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ローゼンベルク家の食卓

メッセージ欄

2010年7月の日記

【ex11】ぽち参上!

2010/07/26 0:49 番外十海
 
  • 2007年2月。雨の中をさまよったシエンは熱にうなされ、過去の壮絶な恐怖の記憶に怯える。震える魂を狙い、再びローゼンベルク家に夢魔が侵入。少しずつ『食卓』に集う人々を蝕んでゆく。
  • 「これじゃクリスマスの二の舞いだ」「こうなったら奥の手よ!」かくして結城神社に代々伝わる守護獣『獏』を出動させることになった………のだが。ここで若干の問題が発生した。当代の『獏』は、大の男ぎらいだったのだ。
  • 夢の狩人たち、再びサンフランシスコに見参。
【attenntion!】タイトルに『★★★』の入っている章には男性同士のベッドシーンが含まれています。十八歳未満の方、および男性同士の恋愛描写がNGの方は閲覧をお控えください。
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【ex11-0】登場人物

2010/07/26 0:50 番外十海
 
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【結城朔也】
 アメリカでの愛称はサリー。
 サンフランシスコに留学中の23歳、癒し系獣医。
 従姉の羊子とは母親同士が双子の姉妹で顔立ちがよく似ている。
 巫女さん姿がよく似合う。
 
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【結城羊子】
 通称ヨーコ、サクヤの従姉。26歳。
 小動物系女教師、期間限定で巫女さんもやります。
 高校時代、サンフランシスコに留学していた。
 現在は日本で高校教師をしているが、うっかりすると生徒に間違われる。
 NGワードは「ちっちゃくてつるぺた」「メリィちゃん」
 
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【カルヴィン・ランドールJr】
 純情系青年社長。ハンサムでゲイでお金持ち。
 サンフランシスコ在住の33歳、通称カル。
 骨の髄からとことん紳士。全ての女性は彼にとって敬うべき「レディ」。
 風見とは海と世代を越えたメル友同士。
 狼とコウモリに変身し、吸血鬼を彷彿とさせるドリームイメージ(夢の中の分身)を持つ。
 
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【風見光一】
 目元涼やか若様系高校生。羊子の教え子でサクヤの後輩。17歳。
 家が剣道場をやっている。自身も剣術をたしなみ、幼い頃から祖父に鍛えられた。
 幼なじみのロイとは祖父同士が親友で、現在は同級生。
 剣を携えた若武者のドリームイメージを有す。
 律義で一途でちょっぴり天然。
 先生と社長の微妙すぎる距離が気になる今日この頃。
 
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【ロイ・アーバンシュタイン】
 はにかみ暴走系留学生。風見の幼なじみで親友、17歳。
 金髪に青い目のアメリカ人、箸を使いこなし時代劇と歴史に精通した日本通。
 祖父は映画俳優で親日家、小さい頃に風見家にステイしていたことがある。
 現在は日本に留学中。いろいろまちがった方向に迷走中。
 ニンジャのドリームイメージを持ち、密かに風見を仕えるべき『主』と決めている。
 ニンジャなだけに変装は完璧。
 コウイチに近づく者は断固阻止の構え。 
   
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【シエン・セーブル/Sien-Sable】
 不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
 ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
 過去に誘拐された事があり、恐怖の記憶に夢魔が忍び寄る。
 夢魔にとって彼は「とびっきり美味しい」エサなのだ。
 
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【オティア・セーブル/Otir-Sable 】 
 不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
 ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
 マクラウド探偵事務所の有能少年助手。
 シエンとともに夢魔に狙われる。
 
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【オーレ/Oule】
 オティアの飼い猫。
 白毛に青い瞳、左のお腹にすこしゆがんだカフェオーレ色の丸いぶちがある。
 最愛の『おうじさま』=オティアを守る天下無敵のお姫様。
 いつもは探偵事務所の『びじんひしょ』、今回は『ナースさん』。

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【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】 
 通称レオン
 弁護士。ヒウェルとは高校時代からの友人。27歳。
 ライトブラウンの髪と瞳、身長180cm、着やせするタイプで意外と筋肉質。
 かつて愛する人を拉致された記憶に夢魔がつけ入る。
 増幅する心の闇は、彼の潜在的に抱える黒い感情を暴走させて行く。
 
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【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】 
 通称ディフ、もしくはマックス。
 元警察官、今は私立探偵。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
 レオンの嫁で双子の『まま』。
 愛情の深さ故に夢魔の侵入を許してしまう。
 愛情の強さ故に(そして罪悪感故に)レオンの暴走をも受け入れてしまう。
 
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【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
 フリーの記者。26歳。
 黒髪、アンバーアイ、身長180cm、細身(と言うか貧弱)
 フレーム小さめの眼鏡着用。適度にスレたこずるい小悪党。
 最近ワーカホリックに磨きがかかってすっかり不健康に。
 
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【藤島千秋】
 風見の幼なじみで羊子の教え子。ロイとは同級生にあたる。
 学校では合唱部に所属するスレンダーな女の子。
 でも将来有望な17歳。
 
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【三上蓮】
 ちょっぴり腹黒い糸目のお兄さん。
 本職は神父だが現在、結城神社に潜伏中。浅葱の袴の神官姿も板についてきた。
 天涯孤独で教会で育てられた過去を持つ。
 29歳、大柄で意外に鍛えている。
 風見の祖父より剣術の手ほどきを受け、兄弟子にあたる。
 羊子、サクヤとは学生時代から面識あり。
 
次へ→【ex11-1】獏を呼べ

【ex11-1】獏を呼べ

2010/07/26 0:52 番外十海
 
 ベッドで眠る金髪の少年が二人。骨格も肌の色合いも、顔も体つきも瓜二つ、違いと言えば髪の毛の長さと着ている寝巻きの色ぐらいだ。浮かべる苦悶の表情さえもそっくりな双子は目を閉じて固く抱きあい、がたがたと震えていた。

(互いの存在こそがこの世で唯一の支え。この手を離せば荒れ狂ううねりに飲み込まれ、ばらばらに引き裂かれてしまう)

 黒い『もや』のようなものが、二人にまとわりついている。
 汗ばむ首に巻き付き、顔に貼り付き、手足をからめとろうとするその動きには、明らかに意志が。それも、良からぬ意志が宿っている。双子がもがき苦しむにつれ、うっすらと空気の中に有るか無しかの密度でしかなかったものが、次第に濃さを増していた。
 
 ……と。
 細く開いたドアから一直線に、たーっと白い生き物が飛び込んできた。

「んにゃおうーっ、うにゃーっ!」

 猫が吠える。全身の毛をもわもに逆立たせて。
 首輪につけた鈴が鳴り響き、ぱっと黒い『もや』は散った。

「ふーっ、ふーっ!」
「どうした、オーレ」

 どっしりとした足音が猫に続いて入ってきた。うなされる双子を見るなり、枕元に駆け寄る。
 
「シエン……オティア!」

 ぱちり、と二人は目を開けた。
 怯えた紫の瞳が室内をさまよい、一人は白い小猫を抱きしめて。もう一人は、温かな広い胸板にしがみついた。

「ディフ……ディフっ!」
「大丈夫だよ……大丈夫だから」

『まま』は静かな声で少年に語りかけ、大きな手でゆっくりと背中を撫でる。

 首筋から肩を伝い、背を覆うゆるく波打つ赤い髪に向けて、じわり、と……うす黒い『もや』が忍び寄っていた。
 散ったかに見えた闇は、ベッドの下に。天井の隅に。散り散りになって隠れていただけなのだ。
 
 
 ※ ※ ※ ※

 
 長い長い石段を上った先の、こんもり茂った緑の森の懐奥深く、その神社は在った。
 ひっそりと。
 森の空気に溶け込むようにして、ひっそりと。

 土地の神、龍の神、そして雷の神を御祭神にいただくその社は『夢守り神社』と呼ばれ、悪夢を祓い、すこやかな眠りをもたらすとして近在の人々に厚く信奉されている。

 普段は記憶の底に埋もれていても、必要とされる時には何故かふっと心に思い浮かぶ。
 その名を代々の祭祀の一族にちなみ、結城神社と云う。

「あの双子が狙われてるの」
「またですか?」
「そうよ。今度はシエンが夢魔に取り憑かれている」
 
 社務所に続く住居の居間。その炬燵でぬくぬくと温まりながら、結城羊子は物騒な言葉をあっさり口にした。

「シエン……えーっと、髪の毛が長くて、穏やかな感じのする方の子でしたよね」
「そうよ」
「クリスマスに、先生とディーンと粘土で遊んでた」
「そうよ」

 風見光一とロイ・アーバンシュタインはサンフランシスコでの記憶をたぐった。

 三人の目の前には、椀に満たされた自家製の甘酒がほこほこと湯気を立てている。白いとろりとした甘い飲みものの中には、めいめいこんがり焼いた餅が一切れずつ浮いている。甘酒が染みて、いい感じにとろとろになるのを待っている所なのだ。
 炬燵の中には神社で飼われている猫が三匹、もこもこと団子になっていて、ストーブの前にはゴールデンレトリバーの太一郎さんがのびのびと横になっている。

 これ以上ない、と言うくらいにのんびりほっこりした空気の中で、行われているのは夢魔の掃討作戦の打ち合わせなのだった。
 そう、彼らこそはナイトメア・ハンター……人の心の闇に巣くう悪夢と戦い、現実への侵食を食い止める使命を帯びた、夢の守り人。

「あの双子は、人にはない不思議な力を持っている。そして過去に恐ろしい体験をしている……二重の意味で、夢魔にとっては美味しいエサなんだ」

 羊子は目を細めて、ず……と甘酒をすすった。

「強い絆で結ばれている子たちだからね。一人を餌食にすれば、もう一人も網にかかったも同じ。さらに家族にもじわじわと手を伸ばして行って……」
「くそっ、これじゃクリスマスの二の舞いだ!」

 だん、と風見は拳で炬燵の天板を叩いた。
 
「にゃぐっ」
「みゃうっ」

 下から猫たちの抗議の声があがった。

「あ……ごめん」
「にゃうー」
「焦るな、風見。山羊角の魔女どもの時に比べれば、ずっと早く気付くことができたんだ。こっちもそれだけ『警戒』してたしな」
「はい……」
「どんな狩りも、無駄じゃないんだヨ、コウイチ!」
「そうだな、ロイ!」

 ん、いい顔だ。

 教え子二人を見守りつつ、羊子は満足げにうなずいた。
 悪夢狩りはいつだってギリギリだ。余裕なんてない。それでも夢魔との戦いをくぐり抜けるたびに、着実に二人とも強くなっている。いい漢に育ってる。
 この間のメリジューヌ事件では、この子たちに助けられてしまったくらいだ。
 今は二月。彼らの『先生』でいられるのも、あと一年と少しなのかと思うと……目覚ましい成長ぶりが寂しくもあり、誇らしくもある。

「先生?」
「ドウカしましたか?」
「あ、うん、何でもない……さて、と。風見の言うことも、もっともだ。この際だから、徹底的に大掃除しちゃおうと思うの」
「大掃除?」
「そうよ。あの子たちの心には、過去の壮絶な体験の残した傷が、真っ黒な泥沼みたいにとぐろを巻いている。隙あらば意識の殻を割って外に吹き出そうと、どろりどろりと蠢いている……だ、か、ら」

 ぱしっと羊子は両手を打ち合わせた。

「根こそぎ吸い出しちゃおう!」
「そんな事ができるんデスカ?」
「できるよ」
「あっさり言った!」
「まあ、実際には『夢魔』に成る前のじくじくじわじわを、ごっそりまとめて浄化しちゃうんだけどね」
「あ、なるほど。生える前に苗床を取り除こうってことですね」
「そゆこと」
「でも、どうやって?」

 羊子は巫女装束の懐から、するりと平べったい布の袋を取り出した。

「これ、なーんだ」
 
 baku_mono.png
 illustrated by Kasuri

 やわらかな布の袋の表面には、心地よさそうに眠る霊獣『獏』の姿がプリントされていた。

「これは……結城神社の『夢守り獏』ですね」
「枕の下に引くアレですね」
「そうよ。お好きな香りを入れて使える、枕サッシュタイプ」

 爾来、獏の絵姿を枕の下に敷いて眠れば、悪夢を防ぐ。見ても正夢にはならない、と言い伝えられている。
 夢守り神社の別名を持つ結城神社では、昔ながらの絵姿に加えて、獏をプリントした枕サッシュも販売しているのだ。中にポプリやアロマオイルを染み込ませた紙を入れて、香りを楽しむことができる安眠グッズとして。
 単に絵姿を敷くより気軽に使えると、若い女性を中心に人気がある。袋のみならず、不安を取り除き、安眠をもたらす効果のあるポプリをセットしたものもある。

「答えは、ここにあるの。いや、居ると言うべきかな」

 羊子は、ちょん、と袋に描かれた『獏』をつついてにまっと笑った。

「え?」
「獏?」
「そうよ。結城神社に代々伝わってきた強力な守護獣……悪夢を吸い取り、浄化する霊獣『獏』を出動させます」
「そ、そんなグレートなガーディアンが、いるんですかっ」
「さすが先生、ハンパないっすね! そんなすごい式神を呼べるなんてっ」

 色めき立つ少年二人に向かって、羊子はぱたぱたと手を振った。

「……あ、こらこら、慌てるな。別に私の式じゃないから」
「へ?」
「結城神社(うち)の『獏』はね……代々、神社の神獣を依り代としているの」
「あー、なるほど。人じゃなくて動物に憑いてるんですネ」
「そゆこと」

 ん?
 風見とロイは首をひねり、しかる後に顔を見合わせた。
 神社のご神獣。多くの場合は馬が『神馬』としてその役割に在るが、ここの神社は鹿島神宮と同じく『鹿』だ。

「ひょっとして……」
「今の『獏』は……」
「うん、ぽちだよ」
「やっぱりーっ!」

 風見は頭を抱えた。

「あいつ、俺の言うことぜんっぜん聞いてくれないんだよなあ」
「それなのよ」

 へばーっと羊子は盛大にため息をついた。

「強力なんだけどさー、動物なだけに、飽きっぽいって言うか、気まぐれって言うか……興味無くすと、勝手に自主的にドリームアウトしちゃうんだよね」
「そ、ソレハ困りマスね」
「しかもあの子、男の人が嫌いでしょ?」
「あー、確かに……」

 風見の言うことはてんで聞かなかった。そのくせ、巫女姿のロイがにっこりほほ笑むと、自分からとことこと近づき、大人しく手入れされていた。

「夢の中に誘い込むのは、割と簡単なのよ。私とサクヤちゃんが呼べば、大喜びで飛んでくるからね。でも問題は、その後だ。シエンは男の子だし……」
「うーん」
「困った」

 どうにかして、作戦終了まで、ぽちのご機嫌を損ねないようにしないといけない。
 単純に夢魔とどつき合うより、難易度が高そうだ。

「犬なら楽なのにな……」
「そうね、犬ならね……」
「わふ?」

 三人は顔を見合わせ、ずぞー……っと甘酒をすすった。

「あ、いいなこれ。お餅の焦げたとこがふやけてとろとろに溶けてる」
「お汁粉風だネ」
「おかわりあるよ?」

 羊子先生のお椀は、既に空っぽだった。

(ああ、今、ものすごーく悩んでるんだな……)
(悩んでるネ……)

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【ex11-2】ぽち袋

2010/07/26 0:53 番外十海
 
 沈んでいた。光さえ届かない、暗い沼の泥の中に。肌の上を粘つく生き物が這いずっている。足が蠢き、尾が引きずられる感触に鳥肌が立つ。だが、体はぴくりとも動かず、開いた目の上を這いずる何かを払いのけることもできない。
 気持ち悪い……だが気力は萎え、もはや逃げようと言う意志さえ湧かない。

(どれほどの間、ここに沈んでいるのだろう?)

