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ローゼンベルク家の食卓

【4-14-3】まま、寝込む

2009/11/22 2:39 四話十海
 
「それじゃ、行ってくるよ」
「ああ、気をつけてな」

 翌朝のキスとハグは、いつもより長かった。
 今日からレオンはサクラメントへ出張、帰ってくるのは木曜日だ。

 レオンと双子を送り出し、朝食の後片づけを始める。蛇口のお湯はなかなか温度が上がらず、最初はひやりとした。その途端、背筋にぞわっと寒気が走る。昨日、海に飛び込んだせいか。心なしか咽の奥もひりひりする。

 参ったな。一人になって気が抜けたか?

 速攻で湯を沸かして熱いレモンティを流し込み、いつもより厚着をして家を出た。

 空気が乾燥しているせいか、やたらと鼻水が出る日だった。またこんな時に限って飛び込みでペット探しの依頼が舞い込んでくる。こればかりは即断即決、素早さが命運を決める。
 オティアと二人で寒空の中、迷子の猫を探して歩き回った。骨の芯まで冷えきったが、どうにか空き家の屋根裏で震えている猫を確保することができた。

「よく、あそこにいるってわかったな」
「……ん」
「っくしゅっ」

 盛大にクシャミが飛び出す。ほこりっぽり場所に潜り込んだからか。それとも血糖値が下がってるのか……うっかり昼飯も食わずに歩き回ったせいかと思い、事務所に戻る途中でデリに寄った。

「……」

 俺が自分の分を選ぶ間、オティアはじっと手元を見ていた。

「それで、いいのか?」
「ん? ああ、今日は……な」

 薄い白パンに挟んだ野菜とチーズのサンドイッチは確かに、いつもの俺の基準からすれば少なめだ。

 いざ食おうとするとどうにも胃がむかついて、サンドイッチを口にしてもなかなか咽を通らない。オティアが食べ終わってもまだ食べきらず、最後は無理やりコーヒーで流し込んだ。
 熱いコーヒーのおかげですっきりしたが、今度は逆に頭がぼーっとして集中力ががた落ちになってしまう。
 事務所に戻り、デスクワークに取り掛かっても単純な入力ミスが相次ぎ、何度も書類を作り直す羽目に陥った。

 これは、いかん。

「……少し早いが、今日はこれであがりにしとくか」
「そうだな。その方がいい」

 珍しく、はっきり同意を示された。

「……ディフ」
「ん、どうした」
「歩いて帰った方がいいんじゃないか?」

 運転するのは危ないってことか。ガタガタになっているのを見抜かれたような気がした。

「いや……大丈夫だ」

 もっと酷い状況で、持ちこたえた事はある。

 ハンドルを握ってる間は気が張りつめているおかげでどうにか持ちこたえたが、家に戻ったら戻ったでがっくりと力が抜ける。
 この寒い中、服の内側にじっとりと妙な汗をかいていた。湿ったシャツが肌にはりつき、冷たいやら、気色悪いやら。速攻で着替えた。

