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ローゼンベルク家の食卓

ちび魔女VS角魔女

2009/02/03 19:22 番外十海
 
 禍々しい風に巻き上げられ、上も下も右も左も分からない鉛色の霞に閉じ込められた。手足をばたつかせて必死に逃げ出そうとしていると、ばちっと火花が散って、急にころりと放り出された。
 サンフランシスコの路上に。
 
 膝がすりむけ、着地の時にひねったのか足首がずきずき疼いた。ちょっとでも体重をかけると骨に、腱に響くシリアスな痛みが脳天に突き抜け、全身がすくみあがる。かろうじて悲鳴はかみ殺したが、目の縁ににじむ涙まではコントロールできなかった。

(大丈夫……これぐらい、すぐ治せる。だから)

 震える手を足首に当て、意識を集中する。
 痛くない。自分は平気。自分は泣かない。何度も言い聞かせているうちにぽうっと手のひらが熱くなり、『本当に』痛みが引いた。

 良かった、傷を癒す能力は残ってる。でも、妙に疲れる……。いつもはもっと整然と手順を踏んでいた。自分の中に眠る漠然とした力を目的に会わせて導くやり方を心得ていたはずなんだけど。
 息をするのと同じくらい自然に。
 
 いつもできるはずのことが今、できない。

「サクヤちゃん………風見……ロイ……」

 きりっと歯を食いしばる。一番呼びたかった名前に鍵をかけ、背筋を伸ばして立ち上がった。
 今、彼の名前を口にしたら、きっと涙がこぼれてしまう。
 だから、歩こう。
 目の前の道路に細い溝が走っている。どこまでもまっすぐに。ケーブルカーの線路だ。
 あのアパートにはケーブルカーに乗っていった。だから、これに沿って歩いて行けばいつかはたどり着けるはずだ。

 しかしながら実際に歩き始めるとなかなかに厄介だった。日本なら自分が一人でちょこまか歩いていようとだれも気にも留めまい。
 だがここはアメリカ。小さな子どもが危険な状況にいることを見過ごすことも罪となる。善意のみでは動かぬ者も、自らに火の粉が降り掛かるとなれば否応無く『市民の義務』を果たさざるを得ない。
 
「君、一人なの?」

 だれかに声をかけられるたびに「パパー」「ママー」と口走りながらちょこまかと人ごみに潜り込んだ。すると相手も『ああ、親がいるのだな』と勝手に納得してくれる。
 ほとぼりの冷めた頃を見計らってまた、ちょこまかと歩き出す。困った。これじゃあまりに能率が悪すぎる。魔女だけじゃなく、善意の市民の目も気にしなくちゃいけないなんて。
 思うように進めず焦りはじめた時、雑踏の中に彼を見つけた。

(ヒウェル!)

 その瞬間、ヨーコは決心していた。
 
 こいつに付き添いを頼もう。多少正体がばれた所でもともとこの男は自分を『魔女』だと思ってる。今更、恐怖エピソードの一つ二つ追加されたところでどうってことないよね。
 考えているうちにターゲットは胸ポケットをまさぐり煙草をくわえた。そして銀色のライターを取り出し、蓋を開けて……。

(あーっ! ったくあの男は歩き煙草やらかすつもりかあ?)

 つかつかと近づき、手の甲をひっぱたいてやった。

「こらっ」
「何?」
「歩き煙草、いけない。ちっちゃい子が火傷したらどーすんの?」

 そして今。

「ヒウェル、ヒウェル、早く!」
「待ってろって……ったく子ども料金払うの何年ぶりだ? けっこう値上がりしてんなー」

 ヒウェルが乗車券を買う間、ヨーコは彼のダウンジャケットのすそをつかんで油断なく周囲を見回していた。

「来ーたー!」

 ジャケットのすそを引っぱり、近づいて来るケーブルカーに走りよる。
 空は分厚い鉛色の雲が立ちこめ、太陽は雲の向こうから弱々しい光を投げかけるのみ。しかもだいぶ西に傾いている。
 既に木陰物陰、路地裏には灰色の薄闇がわだかまり始めていた。
 ぽわぽわとかすむオレンジの灯り。街のネオンとクリスマスのイルミネーションが余計に周囲の暗がりを際立たせる。
 黄昏時は不安をさそう。胸の奥にぼんやりと、理由の知れない心細さがかき立てられる。だけど今、ヨーコの胸の奥をじりじり焦がすあせりと不安にははっきりとした原因があった。

