃもうさっさと潔く。
あっと言う間に靴下まで脱いで、裏返して砂を払っている。
「あー、やっぱり、こんなとこまで砂だらけだよ……」
「こ、コウイチっ?」
2秒ほど硬直してから、ロイはあわてて顔をそらした。
「いや、さすがにこの格好のまま寝る訳には行かないだろ?」
そう言いつつもうほとんど脱いでるし!
「寝るの優先にして風呂は明日入るとしても、せめて着替えだけでも」
「そ、ソウダネ」
「ロイも早く着替えろよ。じゃしじゃしして気持ち悪いだろ?」
「ソ、ソウダネ」
部屋のすみっこでニンジュツで鍛えた瞬発力を惜しみなく発揮し、高速で着替える。そんなロイの姿を見て風見は思った。
相変わらずシャイな奴だな、と。
「あ、パンツだけでもかえとくかなー」
ぱんつ!
わずか三音節の単語がロイの思春期の頭脳を灼き尽くす。
(ど、ど、ど、どうしよう。ボクはいったい、どうすればーっっ!)
悪魔がささやく。
振り返れ、と。同じ部屋で着替えている以上、ちらっと見てしまってもそれは不可抗力であって決して意図的なノゾキではない。自然な成り行きなのだ。
さあ、勇気を出せ、ロイ・アーバンシュタイン(それは勇気か?)
振り向くのだ。(いいのか?)
さあ。
さあ。
さあ、さあ、さあ、さあ!
コイトタワーから飛び降りる覚悟で振り向いたロイの目に写ったものは!
さっさとパジャマに着替えていた風見光一の姿だった。
(ああ………)
たくさんほっとして、ちょっぴりがっかり。
(いいんだ……これでいいんだ……)
「夜明けまでちょっと仮眠とっとかないとなーさすがにもたないよ」
そんなロイの心の葛藤などしる由もなく、風見はダブルベッドにころんっと横になっている。
「ソ、ソウダネ」
さっきからこの一言しか口に出してない。
「ロイもほら、早く寝ないとだめだぞー」
ちらっと横目で見る。自分の隣をぽんぽんと叩いていた。
「え、いや、でも」
伏し目がちになり、新婚さんよろしくもじもじしていると、そこはかとなくさみしそうな声で言われた。
「やっぱり一人の方が落ち着く……か? だったら俺、リビング行くから……わ」
ニンジャの運動能力を駆使してベッドの横にぴゅんっと高速移動。
「失礼シマス」
「礼儀正しいなあ……はい、どうぞ」
くすくす笑うコウイチの隣に潜り込む。そーっと、そーっと、熱めの風呂に入る時のようにゆっくりと。
そして、灯りを消した。
「懐かしいな。ちっちゃい頃はさー、よく一緒に寝たよな……」
「ソ、ソウダネ」
広い、広い、キングサイズのダブルベッド。とりあえず一緒に入ったものの、寝姿を直視するにしのびず、どうしても背を向けてしまう。
「ほんと…………やっと安心したよ………ずーっと気が張ってて……どうしたらいいか、わかんなくて……」
「コウイチ……もう大丈夫だよ。大丈夫だから」
「うん…………ありがとな、ロイ。お前がいてくれて、ほんっとによかった」
「う、うん」
すやすやと穏やかな寝息が聞こえてくる。疲れてたんだろうな。
そろり、と勇気を振り絞って寝返りを打ってみる。
「っっ!」
至近距離にコウイチの寝顔があった。
不覚。
ニンジャたるもの、この気配に気づかなかったとは!
腕も足も投げ出して仰向けに眠っている。
すべすべとした頬がすぐそばに。きりっと通った鼻筋、そして、形のよい唇。
なまじ夜目がきくだけに、無防備この上ない寝姿の全てがくっきりはっきり網膜に焼き付いてしまった。
ほっぺやでこに挨拶程度のキスならじゃれあうついでにしょっちゅうやっている。だが、唇はまだ未知の領域だ。
コウイチはよく眠っている。
再び悪魔がささやいた。
この状況でなら、寝返りついでに触れたと言い訳もできる。
どうする。
チャレンジしてみるか?
