▼ 【5-5】俺のクマどこ?
- ローゼンベルク家の主寝室には、ドイツ生まれの小さなクマが居る。茶色の毛並にビーズの目のテディベアが、何故そんな所にいるのかと言うと……。
- 1995年、11月も後半にさしかかる頃。全てはわずか一足の赤い靴下から始まった。
- ディフの初デートと初寝ぼけ、そしてレオンの性の目覚めを描くエピソード。
記事リスト
- 【5-5-0】登場人物 (2012-07-17)
- 【5-5-1】戸惑う姫 (2012-07-17)
- 【5-5-2】赤い靴下ピンクのシャツ (2012-07-17)
- 【5-5-3】苛立つ姫 (2012-07-17)
- 【5-5-4】Earthquake! (2012-07-17)
- 【5-5-5】俺のクマどこ?★ (2012-07-17)
- 【5-5-6】ナマズガーディアン (2012-07-17)
- 【5-5-7】Wデート (2012-07-17)
- 【5-5-8】姫>彼女 (2012-07-17)
- 【5-5-9】ライドオン (2012-07-17)
- 【5-5-10】だから姫にはかなわない (2012-07-17)
▼ 【5-5-1】戸惑う姫
レオンハルト・ローゼンベルクは戸惑っていた。
全ての原因は同室の一年生、ディフォレスト・マクラウド。鮮やかな赤毛にヘーゼルブラウンの瞳、犬のように人懐っこい、図体のでかい奴。
およそ「美少年」なんて言葉からはほど遠いこの少年に、まさか。まさか自分がこんなにも心をかき乱されるなんて!
最初に会った時は、生活に割り込む珍獣としか思わなかった。
動きがいちいち大ざっぱで、立てる音も話す声もでかい。風呂上がりに裸でうろうろするし、牛乳は紙パックから直に飲むし……
寮の部屋に空きができ次第、速やかに出て行って欲しい。さもなきゃ自分が部屋を出ようとさえ思っていた。
できるだけ一緒に居たくないから、朝は速やかに寮を出て、授業が終わってからは学校のあちこちで時間を潰していた。
それが。
「レオン、飯できたぞ!」
「ありがとう」
「卵に塩足すか?」
「いや、このままでいい」
今は毎朝、彼の焼いたトーストと、卵を食べて自分の入れたお茶を飲んでいる。
彼が風邪を引いた時は気掛かりになって授業が終わるなり、部屋に戻ってしまった。
逆に自分が寝込んだ時は……。
いつもに増してお節介で。暑苦しいくらいにひっついて、世話を焼かれた。
のみならず、まさかあんな風に軽々と抱きあげられるなんて!
お姫様みたいに。あるいは花嫁みたいに。
ベッドにおろされた時、体が震えた。屈辱とも驚きともまた違う、どこか甘ささえ漂う不可思議な衝動で……。
(熱のせいだ)
(今は体が普通じゃないから)
(大体あれは、病人を運ぶのに至極一般的な抱き方じゃないか。花嫁もお姫様も関係ない!)
揚げ句、コメのスープをスプーンで食べさせようとした。(子供じゃあるまいし!)さすがにそれは遠慮して、自力で食べた。
何でそこまでして面倒を見るのか、と問いかけたら、自分の風邪がうつったから。自分が熱を出した時に看病してもらったからだと答えた。
至極真っ当な理由で、それ以上問い詰める必要性も感じなかった。
しかしその一件の後、確実にレオンハルト・ローゼンベルクとディフォレスト・マクラウドの関係は変わった。
まず、レオンはいつの間にか、マイク寮長を問い詰める事を忘れていた。以前はそれこそ顔を合わせる度に「あいつを早く引き取ってください」と詰め寄っていたのに。
さらに。
「レオン、風呂空いたぞ」
「………ディフ。そろそろ何か着てくれないか?」
「あ、ごめん」
マクラウドでもなければ、ディフォレストでもなく、愛称で呼ぶようになった。
赤毛のルームメイトは、今やすっかりレオンの生活の一部になっていたのだった。
しかしながらレオン自身はその事実をちらとも自覚してはいなかった。あくまで「一緒に居ることを認めている」だけなのだと思っていた。
クラブの練習や買い物でディフの帰りが遅くなると、妙に落ち着かず、そわそわしてしまう。
「今日は友達と出かけるから」
なんて聞かされでもした日は一日中、胸の奥にもやっとした奇妙な重苦しさが広がり、自ずと眉が寄ってしまうのだが……
本人はまるきり、その事実に気付いていない。
遠巻きに見守るクラスメイトたちも、何故『姫』の機嫌が悪いのか首を捻るものの、誰一人として真相に至る者はいないのだった。
次へ→【5-5-2】赤い靴下ピンクのシャツ
▼ 【5-5-2】赤い靴下ピンクのシャツ
聖アーシェラ高校ガブリエル寮の地下には、共用の洗濯室がある。
置いてある機械はやや旧式ではあるものの、町中のコインランドリーとそう代わり映えはしない。脱水機能のついた洗濯機が2台と乾燥機が一台。
寮生全員が使うには足りない。しかも洗剤こそ自前だが、使用に関してはコインランドリーと違って無料なのだ。
当然の事ながら霧や雨の続いた日は使用希望者が殺到し、順番待ちの長い列ができる。
人が待っていると思うと使う時も自ずとせわしなくなる。洗濯機が空いたら、慌ただしく自分の分の洗濯物を入れて、洗剤をセットして、スイッチを入れる。
そんな状況下ではついつい、中の確認もおろそかになったりする訳で……。
「うわっ!」
脱水の終わった洗濯機を開けた瞬間、ディフはあんぐりと口を開けた。
白いシャツが。靴下が。タオルが。ことごとくピンクに染まっている!
「何でだ? 色ものとは分けたはずなのに!」
わっさわさと取り出して一枚一枚確認して行くうちにふと、見慣れぬ物体に気付く。
淡いピンクの洗濯物に紛れ込んだ、一足の真っ赤な靴下に。
「……これか」
やっちまった。
恐らく前に使った誰かが忘れて行ったのだろう。少なくとも自分の持ち物じゃない。
よくぞまあこのちっぽけな布きれから、大量の布を染めるだけの色が染み出したもんだ。驚き呆れながらもとにかく、これ以上被害が拡大しないよう危険な靴下を取り除く。
後で食堂の壁にでも貼っておこう。その程度の憂さ晴らしは許されるだろう。
「乾かせば、ちょっとはマシになるかなあ」
わずかな望みをかけて、きれいに染め上がったシャツその他もろもろを乾燥機に入れた。
※
若干薄くはなったものの、乾かしてもやはりピンクはピンクのままだった。
ピンクのワイシャツ、ピンクのTシャツ、ピンクの靴下、ピンクのタオル。
畳んでクローゼットに入れながら、ディフは深々とため息をついた。
「どーすんだこのピンク……」
使用上の問題はない。履けるし、着られるし、拭ける。だが問題は、色だ。
(思いっきり女の子の色じゃねーか)
いみじくもテキサス男子たるもの、ピンクのシャツなんぞ間違っても着られない!
できれば取り換えたい。だがこれから実家に連絡して、代わりを送ってもらうまでに何日かかるだろう。
まとめて洗ったのが仇になり、ほぼ全滅だ。届くまでの間、残された衣類でしのげるだろうか?
それ以前に、何て説明すりゃあいい。
「やっぱ買い替えるしかないのか……」
がっくりと肩を落とす。
けっこうな出費になりそうだ。元を正せば自分のミスで招いた事態だと思うと余計に落ち込む。
(無駄遣いではないけれど、やっぱり無駄遣いだよなあ……)
仕送りの中から、自由に使える金額は限られている。十分やりくりできると思っていたが、不測の事態に備えるにはやはり足りないのだ。
「うーむ……」
悩んだ所でお金は天からは降ってこない。行動を起こすしかない。
ディフォレスト・マクラウドはこうと決めたら動くのは早い少年だった。その場で電話をかけて家族と話した。ただし、換えの靴下を送ってもらうためではない。
何となれば彼が電話をかけたのは、実家ではなく……農場を営む伯父の家だったのだ。
※
「レオン」
「何だい?」
その日の夜。夕食を終えて部屋に戻り、いつものように紅茶を飲んでいる時に打ち明けた。
「俺、バイト始めることにしたんだ」
レオンハルト・ローゼンベルクはカップを口に運ぶ手を止め、小さく「ほう」とつぶやいた。
切れ長の茶色の瞳、ふさふさとカールした豊かな睫毛、絹のようにさらりとしたライトブラウンの髪、細い眉。すっと通った鼻筋に形の良い唇……大理石の女神像のごとき丹精な美貌はいつものように冷静そのもの。
揺らぐ気配は塵ほども無い。
「どこで働くんだい?」
「郊外の農場。牧場やってる伯父さんに、知り合い紹介してもらったんだ。家畜の世話は慣れてるからな!」
「そうか、君は伯父さんの手伝いをしていたんだったね」
「うん。こう言うのは、やっぱツテと信頼が大事だしな」
農場の主マッキロイ氏は、マクラウド家と同じくスコットランド人を祖先に持つ男だった。マクラウド牧場の主の甥っ子の頼みを、二つ返事で引き受け手くれたのだった。
「手の空いてる時間は馬に乗っていいって言ってくれた。牛乳とか、自家製のバターとか、ベーコンとか卵も分けてもらえる事になったし」
「なるほどね」
ディフは満面の笑みで報告した。
「いいことづくめだろ?」
「……それで。いつから行くんだい?」
するりと躱し投げ掛けられるレオンの問いかけに、何の疑問も抱かず素直に答える。
「今週の日曜。週末の空いてる時間に行く事になったんだ。部活の練習とか、試合のない日に」
「それはよかったね」
レオンも表面上は何食わぬ顔で頷いた。さしたる興味もないかのように振る舞っていたが、その実、内心穏やかではなかった。
(これから君は週末、出かけるのか。部活のない日も、毎週)
(俺の知らない場所で、別々の時間を過ごすと言うのか)
もやっとした重苦しさが胸の底にわだかまる。
同室になった当初は、極力ディフと顔を合わさぬよう、何かと理由を着けては部屋から出ていたはずなのに。
自分の中に起こった変化を、レオンはまるで自覚していなかったのだ。
少なくともまだ、この時点では。
※
そして、日曜日がやって来た。
朝食を済ませた後、ディフは意気揚々とマッキロイ農場へ向かった。自分を見送った後、レオンが深い深いため息をついた事など知る由も無く。
サンフランシスコの街は狭く、建物が密集している。
郊外に向うバスに乗って30分も経たないうちに、窓の外はぎっしり立ち並ぶ家々から、なだらかな丘と広大な農地へと変わって行く。
標識と待合用のベンチ以外、ほとんど何もない停留所でバスを降りた。
歩き出すと、いくらも立たないうちに懐かしいにおいが漂って来る。牛や馬、鶏、山羊、羊。生きた体と植物と、そして彼らの出したあれやこれやが混じり合い、醸し出す濃厚なにおい。
「んーっ! 久しぶりだなぁ」
思わず立ち止まって、深呼吸した。不思議なもので、ゆっくりと息を吸い込み、吐き出すと鼻の奥に牛乳やラムチョップと同じにおいが残る。
同じ生き物の体から出ているんだから当然と言えば当然だ。
新学期が始まってから二ヶ月か。生まれてこの方、こんなに長い間、このにおいから遠ざかっていた事があっただろうか?