 魔女が来る。山羊角の魔女が追って来る。

 一刻も早くマリーナに戻り、風見たちと合流しなければ……一緒になった所で今の自分がどこまであの子たちの役に立てるかわからないけれど。

 ギイギイ、ガタガタ……ゴトトン。
 ケーブルカーが止まる。怪獣のような声を立てて四角い金属の巨体をゆすって。さあ、早く乗り込もう。

 手すりをつかみ、入り口のステップに足をかけ、次の一歩を……………
 踏み出す前に動きが止まる。その場でくるりと方向転換、ヒウェルの横をすりぬけてすたすたと歩き出す。

「お、おい、どこ行くんだ!」
「……やっぱ乗るのやめた」
「何で! もうチケット買っちまったぞ?」
「気が変わった」
「ったく。せめて買うまえに言え、買う前に!」

 歯ぎしりするヒウェルからついっと目をそらし、走り去るケーブルカーを見据える。
 赤いコートに赤い帽子の女が乗っていた。悔しげに歯をガチガチ鳴らしてこっちをにらんでいる。
 待ち伏せしていたのだ。

「しょうがねぇ。バスで行くか?」
「やだ。酔うから」
「じゃあ、メトロ」
「ぜっっっったい、イヤ」

 閉ざされた空間。地下の暗闇。それこそ魔女の思うツボだ。乗り物に乗るのは危険すぎる。襲ってこられたら逃げられない。何より他の乗客を巻き込んでしまう……だが、ヒウェル一人ならどうにか庇い通せる。
 できるかどうかわからないけど、やらなきゃいけない。
 それに何のかのと言いつつこの男、逃げ足だけは早いもの。

「それじゃどうしろってんだ。タクシーか?」
「車は酔うんだってば」

 停めたタクシーの後部座席に赤い女、なんてことになったらシャレにならないし、ドアが閉まった途端に運転者が角生やしてにんまり、って可能性もある。

「ったく、世話の焼ける……それじゃ、あれだ。いっそ、歩くか?」

 歩く? さすがにそれは困るな。大人の時ならいざしらず、今の自分には時間がかかりすぎる。
 きょろきょろと周囲を見渡し、問題を解決してくれる絶好の手段を見つけた。適度に速度があり、しかも自由度が高い。
 ずいっと指差す。

「あれがいい」

 ヨーコの指差す先には『レンタルバイク』(貸し自転車屋)の看板があった。

「こっちにもあるんだ……レンタルバイク屋っつーたらフィシャーマンズ・ワーフ周辺、ゴールデンゲートブリッジ巡りが定番かと思ったぜ」
「市内に乗ってきて、返却したい人のための『支店』なんじゃない? あるいは市内で借りたい人のための」
「まー規模からすりゃそんなもんだろうな……どれ」

 店員との交渉の末、ヒウェルはComfort Mountainとキッズ用のTag-a-longs(子ども用の後輪と座席、ペダルのついたオプション。大人用自転車の後ろに連結する)を借りた。二台合わせてしめて24時間レンタルで48ドル也。
 
「キッズ用の自転車とTag-a-longsとシートがどれも同じ値段ってどーも納得行かないんだよなあ。しかもキッズ用は24時間レンタルしかねーし」
「シートにすればよかったのに」
「そうは行くか!」

 自分用の自転車にまたがると、ヒウェルはくいっと後ろの子供用を指差した。

「お前もこげ」
「ぶー」

 2人でペダルをきーこきーこ。二つの力を一つに合わせて走り出す。海岸までは下り坂が大部分だがたまには平地もある。いくらもたたないうちにヒウェルが早々と音を上げた。

「くっそー、腰に来る、腰にっ」
「はやっ」
「デリケートなんだよ……お前さんはタフだねえ」
「鍛えてるから」

 信号待ちで止まっていると、背後からちっちゃな手が伸ばされ、腰を撫でた。

「うわっ、くすぐった……あ、あれ? 何か楽になったような気がする……」
「うふ」

 ちらりと背後を振り返る。眼鏡ごしににまっと笑いかけてきた。口元から歯並びのきれいな白い歯がのぞく。

(やっぱりこいつ、あのヨーコなんじゃないか?)

