▼ 【4-14-2】ぱぱままスプラッシュ
月曜日の昼下がり。
一緒の家に住み、一緒のベッドに眠り、フロアこそ違うが同じビルに仕事場を構える二人が、そのどちらでもない別の場所でばったり顔を合わせた。
「お?」
「やあ」
弁護士と探偵、どちらも仕事柄、警察署に出入りする機会は多い。ましてディフにとってはかつての職場だ。
とは言え、まさか、こんな所で会うなんて。予想外のタイミングの遭遇に、驚くと同時に嬉しくなる。
相手も喜んでいるのがありありとわかる。さすがに抱きあってキスするのは遠慮したが……。
「昼はもう食べたかい?」
「いや、まだだ」
「それじゃあ、せっかくだからランチを一緒にとろうか」
「いいな。どこで食う?」
通り一つへだてた向かい側の食堂で……と言うのもあまりに味気ない。協議の結果、フェリービルディングに向かうことにした。
「車はどうする? 俺ので行くか?」
「アレックスと一緒に来てるんだ。彼には一人で戻ってもらおう」
「そうだな。どうせ同じビルに戻るんだし」
昼食をディフと一緒に取ると主に言われ、アレックスはどこかほっとした様子で……だがいつもと変わらぬ控えめな口調で
「かしこまりました」
とだけ答えたのだった。
(マクラウドさまと一緒なら、レオンさまも食事をとってくださる。楽しんでくださる)
事務所に戻る道すがら、頭の中で午後のスケジュールを調整する一方で明日からの出張を思い、有能執事は秘かにため息をついた。
(あのお方は、必要性を認識してるから食べるだけであって、食事に楽しみを見いだしてないのだ……)
ディフと離れている間、いかにしてレオンにまともな。単に人体を維持するのに必要な栄養を補給するだけの行為に終わらない、人間らしい食事をさせるべきか。
毎度のことながら、仕事以上にアレックスの悩みの種なのだ。
※ ※ ※ ※
赤いレンガの敷き詰められた広場を見下ろす、四角い時計塔。
ユニオン・スクエアとフィッシャーマンズ・ワーフのちょうど中間地点にあたるこの一帯には、オーガニック栽培の野菜やチーズ、スパイスの店が並び、旬の魚介類をたっぷり使った美味い店が軒を並べている。
大抵の店は外にテーブル席を用意しているが、さすがに真冬。利用している客は少なかった。
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「何を食べようか?」
「うーん……やっぱり、牡蛎だな。今が一番美味い季節だし」
「OK」
牡蛎を食べるのなら、Hog Island Oyster Companyがいい。
奥まったテーブルに席を取り、クラムチャウダーと生牡蛎をオーダーする。牡蛎にはきりっと冷やした辛口の白ワインがよく合うが、さすがにまだ仕事中なので自粛。
ほどなく、砕いた氷を敷き詰めた大皿に乗った生牡蛎が出てきた。下の殻をつけたまま、同心円状に盛りつけられている。
氷の上にはくし切りにしたレモン。牡蛎用のナイフも添えられている。
レオンはわずかに眉をひそめた。
「………自分で殻を剥かないといけないのが難点だね」
「心配するな。俺がおまえの分も剥いてやるから」
「……うん」
ぽってりとした丸い、樽状の柄のついた鋭い小さな刃。ディフは牡蛎剥き用のナイフを操り、鮮やかな手つきで生牡蛎の身を殻からはがして行く。
剥いたそばから取り皿に乗せ、仕上げにレモンを絞ってくれた。
「そら、好きなだけ食え」
「ありがとう」
「何だったらそっちのアサリの殻も剥くか?」
「いや、これぐらいの大きさなら俺でも何とかなるよ……加熱してあるし」
「そうか」
向かい合い、白い、ぷるんとした身をすする。噛みしめる度に口いっぱいに広がる『海のミルク』を、ディフは目を閉じてうっとりと味わった。こくん、と咽を鳴らして飲み込んで、口の端に跳ねた汁をちょろっと舌でなめ取り、なめた後を親指でくいっとぬぐう。
(やれやれ、まったく困った子だ……)
相変わらず、食べる仕草に妙な艶がある。
「……どうした、レオン?」
「一緒にランチとるのは久しぶりだな、と思ってね」
「あ……」
ほんのりと頬に赤みがさした。
「確かに、そうだな……」
目元を和ませるディフに穏やかに笑みを返しながら、レオンは秘かに胸の内でつぶやいた。
(二人っきりで食事するのも、ね)
レオンはずっとディフを見ていた。
