▼ 【4-14-7】HはハンスのH
シエンがリビングにもどると、微妙に空気が固かった。
オティアとエリックは微妙な距離を保ってソファに腰かけ、黙って紅茶をすすっている。露骨に顔を背けてこそいないが、視線がかみ合うこともない。
シエンの顔を見て、二人とも程度の差はあれ、ほっとしたような表情をした。
「ディフは?」
「ん、起きてた」
「そう……か」
オティアの肩からほんの少し力が抜ける。
「ヒウェルから、何か連絡あった?」
「別に」
「そっか。じゃあいつも通りに作ればいいかな……」
「Hも招待したの?」
「ううん。毎日食べにくるから。夜は」
「だから5人分、なんだ……猫みたいだね」
双子が顔を見合わせる。ちょっと微妙な雰囲気だ。
「………猫」
「に」
かぱっとオーレが口を開け、鳴いた。ひょっとしてcatって単語を聞き分けてるんだろうか?
「どっちかっていうと、あいつは……」
「犬、かな?」
オーレがまた、小さな声で『みゅ』とつぶやいた。
「何か手伝うこと、ある?」
「それじゃあ……」
頼まれたのは、オーレのお守りだった。
「キッチンに入って来ないよう、相手してて」
「わかった」
「アレを調理してると、すごいハイテンションで暴れるから」
「アレって?」
シエンは声を潜めてささやいてきた。
「殻のあるシーフード。背中が曲がってて、Sのつくやつ」
「ああ!」
shrimp(エビ)か。
※ ※ ※ ※
双子はキッチンで料理を始め、白い子猫と二人、リビングに残される。
「さーて、何がお望みかな?」
オーレは赤い何かをくわえて、さっそうとした足取りで近づいてきた。足下にたどり着くと、ぽてっと落としてじっとこっちを見上げた。
拾い上げてみると、それはフェルト地をかっちり縫い固めた猫用の玩具だった。
「エビ?」
「にゃっ」
徹底してるな。真ん中を押すと、ぱひゅっと笛が鳴る。ぷくっとオーレは鼻面を膨らませ、青い瞳を期待に輝かせる。
「OK……」
ぽうんっと放り投げた。赤いぬいぐるみが軽く床にバウンドする。
鈴の音も高らかに白い稲妻が走った。瞬く間に前足で押さえ込み、空中に放り上げる。すかさず後足で立ち上がって前足でキャッチ、口にあぐりとくわえて駆けてくる。
「うわあ、お見事! 君って本当に優秀なハンターなんだね」
ぽてっと足下にエビを落とすと、オーレは得意げに胸を張った。
「にゃーっ」
「はいはい、もう一回ね」
まさかその後、30分もエビ投げに付き合わされるとは、ちょっと予想外だったけど……可愛いからOK。そうとも、実家の巨大猫に比べれば!
やがて、キッチンからいいにおいが漂い始める頃。
「腹減ったー。今日の飯、な……うぶっ?」
何度目かに放り投げたエビが、入ってきた人物の顔にびしっと命中。
「…………」
「あ、犬のひと」
「いきなり失礼な言い方だね、おいバイキング!」
「にゃっ」
「……はい、どうぞ」
オーレのリクエストに答えていそいそとエビを投げてる。さっきオレが顔面にぶつけた事についてはお咎め無し。猫がお望みなのだから仕方ないって感じであきらめているらしい。
気配に気付いたのか、オティアがキッチンから出てきた。
「よぉ」
「……」
ひと目見るなり、Hは顔中笑み崩した。オティアはと言うと、目を合わせた瞬間ぴくっと小さく身じろぎして、わずかに目線をそらせて一時停止。まばたき一回分の沈黙の後、小さくうなずき、何事もなかったようにキッチンに戻って行く。
Hは首をかしげてキッチンの方を見守っている。何だか後ろで束ねた黒髪がしっぽに見えてきたぞ。
うん、確かに犬だ。
やがて、シエンがトレイに載せたスープカップを運んできた。中には、白いとろっとしたお米のスープが湯気を立てている。
何かたんぱく質も加えられているようだ。このにおいは、ホタテかな。
あれが「おかゆさん」……センパイの分だろう。
「ご飯、できてるから」
「了解」
いそいそと奥に運んで行く姿を見送りつつ、Hが口を開いた。
「あれ、ままはベッドか」
「寝込んでるそうですよセンパイ」
「なるほど……」
ウォールナット(クルミ材)のどっしりした食卓には、既に夕食が並んでいた。
小エビを散らしたサラダにミネストローネ、前菜にマグロのカルパッチョ。
主食のパスタはペペロンチーノとカルボナーラの二種類。真ん中の大皿に盛りつけられ、トングが添えられている。好きな味を食べたいだけ、皿に取って食べろってことらしい。
うん、確かに男ばっかりの食事だ。
床の上には、猫の皿が置かれている。オーレが目を輝かせて飛んでゆき、顔をつっこんだ。ほどなく、ぴちゃぴちゃと舌を鳴らす音が聞こえてくる。
「にゃぐ、にゃぎゅぎゅぎゅ、にゃる、にゃう……」
「あ、何か言ってる」
「エビだから、な」
「美味しいってこと?」
「多分」
