ようこそゲストさん

ローゼンベルク家の食卓

メッセージ欄

2009年11月の日記

【4-14】カルボナーラ

2009/11/22 2:29 四話十海
  • 2007年1月の出来事。
  • 月曜日に、エビの人と会って、一緒にコーヒーを飲んだ。
  • 火曜日にディフが寝込み、そして水曜日、コーヒースタンドでまた、彼と会った。
  • 買い物に行くと言ったら、荷物を運ぶのを手伝ってくれた。「ついでだから、夕飯食べてく?」「うん!」
  • リクエストは、カルボナーラ。
拍手する

【4-14-0】登場人物

2009/11/22 2:32 四話十海
  • より詳しい人物紹介はこちらをご覧下さい。
 
 sien.jpg
【シエン・セーブル/Sien-Sable】
 不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
 外見はオティアとほぼ同じ。
 オティアより穏やかだが、臆病でもろい所がある。
 笑顔を絶やさない穏やかで聞き分けの良い子。
 そんな仮面を脱ぎ捨てて、ようやく本当の顔を見せるようになった。
 いざという局面でてきぱき立ち働く芯の強さを身に付けつつある。
 コーヒースタンドで出会った「エビの人」が気になってきた。
 料理が好きで、中華が得意。
 
 oteia.jpg
【オティア・セーブル/Otir-Sable 】 
 不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
 ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
 極度の人間不信だったがヒウェルの想いを受け入れる。
 ポーカーフェイスの裏側で揺れ動く心はいまだに安らげないが、少しずつ前に進もうとしている。
 肩に乗せた白い子猫と共に。
 予想外のちん入者にやきもき。実はけっこうカニが好き。
 
 h.jpg
【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
 フリーの記者。26歳。
 黒髪、アンバーアイ、身長180cm、細身(と言うか貧弱)
 フレーム小さめの眼鏡着用。適度にスレたこずるい小悪党。
 オティアへの想いがようやく通じるが、それはすなわちシエンの失恋でもあり…。
 オティアの飼い猫オーレに見下されている。
 今回とうとうチョイ役に成り下がったへたれ眼鏡。
 ピーマンが苦手でカニが怖い。
 
 leon.jpg
【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】 
 通称レオン
 弁護士。ヒウェルとは高校時代からの友人。27歳。
 ライトブラウンの髪と瞳、身長180cm、着やせするタイプで意外と筋肉質。
 一見、温厚そうな美人さん、実は腹黒。実家は金持ちだが家族への情は薄い。
 ディフの旦那で双子の『ぱぱ』。
 爽やかな笑顔の裏で実はかなりの激情家。
 ヨメが寝込んだと聞けば仕事も放り出して帰還します。
 
 def.jpg 
【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】 
 通称ディフ、もしくはマックス。
 元警察官、今は私立探偵。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
 裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
 レオンの嫁で双子の『まま』。
 多感な子どもたちを抱えて悩みは尽きない。
 滅多に寝込まない丈夫な人だが、寒中水泳の後に濡れた服を着たまま寒風に吹かれたりしたら話は別。
 
 e.jpg
【エリック/Hans-Eric-Svensson】 
 シスコ市警の科学捜査官。ディフの警官時代の後輩、23歳。
 ライトブロンド、瞳は青緑色、身長186cm。
 金属フレームの眼鏡着用。
 激務続きで食生活はとても寂しい。
 デンマークからの移民を祖父に持つ誇り高きバイキングの末裔。
 実は筋金入りのMacユーザー。iPodも使ってます。
 好物はエビ。毎日食べても飽きない。
 
 oule.jpg
【オーレ/Oule】
 四話めにしてようやく本編に登場したオティアの飼い猫。
 白毛に青い瞳、左のお腹にすこしゆがんだカフェオーレ色の丸いぶちがある。
 最愛の『おうじさま』=オティアを守る天下無敵のお姫様。
 趣味はフリークライミングとトレッキング(いずれも室内)、好物はエビ。
 エドワーズ古書店の看板猫リズの末娘。
 新しい下僕(しかも有能)ができてご満悦。
 
 alex.jpg
【アレックス/Alex-J-Owen】
 レオンの秘書。もともとは執事をしていた。
 有能。万能。41歳。
 灰色の髪に空色の瞳、故郷には両親と弟がいる。
 20歳の時からずっとレオンぼっちゃま一筋の人生。
 今はレオンさまと奥様と双子のために、そして愛する妻と子のためにがんばる。
 
 sophia.jpg
【ソフィア/Sophia-Owen】
 レオンの元執事にして現秘書アレックスの妻。
 鹿の子色のくるくるカールした短い髪に濃いかっ色の瞳。30才。
 最初の夫は交通事故で亡くなり、アレックスと再婚した。
 イースト菌を自在に操るパン屋の看板娘。
 いつも焼きたてのパンを差し入れしてくれる。
 
 deen.jpg
【ディーン/Dean-Owen】
 ソフィアの息子。アレックスは義父にあたる。
 鳶色の髪に濃い茶色の瞳、物怖じしない3歳児。
 猫好きだけど、なかなかオーレに近づいてもらえない。
 
illustrated by Kasuri

次へ→【4-14-1】コーヒー・スプラッシュ

【4-14-1】コーヒー・スプラッシュ

2009/11/22 2:34 四話十海
 
「………エビ」
「みゃっ」
「エービっ」
「みゃうっ」
「エビ」
「にう」

 白い小猫がピーンとしっぽを立てて、ふんふんと鼻をふくらませてかぎ回る。 

『エビはどこ? どこに隠れてるの?』

 シエンはおもむろに玩具のエビをとり出した。
 フェルトの布をかっちり縫い合わせたぬいぐるみ。中にキャットニップとキューキューと鳴る笛が仕込まれている。爪がかりは抜群、強度もある。
 クリスマスからだいぶ日にちが経ったけれど、ちょっとけば立ったぐらいで縫い目は全然ほころびていない。

「はい、エビ」

 ぷきゅっと笛を鳴らすとオーレは期待に目を輝かせながら低く体を伏せ、しっぽをくねくねと動かした。
 びゅんっと投げる。
 たーっと白い弾丸が飛び出した。ちりちりと首輪の鈴が鳴り響く。
 リビングの床に落ちたエビを、オーレは前足で引っかけて高々と宙に放り上げ、落ちてきたのを、また放り上げる。
 後足で立ち上がり、鼻をふくらませ、目を見開いて。

 ものすごく楽しそうだ。

「ほんとに、オーレはエビが好きだね」

 得意げにエビをくわえてとことこと歩いてくると、ぽてっとシエンに足下に落とした。きちっと座って顔を見上げている。

「はいはい……」

 エビのぬいぐるみを拾い上げ、ぽーんと放り投げる。弾むような足取りでオーレが飛んでいった。空を飛ぶついでに、ちょん、と床に足をつけるような走り方で。

 ちらっとその姿に別の面影が重なる。白い服を着た、エビの好きな人。

 週の始めの月曜日。今日もまた、コーヒーを一緒に飲んだ。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 バイトが終わって、ケーブルカーの駅に向かう途中でコーヒースタンドに立ち寄った。
 正直、その時まではまだ決めかねていた。この後、ユージンたちと合流して遊びに行くか、それとも直接帰るか。
 携帯を開いて、メールが入ってたら行ってもいいかな。あるいは、スタンドで顔を合わせたら……。

 スタンドに入ったら知ってる顔がいた。ただし、予想とは違った相手が。
 ひょろりと背の高い金髪の眼鏡の青年が手を振ってきた。口の端にミルクの泡をくっつけたまま。

「やあ、シエン」
「……こんにちは」
「しまったって顔、してるね」
「まぁね」

 そっと目を伏せる。

「一人で飲みたかった?」

 視界の隅からうかがう。青と緑の混じった瞳が見下ろしていた……目尻がさがってる。やわらかい表情だ。
 こんなに背が高いのに、ちっとも押しつけがましさや、圧迫感を感じない。

「そうだけど……たまにはいいかな…」
「そっか」
「飲み物、買ってくる」
「うん」

 カフェラテのスモールを一つ。砂糖もシロップもなし。ミルクを大目にしてほんの少し温度をぬるめに。
 紙コップを両手で支え、エリックと一緒のテーブルに着く。正面から向き合うのではなく、互いにほんの少し視線をずらし、対角線になるようにして座った。 

「今日は、お休み?」
「いや、これから出勤。夜番(ナイトシフト)なんだ」
「そうなんだ」
「オレとしては君が一緒で嬉しいけど……一人の時間、邪魔しちゃった、かな」
「別にいいよ。どうせヒマだし」
「ありがとう」

 にぎやかに喋るのとはちょっとちがっていた。コーヒーを飲む間に、ぽつり、ぽつりと喋る。
 興味をひかれることがあれば相づちを打ち、話がつながる。
 そうでないときはただうなずき、耳を傾ける。宙に浮いた言葉はぷかぷかと時間の向こうに流れて行き、また次の言葉がぽつりとつぶやかれる。

「BGM、変わったね」
「うん」
「この曲、好き?」
「割と」
「ケルトの曲かな」
「さあ? でも聞いたことがある」
「歌詞が入ってるのより楽器の音だけの方がいい?」
「うん。言葉が流れてると、気が散るって言うか、つい追いかけちゃう」
「ああ、意識してしまうよね」

 何故か決して会話が途切れることはなかった。時折はさまれる沈黙も、不思議と気まずくはない。
 気まぐれで、ふわふわととらえどころのない、自由な言葉のやりとりを重ねるうち、シエンは何気なくたずねてみた。
 先週の水曜日、エリックが夕食に来た時から気になっていたことを。
 それは他愛のない会話から、ほんの少し内側に踏み込む瞬間でもあった。

「ディフってさ」
「ん?」
「昔はどういう感じだったの」
「んー……」

 エリックは目をぱちぱちさせて、ずぞ、とコーヒーをすすった。

「髪の毛、短かった」
「知ってる」
「ああ、写真、見たんだ?」
「うん。キルト履いて、警部補さんと一緒に写ってた」
「スコティッシュ・ナイトの写真だね」
「スコティッシュ・ナイト……」

「どうして二人ともスカートはいてるの?」
「違うっ! キルトつってスコットランドの民族衣装なんだ」
「スコットランド系の人間が集まるスコティッシュナイトっつーイベントがあってだね……そん時、あいつが取材に来てて。しっかり写してやがったんだ」

「あー、スコットランド系の人が、キルト着て集まるイベント……」
「そうそう、よく知ってるね。バクバイプを演奏したり、ダンス踊ったり、ハギスを食べるんだ」
「ハギス?」
「スコットランドの伝統料理。羊の内臓のミンチを、羊の胃袋に詰めてゆでるんだ」

(どんな料理なんだろう)

「センパイはあの容姿で、見事な赤毛だからね、ウィリアム・ウォレスの再来、なんて呼ばれてたよ」
「だれ、それ?」
「スコットランドの英雄。メル・ギブソンの主演で映画にもなってる」
「……映画、あまり見たことないから、わかんない」
「実はオレも見たことない」
「え、そうなの?」
「でも、ハギスは食べたよ。どんなのか試してみたいって言ったら一回だけ、センパイが作ってくれた」
「美味しかった?」
「……………すごかった」

 エリックの表情は変わらないけれど、微妙な沈黙に万感の思いが込められているのを感じた。
 ディフの作る料理で、そんなものすごい味になる物があるなんて。
 スコットランドの伝統料理って言うけれど、ハギスが食卓に上がったことは一度もない。理由はわかっている。

(俺とオティアが食べられないような物は、ディフは作らない)
(でも、エリックには食べさせたんだ)

 この人は、自分の知らないディフを知っている。当たり前のことなんだけど、何故か気になってくる。

「エリックは、一緒に警察で働いてたんだよね?」
「うん」
「警察官してた頃のディフって、どんな人だったの」
「ぱっと見大雑把だけど、実は手先が器用で。爆弾の解体が得意だったよ」
「爆弾……」
「爆発物処理班に居たんだ。デューイや、マクダネル警部補と一緒に」

 そんな危ないことしてたの?
 一瞬、ぎょっとした。けれどすぐに思い出す。そうだ、これは過去の話。初めて会った時はもう、ディフは私立探偵だった。

「センパイがゲイだってあの時知ってればなぁ……」

 エリックはさらっと口にしていた。今まで誰にも言ったことのない、秘めた想いの一かけらを。

「どの時?」
「警察にいたとき」
「それ、知らなくて良かったよ。でないと今頃……」

 こくっと喉を鳴らす。意識の底をすうっと、端整な微笑をたたえたレオンの面影がよぎる。

「お墓の下にいたかも」
「……そうなの?」
「うん」
「そうなんだ……」
「レオン心狭いから。ディフのことに関しては、特に」

 ず……とエリックはコーヒーを口に含んだ。飲み慣れたはずのラテが妙に苦く感じられる。

「なんとなく、わかってた。センパイと話してるだろ? そうするといつも必ず……レオンって人の話になってたから」
「そっか」

 ふよふよと視線をさまよわせる。
 テーブルのすぐ隣に、無料のカスタマイズ用のシロップやミルク、蜂蜜、バニラやココア、シナモンのパウダーの並ぶ台(コンディメントバー)があった。

「たまにはシロップ足してみよっかな」
「甘すぎるよ」
「君、甘いの苦手?」
「うん」
「そっか。じゃ、ちょっと失礼して……」

 のそーっとバーを目指して漂い歩き、透明なガムシロップの入ったポットを手に取る。

「あ」

 ほんのひとたらし……のつもりが、大量のシロップが入ってしまった。

(やっぱりスポイト使わないとダメかな)

 悔やんだところで、こぼしたミルクは戻らない。入れ過ぎたシロップも戻せない。木製の平べったいマドラーでかき混ぜる。
 毎度のことながらこの動作をしているとつい、ラボでの分析作業を思い出す。
 半分、雲を踏むような心地のままテーブルに戻り、だいぶぬるくなったキャラメルラテを口に含んだ。

「……うわ、甘っ」
「もともと甘いのに足さなくても」
「試してみたくなるじゃない。それに、適度な糖分は脳の活動を促進するし?」
「んー………でも、まだ出勤前でしょ?」
「……そうだった」

 ぼんやりしてもいいんだ。気を張りつめなくても、いいんだ……。
 飲みかけのラテをテーブルに置く。底に何か挟まっていたのかそれとも単に置く場所が悪かったのか。

 ぱしゃんっ!

