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ローゼンベルク家の食卓

【4-14-1】コーヒー・スプラッシュ

2009/11/22 2:34 四話十海
 
「………エビ」
「みゃっ」
「エービっ」
「みゃうっ」
「エビ」
「にう」

 白い小猫がピーンとしっぽを立てて、ふんふんと鼻をふくらませてかぎ回る。 

『エビはどこ? どこに隠れてるの?』

 シエンはおもむろに玩具のエビをとり出した。
 フェルトの布をかっちり縫い合わせたぬいぐるみ。中にキャットニップとキューキューと鳴る笛が仕込まれている。爪がかりは抜群、強度もある。
 クリスマスからだいぶ日にちが経ったけれど、ちょっとけば立ったぐらいで縫い目は全然ほころびていない。

「はい、エビ」

 ぷきゅっと笛を鳴らすとオーレは期待に目を輝かせながら低く体を伏せ、しっぽをくねくねと動かした。
 びゅんっと投げる。
 たーっと白い弾丸が飛び出した。ちりちりと首輪の鈴が鳴り響く。
 リビングの床に落ちたエビを、オーレは前足で引っかけて高々と宙に放り上げ、落ちてきたのを、また放り上げる。
 後足で立ち上がり、鼻をふくらませ、目を見開いて。

 ものすごく楽しそうだ。

「ほんとに、オーレはエビが好きだね」

 得意げにエビをくわえてとことこと歩いてくると、ぽてっとシエンに足下に落とした。きちっと座って顔を見上げている。

「はいはい……」

 エビのぬいぐるみを拾い上げ、ぽーんと放り投げる。弾むような足取りでオーレが飛んでいった。空を飛ぶついでに、ちょん、と床に足をつけるような走り方で。

 ちらっとその姿に別の面影が重なる。白い服を着た、エビの好きな人。

 週の始めの月曜日。今日もまた、コーヒーを一緒に飲んだ。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 バイトが終わって、ケーブルカーの駅に向かう途中でコーヒースタンドに立ち寄った。
 正直、その時まではまだ決めかねていた。この後、ユージンたちと合流して遊びに行くか、それとも直接帰るか。
 携帯を開いて、メールが入ってたら行ってもいいかな。あるいは、スタンドで顔を合わせたら……。

 スタンドに入ったら知ってる顔がいた。ただし、予想とは違った相手が。
 ひょろりと背の高い金髪の眼鏡の青年が手を振ってきた。口の端にミルクの泡をくっつけたまま。

「やあ、シエン」
「……こんにちは」
「しまったって顔、してるね」
「まぁね」

 そっと目を伏せる。

「一人で飲みたかった?」

 視界の隅からうかがう。青と緑の混じった瞳が見下ろしていた……目尻がさがってる。やわらかい表情だ。
 こんなに背が高いのに、ちっとも押しつけがましさや、圧迫感を感じない。

「そうだけど……たまにはいいかな…」
「そっか」
「飲み物、買ってくる」
「うん」

 カフェラテのスモールを一つ。砂糖もシロップもなし。ミルクを大目にしてほんの少し温度をぬるめに。
 紙コップを両手で支え、エリックと一緒のテーブルに着く。正面から向き合うのではなく、互いにほんの少し視線をずらし、対角線になるようにして座った。 

「今日は、お休み?」
「いや、これから出勤。夜番(ナイトシフト)なんだ」
「そうなんだ」
「オレとしては君が一緒で嬉しいけど……一人の時間、邪魔しちゃった、かな」
「別にいいよ。どうせヒマだし」
「ありがとう」

 にぎやかに喋るのとはちょっとちがっていた。コーヒーを飲む間に、ぽつり、ぽつりと喋る。
 興味をひかれることがあれば相づちを打ち、話がつながる。
 そうでないときはただうなずき、耳を傾ける。宙に浮いた言葉はぷかぷかと時間の向こうに流れて行き、また次の言葉がぽつりとつぶやかれる。

「BGM、変わったね」
「うん」
「この曲、好き?」
「割と」
「ケルトの曲かな」
「さあ? でも聞いたことがある」
「歌詞が入ってるのより楽器の音だけの方がいい?」
「うん。言葉が流れてると、気が散るって言うか、つい追いかけちゃう」
「ああ、意識してしまうよね」

 何故か決して会話が途切れることはなかった。時折はさまれる沈黙も、不思議と気まずくはない。
 気まぐれで、ふわふわととらえどころのない、自由な言葉のやりとりを重ねるうち、シエンは何気なくたずねてみた。
 先週の水曜日、エリックが夕食に来た時から気になっていたことを。
 それは他愛のない会話から、ほんの少し内側に踏み込む瞬間でもあった。

