▼ 【5-5-3】苛立つ姫
レオンは落ち着かなかった。
休みの日、以前はマクラウドと一緒にいるのがうっとおしくてたまらなかった。それなのに彼が出かけてしまった後、妙に部屋の中が寒々しい。
妙な話だ。元々はこれが日常だったはずなのに。
図書館に行こうかとも思ったが、何故だか外に出かける気になれなかった。
机に座り、本を開く。だがページを繰っても中味はまるで頭に入らない。合間合間に時計を見ても、二本の針は凍りついたようにちらとも動かない。
さらさらさら。
さらさらさら。
砂のこぼれる音が聞こえる。乾き切った灰色の砂が落ちて行く。積もって行く。こう言う時に限って嫌と言うほどゆっくりと。その名を『時間』と言う。
彼が農場から帰ってくるまで、あと何時間?
じりじりと過ごすうちに昼になったので、ディフが用意してくれた昼食を食べた。全粒粉のイングリッシュマフィンに薄切りのソーセージとチーズと野菜をはさんだサンドイッチだ。
いつもの朝食とほぼ同じ食材のはずなのに。確かにディフが作ったはずなのに(自分も隣で見ていたのだからまちがいない)
まるで砂を噛むように味気ない。
それでも最後まで口に入れたのは、ひとえに彼の作った食事を残したくなかったからだ。
食べ終わった皿をシンクに運び、この日何度目かのため息をつく。
いっそ雨が降ればいいのに。そうすれば農作業は中止になる。それだけディフが早く帰って来る。
窓から空を見上げたが、忌々しいことに雲一つない。諦めて読みかけの本に戻ろうとすると……
ドアがノックされた。
その瞬間、レオンの眉間に刻まれた深いしわは消え去り、目が見開かれる。ライトブラウンの瞳が揺らぎ、ぱあっと顔全体が輝いた。
足取りも軽く駆け寄ってドアを開ける。そこに立っていたのは……
「あ、ども、こんにちは」
つややかな黒髪にくりっとした琥珀色の瞳。ほっそりした体つきの、リスにも似た愛らしい少年だった。
ずうんっと氷の塊がレオンの喉元を滑り降りる。
ついさっきまで揺らいでいた温かな炎は一瞬にして消え去り、分厚い氷が全てを覆い尽くした。
※
ヒウェル・メイリールは観察眼の鋭い少年だ。
だからクラスメイトの些細な変化にすぐに気付くことができた。
「何、お前珍しい色の靴下履いてるのな」
指摘した瞬間、ディフはかーっと頬を赤くした。鼻と頬の周りに散ったそばかすがくっきりと浮かび上がり、肌の上に赤みが広がる。ヘーゼルブラウンの瞳が逃げ場を求めて左右に泳いだ。
「そんな色の靴下持ってたっけ? ピンクの……」
「わーわーわーっ!」
ディフは慌ててがしっと腕をヒウェルに巻き付け、手で口を塞ぐ。
「ふごっ、ふぐ、ふぐぉっ」
あまりの慌てっぷりに誰かから(それも女の子)からのプレゼントかとも思ったが、真実はもっと単純で間が抜けていた。
「はぁ? 赤い靴下と一緒に洗っちまった?」
「……うん」
「前の奴が忘れてったの気付かずに、そのまま」
「うん」
肩をすくめ、背中を丸めてこっくり頷く友人の姿は、自信満々に飛びついたフリスビーを僅差で逃した犬そっくりだった。
「ってことは、一緒に洗ってたシャツとかタオルなんかも………」
「全滅だ」
「あー……」
「残った分でやりくりしてたんだけど、どうしても足りなくってさ」
赤毛をわしゃわしゃかき回しながら、うつむいてぽつり、ぽつりと説明する。
その顔で女の子に同じことを言えば、たちどころに半年分の靴下が集まるだろうに。この朴念仁ときたら。
「女の子たちには内緒だぞ」
なんて念押しして来やがった。テキサス男子たるもの、ピンクの靴下を履いてることを女子に知られるのは言語道断、ってことらしい。しかも親にも頼らず、靴下買うためにバイトするとかどんだけ本末転倒か。
(ったく、世話の焼けるカウボーイめ!)