 ぐらっと傾いて、シロップ入りのキャラメルラテがまき散らされる。テーブルの上に置かれた、シエンの手袋の上に。
 編み目の細かい柔らかなクリーム色のニット生地。吸水性は抜群だった。速やかにミルクをたっぷり含んだかっ色のシミが広がって行く。

「あっ、ご、ごめんっ」

 あわててペーパーナプキンをずらーっと引き出してふいた。けれど、すでにそれでどうにかなるような段階はぶっちぎりで通り越していた。

「だめだ、シミになる…」
「いいよ、家近いからこのまま帰る」
「……いや、今日は風が冷たいよ。そこの店で新しいのを買おう」
「え。そこまでしなくても」
「普通、こう言う場合はクリーニング代を出すのが相場だよね? その分、汚した手袋はオレが洗って返すから」
「え、でも……」
「大丈夫、オレ洗濯得意だから」
「ほんとに?」
「しょっちゅうこぼすからね。シミ抜きも慣れてる」

 コーヒースタンドを出て、通り一つ隔てた向かい側にある衣料品店に入った。カジュアルで丈夫、手ごろな価格の品がそろっていて、これまでも何度か署への行き帰りのついでに入ったことがある。
 シエンが選んだのはピスタチオクリームの色のシンプルな薄手の手袋だった。

(こう言う色が好きなんだ……)

 レジで会計をしながら、エリックはそれとなく付け加えた。

「あ、タグは外してください。すぐに使いますから」
「かしこまりました」

「はい、これ」

 買ったばかりの手袋をシエンに渡した。

「ありがと」
「いや、その、君の手袋、コーヒーまみれにしちゃったのは、オレだし……」

 目をぱちぱちさせるエリックの頬がうっすら赤くなる。リンゴの赤みのような、ほわっとしたマーブル模様が広がり、濃く、強くなってゆく。

「でもその言葉、うれしいな……洗ったら届けるよ」
「いいよ、いつでも。忙しいんでしょ?」
「ま、ね。でも水曜は非番なんだ。それに今月のシフトはずっと夜番だし」

 一呼吸置いてから付け加える。 

「ここに来れば、また会えるよね?」
「……ん」

 そのままシエンは何となくエリックと一緒に駅まで歩き……

「それじゃ、オレこっちだから」
「行ってらっしゃい」

 出勤するバイキングを見送り、帰りのケーブルカーに乗ったのだった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
  
 マンションに戻り、部屋のドアを開けようとしてふと気付く。手袋が変わってることを、ディフに何て説明しよう?
 まずエリックと会ったことから始めなくちゃいけない。その為にはコーヒースタンドに寄り道したことも言わないと。
 成り行きでまっすぐ帰ってきたけれど、スタンドに入った時は遊びに行くかどうか、迷っていた。
 何となく、話しづらい。

 ちょっぴりもやっとする胸を抱えて部屋に入ると……

「あれ?」

 ディフはまだ帰っていなかった。人の気配を感じたのか、とことことオーレが歩いて来て

「にゃー」

 足下にぽとっと、くわえていたエビを落とした。
 しっぽをひゅんひゅん振り回し、期待に目を輝かせて見上げてくる。

「はいはい……」

 拾い上げて、さっと後ろに隠してみる。体を低く伏せて身構えた。

「………エビ」
「みゃっ」
「エービっ」
「みゃうっ」
「エビ」
「にう」
 
 何度目かの投てきの最中に、ディフが帰ってきた。

「お帰りなさい」
「ただいま」

 意外なことにレオンも一緒だった。しかも、二人とも、朝出かけた時と服が変わっている!
 手袋が変わった、どころの騒ぎじゃない。上から下まで何もかも、丸ごと全部。

 二人とも見慣れないグレイのスエットスーツを着ていた。けれど、胸のところにあるロゴマークは見覚えがある。
 ディフの使ってるマグカップと同じだ……SFPD(サンフランシスコ市警)。

(え、警察?)

「どうしたの、それ? って言うか、何があったのっ?」
「あー、その……」

 ディフがきまり悪そうに髪の毛をくしゃくしゃとかき回した。
 いつもはふわふわしている赤い髪はしっとり湿り気を帯び、全体的にくるっとウェーブが強く巻き上がっている。
 変だな。今日は雨なんか降ってないし、霧も出ていないのに。

「………ちょっと、寒中水泳を、な」
「え?」
「風呂の準備、してくる」

 広い背中がそそくさと寝室に通じるドアの向こうに消えてゆく。呆気にとられて首をかしげていると、レオンがちょっと困ったような笑みを浮かべ、口を開いた。

「実は、ね……」

次へ→【4-14-2】ぱぱままスプラッシュ

【4-14-2】ぱぱままスプラッシュ

2009/11/22 2:35 四話十海
 
 月曜日の昼下がり。
 一緒の家に住み、一緒のベッドに眠り、フロアこそ違うが同じビルに仕事場を構える二人が、そのどちらでもない別の場所でばったり顔を合わせた。

「お?」
「やあ」

 弁護士と探偵、どちらも仕事柄、警察署に出入りする機会は多い。ましてディフにとってはかつての職場だ。
 とは言え、まさか、こんな所で会うなんて。予想外のタイミングの遭遇に、驚くと同時に嬉しくなる。
 相手も喜んでいるのがありありとわかる。さすがに抱きあってキスするのは遠慮したが……。

「昼はもう食べたかい?」
「いや、まだだ」
「それじゃあ、せっかくだからランチを一緒にとろうか」
「いいな。どこで食う?」

 通り一つへだてた向かい側の食堂で……と言うのもあまりに味気ない。協議の結果、フェリービルディングに向かうことにした。

「車はどうする? 俺ので行くか?」
「アレックスと一緒に来てるんだ。彼には一人で戻ってもらおう」
「そうだな。どうせ同じビルに戻るんだし」

 昼食をディフと一緒に取ると主に言われ、アレックスはどこかほっとした様子で……だがいつもと変わらぬ控えめな口調で

「かしこまりました」

 とだけ答えたのだった。

(マクラウドさまと一緒なら、レオンさまも食事をとってくださる。楽しんでくださる)

 事務所に戻る道すがら、頭の中で午後のスケジュールを調整する一方で明日からの出張を思い、有能執事は秘かにため息をついた。

(あのお方は、必要性を認識してるから食べるだけであって、食事に楽しみを見いだしてないのだ……)

 ディフと離れている間、いかにしてレオンにまともな。単に人体を維持するのに必要な栄養を補給するだけの行為に終わらない、人間らしい食事をさせるべきか。
 毎度のことながら、仕事以上にアレックスの悩みの種なのだ。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 赤いレンガの敷き詰められた広場を見下ろす、四角い時計塔。
 ユニオン・スクエアとフィッシャーマンズ・ワーフのちょうど中間地点にあたるこの一帯には、オーガニック栽培の野菜やチーズ、スパイスの店が並び、旬の魚介類をたっぷり使った美味い店が軒を並べている。

 大抵の店は外にテーブル席を用意しているが、さすがに真冬。利用している客は少なかった。
 
 lunch.jpg
写真素材:photolibrary
illustreted by Kasuri
(クリックで拡大します)
 
 
「何を食べようか?」
「うーん……やっぱり、牡蛎だな。今が一番美味い季節だし」
「OK」

 牡蛎を食べるのなら、Hog Island Oyster Companyがいい。
 奥まったテーブルに席を取り、クラムチャウダーと生牡蛎をオーダーする。牡蛎にはきりっと冷やした辛口の白ワインがよく合うが、さすがにまだ仕事中なので自粛。

 ほどなく、砕いた氷を敷き詰めた大皿に乗った生牡蛎が出てきた。下の殻をつけたまま、同心円状に盛りつけられている。
 氷の上にはくし切りにしたレモン。牡蛎用のナイフも添えられている。
 レオンはわずかに眉をひそめた。

「………自分で殻を剥かないといけないのが難点だね」
「心配するな。俺がおまえの分も剥いてやるから」
「……うん」

 ぽってりとした丸い、樽状の柄のついた鋭い小さな刃。ディフは牡蛎剥き用のナイフを操り、鮮やかな手つきで生牡蛎の身を殻からはがして行く。
 剥いたそばから取り皿に乗せ、仕上げにレモンを絞ってくれた。

「そら、好きなだけ食え」
「ありがとう」
「何だったらそっちのアサリの殻も剥くか?」
「いや、これぐらいの大きさなら俺でも何とかなるよ……加熱してあるし」
「そうか」

 向かい合い、白い、ぷるんとした身をすする。噛みしめる度に口いっぱいに広がる『海のミルク』を、ディフは目を閉じてうっとりと味わった。こくん、と咽を鳴らして飲み込んで、口の端に跳ねた汁をちょろっと舌でなめ取り、なめた後を親指でくいっとぬぐう。

(やれやれ、まったく困った子だ……)

 相変わらず、食べる仕草に妙な艶がある。

「……どうした、レオン?」
「一緒にランチとるのは久しぶりだな、と思ってね」
「あ……」

 ほんのりと頬に赤みがさした。

「確かに、そうだな……」

 目元を和ませるディフに穏やかに笑みを返しながら、レオンは秘かに胸の内でつぶやいた。

(二人っきりで食事するのも、ね)

 レオンはずっとディフを見ていた。
 固めのパンをちぎってチャウダーに浸し、最後の一滴まで満遍なく食べ終えるまで。一挙一動、どんな小さな仕草も、表情の変化も逃さずに。
 食事を終えた後も離れがたく、駐車場に戻る前に少しだけ回り道をした。ゆるりと弧を描くようにして、ビルの周りを歩きまわった。

 生牡蛎の店頭販売、新鮮なオリーブオイルの量り売り、キッチングッズの専門店。今日は月曜なので市場は立っていないがそれでも人通りは多い。
 目の前の交差点を、あざやかな黄色いバスが走ってゆく。船に車輪をつけた『水陸両用』の観光バスだ。

「いつ見ても何つーか、強引な形だよな、あれ」
「……そうだね」

 初めて見た時、彼は目を輝かせてはしゃいでいた。

『すげええ! レオン、レオン、あれ見ろよ! 強引な形だよな!』

「乗ってみるかい?」
「あ、いや……時間もないし。あれは見てるだけで十分、笑える」

 何となしにバスの後を追うようにして歩き、フェリー乗り場までやって来る。
 すぐ近くの桟橋の縁で、フェンスによじ登って5歳ぐらいの男の子が遊んでいた。一緒にいる母親は、もっと小さな弟をあやすのに気をとられていて、やんちゃな兄への注意がそれている。

「……あ」
「うん」

 危ないな。
 言葉は出さないものの、そろって同じ事を考えたその時だ。
 男の子はバランスを崩し、すうっと落ちて……海に飲み込まれる。小さな体は、ほとんど水音も立てずに海面に吸い込まれてしまった。
 周囲の大人は顔を見合わせ全員フリーズしている。

『どうする?』
『どうすればいい?』

 自分が行くべきか。それともほかの誰かが行くのか? ここで出しゃばっていいものなのか?
 今、目の前で起きたことに頭がついて行かない。何が起きたか認識しているはずなのに、体が動かない。動かせない。

 凍りつく時間の中、いち早く上着を脱ぎ捨てて海に飛び込んだ者がいた。

「レオン!」

 とっさにディフは周囲を見回した。

(焦るな。落ち着け。こう言った場所には必ず、救命用の浮輪が備え付けてあるはずだ……)

 2mほど離れた柱にぶらさがった赤と白のストライプが目に入る。

(あった!)

 飛びつき、硬い発泡スチロールでできた浮輪を柱から引きはがす。異変を察してフェリー会社の係員が飛び出してくる。ひた、と目を見据えて叫んだ。

「子供が落ちた。911へ、電話を!」

 走りながら上着を脱ぎ、救命具にとりつけられたロープを手に巻き付け、飛び込んだ。
 衣服の抵抗も、浮輪の浮力も無視して力任せに水をかく。水面に顔をつけた刹那、目の前で細かい泡が荒れ狂っていた。

(あそこだ)

 泳ぎ着くと、今しもレオンが子どもをつかまえて浮かび上がった所だった。

「つかまれ!」

 肩に腕をまわし、子供もろとも引き寄せ、浮輪につかまらせる。そのまま浮輪を支えにして岸に戻った。子供の顔が水にかからないように慎重に、速やかに。最後の数メートルは、ほとんどディフが二人を引っ張って泳いでいた。

 岸辺から何本もの手が差し出される。ディフは比較的体のがっしりした男性の助けを借りて水から上がると、レオンと子供を引っぱり上げた。

「ディフ、この子、息をしてない」
「む」

 仰向けに寝かせて顎を上げ、口を開いて気道を確保。
 小さな口と鼻を、いっぺんに口でふさいで息を吹き込む。4秒に一回、強すぎないよう加減して、胸のふくらみに注意して……

「ん」

 3回目で抵抗を感じ、口を離す。ひゅーっと咽を鳴らして息を吸い込むと、子供は盛大に咳き込み、少量の水を吐き出した。 

「よし……」
「お見事」

 その時になって初めて、救急車とパトカーのサイレンが近づいてくるのに気付いた。
 若い母親が顔をくしゃくしゃにして息子をかき抱き、かすれた声で名前を呼んでいた。

 気がゆるんだ瞬間、風と水の冷たさが急激に襲ってくる。

「っくしゅっ」
「お大事に」

 じとっと横目でねめつけた。

「………無茶しやがって」
「君だって飛び込んできたじゃないか」
「俺は、訓練受けてるからな。頭ん中が凍りついても、体が勝手に動く」

(だからだよ、ディフ)
(俺が行かなければ君が真っ先に飛び込んでいた……)

「おまえ、すごいよ。よくとっさに動けたな」
「夢中で動いただけだよ」
「やろうったって、なかなかできるもんじゃないさ。大したもんだぜ、レオン?」

 ぐしゃぐしゃと頭をなでられて苦笑する。

(できれば、君が追いかけてくる前に岸に戻りたかったんだけどなぁ……)

 レオンは完全にディフの行動力と馬力を過小評価していた。
 確かに彼は、子供を助けるためなら躊躇しない。だが、それ以上にレオンの為とあらば、普段の何倍もの力を発揮するのだ……。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 さすがに真冬の海は、冷えた。
 ほどなく到着した警官と救急隊員から毛布と上着を借り、濡れたシャツを脱いでくるまった。

「お前も脱いどけ、マックス。風邪引くぞ?」
「いや、このままでいい。コーヒー、もう一杯もらえるか?」

 レオンは黙って苦いコーヒーを口に含んだ。

『見せるのは、お前だけだ』

 ディフが服を脱がない理由は、彼だけが知っている。背中のタトゥーを人目にさらしたくないのだ。

 その後、警察署に移動して服を借りて着替えたが、ディフは慌ただしく体を拭いただけでシャワーも浴びようとしなかった。

「怪我してないか、レオン」
「ああ……。あ」
「どうした?」
「時計がだめになってしまったな」
「え、それ防水じゃないのか?」
「さすがに、海に飛び込んで泳ぐことまではカバーしていないよ」
「あー、まあ、そりゃそうだ」
「後で修理に出そう」

 事情聴取を終えて廊下に出ると、助けた男の子と両親が待っていた。感謝の言葉にレオンは穏やかに微笑み、ディフは耳まで赤くしてしとろもどろにうなずいた。
 だが、もじもじしながら男の子が前に進み出ると顔中笑み崩し、屈みこんで目線を合わせた。

「あ……りがと……」
「どういたしまして。寒かったろ」
「うん」
「こわかったか」
「………少し」
「だろうな。おじさんも怖かった」
「そうなのっ?」
「ああ。海は危ない。今度から気をつけろよ?」
「うん」
「よし、いい子だ」
 
 その後、ネタを嗅ぎ付けて飛んできた地元のテレビレポーターを避けて、こっそり裏口から脱出したのだった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
  
 
「そんなことが、あったんだ」
「ああ。大変だったよ」

(そうだよね、真冬の海に飛び込んだんだもの)

「レポーターが、とにかくしつこくてね」
「……そっちなんだ」

 ドアが開いてぬうっとディフが顔を出す。

「風呂の準備、できたぞ」
「ありがとう」

 バスルームに向かうレオンを見送りながらシエンは言った。

「ディフも入ってくれば? 夕飯の支度は俺がするから」
「いいのか?」
「うん……その方がいいと思う。冷えてるし、その……」

 オーレがくん、くん、と足下をかいでいる。よく拭いたはずだが、洗ってはいない。下着などは海に飛び込んで、そのままだ。

「生臭い……か」
「ちょっとね」

 ディフは恥ずかしそうに体を縮め、足早にリビングを出て行った。

(ちょっと言い過ぎたかな? でも、ああでも言わなきゃ、お風呂入ってくれないよね)

 パステルグリーンに白地のストライプ。使い慣れたエプロンを着け、冷蔵庫を開ける。
 
「さてと、何作ろうかな」

 二人とも体が冷えてるだろうし。そろそろ、ソーセージと野菜を使いきらないと古くなってしまう。
 よし、ポトフにしよう。
 体があったまるし、食べやすいし、野菜も肉もバランスよく取れる。
 
 料理を始めると、オティアが台所に入ってきた。
 二人で並んで黙ってじゃがいもを剥き、ニンジンを切る。キャベツとタマネギはざっくりと。カボチャは煮込んでる間に溶けてしまうから、最初はごろんと大きすぎるくらいでちょうどいい。
 いつものパン屋で買ってきたパンを人数分切り分ける。これは食べる直前に軽くトーストして……もう一品ぐらいあった方がいいかな。

 そうだ、トマトとレタスでサラダにしよう。野菜が重なるけど、生野菜と温かい野菜だから口当たりも違うし。彩りも違うから大丈夫だよね。
 茹でた小エビも散らした方がいいかな?

