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ローゼンベルク家の食卓

【ex11-2】ぽち袋

2010/07/26 0:53 番外十海
 
 沈んでいた。光さえ届かない、暗い沼の泥の中に。肌の上を粘つく生き物が這いずっている。足が蠢き、尾が引きずられる感触に鳥肌が立つ。だが、体はぴくりとも動かず、開いた目の上を這いずる何かを払いのけることもできない。
 気持ち悪い……だが気力は萎え、もはや逃げようと言う意志さえ湧かない。

(どれほどの間、ここに沈んでいるのだろう?)

 ふと、水が揺らぐ。
 ぷくり、と小さな泡がたちのぼり、か細い声を聞いた。

(……泣いている)

 泥に埋まっていた手足を引きはがし、がむしゃらに濁った水をかいた。

(行かなければ。今、すぐに!)

「っ!」

 見慣れた寝室の天井。柔らかなオレンジの明かり。いつもの夜、しかし静かではない。すぐ隣でうめく声がする。

「レオン?」

 歯を食いしばり、汗を滴らせて呻いている。自らの左胸をぎっちりと掴んで。寝巻きが皺になり、肌に爪が立つほどに強く……。

「レオン。レオン!」

 肩をつかんで揺さぶった。

「レオン! 目を覚ませ。俺を見ろ……レオン!」

 ひゅうっと咽が鳴り、目が開いた。明るい茶色の瞳が宙をさまよい、愛しい人に像を結ぶ。

「……っ」

 ぐいっと肩を掴まれ、指が食い込む。こぼれかけた呻きを飲み込み、ほほ笑んだ。

「どうした、レオン?」

 引き寄せられ、抱きしめられた。強引とさえ言える動きだった。一瞬、骨が軋む。食いしばった歯の奥に、かすかな嗚咽を聞いた。

「……大丈夫だよ、レオン。大丈夫だからな」

 腕を彼の背に回し、抱いた。愛しい人を、包み込んだ。震える背を撫で、汗に濡れる頬にキスをした。

「俺は……ここにいる。だから……」

 かすかにうなずく気配がして、優しい指が髪に絡みついてきた。
 
「…………ディフ」
「うん」

 安堵のため息をもらすと、レオンは顔をうずめた。ゆるく波打つ赤い髪に。

「……レオン」
   
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「こんにちは!」
「よう、サリー!」

 ベビーシッターを頼みたい。
 ディフから電話がかかってきた時、チャンスだと思った。オーレの身に付けた鈴を通して、シエンたちの様子を感知することはできるけれど、やはり直接会った方がいい。
 
 久しぶりにローゼンベルク家を訪れ、サリーは小さく息を飲んだ。夢魔が蝕んでいたのは双子だけではなかった。既にディフやレオン、ヒウェルにまで己の分身を……『悪夢の種子』を植え付けている。

 侵食状態が浅い今の段階で、これだけあちこち食い荒らすなんて! 今度の相手は相当荒っぽい『大食漢』だ。
 さながら、大きな刃物でめったやたらに切りつける殺人鬼。狙いは定めず、当たるを幸い手当たり次第。
 ある意味、楽だ。痕跡が隠されていないから辿るのが容易だし、戦力が分散されているから防御力も低い。トータルの出力は相当に大きいけれど、被害者の心の奥深くに身を潜め、ひっそり食い荒らす夢魔よりも防ぎやすい相手と言える。
 
(お守り人数分、用意しておいてよかった……)

「助かったよ。今日は誰も手が空いてなくて。すまんな、せっかくの休みに」
「いいえ!」
「ランチはキッチンのテーブルに用意しといた。冷蔵庫の中味は自由に使ってくれ」
「OK。ありがとう」
「こっちこそ。それじゃ、よろしく頼む」
「行ってらっしゃい!」

 ベビーシッターと言ってもほとんどすることはなかった。ディフとレオンが仕事に行っている間、双子に付きそい、一緒にランチを取る。
 付きそう、と言ってもシエンは部屋から出ようとしなかったし、オティアもシエンと一緒に居る。オーレはちょこまかと部屋を出入りして、忙しげにサリーのいる居間との間を往復していた。

「……さて、と」

 サリーは持参した鞄から、ペットボトルをとり出した。中には澄んだわき水に略式ながら祈祷を捧げた神水が満たされている。

(さすがに盛り塩は目立つけれど、これならば)

 部屋の隅、花瓶に活けられたマーガレットの花、ベランダの鉢植え。少しずつ注いで祝詞をささやく。

「天清浄 地清浄 内外清浄 六根清浄と祓給ふ……」

 ちりん、ちりん、と鈴を振る。願いをこめて、澄んだ音を響かせる。

「八百万の神等諸共に 小男鹿の八の御耳を振立てて聞し食せと申す……」

 りん!

 仕上げに居間の中央で鈴を鳴らすと、部屋の空気の質が変わった。こうなって始めて『今まで濁っていた』のがわかる程度の差ではあったが……まとわりつくようなぬるりとした気配が、消えた。
 
(これで、しばらくはあいつも動けない)

 既に夢魔が侵入している以上、結界を張るのは効果がない。だから一時的にローゼンベルク家を、神社と同質の『清浄な』空間に変えたのだ。夢魔が宿主から這い出て、悪さをできないように。だが、さすがに毎日清めることはできない。時間の経過とともに、効果は薄れて行くだろう。

(それまでに、片をつけなければ!)

