▼ 【5-5-5】俺のクマどこ?★
その夜、異変が起きた。
レオンハルト・ローゼンベルクは異様な気配を感じてベッドの中で目を開けた。
何かが枕元に立っている。ぬうっとしか言いようのない質量を供えた体温の高い生き物が、二本足で。ぎょっとして半身を起こし、ベッドサイドの明かりを着ける。
淡いオレンジの光に浮かび上がったのは……
「ディフ?」
見慣れたルームメイトの顔だった。
ゆるくウェーブのかかった赤毛はもしゃもしゃに乱れ、縞模様のシャツパジャマを着ている。
一応、ベッドに入った時と同じ服装だ。しかし、一体どう言う寝相をしていたらこうなるものか。パジャマのボタンが外れて袖がずり落ち、左の肩が完全に剥き出しになっている!
しかもこの寒い中、彼がパジャマの下に着ていたのは袖無しのランニングシャツだった。
くしゃくしゃになった白い布地は、ほとんど肌を覆う役割を果たしていない。大きく開いた襟ぐりから、鎖骨がくっきりと覗いている。
それだけじゃない。肉厚な体にぴちっと薄い布が張り付いて、乳首の形がぽっちりと盛り上がっていた。
どきっとした。
(馬鹿な、何故、慌てる必要がある。これまで何度も見てるじゃないか。もっとだらしのない恰好だって見ているはずなのに!)
「……ディフ?」
「……」
妙だ。とろーんとして、目の焦点がほとんど合っていない。のろのろと緩慢な動作も彼らしくない。どうしたんだろう、また熱でも出したのだろうか?
「ディフ」
心配になって、今度はさっきよりもう少し、大きな声で呼びかけた。すると彼はのろーりと首を巡らせ、こっちを見下ろした。
ゆっくりと口が動く。
「……どこ?」
「え?」
たどたどしい、子供みたいな喋り方だった。
「俺のクマどこ?」
クマ(Teddy bear)?
頭の中が真っ白になる。問い返すことも、答えることも忘れていた。
「俺のクマ……茶色で耳がかたっぽとれてるやつ」
ゆーらゆーらと手が差し伸べられ、髪に触れた。
「あ……」
ほわあっとディフの顔に幸せそうなほほ笑みが浮かぶ。
「あった」
「え?」
次の瞬間。熱い、がっちりした体がベッドの中に潜り込んできた。
「なっ!」
何が起きたのか、とっさに理解できなかった。ようやく現実を把握した時には、同じベッドの中でがっしりした腕に抱きしめられていたのだった。
「っっっ!」
それは生まれて初めての感触だった。
風邪で寝込んだ時も彼に抱きあげられたが、その比ではない。限られた空間の中、手も足もしっかりと絡み合い、体温が混じる。薄い寝巻きを通して彼の『体』を識った。今まで見てきた逞しさを、肌の熱さを直に感じた。
「う……」
ずっと、飢えていた。自分の中の最も奥深い部分にぽっかり開いた、底なしの穴が叫んでいた。
欲しい、欲しい! と。
その穴が今、満たされている。
今までどれほどの物を放り込んでも吸い込まれるばかりで、決して埋まることなどなかったのに!
ただ体が触れ合っている、それだけの事なのに。
こんなに単純な事だったのか。何をしても、見ても聞いても、食べても飲んでも決して消えることのなかった飢えを満たすのは。
(ずっと、ここに居たい)
(彼に包まれて居たい)
二人分の体熱の篭った毛布の中、密着したディフの体から鼓動が伝わって来る。
穏やかで、ゆっくりとしている。
一方でレオン自身の心臓は激しく脈打ち、今にも肋骨を突き破りそうだった。耳奥で轟音が響き、こめかみの内側で血管がぱちっと弾けそうだ。
(欲しい)
(彼が欲しい)
ぎゅんっと足の間で何かが疼いた。下着の内側に熱が篭る。だが痛くはない。むずがゆく、その癖、妙に甘美で、もどかしい。
自分の中に初めてわき起こる生臭い衝動。熱を出して寝込んだディフを見た時には、かすかな騒めきでしかなかった『それ』に突き動かされ、ぴくりと手が震える。
(服が邪魔だ。何もかもはぎ取って、直に触りたい。見たい。味わいたい!)
指先が、ぴったりと密着した脇腹をかすめ、胸元をなで上げる。
がっちりした骨組み、しなやかな筋肉。その上を覆う、滑らかで白い肌。布越しに触れただけでも熱く、張りがある。手のひらを押し当てて撫で回したらどんなに気持ちいいだろう?