体の中のずうっと奥で、しくしく疼いていたちっちゃな穴が、すぽっと埋まった気がした。自分では平気なつもりだったけれど、やっぱりテキサスが恋しかったのだ。
カーン。
コン。
ガコン。
どこからか釘を打つ音が聞こえて来る。
『マッキロイ農場へようこそ!』
風や日の光にさらされていい感じに古びた木の看板に、テンガロンハットを被った五十がらみの男が釘を打ち付けている。白髪交じりの栗色の髪、瞳は青。頬と鼻の下をごま塩みたいなヒゲが覆っている。
くたくたに着古したチェックのシャツにブルージーンズと言う出で立ちは、ディフにとって見慣れた姿だった。
「こんにちは」
「おう、おまえさんがマックスの甥っ子か!」
皴だらけの日焼けした顔が、くしゃっと笑みを作る。白い歯が眩しかった。
「話は聞いとるよ」
「伯父さんもマックスって呼ばれてるんだ……」
「うむ。俺がマッキーで伯父さんがマックスな。ひょっとしてお前さんも?」
「はい、学校じゃマックスって呼ばれてます」
「だ、ろうな!」
マッキロイ氏は顔をのけ反らせ、愉快そうに笑った。
「歓迎するよ。手伝いは多い方がいいからな、ディフォレスト。だが学校はおろそかにしちゃいかんぞ?」
「はい! よろしくお願いします」
差し出された手を握る。節がごつごつして、皮が堅く、指の付け根にタコがあった。
「所でお前さん、着替えは持って来ただろうな?」
「はい」
肩に背負ったデイパックを揺する。力仕事は汗をかくのだ。冬でも秋でも。
「よし、ちゃんとわかっとるな、感心感心! 長靴はこっちで貸してやる」
「ありがとうございます」
「それじゃあさっそく手伝ってもらおうか」
「はい!」
次へ→【5-5-3】苛立つ姫
▼ 【5-5-3】苛立つ姫
レオンは落ち着かなかった。
休みの日、以前はマクラウドと一緒にいるのがうっとおしくてたまらなかった。それなのに彼が出かけてしまった後、妙に部屋の中が寒々しい。
妙な話だ。元々はこれが日常だったはずなのに。
図書館に行こうかとも思ったが、何故だか外に出かける気になれなかった。
机に座り、本を開く。だがページを繰っても中味はまるで頭に入らない。合間合間に時計を見ても、二本の針は凍りついたようにちらとも動かない。
さらさらさら。
さらさらさら。
砂のこぼれる音が聞こえる。乾き切った灰色の砂が落ちて行く。積もって行く。こう言う時に限って嫌と言うほどゆっくりと。その名を『時間』と言う。
彼が農場から帰ってくるまで、あと何時間?
じりじりと過ごすうちに昼になったので、ディフが用意してくれた昼食を食べた。全粒粉のイングリッシュマフィンに薄切りのソーセージとチーズと野菜をはさんだサンドイッチだ。
いつもの朝食とほぼ同じ食材のはずなのに。確かにディフが作ったはずなのに(自分も隣で見ていたのだからまちがいない)
まるで砂を噛むように味気ない。
それでも最後まで口に入れたのは、ひとえに彼の作った食事を残したくなかったからだ。
食べ終わった皿をシンクに運び、この日何度目かのため息をつく。
いっそ雨が降ればいいのに。そうすれば農作業は中止になる。それだけディフが早く帰って来る。
窓から空を見上げたが、忌々しいことに雲一つない。諦めて読みかけの本に戻ろうとすると……
ドアがノックされた。
その瞬間、レオンの眉間に刻まれた深いしわは消え去り、目が見開かれる。ライトブラウンの瞳が揺らぎ、ぱあっと顔全体が輝いた。
足取りも軽く駆け寄ってドアを開ける。そこに立っていたのは……
「あ、ども、こんにちは」
つややかな黒髪にくりっとした琥珀色の瞳。ほっそりした体つきの、リスにも似た愛らしい少年だった。
ずうんっと氷の塊がレオンの喉元を滑り降りる。
ついさっきまで揺らいでいた温かな炎は一瞬にして消え去り、分厚い氷が全てを覆い尽くした。
※
ヒウェル・メイリールは観察眼の鋭い少年だ。
だからクラスメイトの些細な変化にすぐに気付くことができた。
「何、お前珍しい色の靴下履いてるのな」
指摘した瞬間、ディフはかーっと頬を赤くした。鼻と頬の周りに散ったそばかすがくっきりと浮かび上がり、肌の上に赤みが広がる。ヘーゼルブラウンの瞳が逃げ場を求めて左右に泳いだ。
「そんな色の靴下持ってたっけ? ピンクの……」
「わーわーわーっ!」
ディフは慌ててがしっと腕をヒウェルに巻き付け、手で口を塞ぐ。
「ふごっ、ふぐ、ふぐぉっ」
あまりの慌てっぷりに誰かから(それも女の子)からのプレゼントかとも思ったが、真実はもっと単純で間が抜けていた。
「はぁ? 赤い靴下と一緒に洗っちまった?」
「……うん」
「前の奴が忘れてったの気付かずに、そのまま」
「うん」
肩をすくめ、背中を丸めてこっくり頷く友人の姿は、自信満々に飛びついたフリスビーを僅差で逃した犬そっくりだった。
「ってことは、一緒に洗ってたシャツとかタオルなんかも………」
「全滅だ」
「あー……」
「残った分でやりくりしてたんだけど、どうしても足りなくってさ」
赤毛をわしゃわしゃかき回しながら、うつむいてぽつり、ぽつりと説明する。
その顔で女の子に同じことを言えば、たちどころに半年分の靴下が集まるだろうに。この朴念仁ときたら。
「女の子たちには内緒だぞ」
なんて念押しして来やがった。テキサス男子たるもの、ピンクの靴下を履いてることを女子に知られるのは言語道断、ってことらしい。しかも親にも頼らず、靴下買うためにバイトするとかどんだけ本末転倒か。
(ったく、世話の焼けるカウボーイめ!)
その日家に帰ってから、里親のウェンディに尋ねてみた。
「ウェンディ。この間、ピーターの靴下まとめ買いしてたよね?」
「ええ。安かったからね。まさか、もう足りなくなった?」
「ううん、俺の分は足りてます、十分です」
自分の分も同じくらいがばっと買いだめしてくれたのだ。
「実はさ、マックスの奴がさ」
「あのテキサスから来てる子?」
「うん。寮の洗濯機で、うっかり赤い靴下と白いのまとめて洗っちゃって……」
「あらあら」
「全部ピンクになっちゃったんだ」
「あらまあ」
「俺のだとサイズが合わないけど、ピーターだったら合うんじゃないかなーって思って」
「ちょっと待ってね」
その場でウェンディーは寝室に行き、靴下の詰まった箱を抱えて戻ってきた。
「持ってきなさい」
「いや、さすがにこれ全部は多すぎるから!」
「じゃあ、半分だけ?」
「もう一声」
みっしり詰まっていた靴下は徐々に減って行き、ヒウェルが「うん」と頷いた時は箱にはだいぶすき間が空いていた。
「ちょっと待ってね」
ウェンディが次に飛んで行った先は、キッチンだった。
「これも持ってきなさい。あとこれも……これも……」
結局、箱のすき間は埋まった。
※
そんな訳で日曜日。ノートを貸す約束もしてあったし、物はついでだ、善は急げだ。
靴下以外のスープやスパムの缶詰め、タオルにパスタにビスケット、そしてリンゴ。それこそ実家から届いた荷物そのまんまのラインナップが詰まった箱を、えっほえっほと抱えてやって来た。
けれどドアを開けたのは、ディフじゃなかった。
(うっそだろ? まさかいきなり、姫とご対面とか!)
予想外の相手と出くわし、ヒウェルはびっくり仰天。とっさに答えてしまった。
「えーっと……その………ディフいます?」
呼び名を切り替えるのを忘れたと気付いた時は、既に遅かった。
ただ冷たいだけだった姫の表情に、さらに磨きがかかる。さっきまでが氷柱なら、今は氷の刃だ。触れた瞬間すぱっと切れる。
「いや」
(うーわぁああ、やっべーっ)
腋の下にじっとり冷たい汗がにじむ。まさか今日から既にバイトに行ってたのかディフ。即断即決、何て素早い奴なんだ。
「あ、その、それじゃ待たせてもらっても」
「断る」
「…………………………」
ばっさり斬り付けられて、ついでに三枚に下ろされた気がした。ここは大人しく引き下がった方が身の為と判断し、恐る恐る箱を差し出す。
「あー、それじゃこれ、頼まれてたノートと荷物……渡しといてください」
「わかった」
憮然とした表情で姫は箱を受けとった。と思ったら、鼻先でドアを閉められる。ばったんっと、そりゃあもうすんごい勢いで。
ばっふん、と前髪が舞い上がる。
つま先を挟まれずに済んだのは、多分奇跡だろう。
ドアの材質自体が重たいから、とか。たまたま風が吹いたから、とかそんなんじゃ到底説明のつかないようなレベルだった。
すごすごと帰る道すがら、ヒウェルは思った。
(あれって、やっぱ焼きもちなんだろうなあ……)
(ひょっとして姫ってば、すっごくディフを気に入ってる?)
※
レオンはイライラしていた。
もはや本を見る気にもなれない。
どさりと箱をディフの机の上に置いた。本当は床の上に放り出してやりたい所だったけれど、彼宛に届いた以上はもう、ディフの物だ。おいそれと粗末にする訳には行かない。
いくら持ってきた相手が気に入らなくても。
(何なんだ、あいつは!)
愛称で呼んでいる所を見ると、かなり親しいようだ。恐らくはクラスメイトか。
(そうだ、ディフと呼んでいた。マックスでもなく、マクラウドでもなく)
そのことがさらに苛立ちを煽りたてる。
しかも言うに事欠いて待たせてくれ、とは。絶対あり得ない。冗談じゃない!
ちらっと箱を見る。テープで封をされていないし、ふたも半分開いている。中からちらりとノートが覗いていた。
頼まれていたのは本当だろう。しかし、他の荷物は一体何なのか。
気にならないと言えば嘘になる。だが人の物を勝手に開けるには、レオンハルト・ローゼンベルクはあまりに礼儀正しかった。
次へ→【5-5-4】Earthquake!
▼ 【5-5-4】Earthquake!