不幸にして生着替えは見逃したが………
暗闇は人を大胆にする。ロイが沈黙のうちに境界線を越えようとしたまさにその瞬間。
「んー……」
ころん、と風見が寝返りをうち、転がり込んできた。
横向きに寝ていたロイの腕の中にジャストイン。あまつさえこてん、ともたれかかってきたではないか。
「!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
確かな重さと温もり。そしてストライプのパジャマの襟元からちらりとのぞく鎖骨。
限界だった。
その瞬間、ロイの中で超新星が弾け、理性も情熱も思考も何もかも真っ白に焼き付くし…………暗黒に飲み込まれていった。
※ ※ ※ ※
熱いシャワーを浴びて、肌や髪にこびりついていた塩を洗い流す。お湯が触れた瞬間、ほんの少しひりひりした。本当はバスタブにじっくり浸かりたいところだけど、今それをやったら確実に風呂の中で、寝る。
と言うか、落ちる。
(あー……だめ、今にも、寝そう)
これでもサクヤちゃんが付き添ってくれてたからここまでもったんだろうな……。自分も疲れてるだろうに。
アメリカのドライヤーはハイパワーかつ大型で、すぐに髪の湿気が飛んだ。あまりかけているとパサつきそうなので早々に切り上げる。バスローブを羽織り、黒いコートを手にした。
うーん、やっぱり大きいよ。
これじゃ引きずりもする。
抱え上げられた時の記憶がよみがえり、あわてて鏡から目を避けた。だめ、いかに眼鏡無しとは言え今、この瞬間、自分の顔を直視する自信がない。
ひたひたとリビングに向かう。
「カルー………あれ?」
ソファベッドの上でサクヤがすやすやと眠っていた。
毛布を整え、頭をなでる。
「おやすみ、サクヤちゃん」
ランドールの姿はどこにもない。
帰っちゃったのかな。コート、置いたままなのに。
ほてほてと歩いて風見とロイの部屋まで行く。ドアの前で耳をすませる……どうやら眠っているようだ。
「おつかれさん」
ドア越しに投げキッス一つ。足音を忍ばせて自分の寝室に戻った。
クローゼットを開けて空いたハンガーを取り出す。コートをかけて、形をととのえ、備え付けのブラシで砂を払った。
湿気を吸ってるから中に戻すのはまずい。
んしょっとのびあがり、ハンガーを開け放したクローゼットのドアの上端に引っ掛けようとしたが、届かない。
椅子をひっぱってきて踏み台にして………よし。
やっぱり大人の体は便利だ。ある程度のレベルまでは自分で解決できるもの。
するりとバスローブを肩から落とし、パジャマの上着を羽織る。大きめのを愛用しているから、膝のあたりまで余裕で届く。乾いた布につつまれて、ほう……と息を吐いた。
クローゼットにずらりと並ぶドレスに目を向ける。
こんなにいっぱい、しかも自分にぴったりな服をどこから見つけてきたのだろう? どんな顔して選んだのだろう?