 ふと、水が揺らぐ。
 ぷくり、と小さな泡がたちのぼり、か細い声を聞いた。

(……泣いている)

 泥に埋まっていた手足を引きはがし、がむしゃらに濁った水をかいた。

(行かなければ。今、すぐに!)

「っ!」

 見慣れた寝室の天井。柔らかなオレンジの明かり。いつもの夜、しかし静かではない。すぐ隣でうめく声がする。

「レオン?」

 歯を食いしばり、汗を滴らせて呻いている。自らの左胸をぎっちりと掴んで。寝巻きが皺になり、肌に爪が立つほどに強く……。

「レオン。レオン!」

 肩をつかんで揺さぶった。

「レオン! 目を覚ませ。俺を見ろ……レオン!」

 ひゅうっと咽が鳴り、目が開いた。明るい茶色の瞳が宙をさまよい、愛しい人に像を結ぶ。

「……っ」

 ぐいっと肩を掴まれ、指が食い込む。こぼれかけた呻きを飲み込み、ほほ笑んだ。

「どうした、レオン?」

 引き寄せられ、抱きしめられた。強引とさえ言える動きだった。一瞬、骨が軋む。食いしばった歯の奥に、かすかな嗚咽を聞いた。

「……大丈夫だよ、レオン。大丈夫だからな」

 腕を彼の背に回し、抱いた。愛しい人を、包み込んだ。震える背を撫で、汗に濡れる頬にキスをした。

「俺は……ここにいる。だから……」

 かすかにうなずく気配がして、優しい指が髪に絡みついてきた。
 
「…………ディフ」
「うん」

 安堵のため息をもらすと、レオンは顔をうずめた。ゆるく波打つ赤い髪に。

「……レオン」
   
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「こんにちは!」
「よう、サリー!」

 ベビーシッターを頼みたい。
 ディフから電話がかかってきた時、チャンスだと思った。オーレの身に付けた鈴を通して、シエンたちの様子を感知することはできるけれど、やはり直接会った方がいい。
 
 久しぶりにローゼンベルク家を訪れ、サリーは小さく息を飲んだ。夢魔が蝕んでいたのは双子だけではなかった。既にディフやレオン、ヒウェルにまで己の分身を……『悪夢の種子』を植え付けている。

 侵食状態が浅い今の段階で、これだけあちこち食い荒らすなんて! 今度の相手は相当荒っぽい『大食漢』だ。
 さながら、大きな刃物でめったやたらに切りつける殺人鬼。狙いは定めず、当たるを幸い手当たり次第。
 ある意味、楽だ。痕跡が隠されていないから辿るのが容易だし、戦力が分散されているから防御力も低い。トータルの出力は相当に大きいけれど、被害者の心の奥深くに身を潜め、ひっそり食い荒らす夢魔よりも防ぎやすい相手と言える。
 
(お守り人数分、用意しておいてよかった……)

「助かったよ。今日は誰も手が空いてなくて。すまんな、せっかくの休みに」
「いいえ!」
「ランチはキッチンのテーブルに用意しといた。冷蔵庫の中味は自由に使ってくれ」
「OK。ありがとう」
「こっちこそ。それじゃ、よろしく頼む」
「行ってらっしゃい!」

 ベビーシッターと言ってもほとんどすることはなかった。ディフとレオンが仕事に行っている間、双子に付きそい、一緒にランチを取る。
 付きそう、と言ってもシエンは部屋から出ようとしなかったし、オティアもシエンと一緒に居る。オーレはちょこまかと部屋を出入りして、忙しげにサリーのいる居間との間を往復していた。

「……さて、と」

 サリーは持参した鞄から、ペットボトルをとり出した。中には澄んだわき水に略式ながら祈祷を捧げた神水が満たされている。

(さすがに盛り塩は目立つけれど、これならば)

 部屋の隅、花瓶に活けられたマーガレットの花、ベランダの鉢植え。少しずつ注いで祝詞をささやく。

「天清浄 地清浄 内外清浄 六根清浄と祓給ふ……」

 ちりん、ちりん、と鈴を振る。願いをこめて、澄んだ音を響かせる。

「八百万の神等諸共に 小男鹿の八の御耳を振立てて聞し食せと申す……」

 りん!

 仕上げに居間の中央で鈴を鳴らすと、部屋の空気の質が変わった。こうなって始めて『今まで濁っていた』のがわかる程度の差ではあったが……まとわりつくようなぬるりとした気配が、消えた。
 
(これで、しばらくはあいつも動けない)

 既に夢魔が侵入している以上、結界を張るのは効果がない。だから一時的にローゼンベルク家を、神社と同質の『清浄な』空間に変えたのだ。夢魔が宿主から這い出て、悪さをできないように。だが、さすがに毎日清めることはできない。時間の経過とともに、効果は薄れて行くだろう。

(それまでに、片をつけなければ!)

 昼食は三人分ちゃんと用意されていた。持参した神水を沸かして茶を入れ、双子の分を部屋に運ぶ。オティアが受け取り、小さな声で
「ありがとう」と言った。

「オティア。これ、お土産」
「?」
「獣医さんが書いた、猫の本なんだ。俺はもう、読み終わったから」
「……ありがとう」
「シエンには、これ」
「何だ、これは」
「枕元に置くサッシュ(においぶくろ)だよ。いいにおいがするでしょ?」

 オティアは顔をよせ、ひらべったい布の袋のにおいをかいだ。

「オレンジのにおいがする」
「当たり。オレンジとカモミールをブレンドしたんだ。安眠効果がある。良かったら使って」

 オティアはシエンの方を振り返った。こくっとシエンがうなずく。

「……ありがと」
「どういたしまして」
「サリー」
「ん、なあに?」
「この動物は、いったい何なんだ?」
「ああ」
 
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 stitch by Kasuri

 袋には、うずくまって心地よさげに眠る、鼻の長い生き物の絵が描かれている。

「ぽちだよ」
「ぽち?」
「……じゃなかった。バク。日本の伝説に出てくる生き物だよ」

 首をかしげている。

「うちの神社のシンボルキャラクターなんだ」
「ガソリンスタンドの、羽根の生えた馬みたいなものか?」
「うん、そんな感じ」
「……そうか」
 
 うなずいてる。
 オティアなりに、納得したらしい。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 その夜、招かれた夕食の席で、サリーは改めてディフ(とレオン)、ヒウェルにもそれぞれ「夢守り獏」のサッシュを渡した。

「一応、ポプリ入れてあるけど、香りが薄くなったら自分で好きなのを足してね」
「いいにおいだ……バラかな?」
「うん、ディフの分はね」

 ディフは目を細めてサシュを撫で、かすかに頬を赤らめた。

「一番、好きな香りだ。ありがとう、サリー」

 一方でヒウェルはくんかくんかと鼻をくっつけ、熱心に自分の分のにおいをかぎ……派手にあくびをした。

「いいにおいっちゃいいにおいだけどさー、かいでると、こう……意識がすーっとどっかに吸い込まれそうな気がするんだが……」
「あー、それ、ラベンダーなんだ。人によっては、ちょっと強過ぎる、かも」

 だから双子には使わなかったのだが。

『ヒウェルなら大丈夫だって! 彼、ストレスがかかるとワーカホリックに磨きがかかるタイプだからね。今、最高潮に仕事ぎっちり抱え込んでるはずよ』

 よーこちゃんの読みは正しかった。目の前のヒウェルはげっそりとやつれ、目の下にはクマが浮かび、いつもにも増して不健康さに磨きがかかっている。ほとんど寝ていないっぽい。そのくせ、目はギラギラと輝き、やたらとハイテンションでしゃべりまくる。

(よくない傾向だなあ……)

 これも夢魔の影響の一種なのだろう。悪夢を見るから眠りたくない。だから仕事に没頭し、自分を追い込む。結果としてどんどんやつれて行く。
 今はハイになっているからいいけれど、限界を超えてガクっときたら最後。一気に侵食されてしまうだろう。

『消耗しきったとこに、ラベンダーかがせりゃ一発で落ちる……夢も見ないでぐっすりとね。それぐらいで丁度いいんだ』

 ついでに仕事も落ちそうな気がしないでもないけれど、今のうちに休ませて、ちょっとでも回復させておこう。

(ごめんね、ヒウェル)

 とろーんとした目でヒウェルはサッシュを眺めて、ぽつりとつぶやいた。

「これ……安眠グッズだろ? シエンとオティアにも、効果あるかな」
「うん、あの二人にはもう渡しておいたよ」
「何の香りを?」
「オレンジとカモミール。ポプリとエッセンシャルオイルを組み合わせて……」
「……はあ?」

 ぐんにゃりと口を曲げ、目を半開きにしている。あれは、最高潮に呆れた時の顔だ。

「わざわざ、そんな手間かけなくってもさあ。オレンジ輪切りにして枕元に置いときゃいーじゃん!」
「………」
「………」
「………」

 その瞬間、食卓を何とも言えない微妙な空気が支配した。普通ならここで黙りそうなものだが、ヒウェルはさらに自ら自爆の追加を炊いた。

「オレンジジュースとカモミールティー混ぜて、霧吹きで吹くとか!」
「お前……」

 ディフがじとーっとヒウェルをねめつけ、ため息をついた。

「つくづくデリカシーのない男だな」
「っかーっ! てめーにだけは言われたくねえよっ!」

 ムキになって言い返すへたれ眼鏡を、レオンはただにこやかに見守っていた。
 実の所、彼もちらっと同じことを考えたのだが……こんな手間をかけずとも、枕元にバラを活けておけばいいんじゃないか、と。
 正直、オレンジだろうとラベンダーだろうとバラだろうと、何でもかまわない。人工的に合成された香りでなければ……あれはどうにもいけない。厚塗りの化粧のにおいを思い出す。
 幸い、サリーの持ってきてくれたサッシュの香りは天然の植物のものだ。何よりディフが気に入ってる。

 オレンジだろうとラベンダーだろうとバラだろうと、レオンにとっては大差ない。ディフが気に入っているのなら、それでいいのだ。

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【ex11-3】白いドレスの…

2010/07/26 0:54 番外十海
 
 旧校舎の三階。一般の教室や特別教室から離れたこの一角は、文科系クラブの部室として使われていた。
 とりわけ廊下のとっつきにある「民間伝承研究部」(一月からめでたく部に昇格した)通称「伝研」の部室は隣が物置と言うこともあり、ひときわぽつん、と隔離された感が強かった。
 あまり人に聞かれたくない話をしたり、見られたくないことをするにはうってつけ。むしろその為にこの部屋は使われていると言ってもいい。
 今、部室の一角はカーテンで仕切られ、即席の更衣室になっていた。カーテンの前には、眼鏡の女生徒……もとい、女性がちょこんと椅子に座り、首をかしげて待っている。

「もーいーかーい」
「ま……マダデス」
「もうちょっと」

 カーテンの向こうでは、生徒二人がもそもそ、ごそごそと着替え中。制服から体操服に、あるいはその逆なら慣れている。剣道の稽古着だってお手の物だ。何故にこんなに手間取っているかと言うと、今、二人が袖を通している服が、着慣れていないものだからだ。

「何だったら手伝おっかー?」
「遠慮しますっ」
「ケッコウですっ」

 羊子はくすっと笑って足を組んだ。

「慌てるなよ? ストッキング伝線しちゃうからな!」

 悪夢に苦しむシエンを救うため、結城神社の守護獣『獏』の出動が決まった。
 しかし、ここで一つ問題があった。現代の『獏』であるぽちは、大の男嫌い。ちょっとでも機嫌をそこねたら、さっさと自主的にドリームアウトしてしまう。そこで、チームの司令塔、羊子が考えた作戦が「全員で女装する」ことだった。

「現実世界で『女装の感覚』を掴まないと夢の中でイメージを結ぶことができないよ? 着るべきコスチュームのイメージも練っておかないとね!」」

 よーこ先生のお言葉により、放課後、ロイと風見は部室でせっせと女装のお稽古の真っ最中。なお伝研のメンバーであり、ハンターでもある遠藤は……

「あ、俺、これからバイトがあるんで!」
「外せないのか?」
「ヒーローですから! 俺を待っているちびっ子たちを裏切る訳にはいかんのですよ!」

 きらっと歯を光らせ、さっそうと逃げて……いや、去って行った。無駄に爽かな笑顔を残して。

「もーいーかーい」

 ざっとカーテンが開き、ロイと風見が出てきた。

「おお」

 羊子先生があらゆる手を尽くして各位方面から調達してきた衣装から、日本を愛するロイが選んだのは『キモノドレス』。
 振り袖の袖口や襟元にたっぷりレースがあしらわれ、下はぽんっと広がったスカート。レースたっぷりのヘッドドレスのおかげで多少髪の毛が短いのも気にならない。仕上げにふわっとしたエプロンを装着すれば、気分は和風アリス……?

 片や風見光一は、白いフリルたっぷりの落下傘みたいなスカートに、白いレザーのコルセット、ぽうん、と膨らんだ風船みたいな袖。コルセットを締めるのは黒の革ひも。頭にはちっちゃな丸い帽子を留め、首には黒いベルベットのチョーカー。ゴスロリファッションに身を包んでいる。

「いーじゃん、いーじゃん、似合ってるじゃん!」

 ぱちぱちと羊子は拍手した。
 風見とロイは顔を見合わせ、ほっと一息ついた。

「上手い選択だよ。どっちもふわふわのフリフリが、上手い具合にごっつい体型をカバーしてくれてる」
「かたじけない」
「ありがとうございますっ」
「ただ、なあ風見よ。ニーソまで履いたってぇのに、靴が上履きのまんまってのはいただけないなぁ」
「しぃまったあ!」
「足踏ん張って仁王立ちだし。ロイを見習え。完璧だ」

 確かにロイはきゅっと膝を寄せて見事な女の子立ち。足下も、底の分厚い白いメリージェーンシューズで決めている。

「くっ、不覚……」

 風見は唇をかみしめ、拳をにぎって小刻みに震えた。
 確かにロイの女装は完璧だ。化粧もしてない、ウィッグすらつけていないのに、ちゃんと仕草からして女子に見える。

(俺もがんばらなければ!)