その日家に帰ってから、里親のウェンディに尋ねてみた。
「ウェンディ。この間、ピーターの靴下まとめ買いしてたよね?」
「ええ。安かったからね。まさか、もう足りなくなった?」
「ううん、俺の分は足りてます、十分です」
自分の分も同じくらいがばっと買いだめしてくれたのだ。
「実はさ、マックスの奴がさ」
「あのテキサスから来てる子?」
「うん。寮の洗濯機で、うっかり赤い靴下と白いのまとめて洗っちゃって……」
「あらあら」
「全部ピンクになっちゃったんだ」
「あらまあ」
「俺のだとサイズが合わないけど、ピーターだったら合うんじゃないかなーって思って」
「ちょっと待ってね」
その場でウェンディーは寝室に行き、靴下の詰まった箱を抱えて戻ってきた。
「持ってきなさい」
「いや、さすがにこれ全部は多すぎるから!」
「じゃあ、半分だけ?」
「もう一声」
みっしり詰まっていた靴下は徐々に減って行き、ヒウェルが「うん」と頷いた時は箱にはだいぶすき間が空いていた。
「ちょっと待ってね」
ウェンディが次に飛んで行った先は、キッチンだった。
「これも持ってきなさい。あとこれも……これも……」
結局、箱のすき間は埋まった。
※
そんな訳で日曜日。ノートを貸す約束もしてあったし、物はついでだ、善は急げだ。
靴下以外のスープやスパムの缶詰め、タオルにパスタにビスケット、そしてリンゴ。それこそ実家から届いた荷物そのまんまのラインナップが詰まった箱を、えっほえっほと抱えてやって来た。
けれどドアを開けたのは、ディフじゃなかった。
(うっそだろ? まさかいきなり、姫とご対面とか!)
予想外の相手と出くわし、ヒウェルはびっくり仰天。とっさに答えてしまった。
「えーっと……その………ディフいます?」
呼び名を切り替えるのを忘れたと気付いた時は、既に遅かった。
ただ冷たいだけだった姫の表情に、さらに磨きがかかる。さっきまでが氷柱なら、今は氷の刃だ。触れた瞬間すぱっと切れる。
「いや」
(うーわぁああ、やっべーっ)
腋の下にじっとり冷たい汗がにじむ。まさか今日から既にバイトに行ってたのかディフ。即断即決、何て素早い奴なんだ。
「あ、その、それじゃ待たせてもらっても」
「断る」
「…………………………」
ばっさり斬り付けられて、ついでに三枚に下ろされた気がした。ここは大人しく引き下がった方が身の為と判断し、恐る恐る箱を差し出す。
「あー、それじゃこれ、頼まれてたノートと荷物……渡しといてください」
「わかった」
憮然とした表情で姫は箱を受けとった。と思ったら、鼻先でドアを閉められる。ばったんっと、そりゃあもうすんごい勢いで。
ばっふん、と前髪が舞い上がる。
つま先を挟まれずに済んだのは、多分奇跡だろう。
ドアの材質自体が重たいから、とか。たまたま風が吹いたから、とかそんなんじゃ到底説明のつかないようなレベルだった。
すごすごと帰る道すがら、ヒウェルは思った。
(あれって、やっぱ焼きもちなんだろうなあ……)
(ひょっとして姫ってば、すっごくディフを気に入ってる?)
※
レオンはイライラしていた。
もはや本を見る気にもなれない。
どさりと箱をディフの机の上に置いた。本当は床の上に放り出してやりたい所だったけれど、彼宛に届いた以上はもう、ディフの物だ。おいそれと粗末にする訳には行かない。
いくら持ってきた相手が気に入らなくても。
(何なんだ、あいつは!)
愛称で呼んでいる所を見ると、かなり親しいようだ。恐らくはクラスメイトか。
(そうだ、ディフと呼んでいた。マックスでもなく、マクラウドでもなく)
そのことがさらに苛立ちを煽りたてる。
しかも言うに事欠いて待たせてくれ、とは。絶対あり得ない。冗談じゃない!
ちらっと箱を見る。テープで封をされていないし、ふたも半分開いている。中からちらりとノートが覗いていた。
頼まれていたのは本当だろう。しかし、他の荷物は一体何なのか。
気にならないと言えば嘘になる。だが人の物を勝手に開けるには、レオンハルト・ローゼンベルクはあまりに礼儀正しかった。
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