 オティアがちらっとこっちを見てる。

「うん……やめとく」

 大きめのクルトンを入れて、粉チーズをふってシーザーサラダにした。

 ソーセージにキャベツ、タマネギ、カボチャにニンジン、じゃがいもをゴロゴロ入れて、あっさり塩とコンソメで味付ける。
 さらに、隠し味にちょこっと味噌を入れてみた。味に深みが出て具が柔らかくなるとサリーに教わったのだ。
 あれは味噌汁を作る時の話だったけど、ポトフも基本的には同じ、スープで野菜を煮込んでるんだから、きっと大丈夫だろう。

 予想外のハプニングに、結局、手袋のことは言わずに終わってしまった。


次へ→【4-14-3】まま、寝込む

【4-14-3】まま、寝込む

2009/11/22 2:39 四話十海
 
「それじゃ、行ってくるよ」
「ああ、気をつけてな」

 翌朝のキスとハグは、いつもより長かった。
 今日からレオンはサクラメントへ出張、帰ってくるのは木曜日だ。

 レオンと双子を送り出し、朝食の後片づけを始める。蛇口のお湯はなかなか温度が上がらず、最初はひやりとした。その途端、背筋にぞわっと寒気が走る。昨日、海に飛び込んだせいか。心なしか咽の奥もひりひりする。

 参ったな。一人になって気が抜けたか?

 速攻で湯を沸かして熱いレモンティを流し込み、いつもより厚着をして家を出た。

 空気が乾燥しているせいか、やたらと鼻水が出る日だった。またこんな時に限って飛び込みでペット探しの依頼が舞い込んでくる。こればかりは即断即決、素早さが命運を決める。
 オティアと二人で寒空の中、迷子の猫を探して歩き回った。骨の芯まで冷えきったが、どうにか空き家の屋根裏で震えている猫を確保することができた。

「よく、あそこにいるってわかったな」
「……ん」
「っくしゅっ」

 盛大にクシャミが飛び出す。ほこりっぽり場所に潜り込んだからか。それとも血糖値が下がってるのか……うっかり昼飯も食わずに歩き回ったせいかと思い、事務所に戻る途中でデリに寄った。

「……」

 俺が自分の分を選ぶ間、オティアはじっと手元を見ていた。

「それで、いいのか?」
「ん? ああ、今日は……な」

 薄い白パンに挟んだ野菜とチーズのサンドイッチは確かに、いつもの俺の基準からすれば少なめだ。

 いざ食おうとするとどうにも胃がむかついて、サンドイッチを口にしてもなかなか咽を通らない。オティアが食べ終わってもまだ食べきらず、最後は無理やりコーヒーで流し込んだ。
 熱いコーヒーのおかげですっきりしたが、今度は逆に頭がぼーっとして集中力ががた落ちになってしまう。
 事務所に戻り、デスクワークに取り掛かっても単純な入力ミスが相次ぎ、何度も書類を作り直す羽目に陥った。

 これは、いかん。

「……少し早いが、今日はこれであがりにしとくか」
「そうだな。その方がいい」

 珍しく、はっきり同意を示された。

「……ディフ」
「ん、どうした」
「歩いて帰った方がいいんじゃないか?」

 運転するのは危ないってことか。ガタガタになっているのを見抜かれたような気がした。

「いや……大丈夫だ」

 もっと酷い状況で、持ちこたえた事はある。

 ハンドルを握ってる間は気が張りつめているおかげでどうにか持ちこたえたが、家に戻ったら戻ったでがっくりと力が抜ける。
 この寒い中、服の内側にじっとりと妙な汗をかいていた。湿ったシャツが肌にはりつき、冷たいやら、気色悪いやら。速攻で着替えた。

「ただいま……」
「お帰り」

 俺の顔をひと目見るなりシエンの顔色が変わった。

「大丈夫?」

 参ったな。そんなに俺、景気の悪い顔、してるんだろうか。
 なけなしの気力を振り絞り、笑顔で答える。

「ん……ああ、大丈夫だよ」

 ともすれば空中に漂って行きそうな意識を引き締め、夕飯の支度に取り掛かったものの。スープの味見をしたオティアが一瞬硬直し、何とも微妙な表情でこっちを見た。

「どうした?」

 続いて味見をしたシエンがぎょっとした顔をした。

「ディフ、これ、すごくしょっぱいよ?」

 トマトと根菜、豆のスープ。今まで何度も作ってきたはずなのに。

「……すまん」

 慌てて水を足す。いつもより鈍くなっているようだ。味覚も、嗅覚も。

「シエン」
「なに?」
「ちっとばかり鼻がつまってるみたいだ。マカロニチーズの味付け、任せていいか?」
「うん……」
「心配すんな。念のためだ、な?」

 食事の時は部屋に入って来るなりヒウェルの奴まで言いやがった。

「大丈夫か、お前」
「ああ」
「それだけしか食わないのかっ?」
「ダイエットしてるんだよ」

 決死の覚悟で放ったジョークは空しく滑り、気まずい沈黙が漂った。
 食卓を見回してぼんやりと想う。
 俺は今日一日で、ここにいる全員から言われてしまったのだな。

『大丈夫?』って。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 翌朝。
 シエンは奇妙な感覚に悩まされて目を覚ました。胸の上に何か重たいものがのしかかって来るような、得体のしれない圧迫感。
 それは実体こそ伴わないものの、周囲の空気に溶け込み、ひしひしと押し寄せてくる。
 今、この瞬間も。

(何だろう、この感じ)

 急いで着替えを済ませ、部屋を出る。
 とにかく、自分以外のだれかに会いたかった。顔を見て、声が聞きたかった。一秒ごとに重苦しさが強くなって行く。『一人』でいると、このまま押しつぶされてしまう。

 居間に入ると、ほぼ同時に境目のドアが開いてオティアが入ってきた。
 キッチンに人の気配はない。ディフはまだ起きていない。

(寝坊?)

 その可能性もある。だが、クリスマスの翌朝とは、明らかに空気が違っていた。
 双子は何も言わず、ただちらりと視線を交わした。
 いつもなら、二人は決してレオンとディフの眠る主寝室には近寄らない。それがこの家での暗黙のルールだった。だが、今日はレオンはいない。

 ほんの少しためらってから二人はドアを開け、主寝室に通じる廊下に足を踏み入れた。
 重苦しい気配が強くなる。
 足早に廊下を進んだ。レオンの書斎の前を通り抜け、未知の領域へ。一番奥の大きなドアまで進む。

 シエンは手を伸ばして、そっとノックした。
 今、自分たちが感じている不吉な予感が全部、気のせいであってくれればいいのに。
 すぐに返事が返ってきてくれたら。『あー………すまん、寝過ごした』
 そしてドアが開いて、くしゃくしゃの赤毛がぬっと顔を出し、恥ずかしそうに言ってくれるんだ。『おはよう』って。

「………」

 返事はなかった。鍵もかかっていなかった。

「ディフ?」

 きぃ、とドアを開ける。部屋の中は薄暗い……カーテンも開けていなかった。
 奥のキングサイズのベッドの上で何かがうずくまっている。体を丸めて、羽毛布団と毛布の塊の中にちぢこまって。
 ぴくりとも動かない。

 震える足を踏みしめて、ベッドのそばに歩み寄る。枕の上に乱れた赤い髪が広がっていた。
 恐る恐るのぞき込む。
 
 kazemama.jpg
illustrated by Kasuri
 
 歯を食いしばり、眉の間にしわを寄せ、目を閉じてぐったりしていた。

「ディフ……」
「う……」

 よかった、息、してる!

 うっすらと目が開いた。

「シエン……なんで、ここにいるんだ?」

 一度水に浸けて放り出した新聞紙みたいな、くしゃくしゃにかすれた声だった。しかも、今にも消えそうに、か細い。
 
「あ……もう、朝………なのか」
「どうしたの」
「夜中に、妙に、さむくて」

 肌に赤みがさし、左の首筋には火傷の痕がくっきりと浮かび上がっている。手を伸ばし、額に触れた。

(熱い!)

 きっと一昨日、海に飛び込んだせいだ。昨日もずっと調子が悪そうだった。

 施設にいた頃、年下の子が熱を出したのを看病したことがあった。何があったかは大体、判断できた。
 だけど、今、一番頼れるはずの人がこんな風にぐったりしてるなんて!

「熱……出てる」
「あ……道理で寒いと思ったんだ……」

 がたっと廊下で人の動く気配がして、ばたばたとせわしない足音が遠ざかる。

「オティア……どうしたんだ」
「アレックス呼びにいったんだと思う」
「そ……だな……今朝は……アレックスに飯、頼んで」
「そうじゃないでしょ!」
「ん……?」

 だめだ、この人!
 俺とオティアのことは過保護なくらい世話焼いてるくせに、自分のことになると、大ざっぱって言うか、無頓着なんだから!

「熱があるんだから、今日は大人しく寝てて。もうすぐアレックス来るから、薬もらって、ちゃんと飲むんだよ?」
「あ……う……うん」
「食事とか、買い物のことは心配しなくていい。俺とオティアで何とかするから、きっちり自分の体治して。いいね?」
「……………わかった」
「洗面所使うよ」
「うん」

 ぱたぱたとバスルームに駆け込み、タオルを取り出す。水にひたして、きゅっと絞って寝室に戻り、ぺたりとディフの額に乗せた。

「あぁ……冷たいな……ありがとう」

 目を細めてふーっと息を吐いた。眉の間のしわが薄くなる。

「もしかして、頭痛い?」
「ちょっとな……」

 つまり、かなり痛いってことだ。

「のど乾いてる?」
「……うん」
「待ってて、水持ってくる」

 キッチンに引き返し、冷蔵庫からペットボトル入りのミネラルウォーターを取り出した。
 コップあった方がいいかな。それともストロー……いいや、このまま持ってゆこう。

 居間に行くと、アレックスを連れてオティアが戻ってきた所だった。

「シエンさま」
「アレックス!」

 ああ、よかった、来てくれた。
 ふっと張りつめていたものが抜けた。半分夢を見ているような気持ちでペットボトルを差し出した。
 
「これ……ディフに、お水……」
「ああ、そうですね。水分はまめに補給した方がいい」

 うやうやしく水を受け取ると、有能執事はおだやかな笑みを浮かべた。

「もう、大丈夫ですよ。すべてお任せください」
 
 
 ※ ※ ※ ※

 
「……102°F(およそ38.8℃)」

 体温計を確認し、アレックスは厳かにうなずいた。

「……風邪を引かれたようですね」
「うん……昨日、一昨日と冷えたからな。少し吐いたが、下痢は無い。まだちっとばかし胃がむかむかするが……」
「なるほど、胃が弱っておられるようですね」

 アレックスは持参したプラスチックケースから、小さなボトルに入った錠剤を選び出した。それからもう一種類、粉薬を。

「こちらのお薬をお使いになるとよろしいでしょう。事務所の方は私にお任せください」
「すまん、世話かけて」
「いえ。これが、勤めでございますから……それでは失礼いたします」
「あ……アレックス」
「はい?」
「レオンには内緒にしといてくれ。俺が寝込んだ、なんて知ったらあいつ、裁判放り出してとって返して来ちまう」

 アレックスは秘かに主の反応を脳内でシミュレートし、深々とうなずいた。そう、確かにそれぐらいはやりかねない。
 レイモンドさまが一緒だが、あの方は心根が優しすぎる。レオンさまを止めることはできまい。

「熱が下がったら、俺から伝えるから」
「かしこまりました」

 一礼してその場を下がり、居間に戻る。
 金髪の双子がそろって待っていた。わずかに表情をくもらせて。
 オティアの足下には、白い子猫がきちっと後足を折り畳んで座っていた。アレックスが入って行くと立ち上がり、ぴん、としっぽを立てた。

「ディフは?」
「風邪を引かれたようです。幸い、深刻な症状はないようですので、お薬をお出ししておきました」
「……そう」
「滅多にないことですから、驚かれたでしょう。元々丈夫な方ですから、心配はありませんよ」
「うん………あ」

 玄関の呼び鈴が鳴る。ディーンとソフィアだ。いつものバスケットに、サンドイッチを入れて持ってきてくれた。みずみずしいオレンジと、つやつやの赤いリンゴも添えて……。

「おはよう、シエン、オティア」
「おはよう」
「おはよう」
「朝ご飯、まだなんでしょう?」

 いつの間に作ったんだろう。クロワッサンにレタスとチーズとトマトを挟んだサンドイッチが二人分。
 保温カップに入ったスープまで。
 たちまち、オーレが目を輝かせてのびあがる。

「にゃにゃーっっ」
「あらあら、どうしちゃったの?」
「クロワッサン、好きだから」
「まあ。グルメなのね」
「みゅーっ、みゅーっ、みゅーっ」
「はいはい、それじゃ、一口だけね」
「にゃっ」

 クロワッサンのおすそ分けをもらってオーレはご満悦。にゃぐにゃぐつぶやきながら平らげ、くしくしと毛繕いする猫の一挙一動を、目を輝かせてディーンが見守っていた。
 ぺったりと床に寝そべって。

「ディーン。そろそろ行こうか。幼稚園に遅れてしまうよ」
「はーい」
「それじゃ、アレックス、ディーンをお願いね」
「ああ。行ってくるよ」
「いってきまーす」
「え?」

 どうやら今日は、アレックスがディーンを幼稚園に送って行くらしい。
 ソフィアは毎日、実家のパン屋を手伝っている。出勤する途中でディーンを幼稚園に送ってゆくのがオーウェン家の習慣のはずだった。

 息子と夫を見送り、てきぱきとサンドイッチと切り分けたオレンジを食卓に並べると、ソフィアはにっこりと笑った。

「さて、と。今日は二人とも、どうするのかしら?」
「俺は、事務所に。今、レオンいなくて忙しいし……」
「そう。オティアは?」
「ここに、いる」
「そうね、所長さんがお休みですものね」
「ん」

 こっくりとうなずいた。

「それじゃ私は下に居るから。何かあったら、いつでも声をかけて! すぐ、飛んでくるから」
「ありがとう」
「食べ物とか、ジュースとか、足りないものがあったら、遠慮なく言ってね」
「えーと、それじゃあ………」

 シエンは頭の中で昨日の記憶を反すうした。冷蔵庫に何が残っていたか。食料、調味料、日用品。ストックの切れていたものは無かったか。
 それと、病気の時に食べるもの。去年、熱を出した時のことを思い出す。あの時、何を口にしただろう。
 バニラアイスと、オレンジジュース、それから……。

「お米、ある? できれば小粒の」

 ソフィアはきょとん、として目をぱちくり。

「え、お米に、そんな、区別とか……あるの?」
「うん。小粒のお米を、10ポンド」
「……………ごめんなさい」
「だよね、家は男ばっかり五人分だから……」

 一度に買う分量が、全然違うのだ。

「お米はないけれど、パンなら任せて!」
「ありがとう」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 遅めの朝食の後でソフィアは部屋に戻り、シエンはバイトに行った。