「ただいま……」
「お帰り」

 俺の顔をひと目見るなりシエンの顔色が変わった。

「大丈夫?」

 参ったな。そんなに俺、景気の悪い顔、してるんだろうか。
 なけなしの気力を振り絞り、笑顔で答える。

「ん……ああ、大丈夫だよ」

 ともすれば空中に漂って行きそうな意識を引き締め、夕飯の支度に取り掛かったものの。スープの味見をしたオティアが一瞬硬直し、何とも微妙な表情でこっちを見た。

「どうした?」

 続いて味見をしたシエンがぎょっとした顔をした。

「ディフ、これ、すごくしょっぱいよ?」

 トマトと根菜、豆のスープ。今まで何度も作ってきたはずなのに。

「……すまん」

 慌てて水を足す。いつもより鈍くなっているようだ。味覚も、嗅覚も。

「シエン」
「なに?」
「ちっとばかり鼻がつまってるみたいだ。マカロニチーズの味付け、任せていいか?」
「うん……」
「心配すんな。念のためだ、な?」

 食事の時は部屋に入って来るなりヒウェルの奴まで言いやがった。

「大丈夫か、お前」
「ああ」
「それだけしか食わないのかっ?」
「ダイエットしてるんだよ」

 決死の覚悟で放ったジョークは空しく滑り、気まずい沈黙が漂った。
 食卓を見回してぼんやりと想う。
 俺は今日一日で、ここにいる全員から言われてしまったのだな。

『大丈夫?』って。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 翌朝。
 シエンは奇妙な感覚に悩まされて目を覚ました。胸の上に何か重たいものがのしかかって来るような、得体のしれない圧迫感。
 それは実体こそ伴わないものの、周囲の空気に溶け込み、ひしひしと押し寄せてくる。
 今、この瞬間も。

(何だろう、この感じ)

 急いで着替えを済ませ、部屋を出る。
 とにかく、自分以外のだれかに会いたかった。顔を見て、声が聞きたかった。一秒ごとに重苦しさが強くなって行く。『一人』でいると、このまま押しつぶされてしまう。

 居間に入ると、ほぼ同時に境目のドアが開いてオティアが入ってきた。
 キッチンに人の気配はない。ディフはまだ起きていない。

(寝坊?)

 その可能性もある。だが、クリスマスの翌朝とは、明らかに空気が違っていた。
 双子は何も言わず、ただちらりと視線を交わした。
 いつもなら、二人は決してレオンとディフの眠る主寝室には近寄らない。それがこの家での暗黙のルールだった。だが、今日はレオンはいない。

 ほんの少しためらってから二人はドアを開け、主寝室に通じる廊下に足を踏み入れた。
 重苦しい気配が強くなる。
 足早に廊下を進んだ。レオンの書斎の前を通り抜け、未知の領域へ。一番奥の大きなドアまで進む。

 シエンは手を伸ばして、そっとノックした。
 今、自分たちが感じている不吉な予感が全部、気のせいであってくれればいいのに。
 すぐに返事が返ってきてくれたら。『あー………すまん、寝過ごした』
 そしてドアが開いて、くしゃくしゃの赤毛がぬっと顔を出し、恥ずかしそうに言ってくれるんだ。『おはよう』って。

「………」

 返事はなかった。鍵もかかっていなかった。

「ディフ?」

 きぃ、とドアを開ける。部屋の中は薄暗い……カーテンも開けていなかった。
 奥のキングサイズのベッドの上で何かがうずくまっている。体を丸めて、羽毛布団と毛布の塊の中にちぢこまって。
 ぴくりとも動かない。

 震える足を踏みしめて、ベッドのそばに歩み寄る。枕の上に乱れた赤い髪が広がっていた。
 恐る恐るのぞき込む。
 
 kazemama.jpg
illustrated by Kasuri
 
 歯を食いしばり、眉の間にしわを寄せ、目を閉じてぐったりしていた。

「ディフ……」
「う……」

 よかった、息、してる!

 うっすらと目が開いた。

「シエン……なんで、ここにいるんだ?」

 一度水に浸けて放り出した新聞紙みたいな、くしゃくしゃにかすれた声だった。しかも、今にも消えそうに、か細い。
 
「あ……もう、朝………なのか」
「どうしたの」
「夜中に、妙に、さむくて」

 肌に赤みがさし、左の首筋には火傷の痕がくっきりと浮かび上がっている。手を伸ばし、額に触れた。

(熱い!)

 きっと一昨日、海に飛び込んだせいだ。昨日もずっと調子が悪そうだった。

 施設にいた頃、年下の子が熱を出したのを看病したことがあった。何があったかは大体、判断できた。
 だけど、今、一番頼れるはずの人がこんな風にぐったりしてるなんて!