 たかが女装、されど女装。今回の夢魔狩りに必要なことだ。大切なことなのだ。

「ロイ、教えてくれ。どうやったら女の子になり切れるんだ!」
「ど、ドウって……」

 ロイは目をそらした。そらさずにはいられなかった。本来の武骨さを絶妙な割合で残したコウイチのゴスロリ姿に、既に彼のハートは限界寸前、肋骨をつきやぶって飛び出さんばかりに高鳴っている。

(ああっ。両足ふんばって仁王立ちしていても……最高にキュートだよ、コウイチ!)

「やっぱり、まずは立ちかたからか? こう、きゅっと膝をあわせて」
「う、うん、そうだネ」

 風見はロイに教えを請うのに夢中だった。そして、ロイは風見の女装姿に気もそぞろ。だからこの部屋で唯一、そのことに気付いたのは羊子先生ただ一人だった。
 とっとっとっと近づいてくる、軽やかな足音に……。

「あー、夢の中で着るんだから、ドリームイメージの服装の上から『重ね着』できるの選んでね?」
「着る前に言ってくだサイ!」
「今回の狩りに、三上さんや蒼太さんは参加しないんですか?」
「どっちも本職が忙しいらしくて。って言うか、見たいか? あいつらの女装」
「あー、それは……」
「ちょっと……」
「ぽちが引きつけ起こしたら困るし」
「わあ、容赦ない」
「現役僧侶と神父に女装させるのはしのびなくって」
「思いっきり付け足しっぽい理由ですね」
「えへ♪」

(じゃあ、ランドールさんは?)
(現役の社長さんに女装させるのは有りなのデスカっ!)

 秘かに心の中で二人が突っ込みを入れた瞬間。
 ノックとともに、からりと部室の扉が開いた。

「よーこせんせー! これ、調理実習でマドレーヌ焼いたんです。一緒に食べま……」
「あ」
「ア」
「よ、藤島!」

 ほこほこと甘いにおいのする紙袋を抱えたまま、藤島千秋は硬直した。

「こ…………………光一?」
「や、やあ、千秋」
「こ…………………コスプレ?」
「いや、その、えっと…………部活なんだ、部活!」
「ゴスロリのどこが民間伝承研究?」
「服装文化史の実体験だ……さんきゅ、藤島!」

 とことこと千秋に歩み寄ると、羊子はひょいっと紙袋を受け取り、さらりと続けた。

「アメリカには男女逆転デーって催しがあってね。男女逆の扮装をすることで、両者の違いや共通点について学ぶんだよ」
「あー……そう……なんだ」
「だから、これはれっきとした部活なんだ。趣味じゃないから、心配すんな!」
「は……はい」

 授業中さながらによどみない声で説明しつつ、羊子はさくさくと机に皿を並べ、マドレーヌを盛った。二枚貝の形をした、金色の焼き菓子。かすかにオレンジの香りがする。

「うはっ、美味しそう! 風見、お茶入れて」
「はい!」

(助かった!)

 風見光一は電気ケトルを片手に、部室を飛び出した。

 ゴスロリのまま。
 スカートのまま。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 一方そのころ、サンフランシスコでは。
 カフェで食事を共にしつつ、サリーがランドールに女装作戦を説明していた。

「女装……か、なるほどね」
「すみません、ぽちは男の人が苦手なんです」
「いや、構わないよ。ハロウィンやエイプリルフールの余興と思えば……」

 ランドールはくすっと思いだし笑いをした。

「なつかしいな。大学時代の寮の馬鹿騒ぎを思い出すよ。私は参加するつもりはなかったんだが、ルームメイトに、半ば強引に引っ張り込まれて……」
「男子寮ですか? それとも男女共用?」
「男子寮だ」
「それは……さぞかし……」

 手加減無し、そりゃあもう凄まじい悪のりっぷりだった事だろう。

「現実世界での体験があるなら、それを思い出せばOKです」
「そうか」

『カルはきれいな黒髪だから、絶対これが似合うヨ!』

 そう言って、チャーリーが用意してくれたのは白雪姫のドレスだった。しかも、ちゃんと自分が着られるサイズの。

「何事も経験しておくものだね」

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【ex11-4】いざ出陣

2010/07/26 0:55 番外十海
 
 フクロウが一羽、サンフランシスコの夜空を飛んでいる。白い翼をはためかせ、凍てつく空気をかいくぐり。
 もしもこの時間に活動する熱心なバードウォッチャーがいたなら、我が目を疑ったろう。小柄な体躯のその鳥は、本来ならカリフォルニアには存在しないはずの種類なのだから。

 小さなフクロウは、一軒の家に狙いを定めて徐々に高度を下げて行く。広い庭のある窓の大きな切妻屋根の木造家。海沿いに並ぶ別荘の一軒だ。
 ふわりと白い翼が空気を含み、広がる。翼は空中でコートに変わり、かすかな足音とともに、すらりとした小柄な人影が玄関に降り立った。

「……ふぅ」

 風に吹き乱された髪をちょい、ちょいと手で整えると、サリーは呼び鈴を押した。
 ほどなく扉が開いて家の主が現れる。

「やあ、サリー。待っていたよ」
「こんばんわ、ランドールさん」

 やや遅れてにゅうっと真っ黒い、もこもこした生き物が顔を出す。

「Hi,サンダー。元気そうだね」
「きゅううん」

 わっさわっさと太いしっぽが左右に揺れる。テディベアによく似た顔立ちは、まだ丸みを帯びてあどけない。しかし、大きさは既にレトリバーの成犬に追いつきそうだ。

「入ってくれ」
「お邪魔します」

 先に立って歩くランドールの顔を見上げながら、サンダーはちょこまかと歩いて行く。黒い瞳に信頼と、混じりっ気のない純粋な愛情をみなぎらせて。高々と上がったしっぽがまるで旗のようだ。

(良かった……)

 アニマルシェルターに保護された時、サンダーはガリガリに痩せ衰え、毛並もぼろぼろ。ノミにたかられ、目はめやにで半ばふさがり、傷だらけで怯え切っていた。あらゆる生き物を敵視し、白い牙をむいてケージのすみっこで震えていた。
 あれから三週間。飼い主の愛情と二人の獣医師の努力の結果、見違えるほど元気になった。
 出会ったその瞬間から、黒い子犬はランドールを群のボスと認めた。そして、新しい名前をもらったのだった。

 廊下を通り、庭に面した、窓の大きな部屋へ。食堂、リビング、キッチンが全て一つの広々とした空間に配置されている。
 毎日の暮らしにはいささか不便だが、週末を過ごすには丁度良い。
 実際、ランドールはここを愛犬と過ごすためのセカンドハウスとして借りていた。

「ここで、いのかな」
「はい。この部屋が一番、結界を張るのに適しているんです」
「確かに気持ちいいね。サンダーもここがお気に入りだ」
「動物は、そう言うのに敏感ですから……マンションのリフォームは順調ですか?」
「ああ。テリーくんのアドバイスのお陰だよ。サンダーと過ごすのに最適な環境を準備することができそうだ」

 ランドールのマンションは目下のところ、愛犬との同居仕様に改装中なのだった。
 
「それじゃ、準備するから……サンダー、いたずらしないでね?」
「わうん」
「そら、お前のお気に入りだよ」
「きゅっ」

 黒い子犬は素直にゴムのワニをくわえて寝床へと歩いてゆき、ころん、と寝転がった。
 サリーは持参した鞄から塩をとり出し、東西南北に合わせて四角く盛り塩を置いた。

「ずいぶん簡単な結界だね」
「ここは、エナジーの流れが澄んでいますから。軽く整えるだけで十分なんです」
「なるほど」

 二人は塩の結界の中に立ち、サリーが携帯を開く。

「準備できたよ、よーこちゃん」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 鈴の音と祝詞とともに、昼と夜とが一つに重なり、境目が揺らぐ。
 枕元に付きそう白い猫に導かれ、狩人たちは少年の夢に『ダイブ』した。

「っと……ここは?」
「サンフランシスコ……かな、一応」

 坂の多い海辺の町。建物、道、道路標識、カタカタ走るケーブルカー。見慣れた景色をそっくり色あせたペーパークラフトに置き換えたような、薄っぺらな光景が広がっている。そのくせ手で触れると、ちゃんとしっかりした実体があり、重みと厚みがあるのだ。
 黄色がかった砂色の空から、雨が降っていた。延々と降り注ぐ雫が肌に触れる感触は極めて希薄で、音すらもどこか空ろで……。

 紙細工の町の中、五人の狩人たちだけが確かな色と形を備えている。
 巫女装束をまとった二人と、浅葱色の陣羽織の若侍、忍び装束の青もまぶしい金髪忍者、そして黒いマントに身を包んだ長身の吸血紳士。

「元気そうだね、ヨーコ」

 ランドールは身をかがめ、なめらかな額に口づけた。

「あなたもね、カル……」

 彼女は目を細めてほほ笑むと、頬にキスを返してくれた。ほっそりした指先が髪をなでる。小鳥が頬ずりするようなくすぐったい感触に思わず首をすくめた。

「むぅ……」

 そこはかとなく不穏な気配を感じて顔を上げる。コウイチがじとーっと目を半開きにしてこっちをにらんでいた。
 何やら拗ねているような気配がした。仲間外れにされた、とでも思ったのだろうか。静かにヨーコを離し、若武者姿の少年に向き直った。

「やあ、コウイチ!」

 両腕を広げて歩み寄ると、彼はするっと体を捌いて前に踏み出してきた。自然と差し出された右手を握る形になる。

(この手が。この腕が、さっきまで先生を……)

 むっ、とした。自分はこれまで、ずっと先生の背中を任せられてきた。口に出さずとも互いに何を思い、何を託されるか通じた。
 それなのに。
 その瞬間、胸の奥でくすぶっていた小さな苛立ちが泡立ち、年長者への礼儀を上回った。ランドールの手のひらを握りしめ……ぎちっと力を込める。

(負けるもんかっ)

 すぐに握り返してきた。同じくらいの力と、親しみを込めて。
 ちらりとも不審に思っていない。不愉快とも思っていないのだ。大人の余裕を感じた。自分一人がムキになって、ジタバタしているような……。

「元気そうだね」
「ランドールさんも」

 挨拶が終るか終らないかのうちに、ひゅっと青い風が吹き抜け……気がつくと。

「お久しぶりデス!」
「やあ、ロイ」
 
 ランドールはがっちりと、金髪ニンジャと固い握手を交わしていたのだった。

(何っ? いつ入れ替わったんだ、ロイ!)

 風見光一は秘かに友の早業に驚愕し、同時に心の底から称賛せずにはいられなかった

(さすがだな……俺もまだまだ修業が足りない)

 そんな三人を見守りながら、サリーはほこほこと花のほころぶような笑みをうかべていたのだった。

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【ex11-5】鏡よ鏡

2010/07/26 0:57 番外十海
 
「よし、それじゃさっそく始めようか。準備はいい?」
「御意!」
「了解」
「Yes,Ma'am」

 ヨーコの号令一下、男性陣は集中した。空中からもやもやとおぼろな色が湧き出し、彼らの手足を包み込む。
 浅葱色の陣羽織、青いニンジャスーツ、裏地の赤い黒のマント……いずれも彼らの夢の中の姿の一部だ。脱いだり、着替えたりすることはできない。だから、見た目を変えるためには上から新たな衣装を形成し、被せなければいけない。

「プランA、発動!」

 現実世界で着た時の記憶を。感触を呼び覚まし、ドレスのイメージを実体化させる。
 柔らかな布が広がり、がっちりした体をふんわりと包む。

「……よし」

 風見光一は目を開き、己の姿を見回した。上手く行ったようだ。

「おい、風見……それ……」

 先生が目をぱちくりしている。意外だったらしい。そうだろうな、教室で試着したのとはだいぶ違ってるし。だけど着物の上に着るなら、こっちの方が自然だと思ったんだ。
 二重三重に重ねた黒と赤。襟ぐりを大きく開き、帯を前で結び、裾を長く引いた絹の打ちかけは金糸銀糸に彩られ、ほんのわずかでも動くたびに、鮮やかな色彩がこぼれ落ちる。幾重にも重ねた絹の表面には、翼を広げて舞う鳳凰の姿が縫い取りされていた。

「何で、花魁?」
「これなら、陣羽織の上から重ね着できますから!」

 確かに襟の合わせ目から本来の若武者の着物がちらりとのぞき、うまい具合に重なっている。
 しかし、だったらお姫さまや奥女中でも良かったんじゃないか? 十二単って選択もあるだろうに……思ったが、羊子は敢えて口には出さなかった。
 この際、その手の突っ込みは野暮と言うものだろう。

「賢い選択だな、風見!」
「ありがとうございます!」

 胸を張る風見の背後では、ひそかにロイがくらくらとしていた。油断すると倒れそうになるのを、気力と理性と根性をふりしぼって必死で耐えていた。

「さすがに花魁下駄は自粛しました」
「だろーな、あんな跳び箱みたいなもん履いてたら動けないものなあ。しかし重くないのか、そのカツラ」

 風見光一は、やる時は徹底的にやる男だった。
 衣装のみならず、太夫さながらに横兵庫に結い上げた髪までも再現していた……クジャクの尾羽さながらに広がる簪も込みで。
 これも実際に髪形を変化させたのではなく、本来の髪形の上に新たに形成した、要するに、カツラである。簪や櫛を含めると、かなりの重量があるはずだ。

「大丈夫です、鍛えてますから!」

 胸を張って、風見光一はとんっと己の胸を叩いた。
 教え子のたくましさに羊子は満足してうなずき、ぐっとサムズアップで答えた。

「そうだな! どうせなら、徹底してやらないと! ……で……こっちは……」

 羊子は腰に手をあてて、ちょこんと首をかしげた。その隣ではロイが何やらノスタルジーあふれる温かな表情を浮かべている。

「なんだか、懐かしいコスチュームでゴザルよ」
「ああ、そうだろね」

 カルヴィン・ランドールJrが選んだ衣装は、アメリカの子どもなら大抵、目にしているものだった。
 そう、おそらくは日本の子どもも。絵本で、ビデオで、DVDで、あるいはハロウィンの仮装で。映画俳優の祖父を持つロイにとっては、ことさらになじみ深いものだった。
 黄色いスカート、青いブラウス、ぽんっと膨らんだ提灯状の袖は青と赤。 
 裏地の赤も鮮やかなマントはいささかオリジナルに比べれば長過ぎるが、吸血鬼の衣装をそのまま使っているのだから無理もない。
 そして、いつもは波打つ黒髪を後ろで束ねている赤いリボンは、今はカチューシャ状に結ばれ、ふんわりと頭部の中央で蝶結びにされている。
 ロイはほう……とため息まじりに呟いた。