 一人残されたオティアは居間を見回し、考え込んだ。
 予想外の休日。いったい何をして過ごそうか……。
 とりあえず読みかけの本がある。ホームスクーリングの課題もある。
 時々はディフの様子を見に行った方がいいだろう。
 アレックスは仕事中だし、ソフィアは遠慮して寝室までは入ってこないだろうから……。

 熱が上がってないか。苦しんでいないか確認して。額の濡れタオルを交換し、水を補給する。
 うん、大丈夫だ。きっとできる。

「ん?」

 ひゅうっとしなやかなしっぽで足を撫でられる。
 お手伝いする気満々と言った顔つきだ。でもレオンの書斎と寝室には、オーレは入れない。

「おまえは、いいんだよ」

 顎の下をくすぐると、ピンク色の口を開けて甲高い声で「にゃっ」と鳴いた。

 一度自分の部屋に引き返し、本とノートを持って再び本宅へ。リビングの床のラグの上にクッションを置き、背もたれにして腰を下ろす。
 待ってましたとばかりにオーレが膝の上に入り込み、すっぽりと収まり、丸くなった。

次へ→【4-14-4】音の出る円盤

【4-14-4】音の出る円盤

2009/11/22 2:40 四話十海
 
 シエンは迷っていた。
 
 朝、事務所に行ったら何も言わないうちにデイビットに言われた。「今日は定時で上がっていいよ」と。
 アレックスがちゃんと伝えておいてくれたらしい。

 五時きっかりにバイトを終えて、帰り支度をしているとアレックスに声をかけられた。

「シエンさま。よろしければ、ソフィアも一緒に……」
「ありがと。でも、大丈夫だから」
「左様でございますか」

 ソフィアには朝ご飯を食べさせてもらったし、その上仕事まで休ませてしまった。これ以上、世話をかける訳には行かないよね。 
 今日は水曜、買い出しの日。いつものショッピングセンターで、帰りがけに食料を買う。
 だけどいつもと違うのは、一人で行かなければいけない、と言うことだ。ディフもいない。オティアは留守番。
 果たして、一人でちゃんとできるだろうか?
 それ以前に、もっと物理的な問題があった。今日は車がないからケーブルカーで行かなければいけない。
 また、こんな時に限って申し合わせたみたいにかさばる物のストックが切れていた。
 
 米と、パスタと、卵に牛乳、ソイソース。それからオレンジジュースも必要だ。自分で作るにしたってオレンジは買わなきゃいけないし。

(うーん……)

 かなりの重さになりそうだ。果たして自分一人で運べるだろうか?
 今からでも遅くはない、ソフィアに来てもらおうかな。

 考えていても始まらない。とりあえずちょっと休憩、コーヒースタンドで一息入れよう。そう思っていつものスタンドに入ると。

「やあ、シエン!」
「あ……」

 ひょろりと背の高い金髪眼鏡が手を振ってきた。
 そういえば、言っていた。水曜日は非番なんだって。背が高い上に、着ている服が白っぽいから遠くからでもすぐわかる。今日はアイボリーのフリース。

(この人、いつも白っぽい服ばかり着てるのかな……)
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

 非番の日、いつもの店にコーヒーを飲みに行った。自宅と勤め先のちょうど中間地点でケーブルカーを降りる。
 住んでいるアパートのそばにも同じチェーン店のスタンドがあるけれど、ここに比べると規模が小さく、軽食メニューの品数も少ない。
 何より、決定的に欠けてる要素がある。

「やあ、シエン!」
「あ……」

 彼の存在。

「はい、これ君の手袋」

 洗濯には慣れている。どんな汚れにどんな方法を用いればいいのか、とことん調べた。
 おかげで、コーヒーのしみも、シロップもきれいに落とすことができた。
 あくまで、毛糸のふんわりした質感を保ったままで。(ここでゴワゴワになったりガサガサになったりしたら意味が無い!)

「わざわざ持ち歩いてたの?」
「うん」
「いつ会うかわかんないのに?」 
「うん」

 シエンはほんの少し眉を寄せ、目を伏せた。

「家、知ってるんだから、連絡くれればいいのに」
「……いいの?」
「いいけど」
「じゃあ、次はそうするよ」
「参ったなあ、コーヒーかける気満々?」
「ごめん、かけないように気をつける」
「うーん……」

 腕組みして、考えてる。次にどんな言葉が来るんだろう。怒られるかな?
 とくとくと、肋骨の内側で何かが振動している。心拍数が上がってるんだ。こんな、他愛の無い話題。たかがコーヒーこぼすのかけるのって話をしてるだけなのに!
 
「かけられても、別にいいけどね」

 彼が笑った。
 肩から、腕から力が抜けて、ひそめられていた眉がふわっとほどけて開いてゆく。
 おそらくそれは初めて見る、本当の笑顔。とまどいでもなくごまかしでもない。分厚く隔てられた綿の壁をすうっと通り抜け、指先が届いた。
 触れた。

 すべすべして暖かい、オレンジ色の光の花に……。

 じーっと見つめた。この瞬間をいつまでも心に刻み付けたかった。

「………………………」
「……なに?」

 口がほころぶ。目もとが緩む。ごく自然に自分も最上級の笑顔で答えていた。

「うん………すごく、いいことがあった、今」
「?」

 小鳥みたいに首をかしげている。紫の瞳が見返してくる。
 何て可愛いんだろう。
 何て愛らしいんだろう。

「すごーく、いいことがね」

 その瞬間、過去に繋がる扉が音を立てて閉まる。二度と開くことはないだろう。

 もう、オレ、君のことしか見えないよ…シエン。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 しばらくコーヒーをすすってから、おもむろにもう一つ、用意してきた物をテーブルに載せた。
 平べったいケースに入ったCDが一枚。

「どうしたの、これ?」
「コーヒーかけちゃったおわびって言ったらアレだけど。パソコンの音楽データ整理してたら、君の好きそうなの何曲か見つけたんだ」
「ふうん?」
「CDに書き出してみたんだ。普通にプレイヤーで聞けるから」
「えっと、録音したってこと?」
「うん、そんな感じ」
「ん……でも俺そういうの持ってない……し」
「センパイから借りれば?」
「レオンのオーディオセットならある……けど」

 シエンはそっとCDケースに手をそえて、俺の方に押し戻してきた。

「やっぱり、いいや。あんまし音楽聞かないし」
「そっか……」

 うん、何となく、予感はしていた。ここは大人しく引き下がろう。CDを受け取り、元通りしまい込んだ。

 ちらりと彼が時計を見ている。もう帰るんだろうか。でも…いつもと比べてちょっと時間が早い。
 問いかけるような視線を向けて首をかしげる。

「ディフが寝込んでるんだ」
「センパイが?」
「鬼の霍乱っていうか、滅多にないんだけど。一昨日、海に飛び込んだんだ」
「ええっ!」
「フェリー乗り場で、子供が海に落ちたんだって」
「あー……そりゃ、無理ないや」

 目に浮かぶようだ。考えるより先に体が動いていたにちがいない。

「それじゃ、今日はこれから買い物行くの?」
「うん、ごはんつくらないと」
「君が作るのか。すごいなあ………」

 あの家で夕食を食べるのは全部で五人、男ばかり。ざっと考えただけで、かなりの量になるだろう。
 全部、この子が一人で運ぶんだろうか。車もなしに……

(無茶だ!)

「あの、オレも一緒に行こうか?」
「え?」
「荷物、運ぶよ」
「………」

 金色の髪がさらりと揺れる。OKってことだ。

「ついでだから、夕飯食べてく?」

 さらりと言われた。

「うん、食べてく」

 迷わずさらりと答えた。

次へ→【4-14-5】米とパスタと

【4-14-5】米とパスタと

2009/11/22 2:41 四話十海
 
 ケーブルカーに乗って、いつものスーパーに向かう。車で来る時とだいたい道のりは同じ。ただ見える景色が微妙に違う。視点が違うのだから、当たり前だ。
 そして、今日は一緒にいる人も違う。

 シエンはそっと隣に立つ人物の様子をうかがった。

 明るいベージュのコートを羽織った、ひょろ長い金髪眼鏡の若い男。(自分よりは年上だけど、ヒウェルやディフ、レオンに比べれば年下だ)
 猫好きで、好物はエビ、勤め先はサンフランシスコ市警の鑑識。
 特技(?)はコーヒーをこぼすことと洗濯……パソコンを使うのもきっと慣れてる。
 夕暮れ時の車内の混雑から、自分を守るようにさりげなく壁になってくれている。

 視線に気付いたのだろうか。エリックはこっちを見下ろして、笑った。ほんのかすかに。
 ふわふわのフォームミルクに、ほんのりにじんだコーヒーみたいだ。
 ほとんど色は見えないけれど、温かさと香りは伝わってくる。
 
「あ……次、降りないと」
「OK」
 
 荷物を運んでくれるって言うから、お礼に夕食に招待した。深い意味はない。ただ、それだけ。
 エリックが家に夕飯を食べに来るのは、これが初めてのことじゃないし。
 ディフだってこの人を食事に招いていた。つまり、エリックは既に家に出入りするのを認められてるってことなんだ。

 それに、今夜はレオンがいないんだから、わざわざ断ることもない。

「いつもWhole foods Marketで買い物してるの?」
「うん。だいたい、ここ。オーガニックな食材がいっぱいあるし、種類も多いから」
「なるほど……そう言うの、好きなんだ………」

 ちょっと考えてから、エリックは何気ない口調で言った。

「フェリープラザのファーマーズ・マーケットに行ったことは?」
「ううん」
「火曜日と土曜日に、フェリービルディングで市場が立つんだ。赤レンガの広場にテントの屋台が出てね」

 聞き覚えのある地名に何とはなしに興味を引かれる。

「オーガニック栽培の新鮮な野菜がいっぱい売ってる。あと、クラフトショップもある」
「クラフト?」
「うん、手作りのカゴとか」
「ふうん……」
「あと、何と言っても海産物が安い! ぴちぴちしてる」
「エビとか?」
「うん、エビ。今の季節は牡蛎も美味いよ」
「あ」

 思い出した。フェリービルディングって、月曜日にディフとレオンが行った場所だ。
 
 ※ ※ ※
 
 スーパーの入り口にはショッピングカートが2種類ある。
 買い物カゴを上に載せるだけの小さなものと、それ自体が巨大なカゴになっている大型のと。

 迷わず大型のに手を伸ばす。

「ん……」

 ちょっと揺れただけで、ビクともしない。
 すっと上から手が伸びてきて、ハンドルを握る。エリックだ。

「あ」
「一緒にやろう」
「……うん」

 軽くうなずき交わし、力を合わせて引っ張った。

 ガタン!
 
 今度は動いた。
 
「……ありがと」
「どういたしまして。買うものは、決まってるの?」
「うん」
  
  
 ※ ※ ※ ※
 
 
 ホールフーズ・マーケット(Whole foods Market)、テキサス州に本拠地を構えた大型スーパーチェーン。少々値が張るけれど、自然食品やオーガニック・フードが充実している。
 中華料理の食材を始めとする輸入食品や、他ではちょっとお目にかかれないような冷凍食品も豊富。
 そこがシエンとセンパイたちの『行きつけ』の店だった。

 大型のショッピングカートを引き出そうとして、ちょっと苦戦している。
 列から引き出すのがけっこう力が要るんだ。たまに、前のカートにがっちり食い込んでるのがあるから。

「あ」
「一緒にやろう」
「……うん」

 カートの先導はシエンに任せ、自分はもっぱら押すことに専念する。いつも買い出しに行ってる店とは、比べ物にならないほど広い。
 生鮮食品だけで、こんなに膨大なスペースを取ってるなんて! オレの理解を超えてる。卵だけで一体何種類あるんだろう?

「買うものは、決まってるの?」
「うん」

 真剣な顔でパスタの棚をチェックしてる。いくつか手にとって、見比べて、最終的に青い袋に入ったのを選んでカートにどさどさ入れた。
 まとめ買いすればそれだけ安くなる。とは言え、使う宛てがなきゃこんなに買うはずがない。

 好物なのかな。
 家族の誰かが?
 それとも彼が?
 ………食べる時に観察してみよう。

「……よし」

 満足そうな表情だ。どうやら、お気に入りの銘柄が安くなっていたらしい。

「ソースは何にする?」

 とりあえず自分の一番好きなものを答える。

「カルボナーラ」
「じゃあ、ベーコンと生クリームも買わないと」
「ソース、できあいのじゃないんだ」
「5人分だと、作ったほうが早いよ」
「5人ぶんかぁ………」

 懐かしいな、こう言う買い方。実家を出て一人暮らしをするようになってからは、滅多に自分で料理する機会が減っていたし。
 もっぱら出来合いのものを買うか、外で食べるか。
 買う店も、安さ優先。野菜はまず、カートに入れる前に確認必須。たまに傷みの激しいものが混じってるから。

「何だか、新鮮だな」
「……うん、卵はやっぱり新鮮でなくちゃね。あ、こっちのが1日新しい」

 ベーコンは、大入り袋が3つで1セットになったのをどさり。

 卵も当然、大きいパックを選ぶ。グレードはA、生でも食べられるのを。生クリームは低脂肪、牛乳は2ガロン入りを一本、1リットル入りを一本、さらにオレンジジュースも同じサイズのを一本。

 どんどんカートが重くなって行く。ずいぶん豪快な入れ方だ。慣れっこって言う感じで、動きに迷いがない。

(いつもこんな買い方してるんだ……)

 普段はオティアが一緒なのだろうし、そもそもセンパイが居れば、こんなの余裕で『ひょい』だ。

 調味料の棚の前では、ソイソースがどんっと追加された。真っ黒なペットボトルはまるでコーラのLサイズ。こんな大きな瓶で売ってるものなんだ……。

「米も買わないと」
「OK、米だね」
 
 カリフォルニアは米の産地だ。町中の小さな食料品店にも米はあるけれど、ここの店はさらに種類が豊富で、量も多い。
 
「……あった」 
TAMAKI? NISHIKIじゃなくて?」
「サリーのおすすめなんだ。おいしいよ?」
「そっか。日本の人のおすすめなら、まちがいないね」

 ごく自然に5ポンド入りの袋に手を伸ばす。

「あ、そっちじゃないよ」
「え」
「こっち!」
「……こっち……なんだ」

 10ポンド入りを一袋。両手で抱えてカートに入れる。持ち上げた瞬間、背骨にミシっと来たので慌てて膝を曲げ、重量を分散させた。

「米、よく食べるの?」
「うん。チャーハン作ったり、スシにしたり、オカユサンにしたり」
「Okayusan?」
「お米のporridgeみたいなものかな? いっぱいの水で柔らかく煮るんだ。寝込んだ時の定番なんだって」
「オートミールみたいだね」
「んー、ちょっとちがう。あそこまでべちょべちょじゃないし、油っこくもない……もっと、さっぱりしてる」

 眉が寄ってる。どうやらオートミールはあまり好きじゃないらしい。

「それも和食?」
「そうだよ。ヨーコに教わったんだって。高校生の時に」

 その名前には聞き覚えがあった。センパイの高校の同級生で日本からの留学生。そして……

「サリー先生の従姉?」
「うん……あれ、サリーのこと知ってるの?」
「うん。病院に行ったことあるから」
「ああ、ヒューイとデューイ」
「よく覚えてるね」
「結婚式にも来てたし……」

 声のトーンが下がってる。犬は苦手なのかな。あいつら、中身はともかく見た目は強面だからなあ……特にデューイ。
 さりげなく話題を切り替えた。

「今夜も作るの? okayusan」
「うん……一人で作るのははじめてだけど、中華にも同じような調理法があるから」
「中華作るの、得意なんだね。この間のエビチリも、すごく美味しかった」
「ほんと?」
「うん。もう、あれ食べたらテイクアウトの中華、食べる気がしない」
「そっか……」

 重たい重たいカートを慎重に押してレジに並ぶ。ビニール袋をとろうとしたら(アメリカのスーパーでは買い物袋は有料)、止められた。

「それ、いらない。エコバッグあるから」
「……わかった」

 きっちりしてる。
 
 レジで合計金額を告げられると、シエンは変わった形の財布をとり出し、ぱちんと開けた。
 馬蹄型のしっかりした布製で、表面の模様はプリントではなく、全てきらびやかな刺繍だった。何となく異国の空気を感じる。
 中国……いや、日本かな? 思わず目が吸い寄せられる。『それっぽい』風をまねただけの模造品じゃなさそうだ。おそらく現地の職人が丁寧に作った物。

「どうしたの?」
「きれいな財布だなって思って。日本の?」
「うん……」

 かすかに頬を染めてうなずき、大事そうに財布をしまった。
 財布にはおのずと使う人間の個性が現れる。まったく同じ店で、同じ品物を買っても一年後にはまるで違う癖がつく。
 
 しっくり彼の手に馴染んでいた。布の表面がそれなりに摩滅していたけれど、汚れてはいない。それだけ大切な物なんだ。
 よっぽど気に入ってるのか、あるいはだれかからの贈り物ってとこかな? 