不愉快なクラスメート」の訪問にもそれなりに利点はあった。
結局、荷物の存在に気を取られたお陰でその後の時間が早く進んでくれたのだ。
陽射しが西へと傾く頃、力強いノックが聞こえてきた。今度こそ間違いない。飛んでいってドアを開ける。
「ただいま、レオン!」
「……お帰り、ディフ」
途端に部屋の中の空気が変わった。
「これ、お土産だ! 卵とバター。牛乳もあるぞ!」
「そうか。良かったね」
「明日の朝楽しみにしてろよ!」
意気揚々と土産を冷蔵庫に収めてから、ようやくディフは気付いた。自分の机の上に乗っている、見慣れない箱に。
「あれ、これどうしたんだ?」
「君あてに届いた」
「え」
まさか実家からだろうか? その割には封がされていないし、送り状もない。開けてみると、中には見覚えのあるノートが入っていた。
「ヒウェル来てたのか」
レオンはちょっとの間考えた。
名前は知らないが、とにかくディフの知り合いらしい生徒が来ていたのは確かだ。
「ああ」
小さく頷く。
「すぐ帰ったけどね」
「そっかー」
確かにヒウェルから月曜日に歴史のノートを借りる約束をしていた。
だが箱の中味はそれだけじゃなかった。インスタントのスープや缶詰め、そして未使用のタオルに靴下!
(あいつ……!)
友人からの救援物資を、ディフはありがたく受けとる事にした。
「ゆっくりしてればよかったのに」
レオンは胸の奥でかすかに何かがよじれるような気分になった。
よりによってディフはほほ笑んでいたのだ。あいつの持ってきた荷物を見て、口元を緩め、目元を和ませて、それはもう、嬉しそうに笑っていたのだった。
※
夕食後、部屋に戻り、レオンとお茶を飲んでいる時にそれは起きた。
カタカタと窓が鳴った。
最初は思ったんだ。風が強くなったのかな、って。でも違っていた。
いきなりめきっと窓枠が軋み、壁が、天井が、床が揺れ始める。ゆっさゆっさと得体の知れない巨大な生き物が、建物に手をかけて揺さぶってるみたいだ……
いや、揺れてるのは地面。
これは………地震だ。
大地震だ!
「地震だーっ!」
大急ぎでテーブルの下に潜り込む。だがレオンの奴は平然として、すましてお茶なんか飲んでる。
「レオン、何やってんだ!」
慌てて上半身を突きだし、手を伸ばす。
「早く来……いでっ」
後頭部にずがんっと衝撃が走り、目から火花が散った。
「ってぇえ……」
頭を抱えてしゃがみ込む。どうやら思いっきり天板の裏に後頭部をぶつけてしまったらしい。
「大丈夫かい?」
目を開けると、レオンの顔がすぐ近くにあった。彼は床にしゃがみこんで、こっちをのぞき込んでいた。
「大丈夫……ってお前、早くこっちに!」
「揺れならもう収まってるよ」
「……へ?」
本当だ。壁も床も天井も、もう揺れてはいなかった。窓ガラスも静かだ。
おっかなびっくりテーブルの下から這い出した。
「すげえ地震だったな。震度5ぐらいか」
「さあね。震度3ぐらいじゃないかな」
「へ?」
「ここは四階だし、建物も古いからね。実際より大きく揺れを感じたんだろう」
よく見ると、部屋の中の物は何一つ倒れちゃいなかった。俺の分のカップに満たしたお茶がちょっと零れていたけど、それは多分、俺がテーブルにぶつかったせい。
「見事な避難行動だったね。正に教科書通りだ」
くくっとレオンが咽を鳴らす。こいつ、笑ってる。力いっぱい噴き出してる。
かーっと頬が熱くなった。
「こ、これはビビってるんじゃないぞ! ただ、ちょっと、びっくりしただけだ!」
「すぐに慣れるさ。ここは地震の多い地域だから」
頬の熱は顔全体に広がり、耳までぽっぽと熱くなってきた。
あんなに地面が揺れたのは、産まれて初めてだった。テキサスは地震のない州だ。物心ついた時から、地震に会った記憶なんてほとんどない。
抜かった。
南カリフォルニアは地震の多発地帯だった……。何で今まで忘れていたんだろう。
ロマ・プリータ地震でベイ・ブリッジが崩れてから、たかだか6年しか経っちゃいないんだ!
「う………」
ぞわあっと背筋が寒くなる。子供の頃、ニュースで見た映像が脳裏に蘇る。橋が溶けたチョコレートみたいにぐねぐねとうねって、ワイヤーがぶちっと切れて……。
いや、いや、落ち着けディフォレスト。記憶を混ぜるな、あれはカリフォルニアの映像じゃない(多分)。
ベイ・ブリッジもゴールデンゲート・ブリッジもここからは遠いんだ!
分かっているのに、さっきまで火照っていた顔から血の気が引く。まるで氷でも当てられたみたいにはっきりと、皮膚が冷えるのを感じた。
「ディフ。どうしたんだい?」
レオンがこっちを見てる。もう、笑ってはいなかった。
「な……何でもない!」
心配かけちゃいけない。無理に歯を見せてにかーっと笑い、胸を張る。
「も、大丈夫だ。ちょっとびっくりしただけだからな!」
次へ→【5-5-5】俺のクマどこ?★
▼ 【5-5-5】俺のクマどこ?★
その夜、異変が起きた。
レオンハルト・ローゼンベルクは異様な気配を感じてベッドの中で目を開けた。
何かが枕元に立っている。ぬうっとしか言いようのない質量を供えた体温の高い生き物が、二本足で。ぎょっとして半身を起こし、ベッドサイドの明かりを着ける。
淡いオレンジの光に浮かび上がったのは……
「ディフ?」
見慣れたルームメイトの顔だった。
ゆるくウェーブのかかった赤毛はもしゃもしゃに乱れ、縞模様のシャツパジャマを着ている。
一応、ベッドに入った時と同じ服装だ。しかし、一体どう言う寝相をしていたらこうなるものか。パジャマのボタンが外れて袖がずり落ち、左の肩が完全に剥き出しになっている!
しかもこの寒い中、彼がパジャマの下に着ていたのは袖無しのランニングシャツだった。
くしゃくしゃになった白い布地は、ほとんど肌を覆う役割を果たしていない。大きく開いた襟ぐりから、鎖骨がくっきりと覗いている。
それだけじゃない。肉厚な体にぴちっと薄い布が張り付いて、乳首の形がぽっちりと盛り上がっていた。
どきっとした。
(馬鹿な、何故、慌てる必要がある。これまで何度も見てるじゃないか。もっとだらしのない恰好だって見ているはずなのに!)
「……ディフ?」
「……」
妙だ。とろーんとして、目の焦点がほとんど合っていない。のろのろと緩慢な動作も彼らしくない。どうしたんだろう、また熱でも出したのだろうか?
「ディフ」
心配になって、今度はさっきよりもう少し、大きな声で呼びかけた。すると彼はのろーりと首を巡らせ、こっちを見下ろした。
ゆっくりと口が動く。
「……どこ?」
「え?」
たどたどしい、子供みたいな喋り方だった。
「俺のクマどこ?」
クマ(Teddy bear)?
頭の中が真っ白になる。問い返すことも、答えることも忘れていた。
「俺のクマ……茶色で耳がかたっぽとれてるやつ」
ゆーらゆーらと手が差し伸べられ、髪に触れた。
「あ……」
ほわあっとディフの顔に幸せそうなほほ笑みが浮かぶ。
「あった」
「え?」
次の瞬間。熱い、がっちりした体がベッドの中に潜り込んできた。
「なっ!」
何が起きたのか、とっさに理解できなかった。ようやく現実を把握した時には、同じベッドの中でがっしりした腕に抱きしめられていたのだった。
「っっっ!」
それは生まれて初めての感触だった。
風邪で寝込んだ時も彼に抱きあげられたが、その比ではない。限られた空間の中、手も足もしっかりと絡み合い、体温が混じる。薄い寝巻きを通して彼の『体』を識った。今まで見てきた逞しさを、肌の熱さを直に感じた。
「う……」
ずっと、飢えていた。自分の中の最も奥深い部分にぽっかり開いた、底なしの穴が叫んでいた。
欲しい、欲しい! と。
その穴が今、満たされている。
今までどれほどの物を放り込んでも吸い込まれるばかりで、決して埋まることなどなかったのに!
ただ体が触れ合っている、それだけの事なのに。
こんなに単純な事だったのか。何をしても、見ても聞いても、食べても飲んでも決して消えることのなかった飢えを満たすのは。
(ずっと、ここに居たい)
(彼に包まれて居たい)
二人分の体熱の篭った毛布の中、密着したディフの体から鼓動が伝わって来る。
穏やかで、ゆっくりとしている。
一方でレオン自身の心臓は激しく脈打ち、今にも肋骨を突き破りそうだった。耳奥で轟音が響き、こめかみの内側で血管がぱちっと弾けそうだ。
(欲しい)
(彼が欲しい)
ぎゅんっと足の間で何かが疼いた。下着の内側に熱が篭る。だが痛くはない。むずがゆく、その癖、妙に甘美で、もどかしい。
自分の中に初めてわき起こる生臭い衝動。熱を出して寝込んだディフを見た時には、かすかな騒めきでしかなかった『それ』に突き動かされ、ぴくりと手が震える。
(服が邪魔だ。何もかもはぎ取って、直に触りたい。見たい。味わいたい!)
指先が、ぴったりと密着した脇腹をかすめ、胸元をなで上げる。
がっちりした骨組み、しなやかな筋肉。その上を覆う、滑らかで白い肌。布越しに触れただけでも熱く、張りがある。手のひらを押し当てて撫で回したらどんなに気持ちいいだろう?
既にパジャマの片袖はずり落ちている。袖無しのシャツをほんの少し、ずらせばいい。
身を乗り出した瞬間、ふわふわの赤い髪の毛が、顔に触れた。
(あ……)
息を吸い込み、顔を埋める。絹のように柔らかなその感触に引き寄せられ、手を伸ばしていた。指をからめて、綿菓子みたいな髪を撫でた。
「ん……」
鼻にかかった声を漏らし、ディフが身じろぎする。
その声を聞いた瞬間、さーっと血の気が引いた。
(自分は今、何をしようとしていたんだろう?)
いけない。このままでは、いけない。踏み越えてはならない壁を突き破ってしまう!
恐れとも罪悪感とも知れぬ冷たさにわななきながら、レオンはぐいっと渾身の力を込めてディフを押しのけた。
「う?」
ごろんっとベッドから転がり、床に落ちる。
けっこうな衝撃があったはずなのだが……ディフはもぞもぞと身じろぎして、その場で丸まり、目を閉じた。
すぐに、すーっ、すーっと穏やかな寝息が聞こえ始める。
「……」
レオンはそろりと動いた。それまで凍りつき、息も潜めていたのだ。
どうしよう。ベッドまで運ぼうか?
多分無理だ。自分にはそんな力はない。あったとしても、もう一度彼の体に触れるなんて……。
ぴくっと指が震える。遠ざかったばかりの熱を求めて。
(だめだ!)
