▼ 【5-5-6】ナマズガーディアン
サンフランシスコに来て初めて、大きな地震のあった次の日。
朝、起きたら床で寝てた。しかも自分のベッドじゃなくて、レオンのベッドの下で。目を開けてまず思ったんだ。「俺、何でこんなとこで寝てるんだろう」って。
寒くは無かった。ちゃんと毛布を被っていたから。ただ、残念なことに枕はなくて、直に床に頭をつけていた。
隣のベッドは既に空っぽ。レオンはとっくに起きて、きっちりと身支度を整えていた。
「これ、お前が?」
「また、風邪を引いたりしたら困るからね」
「ありがとう」
「どういたしまして」
ついっと顔を逸らしてしまった。何だかやたらと恥ずかしい。きっと寝てる間にベッドから落ちたんだろうな。しかもこんな所まで転がって……どんだけ寝相が悪いんだ、俺は。
そそくさと起き上がり、毛布をベッドに戻す。
「あいてっ」
めきっと首や肩がきしむ。そりゃしょうがないよな。床の上で寝てたんだから。
いつにも増してくしゃくしゃになったパジャマを脱ぎ捨て、シャツに袖を通す。ボタンを留めているとふと気配を感じた。振り向くと、レオンがこっちを見ていた。
「どうした?」
「……何でもない」
ぷいっと、今度は完全にあっちを向いちまった。
どうしたんだろう。俺、何かあいつを怒らせるようなこと言っちまったのかな? あ、ひょっとしたら腹減ってるのかも知れない!
大急ぎで服を着て、歯を磨く。髪の毛をとかすのもそこそこに、キッチンに立った。
「すぐ、飯作るからな!」
「ああ」
卵が焼けて、トーストにバターを塗るまでの間に、レオンはすっかりいつものレオンに戻っていた。入れてくれた紅茶も美味い。でもどこかが、何かが違う。ボタンを掛け違えたような感覚が抜けなかった。
「なあ、レオン……」
口を開きかけたその瞬間、みしっと壁が揺れた。
「っ!」
びくっと全身がすくみあがる。
「………風だよ」
「そ、そっか、風か」
ほっと胸をなで下ろし、あわてて付け加える。
「ちょっと、びっくりしただけだからな! ビビってなんかいないぞ!」
「わかってるよ」
レオンは小さく笑ってうなずいた。いつもと同じ表情。いつもと同じ声。
うん、さっきの違和感は、やっぱり気のせいなんだ。そうに違いない。
※
教室に行っても、誰も昨日の地震の事なんか話題にしてなかった。俺の感覚じゃあものすっごい大きな地震が起きたって感じなのに。ほんと、サンフランシスコじゃあ日常茶飯事なんだな。
おかげで困った事に誰に言うこともできない。
『夕べの地震、すごかったなぁ』って。
結局レオンの前じゃ強がって平気なふりしちまったし。
何かの形で口に出せないと、どうにもこう内側に篭って、消えない。
部屋が揺れた瞬間のショックと恐怖が、心臓の辺りに冷たくわだかまってるようで……。どうしよう。どうすればいい。あの逃げ場のない、絶望感。日常生活が崩れて底なしの穴に吸い込まれる感覚が、消えない。
ってなこと考えていたら、また窓がめきっと軋んだ。
とっさに身構えるより早く、足下からゆさっと揺さぶられた。間違いない、床が揺れた、これは地震だ!
「うわっ、揺れたぁっ」
どうする、机の下かっ? とっさに見回したが……。
誰も動いてない。ちょっとびっくりした顔してるだけで、のん気に喋ってる。
「お、揺れたね」
「夕べのよりは弱いかな」
そっか……。夕べのより弱いんだ……。
へなへなと膝から力が抜ける。椅子にへたりこんでいると、にゅっと眼鏡をかけた琥珀色の瞳がのぞき込んできた。ヒウェルかと思ったけど、違う。あいつはこんなに髪の毛を長く伸ばしてないし、瞳の色も、もっと薄い。
「大丈夫?」
「あ、ヨーコ?」
そうだ、彼女なら地元の人間じゃないし、地震が怖いってのも通じるかも!