 5人分の食材はけっこうな重量があった。スーパーをでて、ケーブルカーに乗って、降りて、坂道を上って。ずっしり肩が下に引っ張られ、ひじが抜けそうになった。
 マンションに入り、エレベーターで上昇する時は正直、Gがきつかったけど……がんばった。

「大丈夫?」
「うん……大丈夫」

 6階に到着し、一番奥まで進むとシエンは鍵を出して、ドアを開けた。

「ただいまー」

 少しくすんだ短めの金髪に、わずかにグレイを帯びた紫の瞳。
 ぬっと瓜二つの顔が出迎えた。ドアを開ける前から来るのがわかってたみたいなタイミングだ。

「……」

 じろり、とにらまれる。

「Why(何で)……」

『お前がここにいるんだ?』

 言外に言われた気がした。それもかなり厳しい口調で、ぴしりと。

「買い物、手伝ってもらったんだ。荷物も運んでくれたし……」
「……」

 どうやら、双子の片割れはオレのことをあまり歓迎していないみたいだ。

「キッチンこっちだよね」

 荷物を運んで速やかにキッチンに移動、オティアと距離をとる。

「オティア、買ってきたもの冷蔵庫にしまって」
「俺がかよ」
「俺は、ディフの様子、見てくるから」
「……」
「終わったら、お茶出してね」

 買い物袋をキッチンカウンターに載せる。これ、中身をしまっておいた方がいいんだろうな。でも、さすがに人の家の冷蔵庫を勝手に開ける訳にも行かないし。
 どうしようかと考えていたら……

「みゃー」
 
 足下にしなやかな体がすり寄ってくる。

「やあ、オーレ」
「にう」

 ひゅうんと白いしっぽがしなった。
 床にかがみこんで子猫を撫でる。

「ああ、本当に君はちっちゃいなあ……ほっそりして、すべすべしてる……」
「み」
「うちのタイガーとは、大違いだよ」
「にゅん」

 オーレがぴん、と耳を立て、しっぽを高々と垂直に掲げた。
 顔をあげるとオティアがいた

(あれあれ。せっかく退避したはずなのに、彼もこっちに来ちゃったよ)
 
 すーっと俺の前を通過すると、オティアは袋から食料を出して冷蔵庫にしまい始めた。てきぱき、なんてレベルじゃない。そりゃもう、猛烈な勢いで。

 ……あ、目が合ってしまった。
 こまったな。
 何て言おう?

「……お手数おかけします」

 微妙にずれてるけど、黙ってるよりはマシ。
 多分。
 
次へ→【4-14-6】どこかの知らない街角で

【4-14-6】どこかの知らない街角で

2009/11/22 2:42 四話十海
 
 風邪ひいて熱なんか出したのは久しぶりだ。高校一年の11月以来だから、およそ10年ぶり………か?
 レオンと一緒の部屋になってまもない頃だった。まだあの頃はサンフランシスコの気候に体が馴染んでいなかったんだな。
 
 意志の力ではどうにもならないレベルで頭がガンガンと疼く。忘れかけていた関節の鈍い痛みに顔をしかめ、力を抜こうにもうまく行かない。
 胃の腑が絶えずきりきりと締め上げられ、何度か不意に込み上げるおう吐を飲み下した。腹の中にあるものは、昨夜のうちにあらかた吐き出しちまった。今、ここで吐いたら薬が効かない。
 右を向いても、左を向いても、上を見ていてもつらい。うつぶせなんざもっての他。

 いっそ眠ってしまえば、とも思ったが、絶えず身体のどこかしらがきしんでいて、ちっとも休まらない。
 かえって意識がさえてしまう。中途半端な状態で浮き沈みを繰り返していると、ドアがノックされた。

「……どうぞ」

 オティアが盆に乗せたマグカップを持って入ってきた。

「これは?」
「……ソフィアが」

 時計をみると、十二時を少し回った所だった。
 昼飯、か。

「お前の分は」
「ある」
「そう……か」

 ことん、とカップがベッドサイドのテーブルの上に置かれる。余計なことを気してないで、さっさと飲め、ってことらしい。

「ありがとな……」

 マグカップの中身は、淡い卵色の、ふんわりした甘い飲み物。エッグノックだった。適度にとろみのある液体で、のどを通りやすく、栄養もある。むせないよう、少しずつ飲んだ。

 懐かしいな。
 10年前に寝込んだ時は、レオンが作ってくれた。今思うとよくぞ失敗せずにできたもんだと感心しちまう。
 紅茶とコーヒーを入れるのは抜群に上手いし、これも一応、飲み物だが……卵、どうやって割ったんだろうなあ。
 片づける時も、ものすごく慎重に動いていた。
 
 俺が飲み終わると、オティアはアレックスから渡された薬を一回分とりわけて、ころんころんとトレイの上に乗せた。続けてボトル入りの水がどんっと。
 イライラしてるのか。いや、この顔は……心細いのか、もしかして。そうだな、俺が体調崩して寝込むなんざ、あの時以来だものな。
 慣れていないし、不安にもなる。

 薬を飲み、どうにかほほ笑みかけた。

「少し、眠るよ」

 うなずくと、オティアはバスルームに入って行った。そろそろと横になり、枕に頭を乗せる。しばらくするとタオルを手に出てきて、ぺしゃっと額に載せてくれた。
 ……冷たい。

「ありがとう」
「……ん」

 お盆を持ち上げ、歩いてゆく。振り返りもしない。やるべきことを全てしたと、わかっているからだ。
 目を閉じて、ドアが閉まる音を聞いた。相変わらず体の節々がしんどいが、心なしか気分が楽になった。
 かすかに猫の声が聞こえる。置いてきぼりを食らったオーレがリビングで待ちかねていたようだ。

 薬が効いてきたのか、ようやくとろとろと意識が霞んできた。
 

 ※ ※ ※ ※
 
 
 寝室の壁が。天井が。カーテンが。ぐにゃりと歪んで色を失い、ぺったりとした町並みに変わる。
 見覚えのあるような、ないような。
 子どもの頃住んでいたテキサスの町にも似ていたし、見なれたシスコにも似ているような気がする。
 奇妙に入り組んだ町の中をひたすらさまよった。

 シエンがいない。
 どこにもいない。見つからない。

(どこに行ってしまったんだろう?)

 ぼわぼわと奇妙に割れて歪んだ音楽が聞こえる。
 ちかちかとイルミネーションがひらめく。

 ああ、そうだ……遊園地だ。オークランドの、動物園内の。早く行かなければ。迎えに行かなければ……あの子は今、一人なんだ。
 遊園地の周辺はそれほどでもないが、近くには治安の良くない地域がある。シスコに比べて犯罪の発生率も高い。
 もし、そんな所に迷い込んでしまったら?

 周囲を取り囲む街並がぐんぐんと、空に突き刺さるばかりに伸び上がる。
 
 急げ。もっと急げ。
 道が思い出せない。この角を曲がるのか。階段を昇るのか。
 覚えている通りに動いているはずなのに、目指した場所とは逆の方向に進んでいる。右向け、左、全速後進。

 ああ、くそ、どこを歩いているんだ、俺は。
 急がなければ。
 早くシエンを迎えに行くんだ。

 体が動かない。もがけばもがくほど、あの子から遠ざかる。伸ばした指先すら希薄にかすんで消えて行く。触れることさえできない。

 早く………急いで………。
 
 消える前に、あの子の所にたどり着かなければ!

 その瞬間、何もかも一斉に崩れ落ちてきた。街の建物が。壁が。空さえも。
 
 
 ※ ※ ※

 焦りと失望の中で目を開ける。
 部屋の天井だ。

「……あ?」

 連続した時間をすっぱり切り取り、間を飛ばして張り合わせたような、奇妙な感覚を覚える。いつ、入れられたのか頭の下に水枕があった。
 
(寝てたのか、俺……)

 完全に意識をすっ飛ばしていたようだ。
 ドアの所に誰か立っている。

「ただいま」
「シエン……おかえり」

 ふっと力が抜けた。

「薬、ちゃんと飲んだ?」
「ああ。オティアが持ってきてくれた」

 シエンは手際よく額の上のタオルを取り換え、水枕の具合を確かめた。

「こっちは、まだ冷たいから大丈夫だね」
「ああ」
「今日は、俺が夕食つくるから」
「………うん………ありがとう……」

 よかった。この子は、ここにいる。

次へ→【4-14-7】HはハンスのH

【4-14-7】HはハンスのH

2009/11/22 2:43 四話十海
 
 シエンがリビングにもどると、微妙に空気が固かった。
 オティアとエリックは微妙な距離を保ってソファに腰かけ、黙って紅茶をすすっている。露骨に顔を背けてこそいないが、視線がかみ合うこともない。
 シエンの顔を見て、二人とも程度の差はあれ、ほっとしたような表情をした。

「ディフは?」
「ん、起きてた」
「そう……か」

 オティアの肩からほんの少し力が抜ける。

「ヒウェルから、何か連絡あった?」
「別に」
「そっか。じゃあいつも通りに作ればいいかな……」
「Hも招待したの?」
「ううん。毎日食べにくるから。夜は」
「だから5人分、なんだ……猫みたいだね」

 双子が顔を見合わせる。ちょっと微妙な雰囲気だ。

「………猫」
「に」

 かぱっとオーレが口を開け、鳴いた。ひょっとしてcatって単語を聞き分けてるんだろうか?

「どっちかっていうと、あいつは……」
「犬、かな?」

 オーレがまた、小さな声で『みゅ』とつぶやいた。
 
「何か手伝うこと、ある?」
「それじゃあ……」

 頼まれたのは、オーレのお守りだった。

「キッチンに入って来ないよう、相手してて」
「わかった」
「アレを調理してると、すごいハイテンションで暴れるから」
「アレって?」

 シエンは声を潜めてささやいてきた。

「殻のあるシーフード。背中が曲がってて、Sのつくやつ」
「ああ!」

 shrimp(エビ)か。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 双子はキッチンで料理を始め、白い子猫と二人、リビングに残される。

「さーて、何がお望みかな?」

 オーレは赤い何かをくわえて、さっそうとした足取りで近づいてきた。足下にたどり着くと、ぽてっと落としてじっとこっちを見上げた。
 拾い上げてみると、それはフェルト地をかっちり縫い固めた猫用の玩具だった。

「エビ?」
「にゃっ」

 徹底してるな。真ん中を押すと、ぱひゅっと笛が鳴る。ぷくっとオーレは鼻面を膨らませ、青い瞳を期待に輝かせる。

「OK……」

 ぽうんっと放り投げた。赤いぬいぐるみが軽く床にバウンドする。
 鈴の音も高らかに白い稲妻が走った。瞬く間に前足で押さえ込み、空中に放り上げる。すかさず後足で立ち上がって前足でキャッチ、口にあぐりとくわえて駆けてくる。

「うわあ、お見事! 君って本当に優秀なハンターなんだね」

 ぽてっと足下にエビを落とすと、オーレは得意げに胸を張った。

「にゃーっ」
「はいはい、もう一回ね」

 まさかその後、30分もエビ投げに付き合わされるとは、ちょっと予想外だったけど……可愛いからOK。そうとも、実家の巨大猫に比べれば!

 やがて、キッチンからいいにおいが漂い始める頃。

「腹減ったー。今日の飯、な……うぶっ?」

 何度目かに放り投げたエビが、入ってきた人物の顔にびしっと命中。

「…………」
「あ、犬のひと」
「いきなり失礼な言い方だね、おいバイキング!」
「にゃっ」
「……はい、どうぞ」

 オーレのリクエストに答えていそいそとエビを投げてる。さっきオレが顔面にぶつけた事についてはお咎め無し。猫がお望みなのだから仕方ないって感じであきらめているらしい。
 
 気配に気付いたのか、オティアがキッチンから出てきた。

「よぉ」
「……」
 
 ひと目見るなり、Hは顔中笑み崩した。オティアはと言うと、目を合わせた瞬間ぴくっと小さく身じろぎして、わずかに目線をそらせて一時停止。まばたき一回分の沈黙の後、小さくうなずき、何事もなかったようにキッチンに戻って行く。

 Hは首をかしげてキッチンの方を見守っている。何だか後ろで束ねた黒髪がしっぽに見えてきたぞ。

 うん、確かに犬だ。

 やがて、シエンがトレイに載せたスープカップを運んできた。中には、白いとろっとしたお米のスープが湯気を立てている。
 何かたんぱく質も加えられているようだ。このにおいは、ホタテかな。
 あれが「おかゆさん」……センパイの分だろう。

「ご飯、できてるから」
「了解」

 いそいそと奥に運んで行く姿を見送りつつ、Hが口を開いた。
 
「あれ、ままはベッドか」
「寝込んでるそうですよセンパイ」
「なるほど……」

 ウォールナット(クルミ材)のどっしりした食卓には、既に夕食が並んでいた。

 小エビを散らしたサラダにミネストローネ、前菜にマグロのカルパッチョ。
 主食のパスタはペペロンチーノとカルボナーラの二種類。真ん中の大皿に盛りつけられ、トングが添えられている。好きな味を食べたいだけ、皿に取って食べろってことらしい。
 
 うん、確かに男ばっかりの食事だ。
 床の上には、猫の皿が置かれている。オーレが目を輝かせて飛んでゆき、顔をつっこんだ。ほどなく、ぴちゃぴちゃと舌を鳴らす音が聞こえてくる。

「にゃぐ、にゃぎゅぎゅぎゅ、にゃる、にゃう……」
「あ、何か言ってる」
「エビだから、な」
「美味しいってこと?」
「多分」

 何となく互いの間合いを計りつつ頑丈な椅子に腰をおろし、一呼吸置くと、Hは片手でひょいと眼鏡の位置を整えた。

「それで……一体全体どーゆー事情でお前さんがここにいるんだ、バイキング?」

 オティアがぼそりとつぶやいた。

「……何で、バイキングなんだ」
「ああ、こいつの爺さんが北欧出身なんだ。ノルウェーだっけ?」
「デンマークです」
「そっか、デンマークか……あ」

 何か、思いついたらしい。

「なーなーエリック。北欧では『おいハンス・エリック』って呼ぶと、男性の半分が振り向くってほんと?」
「まさか。そこまでじゃないですよ!」
「そーなの?」
「だいたい三分の一くらいかな」
「え……ハンス?」

 戻ってきたシエンが目を丸くしている。ずっとエリックで通してきたからな。

「そう、こいつのフルネーム、ハンス・エリック・スヴェンソンっての」
「何で、エリックって……」
「他に鑑識にもう一人、ハンスが居るんだ」
「オレより先に入ってた人でね。それで、センパイに言われた。『ハンス2号か、エリックどっちがいい』って」
「それで、エリックなんだ……」
「うん。たまに忘れそうになるよ。自分のイニシャルがHだってことをね」
「そーだよな、よくよく考えるとお前もHなんだよなー」