「SnowWhite!」
「わかってくれて嬉しいよ」

 何やら通じ合うアメリカン二人を、日本人三人はほんの少し、遠巻きにして眺めていた。

「なんで、白雪姫?」
「大学生の時、着たことがあるんだって」
「あるんだ……」
「もしかして、ランドールさん、お化粧してる?」

 然り。ランドールのくっきりとした目鼻立ちは、さらにそれを上回るメイクできっちりばっちり彩られていた。

「何か、アレを思い出すね」
「うん、アレね」
「アレですね」

 三人の頭の中には、とある歌劇団で有名なすみれの花の歌が、エンドレスで流れていた。

「ロイは問題ないな。パーフェクトだ」
「お褒めに預かり恐悦至極でゴザル」

 ロイの衣装はキモノドレス。しかも現実世界での試着からさらにグレードアップしていた。
 襟元と袖口にあしらわれたレースは五割増しふりふりに。スカートがロング丈なのはニンジャスーツの裾をカバーするためだろう。
 さらに、試着の段階では「あったらいいね」と言われていた白いエプロンドレスが加わり、ポニーテールの金髪はレースのカチューシャできちっとまとめられている。

「これは………メイドさん?」
「Yes! 和風メイドさんでゴザル!」
「なぜ、メイド」
「巫女さんとメイドさんのタッグは、最強なのデス!」

 ぴしっとロイは腰に手を当て、右手を挙げて指先で額をポイント。少女向けアニメの変身ヒロインさながらにポーズを決めた。

「これでいつでも、ぽち殿召喚おっけーでゴザルよっ!」
「あー……うん……そうだね……」

 サリーは敢えてコメントを避け、そっと目をそらした。

「はじめよっか、よーこちゃん」
「OK!」

 二人の巫女さんはきゅっと手を握り合い、空いた片手でしゃりん、と鈴を振った。

「ぽちやー」
「ぽちー」
「おいでー、ぽちー」
「ぽーちー」

 澄んだ声が溶け合い、幻の空へと吸い込まれて行く。
 
「ぽちやー」
「ぽちー」
「ぽーちー」

 シャリン!
 鈴の音がもう一つ。はるか上空から聞こえてくる。

「Oh!」
「来たか!」

 ぶわっと空が裂ける。
 巻き起こる一陣の風とともに、一匹の獣が舞い降りてきた。鋭い爪の生えた、ずんぐりした四つ足で宙を蹴り、軽々と。まるで重さなどないように駆けてくる。牛ほどもあるその巨体からは信じられないくらいの身軽さで……まっしぐらに降りてくる。

「ぽちーっ!」

 ずしん!
 強靭な手足で地面を踏み、やぶにらみの目でぎろりと見渡すや、長い鼻を高々と掲げて吠える。

「ぐぎゃおう!」

 ぷふーっ!
 吹き出される吐息で、髪の毛や裳裾が舞い上がった。
 サリーは満面の笑みを浮かべて両手を広げた。

「ぽち!」
(さくやー、さくやー!)

 獏は。いや、ぽちは途端に目をほそめ、しっぽをわっさわっさと振ってすり寄った。

「元気そうだね」
(あいたかったのーっ)

 なおもぐいぐいと胸元に顔をすり寄せる。

「あ、こら、くすぐったいじゃないか」

 サリーはぎゅうっとぽちの頭を抱きしめ、耳の後ろをかいてやった。それは風見とロイにとって、とても見慣れた表情であり、動作だった。

「……あ、やっぱりぽちなんだ」
「中味は変わってナイでゴザルね」

(ん?)

 気配を感じたのだろう。ちら、とやぶにらみに戻った視線が女装軍団に向けられる。
 ここが今回の正念場だ! ぴしっと、ぽちと少年たちの間に緊張が走る。

 用心しつつぽちはぽてぽてと歩み寄り、長い鼻をもちあげて熱心ににおいをかいだ。
 頭のてっぺんからつまさきまでじーっくりと見回した。

「おいで、ぽち!」

 にっこり笑って手招きするロイ子さん。

(あ! このひとしってる!)

 あっさりひっかかる守護獣。しっぽをわっさわっさ振ってすりより、甘えている。

(コウイチ。今でござる!)

 相棒に目配せされ、風見光一は思い切って手をのばし、撫でた。

(あ、あったかい)

 がっちりした骨組み。あったかくて、少ししっとりした手触りが伝わってくる。ぽちはほんの少しの間、耳を伏せてにおいをかいでいた。が。

(おんなのこ?)

 納得したらしい。目をほそめて、自分から耳を。こめかみを押し付けてきた。

「よしよし、ここが痒いんだね……」

 第一関門のロイ、第二関門の風見はクリアした。残るは第三関門。ある意味最大の難関だ。

「Hello.ぽち!」

 ランドールは持てる力の全てを振り絞り、柔らかな声を出した。少なくとも本人はそのつもりだった。
 落ち着け。自分の容姿は母譲りだ。似ているはずなんだ。その事実を思い出し、記憶の中の母のしぐさを真似た。

「………んふぅ」

 ぶわっと鼻息で髪の毛が舞い上がる。ぽちはうっすらと口をあけて舌を出し、目を細めている。開いた口元にぞろりと白い牙がのぞいている。この表情は見覚えがあるぞ。サンダーがとても嬉しい時に見せる、あの顔だ。
 どうやらほほ笑んでいるらしい。

「よしよし、いい子だ」

 手を伸ばして目元を掻いてやった。

(あー、そこ、そこ、そこっ)

 後足がぱたぱた動いている。気持ちいいのだろう。

「よしよし、ここだね……」
(んんーごくらくー)

 ぽちはくいくいとランドールに体をすりよせ、押し付けて。母鹿に甘えるしぐさそのままに、鼻をつっこんだ。
 あったかくて、ふわふわしている場所に。赤ん坊の頃、お乳を吸う時の記憶の導くままに。

「ははっ、くすぐったいな。意外に甘えん坊さんなんだな、君は」
(うふ、うふ、うふーっ)

 もふもふしていると、ふと。
 耳の後ろに、ぐりぐりと何かが当たる。スカートの内側でぽっこりと盛り上がっている『何か』が。さらに鼻の先に、もしゃっと奇妙な感触が触れる。

(あり?)

 それは、女性なら決して存在しないもの。
 分厚い胸板を覆う、ふっさふっさの、胸毛と、そして……

「!!!!!」

 一瞬硬直したポチの背中の毛が、びーっと一列に逆立って行く。同時にしっぽの毛がぶわっと爆発した。まるで巨大なモップだ。

「あ」
「やばい、かも」

(おとこのひとーっ)

 耳をぺたっと伏せて牙を剥き、ずざざざーっと倍速ダッシュで後ずさり。

「しまった!」
「ばれたっ!」
(おとこのひと、いやーっっ)
「落ち着いて、ぽち!」

 サリーは呼びかけ、さっと片手掲げた。手のひらにぽぅんっと丸い、赤い果実が出現する。涼やかな香りは、まさにもぎたてそのもの。

「ほーら、リンゴだよー」
(あ、りんご)

 好物に引かれて、ぽちの注意がそれる。

「ランドールさん、今のうちに!」
「プランB発動デス!」
「わかった!」

 さくさくとリンゴを食べ終り、ぺろりと口の周りを舐める。改めてぽちが振り返ると、そこには……
 真っ黒な毛皮に覆われた、四つ足の生き物しかいなかった。がっしりした鼻面、太いしっぽ、ぴんと立った三角形の耳に青い瞳。
 これなら、しょっちゅう見てる。珍しくもない生き物だ。

「………」

 じろりと一べつすると、ぽちは文字通り、ふっと『鼻で』笑った。

(何だ、犬か)

 動物同士、何やら通じるものがあったらしい。いや、たとえそうでなくても、ぽちの思ったことはその場にいる全員に伝わった。

(狼だーっ)

 野生のプライドを踏みにじられ、暴れるランドールの首に素早く羊子は腕を巻き付けた。抑えた。

「どーどーどー、カル、落ち着いて、落ち着いて……」
(ええい、離せ、ヨーコ! 今すぐあいつに、どっちがボスか思い知らせてやるーっ)
「草食動物とまともに張りあってどうするの?」
(はっ)
「狼の誇りはどうした」
(そ、そうだった)

 姿は変わっているが、あれは所詮、鹿なのだ。

 その鹿とまともに張りあってる時点で、既に人間としてかなり情けないのだが……突っ込む者は、だれもいないのだった。

次へ→【ex11-6】ハロウィンの怪人

【ex11-6】ハロウィンの怪人

2010/07/26 0:58 番外十海
 
『そいつ』はもう、ずっと長い間、恐怖に怯える子どもを餌食にしてきた。
 じめじめした湿地のほとり、霧に閉ざされた、どんより曇った鉛色の空の下。あるいは昼の光すら届かぬうっそうと繁った森の枝の間に間に。

『早く寝ない子は………に連れてかれるぞ!』

 電灯の普及とともに一時期、『そいつ』はなりを潜めていた。だが、まばゆい光が照らすほど、影は一層深まり闇を為す。
 そして運命の1978年。
 件の存在は新たな、とてつもなく強力なイメージが注ぎ込まれるのを感じた。一本の映画が、そいつに暗闇に潜む『人さらい』に加えて、不死身の殺人鬼としての姿と特性を与えたのだ。

 何百回となく繰り返される躾の言葉とともに『そいつ』の存在は子どもたちの心に深く根を下ろし、何度祓われても決して消えることはない。適度な養分を得た瞬間から増殖が始まる。恐怖を苗床にじくじくと広がり、膨れ上り……
 ぶくぶく泡立つただれた繭の表面を破り、血と脂を滴らせて『そいつ』は吠える。

『ひゃっほぉおお! 悪い子は、このブギーマンが連れてくぜぇ!』

 今度の獲物は、金髪の双子だ。
 この上もなく美味そうな恐怖の臭いに引かれて最初の一人に取り憑いたら、極上の獲物だった。
 閉ざされた記憶をこじ開け、蓄積された恐怖をえぐり出し、たっぷり水を含ませて。じくじく腐らせ、種を蒔く。一人を捕まえれば、あとは思ったより簡単だった。もう一人の兄弟も、赤毛の『まま』も、あっけなく手の内に転がり込んできた。
 まったく、こいつの周りは傷やら闇やらを抱えた奴らばっかりだ。
 香ばしい『病み』に魅かれるまま触手を伸ばし、種をばらまく。

 一見して冷静に見えた『ぱぱ』でさえ、落ち着き払った顔の内側では、愛する者を奪われる事を恐れていた。かつて奪った男への、凄まじい憎悪と、どす黒い嫉妬をくすぶらせていた。
 こ狡い眼鏡野郎は、すれた言動とにやけた笑いの奥底に、愛する者を失うのではないか、ある朝目が覚めたら、自分一人がとり残されているのではないかと気も狂わんばかりの孤独を抱え込んでいる。

 いっぺんに食べ尽くす、なんてもったいないこと誰がするものか。エサはたっぷりあるんだ。
 ちょっとずつかじって、食い散らかしてやろう。じりじりと引き裂き、吸い取ってやろう。この家に住む『家族』が一人残らず干からびて、絶望のどん底でくたばるまで……。

 歪められたサンフランシスコの街角に、一ヶ所闇の凝った場所がある。ブギーマンは体を平たくしてひっそりとそこに潜んでいた。
 影の一部になり切って。そうして獲物が眠りに着くまで、じっと待っていた。
 夜更けとともにぴくり、と動き、流れ出す。ゴミ箱の隙間からあふれ、路面にしたたり、ぬうっとせり上がる。
 黒い服に、のっぺりした白い顔。手にはぞろりと巨大な布袋。

 空ろな目がすがめられる。
 ぱたぱたと軽い足音が聞こえた。一つ、二つ。ぎくしゃくと首をめぐらせ音を追う。すぐそばの路地を、小さな人影が二つ駆けて行く。しっかりと手を握り、ややくすんだ金色の髪をなびかせて。一人はフード付きの紺色のコートを。もう一人は同じ形のクリーム色。
 じゃぎじゃぎと鍵爪の伸びた不釣り合いに長い指を開閉し、にたりと笑う。

「獲物だぜぇ、べいべぇ!」

 にゅうっと不自然に伸びた足を交互に動かし、走り出す。ラッキーなことに、あの忌々しいちびの白猫の姿はない。必死で走る獲物から、わざと一歩遅れて追いかける。
 手が届くか届かないかの微妙な距離を保ったまま、延々と追い回してやった。
 双子は必死だ。息を切らせて、よろよろと、前へ前へと進む。今にも倒れそうだ。

「そうだそうだ、もっと走れ、もっと逃げろ!」

 霧が深く立ちこめる。あたりは夜の暗がりに閉ざされ、ぽわん、ぽわんとゆらめくオレンジ色の、カボチャのランタンが唯一の明かり。一つ残らず腐ってる。口からだらりと溶けた舌を吐き出し、うつろな声でけたけた笑う。
 立ち木の枝からぶら下がる、首つり人形の腹がぱちんと弾け、どろりと緑色のヘドロが滴り落ちる。
 あっちからこっちから、調子のはずれた甲高い声が、繰り返し叫ぶ。
 
『Trick or Treat? Trick or Treat!』

 どれ、そろそろ今夜の分(Treat)をいただくとするか。
 ざんっと一足飛びに双子を飛び越え、行く手を塞ぐ。両手を広げて立ちはだかり、ぬうっとのしかかった。

「悪い子だ、悪い子だあああ。こーんな遅くまで出歩いてぇえ……」

 双子は互いにぎゅうっと抱きあい、縮こまっている。ぶるぶる震えて、まるで追いつめられた小ウサギだ。これ見よがしに右手をひろげてわしゃわしゃとうごめかせ、左手に構えた布袋を振りかざす。

「夜遅くまで出歩いてる悪い子はぁああ、ブギーマンが連れてくぞお!」

 くっと、髪の短い方が口角を釣り上げ、笑った。

「おあいにくさま……こう見えて一応、二十歳は過ぎてるんだ」
「れっきとした大人だよ?」

 くすっと笑うなり、二人は勢い良く顔を挙げた。

「残念でした!」

 しゅわわっと髪が。瞳が。顔だちそのものが、変わって行く。
 ややくすんだ金色が、つややかな黒へ。やさしく煙る夜明けの紫が、きりっと濃い茶色へ。ついさっきまで白人に見えていたが、今はどこから見ても東洋人だ。

「お、お、おまえら……だれだぁっ?」

 体格がふしゅっと細く華奢に変わり、それぞれの胸元がもそもそっと動いてちっぽけな生き物が飛び出した。

 ちりん!