おやすみぐらい、言いたかったな……黙って帰らなくってもいいのに。
ベッドによじのぼると、枕のところにウサギのぬいぐるみが置かれていた。
ロイの祖父から送られてきたものだ。中に拳銃をしのばせて。
(だれだぁ? こんなものここに置いたのは)
首をかしげてシーツの合間にもぐりこむ。覚悟していた冷気は伝わってこなかった。
その代わりにもわっと自分以外の生き物の温もりに包まれる。
あったかい……。
にゅっと腕の間にふかふかの毛皮をまとった長い鼻面が突き出される。
「カル?」
布団の中でわさわさと長い丈夫な尻尾が揺れ動く。あっためてくれたんだ。
「ったく、木下藤吉郎じゃないんだから」
「わふ?」
首をかしげてる。ネイビーブルーの瞳にとまどいの色がにじんでいる。
「……いいの、こっちのこと……」
腕を伸ばして太い、頑丈な首に回して抱き寄せた。ふかふかした毛皮に顔をうずめる。
「ああ……あったかいなぁ」
「うぅ」
わずかに後じさろうとする気配がした。もう自分の役割は果たしたと言わんばかりに。
今にも溶け落ちそうな意識をふるいおこしてすがりつき、耳もとにささやく。
「行かないで………一人にしないで………今、一人で眠ったら……」
熱のない月の光。彩のない銀の影。振り返りたくない禁じられた記憶。
「こわい夢を見てしまう、きっと。だから…………」
声が震える。こまった。あなたといると涙が押さえられない。泣き虫になってしまうよ。どうしよう。
「お願い、カルヴィン……」
温かいベッドの中、夢と現の狭間を漂いながらか細い声を聞いた。その瞬間、ランドールは思った。
ただ、彼女を抱きしめたいと。不器用な前足ではなく両腕でしっかりと。
「……ありがとう……」
何てすべすべして、なめらかで、華奢なのだろう。肩も、背中も、腕も丸みがあって。骨格そのものからして自分とはまるでつくりが違うのか。
それに……いいにおいがする。ボディソープでもない。香水ともちょっと違う。ほんのりとかすかに、柔らかく。温もりとともにたちのぼり、嗅ぐほどに安らぎに満たされる。
わずかに湿り気の残る髪に顔をうずめた。
ああ、そうか。
これは『君』の香りだ。君自身が生み出し、その身にまとう天性の香りなのだね……………。
※ ※ ※ ※
翌朝。
爽やかに目覚めた風見光一は、隣に眠るロイを起こさぬようそっと抜け出し、リビングに向かった。
「あれ?」
ソファの上でだれかがすやすや眠ってる。一瞬、先生がこんなとこで? と思ったけれど、よく見るとサクヤさんだった。
ほんと、そっくりだな。ちっちゃい頃の2人を見てしまったから余計に。
ふと見るとテーブルの上に赤い眼鏡が置かれていた。
ヨーコ先生のだ。
置き忘れちゃったんだな。ないと困るだろう。そっと手のひらですくいあげ、先生の部屋へ向かう。
ドアは開いていた。
不用心なんだか、信頼されてるんだか。遠慮しながらもそっと中を伺う。
おかしい、クローゼットが開けっ放しだ!
思わず一歩中に踏み込み、凍り付いた。
「え」
ベッドの中ですやすやと、幸せそうに抱き合って眠ってる人たちがいた。そりゃあもう天使のように健やかに、満ち足りた笑みを浮かべて。
※写真はイメージです
stitch by Kasuri
「…??!!」
頭の中で猛烈な勢いで心の声が飛び交っているのに、現実には声が出ない。ただ、ぱくぱくと口を動かすだけ。
(どうする、ここはやはり、サクヤさんとロイも起こすか? あー、でも、ヨーコ先生のこんなシーン見たら……)
サクヤさんはともかく、ロイが暴れる。
色んな考えが浮かんでは消え、浮かんでは消える。どうしよう、今のうちにヨーコ先生だけサクヤさんの隣に移動させちゃおうか?
せめて、ベッドの中でも離しておいた方がいいじゃないか?