拳を握り、ベッドから抜け出した。火照った素足に床板の冷たさが染みる。だが構うものか。いちいちスリッパなんか探している場合じゃない。
ディフのベッドから毛布をはぎ取り、彼の上に被せた。それが精一杯だった。
「ん………」
ディフはもそもそと背中を丸めて、顔を埋めてしまった。
ようやく、危険な身体が分厚い毛布に覆われた。だが、それは依然として『そこ』にある。
ベッドに潜り込み、彼に背を向けた。
身体が細かく震えている。熱いからなのか、寒いからなのか、分からない。
今度抱きつかれたら自分は何をやってしまうか分からない、それが恐ろしい。
一度満たされる事を知ってしまうと、魂の奥底の空っぽの穴は前にも増してどん欲になった。より強烈な飢えを訴えて、叫んでいる。
『彼が欲しい! 欲しい! 欲しい!』
男に……いや。ディフに触りたかった。裸を見たかった。
身に着けているものを残らずはぎ取り、一糸纏わぬ身体を思う存分いじり回したい。キスしたい。押し倒してセックスしたい。
これまで薄い殻一枚被ったまま、蠢いていた生々しい自分の欲望。今やレオンハルト・ローゼンベルクはその正体をはっきりと自覚していた。
思い知らされてしまった。
(自分は男に欲情している)
(俺は、ゲイだったんだ!)
どうしよう? どうすればいい?
戸惑い、混乱しながら必死で考えた。
まんじりともせぬまま夜を明かし、明け方になってようやく、結論に達した。
クマ(Teddy bear)を探してるのなら、それを渡してやればいい。
※
空が白み始める頃。レオンはこっそりと起き出してバスルームに篭った。しっかりと鍵をかけ、携帯電話を取り出す。短縮ダイヤルで呼び出したのは、忠実な執事アレックスの番号だ。
こんな時間にも関わらず、すぐに出てくれた。
「アレックス。手配してもらいたいものがあるんだ。実は……」
「かしこまりました。早速、オーダーメイドの一点ものをドイツのシュタイフ本社からお取り寄せして……」
「そんなに待てない。とにかく急いでくれ」
「かしこまりました」
16才の少年が求めるにしてはいささか不釣り合いな代物を、有能執事は何ら問い返す事なく、迅速に手配してくれた。
そして昼休み、レオンが一度部屋に帰った時には既に、件の荷物は管理室に預けられていたのだった。
受け取り、部屋に持ち帰る。ディフがいないのを確認してから箱を開けた。
ふかふかとして手触りのよい茶色の毛並、黒いボタンの目、同じ色の糸で念入りに刺繍された鼻と口。
丁寧に作られた、身の丈30センチほどのテディ・ベア。ずんぐりした手足はそれぞれ肩と足のジョイントで胴体に接続し、自在に動かせるようになっている。
左の耳についた黄色いタグには流れるような書体で「Steiff(シュタイフ)」と書かれていた。
これが果たしてディフの探しているクマと100%同じかどうかは分からない。
だが、気をそらす役には立つはずだ。何と言っても、自分と間違えたくらいなのだから。
レオンは満足げにうなずき、テディ・ベアをクローゼットにしまった。
次に『あれ』が起きたら、これを渡せばいい。
次へ→【5-5-6】ナマズガーディアン
▼ 【5-5-6】ナマズガーディアン
サンフランシスコに来て初めて、大きな地震のあった次の日。
朝、起きたら床で寝てた。しかも自分のベッドじゃなくて、レオンのベッドの下で。目を開けてまず思ったんだ。「俺、何でこんなとこで寝てるんだろう」って。
寒くは無かった。ちゃんと毛布を被っていたから。ただ、残念なことに枕はなくて、直に床に頭をつけていた。
隣のベッドは既に空っぽ。レオンはとっくに起きて、きっちりと身支度を整えていた。
「これ、お前が?」
「また、風邪を引いたりしたら困るからね」
「ありがとう」
「どういたしまして」
ついっと顔を逸らしてしまった。何だかやたらと恥ずかしい。きっと寝てる間にベッドから落ちたんだろうな。しかもこんな所まで転がって……どんだけ寝相が悪いんだ、俺は。
そそくさと起き上がり、毛布をベッドに戻す。
「あいてっ」
めきっと首や肩がきしむ。そりゃしょうがないよな。床の上で寝てたんだから。
いつにも増してくしゃくしゃになったパジャマを脱ぎ捨て、シャツに袖を通す。ボタンを留めているとふと気配を感じた。振り向くと、レオンがこっちを見ていた。
「どうした?」
「……何でもない」
ぷいっと、今度は完全にあっちを向いちまった。
どうしたんだろう。俺、何かあいつを怒らせるようなこと言っちまったのかな? あ、ひょっとしたら腹減ってるのかも知れない!
大急ぎで服を着て、歯を磨く。髪の毛をとかすのもそこそこに、キッチンに立った。
「すぐ、飯作るからな!」
「ああ」
卵が焼けて、トーストにバターを塗るまでの間に、レオンはすっかりいつものレオンに戻っていた。入れてくれた紅茶も美味い。でもどこかが、何かが違う。ボタンを掛け違えたような感覚が抜けなかった。
「なあ、レオン……」
口を開きかけたその瞬間、みしっと壁が揺れた。
「っ!」
びくっと全身がすくみあがる。
「………風だよ」
「そ、そっか、風か」
ほっと胸をなで下ろし、あわてて付け加える。
「ちょっと、びっくりしただけだからな! ビビってなんかいないぞ!」
「わかってるよ」
レオンは小さく笑ってうなずいた。いつもと同じ表情。いつもと同じ声。
うん、さっきの違和感は、やっぱり気のせいなんだ。そうに違いない。
※
教室に行っても、誰も昨日の地震の事なんか話題にしてなかった。俺の感覚じゃあものすっごい大きな地震が起きたって感じなのに。ほんと、サンフランシスコじゃあ日常茶飯事なんだな。
おかげで困った事に誰に言うこともできない。
『夕べの地震、すごかったなぁ』って。
結局レオンの前じゃ強がって平気なふりしちまったし。
何かの形で口に出せないと、どうにもこう内側に篭って、消えない。
部屋が揺れた瞬間のショックと恐怖が、心臓の辺りに冷たくわだかまってるようで……。どうしよう。どうすればいい。あの逃げ場のない、絶望感。日常生活が崩れて底なしの穴に吸い込まれる感覚が、消えない。
ってなこと考えていたら、また窓がめきっと軋んだ。
とっさに身構えるより早く、足下からゆさっと揺さぶられた。間違いない、床が揺れた、これは地震だ!
「うわっ、揺れたぁっ」
どうする、机の下かっ? とっさに見回したが……。
誰も動いてない。ちょっとびっくりした顔してるだけで、のん気に喋ってる。
「お、揺れたね」
「夕べのよりは弱いかな」
そっか……。夕べのより弱いんだ……。
へなへなと膝から力が抜ける。椅子にへたりこんでいると、にゅっと眼鏡をかけた琥珀色の瞳がのぞき込んできた。ヒウェルかと思ったけど、違う。あいつはこんなに髪の毛を長く伸ばしてないし、瞳の色も、もっと薄い。
「大丈夫?」
「あ、ヨーコ?」
そうだ、彼女なら地元の人間じゃないし、地震が怖いってのも通じるかも!
なんて思ったのも束の間。ヨーコはじーーーっと涼しげな瞳で俺の顔をのぞき込み、きっぱり言った。
「何、あんた地震怖いの?」
「う」
……そうだよ、彼女、日本の出身じゃないか。日本って世界有数の地震大国なんだよな。慣れもするよな、うん。
「……うん」
猛烈に恥ずかしくて、小さく小さくうなずいた。
「じゃあこれあげる」
ヨーコは抱えていたバインダーを開いて、ぺらっと紙を一枚取り出した。厚みがあって、しなやかな紙には、黒い流線型の体をした、でっかい生き物が描かれている。頭の上に、着物を着てヒゲを生やした男が乗っかって足を踏ん張り(サムライか?)、でっかい石で謎の生き物を押さえ込んでいた。
「何だこれ。サカナ?」
「ナマズよ」
ああ、確かにヒゲがある。
「何で、ナマズ?」
「地震封じのお守りなの」
「そ、そうか、これ地震のカーディアンなのか!」
「部屋の壁にでも貼っときなさい」
「うん! ありがとな、ヨーコ!」
お守り。それだけで何だか心が軽くなった気がした。ちょうどいいんだ。俺にとって地震ってのは得体の知れない化け物みたいなものだから。
「……君、いつもこんなの持ち歩いてるのか?」
「イエス。実家が神社だからね」
「ジンジャ?」
「教会みたいなものよ」
よく分からないけど、宗教的なものだってことは分かった。
「あれか。牧師さんの娘が聖書持ち歩くみたいなもんか?」
「だいたい合ってる」
「そうか!」
うん、何となく納得した。
※
「ただ今ー」
夕方、寮に戻ってから早速、ディフは部屋の壁にナマズの護符を貼った。
自分用のベッドの傍らに張り付け、うん、と頷く赤毛頭を、レオンはぽかーんとして見守った。
彼が戻って来たら、どうやって接すればいいのか。重苦しい胸を抱えて悶々と思い悩んでいたら、これだ。
部屋に入ってくるなり、鞄から謎の紙を取り出して壁に貼り付けてる。
しかも、ものすごく真剣な表情で……。何かと思えばこれがまた、珍妙な黒いぬるっとした魚の上に大きな石を抱えたサムライ(多分)が乗っかって、足を踏ん張る図なのだった。
真剣に悩んでいたところに予想外の行動。呆気にとられて気が抜けて、思わず疑問が素直に口から零れ出る。
「なんだいそれは」
「ナマズ」
「……うん、それはわかるよ」
さらに先を促す。表面上はあくまでやわらかな笑顔で。
「何でナマズの絵をそんな所に貼ってるんだい?」
ディフの頬にじわああっと赤みが広がる。透き通る肌の下に血が巡り、ソバカスをくっきりと浮かび上がらせる。
「それは……」
口ごもりながら、視線を左右に泳がせている。
恥じらいながら、とまどいながらも、打ち明けようとしているのだ。レオンは辛抱強く待った。待てば彼は必ず話すとわかっているからだ。
「クラスメートにもらった。地震のお守りなんだ、これ」
「なるほどね」
とうとう目を伏せてしまった。くっきりと濃いピンクに染まった首筋をさらして、うつむいている。
「……ごめん、俺、嘘ついてた。地面がゆれると、やっぱ怖い」
そんな事、隠すまでもない。あの反応を見た瞬間からわかっていた。自分のしたことはただ、彼の強がりを見逃しただけだ。
「恐怖心があるのは、いいことだと思うけどね。慣れすぎてると、頭を保護するなんて基本的なことも忘れるよ」
「そ、そうなのか?」
ディフはぱちくりとまばたきして、見つめて来る。ヘーゼルブラウンの瞳が揺らぎ、夢のようにうっすらと緑を帯びている。
本来の優しげな薄い茶色に、緑色のきらめきが混ざる。いつまでも見ていたくなる。
(ああ、吸い込まれそうだ)
「怖がるのは、男らしくないって。ずっとそんな風に考えてた」
戸惑いながらも、しっかりと与えられる言葉に我に返る。
「お前、すげえな、レオン。初めてだ、そんな風に言う奴」
「恐怖を感じられることは、重要だと俺は思う。もちろん、恐怖にとらわれて何もできなくなるようでは困るけれど」
ディフはじーっと自分の手を見下ろし、それからくっとにぎった。
「忘れないよ。ありがとな、レオン」
「……ああ」
もわっと熱気が漂ってくる。いつの間にか、彼はすぐ近くまで身を寄せていた。感情が高ぶったせいか体温が上昇し、温められた肌の香りが立ち上る。
それを何と表現すれば良いのだろう? ミルクのような。チーズのような。動物としての性質を感じさせながらも、どこか甘く、ふっくらしている。嗅いでいるだけで、その滑らかな体に触れているような錯覚を覚える。
頬を紅潮させながら見つめてくる、彼の真剣な表情が、凄まじく……色っぽい。
(何を考えてるんだ、俺はっ!)