 あり得ない。いくらちっこくてもヨーコ・ユウキはれっきとした大人だ。自分と同い年だ。
 馬鹿げた想像を払拭すべくムキになってきーこきーこと走っていると、かすかにチリンと鈴の音がした。
 
「ストーップ!」
「はいはい……」

 きぃいい、とブレーキをかけて一旦停止。ふりむくと、ヨーコがちっちゃな手を伸ばして右に曲がる細い道を指差していた。

「そこ、曲がって」
「マリーナへは遠回りだぞ?」
「いいから、曲がって」
「へいへい」

 何故だか逆らえず、素直に曲がった。
 表通りから内側に入り、住宅街にさしかかる。道に沿ってしつらえられたクリスマスのイルミネーション。庭木にまめランプを巻いただけのものからトナカイにサンタクロースの姿をどんとかたどったもの。
 雪だるま。カートゥーンのキャラクター。お決まりのクリスマスツリー。
 刻一刻と暗くなって行く景色の中で、ぽわぽわとあったかそうに灯っていた灯りが、いきなり消えた。

「え?」

 電球が切れたとか。あるいは配線が途切れたとか。そう言った常識内の消え方とは明らかに違っている。
 自転車を走らせる自分たちの背後から目に見えない何かが追いかけてくるみたいにぽつりぽつりと消えて行く。黄昏の暗闇が広がって行く。

 暗闇が、追って来る。

「……何だ? これ」
「追いつかれた……ヒウェル、止めて!」

 切羽詰まった声に即座にブレーキをかけた。その刹那。

 ブゥフゥーーーーーーーーーーーーーウゥウウウウウウ。

 風が吹く。断末魔の獣の呻きにも似た音を立て、生臭く不吉な風が駆け抜ける。濃密な腐敗と崩壊の瘴気をまき散らして。

「来る! 走って!」

 いつからそいつが居たのかヒウェルはわからなかった。足音も聞こえず、近づいてくる姿も見えなかった。

 不意に空中からわき出したとしか思えない。赤い服をなびかせた背の高い女。枯れ木みたいにガリガリに痩せ、指先にぞろりと鋭い爪を伸ばして……いや、爪なんて生易しいレベルじゃないぞ、あれは。
 指先に生えたナイフが5本、まるで古いホラー映画の殺人鬼だ。あんなんで掴み掛かられたらひとたまりもない!
 とっさにヨーコを抱えて伏せた。ガシャン、と自転車が路面にひっくり返る。

 ざん!

 ダウンジャケットが切り裂かれ、細かな白い羽が宙に舞う。肩から背中にかけてざっくりやられたか。妙にすーすーするなあ。
 皮膚に直に風が当たってるんだ……多分、もっと奥にも。そのときになってようやく、体に加えられた衝撃の結果が脳みそに到達した。

「痛ぇ……」
「おばか! 何で逃げなかった!」
「俺の方が厚着だ。アーマークラスが低い奴が前に出るのが鉄則だろ……それに」

 カツン、と少し離れた所で地面に降り立つ気配がした。えらい滞空時間が長かったな。あちらさん空中浮揚の心得でもあるのか。

「恩人にその言い草はないだろ、お嬢ちゃん?」
「自分で恩人とか言うな!」

 カツコツカツコツ……
 足音が聞こえてくる。早いとこ起き上がらないとやばいぞ。あと一撃もちこたえられるかどうか自信がないが、とにかくこの子を逃がさないと。せめてそこの家の戸口まで。
 ああ、まったくこれだけ騒いでんのに何だって野次馬の一人も出て来ない? 市民の義務はどーした。早いとこだれかポリスを呼んでくれ。赤い服着た女が刃物振り回して暴れてますって!