 一匹は白と赤のキモノを着た東洋系の女の子。

「ぐぎゃう!」

 もう一匹は、ずんぐりした鹿の子色の動物。鼻が半端に長くて口の端から牙がのぞき、しっぽはモップみたいにわっさわさだ。

「何だあ、お前らっ」
「夢を守るは我らの使命」
「悪夢在るところ、必ず……」

 二人はばっとコートを脱ぎ捨てた。
 白い袖が。赤い裾が翻る。

「ナイトメアハンター、見参!」
「げえっ!」

 今まで何度も出くわし、痛い目を見せられた相手だ。せっかくここまで蓄えた栄養を、みすみす吹っ飛ばされてはたまらない!
 ブギーマンはくるっと片足を軸にして180度方向転換、逃げ出そうと試みる。
 だが。

 タン。
 タン。タタタタタ、タン!

 激しく板を打ち鳴らす音とともに、つすーっと行く手に進み出た者がいる。黒と赤に金糸の縫い取りをしたキモノをだらりと着流した少女? が一人。
 前に構えた奇妙なパラソルで顔は見えない。

「人の世の悲しみを、すすり蔓延(はびこ)る悪夢を吹き払う……」
「ま、まさかお前も………」
「ナイトメアハンター見参!!」

 丸い傘をばっとぶん回すや、抜き身の日本刀に早変わり。さらに頭上から、白いエプロンなびかせて、すたんっと降り立った者がいる。

「ここは通さないでゴザルよ!」

 スカートの裾からのぞくふりふりレースをなびかせて、金髪の少女? がシュリケンを構える。
 一人目といい、こいつといい、どこか変だ。妙にいかつい体格、女にしては低い声、そしてのど仏……。
 がっくん、とブギーマンの顎が落ちる。

 こいつら、男だ。

「お前ら……仮装パーティーじゃねえぞーっ!」
「ぐわおう!」

 のっそりと二人の間から真っ黒な巨大な犬が一匹進み出て、突っ込み無用、とばかりに白い牙をむき出した。

「動物園でもねぇしっ」

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【ex11-7】もっしゃもっしゃ

2010/07/26 0:59 番外十海
 
「きっしょおおお! これでも喰らいやがれっ!」

 ブギーマンは巨大なずだ袋に手を突っ込み、中からずるりと何かを引き出し……投げつけてきた。
 腕がもげ、片目の飛び出した人形。首のない木馬。腹から綿の飛び出したテディベアに、交通事故にでもあったような血まみれのミニカー。
 虫が湧き、じきじくに腐ったリンゴ。チョコバーの包み紙はぱんぱんに膨れ上り、べちょべちょに溶けたキャンディからは、じくじくとどす黒い汁が滴り落ちる。

「はっ」
「せいっ」

 ばばっと風見とロイ、ランドールは三方に飛び退いた。
 不気味な投てき物は空しく路面にぱちんと弾け、じゅくじゅくと胸の悪くなるような臭気を放つ。

「ちぃっ」

 ブギーマンはぐにゃっと顔をゆがめて舌打ちした。

「いーもんね、いーもんね! お菓子も玩具もまだまだどーっさりあるもんねっ!」
「全部腐ってるじゃん、あらゆる意味で」
「傷んでるよね、あらゆる意味で」

 白い顔からびろーんっと赤い舌がのびる。

「べべべべべ! 熟成と言いやがれこのチビガリ娘どもが!」
「なんですってぇ!」

 むきぃっと歯を剥くヨーコの肩を、ぽんぽんとサリーが叩く、

「よーこちゃん、よーこちゃん……」
「サクヤちゃんも込みよ?」
「え?」
「ども、だ、ども! 複数形!」
「あ」
 
 してやったり。
 どよーんとうなだれるサリーを見下し、ブギーマンは満足げに高笑い。

「ケーッッケッケッケぇっ! 今のは小手調べだ。次はもっときっつーいのをお見舞いするぜ!」
 
 オーバーアクションでこれみよがしに手をひらめかせ、おもむろに袋につっこもうと……した刹那。

「がうっ!」

 巨大な漆黒の狼が、がっぷと左手に食らいつく。強靭な顎が鋭い牙を骨まで打ち込み、肩までしびれる衝撃をたたき込む。

「いでーっっ!」

 力の抜けたブギーマンの手からやすやすと袋をもぎ取り、ランドールは一足飛びにヨーコの足下へ駆け寄った。

「よしよし、いい子ね、カル」
「へっへっへっへっへ」
「えらい、えらい」

 受け取り、つややかな毛皮をなでる。がっしりした首を抱き、額にキスをした。
 わっさわっさと太いしっぽが左右に揺れる。

「こんな危ないものは……」

 すっくと立ったヨーコの手に、赤いポリタンクが現れた。きゅっきゅと蓋を開け、だぱだぱと中味を注ぐ。透明な液体が袋にじだじだに染み通り、白煙とともにツーンっと強烈な刺激臭が漂う。

「あ、よせ、やめてっ!」

 にまーっと笑うと、ヨーコは空になったポリタンクを仕上げとばかりにぽいっと袋の上に落とした。

「燃やしちゃいましょ。ロイ!」
「御意!」

 ロイは懐から丸い玉をとり出し、えいやっとばかりに投げつけた。
 BOM!
 閃光とともに炎が上がり、瞬く間に勢い良く燃え上がる。

 ごおおおぉおおおおお!

「あー、あー、あー……」

 すさまじい高熱の炎だった。巨大な袋は中味とともにあっさり燃えつき、灰になった。

「やけに火の回りが早いでゴザルな」
「って言うか、明らかに高温だよな……」
「わふん」
「……よーこちゃん、さっきかけたの、もしかして」
「うん、ヒドラジン」
「ロケット燃料だーっ!」
「容赦ないでゴザル、先生っ」

 危険なので絶対にマネしないでください。

「ちっきしょおおおおっ」

 ブギーマンはわしゃわしゃと頭を掻きむしった。のっぺりした白い顔がぼこぼこっと膨れ上り、空ろな眼窩からばっちんと弾けた目玉がこぼれ落ちる。どことなくマンガチックにデフォルメされていた顔が、生々しい人間に変わる……白いぺったりした質感はそのままに。

「よーっくもやったなああ!」

 黒いツナギに手をつっこみ、ずるり、と腹から巨大なキッチンナイフを引き出した。1mはあろうかと言う刃は、すでにぬらぬらと真っ赤な血で濡れていた。

「ざっくざっく切り刻んでやるぜ、チビガリ娘がぁっ!」

 巨大なキッチンナイフを振りかざし、ブギーマンは猛然とヨーコに飛びかかった。
 正面から、まっすぐに。

「てめーの生皮で、あったらしい袋をこさえてやらああ!」

 ぱん!
 銃声一発、ブギーマンの額に穴が空き、後頭部にぶしゅうっとどす黒い飛沫が飛び散る。
 映画のスローモーションさながらにゆっくりと頭が膨れ上り……ぽんっと吹っ飛んだ。
 
「当たりに来てくれて、ありがとう」

 ふっと唇をすぼめると、ヨーコはデリンジャーの銃口から立ち昇る煙を一吹き。
 同時にブギーマンがどさり、と仰向けに地面にひっくり返った。

「なんのぉおお!」

 かと思うと、びょっくんっとフィルムの逆回しのように起き上がった!

「うわ、しぶといなぁ」
「映画のおかげで広く存在が浸透してるから……アメリカでは、特に」
「ああ、カーペンター」
「ひゃーっはっはっは、その通りぃいい!」

 ついさっき頭が吹っ飛んだ胴体から、ぼこぼこっとオレンジ色の泡があふれ出す。

「ブギーマンは、不死身さあっ」

 ぼこぼこぼこ……ごっぽん。
 泡は膨れ上り、かたまって……カボチャになった。くるりっと180度回転すると、大ざっぱに三角形の目とぎざぎざの口が刻んである!

「あ、ジャック・ランタン」
「ひーほー?」
「ひーほーだね」
「ひゃっはぁ! 訳のわかんねぇことほざいてんじゃねぇよっ、チビガリどもがっ」

 ずぼ、ずぼぼっ。
 歪な両手が腹に突っ込まれ、ずる、ずる、ずる……と粘つく液を滴らせ、何かが引き出される。
 一つはホッケーマスク。もう一つは、刃渡り2mはあろうかと言う巨大なチェーンソー!

「何か、いろいろ混ざってるなあ」
「もはや何でもアリでゴザルね」

 すちゃっとホッケーマスクを被り、ブギーマンは勢い良くスターターを引いてエンジンを始動させた。
 どるるるる、どぅるるるるるるっ!
 チェーンソーがうなりを挙げて回り始める。

「ひゃっほぉおお! じゃぎじゃぎーっとまーっぷたつぅうう!」

 得意げにチェーンソーを大上段に振りかざした。その瞬間。

「神通神妙神力加持……迅雷召喚!」

 どっかん!

 鉛色の空を引き裂いて、青白い電光が降り立った。
 その場でもっとも高い位置にある、巨大な金物に向かって。

「あ」

 CABOOOOOOOM!

 たちどころにチェーンソーは大爆発。ブギーマンはこんがり真っ黒焦げ。ブスブスと黒煙をあげ、へなへなと崩れ落ちたのだった。

「やったね!」

 黒焦げカボチャを尻目に、ヨーコとサクヤはぺちぺちっと両手のひらを交互に打ち合わせて楽しげにハイタッチ。合間にちょこんと黒い前足が加わる。

「う?」
「どうしたの、カル?」

 ぴくっと三角の耳が動く。
 地面でぐずぐずにくすぶるブギーマン(の残骸)が、何やらぶつぶつ、ぼそぼそとつぶやいていた。

「こうなったら……来い……来い……もどってこぉいいいいいっ」
「このっ、まだやるかっ」

 べろん、とふやけた壁紙みたいに空がはがれて、隙間からびゅうっと。
 青白い鬼火が飛んでくる。一つ、二つ、三つ……やや遅れてへろへろと元気のないのがもう一つ。狩人たちの脇を通りすぎ、黒焦げカボチャに吸い込まれて行く。

「はっ、今のは……」
「マクラウドさん?」
「レオン!」
「オティア?」
「あ、ヒウェル」

 鬼火が透り過ぎる瞬間、親しい人の気配を感じた。

「あれは、まさか……」
「みんなに植え付けてあった、分身だ。悪夢の種子だ!」

 ごぼごぼ、ぼごぉっ!
 被害者の恐怖と闇をたっぷり吸い込んだ分身と合体、融合し、一気にブギーマンの体が膨れ上る。

「うわぁ……」

 だが、早過ぎた。
 合体したはいいものの、所詮は寄せ集め。曖昧模糊とした恐怖から、確固たるイメージに固まることはできなかったようだ。
 腐臭を放ちながら、溶けたゴムのような。腐った肉のような塊が、びちびち、どろどろと蠢きのたうつばかり。

 ひゅるるるる、ひゅるるるる……。

 もはやきちんとした形を取るのはあきらめたのだろう。肉塊の表面がぶつっぶつっと盛り上がり、骸骨のような白い顔が生える。細い首に支えられて高々と、不吉なキノコのように伸び上がる。
 生贄の数と同じ、全部で五つ。

 一方胴体の表面には、鋭い針やカメラのレンズ、鉄骨、拳、足、顔。それぞれの被害者から収穫されてきた「怖い記憶」が、ひっきりなしに浮かんではすぐに崩れる。
 一つ一つは脆い。だが、サイズが。湧き出す数が尋常ではない。
 今しもまた、めきめきと肉塊の表皮が盛り上がり、ぱちんと弾け、にゅうっと巨大なカニのはさみが生えてきた。高々と振り上げられ、ぬらぬらした体液を滴らせながら、これ見よがしにジャキジャキと開閉している。
 
「あー、あれ、ヒウェルの分だ」
「ほんとだ、ぶつぶつの数がすごい」
「カニが、怖いんだ……」
「うん。食卓に出たら、涙目よ」
「美味しいのになあ……」
「しっかしまあ、ニョッキニョッキと景気良く伸びてくれちゃって!」

 ヨーコは額に手を当てて頭上で揺らめく首どもを見上げ、軽く口笛を吹いた。が、すぐに表情を引き締め目線を転じ、きっと仲間達を見渡した。

「こっちも飛ぶよ。いい?」
「ガッテン承知でゴザル!」
「よし、こっちも本気出すぜ!」

 風見は身にまとった金糸銀糸の打ちかけの襟元に手をかけ、ぐるりと体を回しながら勢い良く脱ぎ捨てた。
 ぶわっと華やかな太夫の打ちかけが宙に舞う。さながら大輪の牡丹の花のように。
 そして、その下からは……。

「コ、コココココ、コウイチっ!」

 赤い花柄の長襦袢。あまつさえ、すそを端折ってきりりとたくしあげているではないか!
 もちろん、下にはいつもの武者装束をまとっているとわかってはいるのだが……あまりにも艶めかしい。直視できない!