一歩も動けないまま、とりあえず手を伸ばしてみて、はたと動きが止まる。
(いや、しかし………ヨーコ先生もランドールさんもいい大人なんだし……それに……)
そろーっと指の間からベッドに眠る2人を伺う。
幸せそうな寝顔だ。
とてもじゃないけど、引き離すなんてできない。このままにしておこう。
(良い夢を……2人とも)
そろりそろりと部屋を出て、静かに静かにドアを閉めた。
次へ→ベッドメイキング
じきにクリスマスイブが始まろうと言うこの時刻に至っても、ヒルトン・サンフランシスコのロビーを行き交う人の数は一向に減る兆しを見せない。最上階のシティスケープレストランはディナーの時間こそ既にラストオーダーを締め切っていたが、ドリンクは未だ営業時間内。
泊まり客のみならずレストランを利用する客も行き来する入り口にタクシーが止まり、また新たな客が訪れた。
すかさず出迎えに出たベルボーイの表情が一瞬固まる……ホテルマンの意地と良識を発揮してあくまで笑顔で。
「……いらっしゃいませ」
まず出てきたのは金髪の少年と黒髪の少年が2人。微妙に疲れてはいるが表情は明るい。足が砂だらけでこの寒い中海岸でも散歩してきたのか、潮の香りがした。
最後に背の高いハンサムな男がさっそうと降りて来た。身につけた濃いブルーグレーのウールのスーツは少しばかり皺がよってはいるものの高級品。
コートはどうしたのかと思ったら腕に抱えていた。内側にすっぽりと、小柄な黒髪の女性を包み込んで。
前を歩く少年たちも、抱えている当人も、さもそれが当然のことなのだと言わんばかりに悠然とロビーを横切り、エレベーターへと向かう。
居合わせた人々の視線が一斉に集中し、抱えられた女性がぺったりと顔をスーツの胸に伏せた。
風変わりな5人づれはほどなく降りて来たエレベーターに乗り込み、人々の視界から姿を消す。伝統あるホテルのロビーの時間が再び流れだすまでにわずかな『間』があった。
エレベーターの扉が閉まるとヨーコはやっとぽそぽそと小さな声を出すことができた。
「カ、カル……も、大丈夫だから……じ、自分で歩けるから」
「じっとして、ヨーコ。バランスを崩すと危ないよ」
「う……うん」
最初はコートを羽織らせただけだった。しかしランドールのコートは小柄なヨーコには長過ぎて、大奥のお女中よろしく長々とトレーン(裾)引いてしまったので、それならばと抱き上げて運んできた訳だ。
(ああああああ。すれ違う人の視線が……って言うかサクヤちゃんはともかく、風見もロイも何も言わないのがかえっていたたまれないよっ)
ちら、ちらと姫抱きに抱き上げられた先生の様子をうかがってはいるものの、教え子2人は必要以上に口を挟まない。
子どもの時ならいざ知らず、今の自分たちは先生をあんな風に軽々と運ぶ事はできない。ここはランドールさんに任せるのが一番いいんだ、と。
サクヤはヨーコのそばを離れるつもりはなかった。今は2人とも消耗しきっている。自分がこうして歩くことができるのは、おたがいに支え合ってどうにか持ちこたえているからだ。
離れたらその瞬間、そろって意識を失ってしまうかもしれない。
エレベーターを降りて廊下を通り、部屋に戻る。22日の夜以来、ほぼ24時間ぶりの帰還だった。
「ふわ……」
「やっぱ寒いな……エアコンつけよう」
ランドールは迷わずバスルームに歩いて行き、ドアの手前でようやくヨーコの体を降ろした。
「すぐ、シャワーを浴びるんだ。いいね?」
「……OK」
こくん、とうなずく黒髪をかきわけ、額にキスして送り出す。相変わらず裾をひきずっているが、この距離なら大丈夫だろう。すぐ脱ぐだろうし……おっと。
慌ててドアを閉めてリビングに引き返した。
「あ、ランドールさん」
居間にはサクヤだけが座っていた。高校生2人は寝室に引き上げたらしい。
2人とも不眠不休の大活躍だったしな……小さな子どもを3人もかかえて慣れない土地で大変だったろう。
「大丈夫かい、サリー。君も疲れているようだね」
「ええ……正直、ちょっと動くのがつらいです。今夜はここに泊まってっちゃおうかな」
「その方がよさそうだね。確か、そこのソファがサブベッドになるはずだ」
かちっとボタンを押して背もたれを倒す。
「ほんとだ。何でソファが二つもあるのか不思議だったんだ」
「毛布と枕をとってこよう。ベッドルームに予備があるはずだ」
ヨーコの使っている部屋から枕と毛布をとってくると、サリーはクッションを抱えてすやすやと寝息を立てていた。毛布をかけて、灯りを落とす。
「……おやすみ」
しまった、コートを彼女に着せたままだった。
財布も車の鍵も全部ポケットの中だ……今、バスルームに入るなどもっての他。これでは帰るに帰れない。
しかたない、しばらく待とう。
ならば、その間にしておきたいことがある。
寝室に移動する。やはり、寒い。
シーツは清潔でさらさらしているが手で触れるとひやりとした。エアコンのスイッチを入れたが、果たして彼女が上がってくるまでにどれほどの効果があるだろう。
電気毛布でもあればいいのだが……何か温かいものはないだろうか。
ああ、そうだ。
※ ※ ※ ※
寝室に引き上げると、風見光一はさっさと服を脱ぎ始めた。ジャケットを脱いで、その下のフリースも、シャツも、Tシャツも。さらにはジーンズまでそりゃもうさっさと潔く。
あっと言う間に靴下まで脱いで、裏返して砂を払っている。
「あー、やっぱり、こんなとこまで砂だらけだよ……」
「こ、コウイチっ?」
2秒ほど硬直してから、ロイはあわてて顔をそらした。
「いや、さすがにこの格好のまま寝る訳には行かないだろ?」
そう言いつつもうほとんど脱いでるし!