「ディフってさ」
「ん?」
「昔はどういう感じだったの」
「んー……」

 エリックは目をぱちぱちさせて、ずぞ、とコーヒーをすすった。

「髪の毛、短かった」
「知ってる」
「ああ、写真、見たんだ?」
「うん。キルト履いて、警部補さんと一緒に写ってた」
「スコティッシュ・ナイトの写真だね」
「スコティッシュ・ナイト……」

「どうして二人ともスカートはいてるの?」
「違うっ! キルトつってスコットランドの民族衣装なんだ」
「スコットランド系の人間が集まるスコティッシュナイトっつーイベントがあってだね……そん時、あいつが取材に来てて。しっかり写してやがったんだ」

「あー、スコットランド系の人が、キルト着て集まるイベント……」
「そうそう、よく知ってるね。バクバイプを演奏したり、ダンス踊ったり、ハギスを食べるんだ」
「ハギス?」
「スコットランドの伝統料理。羊の内臓のミンチを、羊の胃袋に詰めてゆでるんだ」

(どんな料理なんだろう)

「センパイはあの容姿で、見事な赤毛だからね、ウィリアム・ウォレスの再来、なんて呼ばれてたよ」
「だれ、それ?」
「スコットランドの英雄。メル・ギブソンの主演で映画にもなってる」
「……映画、あまり見たことないから、わかんない」
「実はオレも見たことない」
「え、そうなの?」
「でも、ハギスは食べたよ。どんなのか試してみたいって言ったら一回だけ、センパイが作ってくれた」
「美味しかった?」
「……………すごかった」

 エリックの表情は変わらないけれど、微妙な沈黙に万感の思いが込められているのを感じた。
 ディフの作る料理で、そんなものすごい味になる物があるなんて。
 スコットランドの伝統料理って言うけれど、ハギスが食卓に上がったことは一度もない。理由はわかっている。

(俺とオティアが食べられないような物は、ディフは作らない)
(でも、エリックには食べさせたんだ)

 この人は、自分の知らないディフを知っている。当たり前のことなんだけど、何故か気になってくる。

「エリックは、一緒に警察で働いてたんだよね?」
「うん」
「警察官してた頃のディフって、どんな人だったの」
「ぱっと見大雑把だけど、実は手先が器用で。爆弾の解体が得意だったよ」
「爆弾……」
「爆発物処理班に居たんだ。デューイや、マクダネル警部補と一緒に」

 そんな危ないことしてたの?
 一瞬、ぎょっとした。けれどすぐに思い出す。そうだ、これは過去の話。初めて会った時はもう、ディフは私立探偵だった。

「センパイがゲイだってあの時知ってればなぁ……」

 エリックはさらっと口にしていた。今まで誰にも言ったことのない、秘めた想いの一かけらを。

「どの時?」
「警察にいたとき」
「それ、知らなくて良かったよ。でないと今頃……」

 こくっと喉を鳴らす。意識の底をすうっと、端整な微笑をたたえたレオンの面影がよぎる。

「お墓の下にいたかも」
「……そうなの?」
「うん」
「そうなんだ……」
「レオン心狭いから。ディフのことに関しては、特に」

 ず……とエリックはコーヒーを口に含んだ。飲み慣れたはずのラテが妙に苦く感じられる。

「なんとなく、わかってた。センパイと話してるだろ? そうするといつも必ず……レオンって人の話になってたから」
「そっか」

 ふよふよと視線をさまよわせる。
 テーブルのすぐ隣に、無料のカスタマイズ用のシロップやミルク、蜂蜜、バニラやココア、シナモンのパウダーの並ぶ台(コンディメントバー)があった。

「たまにはシロップ足してみよっかな」
「甘すぎるよ」
「君、甘いの苦手?」
「うん」
「そっか。じゃ、ちょっと失礼して……」

 のそーっとバーを目指して漂い歩き、透明なガムシロップの入ったポットを手に取る。

「あ」

 ほんのひとたらし……のつもりが、大量のシロップが入ってしまった。

(やっぱりスポイト使わないとダメかな)

 悔やんだところで、こぼしたミルクは戻らない。入れ過ぎたシロップも戻せない。木製の平べったいマドラーでかき混ぜる。
 毎度のことながらこの動作をしているとつい、ラボでの分析作業を思い出す。
 半分、雲を踏むような心地のままテーブルに戻り、だいぶぬるくなったキャラメルラテを口に含んだ。

「……うわ、甘っ」
「もともと甘いのに足さなくても」
「試してみたくなるじゃない。それに、適度な糖分は脳の活動を促進するし?」
「んー………でも、まだ出勤前でしょ?」
「……そうだった」

 ぼんやりしてもいいんだ。気を張りつめなくても、いいんだ……。
 飲みかけのラテをテーブルに置く。底に何か挟まっていたのかそれとも単に置く場所が悪かったのか。

 ぱしゃんっ!