「コココココ、コーッコッコッコー!」

 ロイは目を白黒(ブルーアイだが)、なぜか頭の周囲にニワトリを飛び回らせて(動揺しすぎてイメージが実体化したらしい)うろたえた。こんな時でさえしおらしく、口元に手を当てているのだから徹底している。。
 動揺するロイの背後にすいーっと、こちらも負けずに巨大化したぽちにまたがり、巫女さん二人が近づいた。

「ロイ、気持ちはわかるから……とりあえず、ニワトリしまおうな」
「はっ、か、カタジケナイ」

 ヨーコはさっと手を振り上げ、遥か上方でふよふよと蠢く五つの首を指さした。

「飛べるな?」
「イエーッス!」
「よし、俺もっ」

 身構える風見の目の前に、すっと漆黒の狼が進み出た。

「がうっ!」

 うなり声に重なり、ランドールの声が伝わってくる。

『コウイチ、私に乗れ!』
「はい!」

 迷わず狼にまたがった。
 ランドールは一声吠えると、地面を蹴って飛び上がった。群がる夢魔の手足を噛み裂き蹴散らし、敵の体を足場にしてさらに高く飛ぶ。

「………こ、こここ」
「ロイ、またニワトリ出てる」
「おっと」

 気を取り直し、ロイは自前の脚力で高々と飛んだ。胴体から生える腕やら足やらそれ以外の何ものかの攻撃を目にも留まらぬ早さですり抜けかわし、したたたっと首を駆け登り……

「天誅でゴザル!」
「ぎゃああっ!」

 ざくっと頭一つ、逆手に抜いたニンジャ刀で切り落とした。
 一方で風見は狼の背から身を乗り出し、太刀をぶんっと一閃。カニのハサミを一刀のもとに切り落とした。
 分断されたハサミと首は、ぼとぼとっと地面に落ちて、じくじく溶けて蒸発する。

「いいぞ……今の巨大化で力を使い果たしたんだ」
「俺たちも行こう、よーこちゃん」
「うん。ぽち!」
「ぎゃう!」
「さっせるかよおお!」

 ぼこっと、二人のいるすぐそばの胴体に巨大な口が開いた。
 黄ばんだ乱ぐい歯の奥に、ぶしゅうううっと瘴気が凝り固まる。死んだ体の腐る臭い。傷んだ卵の臭い。生ゴミの散乱する真夏のごみ溜めの臭いが渦を巻く。
 風に混じる微かな邪気を感じ取り、風見は鳥肌が立った。

 やばい。あいつ、とんでもない物を吐き出そうとしてる!

「っ、先生っ?」

 どうする。今飛び降りれば間に合う。だが、自分も既に一足一刀の間合いに入っている。ここを外せば次は無い。
 せめて風だけでも!

「風見! 行け!」
「はいっ」

 同時に、ごばぁっとブギーマンの口から瘴気の塊が吐き出された。
 悪臭を放つ不吉な緑色の毒雲が、あわや二人の巫女さんを飲み込むかと思いきや……

「んぶふーっっっ!」

 ぽちが。
 守護獣『獏』が、長〜い長〜い鼻で、残さず吸い取ってしまった!
 掃除機のようにぶふーっと瘴気の塊を吸い取り、ごくっと飲み込んだ。美味そうに舌なめずりまでしている。

「そっそんなんアリかよーっ!」

 ぐにゃあっとブギーマンの胴体に開いた口が歪み、わなわなと震えた。首どもは残らず顔をしかめてぽちを睨んでいる。歯をむき出し、きぃきぃ、ぎみゃあと意味不明な罵詈雑言を叩きつけている。

(今だ!)

「ランドールさん、行きます!」
「がうっ」

 ランドールは、ハサミの切り口を足場に一段と高く飛んだ。
 漆黒の背を蹴り、風見がさらに高々と宙に舞う。残り四つの首の中央にそびえる、最も巨大で、最も醜悪な首の真上に。

「風神流……真っ向、唐竹割りぃっ!」

 びゅんっと振り降ろす白刃から、研ぎ澄まされた斬気が走る。
 物理的な戒めから軽々と解き放たれ、長襦袢姿もなまめかしい少年の振るう華奢な刃が、巨大な肉塊をざっくりと。
 スイカを断ち割るようにざっくりと真っ二つ。

「おおっ!」
「お見事っ」

 だが。
 一瞬迷った分、わずかに踏み込みが足りなかった。

「しまった、浅い!」

 一刀両断、ならず。下1mほど斬り残してしまった。

「ひゃーっはぁ、残念だったなああ!」

 切り口がぶくぶくと泡立ち、ぞろぞろぞろ、にゅうっと尖ったものが吹き出した。今まで蓄積されたであろう恐怖のイメージが、一斉に芽吹く。犬の首、猫の首、ワニの首、魚の首、蛇の首、ニワトリ、ダチョウ、魚にカエル。男、女、老人、子ども。カートゥーンのキャラクターや、映画のモンスター。もはやどこの何やら判別すらつかぬ、ありとあらゆる生き物の首がにょろり、にょろりと蠢いている。

「全力でぇええお相手してやるぜええ!」

 無数の首の群が、一斉に伸びようと気合いをためたその瞬間。

「忍び(それがし)の心の刃受けるでゴザル……」
「はっ」

 切り残した胴体の、まさにその切断面の端に、絶妙の呼吸でロイの掌打が打ち込まれた。
 もろくなった表皮を突き破り、さらに内側へと抉りこむ。

「ぐ、ぐええっ!」

 蠢く無数の首が一斉に悲鳴を挙げた。

 ポニーテールに結い上げた髪の毛が、戒めから解き放たれ、ばさっと広がった。和装メイド服の黒い袖が。フリルたっぷりの白いエプロンが、強い風にあおられたように翻り……

「心威発剄!」

 鋭気一閃空を裂き、渾身の衝撃波が夢魔の体内に直に打ち込まれる。もはや防ぐ術も逃れる暇もない。
 悲鳴をあげる間もあらばこそ。ぶわっとブギーマンの全身が膨れ上る。安物のゴム風船みたいにぱんぱんに膨れ上り、表面にわらわらとミミズ腫れが走る。限界まで引き伸ばされ、あちらこちらが薄くなり、やがて……

 ぱぁんっと派手な音とともに破裂した。
 後にはひらひらと薄っぺらい欠片が宙を漂うばかり。

「わあ、風船みたい」
「ハロウィンには付きものだからね……」

 こんな状態になっても、ブギーマンはあくまで強気だった。

「ふ、ふふん、たとえちっぽけな破片にされても、ここにはいくらでもエサがあるんだ」

 さりげない風を装い、ふゆふゆと漂ってゆく。行き先は、闇の凝り固まる一角……じくじくと膿みただれた悪夢の病巣。
 へちょり、と貼り付く。
 立ち所に香しい恐怖と悲しみの記憶が染みてくる。

「ふぅ……ひどい目にあったぜ……」

 うすっぺらな破片がじわりじわりと厚みを増す。表面にニタリ、とぎざぎざの口が浮かび上がった。

「見てろぉ、ハンターどもめ。じきに復活して……」

 もっしゃもっしゃ。
 もっしゃもっしゃ。

「ってお前何食ってるんだよ!」

 何てこった! チビガリ娘を背に乗せた、鼻の長い妙てけれんな生き物が!
 苗床もろとも、再生しかけた体を食っている!

「あ、こら、ちょっと、やめてっ」

(おまえ、サクヤ泣かせた。よーこいじめた。悪い奴!)

 もっしゃもっしゃ、もっしゃもっしゃ。
 鼻で吸い取り、牙でかみ砕く。みるみる悪夢の病巣は吸い出され、闇の占める領域が狭く、小さくなって行く。
 いや、染み出す闇そのものが吸い出されている!

「あーれー……」

 ごっくん。
 か細い悲鳴とともに、最後の一かけらがぽちの咽の奥に消えた。

(ごちそうさま)

 ぺろり、と舌なめずり。背にまたがった巫女さん二人はぽちのたてがみに顔をうずめ、耳の後ろをかいてやった。
 
「よくやったね、ぽち」
「えらい、えらい」
「うふっ」

(……あれで『泣かせた』って。基準が厳しいなあ、ぽち)
(いじめてたのは、むしろ先生の方でゴザル)

 思っていても口には出さず、少年二人は黙って顔を見合わせた。

 
BLがOKの方は→【ex11-8】★★★夢のあと
BLがNGの方は→【ex11-9】夢のあと2

【ex11-8】★★★夢のあと

2010/07/26 1:00 番外十海
 
 いつになく激しい営みの後、夢を見た。
 とびっきり怖くて綺麗な極上の悪夢を。
 鳥も通わぬ絶海の孤島の、高い高い塔のてっぺんに、君と二人きりで暮らす夢だ。
 誰にも会わせない。あの子たちにも。ヒウェルにも。あらゆる全ての存在から切り離して鎖で繋ぎ止め、永遠に君を独り占め……。
 
 俺だけのものに。
 
(その気高い心臓をじりじりと、時間をかけて少しずつ引き裂こう。流れる血を余さず啜り、優しいヘーゼルの瞳が空っぽになるのを見守ろう。そして壊れた君を凍えた胸にかき抱いて生きて行くのだ)

 それでも君はほほ笑んで、「愛してる」と答えてくれるだろう。
 けれど。

(日の光の下、力強い声が。弾けるような笑顔が俺を呼ぶことは、二度とない)

 滴り落ちる血が戒めの鎖を赤く染める。ゆるく波打つ髪よりもなお赤く。

『レオン』
『………レオン』
『レオンっ!』

 息苦しさに怯えて目を覚ます。

「……どうした、レオン?」
「あ……あぁ……」

 髪をなでる優しい手に、忌まわしい鎖はなかった。

「何でもない」

 包み込む腕に、肩に、くっきりと赤い爪の痕跡が浮いている。首筋には歯の痕が。
 今夜は何度君の悲鳴を聞いただろう。手首をつかんでねじ伏せ、「許してくれ」とすがる声が聞こえなくなるまで責め続けてしまった。あまつさえ背後からのしかかり、髪をつかんで涙と汗で汚れた頬に口づけて……唇にねじ込んだ指先で舌を捕らえ、首筋に浮かぶ『薔薇の花びら』に歯を立てた。
 その行為が君の中にどれほどの恐怖を呼び覚ますか、誰よりも良く知っているはずなのに!
 抑えがまるで効かなかった。

 すっかりしゃがれて、かすれた声が囁く。

「大丈夫だよ……俺は、ここにいる」
「うん」
「レオン」
「うん」
「レオン」
「うん……」

 俺は。
 俺はあやうくこの手で、君の翼を折ってしまう所だった……。

「レオン?」
「………愛してる」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

「レオン」

 愛しい人。
 
「レオン」

 生涯添い遂げると誓った唯一の男。

「レオンっ」

 誇りも尊厳も全てむしり取られ、心と体もろとも引き裂かれ。絶望のどん底を這いずりながらも忘れなかった、ただ一つの名前。

「……どうしたんだい、ディフ?」
「も……許してくれ……気が狂い……そう……だ……」

 息も絶え絶えにどうにか言葉を絞り出す。
 視界を覆っていた柔らかな布が取り去られる。間近に見下す笑顔は凄まじいほど美しく、脊椎を直に、鋭いナイフで削がれるような心地がした。

「壊れる君が、見たい」

 交わしたキスはかすかに血の味が混じっていた。噛みしめた唇からにじんだのか。あるいは、肌に走る赤い筋をなめた舌から移ったのか。
 その時思ったのだ。
 彼は飢えている。乾いている。
 ならば捧げよう……この血の最後の一滴、この身の最後の一片にいたるまで。

「いいよ……好きなだけ、俺を壊せ」

 レオンはあどけない子どもみたいな顔でこくっとうなずくと、俺の肩を掴み、乱暴にひっくり返した。
 うつぶせにベッドに叩きつけられる。もう、声も出ない。
 背後からしなやかな体がのしかかり、深々と貫かれた。

「くっ、あ、あっ」

(何度目だろう?)

 ぐい、と髪をつかんで引き寄せられる。汗に濡れた肌と肌の密度が増し、篭る熱に息をするのも忘れる。

「愛してるよ、ディフ」

 優しい囁きが耳をくすぐり、頬にキスされた。胸板に手のひらが押し当てられ、なで回された。いじり回された。ぷっくりと堅く尖った突起を交互にひねり上げられ、呼吸が次第に荒く、短くなって行く。あらゆる場所の皮膚が泡立ち、与えられるわずかな刺激にもピリピリと電流が走る。
 甘美な火花が皮膚から肉へと流れ込み、体内を貫くうねりとなる。
 全力疾走した犬みたいに、はっ、はっと口を開け、息をしていると……。
 じりじりと指先が胸から喉元、顎へとはい上がり、唇にねじ込まれた。

「うっ」

 さらに奥へと侵入し、舌を掴む。

「う。くぅう……」

 呻く暇もあらばこそ。首筋に牙が食い込む。火傷の痕に、きりきりと。

「っ!」

『愛してるぜ、マックス。お前はもう、俺のモノだ』

 忌まわしい記憶が意識を塗りつぶし、叫んでいた。だが、舌を封じられ、呻くことしかできない。

「う、う。うぅうっ!」

 もがけばもがくほど、歯が食い込む。深々と薄い皮膚を食い破る。
 奥底に打ち込まれた肉の楔は否応にも固さと熱を増し、容赦なく抉る。
 ああ、咽まで突き抜ける。腑(はらわた)を引きずり出されそうだ……。
 レオン。
 レオン。
 せめて名前を呼ばせてくれ。
 恐ろしい。こんな事をされながら、悦びに震える自分がおぞましい。

(レ、オ、ン………っ)

 荒れ狂う快楽と苦痛の濁流に飲み込まれ、視界が白く焼き尽くされた。

 
「………………………………………………あ……」

 意識を取り戻して初めて、失神していたことを知る。
 足の間がべっとりと粘ついている……いつ果てたのか、覚えていない。体の中も、外も、汗以外のものがねっとりとこびりついている。

(洗わない……と……)

 ぼんやりと思ったが、動けない。手も足も鉛を詰めたように重い。 

「く……う……」

 わずかに動いただけで至る所の皮膚が。筋肉が引きつれる。背骨を伝わり脳天まで、鋭い針で逆さまに掻きむしられるような感触が駆け抜ける。体の真ん中に鈍い痛みが居座っている。腑をえぐり出され、すっかり食われちまったみたいだ……

「う、うう、うっ」

 呻いているのは俺だけではなかった。瞬時に意識の焦点が合う。必死で重力の戒めを振り切る。全身の力を振り絞って瞼を押しあげ、口を開けた。

「……どうした、レオン?」
「あ……あぁ……」

 怯えた瞳でしがみついてきた。ただ受け止め、髪をなでた。骨肉をむしばむ痛みを忘れた。肌にまとわりつく汚れも忘れた。レオンのことだけを見た。思った。

「大丈夫だよ……俺は、ここにいる」

 レオンはほんの少し震えて、胸に顔を埋めてきた。

「うん」
「レオン」
「うん」
「レオン」
「うん……」

 ああ、可愛いな。
 愛しさがあふれ、干からびた魂が息を吹き返す。
 うなずく仕草が、くすぐったい。自然と笑みがこぼれちまう。
 撫でる手のひらに。抱きしめる腕に、ふと、彼の身体が強ばる気配が伝わってきた。

「レオン?」
「………愛してる」
「ああ……」

 額に口付け、汗に濡れた茶色の髪に顔をうずめた。
 彼の匂いがした。

「俺も、愛してる」

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【ex11-9】夢のあと2

2010/07/26 1:02 番外十海
 
「やったな、ロイ!」

 風見光一は全力で相棒に飛びつき、ぐいっと肩に腕を巻き付けた。
 無論、女装のまま。
 緋縮緬の長襦袢姿のまま。

「やややややや、やったでゴザルなっ!」

 ロイはどぎまぎしながらしがみつく風見から目をそらした。しかしながらその程度ではこの衝撃は到底収まらず、頭の回りをコッココッコとニワトリが飛び回る。

「……何だ、これ」
「いや、うれしくて、ツイ!」
「そっか、可愛いな」

(可愛い………コウイチが可愛いって言った!)