 そのくせ、何だって人をH呼ばわりするのか? 言外にそう問われた気がした。負けずにこちらもひょいと眼鏡を整えつつ、きっぱり言ってやった。

「あなたの名前は、発音しづらいんですよ、ヒウェル。つづりも厄介だし」
「そうかね、H」
「そうですとも、H」
「……そっか、ハンスって言うんだ……」

 シエンは首をかしげて、ぱちぱちとまばたきしている。

「うーん、やっぱりピンと来ないな。エリックで慣れちゃったし」
「……だよね。オレもそっちのが自分! って感じがするし」

 全員が食卓に着いたところで、夕食が始まる。
 オティアとHは迷わず、ペペロンチーノを取っていた。二人とも、辛い方が好きらしい。こっちはこっちでカルボナーラ一択。 

「ああ、一週間ぶりのあったかいご飯だ……」

 皿から立ち上る湯気に思わず目がうるむ。

「それって……」
「先週、来た時以来、まともな飯食ってないってことか」
「……まあ、そう言うことになる……かな?」

 本格的に切羽詰まるとレトルトのスープヌードルですら作る暇が惜しくなり、そのまま出してかじれるものばかり食べる。
 コーヒーも入れてから飲むまでに時間が経過するから、大抵、アイスより少しマシなレベルになっている。

「まさか、ずっとバニラアイス食べてたの?」
「うん。あと、プロテインバーとか、リンゴにクラッカー、たまにドーナッツも」
「うーわー、何、その既視感あふれる食生活」
「ヒウェルといい勝負だな」
「おいっ! 俺は少なくとも夕飯はまともに食ってるだろう!」
「…………」

 じとーっとオティアににらまれ、Hはたちどころに小さくなった。

「すみません、食わせていただいてます」
「この頃は何だか、牛乳も胃にもたれるようになっちゃって。ラテ頼むときも、ソイミルクに切り替えてる」
「そーいやお前さん、必ずコーヒーにミルク入れる派だったよな」
「ストレートだと、胸焼けしませんか?」
「全然?」

 そう言えば彼はいつでもブラックだった。それこそ胃壁が溶けそうなくらいに、とびっきり濃いのを。

「どっちもどっちだ……」

 オティアが肩をすくめて、小さくため息をついた。

「いただきます」

 物も言わずにサラダに集中。小エビとサラダ菜、ブロッコリー、トマトにキュウリ。矢継ぎ早に口に入れ、咀嚼して飲み込む。
 ぷりっとした歯触りと口の中に広がる濃密な海の香りに没頭し、食べ終わってはっと気付くと、半分あきれたような目で見られていた。紫の瞳は二組、黄色みの強い茶色の瞳が一組。

「あー……その……えっとぉ……」

 Hにぽん、と肩に手を乗せられ、妙に慈愛に満ちたまなざしを向けられる。

「そんっなに腹へってたのか、バイキング」
「そうみたい、ですね、はは、ははは」
「おかわり、持ってこようか?」
「うん、ください」
「そんなにエビが好きかい、おまえさんは」
「ええ、好きですよ。毎日食っても飽きない」

 二皿目のサラダは、さっきより小エビの量が多かった。ゆっくり味わいつついただいて、次に手元の皿に取り分けたカルボナーラを口に運ぶ。
 既製品のソースより、ずっと、ずっと美味しかった。とろりとして、こくがあるのに、しつこくない。

「あ……もしかしてこれ、ヨーグルト入ってる?」
「うん。ちょっとだけ入れると口当たりが良くなるんだ」
「そっか……すごく、美味しい」
「たくさんあるから、いっぱい食べて」
「うん! ありがとう……」
 
次へ→【4-14-8】まぼろしの遊園地

【4-14-8】まぼろしの遊園地

2009/11/22 2:44 四話十海
 
 うとうとしていると、ドアが控えめにノックされた。

「どうぞ」

 シエンが顔をのぞかせる。

「ディフ、夕食。食べれる?」
「……あ……いいにおいだ……少し……もらおうかな」
「うん!」
 
 ほっとしたようにほほ笑み、ベッドサイドのテーブルにトレイを置いてくれた。
 スープカップに入った「おかゆさん」。ちゃんと考えてくれたんだな、俺が食べたがってるものを。

「薄味にしてあるから……足りなかったらまたもってくるよ」 
「………いや、これで十分だよ」

 ゆっくりとベッドの上に半身を起こすと、肩にふわっとブランケットがかけられた。

「食べ終わったら、薬も飲んでね」
「ああ……。シエン」
「ん?」

 優しい紫の瞳がのぞきこんでくる。

「……夢ん中で、お前が迷子になって……探して、探して……見つからなくて……」

 不覚にも声が詰まる。

「……大丈夫だよ」
 
 091229_0122~01.JPG
 illustrated by Kasuri
 
 小さな手が。それでも最初に会った時よりはずっと伸びて、大人のバランスに近づいた指が、頬に触れてきた。
 少しひんやりしているように感じるのは、今は俺の方が体温高いからか。まだ熱が残っているらしい。

「ああ……」

 昨日の夜、そして今日。熱にうなされている間、何度あの夢を見たことだろう。
 まぼろしの遊園地。うつろに響く回転木馬の音楽。すぐ目の前にいるはずなのに、遠ざかるシエン。間に立ちふさがる透明な冷たい壁に阻まれ、為す術もなく膝をつく。

 目を覚ましてから、自分の肩を抱えて震えて……時間も忘れ、思わずレオンに電話しそうになったのも一度や二度ではなかった。

「どこにもいかないから……ね」
「うん………うん………」

 目を閉じて、頬に触れる指先の感触に身を委ねる。何の思惑も、意図もなく、ただ、そこにある優しさに。
 ゆっくりとまぶたを上げた。

「……いっといで。俺はもう、大丈夫だから」
「うん」

 シエンを見送ってから「おかゆさん」を口に入れる。
 あたたかい。
 体中に染みわたって行く。

 少し涙が滲んだ。あわててまばたきをして紛らわせようとした。

(っ、何やってるんだ、俺は?)

 この部屋には、自分一人しかいないってのに。何を隠す必要があるんだろう。己の感情をねじ伏せ、強がる必要がどこにある?

 つーっと一筋、あたたかな滴が頬を伝い落ちる。

 あの子たちと暮らすようになってから、すっかり涙もろくなった。
 最初のうちは自分が弱体化するようで心細かったが、今はそれも悪くないかなと思うようになってきた。

 こう言う泣き方ができるのは……きっと、しあわせなことなんだ。

 
次へ→【4-14-9】音の出るリンゴ

【4-14-9】音の出るリンゴ

2009/11/22 2:45 四話十海
 
 カルボナーラに小エビのサラダ、ミネストローネにマグロのカルパッチョ。
 デザートのパンプディングはリンゴではなくオレンジ入り、甘さ控えめのさっぱりした味わいで、するっと口に入ってしまった。 

「ごちそうさま、あー……美味しかった……このプディングも君が作ったの?」
「ううん、これはソフィアが持ってきてくれたんだ」

 女の人の名前にどきっとする。手作りのプディング持ってきてくれるなんて、かなり親しいんだよな。ひょっとして、家も近く?

「下の階の奥さん。いっつもパンとか差し入れしてくれるんだよ」

 Hの言葉に、ほっと息をつく。

「あ、なるほど……そう言うことか」

 食後のお茶は、シエンの入れたジャスミンティ。シーフードをたっぷり食べた後のにおいを爽かにぬぐい去ってくれる。
 しみじみと余韻に浸りつつ……

 ポケットからiPodを引っ張り出した。見かけも厚みも板チョコそっくりの白い音楽プレイヤーを、そっと食卓に載せる。
 シエンが首をかしげた。

「何、それ」
「お、iPod……nanoか!」

 速攻でHが鼻をつっこんできた。

「はい、nanoです」
「え? え? 何なの?」
「携帯用の音楽プレイヤーなんだ。ここにイヤホンを差し込んで、聞く」
「ふうん……」
「CDに焼いたのと同じ音楽が入ってる。これなら、手軽に聞きたい時に聞けるよ」

 そう、CDは前振り。むしろこっちが本命だったりする。聞くための手間が少なければ少ないほど、垣根は低くなる。

「飽きたら返してくれればいい。オレ我慢できずに先月新しいの買っちゃったから♪」
「あー……買っちゃったか、第二世代」
「はい、自分へのクリスマスプレゼントに。ほら」
「うお、ちっせえ! 手のひらに乗る!」
「どこまでちっちゃくなるんでしょうね、これ……」
「そのうち、財布に入るんじゃないか? うー、迷うなあ。でも今年はiPhoneも来るし……」

 Hとの話の合間にさりげなくシエンの様子を伺う。

「………いいの?」
「うん。使ってやって。そのほうがこいつも喜ぶ」

 そっとテーブルの上のiPodを滑らせる。シエンはこくっとうなずき、白いつやつやした筐体を手にとった。
 
 091228_1201~01.JPG
 illustrated by Kasuri
 

「これどーやって使うの?」
「この、丸いとこを触るんだ。ノートパソコンのタッチパッドと同じ」

 使い方を説明した。わざと半端に、曖昧に。それでも動くのがApple製品のいいところだ。

「後はこっちの液晶画面を見て、使いたい機能のとこにカーソルあわせて真ん中を押せばいい。試してごらん」
「うん……」

 言われた通り、シエンはイヤホンをはめて、iPodを操作した。教えた通りに指を動かしている。
 その間にHとオティアはさくさくと皿を片づけ、キッチンに運んでいる。

「あ、聞こえた」

 予想以上に大きな声を出して、自分でびっくりしたらしい。
 おずおずと耳からイヤホンを抜き取った。

「こんな風に音楽が聞こえるなんて……はじめて知った」
「そうだね、自分が流れる音楽の真ん中にいるみたいな気分になれる」

 手帳を開いてさらさらとペンを走らせる。

「使い方でわかんないことあったらメールしてよ。これ、オレのアドレスね」

 ぺりっとミシン目で切り取り、手渡した。

「うん」

 かちかちと携帯に登録している。
 よし、いいぞ。

「メール、あんまり使ったことないなぁ……」

 チャンスだ。さりげなく次のステップに進む。

「じゃ、試しに一通送ってみて?」
「ん」 

 送られてきたメールのアドレスを素早く登録した。

「俺、電話もメールもあんまり好きじゃなくて………」
「ふうん………じゃあ君は…直接話す方が好きなのかな」
「なんとなく、信用できなくて。ヘンだけどね」
「そうでもないよ。オレも、大事な用件はメモ書いて渡す派だし?」
「そうなの?」
「うん。だからデスクの周り、けっこうすんごい事になってる。さっきメモしたのどこに行ったっけ、みたいな」
「それ、あまりメモの意味、ないんじゃあ……」

 シエンはくすっと笑った。笑っているのだけれど、ほんの少し眉が寄っていて、ちょっと呆れてるようにも見えた。

「そうかも……」

 ふと、ちくっと何か形のない物に刺されるような感覚を覚える。視線を向けると、紫の瞳にぶつかった。
 オティアだ。
 口を引き結び、わずかに眉をしかめてこっちを見てる。にらんでる。

 止められるかな。
 消せ、って言われるかな。

「……」

 あれ、目、そらしちゃったよ………歓迎はしていない、でもとりあえず黙認ってとこか。そう思うことにしよう。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「ごちそうさま、それじゃ、おやすみ」
「おやすみ。今日は、ありがとう」
「こちらこそ……じゃあね」

 エリックを送り出し(余ったパンプディングをお土産に持たせて)てから、ポケットに手をやる。
 ほとんど厚みのない音楽プレイヤー。こんな薄っぺらい箱で音楽が聴けるなんてちょっと不思議な気がした。
 やわらかな音の波に包み込まれるような感触は、生まれて始めての体験だった。日常生活の中でいつも聞こえてくる音楽とは質が違っている。もっとなめらかで、鮮やかで……。

(眠る前に、部屋でもう一度聞いてみよう) 

 こんな高価なものを(多分)借りていいのかどうか、本当はちょっと迷った。
 でもエリックは知らない人じゃないし、オティアもヒウェルも一緒に見ている場での出来事だったし……。
 メールアドレスも交換したけど、ビリーやユージンたちともしてる。

 だから、これは特別なことじゃない。

「あ」

 部屋に戻ってから思い出す。
 そう言えば、次にどこで会うのか、全然約束していなかった。

 でも不安は感じない。コーヒースタンドに行けば、多分また会えるだろうし、いざとなったらディフに預ければいい。

 そろりとイヤホンを耳に入れて、iPodを起動する。目を閉じて、やわらかな音の波間を漂った。
 瞳の内側にゆらゆらと、淡い光の波がきらめく。白と金色に青と緑が交じりあい、溶け合って……。

(エビチリ、また作ってみようかな)


次へ→【4-14-10】お皿+1

【4-14-10】お皿+1

2009/11/22 2:46 四話十海
  
 夜ふけにふと、目が覚めた。
 じっとりと体中に汗をかいていた。身体中の細胞がからっと干からびて、やけに口の中が塩辛い。手足は鉛を詰めたように重く、だるかった。

 体が本能的に水を欲しがってる。ゆっくりと半身を起こすと、ちかちかと瞬く青い光の粒が目に入った。

「あ」

 携帯の着信ランプだ。ぼんやりしたまま手を伸ばし、まぶしさに目を細めつつ画面をのぞき込む。
 不在着信が一件、それからメールが一通。どちらもレオンからだ。文面はいたってシンプル。

『元気かい? おやすみを言おうと思ったけれど、話せなかったからメールしてみた』

 時間から見て、まず電話して。俺が出なかったもんだからメールしてきたんだろうな……

(心配かけちまったな。ごめん、レオン。)

 即座に返信を打つ。

『ごめん、風邪っぽいんで薬飲んで爆睡してた。もう治った』

 はしょりすぎか? いや、いや、あいつのことだ。メールを受けたら、すぐさま折り返し電話してくるだろう。

「うーむ……」

 試みに声を出してみる。いかんな、まだ力が入らない。これじゃあすぐにわかってしまう。俺が今、実際にどんな状態にあるのか。
 第一、寝てるとこを邪魔しちまう。

(5月のあの日以来、レオンはどんな時でも俺からのメールや電話は即座に受ける。たとえ眠っていても、飛び起きる)

 うん、今夜は我慢しよう。

 ぱちりと携帯を閉じる。

 明日の朝、おはようを言えばいい。はやる心を抑え、左の薬指の指輪に口づけるに留める。
 
「おやすみ、レオン………愛してるぞ」

 語尾がかすれて、のどが詰まる。思いの他、乾いているようだ。
 ボトルの水はもう飲みきっていた。

 スリッパに足を通し、おぼつかない手つきでガウンを羽織り、廊下に出る。
 リビングを通り抜け、半分夢の中を歩くような気分のまま、ごく自然にシエンの部屋に向かっていた。

 ドアの手前で立ち止まる。扉の隙間からうっすらと、常夜灯の明かりが漏れていた。
 ほっと、安堵の息をつく。

 あの子はここにいる。もう、幻の遊園地を探してさまよう必要はないんだ………。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 キッチンに行き、冷蔵庫から新しいボトルを出して、むさぼるように飲む。いくらでも体の中に入って行く。染み込んでゆく。
 ひといきついて、ふとシンクに目を向けた。食器カゴの中に皿が重なっている。深みのあるサラダボウルとか、スープカップは食器洗浄器に入りにくいのだ。
 見た瞬間、おや、と思った。

 多くないか、これ。

 スープカップが全部で6つ。1つは俺の分として、双子と、ヒウェルと……あと一人。
 
 何故だ? と言うか、誰が?

