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ローゼンベルク家の食卓

戦う本屋さん

2009/02/03 19:21 番外十海
 カツ、コツ、カツ、コツ、カツ、コツ、カツ……。

 蹄の音が追って来る。
 蹴られた足が疼く。

 はあっ、は、はぁっ、はっ、はっ、はっ……。

 自分の吐く息の音がやけに耳に響く。もう息があがってきたのか……日頃の運動不足がたたったか。だが悔いてる暇はない。今はただ、走れ。

 教会の周囲に空白地帯があった。その一角は近代的なアパートが立ち並び、住んでいるのは一人暮らしの若者がほとんど。この季節は見事に留守ぞろい、クリスマスイルミネーションも飾られてはいない。
 さしかかった途端、腕の中でリズが「ふぅう……」と押し殺したうなりを上げ、ほぼ同時に背後から蹄の音が聞こえてきた。
 
 妙だ。
 目に見えるものが、何もかも薄紙を一枚挟んだように色あせて立体感を失い、くしゃりと歪んで見える。すぐそこの表通りを走っているはずの車の音が聞こえないのはどう言う訳だ?
 ともすれば悪夢の中に迷い込んだような錯覚に飲み込まれそうになるが、腕の中のサクラとリズの温もりが教えてくれる。
 これは確かに現実なのだ、と。

 足音が近づいて来る。だが、教会もまた近い。
 サクラの手がコートの胸元をつかむ。小さく息を飲むのが伝わってきた。あの女を見たのだ。

「大……丈夫……」
「はい」

 本当に大丈夫なのかどうか、自分でもわからない。この子も薄々気づいているはずだ……それなのに。
 健気な言葉に、枯れたと思った力がまた湧いてくる。
 守りたい。
 守らなければ。

 歯を食いしばり、エドワーズは走った。
 教会の門を潜り、芝生の中、まっすぐ伸びる石畳の通路を走る。子どもの頃から日曜ごとに通い慣れた道筋を、これほど長く感じたことはない。

 門の手前で蹄の音が躊躇する。ほんの少しだけ。選択は正しかった。やはり聖域は苦手なのだ。
 一気に入り口の階段を駆け上がる。聖堂の扉はいつも開いていた。

 玄関ホールに入ると震える手でエドワーズはサクラを下に降ろした。不安に濡れる黒い瞳。まるで磨かれた黒曜石のようだ。
 こんなに切羽詰まった(そして現実離れした)状況の中でも、美しいと思った。こみ上げる愛おしさがひたひたと胸を打つ。

「……走れますね? 振り向かないで。祭壇の後ろに隠れていなさい」
「はい」

 寒さと緊張でこわばった頬に笑みが浮かぶ。それは豪快な勇者の笑みにはほど遠く、店の中で彼が時折見せる、おだやかな微笑みよりほんの少し固かったけれど。
 サクヤには何よりも安心できる笑顔だった。

「リズをお願いします」

 小さな腕に愛猫を抱かせ、そっと背中を押して送り出した。
 開け放たれた両開きの扉を抜け、サクラが礼拝堂の中に走って行くのを見届けると、エドワーズは入り口の脇に置いてあった燭台を手にとった。
 大人の背丈ほどの長さの燭台は十分な重さがあり、武器として使えそうだ。バランスもいい。警棒の扱いは警察学校でも得意な科目だった。

 ほぼ同時に外に通じる扉がばんっと乱暴に蹴り開けられる。

「来たな」

 エドワーズは礼拝堂の扉を背に身構えた。

「これが最後のお願いよ。あの子を渡して……エドワーズさん」
「お断りします」
「だったら………」

 ざわざわと女の髪が広がり瞳が金色に輝く。額にそそり立つ二本の突起は、もはや髪の毛とは見間違えようがなかった。
 あれは、角だ。
 ねじれて弧を描く、山羊の角。

「お前の心臓をもらうよ!」

 赤い衣をひらめかせ、山羊の角、山羊の足、山羊の瞳の魔女が襲ってきた。
 だが動きが大振りで、無駄が多い。油断しているのだ。たかだか本屋、引き裂くのは容易いと。エドワーズは冷静に燭台を構え、突進してくる魔女に向かって強烈な突きを見舞った。
 金属が肉を打つ鈍い音が響く。皮肉なことに魔女自身の勢いがエドワーズの一撃をさらに強めていた。