 鐘の音が鳴り響き、ばさばさとニワトリの大群が乱れ飛ぶ。
 白い羽の舞い散る中、ひらりとぽちの背から飛び降り、ヨーコは教え子二人に駆け寄った。

「よくやったな、風見。見事だったぞ、ロイ!」

 ねぎらいと称賛、限りない愛情をこめてばしばし肩を叩く。
 それから足下にきちっと座ってしっぽを振る漆黒の狼の首に腕を巻き付け、耳元に囁いた。

「……カル。おつかれ。かっこよかった」
「わふっ」

 ランドールは艶やかな黒髪に顔をうずめ、深々と息を吸い込んだ。

(次に会うときまで、覚えていたい)

 ふと首筋の毛が逆立つ。
 何てことだ、ヨーコのにおいに混じって見知らぬ犬のにおいがする。
 ふん、ふん、と熱心に嗅ぐ。念入りに嗅ぐ。
 まちがいない。しかも、こいつは……だ!
 これは由々しき一大事。
 ぐしぐしとほっそりした首筋に、胸に、腕にまんべんなく顔をすり寄せた。

「くすぐったいよ、カル」
「きゅっ」

 改めて嗅いでみる。自分のにおいが細い糸のように、彼女のにおいにからみついていた。
 うん、まずはこれでひと安心だ。

(どこの馬の骨ともわからない犬っころなんかに、負けるものか!)

 その間、少年二人はぽちをもしゃもしゃなで回した。

「ぽち、ご苦労さま」
「見事でゴザった、ぽち殿」

 とくに風見は念入りに、熱心に。

(今のうち、今のうち)

 現実世界に戻ったら、また、ぷいっとそっぽを向かれてしまうから。
 がっしりした首の周囲に渦巻くたてがみは、見た目よりずっとふかふかで。まるで子猫の毛並みのように心地よく、思わず顔をうずめてしまった。

「ぐきゅっ」

 ぽちは目をとじてうっとりご満悦。
 そのうち、うずくまったまますやすやと寝息を立て始めた。

 と……
 徐々に体が薄くなり、消えて行く。

「あ」
「仕上げだよ。ぽちが眠れば、一緒に夢を見ている人間もぐっすり眠れる。すこやかに目覚めることができるんだ」

 サクヤは愛おしげにたてがみをなで、ぽちの耳元にささやいた。

「ありがとう。またね……ぽち」

 耳をぱたぱたさせ、ごろごろと咽を鳴らしながら、幸せそうにぽちは帰って行った。

「っしゃ、これにて一件コンプリートでゴザルっ!」

 途端に張りつめていた気が抜けて、少年たちは一気にぼわんっといつもの姿に戻った。
 これにて女装終了。コスプレ終了。

「ふう、緊張したー」
「ああ、男とばれた時はどうしようかと思ったよ。プランBを考えておいて正解だったね」
「そうね……」

 人間に戻ったランドールをちらりと横目で見ると、ヨーコはそっと顔をそらした。

「あ………………その………」

 もじもじして、言いよどんでいる。どうしたのだろう?
 ランドールは身を屈めてのぞきこんだ。

「どうしたんだい、ヨーコ?」
「………………着なさい」

 ほんのり桜色に頬を染める彼女の指さす先には………脱ぎ捨てられた吸血鬼の衣装が一そろい、ばさっと地面に散らばっていた。

「おっと」

 コウイチとロイ、そしてサリーはいつものように行儀良くさり気なく視線をそらせていた。
 そしてヨーコは、完全に袖で顔を覆っている。いつになくたおやかな仕草を見て、急に強烈な恥ずかしさが込み上げてきた。
 いそいそとランドールが服を身に着けている間に、周囲の景色が少しずつ変わり始めていた。 

 影が消えて行く。

 夢魔の呪縛から解き放たれ、夢の中の風景が変わって行く。
 薄っぺらな紙細工の町がぽろぽろとはがれ落ち、壁が。天井が現れる。
 ベッドも、机も、何もかも二つずつ整えられた部屋。

「ここは……」
「シエンの部屋だよ。今、現実の彼はここからほとんど出て来ない」

 部屋の天井も壁も家具も何もかも、すべすべした細い糸に覆われているように見えた。
 クモの巣かとも思ったが、違う。これは捕らえるための糸ではない。これは繭だ。傷つきやすい柔らかな体を守るために織られた糸の防壁。
 
 ベッドの上にぽつんと、男の子が一人座っている。膝をかかえてうつむいて。
 ややくすんだ金髪に紫の瞳、やわらかなクリーム色のセーターを着た、優しげな顔立ちの子だ。窓の外からは、しとしと、ぽつぽつと雨の音。途切れずいつまでも続くのではないか。もう二度と晴れることはないのではないか。
 雨の音に封印されていた繭に、ふと。
 光が差し込む。
 ベランダに通じる窓から、最初は細く、糸のように。
 少年が顔を上げた。
 手のひらに細い光の糸が落ちる。
 金色の糸をたどり、ベッドを降りた。床に立って、歩き出した。
 壁を覆う繭が開き、窓が現れた。
 少年はほんの少しためらってから窓を開けて、外に出た。
 途端に部屋は消え去り、日当たりのよいベランダに変わる。並べられたプランターに、わさわさと香りのよい草が繁っている。
 パセリにタイムにローズマリー、オレガノ、ミント、カモミール、バジルは特にたっぷりと。
 雲間から降り注ぐ柔らかな日の光を浴びて、少年は目を細めてハーブを積んでいた。やがて手のひらいっぱいに、小さな香りの良いブーケができあがる。
 少年はうっとりと香りをすいこみ、小さくうなずいた。
 
 室内に通じる扉の向こうから声がする。
 彼の名を呼んでいる。

「……エン……」
「シ………エ……ン」

 一つではない。大声ではない。だが、決して途切れることはない。

「シエン!」

 シエンは迷いのない足取りで扉を開け、入って行った。

「病巣はとりのぞいた。あとは、あの子次第ね」

 後ろ姿を見送りながら、ヨーコは愛おしげに目を細めた。

「閉ざされた扉は、内側からしか開かない。鍵を持っているのは、シエン自身なのだから」

 どっしりした木の食卓の置かれた食堂。キッチンカウンターの奥では、背の高い赤毛の男性と、金髪の少年が忙しく動き回っている。
 あたたかな湯気が漂ってくる。
 シエンはカウンターの脇を抜け、キッチンへと歩いて行く。いつの間にかエプロンを身に付けていた。パステルグリーンに白のストライプ。キッチンで立ち働く二人と色違いのおそろいで。

「家族にできるのは、踏み出した彼を支えて、前に導くことだもの。ね?」

 おいしそうなにおいが漂ってきた。オーブンから。コトコト煮える鍋から。

「あ、パスタかな?」
「ピザかも……」

 ドアが開き、ひょろりとした黒髪と、すらりとした明るい茶色の髪の男性が入って来る。もうじき、食事の時間だ。
 食器の触れ合う心地よい音を聞きながら、狩人たちは夢から抜け出した。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「あーっ、お腹減ったー」

 ぱちっと目を開いて羊子はむくっと起き上がった。

「ピザたべたーい、ピザー」

 携帯を取り出してぴこぴことやっている。と思ったら。

「もしもし? こちら結城神社ですけど、ピザのデリバリーお願いします。マルガリータのLLサイズ1枚とLサイズ2枚、大至急!」
「先生……」
「せめて社殿を出てから……」
「だーってお腹空いたんだもーん」

 ぎぎぃ、と扉を開けて外に出る。
 時刻は16時。おやつと言うには少々遅く、夕飯にはまだ早い。

「今、そんなにたっぷり食べちゃったら、夕飯入らないんじゃあ」
「だいじょーぶ、余裕だから!」

 笑顔全開で答える先生を見守りつつ風見光一ははぁっと小さくため息をついた。
 まあ、いいや。食べ切れない分は、全部先生が片づけてくれるだろうし。
 よーこ先生は、狩りの直後はものすごく食べる。お腹いっぱい食べて、消耗した分を取り戻すのだ。

「はぁ……」
「どうした、ロイ」
「いや、その、アノ」

 あれ、ロイまでため息ついてる。しかも、真っ赤になって顔を伏せてるじゃないか。
 そうか!
 女装したのが、今になって恥ずかしくなってきたんだな!
 シャイな奴め。

 にかっと笑うと、風見はぱしぱしとロイの背を叩いた。

「心配するな、ロイ! お前のメイドさん姿、最高に可愛かったぞ」
「そそそ、そうかな!」
「ああ」

 うなずき、目を見据えてサムズアップ。

「自信持て!」
「う、ウン!」

(可愛いって言った……コウイチが……可愛いって。可愛いって!)

 その瞬間、ロイの心の中には祝福の鐘が高らかに鳴り響き、白いニワトリがぱたぱたと群れ飛んだのだった。

 
 ※ ※ ※ ※


 数日後。
 
「先生!」

 ばたばたと藤島千秋が『伝研』の部室に駆け込んできた。

「お、どーした藤島」
「聞きました? あの噂!」
「あの?」

 お茶を入れていた風見の肩が、ぴくっと震えた。

「出るんですよ……」
「何が?」
「何がって……のんきだなあ。もう、学校中でもちきりですよ! 夕暮れの校舎に水音が響き、不審に思って水飲み場に行くと!」
「ふむふむ」
「白いゴスロリドレスを着た美少女が、白い水差しに水を汲んでいたんです!」
「へー……そう、水差しねぇ」

 にやにやする羊子の視線の先には、つるっと丸い電気ケトルがあった。色は白。流線的なフォルムは遠目には水差しに見えなくもない。

「で。情報(ネタ)の発信源は?」
「新聞部です。夕方遅くまで編集会議してたそうで」
「あーなるほどねえ。そりゃあ信憑性高いわな」
「あれからずっと張り込んでるんですけど、まだ見つからないそうですよ!」
「らしいな。風見?」
「そ、そうですね!」

 風見は精一杯平静を装った。
 さっき水を汲みに行った時、見てしまったのだ。階段の陰に陣取り、カメラかかえて待ちかまえる新聞部員の姿を。
 一方で千秋は目を輝かせ、ヨーコに熱心に話しかけている。 

「伝研ではやらないんですか?」
「何を?」
「調査ですよ! 夕闇の校舎に現れる白いドレスの水くみ美少女! 神秘的で、何だか、すごく『伝説』って感じがしませんか?」
「そーだなあ……調べてみるか。なあ、風見」
「よーこ先生……さっきから、何で俺にばっかりネタ振るんですか!」
「だって、部長だし?」
「う」

 民俗伝承研究部部長、風見光一は、がくっと肩を落とすのだった。

「あー……その………千秋」
「どうしたの、光一?」
「……はい、お茶」
「さんきゅ、のど乾いてたんだ!」

 風見の入れた茶をおいしそうに飲み干すと、藤島千秋はにこやかに帰って行った。

「どーしよう……」

 扉が閉まるなり、風見は頭を抱えた。

「コウイチ! 大丈夫だよ、人の噂も75日」
「そ、そうか!」
「春休みに入れば、きっとみんな忘れるよ!」
「そうだな!」

 ずぞーっとひとくちお茶をすすってから、羊子がぽつりとつぶやいた。

「春休みを越え、年度を越えて、そして噂は伝説になるのだった、と」
「先生っ」

 にやにやしながら羊子は椅子にふんぞりかえり、教え子の顔を見上げた。

「お前さんらしくないよな、風見ぃ。見られてたのに、気付かなかったなんてさ」
「そ、それはっ」

 千秋に女装を見られた直後で、慌てていたのだ。ドレス姿のまま飛び出していたことに、部室に戻ってからようやく気付いたのだが後の祭りだった。

「まっ、藤島も相当ショックだったんだろうなあ。『白いドレスの水くみ美少女』と、お前さんの女装の関連に気付かないなんてさ? 幸か不幸か」
「幸い、と思うことにします」

 へばーっと風見光一は盛大にため息をつき、肩を落とした。

「いつの間にか、美少女にされてるし……」
「ほんとは男の娘なのにねぇ」
「よーこ先生っ」

 こうして、戸有高校の七不思議に新たな伝説が追加されたのだった。
 既にトータル七つどころではなくなっているのだが、そこはそれ、よくある話。気にしてはいけない。

「気にするよっ」

 おたおたする風見を見ながらロイは……

(ああ、コウイチ。そんな君も、むちゃくちゃキュートだ!)

 胸をときめかせていた。

(君の秘密は、ボクが全力で守る!)