 誰かが皿からひとくちずつ食べて盃から飲んで……いや、これは白雪姫だ。
 スープが三皿、クマが三匹、迷い込んできた女の子が一番ちっちゃな皿のスープを……いや、これも何か違うぞ。

 あ…だめだ、くらくらしてきた。
 まだ本調子じゃないな。頭がうまく回らない。

 水だけ飲んで、おとなしくベッドに戻った。
 
 
次へ→【4-14-11】バイキング警報発動す

【4-14-11】バイキング警報発動す

2009/11/22 2:47 四話十海
 
 木曜日の朝。
 目を開けた瞬間、頭の中がすっきりと冴え渡る。
 カーテンを開け放ち、日の光をいっぱいに浴びた。ほんの少しだるさが残るものの、これぐらいなら気力でカバーできるレベルだ。
 ざっとシャワーを浴びて、着替えてキッチンに向かう途中でシエンとぱったり出くわした。寝室まで様子を見に来ようとしていたらしい。

「……おはよう」
「おはよう!」

 キッチンに行くと、オティアが既に朝飯の支度をはじめていた。リンゴとニンジン、皮をむいたオレンジをいつもの割合でジューサーに放り込み、スイッチを入れる。
 足下ではオーレがしたり顔でしっぽをひゅんひゅん振っていた。お手伝いの気分を味わっているらしい。こっちを見て、ピンク色の口をかぱっと開けた。

「にゃー」
「おはよう」
「……おはよう」

 卵を焼きながら何気なく尋ねてみる。深夜に目撃した疑問を。何故、皿が一枚多かったのか。
 
「ああ、エリック来てたから」

 あっさりと謎は解けた。

「そうか、来てたのか………って……何で?」

 俺に何か用事でもあったのか? いや、だったら事前に電話してくるはずだ。着信記録はなかった。

「コーヒースタンドで会ったんだ」
「ユニオンスクエアの、スターバックス?」
「うん。ディフが寝込んでるから、買い物して帰るっていったら、荷物運び手伝ってくれるって」
「で、一緒に買い物に行ったのか」
「うん」
「ホールフード・マーケットへ」
「うん。お米とか牛乳とか、重たいものいっぱい買わなきゃいけなかったし」
「で、飯食ってったと」
「そう。お礼に食べてってもらった」
「なるほど……」

 筋は通っている。
 水曜日の買い出しはいつも車だ。この子が一人で重量級の荷物かついで坂道を登る羽目にならなかったことを、エリックに感謝すべきなんだろう。
 だが。
 最初の部分に引っ掛かりを感じる。

(コーヒースタンドで会ったって?)

 これは偶然か。あるいは……。

(いや、ハンス・エリック・スヴェンソンは科学者だ。奴に偶然、なんてあいまいな言葉は似合わない)

「ふーん……スタバでね……」
「よく来るって言ってたけど、あのひと家近いのかな」
「………いや? 通勤路ではあるが」
「ふぅん? 途中下車してるのかな」
「多分な」
 
 考えてみたら、あいつのアパートのそばに、スタバ別に一軒あるじゃねえか! 下心見え見えだぞ、バイキング野郎め。

 食事が終わってからふと見ると、シエンが見慣れないちっぽけな機械をいじくっている。
 携帯……いや、あれは……iPodじゃないか。
 ヒウェルから借りたのか?(あいつMac派だしな)

 それとも……。

 サンフランシスコ市警ではMacintoshを使うことが多い。
 絶対的なユーザー数の違いから、Windowsに比べてハッキングされる危険性が若干、低くなるからだ。自然と署員にもMacを使う奴が多くなる。
 コンピューターを使う部署は特にそうだ。
 事務とか………鑑識とかな。

「どーしたんだ、それ」
「借りた」
「………誰に?」
「エリック。んー………なんか、使い方、よくわかんないな。気に入った曲だけ聴きたいんだけど」

 BINNGO。

「……あー…これは………すまん、俺もよくわからん」
「流しっぱなしにはできるんだけど……。いいや、今度、会ったときに聞こう

 待てこら、シエン、それは聞き捨てならないぞ!
 かちゃっとシンクの方で皿の触れ合う音がした。オティアだ。洗い物の手を止めて、こっちを見てる。
 ああ、気になるよな、俺も気になる。精いっぱい平静を装いつつ、話を続ける。

「会うって、どこで?」
「え、スタバ。別に約束してないんだけど」
「そう……か」

 多分、最初は警察への行き帰りの途中に立ち寄った程度だったんだろう。だが、非番の日までわざわざ行くか?
 まあスタバならな……コーヒー飲むぐらいだし……一応、現役の警察官だし……しかし、万が一ってこともある。

 ここで『親』がしゃしゃり出るのも気がひける。だが『兄弟』ならどうだ?

「………スタバなら、あいつのアパートのそばにもう一軒、あるんだけどな」

 それとなく口にする。
 オティアが聞いているのを、横目で確認しながら。

「ふーん、そうなんだ」

 気にする風もなくシエンは、平べったいリンゴマークのついた白い箱に見入ってる。
 その様子を見守りながら、オティアがきゅっと口を引き締めた。よし。伝えるべき相手にはきちんと届いた。

 ちりん、と鈴の音がした。

「にゃう!」

 オーレの声に、一時停止していた空気が動き出す。慌ただしく片づけを終えて、身支度を整えた双子を玄関から送り出した。

「いってらっしゃい。気をつけてな」

 ドアが閉まってから、左手首の時計を確かめる。まだ、ほんの少し余裕がある……そう、レオンにひと言、おはようと伝えるぐらいには。
 
 
(カルボナーラ/了)


トップへ

【side10-1】帰国

2009/11/22 2:53 番外十海
  
 来る。
 だれかが、来る。

 常に追われる身の悲しさ、こうして信頼置ける仲間の元に身を寄せていても神経はぴりぴりと張りつめている。
 だからこそ、こうしていち早く気配に気づくことができるのだが。

 三上蓮は聖書を閉じ、文机の傍らに立てかけた十字架に手を伸ばした。上辺を握り、かちりと隠されたスイッチを押す。
 すっと横軸と縦軸の交差のすぐ下に切れ目が生じ、中に隠された刃が鋭く光る。
 これでいつでも抜刀OK、しかしできればそんな羽目には陥りたくないものだ。もとよりここは神社の境内、長い時間をかけて練り上げられてきた結界は、そう容易く破られはしないだろうが……

 用心に越したことはない。
 時刻は深夜0時。訪問にはいささか不向きだが、襲撃にはうってつけ。さて、どちらだろう?

 ほどなく、だだだだだっと廊下を踏みならすけたたましい足音が響き、ばんっとふすまが開け放たれた。

「三上さん!」
「……なんだ、蒼太くんじゃないですか。いったいどうしたんですか」
「風見から電話がきた」
「ああ……」

 ちらっと頭の中で計算する。今はサンフランシスコは朝の7時か。そんなに朝早くにいったいどうしたのだろう?

「また、緊急事態でも?」

 つかつかと部屋の中に入ると、蒼太は真剣この上ない表情で低ぅい声で告げたのである。

「聖水を売ってくれ」
「はい?」
「神父なんだからそれぐらい持ち歩いてるだろう。あと十字架も!」
 
 僧侶が聖水と十字架を求めるとは、さてはてこれまた面妖な。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 クリスマスの翌日。

 朝、起きたらホテルの部屋のベッドの中に居た。
 靴と眼鏡は外されていたけれど、服はきちんと着たままで。少し体があちこち強ばってぎしぎしいっていた。隣にはうさぎのぬいぐるみ。
 ふかふかの表面に顔をうずめて、ほんのちょっとだけ泣いた。

「さて……デトックスしてくるか」

 バスタブにお湯を汲みながら思い出し、リビングに向かう。風見はもう起きていた。

「かざみー」
「あ……先生」

 ぱくん、と携帯が閉じられた所だった。

「すまん、電話中か?」
「もう終りましたから。あー、その、えっと……」
「風呂」
「え?」
「風呂入って来るから」
「あ……」
「じゃ、な」
 
 1時間30分の入浴でどうにかアルコールの名残は抜けた。
 クローゼットを開けるとメモが残されていた。

『好きなのを持って帰りなさい。全て君のために用意したものだ。 追伸:メリー・クリスマス from カル』

「おばか……」
 
 迷わず白いボレロの上着と、赤いドレスをスーツケースに詰めた。
 昨日着てた緑のスーツは……サクヤちゃんが使えるかな? サイズ、ほとんど一緒だし。
 
  
 ※ ※ ※ ※
 
 
「待たせたね。行こうか」

 夕方、ホテルに迎えに来たカルはいつもと同じ穏やかな笑顔。ほっとするけど胸の奥にほんのわずかに、もやもやした塊が残る。

 ロイのおじいさまからいただいたうさぎのぬいぐるみは、結局押しても引いてもスーツケースには収まらなくて。
 無理に詰め込むのも可哀想な気がして、結局、抱えて帰ることにした。

 サンフランシスコ国際空港のロビーで彼は言った。

「私は小さな大人だから、いつでも駆け付けるよ………とは言わない。約束出来ないからね………けれど、ここから出来る事があるなら、必ず力になる」

 うさぎを風見に預けて。のびあがってカルを抱きしめて、さよならのキスをした。友人同士にふさわしく、つつましく互いの頬に。

「……ありがとう。元気でね」
「ああ、君も」
 
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「……あれ?」
「どうした、サクヤ!」
「うん、大丈夫。なんか、目が乾燥してたみたいで」

 ヨーコさんたちを空港に送った帰り道、車の中で、急に涙がぽろぽろこぼれてきた。
 いけないな。
 まだ、繋がってるみたいだ。

 でも、ヨーコさん、がんばったね。飛行機が離陸するまで、我慢したんだ。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

 成田空港の到着ロビー。サンフランシスコからの便から降りて、入国手続きを終えた人々が続々と荷物を受け取り、出てくる。
 様々な国籍、人種の人々が行き交う中でも彼の風貌はひときわ異彩を放っていた。
 黒い詰め襟に白いカラー、神父服の上にライトベージュのトレンチコートを羽織り、目もとには黒のサングラス。
 広くがっしりした肩に背負った十字架を何度か警備員に見とがめられたが、その度に爽やかな笑顔で切り抜けた。

「あなたは神を信じますか?」
「これでどこでも礼拝ができるんです。便利でしょう?」

 その度にみんな、やや強ばった笑顔とともにそそくさと離れていった。いっそ次はこう答えてみようか。『これ、コスプレなんです』と。

(おや?)

 ちらっと視界の端を赤い色がよぎる。まばたきして改めて注視する。すぐ後ろを歩くのは金髪の少年と黒髪のすらりとした若様然とした少年……
 しまった、あやうく見過ごす所だった!

 三上蓮は滅多に目標を見失う男ではない。
 
 そのための特殊な才能に恵まれていて日頃から鍛錬を積んでいるし、普段から人の顔は注意深く覚えるようにしている。
 にも関わらず、今回ばかりは迎えに来たはずの人物を見逃す所だった。

(背後に風見くんやロイくんがいたから気づいたものの……どこのお子様ですかあなたは)

 赤いケープに胸に抱えたうさぎのぬいぐるみ。どこか拗ねたような表情でちょこまか歩く。背の高い他の乗客の間を歩いて来る姿はさながら森の中の赤ずきん。

(ああしてると本当に良く似合うんですよね「メリィちゃん」って呼び方)

 本人の前では絶対に口にしてはいけない。昔はともかく、今は。
 
 090718_0211~02.JPG
 illustrated by Kasuri

 
「やあ、おかえりなさい。長旅おつかれさま」
「え、三上さん?」
「結城神社の宮司さんから頼まれまして……」
「父から?」
「宮司さんはやはり年始の準備で忙しいですから、代理ということで。車は貸していただきました」
「でも、どうして三上さんが?」
「クリスマスも無事終ったことですし、神社のお手伝いを」

 カソリックの神父が。
 まさか神社に潜伏しているなんて……
 お釈迦様でも思うまい。

「まさか、その格好でっ?」
「さすがにTPOはわきまえて、ちゃんと浅葱の袴を履いてますよ」
「神父さんに神社のお手伝いさせちゃったんだ……」
「お坊さんだけじゃなくて……」
「まぁ、日本じゃ何でも八百万の一柱ですから。気にしない気にしない」
「日本の文化は奥が深いデス」

 空港のパーキングに向かう。確かに止まっていたのは神社のワゴン車だった。3人分のスーツケースを積み込む余裕はたっぷりある。

「あ、チョット待って」

 ロイはスーツケースを開けて、中から梱包材でがっちり包まれた小さな瓶を取り出した。

「これ、お土産デス、三上さん」
「ありがとう」

 受け取り、丁寧にプチプチをはがし中から現れたドクロのラベルを見るなり温厚そうな神父の双眸がきらりと光る。獲物を見つけた肉食獣さながらに。

「やあ、メガデスソースですか! これは……なかなか手に入らなくて苦労してたんですよね。ありがとうございます」
「喜んでいただけてボクもうれしいデス!」
「あとでこれ使ったアラビアータでもご馳走しましょう……大丈夫ですよ、ちゃんと辛さは初心者向けにしますから」

 それってどんな初心者か? って言うか自分が食べるなんて事態はまるっきりの想定外。
 
(でも、でもせっかく先輩である三上サンがごちそうしてくれるんだし、断る訳にはーっ)

「楽しみにしてマス……」
「はははは」

 爽やかな笑顔で答えつつ三上は密かに首をかしげていた。
 やめとけロイ、とか。あたしの生徒にんな危険物食わすな、とか。来て然るべきと予測していたはずの突っ込みが飛んでこない。

「………」

 羊さんはうさぎのぬいぐるみを抱えて上の空。

(はて、これはいささか面妖な)

 とりあえず自力でフォローを入れておくことにする。

「……まぁ、今のは冗談ですから。そんなに怯えないでください、ロイくん」
「は、はい」

(見抜かれた……不覚!)