「ぐぇっ、こ、このっ、古本屋風情がっ」

 魔女が腹を抱えてあとじさる。
 手応え有り。こいつは現実の武器で渡り合える相手なのだ。店の中で見せたあの厄介な力も教会の中では弱まるらしい。
 だが、まだ立っている。並の人間なら骨が折れ、倒れていてもおかしくない打撃を受けているにも関わらず。

 べっと血の混じった唾を吐き捨てると、魔女はガチガチと歯を鳴らした。右手のかぎ爪が伸びて、ねじれて腕そのものと融合し、いびつな形の刃物を形成して行く。三日月の刃、さながら死神の大鎌。

「ケーッ!」

 甲高い声で叫ぶと魔女は右手の大鎌を振り上げ、飛びかかって来る。もうさっきまでのような大雑把な動きではない。俊敏にして冷徹、獲物を狙う狩人の動き。かろうじて受け止めたが切っ先が頬をかすめる。
 堅い刃物のくせに妙に生暖かい……こいつは確かに生き物の一部なのだ。
 
 09129_1133_Ed.JPG ※月梨さん画「戦う本屋さん」
 

「くっ」
「少しは楽しませてくれるわよね? エドワーズさん」

 獣の息が頬を撫でる。
 乱杭の歯をのぞかせて、至近距離で女がにたりと笑った。 
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 サクヤは走った。子どもの体、子どもの足では思うほどの半分の速度も出せない。両脇に並ぶ木製のベンチはまるでそそり立つ壁。どこまで行ってもきりがない。
 腕に抱いたリズのしなやかさ、温かさにすがりつき、必死で足を前に運ぶ。

 祭壇へ。
 祭壇へ……。

「にう」
「うん……もうちょっと」

 膝がかくかく震える。足がもつれる。よろめきながら祭壇前のわずかな段差をよじ上り、後ろに回り込んだその時だ。
 がつっと、金属と金属のぶつかる音がした。

「エドワーズさんっ」

 冷たい指でぎゅっと心臓を握りつぶされた気がした。
 魔女が大きな歪な刃を振りかざして切り掛かっている。エドワーズは懸命に燭台で受け流しているが、手や頬に切り傷ができていた。
 彼は元警察官だ。人間が相手なら取り押さえることもできたろう。だが、今の相手は異界の魔物、人の世の理の通じる相手ではない。

 このままじゃエドワーズさんが危ない。自分が何とかしなければ。あの魔女は神聖なものが苦手だ。何か、何か使えるものは! 
 祭壇の上には、杯に十字架、香炉、聖餅を収めた器……ミサに使うための神聖な道具が並んでいる。

(あれだ!)

 のびあがって手を伸ばす。が、届かない。

「リズ、お願い!」
「みゃっ」

 ほっそりした白と薄茶の体がしなり、祭壇の上に飛び上がる。リズはまず杯に狙いを定めた。前足で器用に倒し、転がして下に落とす。
 金色の杯が落ちて来る。サクヤは手を伸ばし、受け止めようとした。
 指先が杯に触れる。
 その瞬間。

「みぃっ?」

 リズは見ていた。その青い瞳で。
 小さな子どもの姿だった『サクラ』が淡い光に包まれ、大人の姿に。本来の23歳の『サリー先生』に戻る有様を……。

「……戻った」

 手のひらを握りしめた瞬間、鈍い音が響いた。

「ぐっ」

 はっと礼拝堂の入り口に目を向ける。エドワーズが床に組敷かれている。魔女は勝ち誇った顔でのしかかり、今にも大鎌を振り下ろそうとしていた。

(エドワーズさん!)