 よれよれと立ち上がる。切り裂かれたジャケットから平べったいものがこぼれ落ちた。ポケットにつっこんであったペーパーバックだ。

「この本………」
「ああ、日本の本だな。君の国の本だ」

 この期に及んでのんきなもんだ。だが、こう言う時って得てして頭の回転が猛烈に早くなってんだよなあ。アドレナリン、万歳。
 しかし何なんだ、このカチカチ鳴ってんのは。歯ぎしりか。あー、なんかヤだなあ。この不自然なリズム。

「ヒウェルっ立ってっ!」

 信じられないくらいの力で引っ張られ、よれよれと前につんのめる。少し離れた所に一軒だけ、まだイルミネーションの灯ってる家があった。
 そう、何故かそこだけ灯りが残っていたのだ。

 玄関前の芝生に小さなジオラマが設置してあった。馬小屋の聖母マリアと幼子イエス、そして救い主の誕生を祝う三博士……教会なんかじゃよく見るが、一般家庭の庭先に置かれているのはちと珍しい。
 問答無用でジオラマのそばに座らされる。

「ここに居て。動かないで。命が惜しければ」

 真剣な表情に気圧され、うなずいた。もっとも歩く力はほとんど残っていなかった。傷口からあふれる血が切り裂かれたダウンジャケットを赤く、ずっしりと染め上げていた。

「これ、借りるよ」

 ペーパーバックを手にヨーコはたっと駆け出した。
 魔女は焦らなかった。
 ひとっとびに飛びかかれる間合いを保ったまま、待ち受けていた。首を不自然な角度にのけぞらせ、カチカチと歯を鳴らして。

 ちっぽけな獲物が聖母子像の加護を離れる。
 今だ。
 ゆらりと赤い衣が翻り、やせ細った体が滑るように前に出る。
 正面から魔女をきっとにらみつけると、ヨーコは本を開いた。

 ぱらららら………
 小さな手の中で本のページが勝手にめくれ出し、中から赤い生き物が飛び出した。

「え? フィフ?」

 ヒウェルが目を丸くする。鷲の上半身と翼、獅子の体。ちょっぴり太めで色は赤。そいつはどっから見ても表紙に描かれていたグリフィンそのものだった。色も、形も……大きさも。
 やっと大人の手のひらに乗る程度のちっぽけな。

 魔女はけたたましい声をあげてけらけらと笑い出した。

「おやおや、可愛らしい助っ人だこと………お子様にはお似合いだわね!」

 吐き捨てるや角を振り立てて地面を蹴り、びょうんっと宙に飛び上がる。かと思うと空中で不自然な角度に方向転換、右手にぞろりとはえそろった5本のかぎ爪を振り上げ急降下。
 ヨーコは奇妙なデジャビュを覚えた。
 あの時は……角だったかな。

「真っ赤なドレスを着せてあげるわ、お嬢ちゃん!」

 無論、今度も避けるつもりはない。逃げるなんてもっての他。
 真っ向から逃れようのない一撃を受ける一瞬は、同時にこちらから狙い澄ました一撃を放つ絶好のチャンスでもある。
 一声鋭く命じる。

「フィフ! やっちゃえ!」

 もわっと手のりグリフィンの体が膨れ上がり、次の瞬間。

 びゅーっ!

 口から一筋、真っ赤な炎がほとばしり、真っ向から魔女の顔を焼いた。

「ぎぃゃあああっっ」

 肉の焦げる臭いをまき散らし、顔を押さえてのたうち回る。自らのかぎ爪で顔をかきむしり、指の間から真っ赤な血が滴り落ちるのもかまわずに。
 
「マジかよ……本当に火ぃ吹きやがった」

 そう、この本に出てくるグリフィンは炎を吐くのだ。
 
「いっけえ!」

 続いて拳大の緑の火の玉一発、追い打ちで。ぼわんと弾け、魔女の上半身が炎に包まれる。髪の毛の焼ける胸の悪くなるようなにおいが強烈に立ちこめた。

「あああっ、熱いっ、熱いぃいっっ!」

 角の生えた魔女とちび魔女。黄昏の対決はちび魔女に軍配があがった。
 きりきりともだえ苦しみながら角魔女は姿を消した。生臭いつむじ風とともに、夜の暗がりにとけ込むようにして。

 その途端、周囲のイルミネーションが輝きを取り戻した。
 そしてちび魔女がぱしん、と本を閉じると赤いグリフィンもぽんっと消えたのだった。
 
 
次へ→やっぱ魔女だ…
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