なんて思ったのも束の間。ヨーコはじーーーっと涼しげな瞳で俺の顔をのぞき込み、きっぱり言った。
「何、あんた地震怖いの?」
「う」
……そうだよ、彼女、日本の出身じゃないか。日本って世界有数の地震大国なんだよな。慣れもするよな、うん。
「……うん」
猛烈に恥ずかしくて、小さく小さくうなずいた。
「じゃあこれあげる」
ヨーコは抱えていたバインダーを開いて、ぺらっと紙を一枚取り出した。厚みがあって、しなやかな紙には、黒い流線型の体をした、でっかい生き物が描かれている。頭の上に、着物を着てヒゲを生やした男が乗っかって足を踏ん張り(サムライか?)、でっかい石で謎の生き物を押さえ込んでいた。
「何だこれ。サカナ?」
「ナマズよ」
ああ、確かにヒゲがある。
「何で、ナマズ?」
「地震封じのお守りなの」
「そ、そうか、これ地震のカーディアンなのか!」
「部屋の壁にでも貼っときなさい」
「うん! ありがとな、ヨーコ!」
お守り。それだけで何だか心が軽くなった気がした。ちょうどいいんだ。俺にとって地震ってのは得体の知れない化け物みたいなものだから。
「……君、いつもこんなの持ち歩いてるのか?」
「イエス。実家が神社だからね」
「ジンジャ?」
「教会みたいなものよ」
よく分からないけど、宗教的なものだってことは分かった。
「あれか。牧師さんの娘が聖書持ち歩くみたいなもんか?」
「だいたい合ってる」
「そうか!」
うん、何となく納得した。
※
「ただ今ー」
夕方、寮に戻ってから早速、ディフは部屋の壁にナマズの護符を貼った。
自分用のベッドの傍らに張り付け、うん、と頷く赤毛頭を、レオンはぽかーんとして見守った。
彼が戻って来たら、どうやって接すればいいのか。重苦しい胸を抱えて悶々と思い悩んでいたら、これだ。
部屋に入ってくるなり、鞄から謎の紙を取り出して壁に貼り付けてる。
しかも、ものすごく真剣な表情で……。何かと思えばこれがまた、珍妙な黒いぬるっとした魚の上に大きな石を抱えたサムライ(多分)が乗っかって、足を踏ん張る図なのだった。
真剣に悩んでいたところに予想外の行動。呆気にとられて気が抜けて、思わず疑問が素直に口から零れ出る。
「なんだいそれは」
「ナマズ」
「……うん、それはわかるよ」
さらに先を促す。表面上はあくまでやわらかな笑顔で。
「何でナマズの絵をそんな所に貼ってるんだい?」
ディフの頬にじわああっと赤みが広がる。透き通る肌の下に血が巡り、ソバカスをくっきりと浮かび上がらせる。
「それは……」
口ごもりながら、視線を左右に泳がせている。
恥じらいながら、とまどいながらも、打ち明けようとしているのだ。レオンは辛抱強く待った。待てば彼は必ず話すとわかっているからだ。
「クラスメートにもらった。地震のお守りなんだ、これ」
「なるほどね」
とうとう目を伏せてしまった。くっきりと濃いピンクに染まった首筋をさらして、うつむいている。
「……ごめん、俺、嘘ついてた。地面がゆれると、やっぱ怖い」
そんな事、隠すまでもない。あの反応を見た瞬間からわかっていた。自分のしたことはただ、彼の強がりを見逃しただけだ。
「恐怖心があるのは、いいことだと思うけどね。慣れすぎてると、頭を保護するなんて基本的なことも忘れるよ」
「そ、そうなのか?」
ディフはぱちくりとまばたきして、見つめて来る。ヘーゼルブラウンの瞳が揺らぎ、夢のようにうっすらと緑を帯びている。
本来の優しげな薄い茶色に、緑色のきらめきが混ざる。いつまでも見ていたくなる。
(ああ、吸い込まれそうだ)
「怖がるのは、男らしくないって。ずっとそんな風に考えてた」
戸惑いながらも、しっかりと与えられる言葉に我に返る。
「お前、すげえな、レオン。初めてだ、そんな風に言う奴」
「恐怖を感じられることは、重要だと俺は思う。もちろん、恐怖にとらわれて何もできなくなるようでは困るけれど」
ディフはじーっと自分の手を見下ろし、それからくっとにぎった。
「忘れないよ。ありがとな、レオン」
「……ああ」
もわっと熱気が漂ってくる。いつの間にか、彼はすぐ近くまで身を寄せていた。感情が高ぶったせいか体温が上昇し、温められた肌の香りが立ち上る。
それを何と表現すれば良いのだろう? ミルクのような。チーズのような。動物としての性質を感じさせながらも、どこか甘く、ふっくらしている。嗅いでいるだけで、その滑らかな体に触れているような錯覚を覚える。
頬を紅潮させながら見つめてくる、彼の真剣な表情が、凄まじく……色っぽい。
(何を考えてるんだ、俺はっ!)
もう隠しようがない。ごまかせない。はっきりとそう感じる自分に戸惑った。
ほんの一歩、後ろに下がればいいのに動けなかい。彼から離れるなんて、考えただけでぎりぎりと腑が締め上げられる。
ざわりっと背筋を甘美な刺激がはい登る。だが今ならまだ理性で押さえ込める。そう、自覚してしまった今だからこそ。
「お茶を入れよう」
「さんきゅ、レオン! お湯、わかしてくる!」
地震への恐怖を打ち明けたら、吹っ切れたようだ。
上機嫌でキッチンに向うディフを見守りながら、自分に言い聞かせる。
飢えは一度自覚してしまったら最後だ。忘れる事はできない。
だから隠そう。彼にだけは知られないようにしよう。
この気持ちを。じりじりと体の内側から焼き尽くす狂おしいばかりの劣情を……
そのいじらしくも悲愴な決意がよもやその後、十年の長きにわたって続こうとは、この時のレオンはまだ知る由も無かった。
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