「熱……出てる」
「あ……道理で寒いと思ったんだ……」

 がたっと廊下で人の動く気配がして、ばたばたとせわしない足音が遠ざかる。

「オティア……どうしたんだ」
「アレックス呼びにいったんだと思う」
「そ……だな……今朝は……アレックスに飯、頼んで」
「そうじゃないでしょ!」
「ん……?」

 だめだ、この人!
 俺とオティアのことは過保護なくらい世話焼いてるくせに、自分のことになると、大ざっぱって言うか、無頓着なんだから!

「熱があるんだから、今日は大人しく寝てて。もうすぐアレックス来るから、薬もらって、ちゃんと飲むんだよ?」
「あ……う……うん」
「食事とか、買い物のことは心配しなくていい。俺とオティアで何とかするから、きっちり自分の体治して。いいね?」
「……………わかった」
「洗面所使うよ」
「うん」

 ぱたぱたとバスルームに駆け込み、タオルを取り出す。水にひたして、きゅっと絞って寝室に戻り、ぺたりとディフの額に乗せた。

「あぁ……冷たいな……ありがとう」

 目を細めてふーっと息を吐いた。眉の間のしわが薄くなる。

「もしかして、頭痛い?」
「ちょっとな……」

 つまり、かなり痛いってことだ。

「のど乾いてる?」
「……うん」
「待ってて、水持ってくる」

 キッチンに引き返し、冷蔵庫からペットボトル入りのミネラルウォーターを取り出した。
 コップあった方がいいかな。それともストロー……いいや、このまま持ってゆこう。

 居間に行くと、アレックスを連れてオティアが戻ってきた所だった。

「シエンさま」
「アレックス!」

 ああ、よかった、来てくれた。
 ふっと張りつめていたものが抜けた。半分夢を見ているような気持ちでペットボトルを差し出した。
 
「これ……ディフに、お水……」
「ああ、そうですね。水分はまめに補給した方がいい」

 うやうやしく水を受け取ると、有能執事はおだやかな笑みを浮かべた。

「もう、大丈夫ですよ。すべてお任せください」
 
 
 ※ ※ ※ ※

 
「……102°F(およそ38.8℃)」

 体温計を確認し、アレックスは厳かにうなずいた。

「……風邪を引かれたようですね」
「うん……昨日、一昨日と冷えたからな。少し吐いたが、下痢は無い。まだちっとばかし胃がむかむかするが……」
「なるほど、胃が弱っておられるようですね」

 アレックスは持参したプラスチックケースから、小さなボトルに入った錠剤を選び出した。それからもう一種類、粉薬を。

「こちらのお薬をお使いになるとよろしいでしょう。事務所の方は私にお任せください」
「すまん、世話かけて」
「いえ。これが、勤めでございますから……それでは失礼いたします」
「あ……アレックス」
「はい?」
「レオンには内緒にしといてくれ。俺が寝込んだ、なんて知ったらあいつ、裁判放り出してとって返して来ちまう」

 アレックスは秘かに主の反応を脳内でシミュレートし、深々とうなずいた。そう、確かにそれぐらいはやりかねない。
 レイモンドさまが一緒だが、あの方は心根が優しすぎる。レオンさまを止めることはできまい。

「熱が下がったら、俺から伝えるから」
「かしこまりました」

 一礼してその場を下がり、居間に戻る。
 金髪の双子がそろって待っていた。わずかに表情をくもらせて。
 オティアの足下には、白い子猫がきちっと後足を折り畳んで座っていた。アレックスが入って行くと立ち上がり、ぴん、としっぽを立てた。

「ディフは?」
「風邪を引かれたようです。幸い、深刻な症状はないようですので、お薬をお出ししておきました」
「……そう」
「滅多にないことですから、驚かれたでしょう。元々丈夫な方ですから、心配はありませんよ」
「うん………あ」