既にパジャマの片袖はずり落ちている。袖無しのシャツをほんの少し、ずらせばいい。
身を乗り出した瞬間、ふわふわの赤い髪の毛が、顔に触れた。
(あ……)
息を吸い込み、顔を埋める。絹のように柔らかなその感触に引き寄せられ、手を伸ばしていた。指をからめて、綿菓子みたいな髪を撫でた。
「ん……」
鼻にかかった声を漏らし、ディフが身じろぎする。
その声を聞いた瞬間、さーっと血の気が引いた。
(自分は今、何をしようとしていたんだろう?)
いけない。このままでは、いけない。踏み越えてはならない壁を突き破ってしまう!
恐れとも罪悪感とも知れぬ冷たさにわななきながら、レオンはぐいっと渾身の力を込めてディフを押しのけた。
「う?」
ごろんっとベッドから転がり、床に落ちる。
けっこうな衝撃があったはずなのだが……ディフはもぞもぞと身じろぎして、その場で丸まり、目を閉じた。
すぐに、すーっ、すーっと穏やかな寝息が聞こえ始める。
「……」
レオンはそろりと動いた。それまで凍りつき、息も潜めていたのだ。
どうしよう。ベッドまで運ぼうか?
多分無理だ。自分にはそんな力はない。あったとしても、もう一度彼の体に触れるなんて……。
ぴくっと指が震える。遠ざかったばかりの熱を求めて。
(だめだ!)
拳を握り、ベッドから抜け出した。火照った素足に床板の冷たさが染みる。だが構うものか。いちいちスリッパなんか探している場合じゃない。
ディフのベッドから毛布をはぎ取り、彼の上に被せた。それが精一杯だった。
「ん………」
ディフはもそもそと背中を丸めて、顔を埋めてしまった。
ようやく、危険な身体が分厚い毛布に覆われた。だが、それは依然として『そこ』にある。
ベッドに潜り込み、彼に背を向けた。
身体が細かく震えている。熱いからなのか、寒いからなのか、分からない。
今度抱きつかれたら自分は何をやってしまうか分からない、それが恐ろしい。
一度満たされる事を知ってしまうと、魂の奥底の空っぽの穴は前にも増してどん欲になった。より強烈な飢えを訴えて、叫んでいる。
『彼が欲しい! 欲しい! 欲しい!』
男に……いや。ディフに触りたかった。裸を見たかった。
身に着けているものを残らずはぎ取り、一糸纏わぬ身体を思う存分いじり回したい。キスしたい。押し倒してセックスしたい。
これまで薄い殻一枚被ったまま、蠢いていた生々しい自分の欲望。今やレオンハルト・ローゼンベルクはその正体をはっきりと自覚していた。
思い知らされてしまった。
(自分は男に欲情している)
(俺は、ゲイだったんだ!)
どうしよう? どうすればいい?
戸惑い、混乱しながら必死で考えた。
まんじりともせぬまま夜を明かし、明け方になってようやく、結論に達した。
クマ(Teddy bear)を探してるのなら、それを渡してやればいい。
※
空が白み始める頃。レオンはこっそりと起き出してバスルームに篭った。しっかりと鍵をかけ、携帯電話を取り出す。短縮ダイヤルで呼び出したのは、忠実な執事アレックスの番号だ。
こんな時間にも関わらず、すぐに出てくれた。
「アレックス。手配してもらいたいものがあるんだ。実は……」
「かしこまりました。早速、オーダーメイドの一点ものをドイツのシュタイフ本社からお取り寄せして……」
「そんなに待てない。とにかく急いでくれ」
「かしこまりました」
16才の少年が求めるにしてはいささか不釣り合いな代物を、有能執事は何ら問い返す事なく、迅速に手配してくれた。
そして昼休み、レオンが一度部屋に帰った時には既に、件の荷物は管理室に預けられていたのだった。
受け取り、部屋に持ち帰る。ディフがいないのを確認してから箱を開けた。
ふかふかとして手触りのよい茶色の毛並、黒いボタンの目、同じ色の糸で念入りに刺繍された鼻と口。
丁寧に作られた、身の丈30センチほどのテディ・ベア。ずんぐりした手足はそれぞれ肩と足のジョイントで胴体に接続し、自在に動かせるようになっている。
左の耳についた黄色いタグには流れるような書体で「Steiff(シュタイフ)」と書かれていた。
これが果たしてディフの探しているクマと100%同じかどうかは分からない。
だが、気をそらす役には立つはずだ。何と言っても、自分と間違えたくらいなのだから。
レオンは満足げにうなずき、テディ・ベアをクローゼットにしまった。
次に『あれ』が起きたら、これを渡せばいい。
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