 昼食は三人分ちゃんと用意されていた。持参した神水を沸かして茶を入れ、双子の分を部屋に運ぶ。オティアが受け取り、小さな声で
「ありがとう」と言った。

「オティア。これ、お土産」
「?」
「獣医さんが書いた、猫の本なんだ。俺はもう、読み終わったから」
「……ありがとう」
「シエンには、これ」
「何だ、これは」
「枕元に置くサッシュ(においぶくろ)だよ。いいにおいがするでしょ?」

 オティアは顔をよせ、ひらべったい布の袋のにおいをかいだ。

「オレンジのにおいがする」
「当たり。オレンジとカモミールをブレンドしたんだ。安眠効果がある。良かったら使って」

 オティアはシエンの方を振り返った。こくっとシエンがうなずく。

「……ありがと」
「どういたしまして」
「サリー」
「ん、なあに?」
「この動物は、いったい何なんだ?」
「ああ」
 
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 stitch by Kasuri

 袋には、うずくまって心地よさげに眠る、鼻の長い生き物の絵が描かれている。

「ぽちだよ」
「ぽち?」
「……じゃなかった。バク。日本の伝説に出てくる生き物だよ」

 首をかしげている。

「うちの神社のシンボルキャラクターなんだ」
「ガソリンスタンドの、羽根の生えた馬みたいなものか?」
「うん、そんな感じ」
「……そうか」
 
 うなずいてる。
 オティアなりに、納得したらしい。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 その夜、招かれた夕食の席で、サリーは改めてディフ(とレオン)、ヒウェルにもそれぞれ「夢守り獏」のサッシュを渡した。

「一応、ポプリ入れてあるけど、香りが薄くなったら自分で好きなのを足してね」
「いいにおいだ……バラかな?」
「うん、ディフの分はね」

 ディフは目を細めてサシュを撫で、かすかに頬を赤らめた。

「一番、好きな香りだ。ありがとう、サリー」

 一方でヒウェルはくんかくんかと鼻をくっつけ、熱心に自分の分のにおいをかぎ……派手にあくびをした。

「いいにおいっちゃいいにおいだけどさー、かいでると、こう……意識がすーっとどっかに吸い込まれそうな気がするんだが……」
「あー、それ、ラベンダーなんだ。人によっては、ちょっと強過ぎる、かも」

 だから双子には使わなかったのだが。

『ヒウェルなら大丈夫だって! 彼、ストレスがかかるとワーカホリックに磨きがかかるタイプだからね。今、最高潮に仕事ぎっちり抱え込んでるはずよ』

 よーこちゃんの読みは正しかった。目の前のヒウェルはげっそりとやつれ、目の下にはクマが浮かび、いつもにも増して不健康さに磨きがかかっている。ほとんど寝ていないっぽい。そのくせ、目はギラギラと輝き、やたらとハイテンションでしゃべりまくる。

(よくない傾向だなあ……)

 これも夢魔の影響の一種なのだろう。悪夢を見るから眠りたくない。だから仕事に没頭し、自分を追い込む。結果としてどんどんやつれて行く。
 今はハイになっているからいいけれど、限界を超えてガクっときたら最後。一気に侵食されてしまうだろう。

『消耗しきったとこに、ラベンダーかがせりゃ一発で落ちる……夢も見ないでぐっすりとね。それぐらいで丁度いいんだ』

 ついでに仕事も落ちそうな気がしないでもないけれど、今のうちに休ませて、ちょっとでも回復させておこう。

(ごめんね、ヒウェル)

 とろーんとした目でヒウェルはサッシュを眺めて、ぽつりとつぶやいた。

「これ……安眠グッズだろ? シエンとオティアにも、効果あるかな」
「うん、あの二人にはもう渡しておいたよ」
「何の香りを?」
「オレンジとカモミール。ポプリとエッセンシャルオイルを組み合わせて……」
「……はあ?」

 ぐんにゃりと口を曲げ、目を半開きにしている。あれは、最高潮に呆れた時の顔だ。

「わざわざ、そんな手間かけなくってもさあ。オレンジ輪切りにして枕元に置いときゃいーじゃん!」
「………」
「………」
「………」

 その瞬間、食卓を何とも言えない微妙な空気が支配した。普通ならここで黙りそうなものだが、ヒウェルはさらに自ら自爆の追加を炊いた。

「オレンジジュースとカモミールティー混ぜて、霧吹きで吹くとか!」
「お前……」

 ディフがじとーっとヒウェルをねめつけ、ため息をついた。

「つくづくデリカシーのない男だな」
「っかーっ! てめーにだけは言われたくねえよっ!」

 ムキになって言い返すへたれ眼鏡を、レオンはただにこやかに見守っていた。
 実の所、彼もちらっと同じことを考えたのだが……こんな手間をかけずとも、枕元にバラを活けておけばいいんじゃないか、と。
 正直、オレンジだろうとラベンダーだろうとバラだろうと、何でもかまわない。人工的に合成された香りでなければ……あれはどうにもいけない。厚塗りの化粧のにおいを思い出す。
 幸い、サリーの持ってきてくれたサッシュの香りは天然の植物のものだ。何よりディフが気に入ってる。

 オレンジだろうとラベンダーだろうとバラだろうと、レオンにとっては大差ない。ディフが気に入っているのなら、それでいいのだ。

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