もう隠しようがない。ごまかせない。はっきりとそう感じる自分に戸惑った。
ほんの一歩、後ろに下がればいいのに動けなかい。彼から離れるなんて、考えただけでぎりぎりと腑が締め上げられる。
ざわりっと背筋を甘美な刺激がはい登る。だが今ならまだ理性で押さえ込める。そう、自覚してしまった今だからこそ。
「お茶を入れよう」
「さんきゅ、レオン! お湯、わかしてくる!」
地震への恐怖を打ち明けたら、吹っ切れたようだ。
上機嫌でキッチンに向うディフを見守りながら、自分に言い聞かせる。
飢えは一度自覚してしまったら最後だ。忘れる事はできない。
だから隠そう。彼にだけは知られないようにしよう。
この気持ちを。じりじりと体の内側から焼き尽くす狂おしいばかりの劣情を……
そのいじらしくも悲愴な決意がよもやその後、十年の長きにわたって続こうとは、この時のレオンはまだ知る由も無かった。
次へ→【5-5-7】Wデート
▼ 【5-5-7】Wデート
新学期が始まってはや三ヶ月。互いに顔と名前も知り、ある程度趣味やら嗜好なんかもわかって来ると、お次に来るのは異性への興味だった。
来るべきクリスマスを意識して、ここぞとばかりにちらほらと、意中の女子、男子に声をかける者も増えてくる。
何もいきなり、「愛の告白」なんて重たい深刻なものに挑む必要はない。もっと気軽に、さりげなく。
「デートしない?」
それで十分。一緒に出かけて、コーヒーでも飲んで、ドーナッツかじって、喋って、遊んで、気が合えばまた次の約束をする。そうやって軽口(light)なデートを重ねて行くうちに、恋人になれたらいいな、なんて……。
ごくごく一部の例外を除き、多くの生徒がそう考えていた。そしてディフォレスト・マクラウドもまた、ご多分に漏れずその一人なのだった。
※
気になる女の子がいる。ショートカットの黒髪にあおい瞳。活発で、朗らかな声で笑う彼女の名はモニーク。
デートに誘いたい、だけど一人で申し込むのは気が引ける。言われた方だって、身構えてしまうんじゃないか? こんな時はまず、友達を誘ってWデートに持ち込んだ方がいい。
その方が、気軽にOKしてくれるだろう。そう考えて、親しい友人に声をかけてみる。
「なーヒウェル」
「何?」
「デートしないか?」
「……誰と?」
「モニーク。誘いたいんだけど、いきなり二人っきりってのは照れくさくってさ。2対2でWデートなら、行けるかなって」
「……なるほど、そう言う事か」
「うん、そう言う事」
ヒウェルは眼鏡を外して、息を吹きかけ、きゅっきゅっとハンカチで拭いた。それからまたかけ直して、おもむろに口を開く。
「せっかくだけど俺、今つきあってる人いるから」
「そうか。だったら彼女連れてこいよ!」
「いや、彼女じゃなくって……彼なんだよね」
「彼?」
彼? 確かにそう言った。彼女(she)じゃなくて、彼(he)って。
「うん。三年の男子」
「つまり、あれか、お前がつきあってる相手ってのは……男?」
「そ。俺、ゲイなんだ」
あっさり言ったよ! 目をぱちくりして、目の前のヒウェルを見つめる。
今、耳にしたことが信じられなかった。
俺の育った町じゃ、誰も自分のことゲイだなんて公言しない。言えば酷い目に遭わされるってわかってるからだ。それこそ命に関わるレベルで。
よってたかってゲイを殴り殺すのは正しい事だって、信じられてた時代もある。目鼻立ちのわからなくなるくらい顔の膨れ上った死体を『教育のため』と称して子供に見せる父親も多かった。
こんな物騒な話を聞くのに、祖父や曽祖父の時代まで遡る必要はなかった。
他ならぬ伯父や父が、誰かからの伝聞ではなく、現場で見聞きしていたのだから。
ひょっとしたらまだ続いてるかも知れない。昔に比べれば件数は減ったものの、潜在化しただけなんだって、兄貴から聞いた事がある。
嘆かわしい事だと前置きして……多分、自分は少数派なんだろうとも。
「お前、勇気あるな」
「別に? それほどでもないさ」
ヒウェルは肩をすくめた。
「だってここは、サンフランシスコだぜ?」
「……そっか」
「うん、そう言うこと」
ぽんぽんっと肩を叩かれた。何だか急に恥ずかしくなった。
地震に怯えた時と、ゲイって告白に過剰反応した時と。感じた羞恥と居心地の悪さ、いたたまれなさは、同じだった。
どっちもまだ、俺がこの町に馴染んでいない。異質だって事実を知らしめる……クラスの連中にも、俺自身にも。
「ごめん」
「おいおい、どーしてそこで謝るよ!」
「とにかく、ごめん。他の奴を誘ってみる」
「待て待てディフ、ちょっと待て」
くいっとシャツを引っ張られる。
「中学生じゃあるまいし、そーゆー時は、まどろっこしい手順なんざ踏むな。1on1でデートしたいって言え! その方が、女の子はグっと来る」
「……でも俺、女の子連れてけるようなとこ知らないし」
「そらしょうがないわな、テキサスから出てきたばっかなんだし? 素直に言っちゃえ。『俺、どこいったらいいかわかんないから教えて』って」
「む……」
拳を握り、口元に当てる。
確かにヒウェルの言ってることは正しい。でも女の子に頼るってどうなんだ? 納得が行かない。
初めてのデートなんだぞ。男がリードして、エスコートするのが当たり前だろう!
「なあ、ディフ。相手が男でも女でも、王女様みたいに扱ってみろ」
「王女様?」
「そう。敬って、大切にして、しんどい時は遠慮なく寄りかかって、わからない時は素直に教えを乞うんだ。でもいざとなったら守る。全力でな」
いざとなったら全力で守る。うん、それなら、わかる。抵抗なく受け入れられる。
「……わかった、やってみる」
※
そうと決まれば話は早い。善は急げだ。ランチタイムにカフェテリアでモニークを見つけた。
まっすぐ歩いていって、声をかける。
「Hi、モニーク」
「あら、マックス。どうしたの?」
「土曜日、暇か?」
「うん、暇」
「そっか、だったら……」
こくっと咽を鳴らしてツバを飲み込む。ええい、ここで戸惑ったらかえってみっともない。一気に行け!
「俺とデートしないか?」
モニークの頬にぱあっと赤みが広がった。後ろの女の子たちが息を飲む気配が伝わってくる。
そう、カフェテリアの女の子ってのは群れるものなんだ。モニークと一緒のテーブルには、クラスの女の子たちが座っていた。見覚えのない顔も混じってるから多分、他のクラスの子も居る。
今さら気付いた所で、もう引き返せない。言ってしまった言葉の尻尾は掴めない、引き戻せない。
イエスか、ノーか、どっちだ? 頭のてっぺんからつま先まで、がっちがちに固まって答えを待つ。
はーす、はーす。はーす……。鼻から出入りする息の音が耳の奥で轟く。心臓はばっくんばっくん跳ね回り、今にもどんっと口から飛び出しそうだ。
モニークの頬がゆるみ、白い歯が現われた。
「イエスよ!」
ぱーんっと頭の中でクラッカーが鳴った。
OK、やったぜ、ブラボー! チューインガムとクッキーとキャンディケーンとキャラメルポップコーンを一度に吸い込んだみたいな甘い空気にむせ返る。
「そ、それでさ、あの、その」
「……ん?」
首をちょこんと傾げてこっちを見てる。ああ、可愛いなあ。
「サンフランシスコのことはよくわかんないから、案内してくれると嬉しい」
どぎまぎしながら、ヒウェルから教わった台詞を付け加える。ちょっと不本意だったけど。
モニークは目をぱちくりさせて、にっぱーっと白い歯を見せて、景気良く笑った。
「OK、キュートボーイ! 思いっきりベタなサンフランシスコ観光に連れてったげる!」
ころころと、鈴を転がすような声で笑いながら。あんまり楽しそうだったから、俺は素直にうなずくしかなかったんだ。
※
夜、風呂上がりにレオンに報告した。
「良かったじゃないか」
「…………キュートボーイって言われたのが、ちょっとなあ」
んぐっと、牛乳を咽に流し込む。もちろん紙パックから直飲みで。行儀が悪いってわかっちゃいるんだけど、コップを洗うより早いし。一応、料理に使う分とは分けてある。
レオンはノートから目を放さず、さらりと言った。
「女の子のほうが精神的な成長は早いからね」
「……そっか。じゃ、しょうがねーな、張り合っても」
パジャマを羽織ってベッドの上に座る。
あの時、モニークは友達と一緒だった。不覚にもその事に気付いたのはデートに誘った後だった。
もしも同じ状況で、俺が同じ事を言われてたら、果たしてあんな風に答える事ができただろうか?
(無理だ。絶対慌てる! パニック起こして変なこと口走る!)
