▼ 【4-12-7】青年社長心配す
12月25日の夜。カルヴィン・ランドールJrはサンフランシスコ市内の自宅で一人、渋い顔をしていた。
両親の居る郊外の邸宅から離れて一人暮らすこの部屋は、彼の社会的地位に相応しいだけの広さと質を備えてはいるが基本的にはシンプルにまとめられていた。
寝室とリビング、そしてバスにキッチン、家具も必要最小限。構成するパーツは一流品、されどこじんまりと、あくまでシンプルに。大会社の社長にしては慎ましいが滅多に客を招くこともないので充分に用は足りる。
書斎を兼ねた広い寝室に置かれた水槽の中には水と水草、そして流木……彼が海岸で自分で拾ってきたものだ……が設置されているものの、魚は一匹も泳いではいない。
スタンドにかけられた鳥かごも同様に空っぽ。
にも関わらず時折、羽音めいた小さな音や魚のはねるような音が聞こえると、通いの家政婦からは密かに不評だった。
『坊っちゃま、お願いですから、あの薄気味悪い水槽を片付けてください』と言われたのも一度や二度ではない。
無理もない。水槽で羽音が、鳥かごのシルエットにゆらりと魚影が重なることもあるらしい。
その種の幽かな訪問者は彼にとって密かな楽しみであり、気晴らしにもなっていた。だが、彼らは気まぐれだ。
こう言う時に限ってなかなか訪れてはくれない。
※ ※ ※ ※
昨日の夜、会社主催で行われたクリスマスパーティーでの出来事だ。
学生時代の友人、チャールズ・デントンが話しかけてきた。カクテル片手にかなりご機嫌で。
illustrated by Kasuri
「なあ、ランドール。お前、この間かわいい子と一緒にいたろ。黒髪の東洋系の、眼鏡をかけた」
どうやらサリーのことを言っているらしい。
「ああ、彼は友人なんだ」
誤解を解くべく、さりげなく『彼』を強調する。しかしチャーリーは大げさな身振りで首を振った。
「彼? おいおい、冗談キツいぜ、ランドール。俺が言ってるのは。赤いコートを着てた女の子だよ! 空港のロビーで親しげに話してただろ」
赤いコート……ああ、ヨーコのことか!
「いいよな、さらっさらの長い黒髪」
そう言えばこいつは黒髪の女性にめっぽう弱かった。母を紹介した後なぞはことあるごとに『お前のおふくろさん、美人だなー』っと連呼していたものだ。
「あれはシーツの白にはえるんだよな。こう、上から攻めてやるとさ、女の子が乱れるのにあわせて広がった髪も乱れてさ」
何てことを!
学生時代からこの男が酔っぱらうたびにあまりにオープンすぎる色談義を聞かされてきた。最近はさすがに慣れて軽く受け流すことも覚えたが。
よりによってヨーコをそんな目で見ていたのか、こいつは!
「ちっちゃくてコンパクトなのに仕草も体のバランスもきちんと大人の女性なのもポイント高いね。胸は控えめだったけど、あの腰からお尻にかけてのラインがいい。後ろからあの腰を掴んで、思いきり貪りたいよ」
どこを掴むって?
貪るって、何を?
「肌もつやつやしていてなめらかそうで……何って言うか、お人形さん(Dolly)みたいだ」
Dolly。
そのいかにも子どもじみた言い方が鼻についた。どことなくヨーコを上から見下ろし、あなどっているようで。
「背中からぎゅっと抱きしめて、なで回してやりたいね。髪に顔うずめながらさ。あーゆー楚々としたタイプは、いざベッドの中に入ると……化けるぜ、きっと。ああ、いい声で鳴いてくれそうだなぁ…想像するだけでたまんないよ」
何を想像してるのかこの男は。いかにも楽しげに、まるで野球かサッカーの試合でも鑑賞するような口ぶりで。
「ちょっと首筋にキスしただけでいい色に染まるだろうな……服に隠れて見えないところに思い切り跡着けたくなるね。僕のものって印をさ」
だれのものだって?
落ち着け、カルヴィン・ランドールJr。
チャーリーの基準からすればいたって自然なレベルだ。標準だ。これよりあからさまな話を聞かされたこともある。
「そうそう、たっぷり攻めて身も心もトロトロになったらさ、今度はいい感じに彼女が盛り上がったところでお預けしちゃうんだ。で、こうやって」
チャールズは両手で何かを掴んで抱き上げて、自らの腰の上に乗せるような動作をした。
ちょっと待て、こいつ、まさか……。
「上に跨がらせてさ、自分でしてごらんって、囁いてやるのさ。東洋系の女性は慎み深いから、最初はきっと恥ずかしがって僕の上でもじもじとしているだけだろうけど。ねっちりいじめてあげれば我慢できなくなって、そのうち自分から……」
ひくっと口の端がひきつる。一発お見舞いしたい衝動に駆られたが、長年の友情に免じてどうにか自粛した。
「乱れる女の子を下から見上げるのはいいものだよ。振り乱される黒髪、動きにあわせてゆれるバスト……は、ちょっと無理かな、彼女の場合」
こいつ、いっそ穴と言う穴を縫い綴じてくれようか。もちろん、口には塩を詰めて!