 玄関の呼び鈴が鳴る。ディーンとソフィアだ。いつものバスケットに、サンドイッチを入れて持ってきてくれた。みずみずしいオレンジと、つやつやの赤いリンゴも添えて……。

「おはよう、シエン、オティア」
「おはよう」
「おはよう」
「朝ご飯、まだなんでしょう?」

 いつの間に作ったんだろう。クロワッサンにレタスとチーズとトマトを挟んだサンドイッチが二人分。
 保温カップに入ったスープまで。
 たちまち、オーレが目を輝かせてのびあがる。

「にゃにゃーっっ」
「あらあら、どうしちゃったの?」
「クロワッサン、好きだから」
「まあ。グルメなのね」
「みゅーっ、みゅーっ、みゅーっ」
「はいはい、それじゃ、一口だけね」
「にゃっ」

 クロワッサンのおすそ分けをもらってオーレはご満悦。にゃぐにゃぐつぶやきながら平らげ、くしくしと毛繕いする猫の一挙一動を、目を輝かせてディーンが見守っていた。
 ぺったりと床に寝そべって。

「ディーン。そろそろ行こうか。幼稚園に遅れてしまうよ」
「はーい」
「それじゃ、アレックス、ディーンをお願いね」
「ああ。行ってくるよ」
「いってきまーす」
「え?」

 どうやら今日は、アレックスがディーンを幼稚園に送って行くらしい。
 ソフィアは毎日、実家のパン屋を手伝っている。出勤する途中でディーンを幼稚園に送ってゆくのがオーウェン家の習慣のはずだった。

 息子と夫を見送り、てきぱきとサンドイッチと切り分けたオレンジを食卓に並べると、ソフィアはにっこりと笑った。

「さて、と。今日は二人とも、どうするのかしら?」
「俺は、事務所に。今、レオンいなくて忙しいし……」
「そう。オティアは?」
「ここに、いる」
「そうね、所長さんがお休みですものね」
「ん」

 こっくりとうなずいた。

「それじゃ私は下に居るから。何かあったら、いつでも声をかけて! すぐ、飛んでくるから」
「ありがとう」
「食べ物とか、ジュースとか、足りないものがあったら、遠慮なく言ってね」
「えーと、それじゃあ………」

 シエンは頭の中で昨日の記憶を反すうした。冷蔵庫に何が残っていたか。食料、調味料、日用品。ストックの切れていたものは無かったか。
 それと、病気の時に食べるもの。去年、熱を出した時のことを思い出す。あの時、何を口にしただろう。
 バニラアイスと、オレンジジュース、それから……。

「お米、ある? できれば小粒の」

 ソフィアはきょとん、として目をぱちくり。

「え、お米に、そんな、区別とか……あるの?」
「うん。小粒のお米を、10ポンド」
「……………ごめんなさい」
「だよね、家は男ばっかり五人分だから……」

 一度に買う分量が、全然違うのだ。

「お米はないけれど、パンなら任せて!」
「ありがとう」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 遅めの朝食の後でソフィアは部屋に戻り、シエンはバイトに行った。

 一人残されたオティアは居間を見回し、考え込んだ。
 予想外の休日。いったい何をして過ごそうか……。
 とりあえず読みかけの本がある。ホームスクーリングの課題もある。
 時々はディフの様子を見に行った方がいいだろう。
 アレックスは仕事中だし、ソフィアは遠慮して寝室までは入ってこないだろうから……。

 熱が上がってないか。苦しんでいないか確認して。額の濡れタオルを交換し、水を補給する。
 うん、大丈夫だ。きっとできる。

「ん?」

 ひゅうっとしなやかなしっぽで足を撫でられる。
 お手伝いする気満々と言った顔つきだ。でもレオンの書斎と寝室には、オーレは入れない。

「おまえは、いいんだよ」

 顎の下をくすぐると、ピンク色の口を開けて甲高い声で「にゃっ」と鳴いた。

 一度自分の部屋に引き返し、本とノートを持って再び本宅へ。リビングの床のラグの上にクッションを置き、背もたれにして腰を下ろす。
 待ってましたとばかりにオーレが膝の上に入り込み、すっぽりと収まり、丸くなった。

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