やっぱり女の子の方が、成長してるんだ。そりゃ可愛い、とも言いたくなるよな。
膝を抱えて、顎を膝頭に乗せる。
(俺、全然余裕なかった……。デートに誘うだけで一杯一杯で)
ため息を漏らしたその時、レオンと目が合った。いつの間にこっちこっち見てたんだろう。
ちょっと。いや、かなり気まずい。わしゃわしゃと髪の毛をかき回す。でもその程度じゃ紛れる訳がない。
やっぱりはっきり言おう。こいつに隠し事はしたくないから。
「ごめんな、お前のこと誘おうかとも思ったんだけど、ヒウェルが『そーゆー時は1on1でデートしたいって言え、チャンスだから!』って言うから、つい勢いで」
「俺は誘ってもらっても、行けないだろうから」
「……そっか……」
ほっとしたような。がっかりしたような。複雑な気分になる。
レオンと一緒に出かけるのはどんなに楽しいだろうって、ちょっぴりわくわくしてたから。
「せっかくデートなんだから、花でも持って行っておいで」
「そうだな。花……何がいいかな……」
安心したせいだろうか。あくびが出てきた。湯上がりの気だるさに身をまかせて、ごろん、とひっくり返る。足を投げ出し、指をもにもにと握って、開いて、思案を巡らせる。
「俺、マーガレットが好きなんだ。家の庭にいっぱい咲いてた」
「花屋の店員に相談すればいい。向こうはプロだから、だいたいの予算とイメージを伝えればつくってくれるよ」
幸い、農場のバイトのお陰で懐には余裕があった。花束を持って、デートに行けるくらいの予算はある。
「うん……そうする…………さんきゅ、レオン……………………」
ああ、何だろう。すごーく気持ちいいぞ……うん、すごーく……。
次へ→【5-5-8】姫>彼女
▼ 【5-5-8】姫>彼女
すやすやと規則正しい寝息が聞こえ始める。その時になってレオンはようやく、ノートから顔をあげた。
下着の上にパジャマの上着だけを羽織ったまま、下半身はパンツ一丁。とんでもなくラフな恰好で眠っていた。
「やれやれ」
大の字ならほほ笑ましいで済んだだろう。よりによって横向きに寝て、くるっと体を丸めている。
パジャマの裾からのぞく足が、ひどくなまめかしい。想像せずにはいられない。手のひらを当てたらどうなるんだろう、って。
(危険だ。早く隠してしまおう)
毛布をかけようと思ったけれど、生憎と上に寝ている。思案した揚げ句、ディフを真ん中にして毛布の端と端を持ち上げて、くるっと包んだ……クレープみたいに。
「ん……ありがとな、レオン」
どきっとしたが、毛布に顔をつっこんで眠っている。おそらく寝言だろう。ほっと息をついて、小さな声で答える。
「どういたしまして」
さて、危険物は毛布にきっちり包まれた。今度こそ、集中することができる。さっきまでは何を見て何を読み、何を書いたのか……まるで頭に入っていなかったのだから。
※
さて問題の土曜日の放課後。学校は午前中で終わり、ディフは喜々として出かけて行った。
そして日もとっぷり暮れる頃、うきうきしながら戻ってきた。よほど楽しかったのだろう。ほとんど足が地面に着いてないんじゃないかと思うほどの浮かれっぷりだ。
「ただ今、レオン!」
「お帰り」
笑顔で出迎えたのは、ディフが帰ってきて嬉しかったからだ。
どうだった、と儀礼上の質問を投げ掛けることもできず、静かに佇むレオンに、ディフは満面の笑みを浮かべて報告した。
「すっげえ楽しかった! も、サンフランシスコに来てから、最高に楽しい土曜日だった!」
「……良かったね」
胸の奥にもやっとした重苦しさを抱えながら、レオンは務めて冷静に振る舞った。鋼の自制心を振り絞り、ディフの報告に耳を傾けた。
「ツインピークスって、ドラマの中だけじゃなくて実際にあったんだな! サンフランシスコ全体が見えたよ。それだけでもすげーなーって思ってたら、まだ上があるって言うじゃないか」
「ああ」
「コイトタワーっての? あれのてっぺんまで上ったよ。フェリービルディングとか、ベイブリッジとか、フィッシャーマンズワーフまでくっきり見えたんだ! 360度、絶景だよ!」
体からもわもわと熱気が漂ってくる。そばかすがくっきり浮かんでる。肌はうっとりするほどきれいなピンク色だ。
きっと、服の内側も同じくらいきれいだろう。
ほんのり浮かんだ甘い想像は、続くディフの言葉でざっくりかき消された。
「彼女、兄さんからカメラ借りて来たって言うから、塔のてっぺんで記念写真とったんだ。現像ができたら、見せてやるよ」
「そうか」
(見たくない。考えたくもない)
「で、その後、バスに乗って、上から見た所をがーっと通ってってさ。フィッシャーマンズワーフでお茶飲んで来た!」
ごそごそと、腕にぶら下げてきたビニール袋から平べったいものを取り出した。金色の包み紙につつまれた、四角い板チョコだ……どうやらギラデリ・スクウェアのチョコレート工場にも行ったらしい。
「これ土産。食うか?」
「いや。甘いものは苦手なんだ」
氷柱を飲んだような声が出ていた。
「……そっか」
途端にすーっとディフの顔から笑顔が消え、途方に暮れる犬みたいな表情にとって変わる。
ちょっとは熱が冷めたらしい。口をつぐみ、静かになった。
それからは、舞い上がった状態から地上に着地していつもの彼に戻ったものの……。
何かにつけて思い出したようににへっと笑う。
また、その笑い方がでれんでれんにゆるみ切った上に、いかにも楽しそうで。見ていて、どうしても苛立ちを抑えることができなかった。
※
月曜日、教室で。
「よっ、ヒウェル!」
ヒウェルの姿を見るなり、ディフは駆け寄った。尻尾を全開でぶん回した大型犬が突進するような勢いで。
むわっと押し寄せる熱風に、若干、後ろにのけ反りつつ笑顔で出迎える。
「おはよう、ディフ。で、どーだったよデートは?」
「サイコーに楽しかった!」
(おーおー、舞い上がってらっしゃる!)
「コイト・タワーに上って、展望台見て、ギラデリのチョコレート工場見学して、フィッシャーマンズワーフに行った!」
「そーかそーか、サンフランシスコの観光名所、満喫したな」
「うん! どこもかしこも初めて行った」
幸せ一杯、満面の笑顔で報告する友人を、ヒウェルはほほ笑ましい気分で見守った。
「な? 彼女にまかせて正解だったろ?
「うん! お前の言う通りだった! それでこれ……」
ごそごそっと鞄から取り出したのは、ビニール袋に入った何やら四角い物体。包み紙の金色が透けて見える。
「土産だ!」
「お、ギラデリのチョコバーじゃん!」
大好物を目の前に、にへーっとヒウェルの顔面がゆるんだ。
「さんきゅ! でもいいのか? こんなに沢山」
「うん。ほんとはレオンの分も一緒なんだけど……」
ディフはうつむいて、くしゃっと赤毛をかき回した。
「あいつ、チョコは苦手だって」
「………そーか」
寮の部屋を訪れた時の記憶がありありと蘇る。ディフが居るかと聞いた瞬間、姫の美貌は分厚い氷に覆われた。
(こいつがいないってだけで、あんなに不機嫌になるんだものなあ)
(自分ほっぽって出かけた揚げ句、舞い上がって帰ってきたら……そりゃあヘソ曲げもするよな)
※
放課後。モニークが声をかけてきた。
「マックス、今日は暇? アイス一緒に食べに行かない?」
「アイス?」
ぱあっと顔を輝かせ、頷きかけてはたと動きが止まる。
「いいなあ。でも残念、今日は駄目なんだ、ごめん」
「そっか……クラブの練習?」
「いや。食料の買い出しに行くから」
「え?」
きょとん、として目をぱちくりするモニーク。ディフはかけらほどの疑問も抱かず、説明する。さも当然の事だよと言わんばかりの口調でさらさらと。
「今日はルーセントベーカリーの特売日なんだ! レオン、あそこの店のがお気に入りだからさ!」
「あ……そう言うこと」
「うん、だからごめんな!」
爽やかすぎる笑顔で『姫』のご飯を買いに行く。彼女を置いて、いそいそと。そんなわんこを見送りながら、居合わせたクラスメートたちは一斉にため息をついた。
『だめだ、こりゃ』と。
一方でディフは、ルーセント・ベーカリーで目的のパンを無事に買い入れ、うきうきしながら寮の部屋に戻ってきた。そしてルームメイトの顔を見るなり、切り出したのだ。
「なあ、レオン。今度の日曜日、暇か?」
次へ→【5-5-9】ライドオン
▼ 【5-5-9】ライドオン
その週の日曜日。マッキロイ農場前の停留所で、市バスから降りる二人の人影があった。
一人は癖のある赤毛にヘーゼルアイ、鼻回りにそばかすの散ったがっしりした体格の少年。着古したジーンズにフリースのシャツ、上からざっくりと羽織ったコートは軍用のフィールドジャケットのレプリカだ。
上から下まで安くて丈夫な衣類で揃えている。
片やもう一人は、臈長けた美貌の持ち主。涼しげな瞳も、絹のようなさらさらした髪も明るい褐色。さほど華奢、と言う訳ではないはずだが、赤毛の少年と並ぶとどうしても、ほっそりした印象が際立つ。
ベージュのスラックスにカシミヤの白いセーター、羽織っているのは藍色のPコート。持っている服の中から精一杯、動きやすい服を選んできたようだが、それでも隣の赤毛と比べると……。
こんな郊外にいるよりは、ユニオン・スクエアあたりを歩いている方がしっくり来る。本人も薄々それを察しているのか、微妙に落ち着かないようだ。
「こっちだ、レオン!」
ディフは慣れた調子で一声かけて、歩き出す。少し進んでから振り返り、そこからはレオンと歩調を合わせて歩き始めた。
「いきなり押しかけて、邪魔にならないかな」
「大丈夫、マッキロイさんには話、通してあるから」
「……そうか」
その言葉通り、マッキロイ氏はあたかも当然と言った風情でレオンを出迎えた。
「こんちわ、マッキロイさん!」
「よう、マックス。来たか」
「こいつ、レオンっての、俺のルームメイト!」
「そうか」
「こんにちは」
大人しく、礼儀正しい子だ。
育ちの良い人間にありがちな、牧場のにおいに顔をしかめる素振りもない。
不用意に音を立て、馬を怯えさせることもない。ただ目を細めてしげしげと、馬房の馬たちを眺めている。
明らかに、慣れているようだった。おそらく、乗馬の心得があるのだろう。それも付け焼き刃ではなく、かなりみっちり習って作法を身に着けている。
「うむ、良く来たな、レオン!」
マッキロイ氏は大様にうなずいた。
「手が空いたら馬に乗っていいぞ。ズボンとブーツは貸してやる。あと帽子もな!」
「ありがとうございます」
ディフが仕事をこなす間、レオンは柵に寄りかかってじっと彼の働く姿を見守った。不思議なことに退屈はしなかった。いつもと同じように、彼がそばにいる。作業の合間合間に話しかけ、時々、他愛も無いことで笑い合う。
それだけの事なのに、とても心が安らぐ。
この数日間、ずっと溜め込んでいた苛立ちが、ロウソクみたいに溶けて行く。
(ああ、そうか)
ディフが他の誰とでもない。
自分と一緒に居るからだ。
レオンは自分でも気付かぬうちにほほ笑んでいた。この上もなく満ち足りた、穏やかなほほ笑みだった。それを見て、ディフは秘かに胸を時めかせていた。
(良かった。やっとレオン、機嫌直してくれた!)