「口を慎め、チャールズ・デントン。男子寮のばか騒ぎパーティーじゃないんだぞ?」
震える拳を握りしめ、低い声でたしなめても一向に気にする気配はない。それどころかとんでもないリクエストを口にした。
「なあ、お前知り合いなんだろ? 紹介してくれよ」
「断る」
「………何だよ、そんなににらむことないだろ、カル?」
ランドールはずいっと顎を上げ、鼻先からチャールズを見据えるとあからさまに右の眉を跳ね上げた。
ネイビーブルーの瞳に炯々と意志の光がみなぎり、くっきりした顔立ちと相まってただならぬ威圧感を醸し出す。
「睨む? 誰が、私が? 君を?」
相手の顔に『しまった』と言う表情があらわれるのを確認し、改めて顎を引いて正面から視線を合わせる。
「私に睨まれる様な事を考えたのかい、チャーリー。私の、大切な友人に対して」
「いや……その……すまん、ランドール。失言だった」
チャーリーは素直に謝り、ランドールも謝罪を受け入れ、その後は自然と話題はヨーコのことからそれて行った。
※ ※ ※ ※
(いかんな……)
深いため息がもれる。このままではネガティブ思考の堂々巡りから抜け出せそうにない。何かつまむか、飲むか。
キッチンに向かい、戸棚を開ける。ほとんど無意識のうちに小麦粉を選び、冷蔵庫から卵と牛乳を取り出す。少し考えてから、手前に置かれたマーマレードの瓶も一緒に抜き出した。
グレープフルーツのマーマーレードはラベルも手書き、中味も手作り。実家に顔を出すたびに母親が持たせてくれる。ビタミンサプリを飲むよりよほど気が利いているし、何より口にすると落ちつくのだ。
柑橘類のぴりっとした刺激的な香りと酸味、果汁と砂糖の甘みがねっとり溶け合って、このいら立ちを鎮めてくれるだろう。
小麦粉と砂糖と塩をあわせてふるい、牛乳と卵を加えてダマにならないように混ぜて。軽くこしてからラップをして室温で30分寝かせる。
ふっと一息ついたその時、耳の奥でチャーリーの声がこだました。
『なあカルヴィン。こんどの週末ヒマか? ヒマだよな』
『よし、海に行こう!』
どうにも一つ思い出すと後から後からあまり愉快ではない記憶が連なって引き出されてくるらしい。
学生時代、一緒にビーチに行った時。チャーリーは最初、自分たちは2人、そっちも2人なんだからちょうどいいよね、と女の子の2人組に声をかけた。
しかし、彼女たちが安心して打ち解けたと見るやいなやさっくり種明かし。
『ああ、こっちの彼は実はゲイなんだ。でも心配しないで、その分、僕が2倍おもてなしするよ!』
そして両手に花を抱えてさっさと行ってしまった。波打ち際に一人ぽつん、と残されてうらめしく思ったものだ。
やられた。体のいい見せ餌に使われた! と。
『なあ、お前知り合いなんだろ? 紹介してくれよ』
悪気がないのはわかっている。まさにあの時と同じノリで口にした言葉であろう。
だが。
(ヨーコは容姿に釣られて寄ってきた子たちとは違うんだ。いくら親友でも限度があるぞ、チャーリー!)
時計を確認する。まだ30分経っていないが、これ以上待つ気にはなれない。とにかく手を動かしたい。
浅い大きめのフライパンをコンロにかける。温まった所を見計らってキッチンペーパーで薄く油を引いた。
生地をすくって薄く伸ばし、トンボ(木製のT字型の道具)で円を描いてくるりと伸ばす。
焼けた瞬間を見極め、端からさっとパレットナイフではがして大皿に乗せた。
1枚目は急ぎすぎて破れてしまった。軽く舌打ちして2枚目に取りかかる。
あせってはいけない、慎重に、慎重に。
……そう、チャーリーは悪い男ではない。だからこそ長く友達付き合いが続いているのだが。
責任能力もあるし、決断力もある、経済力も申し分ない。気性も陽気でさっぱりしているし、何より決して人の悪口を言わない。普段は実に気持ちの良い男だなのだが……女性に関してはうかつと言うか、明け透けと言うか、とにかく口が軽すぎる。
酒が入っていると特にその傾向が強い。
やはり駄目だ。こんな男がヨーコに近づくなんて。それも最初っからベッドに連れ込むことを目標に据えているなんて。
とんでもない。絶対に、不許可だ。
彼女には、もっと……。
ヨーコの身近にいる男性を一人一人思い浮かべてみる。
風見光一とロイ・アーバンシュタインが真っ先に浮かぶが、彼らは若すぎる。よき教え子であり頼もしいナイトではあるが、ヨーコの手綱を押さえるにはまだまだ力不足だ。
よって除外。
テリーくんはどうだろう?