 ぐらっと傾いて、シロップ入りのキャラメルラテがまき散らされる。テーブルの上に置かれた、シエンの手袋の上に。
 編み目の細かい柔らかなクリーム色のニット生地。吸水性は抜群だった。速やかにミルクをたっぷり含んだかっ色のシミが広がって行く。

「あっ、ご、ごめんっ」

 あわててペーパーナプキンをずらーっと引き出してふいた。けれど、すでにそれでどうにかなるような段階はぶっちぎりで通り越していた。

「だめだ、シミになる…」
「いいよ、家近いからこのまま帰る」
「……いや、今日は風が冷たいよ。そこの店で新しいのを買おう」
「え。そこまでしなくても」
「普通、こう言う場合はクリーニング代を出すのが相場だよね? その分、汚した手袋はオレが洗って返すから」
「え、でも……」
「大丈夫、オレ洗濯得意だから」
「ほんとに?」
「しょっちゅうこぼすからね。シミ抜きも慣れてる」

 コーヒースタンドを出て、通り一つ隔てた向かい側にある衣料品店に入った。カジュアルで丈夫、手ごろな価格の品がそろっていて、これまでも何度か署への行き帰りのついでに入ったことがある。
 シエンが選んだのはピスタチオクリームの色のシンプルな薄手の手袋だった。

(こう言う色が好きなんだ……)

 レジで会計をしながら、エリックはそれとなく付け加えた。

「あ、タグは外してください。すぐに使いますから」
「かしこまりました」

「はい、これ」

 買ったばかりの手袋をシエンに渡した。

「ありがと」
「いや、その、君の手袋、コーヒーまみれにしちゃったのは、オレだし……」

 目をぱちぱちさせるエリックの頬がうっすら赤くなる。リンゴの赤みのような、ほわっとしたマーブル模様が広がり、濃く、強くなってゆく。

「でもその言葉、うれしいな……洗ったら届けるよ」
「いいよ、いつでも。忙しいんでしょ?」
「ま、ね。でも水曜は非番なんだ。それに今月のシフトはずっと夜番だし」

 一呼吸置いてから付け加える。 

「ここに来れば、また会えるよね?」
「……ん」

 そのままシエンは何となくエリックと一緒に駅まで歩き……

「それじゃ、オレこっちだから」
「行ってらっしゃい」

 出勤するバイキングを見送り、帰りのケーブルカーに乗ったのだった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
  
 マンションに戻り、部屋のドアを開けようとしてふと気付く。手袋が変わってることを、ディフに何て説明しよう?
 まずエリックと会ったことから始めなくちゃいけない。その為にはコーヒースタンドに寄り道したことも言わないと。
 成り行きでまっすぐ帰ってきたけれど、スタンドに入った時は遊びに行くかどうか、迷っていた。
 何となく、話しづらい。

 ちょっぴりもやっとする胸を抱えて部屋に入ると……

「あれ?」

 ディフはまだ帰っていなかった。人の気配を感じたのか、とことことオーレが歩いて来て

「にゃー」

 足下にぽとっと、くわえていたエビを落とした。
 しっぽをひゅんひゅん振り回し、期待に目を輝かせて見上げてくる。

「はいはい……」

 拾い上げて、さっと後ろに隠してみる。体を低く伏せて身構えた。

「………エビ」
「みゃっ」
「エービっ」
「みゃうっ」
「エビ」
「にう」
 
 何度目かの投てきの最中に、ディフが帰ってきた。

「お帰りなさい」
「ただいま」

 意外なことにレオンも一緒だった。しかも、二人とも、朝出かけた時と服が変わっている!
 手袋が変わった、どころの騒ぎじゃない。上から下まで何もかも、丸ごと全部。

 二人とも見慣れないグレイのスエットスーツを着ていた。けれど、胸のところにあるロゴマークは見覚えがある。
 ディフの使ってるマグカップと同じだ……SFPD(サンフランシスコ市警)。

(え、警察?)

「どうしたの、それ? って言うか、何があったのっ?」
「あー、その……」

 ディフがきまり悪そうに髪の毛をくしゃくしゃとかき回した。
 いつもはふわふわしている赤い髪はしっとり湿り気を帯び、全体的にくるっとウェーブが強く巻き上がっている。
 変だな。今日は雨なんか降ってないし、霧も出ていないのに。

「………ちょっと、寒中水泳を、な」
「え?」
「風呂の準備、してくる」

 広い背中がそそくさと寝室に通じるドアの向こうに消えてゆく。呆気にとられて首をかしげていると、レオンがちょっと困ったような笑みを浮かべ、口を開いた。

「実は、ね……」

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