「寝るの優先にして風呂は明日入るとしても、せめて着替えだけでも」
「そ、ソウダネ」
「ロイも早く着替えろよ。じゃしじゃしして気持ち悪いだろ?」
「ソ、ソウダネ」
部屋のすみっこでニンジュツで鍛えた瞬発力を惜しみなく発揮し、高速で着替える。そんなロイの姿を見て風見は思った。
相変わらずシャイな奴だな、と。
「あ、パンツだけでもかえとくかなー」
ぱんつ!
わずか三音節の単語がロイの思春期の頭脳を灼き尽くす。
(ど、ど、ど、どうしよう。ボクはいったい、どうすればーっっ!)
悪魔がささやく。
振り返れ、と。同じ部屋で着替えている以上、ちらっと見てしまってもそれは不可抗力であって決して意図的なノゾキではない。自然な成り行きなのだ。
さあ、勇気を出せ、ロイ・アーバンシュタイン(それは勇気か?)
振り向くのだ。(いいのか?)
さあ。
さあ。
さあ、さあ、さあ、さあ!
コイトタワーから飛び降りる覚悟で振り向いたロイの目に写ったものは!
さっさとパジャマに着替えていた風見光一の姿だった。
(ああ………)
たくさんほっとして、ちょっぴりがっかり。
(いいんだ……これでいいんだ……)
「夜明けまでちょっと仮眠とっとかないとなーさすがにもたないよ」
そんなロイの心の葛藤などしる由もなく、風見はダブルベッドにころんっと横になっている。
「ソ、ソウダネ」
さっきからこの一言しか口に出してない。
「ロイもほら、早く寝ないとだめだぞー」
ちらっと横目で見る。自分の隣をぽんぽんと叩いていた。
「え、いや、でも」
伏し目がちになり、新婚さんよろしくもじもじしていると、そこはかとなくさみしそうな声で言われた。
「やっぱり一人の方が落ち着く……か? だったら俺、リビング行くから……わ」
ニンジャの運動能力を駆使してベッドの横にぴゅんっと高速移動。
「失礼シマス」
「礼儀正しいなあ……はい、どうぞ」
くすくす笑うコウイチの隣に潜り込む。そーっと、そーっと、熱めの風呂に入る時のようにゆっくりと。
そして、灯りを消した。
「懐かしいな。ちっちゃい頃はさー、よく一緒に寝たよな……」
「ソ、ソウダネ」
広い、広い、キングサイズのダブルベッド。とりあえず一緒に入ったものの、寝姿を直視するにしのびず、どうしても背を向けてしまう。
「ほんと…………やっと安心したよ………ずーっと気が張ってて……どうしたらいいか、わかんなくて……」
「コウイチ……もう大丈夫だよ。大丈夫だから」
「うん…………ありがとな、ロイ。お前がいてくれて、ほんっとによかった」
「う、うん」
すやすやと穏やかな寝息が聞こえてくる。疲れてたんだろうな。
そろり、と勇気を振り絞って寝返りを打ってみる。
「っっ!」
至近距離にコウイチの寝顔があった。
不覚。
ニンジャたるもの、この気配に気づかなかったとは!
