▼ 【4-14-4】音の出る円盤
シエンは迷っていた。
朝、事務所に行ったら何も言わないうちにデイビットに言われた。「今日は定時で上がっていいよ」と。
アレックスがちゃんと伝えておいてくれたらしい。
五時きっかりにバイトを終えて、帰り支度をしているとアレックスに声をかけられた。
「シエンさま。よろしければ、ソフィアも一緒に……」
「ありがと。でも、大丈夫だから」
「左様でございますか」
ソフィアには朝ご飯を食べさせてもらったし、その上仕事まで休ませてしまった。これ以上、世話をかける訳には行かないよね。
今日は水曜、買い出しの日。いつものショッピングセンターで、帰りがけに食料を買う。
だけどいつもと違うのは、一人で行かなければいけない、と言うことだ。ディフもいない。オティアは留守番。
果たして、一人でちゃんとできるだろうか?
それ以前に、もっと物理的な問題があった。今日は車がないからケーブルカーで行かなければいけない。
また、こんな時に限って申し合わせたみたいにかさばる物のストックが切れていた。
米と、パスタと、卵に牛乳、ソイソース。それからオレンジジュースも必要だ。自分で作るにしたってオレンジは買わなきゃいけないし。
(うーん……)
かなりの重さになりそうだ。果たして自分一人で運べるだろうか?
今からでも遅くはない、ソフィアに来てもらおうかな。
考えていても始まらない。とりあえずちょっと休憩、コーヒースタンドで一息入れよう。そう思っていつものスタンドに入ると。
「やあ、シエン!」
「あ……」
ひょろりと背の高い金髪眼鏡が手を振ってきた。
そういえば、言っていた。水曜日は非番なんだって。背が高い上に、着ている服が白っぽいから遠くからでもすぐわかる。今日はアイボリーのフリース。
(この人、いつも白っぽい服ばかり着てるのかな……)
※ ※ ※ ※
非番の日、いつもの店にコーヒーを飲みに行った。自宅と勤め先のちょうど中間地点でケーブルカーを降りる。
住んでいるアパートのそばにも同じチェーン店のスタンドがあるけれど、ここに比べると規模が小さく、軽食メニューの品数も少ない。
何より、決定的に欠けてる要素がある。
「やあ、シエン!」
「あ……」
彼の存在。
「はい、これ君の手袋」
洗濯には慣れている。どんな汚れにどんな方法を用いればいいのか、とことん調べた。
おかげで、コーヒーのしみも、シロップもきれいに落とすことができた。
あくまで、毛糸のふんわりした質感を保ったままで。(ここでゴワゴワになったりガサガサになったりしたら意味が無い!)
「わざわざ持ち歩いてたの?」
「うん」
「いつ会うかわかんないのに?」
「うん」
シエンはほんの少し眉を寄せ、目を伏せた。
「家、知ってるんだから、連絡くれればいいのに」
「……いいの?」
「いいけど」
「じゃあ、次はそうするよ」
「参ったなあ、コーヒーかける気満々?」
「ごめん、かけないように気をつける」
「うーん……」
腕組みして、考えてる。次にどんな言葉が来るんだろう。怒られるかな?
とくとくと、肋骨の内側で何かが振動している。心拍数が上がってるんだ。こんな、他愛の無い話題。たかがコーヒーこぼすのかけるのって話をしてるだけなのに!
「かけられても、別にいいけどね」
彼が笑った。
肩から、腕から力が抜けて、ひそめられていた眉がふわっとほどけて開いてゆく。
おそらくそれは初めて見る、本当の笑顔。とまどいでもなくごまかしでもない。分厚く隔てられた綿の壁をすうっと通り抜け、指先が届いた。
触れた。
すべすべして暖かい、オレンジ色の光の花に……。
じーっと見つめた。この瞬間をいつまでも心に刻み付けたかった。
「………………………」
「……なに?」
口がほころぶ。目もとが緩む。ごく自然に自分も最上級の笑顔で答えていた。
「うん………すごく、いいことがあった、今」
「?」
小鳥みたいに首をかしげている。紫の瞳が見返してくる。
何て可愛いんだろう。
何て愛らしいんだろう。
「すごーく、いいことがね」
その瞬間、過去に繋がる扉が音を立てて閉まる。二度と開くことはないだろう。
もう、オレ、君のことしか見えないよ…シエン。
※ ※ ※ ※
しばらくコーヒーをすすってから、おもむろにもう一つ、用意してきた物をテーブルに載せた。
平べったいケースに入ったCDが一枚。
「どうしたの、これ?」
「コーヒーかけちゃったおわびって言ったらアレだけど。パソコンの音楽データ整理してたら、君の好きそうなの何曲か見つけたんだ」
「ふうん?」
「CDに書き出してみたんだ。普通にプレイヤーで聞けるから」
「えっと、録音したってこと?」
「うん、そんな感じ」
「ん……でも俺そういうの持ってない……し」
「センパイから借りれば?」
「レオンのオーディオセットならある……けど」
シエンはそっとCDケースに手をそえて、俺の方に押し戻してきた。
「やっぱり、いいや。あんまし音楽聞かないし」
「そっか……」
うん、何となく、予感はしていた。ここは大人しく引き下がろう。CDを受け取り、元通りしまい込んだ。
ちらりと彼が時計を見ている。もう帰るんだろうか。でも…いつもと比べてちょっと時間が早い。
問いかけるような視線を向けて首をかしげる。
「ディフが寝込んでるんだ」
「センパイが?」
「鬼の霍乱っていうか、滅多にないんだけど。一昨日、海に飛び込んだんだ」
「ええっ!」
「フェリー乗り場で、子供が海に落ちたんだって」
「あー……そりゃ、無理ないや」
目に浮かぶようだ。考えるより先に体が動いていたにちがいない。
「それじゃ、今日はこれから買い物行くの?」
「うん、ごはんつくらないと」
「君が作るのか。すごいなあ………」
あの家で夕食を食べるのは全部で五人、男ばかり。ざっと考えただけで、かなりの量になるだろう。
全部、この子が一人で運ぶんだろうか。車もなしに……
(無茶だ!)
「あの、オレも一緒に行こうか?」
「え?」
「荷物、運ぶよ」
「………」
金色の髪がさらりと揺れる。OKってことだ。
「ついでだから、夕飯食べてく?」
さらりと言われた。
「うん、食べてく」
迷わずさらりと答えた。
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