彼は誠実で、勇気がある。面倒見もよい、が。
あの程度で気絶するようでは、困る。
ヨーコと深くつきあうようになれば自ずと遭遇する『常ならぬ事態』はあんな程度ではすまされない。いざと言うときに気絶していては、彼女を守ることはできない!
よって除外。
ああ、でも……自分の腕の中で(と、言うか胸の下で)くったり意識喪失していた彼は実にキュートだったな。
では蒼太くんは?
まだネット電話越しにしか話したことはないが、真面目で気性の真っすぐな芯の強い男性と見た。彼女との付き合いも長い。
しかし基本的に頭が上がらないようにも見受けられるし、自分のささやかな挑発にあっさり引っかかって沸騰していた。しかも彼は僧侶で、ヨーコは巫女だ。日本の神々は寛容だと聞くが、聖職者同士となると……。
微妙だな。
とりあえず保留。
やはり同年代か、年上の男性の方が良いだろう。
たとえばレオンハルト・ローゼンベルクのような男ではどうだろう? 彼本人は既に愛すべき配偶者に恵まれているが、似たタイプの男なら?
……だめだ。
確かに彼は切れる男だが、頭が切れすぎて彼女と衝突するのは目に見えている。
よって除外。
もう一人の弁護士、そう、たとえばデイビット・A・ジーノのようなタイプは……。
…………………………………………………………………………………無理だ。
押しが強すぎて彼女をつぶしてしまう。あんなに華奢でほっそりした女性を相手にするには、およそあの手のタイプは不向きだ。
よって、除外。
ではレイモンドのような男なら?
…………却下。
内面的には申し分ないがサイズが違いすぎる。感極まってちょっと強くハグしたりしたら……危ない。危ない。
案外ディフォレスト・マクラウドのような男が合うかもしれないが、いかんせん彼はいささか人がよすぎる傾向がある。
いざと言う局面であっさり言いくるめられてしまいそうだ。それでは困る。時には断固として彼女を止められる男でないと。
よって、除外。
あの眼鏡の黒髪の男……メイリールはどうだろう。
いや、だめだ。
ヨーコの尻に敷かれてこき使われて、でも、そこまでだ。
よって、除外。
深々とため息をつく。
困ったものだ。
中々安心できそうなタイプが思いつかない。
いつしか生地を溶いたボウルの中味は既に空になっていて、入れ違いに大皿の上には焼き上がったクレープが積み重なっていた。
1枚ずつ丁寧にはがし、マーマレードを塗って、畳んで。塗って、畳んで。
途中で思いついて冷蔵庫からチーズを出して、一緒に挟む。手を動かしているうちに、次第にカッカしていた頭の中がクールダウンされてきた。
しかし、冷静になればなったで、いろいろと余計な事に考えが及んでしまう。
なまじプレーボーイとして浮き名を流してきた(自分の場合は男専門だが)知識と経験があるだけに、理路整然と不吉な予想を導き出してしまう。
サンフランシスコにはヨーコの知り合いも友人も多い。しかも今はクリスマス、街全体が華やかな空気に満ちている。人の心も浮かれ、誘惑は多い。こうしている間にも、うかつな誘いに乗ってはいまいかと思うと……。
そっと左の肘を押さえる。昨日の午後、まとわりついていた細い腕の感触をなぞって。少し下の方から伸ばされ、適度な距離を保ちながらも委ねていた。
コウイチもロイも未成年だ。
酒を扱う店には入れない。
顔見知りの気安さから男と2人きりで、腕なんか組んでそんな店に入って行ったりしたら?
ヨーコ本人が友達のつもりでいても、相手の男がそう見ているとは限らない。しかも彼女はそのことを知らない。あまりに無防備すぎる!
『少し飲み過ぎたようだね……休んだ方がいい』
『上に部屋をとっておいた』
いや、いや、いくらヨーコでもそこまでうかつではないと信じたい! だが最近は、化粧室と称する個室を妙に広く造ってカウチを設置している店もあると聞く。
ガラス張りのドアがロックをかけた瞬間、電気仕掛けで不透明になり、多少の物音は派手に鳴らされるBGMと他の部屋の利用者の声にかき消され、だれも気に留めない。
密室の中で何があろうとも……。
何度めかのため息をつき、こめかみに手を当てる。
いかんな。どうにも良くない方向に思考が引っ張られてしまう。こうして一人で考え込んでいても不安がつのるばかりだ。いっそ電話でもしてみようか。
いや、しかし。
ためらっていると、携帯が鳴った。
発信者の名前は……
「コウイチ?」
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