腕も足も投げ出して仰向けに眠っている。
すべすべとした頬がすぐそばに。きりっと通った鼻筋、そして、形のよい唇。
なまじ夜目がきくだけに、無防備この上ない寝姿の全てがくっきりはっきり網膜に焼き付いてしまった。
ほっぺやでこに挨拶程度のキスならじゃれあうついでにしょっちゅうやっている。だが、唇はまだ未知の領域だ。
コウイチはよく眠っている。
再び悪魔がささやいた。
この状況でなら、寝返りついでに触れたと言い訳もできる。
どうする。
チャレンジしてみるか?
不幸にして生着替えは見逃したが………
暗闇は人を大胆にする。ロイが沈黙のうちに境界線を越えようとしたまさにその瞬間。
「んー……」
ころん、と風見が寝返りをうち、転がり込んできた。
横向きに寝ていたロイの腕の中にジャストイン。あまつさえこてん、ともたれかかってきたではないか。
「!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
確かな重さと温もり。そしてストライプのパジャマの襟元からちらりとのぞく鎖骨。
限界だった。
その瞬間、ロイの中で超新星が弾け、理性も情熱も思考も何もかも真っ白に焼き付くし…………暗黒に飲み込まれていった。
※ ※ ※ ※
熱いシャワーを浴びて、肌や髪にこびりついていた塩を洗い流す。お湯が触れた瞬間、ほんの少しひりひりした。本当はバスタブにじっくり浸かりたいところだけど、今それをやったら確実に風呂の中で、寝る。
と言うか、落ちる。
(あー……だめ、今にも、寝そう)
これでもサクヤちゃんが付き添ってくれてたからここまでもったんだろうな……。自分も疲れてるだろうに。
アメリカのドライヤーはハイパワーかつ大型で、すぐに髪の湿気が飛んだ。あまりかけているとパサつきそうなので早々に切り上げる。バスローブを羽織り、黒いコートを手にした。
うーん、やっぱり大きいよ。
これじゃ引きずりもする。
抱え上げられた時の記憶がよみがえり、あわてて鏡から目を避けた。だめ、いかに眼鏡無しとは言え今、この瞬間、自分の顔を直視する自信がない。
ひたひたとリビングに向かう。
「カルー………あれ?」
ソファベッドの上でサクヤがすやすやと眠っていた。
毛布を整え、頭をなでる。
「おやすみ、サクヤちゃん」
ランドールの姿はどこにもない。
帰っちゃったのかな。コート、置いたままなのに。
ほてほてと歩いて風見とロイの部屋まで行く。ドアの前で耳をすませる……どうやら眠っているようだ。
「おつかれさん」
ドア越しに投げキッス一つ。足音を忍ばせて自分の寝室に戻った。
クローゼットを開けて空いたハンガーを取り出す。コートをかけて、形をととのえ、備え付けのブラシで砂を払った。
湿気を吸ってるから中に戻すのはまずい。
んしょっとのびあがり、ハンガーを開け放したクローゼットのドアの上端に引っ掛けようとしたが、届かない。
椅子をひっぱってきて踏み台にして………よし。
やっぱり大人の体は便利だ。ある程度のレベルまでは自分で解決できるもの。
するりとバスローブを肩から落とし、パジャマの上着を羽織る。大きめのを愛用しているから、膝のあたりまで余裕で届く。乾いた布につつまれて、ほう……と息を吐いた。
クローゼットにずらりと並ぶドレスに目を向ける。
こんなにいっぱい、しかも自分にぴったりな服をどこから見つけてきたのだろう? どんな顔して選んだのだろう?