固めのパンをちぎってチャウダーに浸し、最後の一滴まで満遍なく食べ終えるまで。一挙一動、どんな小さな仕草も、表情の変化も逃さずに。
食事を終えた後も離れがたく、駐車場に戻る前に少しだけ回り道をした。ゆるりと弧を描くようにして、ビルの周りを歩きまわった。
生牡蛎の店頭販売、新鮮なオリーブオイルの量り売り、キッチングッズの専門店。今日は月曜なので市場は立っていないがそれでも人通りは多い。
目の前の交差点を、あざやかな黄色いバスが走ってゆく。船に車輪をつけた『水陸両用』の観光バスだ。
「いつ見ても何つーか、強引な形だよな、あれ」
「……そうだね」
初めて見た時、彼は目を輝かせてはしゃいでいた。
『すげええ! レオン、レオン、あれ見ろよ! 強引な形だよな!』
「乗ってみるかい?」
「あ、いや……時間もないし。あれは見てるだけで十分、笑える」
何となしにバスの後を追うようにして歩き、フェリー乗り場までやって来る。
すぐ近くの桟橋の縁で、フェンスによじ登って5歳ぐらいの男の子が遊んでいた。一緒にいる母親は、もっと小さな弟をあやすのに気をとられていて、やんちゃな兄への注意がそれている。
「……あ」
「うん」
危ないな。
言葉は出さないものの、そろって同じ事を考えたその時だ。
男の子はバランスを崩し、すうっと落ちて……海に飲み込まれる。小さな体は、ほとんど水音も立てずに海面に吸い込まれてしまった。
周囲の大人は顔を見合わせ全員フリーズしている。
『どうする?』
『どうすればいい?』
自分が行くべきか。それともほかの誰かが行くのか? ここで出しゃばっていいものなのか?
今、目の前で起きたことに頭がついて行かない。何が起きたか認識しているはずなのに、体が動かない。動かせない。
凍りつく時間の中、いち早く上着を脱ぎ捨てて海に飛び込んだ者がいた。
「レオン!」
とっさにディフは周囲を見回した。
(焦るな。落ち着け。こう言った場所には必ず、救命用の浮輪が備え付けてあるはずだ……)
2mほど離れた柱にぶらさがった赤と白のストライプが目に入る。
(あった!)
飛びつき、硬い発泡スチロールでできた浮輪を柱から引きはがす。異変を察してフェリー会社の係員が飛び出してくる。ひた、と目を見据えて叫んだ。
「子供が落ちた。911へ、電話を!」
走りながら上着を脱ぎ、救命具にとりつけられたロープを手に巻き付け、飛び込んだ。
衣服の抵抗も、浮輪の浮力も無視して力任せに水をかく。水面に顔をつけた刹那、目の前で細かい泡が荒れ狂っていた。
(あそこだ)
泳ぎ着くと、今しもレオンが子どもをつかまえて浮かび上がった所だった。
「つかまれ!」
肩に腕をまわし、子供もろとも引き寄せ、浮輪につかまらせる。そのまま浮輪を支えにして岸に戻った。子供の顔が水にかからないように慎重に、速やかに。最後の数メートルは、ほとんどディフが二人を引っ張って泳いでいた。
岸辺から何本もの手が差し出される。ディフは比較的体のがっしりした男性の助けを借りて水から上がると、レオンと子供を引っぱり上げた。
「ディフ、この子、息をしてない」
「む」
仰向けに寝かせて顎を上げ、口を開いて気道を確保。
小さな口と鼻を、いっぺんに口でふさいで息を吹き込む。4秒に一回、強すぎないよう加減して、胸のふくらみに注意して……
「ん」
3回目で抵抗を感じ、口を離す。ひゅーっと咽を鳴らして息を吸い込むと、子供は盛大に咳き込み、少量の水を吐き出した。
「よし……」
「お見事」
その時になって初めて、救急車とパトカーのサイレンが近づいてくるのに気付いた。
若い母親が顔をくしゃくしゃにして息子をかき抱き、かすれた声で名前を呼んでいた。
気がゆるんだ瞬間、風と水の冷たさが急激に襲ってくる。
「っくしゅっ」
「お大事に」
じとっと横目でねめつけた。
「………無茶しやがって」
「君だって飛び込んできたじゃないか」
「俺は、訓練受けてるからな。頭ん中が凍りついても、体が勝手に動く」
(だからだよ、ディフ)
(俺が行かなければ君が真っ先に飛び込んでいた……)
「おまえ、すごいよ。よくとっさに動けたな」
「夢中で動いただけだよ」
「やろうったって、なかなかできるもんじゃないさ。大したもんだぜ、レオン?」
ぐしゃぐしゃと頭をなでられて苦笑する。
(できれば、君が追いかけてくる前に岸に戻りたかったんだけどなぁ……)