何となく互いの間合いを計りつつ頑丈な椅子に腰をおろし、一呼吸置くと、Hは片手でひょいと眼鏡の位置を整えた。
「それで……一体全体どーゆー事情でお前さんがここにいるんだ、バイキング?」
オティアがぼそりとつぶやいた。
「……何で、バイキングなんだ」
「ああ、こいつの爺さんが北欧出身なんだ。ノルウェーだっけ?」
「デンマークです」
「そっか、デンマークか……あ」
何か、思いついたらしい。
「なーなーエリック。北欧では『おいハンス・エリック』って呼ぶと、男性の半分が振り向くってほんと?」
「まさか。そこまでじゃないですよ!」
「そーなの?」
「だいたい三分の一くらいかな」
「え……ハンス?」
戻ってきたシエンが目を丸くしている。ずっとエリックで通してきたからな。
「そう、こいつのフルネーム、ハンス・エリック・スヴェンソンっての」
「何で、エリックって……」
「他に鑑識にもう一人、ハンスが居るんだ」
「オレより先に入ってた人でね。それで、センパイに言われた。『ハンス2号か、エリックどっちがいい』って」
「それで、エリックなんだ……」
「うん。たまに忘れそうになるよ。自分のイニシャルがHだってことをね」
「そーだよな、よくよく考えるとお前もHなんだよなー」
そのくせ、何だって人をH呼ばわりするのか? 言外にそう問われた気がした。負けずにこちらもひょいと眼鏡を整えつつ、きっぱり言ってやった。
「あなたの名前は、発音しづらいんですよ、ヒウェル。つづりも厄介だし」
「そうかね、H」
「そうですとも、H」
「……そっか、ハンスって言うんだ……」
シエンは首をかしげて、ぱちぱちとまばたきしている。
「うーん、やっぱりピンと来ないな。エリックで慣れちゃったし」
「……だよね。オレもそっちのが自分! って感じがするし」
全員が食卓に着いたところで、夕食が始まる。
オティアとHは迷わず、ペペロンチーノを取っていた。二人とも、辛い方が好きらしい。こっちはこっちでカルボナーラ一択。
「ああ、一週間ぶりのあったかいご飯だ……」
皿から立ち上る湯気に思わず目がうるむ。
「それって……」
「先週、来た時以来、まともな飯食ってないってことか」
「……まあ、そう言うことになる……かな?」
本格的に切羽詰まるとレトルトのスープヌードルですら作る暇が惜しくなり、そのまま出してかじれるものばかり食べる。
コーヒーも入れてから飲むまでに時間が経過するから、大抵、アイスより少しマシなレベルになっている。
「まさか、ずっとバニラアイス食べてたの?」
「うん。あと、プロテインバーとか、リンゴにクラッカー、たまにドーナッツも」
「うーわー、何、その既視感あふれる食生活」
「ヒウェルといい勝負だな」
「おいっ! 俺は少なくとも夕飯はまともに食ってるだろう!」
「…………」
じとーっとオティアににらまれ、Hはたちどころに小さくなった。
「すみません、食わせていただいてます」
「この頃は何だか、牛乳も胃にもたれるようになっちゃって。ラテ頼むときも、ソイミルクに切り替えてる」
「そーいやお前さん、必ずコーヒーにミルク入れる派だったよな」
「ストレートだと、胸焼けしませんか?」
「全然?」
そう言えば彼はいつでもブラックだった。それこそ胃壁が溶けそうなくらいに、とびっきり濃いのを。
「どっちもどっちだ……」
オティアが肩をすくめて、小さくため息をついた。
「いただきます」
物も言わずにサラダに集中。小エビとサラダ菜、ブロッコリー、トマトにキュウリ。矢継ぎ早に口に入れ、咀嚼して飲み込む。
ぷりっとした歯触りと口の中に広がる濃密な海の香りに没頭し、食べ終わってはっと気付くと、半分あきれたような目で見られていた。紫の瞳は二組、黄色みの強い茶色の瞳が一組。
「あー……その……えっとぉ……」
Hにぽん、と肩に手を乗せられ、妙に慈愛に満ちたまなざしを向けられる。
「そんっなに腹へってたのか、バイキング」
「そうみたい、ですね、はは、ははは」
「おかわり、持ってこようか?」
「うん、ください」
「そんなにエビが好きかい、おまえさんは」
「ええ、好きですよ。毎日食っても飽きない」
二皿目のサラダは、さっきより小エビの量が多かった。ゆっくり味わいつついただいて、次に手元の皿に取り分けたカルボナーラを口に運ぶ。
既製品のソースより、ずっと、ずっと美味しかった。とろりとして、こくがあるのに、しつこくない。
「あ……もしかしてこれ、ヨーグルト入ってる?」
「うん。ちょっとだけ入れると口当たりが良くなるんだ」
「そっか……すごく、美味しい」
「たくさんあるから、いっぱい食べて」
「うん! ありがとう……」
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