「っし、作業、終わりましたっ!」
「ご苦労さん」
マッキロイ氏が馬屋の右側の列を指さした。
「こっちの列から好きな馬選んでいいぞ! あっちは人様からの預かり物だからな」
借り物の乗馬ズボンとブーツは使い込まれてはいるものの、丈夫で質が良い。しかもこの種の貸し装備にしては、きちんと手入れが行き届き、コンディション良く保たれている。
不思議なもので、レオンが身に着ける事で内側から溢れる気品が道具にまで移ったのか……何とも上品で洗練された出で立ちに見えた。
ディフはと言えば、作業用の長靴を乗馬用に履き替えただけ。
「どれに乗る?」
「そうだな……」
二人ともそれぞれ、自分の流儀に基づいて馬を選び、馬具をつける。
手伝いなんか頼む必要は無かった。ただ、時折手を止めて、ディフに何がどこにあるのか、尋ねさえすれば良かったのだ。
「お、こいつ新入りだな。よし、お前に決めた」
レオンは大人しそうな葦毛の馬を。ディフはちょっとばかり向こう気の強そうな、栗毛の馬を選んだ。
「大丈夫かい?」
「うん。慣らしの終わった奴しか、こっちの馬房には入れないから」
(そう言う問題じゃないだろう)
栗毛の馬は実際、相当に利かん気が強く、馬場に引き出す間も時折、鼻息荒く体を揺すってレオンを冷や冷やさせた。
だが当のディフは一向に慌てず、立ち止まって穏やかな声で話しかけ、馬が静かになるのを待つのだった。
「そうか、そこが気になるのか。いいぞ、好きなだけ調べろ……ん、満足したか? じゃ、行こうか。お前だって走るの好きだろ? 俺もだよ……さあ、おいで」
優しく、親しげに語りかける様子に、ちくりと胸が疼く。馬鹿な。相手は馬じゃないか! そう、たかが馬だ。わかっていてもつい、馬に向ける眼差しが鋭くなってしまう。
「よーしよし、いい子だ」
馬場に出るなり、レオンはあぶみに足をかけてひらりと跨がった。
「すげえ。王子さまみたいだな、レオン!」
続いてテンガロンハット(いつも寮の部屋の壁にかかっていたやつだ)を被ったディフが栗毛に飛び乗った。
軽く鞍に手を添えただけで、ほとんど自分の足の力だけで飛び乗っていた。
「……君はカウボーイみたいだね」
「おうよ!」
顔全体を笑み崩し、白い歯を見せて、ディフはくいっと拳を握り、親指を立てた。
「テキサス流だからな!」
干し草の匂い、生きた馬の濃い匂い。進む蹄が乾いた地面を叩き、その度にぽこん、ぽこんと土の匂いが濃く立ち上る。時折、北からどっと吹きつける冷たい風をものともせず、カウボーイと王子、二人の少年は並んで馬を走らせる。
個性も体力も違う馬を、同じペースで走らせるのにはかなりの技術と、慎重さが要求される。だがレオンもディフもごく自然にそれをこなしていた。
ただ、相手のことを見ればいい。思えばいい。習い覚えた技と手が答えてくれる。
馬場を囲む柵の近くまで来た時。ディフがいきなり、呟いた。
「こいつ飛べるかな……」
「え?」
怪訝に思ったレオンが問い返す間に、うなずいて馬の首を軽く叩く。
「飛べるよな! うん、飛びたがってる!」
言うや否や、駆け出した。
「……ディフ!」
呼びとめようとした声は、走り去る背中を虚しく滑る。
あっと言う間の出来事だった。迷い無く馬を走らせ、ディフは手綱を引き絞り、上体を低く屈め……
軽々と柵を飛び越えた!
それは馬術の美しさとは無縁の、馬の気分と性質と能力に乗り手が合わせた、何とも無骨で乱暴な飛び方だった。
着地の衝撃でテンガロンハットが脱げ、かろうじてあごひもで引っかかる。
「っしゃあ!」
ガッツポーズを取ると、ディフはもう一度引き返すべく馬首を巡らせ……
「ディフっ!」
レオンと目が合った。
真っ青になって眉間に皴を寄せ、途方に暮れた表情でこっちを見つめている。まるですがりつくみたいに。
きゅうんっと胸の奥が疼いた。柵の直前まで追いかけて来たのはいいものの、自分まで飛び越えることはできなかったのだろう。
無理も無い、あの葦毛にそんな度胸は無い。
鞍の上でぼう然としている。
(やばい。心配かけちまった!)
「ごめん、レオン、すぐ戻る!」
帽子を被り直すのもそこそこに、慌てて柵に沿って馬を走らせる。レオンもはっと我に返って後を追う。
しばらくの間、二人は柵を挟んで並走した。馬場の出入り口にたどり着くまでの数分が、とてつもなく長く感じられた。
ディフが戻ってくると、レオンはほーっとため息をついた。
柵のこちら側に一人置いて行かれたのが、寂しかった。自分を置いて急に駆けて行ったのが面白くなかった。
しかもあの栗毛は、障害を飛ぶように訓練を受けた馬ではない。勢い任せのあんな乱暴な飛び方で、ちょっとでも引っかかったら大惨事だ。無鉄砲にも程がある!
言いたい事が頭の中でぐるぐる回る。
「……ごめん」
かぽかぽと歩み寄る赤毛のルームメイトをにらみ付け、一言告げる。
「次は飛ぶ前に言ってくれ」
「………ごめん」
「わかればいい」
毅然として馬を走らせるレオンの後を、ディフは大人しくついて行く。眉根を寄せ、ちょっぴり困った犬みたいな顔をして。レオンが右に曲がれば自分も右へ。左に迎えば自分も左へ。
もう、彼を置いていきなり駆け出すような真似は、しなかった。
※
「おー、やっとるな」
マッキロイ氏はそんな少年たちを、ほほ笑ましい気持ちで見守っていた。
先週の日曜日、マックスに聞かれた。『来週、友達を連れてきていいか』と。
ほほうこいつはてっきり、デートかな? と思っていたら連れてきたのは男。しかもルームメイトだと言うじゃないか。
やれやれ、まだ女の子のご機嫌を取るより、男の友情が優先って訳か。
くすっと小さく笑う。
マクラウドの甥っ子に浮いた話ができるのは、もうしばらく先のことになりそうだ。
次へ→【5-5-10】だから姫にはかなわない
▼ 【5-5-10】だから姫にはかなわない
月曜日の放課後。聖アーシェラ高校の近くのソーダ・ファウンテンにて。
モニーク・シャーウッドは友人たちとテーブルを囲んでいた。
つついているのは、アイスクリームを3種類ほど盛りつけて、チョコチップとマシュマロをたっぷり散らして仕上げにチェリーソースとチョコレートシロップとホイップクリームをどっさりかけた特製サンデー。
友人たちからのおごりである。
「最初っから勝ち目なんて、無かったのよ」
スプーンでごそっとホイップクリームをすくいとり、いちごアイスとともにあぐっとほお張って飲み込む。
「マックスにとっての最優先事項はレオンなのよね。私じゃなくて」
ため息を着きながら、モニークはふわっとなびかせた黒髪の毛先に手を触れる。
ヘアーワックスとドライヤーと格闘しながら、天使の羽のように『自然な』ウェーブを整えたのだが……
当のマックスときたら一向に気付かず、機嫌良さげに話すのは日曜日の出来事。
バイト先の農場で、馬に乗った事なのだった。
レオンと。
他ならぬレオンハルト・ローゼンベルクと。
『すげえかっこよかったよ。気品があって、びしっと背筋伸ばしてさ。何って言うか、王子さまみたいだった!』
クラスの友人たちは、その一部始終を見聞きしながら、サイレントにため息を着いたのだった。
そして放課後、誰とも無しに連れ立ってソーダ・ファウンテンに繰り出したのである。
「私はマックスの気を引くのに、メイクにも気を使って、朝30分かけて髪の毛をセットして、石けんの香りのコロンをちょこっとつけて、服も靴も合わせた。でもレオンは……ちょっと不機嫌な顔するだけでいいんだもの。勝負になんないわ!」
少女たちは顔を見合わせる。
眼鏡をかけた黒髪の少女が、どんっとコカコーラの特大サイズをモニークの目の前に置いた。
「まあ、飲め」
「さんきゅ、ヨーコ」
続いてブルネットの少女が、薄紙に包んだドーナッツを差し出す。
「食べなさい」
「うん、もらう」
上半分にピンクのイチゴクリームをかけ、色とりどりのカラースプレーをまぶしたドーナッツにあぐっとかぶりつく。もぐもぐ噛んで、ごきゅごきゅとコーラで流し込む
一通り飲み食いしてから、モニークは深い深いため息をついた。
「何って言うか、レオンには……勝てる気が、しない」
「うん」
「うん」
「大丈夫、それうちの学校の大半の女子が思ってることだから」
※
モニークは次のデートを断った。
「そっか」
「友達と約束があるの。だから、ごめんね」
にっこり笑って、最後に一言付け加えたのはちょっとした乙女の意地。
「レオンと一緒に行けば?」
ディフはしおしおとうな垂れて寮の部屋に戻り、レオンにことの次第を報告した。
「……って言われちゃったんだ。やっぱ、これって俺、振られたってことなのかな」
レオンはぽんっとディフの肩を叩いた。
「お茶を入れよう」
「うん」
ちょこんとテーブルに座って待つディフに背を向けて、レオンはお湯を沸かし始める。
安堵で頬がゆるんでしまうのを、どうしても押さえる事ができなかった。
「ミルクは入れるかい?」
「うん」
「砂糖は?」
「……3つ」
「そうだね。こう言う時は、甘い物が一番いい」
※
この後、ディフォレスト・マクラウドの男女交際については、何度となく同じパターンが繰り返される事になるのだが……これはその、最初の一度。
(俺のクマどこ?/了)
次へ→【5-6】ハロウィンGO!GO!