おやすみぐらい、言いたかったな……黙って帰らなくってもいいのに。
ベッドによじのぼると、枕のところにウサギのぬいぐるみが置かれていた。
ロイの祖父から送られてきたものだ。中に拳銃をしのばせて。
(だれだぁ? こんなものここに置いたのは)
首をかしげてシーツの合間にもぐりこむ。覚悟していた冷気は伝わってこなかった。
その代わりにもわっと自分以外の生き物の温もりに包まれる。
あったかい……。
にゅっと腕の間にふかふかの毛皮をまとった長い鼻面が突き出される。
「カル?」
布団の中でわさわさと長い丈夫な尻尾が揺れ動く。あっためてくれたんだ。
「ったく、木下藤吉郎じゃないんだから」
「わふ?」
首をかしげてる。ネイビーブルーの瞳にとまどいの色がにじんでいる。
「……いいの、こっちのこと……」
腕を伸ばして太い、頑丈な首に回して抱き寄せた。ふかふかした毛皮に顔をうずめる。
「ああ……あったかいなぁ」
「うぅ」
わずかに後じさろうとする気配がした。もう自分の役割は果たしたと言わんばかりに。
今にも溶け落ちそうな意識をふるいおこしてすがりつき、耳もとにささやく。
「行かないで………一人にしないで………今、一人で眠ったら……」
熱のない月の光。彩のない銀の影。振り返りたくない禁じられた記憶。
「こわい夢を見てしまう、きっと。だから…………」
声が震える。こまった。あなたといると涙が押さえられない。泣き虫になってしまうよ。どうしよう。
「お願い、カルヴィン……」
温かいベッドの中、夢と現の狭間を漂いながらか細い声を聞いた。その瞬間、ランドールは思った。
ただ、彼女を抱きしめたいと。不器用な前足ではなく両腕でしっかりと。
「……ありがとう……」
何てすべすべして、なめらかで、華奢なのだろう。肩も、背中も、腕も丸みがあって。骨格そのものからして自分とはまるでつくりが違うのか。
それに……いいにおいがする。ボディソープでもない。香水ともちょっと違う。ほんのりとかすかに、柔らかく。温もりとともにたちのぼり、嗅ぐほどに安らぎに満たされる。
わずかに湿り気の残る髪に顔をうずめた。
ああ、そうか。
これは『君』の香りだ。君自身が生み出し、その身にまとう天性の香りなのだね……………。
※ ※ ※ ※
翌朝。
爽やかに目覚めた風見光一は、隣に眠るロイを起こさぬようそっと抜け出し、リビングに向かった。
「あれ?」
ソファの上でだれかがすやすや眠ってる。一瞬、先生がこんなとこで? と思ったけれど、よく見るとサクヤさんだった。
ほんと、そっくりだな。ちっちゃい頃の2人を見てしまったから余計に。
ふと見るとテーブルの上に赤い眼鏡が置かれていた。
ヨーコ先生のだ。
置き忘れちゃったんだな。ないと困るだろう。そっと手のひらですくいあげ、先生の部屋へ向かう。
ドアは開いていた。
不用心なんだか、信頼されてるんだか。遠慮しながらもそっと中を伺う。
おかしい、クローゼットが開けっ放しだ!
思わず一歩中に踏み込み、凍り付いた。
「え」
ベッドの中ですやすやと、幸せそうに抱き合って眠ってる人たちがいた。そりゃあもう天使のように健やかに、満ち足りた笑みを浮かべて。
※写真はイメージです
stitch by Kasuri
「…??!!」
頭の中で猛烈な勢いで心の声が飛び交っているのに、現実には声が出ない。ただ、ぱくぱくと口を動かすだけ。
(どうする、ここはやはり、サクヤさんとロイも起こすか? あー、でも、ヨーコ先生のこんなシーン見たら……)
サクヤさんはともかく、ロイが暴れる。
色んな考えが浮かんでは消え、浮かんでは消える。どうしよう、今のうちにヨーコ先生だけサクヤさんの隣に移動させちゃおうか?
せめて、ベッドの中でも離しておいた方がいいじゃないか?
一歩も動けないまま、とりあえず手を伸ばしてみて、はたと動きが止まる。
(いや、しかし………ヨーコ先生もランドールさんもいい大人なんだし……それに……)
そろーっと指の間からベッドに眠る2人を伺う。
幸せそうな寝顔だ。
とてもじゃないけど、引き離すなんてできない。このままにしておこう。
(良い夢を……2人とも)
そろりそろりと部屋を出て、静かに静かにドアを閉めた。
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