レオンは完全にディフの行動力と馬力を過小評価していた。
確かに彼は、子供を助けるためなら躊躇しない。だが、それ以上にレオンの為とあらば、普段の何倍もの力を発揮するのだ……。
※ ※ ※ ※
さすがに真冬の海は、冷えた。
ほどなく到着した警官と救急隊員から毛布と上着を借り、濡れたシャツを脱いでくるまった。
「お前も脱いどけ、マックス。風邪引くぞ?」
「いや、このままでいい。コーヒー、もう一杯もらえるか?」
レオンは黙って苦いコーヒーを口に含んだ。
『見せるのは、お前だけだ』
ディフが服を脱がない理由は、彼だけが知っている。背中のタトゥーを人目にさらしたくないのだ。
その後、警察署に移動して服を借りて着替えたが、ディフは慌ただしく体を拭いただけでシャワーも浴びようとしなかった。
「怪我してないか、レオン」
「ああ……。あ」
「どうした?」
「時計がだめになってしまったな」
「え、それ防水じゃないのか?」
「さすがに、海に飛び込んで泳ぐことまではカバーしていないよ」
「あー、まあ、そりゃそうだ」
「後で修理に出そう」
事情聴取を終えて廊下に出ると、助けた男の子と両親が待っていた。感謝の言葉にレオンは穏やかに微笑み、ディフは耳まで赤くしてしとろもどろにうなずいた。
だが、もじもじしながら男の子が前に進み出ると顔中笑み崩し、屈みこんで目線を合わせた。
「あ……りがと……」
「どういたしまして。寒かったろ」
「うん」
「こわかったか」
「………少し」
「だろうな。おじさんも怖かった」
「そうなのっ?」
「ああ。海は危ない。今度から気をつけろよ?」
「うん」
「よし、いい子だ」
その後、ネタを嗅ぎ付けて飛んできた地元のテレビレポーターを避けて、こっそり裏口から脱出したのだった。
※ ※ ※ ※
「そんなことが、あったんだ」
「ああ。大変だったよ」
(そうだよね、真冬の海に飛び込んだんだもの)
「レポーターが、とにかくしつこくてね」
「……そっちなんだ」
ドアが開いてぬうっとディフが顔を出す。
「風呂の準備、できたぞ」
「ありがとう」
バスルームに向かうレオンを見送りながらシエンは言った。
「ディフも入ってくれば? 夕飯の支度は俺がするから」
「いいのか?」
「うん……その方がいいと思う。冷えてるし、その……」
オーレがくん、くん、と足下をかいでいる。よく拭いたはずだが、洗ってはいない。下着などは海に飛び込んで、そのままだ。
「生臭い……か」
「ちょっとね」
ディフは恥ずかしそうに体を縮め、足早にリビングを出て行った。
(ちょっと言い過ぎたかな? でも、ああでも言わなきゃ、お風呂入ってくれないよね)
パステルグリーンに白地のストライプ。使い慣れたエプロンを着け、冷蔵庫を開ける。
「さてと、何作ろうかな」
二人とも体が冷えてるだろうし。そろそろ、ソーセージと野菜を使いきらないと古くなってしまう。
よし、ポトフにしよう。
体があったまるし、食べやすいし、野菜も肉もバランスよく取れる。
料理を始めると、オティアが台所に入ってきた。
二人で並んで黙ってじゃがいもを剥き、ニンジンを切る。キャベツとタマネギはざっくりと。カボチャは煮込んでる間に溶けてしまうから、最初はごろんと大きすぎるくらいでちょうどいい。
いつものパン屋で買ってきたパンを人数分切り分ける。これは食べる直前に軽くトーストして……もう一品ぐらいあった方がいいかな。
そうだ、トマトとレタスでサラダにしよう。野菜が重なるけど、生野菜と温かい野菜だから口当たりも違うし。彩りも違うから大丈夫だよね。
茹でた小エビも散らした方がいいかな?
オティアがちらっとこっちを見てる。
「うん……やめとく」
大きめのクルトンを入れて、粉チーズをふってシーザーサラダにした。
ソーセージにキャベツ、タマネギ、カボチャにニンジン、じゃがいもをゴロゴロ入れて、あっさり塩とコンソメで味付ける。
さらに、隠し味にちょこっと味噌を入れてみた。味に深みが出て具が柔らかくなるとサリーに教わったのだ。
あれは味噌汁を作る時の話だったけど、ポトフも基本的には同じ、スープで野菜を煮込んでるんだから、きっと大丈夫だろう。
予想外のハプニングに、結局、手袋のことは言わずに終わってしまった。
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