 握りこぶしで誓うロイの後ろでは、羊子が秘かに試着写真を三上にあててメールで送っていたりするのだが。
 神ならぬ身には知る由もなかった。

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【ex11-10】そしてメールが届いた

2010/07/26 1:03 番外十海
 
 いと高き天を仰ぐ薔薇窓から差し込む夕日が教会を照らす。厳かな静寂に包まれる聖堂に、突如軽快な電子のメロディが流れた。
 かろうじて歌詞は入っていないものの、その曲を聞けば思わず条件反射で口ずさんでしまう。
 ある意味この場にふさわしい曲が。

(めーりさんのひつじーひつじーひつじー)

 祭壇前で蝋燭を灯していた神父が手を止めた。

(おや、結城さんからですか)

 三上蓮は小さくうなずき、懐に手を入れた。
 どうやらメールが届いたようだ。以前はどちらもこの曲に設定してあったのだが、さすがに区別がつかないので音声通信は着うたに変えた。
 携帯を取り出し、開く。

「ふむ、あちらのお子さんに巣食っていた悪夢を狩っていた、と……」

 添付された写真をひと目見るなり、神父はぴくりと右の眉をはね上げた。糸のように細い目が一瞬、見開かれる。

「って何やってるんですか、彼らは」
「え、『彼ら』って……?」

 いつ入ってきたものか。小柄な見習いシスターが一人、伸び上がるようにして神父の携帯をのぞきこんでいる。

「ああ、あなたはまだ彼らとは面識がありませんでしたね……一見女の子にしか見えませんけど、立派に男子です、これ」
「え。ええっ?」
「こっちの黒髪の子は風見光一くん。風見先生のお孫さんです。それからこちらの金髪さんはロイくん」
「えーっとえーっとえーっと……」

 シスターは軽い目まいを覚えつつ、耳にした名前と、目にした写真を結びつけようとした。

「つまり、この二人は実はサムライでニンジャなんですね」
「まあ、そう言うことです。今回は結城神社の守護獣を動員したそうですから……『ぽち』は男性が苦手でしょう?」
「ああ、それで女の子に変装したんですね」

 うなずきつつ、三上はメールの末尾に添えられた一文を読み直した。写真に目を奪われ、さっきは飛ばしていたのだ。

『追伸:カルはヅカメイクの白雪姫でした』

「………」

 ヅカメイク。
 白雪姫。
 カル、つまりMr.ランドール。
 すさまじく違和感のある単語が並んでいる。

「Mr.ランドール……あなたまで」
「誰です?」
「あー……その……サンフランシスコに住むお仲間で……」
「ああ! 吸血鬼で狼な方ですね」
「そうです、たまにコウモリにもなりますが。背が高くてガタイのいい、濃い系の顔のハンサムさんです」
「はあ……」
「いささか女心に疎い唐変木ですが、毛並みはいい」
「毛並み……ですか」
「ああ、育ちがいいと言う意味ですよ、もちろん! まあ、どうやっても女性には見えない方ですね」

 毛並みのいい、背が高くてガタイのいい濃い系の……白雪姫。
 しかもヅカメイク。
 見習いシスターは持てる想像力を総動員してみたが、早々に挫折した。

「……それ、何の罰ゲームなんでしょうか?」
「まぁ、メールにも『一発でバレたけど』って書いてありますが、結局は狼に変身して誤魔化したようですね」
「最初から、そうしておけば良かったのに」

 しみじみと目を閉じて言ってから、ふと、シスターは気付いてしまった。

「あの、神父さま。今回の事件って、女装する意味あったんでしょうか?」
「というと?」
「コネで女性ハンター集める方が、正攻法じゃないですか?」
「あー、それは時間と趣味の問題でしょうね」
「趣味って……誰の趣味ですか!」
「着る方じゃなくて着せる方です」
「あー……つまり……その……」

 三上は厳かにうなずき、言外に彼女の思い浮かべた名前が正しいことを伝えた。

「あと、サンフランシスコ側には女性ハンターのコネがないのも理由の一つですか」
「ああ、それは仕方ないですね」
「まぁ、あちらは結城くんなら問題なく代用効きますが」
「……え?」

 思い起こすのは、慌ただしくも活気あふれる新年のあれやこれや。
 白衣に緋色の袴も鮮やかに、ちょこまかと境内を飛び回る巫女さんたち。あくまで普通に。あくまで自然に。『特別なこと』をしていると言う空気は微塵も感じられなかった。

「彼の女装、全く違和感ありませんし、そもそも本人に女装の意識があるかどうか怪しいですねぇ」
「それはそれで、どうかと思いますけど」
「ぽちも彼なら慣れてますし、何より結城神社の売り文句、知ってますか。『結城神社の巫女姉妹』って言うんですけど」
「……姉妹、ですか?」
「ええ、実際には従姉弟なんですが、要は家族揃って……というか、少なくともお母さん達はそういう扱いですね」
「いいんでしょうか、それ」
「正直なところどうかと思うこともありますが、本人が嫌がっている訳でもないし。ドリームイメージもアレなんで、別にいいかなーと……」

 見習いシスターはじーっと、おだやかな笑みをたたえる神父の顔を見上げ、それからおもむろに小さくため息をつき、首を左右に振った。

「……兄さん」

 無論、血のつながった兄妹ではない。共に教会で育った『兄』であり『妹』だった。

「理解を示しているようで、実は思いっきりトドメさしてますね?」
「おや、そんな風に聞こえましたか?」
「……はい」

 三上蓮は何食わぬ顔でさくっと十字を切り、聖堂を後にした。
 残されたシスターは、マリア像を見上げてぽつりとつぶやいた。

「私も行きたかったなぁ……」

 それが、夢魔から少年を救う義務感に基づくものなのか。
 あるいは、チームメイトの滅多にない女姿(と言うか仮装?)を見てみたかったからなのかは……
 神のみぞ知る。

(ぽち参上!/了)

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科学のココロ

2010/07/26 1:08 短編十海
  • 拍手お礼用短編の再録。
  • 【4-19-6】ドアの向こうにでヒウェルから贈られたプレゼント、オティアはけっこう気に入ったようです。
 
 2月も終わりに近づいたある日、ヒウェルから箱をもらった。やけにきれいな紙で包装され、ご丁寧に青いリボンのかかった箱を、何やらぶつくさ言いながらさし出してきたのだ。

「あー、その、これ……」
「何だ、これ」
「プレゼント」
「もらう理由がない」
「そ、そりゃ、まあ、うん、そろそろ3月だし、バレンタインにしちゃいい加減遅いけどっ、そのっ」
「……」

 バレンタイン。
 しばし記憶をたぐる。
 2月14日……ドクターが往診に来た日だ。確か、あの日は食卓にマーガレットが飾ってあった。おそらくレオンがディフに贈ったんだろう。

「そう言うことか」
「う、うん、そう言うことっ」

 包み紙の下から出てきた箱には、黒地に蛍光緑で「探偵セット」と書かれていた。

「何で探偵セット?」
「探偵だろ? おまえ」
「それはディフだ。俺は助手」
「いちいち細けぇな! 助手だろーがアシスタントだろーが、探偵事務所でお仕事してることに変わりはないだろ!」

 そんな訳で今、オティアの目の前には「探偵セット」がある。中味は指紋採取キットに繊維分析キット、水に溶けるメモ、血液判定薬、簡易顕微鏡に紫外線ペンライトまで入っている。
 今日の分の仕事はもう済ませたし、ホームスクーリングの課題のノルマも片づいた。
 シエンに付き添って家にこもりきりになって以来、びっくりするほど時間が余っているのだ。本でも読むか、と思ったが、ここんとこずっと同じことをしていて、何と言うか……
 メリハリがない。

 ひとつ、こいつを試してみよう。どれから行こう?
 箱の表面には倒れた人型と、射撃の的とおぼしき同心円、そして微妙にいびつな渦巻き状のマークが描かれていた。

「……指紋……か……」

 犯罪捜査でどれだけ重要か、これまでの暮らしで学んできた。知識としては知っていたが、自分の手で実際に採取できるとなると、試してみる価値はある。
 さて、この家で最も人の出入りの多い部屋はどこだろう。やはり……。

 シエンが怪訝そうにこっちを見てる。
 オティアは探偵セットを抱えてとことこと廊下に出た。シエンはちょっと考えてから、後をついていった。
 ドアを開け、居間を見回す。
 うん、やはりここだろうな。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「ただいま……帰った……ぞ?」

 帰宅するなり、ディフは目を剥いた。何てこった。ソファの背もたれ、ローテーブル、サイドボードにディーン用のキャンディポットにテレビにキャットウォーク……ありとあらゆる家具が、見慣れた粉にまみれている。極めて粒子の細かい、黒に近い灰色の粉末。

「何………だ、これは」

 ぞわっと髪の毛が逆立ち、心臓が喉元までせり上がる。ダッシュで玄関に取って返したが、『立ち入り禁止』の黄色いテープは無かった。剥がされた痕跡も無し。制服警官も、科学捜査官もうろついていない。

(落ち着け……落ち着け、ディフォレスト)

 今日はソフィアが付き添ってくれている。普段は下の階の自宅にいるが、ランチとおやつの時はこの部屋に来ている。何かあったら、まず彼女から連絡があるはずだ。

 改めて、まぶされている粉を観察する。
 この指紋採取パウダーは、サンフランシスコ市警の鑑識チームが使ってる奴じゃない。色が微妙に違うし、粒子も若干、粗い。
 粉まみれになっている場所を一つ一つ検分して行く。
 最初はどうやら、テーブルの縁から始めたようだ。明らかに慣れていないらしく、大量の粉を使っている。さらにカーペットの上にもこぼしていて、その上を踏んでいた。
 靴跡の大きさから、採取した本人のおよその体格が見えてくる。このサイズに該当するのは二人。そして、この手の実験に興味を持ちそうなのは一人しかいない。

「………オティアか」

 ちりん、と足下で鈴の音がした。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 子ども部屋に行くと、被疑者は採取した指紋をずらっと床に並べて座り込んでいた。
 透明なフィルムに写し取り、指紋が見やすいように裏に白い紙を入れたスリーブ(袋)に収めてある。ご丁寧に一つ一つには採取した場所を書いたラベルが貼り付けてあった。

「どうしたんだ、これ」

 サンプルから目も放さず、傍らの四角い箱を指さした。『探偵セット』……何度もリニューアルを重ねつつ、連綿と続いてきた科学玩具の定番中の定番だ。現にディフ自身も子どもの頃、夢中になって家中を捜査したものだ。

「あー……それ、か……」

 懐かしさと若干の気まずさ、そして母の困り顔を思い出していると、とことことオティアが近づいてきた。

「ディフ、手、見せて」
「ああ」

 言われるまま両手を広げ、手のひらを上にして差し出す。がっしりした指先をオティアはまじまじと観察し、手にしたサンプルと見比べ、うなずいた。

「だいたい合ってる」

 床に置かれたサンプルは、いくつかのグループに分けられていた。

『オティア』『シエン』『レオン』『ディフ』『ヒウェル』『アレックス』『ソフィア』『ディーン』『オーレ』そして『未決』『準未決』。

 自分とシエンの分は、実際に照合して、すぐに分かったのだろう。ディーンはサイズ、オーレは形状で一目瞭然。
 そして今、本人と照合された指紋が『ディフ』の場所に厳かに並べられた。同時に、『準未決』のグループがさっくりと『レオン』と『ヒウェル』の場所に分類される。

「何で、わかったんだ?」
「数の多い大人の指紋は3種類。誰がどれかは大体、予測できていた。ディフの分が確定すれば、残りは必然的に判明する」
「なるほど。だが、ヒウェルとレオンの分はどうやって区別を?」

 オティアは『ヒウェル』に分類された指紋サンプルのうちの一枚をつまみあげた。曰く、『採取場所:キャンディポット』

「……なるほどな」

 レオンはキャンディポットには触らない。
 日ごろの観察と人物の分析が、見事に採取した証拠と結びついている。しばしオティアの優れた洞察力に感心していたものの、はたとディフは我に返った。

「リビングが粉だらけになってたぞ。採取が終ったら、きちんと除去しとけ」
「ああ……」
「お前のにおいがついてるもんだから、オーレが顔をこすりつけて……今、すごいことになりつつある」
 
 リビングに行くと今まさに、粉まみれになったソファのひじ掛けにオーレがぐしぐしと顔をすりつけていた。

「………オーレ」
「にゃー」
 
 キャンディポットも、テーブルも、サイドボードも、キャットウォークも、念入りにこすられていた。
 そして、なおもうっとりとひじ掛けに顔をこすりつけるお姫さまの白い毛皮もまた、黒灰色の粉まみれ。

「………」

 これ以上被害が拡散する前に、オティアは素早くオーレを抱き上げた。

「み?」
「……」

 あどけない顔でちょこんと小首をかしげている。ここで叱ったところで、何で叱られてるのか理解できないだろう。そもそも猫って生き物は、自分が悪い、なんてカケラほども考えやしないのだ。

 いつの間にかシエンが部屋から出てきて、さくさくとリビングの掃除を始めていた。
 お姫さまはケージに隔離され、双子が掃除をしている間、ずっとにゃーにゃーと抗議をしていた。
 そして指紋採取パウダーの除去作業が終ってから、速やかにお風呂に直行したのであった。
 
 夕食時。
 何も知らずにやってきたヒウェルを出迎えたのは、スタンプ台をさし出すオティアだった。

「え、なに、もしかして指紋とるって?」
「ん」
「本格的だなぁ」

 にまにましながらヒウェルは自らスタンプ台に指をぐりぐりと押し付け、台紙に指紋を押した。一本ずつ、丁寧に。
 オティアは提出された指紋をキャンディポットから採取したサンプルと比較し、満足げにうなずいた。
 
(おー、おー、すっげえ夢中になってやがる。ちくしょう、いい顔してるなあ! 可愛いったらありゃしない)

 熱心に指紋を調べるオティアを見て、ヒウェルは有頂天。ひらひらと頭の周りにチョウチョを舞わせつつ、上機嫌でしゃべりまくった。

「このインク、においも質感も警察で使ってるのとそっくりだよな。あれ、なっかなか落ちないんだよなー! ねばねばしてるし、乾燥するの遅いし。これもセットに入ってたのか?」
「いや。これは、ディフが」
「……そっかーディフが持ってきてくれたのかー。本格的だなー」

 要するに、市警察ご用達のインクと同じ物ってことなのだが……幸せに舞い上がったヒウェルは気付かない。ぽーっとしたまま、無意識にシャツで指先を拭っているのにも気付かない。
 さらにゆるみ切った表情のまま、尻尾を立ててしゃなりしゃなりと歩いてきたオーレに手を伸ばす始末。

「お、オーレ、ふわふわだな。風呂に入ったのか?」

(その手で触らないでよ、きぃ!)

 ぴしっと前足が宙を走り、手の甲に赤い筋が刻まれた。

「どーしたお姫さまー。ご機嫌ななめだなー」

 普段なら『いってえええ!』とか『何しやがるー!』と悲鳴が挙がる所なのだが……エンドルフィンでも出まくってるのか、猫なで声でにやにや、にまにま。オーレは尻尾をぼわぼわに膨らませ、背中を丸めて斜めに後じさった。

 この後、舞い上がったへたれ眼鏡はふわふわと雲を踏みつつキッチンに向かい……

「お手伝いいたしましょうかぁ?」
「お、珍しいな」
「そりゃー世話になってるし、俺だって、たまにはね! これ運んでおけばいいのか?」
「ああ、頼む………って…………」
「どーした、まま」
「き、さ、ま」

 双子は、見た。『まま』の赤いたてがみが、沸き起こる怒りのオーラでもわっと逆立つ瞬間を。

「その手であちこち触るなーっ!」

 がっちりした右足がひょろ長い左足に絡みつき、高々と上がった左足が筋肉の盛り上がる膝の内側に首根っこを押さえ込む。ぶっとい右腕はガタのきた腰をがっちりホールド、仕上げに脇の下に抱え込んだか細い腕を、ぎち、ぎち、ぎち、と背中側に引っ張った。

「おごわっ」
「そもそも、今日は貴様の持ち込んだ玩具でえらい目に会った! だがあの子が興味を示すようになったのは進歩だ。感謝する」
「だったらこの手を離せ……ぐぎぎ」
「そこはそれ、それはそれだ」
「ふごっ」

 炸裂するオクトパスホールド(卍がため)。
 容赦なくシメられつつ、それでも幸せなヒウェル・メイリールさん(26)だった。

(科学のココロ/了)

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