▼ 風邪引きサクヤちゃん
- 拍手お礼用短編の再録。サンフランシスコでディフが寝込んでいたのと同じ頃、サクヤちゃんも風邪を引いて熱を出し、寝込んでいました。
- 一人奥座敷で眠るサクヤちゃんの枕元に、やって来たのは……。
こん、こん、こんっ。
狐が鳴いてる。
ちょっとちがう。
狐はこんな声出さない。
これは絵本の中で作られた『狐の声』。
こん、こん、こん。
やっぱり、ちがう。この音は今、自分の咽から押し出されてるんだ。
1995年11月半ば。結城サクヤは熱を出して寝込んでいた。看病と移動が楽なように自分の部屋ではなく、一階の日当たりの良い、庭に面した和室に布団を敷いて。
(久しぶりだなあ……)
小さい頃は体が弱くてしょっちゅう、こんな風に熱を出して寝込んでいた。母やおじさん、おばさんが神社の仕事で忙しい時は、必ずよーこちゃんがそばに居た。
(お見舞いにセミの抜け殻持ってきたこともあったなあ……お煎餅の缶いっぱいに)
今は、よーこちゃんは遠いアメリカに行っちゃったけど……猫たちと犬が一緒に居てくれる。ふかふかのあったかい体で寄り添ってくれる。
時々手を伸ばして、ふわふわの背中を撫でた。一人じゃない。そう思うと、安心できる。
熱で頭はぼわぼわに煮えて膨らんで、思い出すのは悲しいことや辛いことばかり。
鼻の奥に、濃い赤色のトゲトゲしたものが居座ってる。鼻をかんでも、うがいをしても消えない。もうずーっと離れてくれないんじゃないかなこれ。
くしゃみと咳で体がきしむ。咳するのがつらい。痛い。咳が出そう……と言う前触れが出た段階で怖くなる。がまんしても止められず、そんな時の咳は結局、余計に苦しい。
お医者さんにも行ったし、薬ももらった。だけど飲んだからすぐに効いてくれるってものじゃない。
じっと横になって、回復を待つしかない。今はそんな時だ。
眠ろう。
とにかく、眠ろう。
眠ってしまえば、その間は少なくとも解放される。この頭の奥が軋むような痛みからは……。
目を閉じてじっとしていると、とろとろと意識が霞み始めた。そのまま力を抜いて、まどろみの中に降りて行く。ああ、よかった、これでちょっとは楽になれる、と思ったんだけど。
甘かった。
つるつる滑りやすいプールサイドに必死でしがみついていた。爪を立てても、指に力をこめても、ずるっと滑って落ちてしまう。
塩辛い水の中でもがいて、浮かび上がって、首を伸ばす。
やっとはい上がったと思ったら、またつるっと滑って後戻り。追いつめられてもがく。落ちる。もがく。一番嫌な瞬間が繰り返しループする。
夢の中でも、苦しいのが続いてる。
ぜい、ぜい、ひゅううう……と咽の奥から嫌な音がしている。
「く、る、し……」
吸っても吐いても空気が通らない。
息が、できない。
「た、す、け、て」
ぴた、と頬に優しい手があてられた。
「あ」
腫れ上がっていた咽が、すーっと楽になって、息ができるようになった。塩辛い水のプールも、つるつるの壁も消える。あったかい空気の中にぽわぽわと浮かんでいた。オレンジ色の淡い光に包まれて……。
ぽやーっとしながら目を開ける。眠る前により、ちょっと楽になっていた。
枕元に誰かいた。猫だけじゃない。犬だけじゃない。人間が、部屋の中にいる。おじさんかな、と思ったけど違うみたいだ。もっと背が低くい。髪の毛はふわふわした茶色で、心配そうにのぞき込む目は、目尻が下がっていてちょっと眠そうだ。
「よ、サクヤ」
「ゆーじさん?」
まだ夢を見てるんだろうか?
本当は昨日、おじさんと一緒に『エンブレイス』に行く予定だった。だけど熱を出してしまって行けなかったのだ。残念だなって思ってたから、ゆーじさんが夢に出てきたのかな。
でも、だったらどうして自分の家なんだろう。お店じゃなくて……。
「何で俺の家にいるの? ゆーじさんがいるのはお店だよ?」
「……」
ゆーじさんはきょとんとした顔で何か言いかけた。だけどそれより早く、ばさばさっと音がして真っ黒な翼が割り込んできた。真っ黒なくちばし、真っ黒な足。
カラスだ。
それもただのカラスじゃない。
「へーい、サクヤー! ないすとぅーみーちゅー!」
人間の言葉でしゃべってる。
「あーいたかったぜべいべぇ!」
「え、え、クロウ? 何でここにいるのっ?」
「Youに会いに来たに決まってるじゃーん! あいにーぢゅー、ゆーにーぢゅみー! 愛し合ってるかーいっ」
「こら。静かにしろ」
ぺちっとゆーじさんが後ろから、クロウの頭を手のひらで叩いた。
「あうちっ!」
「大げさな声出すんじゃねえ! それほど強く叩いてねぇだろが」
「くわわっ、どーぶつぎゃくたいはんたーいっ」
「人聞きの悪ぃ冗談抜かすな!」
いっぺんに目が覚めた。
「やっぱりゆーじさんだ」
「おう。寝込んだって聞いたからな。見舞いに来た」
「いぇーっ、お見舞い、お、み、ま、いーっ」
「うるせえ」
またぺちっと叩かれてる。そんな一人と一羽の様子を、神社の三匹の猫……おはぎとみつまめ、いそべの三匹がちょっと離れた所から見ていた。三匹ともうつ伏せにうずくまり、前足を畳んできちんと香箱を作って。
微妙な距離と、そろいもそろってぴっと臥せられた耳が語っていた。
(あ、うるさいの来た)
(うるさいの来た)
「どれ、熱は下がったかな」
ゆーじさんは手をのばして頬に触れた。さっき、夢の中で優しい手が触れていた場所だ。
「んー、まだちょっと熱いな……冷えぴとシート、取り換えておくか」
「うん」
おでこに貼った冷却ジェルシートは、すっかり乾いて落ち葉みたいに干からびていた。
ちょっと引っ張っただけで、簡単にはがれてしまった。ゆーじさんは枕元に置かれた新しい袋を開けて、一枚取り出して、裏の透明なシートをはがす。けっこうコツがいるんだけど、さらっとはがしてる。
「ほれ、でこ出せ」
「ん」
目を閉じて顎を引く。心持ち前に突き出されたおでこに、ぺとり、とやわらかなシートが触れる。
さらにその上から、ふっくらした手のひらが丁寧にシートを押さえてくれた。
(気持ちいい……)
うっすら開けた目に、ゆーじさんの顔が写る。さっきより近い。眼鏡無しでこの人を見るのは初めてだった。
顎の回りがぽわぽわと、うっすら灰色に霞んでる。最初は汚れてるのかなと思ったけど、よく見たらちがっていた。
(ヒゲ?)
剃りわすれたのかな。
伸ばしてるのかな。
どっちだろう?
「あ、薬のまなきゃ」
「起きられるか?」
「うん……」
のそっと体を起こそうとしたら、上手く力が入らなかった。ずるりと崩れ落ちそうになった体が途中で止まる。
「あれ?」
あったかい腕が、支えてくれてる。ゆーじさんが抱き留めてくれたんだなってわかるまでに、ちょっとだけ時間がかかってしまった。
「慌てなくていいから。ゆっくり、ゆっくりとな?」
「う、うん」
すぐそばで響く穏やかな声。何だかとっても気持ちいい。
ゆっくり、ゆっくり、あわてずに。
ゆーじさんに支えられて布団の上に起き上がる。枕元のお盆に置かれた薬と水に手を伸ばそうとすると。
「あ、ちょっと待った」
「え?」
ゆーじさんは、銀色の保冷バッグからちっちゃな丸いタッパーを取り出した。大きさはアイスクリームのカップぐらいで、多分陶器でできている。蓋を外すと、そのまま食器として使えるタイプのだ。
小さなスプーンを添えて渡してくれた。
「これ、何?」
「シャーベットだ。薬飲む前に、何か腹に入れておいた方がいいだろ?」
「ありがとう」
ひんやり甘いりんごのシャーベット。ちょびっとシナモンが入っていて、口に入れると淡雪みたいに溶けた。
鼻と咽がすーっとした。火照った体に気持ちいい。どんなに冷やしても届かなかった、咽の奥が楽になる。
「これ、ゆーじさんが作ったの?」
「ああ」
「すごいなー」
「割と作るの楽だぞ。リンゴをジューサーでガーっとやって、砂糖で軽く煮て、ヨーグルトと混ぜて冷やすだけだから」
「そうなの?」
「ジュース使うと、もっと早い。あ、凍らす途中で時々かきまぜるの忘れるずにな」
「泡立て器で?」
「いや、へらのがやりやすい」
「今度作ってみる!」
目を輝かせて話を聞くサクヤを見ながら、神楽裕二は思っていた。
来て良かった、と。
「その前に風邪治さないとな?」
「……うん」
薬を飲んで横になると、ぱたぱたとクロウが枕元に降りてきた。
「こもりうたうたってやろっかーっ?」
「よさんか!」
「うぐわっ」
「寝てろ、サクヤ。こいつは俺が押さえてるから」
「んぐぐぐぐぐ」
むんずとくちばしを押さえられ、クロウは目を白黒。おかしくて、くすくす笑いながら目を閉じた。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
治った後に楽しいことが待ってると思うと、不思議と眠るのも怖くなくなった。
※
ちょうどその頃、サンフランシスコの聖アーシェラ高校女子寮では……。
一人の女生徒がおっかなびっくり、ルームメイトを見守っていた。今日は朝から元気がなかった。さらに夕食後、部屋に戻ったらいきなり机につっぷしてしまったのだ。
眼鏡も外さず、そのまま。
(居眠り?)
(気絶?)
(どうしよう、誰か呼んで来た方がいいかな)
おろおろしていると、急にがばっと起き上がった。
「よ、ヨーコ……大丈夫?」
「うん、平気」
「そう、なら、いいけど」
やっぱり体調良くないのかな。いや、ひょっとしたら落ち込んでるのかも? そろそろホームシックにかかる頃合いだし。
同じアメリカから来た自分だって寂しいんだもの。ましてこの子は、他の国から来たんだから。
「えーと、んーっと」
この子を元気づけるには、やっぱり……
「フローズンヨーグルト食べる?」
「食べる!」
よし、成功。
「さんくす、カリー。心配かけてごめんね」
結城羊子は眼鏡を外して、ふっと吹いて。きゅっきゅとティッシュでレンズを拭うとかけ直し……
「もう、大丈夫」
ほほ笑んだのだった。
(風邪引きサクヤちゃん/了)
次へ→サプライズなお客様
▼ 【5-5-0】登場人物
【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】
通称マックス、家族からはディーと呼ばれていた。
聖アーシェラ高校一年、テキサス出身。
父親の七光りから自立すべく、サンフランシスコの高校を選んだ。
ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、鼻と頬の周辺にそばかす。
裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
週末、農場でアルバイトを始める事にした。
テキサスではほとんど地震が起きないので地面が揺れると大パニック。
【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】
聖アーシェラ高校二年。ロスの実家を離れて学生寮で暮らしている。
ライトブラウンの髪と瞳、ほっそりと華奢な体格、整った顔立ち。
人との接触を好まず滅多に笑わない。
その冴えた美貌と遺伝子レベルで組み込まれた高貴さ故に秘かに「姫」と呼ばれている。
突如自分の生活に割り込んできたガサツなルームメイトに苛々していたが、最近は一緒にご飯を食べている。
週末、ディフが留守にしてしまうのが微妙にお気に召さないらしく今回、全体的に不機嫌。
【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
サンフランシスコ出身、聖アーシェラ高校一年。
さらさらの黒髪にくりっとしたアンバーアイ、細身で愛らしい子リスのような美少年。
五才の歳に両親と死に別れ、里親の元で育てられている。
その愛くるしい外見と人当たりの良さ故に上級生に人気がある。
人物観察に優れ気配りもできるはずだが割とさくさく地雷を踏むのはこの頃から。
【結城羊子/ゆうき ようこ】
日本出身の留学生、聖アーシェラ高校一年。
通称ヨーコ。
小柄でほっそりぺったん、ほとんど小学生と言っても通りそうな外見だが、れっきとした高校生。
強気で勝ち気で歯に衣着せぬ男前女子。
それでも最近ちょっぴりホームシック。
【マッキロイ】
サンフランシスコ郊外の農場の主。
ディフの伯父さんの友人。
【モニーク・シャーウッド】
聖アーシェラ高校一年。
笑い声の可愛い活発な女の子。
同じクラスのある男子生徒にデートに誘われOKする。
次へ→【5-5-1】戸惑う姫