 高校生2人は戸有市の風見の自宅前で車を降りた。休暇中、ロイは風見の家ですごすのだ。

「それでは二人とも、よいお年を」
「よいお年を」
「アリガトウゴザイマシタ」
「風見。ロイ」
「はい」
「はい」
「おつかれさん。また、学校でな! それとも初詣、来るか?」
「いいですね」
「藤原も誘って、一緒にな。土産、渡せるだろ?」
「あ」
「あぁ」
 
次へ→【side10-2】告解

【side10-2】告解

2009/11/22 2:55 番外十海
 
「アパート寄ってきますか?」
「ん、いい。直接、実家に帰る」
「了解……じゃ、このまま神社に向かいますね」
「お願いね」

 再び車が走り出す。
 目指す先は隣の綾河岸市の結城神社……羊子の実家である。年末年始は実家の手伝い、巫女さんに徹するのだ。

(さて……そろそろかな)

 風見邸がはるか後方に消えたところで切り出した。

「何かあったんでしょう」
「え、事件のことならもう報告したじゃない?」
「いや、悪夢事件のことじゃなくてですね……あなたのことですよ」

 とりあえず『先生』の仮面を外してもらう事にしよう。
 普段は禁止されてる少女時代の呼び名……この状況では効果的なはず。

「今なら彼らもいませんし、先生から普通の女の子に戻っていいんですよ、メリィちゃん」
「メリィちゃん言うなーっ」

 はい、想定内のリアクション。

 このあだ名、自分が口にした場合は生徒たちが呼ぶのとは若干、違った意味を帯びてくる。
 これは時間を遡る一つの鍵。彼女がまだまだ新米の悪夢狩人だった頃。今よりも弱く、未熟だった日々に繋がる扉を開く。

「メーリさんの羊、羊、羊♪」
「うーたーうーなーっ」
「白状するまで歌い続けますよ、エンドレスで」
「わかった、言う、言います!」

 それでも羊子が口を割るまでにはさらに若干の時間を要した。

 三上は待った。忍耐強く待った。ここで急かすのは逆効果。既に彼女は話し始めている。ただ、声が喉から出るまでに時間がかかっているだけなのだ。

「………好きになったの」

 しばし黙考。今回のアメリカ行きで彼女の周囲に存在した生身の男性を思い浮かべる。
 サクヤ、風見、ロイ、いずれもメリィちゃんの目から見れば弟、もしくは生徒でしかない。恋愛の対象にはなり得ない。

 事件に関わっていたと言う同級生たちも同様だ。とてもじゃないが同年代の男どもにこの暴れ羊さんの手綱を押さえられるとは思えない。

 してみると、該当者はただ一人だ。

「例の、吸血鬼社長?」

 こくっとうなずいた。

「それで? まさか黙ったまま帰国したとかそんなことないですよね」

 今度はふるふると首を横に振っている。

「それはよかった」

(言わないまま離れたら、余計にこじれてしまいますから、ね……)

「で、結果は?」
「振られた」
「おや」
「そもそも恋愛対象だなんて思われてない。親しく接してくれるのも友だちだから。私のことをとっても大事にしてくれてる、でもそれはあくまで妹みたいに思ってるからで……」

 支離滅裂だが言わんとすることは理解できる。

「わかってるんだけど、悔しくて。やりきれなくて」
「ひっぱたきましたか」
「……」
「まさか、グーパンチ?」
「………………………………キスした」
「はい?」

 おやおや、また黙ってしまったか。

「メーリーぃさんのぉ」
「やめーいっ!」

 ちらっと助手席に目を走らせる。
 うさぎのぬいぐるみに半分顔を埋めて隠していた。視線に気づいたのか、ちらっとこっちを見上げてきた。

「さ、最初は……そんなつもりなかったんだ……ただ、その……友だちの家のクリスマスパーティに招待されて……つい……」
「やけ酒でもしましたか」

 再び沈黙。だがYesと答えたも同然だ。

「珍しいこともあったもんだ。あなたが外で飲酒するなんて……まさか、一人で?」
「風見とロイも一緒だった」

 ならひとまずは安心……いや、ある意味心配か。

「飲んで、飲んで、よっぱらってふわふわになったら、切ないのも苦しいのも忘れられるかな、消せるかなって思った。でも、消えなかった」
「でしょうね」
「やりきれないよ、ほんと……そうしたらあの人が迎えに来て。あんまり優しくて礼儀正しいもんだから」
「ぶち切れてキスした、と」
「う……うん」
「どこに? 頬? 額? 手? それとも……」
「う………」
「唇、ですか」
「うう」
「逃げられた?」
「それは、なかった。って言うか、むしろ逆?」
「ほう?」
「押さえ込まれて………」

 こくっと喉を鳴らすと、彼女は蚊の鳴くような声でつぶやいた。

「…………れられた」
「聞こえませんよ。もう一度お願いします」

「……………………」
「メリィちゃん?」

 がばっと顔を上げるなり、羊子は車のエンジンに負けじとばかりに大音声を張り上げたのだった。

「がっつり舌入れられたって言ってるでしょ!」
「おやおや」

 わずかに眉をひそめる。
 その顔を見てようやく自分の口走った言葉の意味を認識したのだろう。羊子は再びウサギにつっぷしてしまった。


 神社に住み込み、神職見習いに身をやつしていそいそと立ち働いたこの数日間。三上は結城羊子の母親と叔母(サクヤの母)から娘や息子に関するあれやこれやを聞かされていた。

 羊子の師匠であり、三上にとっては仲間でもあった上原が彼女の初恋であったこと。
 彼を失って以来、恋人と呼べる存在がいないことも。

(そんな濃厚なキス、おそらくは初めての経験だったろうに)

 帰国直前、風見から電話を受けた蒼太が開口一番、低い声で口走ったのもこれで納得が行く。
 
 090718_0246~01.JPG
 illustrated by Kasuri
 
『三上さん、聖水を売ってくれ! 徳用サイズで。それと十字架も!』
『吸血鬼でも退治するんですか』
『似たようなもんだ』
『まあ、まあ、とりあえず落ちついて……』

 標的は社長だったのか。電話で一部始終を聞いたに違いない。
 素直に言ってしまう彼らも彼らだが……こんな経験はさすがにないだろうし、仕方あるまい。

 見なかったことにして口をつぐんだり、奥歯に物の詰まったような無難な表現でごまかしたり。そんな大人びた対応を期待するには、ピュアすぎる。
 風見くんも。ロイくんも。

 確かに社長は吸血鬼を彷彿とさせるドリームイメージの持ち主だ。しかし、それにまつわるトラウマは既に克服したと聞いた気がする。
 と、なれば、信仰心がなければただの棒や水でしかない十字架や聖水は蒼太くんが使っても効かないのでは……
 アドバイスしておくべきだろうか?

 ま、いっか。

 言ったところでおそらく右から左に豪快にスルーされるのは目に見えてるし、実害もなかろうから。
 それにしても『がっつり舌を』入れたとは。

「うーん……妹にするにしてはやりすぎ感が否めないとこですね……」
「妹……だよ。でなきゃ、娘」
 
 声が震えている。恥じらいか、それとも悲しみのためか。
 
「だって彼……男の人しか愛せない人だもの」
「ああ。Omosessuale(同性愛者)ですか……教義的にはアウトなんですよねぇ。ちょっと断罪してきましょうか……」
「だめだめだめ、断罪しちゃだめーっ!」

 頬を紅潮させ、きっとにらみつけるその顔はまるで十代の少女だ。一途で真剣そのもの、ちらとも迷わず真っすぐに。
 実際に初めて三上が羊子に出会ったのはまさにその十代の少女の頃なのだが……その時でさえ、こんな顔は見せなかった。
 ただ一人の相手を除いては。

「そんなことしたら、永久に絶交だ!」

 ドスの効いた声と皮肉めいた言い回しで脅しをかける。そんな余裕さえないらしい。

『そんなことチラとでも考えてごらんなさい? 生まれてきたことを後悔させてあげる』

 そう、いつもの結城羊子ならきっとこう言うだろう。
 これではまるっきり拗ねた子どもだ。ほとんど小学生レベル。さてはて、ここは笑うべきか、憂うべきか……どっちだろう?
 
「……ってのは『もちろん』冗談ですよ?」
「みーかーみーっ!」

 口の端がにゅっと跳ね上がる。
 呼び捨て、ですか。
 なかなかにレアな状況じゃないか、これは?

「紛らわしい冗談言うなーっ」
「冗談って言う前に割り込んだのあなたじゃないですか」
「うー、うー、うー……」
 
 むーっとした顔で口をとがらせると、そっぽを向いてしまった。

「冗談でも、そんなこと言うなっ」
「はいはい……」

 しばらくは黙って車を走らせる。助手席の羊もいたって静か。
 落ちついたであろう頃合いを見計らって再び声をかけた。

「教義と言ったって解釈でどうとでも取れるシロモノですし、だいたい私がエセ聖職者なのは知ってるでしょう、あなたは」
「自分でエセとか言うな」
「……というか、珍しいですね、あなたが生徒の前でそんなになるのも」
「言ーうーなーっ」

 今までの『言うな』とは微妙に、いや、露骨に口調が違う。ちらっと隣を見ると、完ぺきに頭を抱えていた。
 幸い前方は赤信号。渋滞していてしばらく動く気遣いはない。
 手をのばして、ばふばふっと頭を軽く叩いてやった。

「まぁ、ここで溜まってるものを吐くだけ吐いて、また彼らの前には先生として立ってあげてください」

 こくっと手のひらにうなずく気配が伝わってくる。細かい震動も……震えているのか。
 まずいな。このまま放っておいたら、泣き出すかもしれない。それもあまりいい泣き方ではない。

「メリィちゃーん。こっち見て」
「だから、その呼び名はやめろとっ」

 がばっと顔を上げた。
 今だ。

「っ!」

 それは一瞬。
 瞬きよりも早く夢と現が二重に重なる。時と時の狭間で唇と唇が触れ合い、離れた。

「………」

 羊子はまばたきをして、人差し指の先でつ……と唇をなぞり、しっかりした声で問いかけた。

「いきなり何をするか」
「神父のキスに祝福以外の何があると?」
「よく言う。エセ聖職者のくせに」
「今のが正真正銘『清らかなキス』です。いかがです、社長と同じでしたか?」
「……………」

 心震わすような熱さも、胸を締め付ける切なさも伴わない。
 強いて感じるものがあったとすれば、いたわりと慈しみ、さらりとした温もり。
 ただ、それだけだ。

「全然、違う」
「だったら……」

 信号が変わり、車が動き始めた。

「目はあるかもしれませんよ? あなたがあきらめなければ、の話ですが」
「煽ってるの?」
「迷える子羊に手をさしのべるのは、聖職者のつとめですから」
「ふん、エセ神父のくせに」

 つい、と顎をそらして口元に笑みを浮かべている。

「また溜まったらいつでも協力しますよ。ヤケ酒とか」
「覚えとく」

 ほほ笑む彼女の顔はどこか小悪魔めいた余裕と若干の皮肉を含んでいて……
 
 今やすっかり、『メリィちゃん』から大人に戻っていた。

(やれやれ、一安心、と言うところですかね)

 それにしても。

(上原さんがずっと忘れられなかったんですね。その意味では良い傾向にはあるんでしょうが……相手がねぇ)

 ため息一つつくと、三上は再び運転に集中した。

 行く手にこんもりしげった鎮守の森と、神社の鳥居が見え始めていた。

次へ→【side10-3】約束

【side10-3】約束

2009/11/22 2:56 番外十海
 
 参道脇の砂利を敷き詰めた駐車場に車を止めると、三上蓮は大げさにため息をついた。

「それにしても。あなたって人は、つくづく罪な女性だ」
「え?」

 羊子は目をぱちくり。鳩が豆鉄砲をくらったような表情で首をかしげている。

「私にプロポーズしたこと、すっかり忘れちゃったんですね?」
「え? プロポーズ?」
「はい。あなたはまだ小学校四年生で、私が中一の時に」
「え、え、それって、まさか、わ、私が、三上さんに?」
「はい。そのまさかです」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 それはクリスマスを間近に控えた日。
 三上蓮は身寄りがなく、さる教会の営む施設で育てられていた。
 そして、その教会の神父は羊子の父、羊治と古くからの知己だったのだ。

「羊子。お父さんは、神父さまとお話があるから、しばらくここで待っていなさい」
「うん」

 そこは何もかも神社とは違っていた。

 交差したアーチのつくるドーム型の天井。
 祭壇へと伸びる通路の両脇には堅い木の椅子が壁のように並び、壇上では聖歌隊が合唱の練習をしている。男の子、女の子、年齢はばらばら。先生の弾くオルガンに合わせて、一生懸命歌ってる。

 奥の壁の、一段と高くなった場所には丸い窓が開いていた。
 パズルのように組み合わされた色とりどりのガラスを通り抜け、まぶしい冬の日差しが降り注ぐ。

 しばらくの間、羊子はちょこん、と椅子に座って歌を聞いていた。
 
 お父さんはまだ戻らない。
 歌はどこかで聞いたような曲ばかりで、親しみがある。だけど、じっとしてるのはつまらない。
 きょろきょろと見回しているうちに、上へ続く階段を見つけた。目を輝かせて狭い階段を上る。

 ついた先は屋根裏部屋だった。

「うわー」

 梁のむき出しになった部屋には、使わなくなった古い道具や本、そしてほこりっぽい空気と静寂が詰まっていた。
 窓から差し込む陽の光が、ほのかな影の中にすっぱりと斜めに切り込んでいる。

「あれ?」

 かさり、とつま先に紙の感触。見下ろすと床の上に楽譜が落ちていた。表紙にローマ字で名前が書いてある。

「R、E、N……れん?」
「呼んだ?」

 そこには先客がいた。糸のように細い目をした、ひょろりとした背の高い男の子が一人。
 木登りでもするように窓際の梁に腰かけ、ぼんやりと外を見下ろしていた。

「やっほー」

 ひょい、と手をあげて、とことこと近づく。

「君、だれ?」
「よーこ。この楽譜、あなたの?」
「ああ、どうも」

 男の子は気だるそうに楽譜を受け取ると、筒状に丸めてぐい、と無造作にポケットに突っ込んだ。学生服のポケットが不自然に膨れ上がるが、一向に気にする様子はない。

『牧人、ひつじを 守れるその宵』

 階下からかすかに、聖歌隊の歌うクリスマスキャロルが聞こえてくる。

「なにしてるの?」
「隠れてるんだ」
「かくれんぼ?」
「いや」

 男の子(どう見ても羊子よりは年上だったが)はさらりと答えた。悪いとも後ろめたいとも思っていないらしい。

「合唱の練習、さぼってる」
「いけないんだー」
「別に、好きでやってる訳じゃないし?」
「うた、にがて?」
「いや。ただ、他に選択肢がないって言うか……」

 レンは内心苦笑した。
 年端も行かない子どもに、いったい何を真面目に答えているのか。

「僕は、ここに住んでるからね。必然的に参加が義務づけられてるんだ。それが、面白くない」
「………………住んでる? ここに?」
「ああ、もちろん屋根裏って意味じゃない。教会に住んでるんだ」

 腕組みして、真剣に考え込んでる。
 この子は知っているのだろうか。『ここに住んでいる』、その言葉の意味を。

「大したことじゃない。僕には家族がいないから、ね」
「……………」
「それだけだ」

 透き通った瞳が眼鏡の奥で、ぱちっとまばたきする。
 
「そう。レンには、おとうさんも、おかあさんも、いないのね」

 参ったな……。
 物心ついてから、何百回と認識してきた事実だけれど、改めて他人に。しかも、小さな女の子に言われると……
 案外、こたえる。
 うつむいたその時。

 ぽふっとやわらかい、弾力のあるものに包まれていた。小さな腕、小さな胸に。

「え?」
「決めた。わたし、レンと結婚する」
「ええっ?」

 小さなよーこが伸び上がって、自分を抱きしめていた。腕を精一杯のばして、レンの頭を胸元にかかえこむようにして。

「結婚して……レンの家族になってあげる」
「あ……」
「そうすれば、もうさみしくないよね」

 結婚と言う言葉の意味を、よく理解していないらしい。
 それでも、彼女の抱擁はあたたかい。

「……………ありがとう」

『たえなるみ歌は 天(あめ)よりひびきぬ』
『喜びたたえよ 主イエスは生まれぬ』
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「思い出しましたか?」
「……うわー、うわー、うーわーーーー」

 羊子は頭を抱えてダッシュボードにつっぷしていた。

「結婚って、あの時は、その、他人と他人が家族になること、としか認識してなかったからーっ」
「ええ、そうでしょうね、確かにそれも真理です。ただ……ね?」
「な、何?」
「今だから言える事なんですが……あの時、完全に私を弟扱いしてましたよね」
「え……あ……そ、そうかな?」
「家族になるって、要するにそのつもりだったんでしょ?」
「う………あ……えっと…………」

 かくっと羊子は肩を落とした。

「ごめんなさい」

 にっこりほほ笑むと、三上はぽん、と羊子の頭を手のひらで包み込んだ。

「いいんですよ。あなたはあなたの思うまま、生きてください。恋してください」

(上原さんもきっと、それを望んでいる)

 車を降りて助手席側に回り、ドアを開けた。すかさずぴょん、と赤いコートが飛び降りる。

「改めて……お帰りなさい」
「ただいま」
 
(牧人ひつじを/了)

次へ→【ex9】初夢劇場「虎嫁」