 すうっと息を吸い込む。ここは聖域。崇める神は違えども、礼拝堂に満ちる清らかな空気が力を貸してくれるはずだ。

(今度は俺があなたを……守ります)

 甲高い澄んだ音を立て、サクヤの周辺に青白い火花が散る。金属の十字架に、聖杯に、ステンドグラスの枠にぴりぴりと細かな光のラインが走る。

「神通神妙神力……加持奉る!」

 ぱしん、と両手を打ち合わせ、身の内に宿る全ての力を振り絞り、雷に変えて解き放った。

 その瞬間、礼拝堂はまばゆい閃光に満たされた。
 祭壇から扉に向かって一筋白い稲妻がほとばしり、天上近くの壁にしつらえられた天に通じる円形のステンドグラス……薔薇窓から目もくらむ光があふれだす。

 エドワーズの首を撥ねようと振りかぶった魔女は、サクヤの渾身の雷光を真っ正面から食らった。

「ぐぅええええぉあああああああっっっ」

 びょっくん、と背筋をのけぞらせ、衝撃で壁に叩き付けられる。エドワーズはよろりと起き上がり、燭台を構え……不規則に痙攣する魔女ののど元めがけ、貫き通せと繰り出した。

 がつ……ん。

 燭台の切っ先が壁に食い込み、金属の震える独特の音が耳に響き手を震わせる。
 魔女の姿は消えていた。
 まるでそこに存在したことすら夢だったように、あっけなく。

「え……?」

 車のブレーキ音。ざわざわと近づく人の足音、声。
 音が。
 色が、戻っていた。

「あ……サクラ!」

 壁に、椅子に手をつき、よろめく体を支えながら礼拝堂の中に歩み入る。白と薄茶のほっそりした猫が駆け寄って来た。瞳孔が開き、瞳がほとんど濃いネイビーブルーに塗りつぶされている。しなやかな長い尻尾がほんの少し、ぽわぽわに逆立っていた。

「リズ………あの子は?」
「にゃおう」
「そう……か……無事なんだね」

 きぃ……とドアのきしむ音がする。顔を上げると、眼鏡をかけた白髪の男性が立っていた。

「どうしたのですか、エドワード?」
「あ……神父様」
「にー」
「おや、リズも一緒でしたか……む」

 神父が顔をしかめる。

「怪我をしていますね、エドワード? 何があったのです」

 頬がちりちりと引き連れ、生暖かい雫がシャツに滴り落ちている。強烈な鉄サビの臭い……これは、汗ではない。やはりあれは現実だったのだ。

「それが……怪しい人物が侵入しようとしていて……泥棒かと思いまして」

 神父はぐるりと礼拝堂の中を見回し、次いで格闘の後の生々しく残る入り口に目をやった。

「どうやらそのようですね。ありがとう、エドワード。教会を守ってくれたのですね?」
「ええ……まあ……そんな所です」

 本当は、守りたかった人は別にいるのだけれど。

「あなたの勇気に感謝します。ですが、危ないことは、ほどほどに……もう警察官ではないのですから」
「はい、神父様」

 リズがおだやかな目をして足にすりよってくる。細長い尻尾をくるりと巻き付けて。
 それ故、わかるのだ。自分は、あの人を守り抜くことができたのだと。

「いらっしゃい。怪我の手当をしましょう……」
「はい、神父様」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 エドワーズとリズが神父とともに奥に入って行く。扉が閉まるのと入れ違いに、礼拝堂の椅子の下から小さな影がちょろちょろと走り出した。
 白と茶色と黒、三色の毛皮の小さな猫、尻尾はうさぎのように丸い。開け放たれた扉から外に飛び出し、集まってきた野次馬の足下をすり抜け外へ。
 この界隈、猫を飼っている家は少なくない。増して今は教会からまばゆい光の放たれた『奇跡』にだれもが夢中。たかだか小さな猫一匹に注意を払う者は一人もいやしない。
 今、まさにこの瞬間、音もなく一つの『奇跡』が進行していることに気づく者も。
 暗がりを走りながら猫の姿が変わって行く。金色の瞳はそのままに前足が宙に浮き、毛皮が羽毛へと変わる。

 すっかり細く、指の長くなった後足が地面を蹴る。
 白い柔らかな翼が広がり、フクロウが一羽。音も無く夜空に舞い上がり、一直線に飛んでゆく。
 自分がこれからどこに行けばいいのか、全て心得ているようだった。
 
次へ→ちび魔女VS角魔女
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