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ローゼンベルク家の食卓

【4-3】hardluck-drinker

2008/09/15 23:15 四話十海
  • 何をdrinkするかと言えばこの場合はアルコールを指します。
  • レオンにしろディフにしろヒウェルにしろ、いっぱしの酒飲みですが今回飲んでしまうのは……。
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【4-3-0】登場人物紹介

2008/09/15 23:16 四話十海
  • より詳しい人物紹介はこちらをご覧下さい。
【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
 フリーの記者。26歳。
 黒髪、アンバーアイ、身長180cm、細身(と言うか貧弱)
 フレーム小さめの眼鏡着用。適度にスレたこずるい小悪党。
 オティアに想いを寄せるが告白段階で激しく自爆。
 最近、夕飯の時にしか出番の無くなってきた本編の主な語り手。

【オティア・セーブル/Otir-Sable 】 
 不思議な力を持つ双子の片割れ。16歳。
 ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
 極度の人間不信だがヒウェルには徐々に心を開きつつあった、が。
 告白の際に著しく心を傷つけられ、今はひたすら『空気』扱い。
 観察力に優れ、また記憶力は驚異的に良い。
 ポーカーフェイスの裏側で実は意外に心揺れ動いている。
 ディフの探偵事務所で助手をしている。とても有能。
 最近、秘かに体調を崩し、どんどん悪化させている。

【シエン・セーブル/Sien-Sable】
 不思議な力を持つ双子の片割れ。16歳。
 外見はオティアとほぼ同じ。
 オティアより穏やかだが、臆病でもろい所がある。
 また素直そうに見えて巧みに本心を隠してしまう一面も。
 ディフになついている。
 自覚のないままヒウェルに片想いしている。
 その一方で、オティアとのこじれた仲を取り持とうとする複雑な立ち位置に。
 レオンの法律事務所で秘書見習いをしている。
 体調を崩して行くオティアのフォローで心身ともに疲弊中。
 
【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】 
 通称レオン
 弁護士。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ライトブラウンの髪と瞳、身長180cm、着やせするタイプで意外と筋肉質。
 一見、温厚そうな美人さん、実は腹黒。実家は金持ちだが家族への情は薄い。
 ディフと双子に害為す者に対しては穂高の槍の穂先並みに心が狭い。
 ヒウェルに対してはとことん容赦無い。
 ディフの旦那で双子の『ぱぱ』。
 無防備に色気をだだ流しにする奥さんに秘かに苦労が絶えない。
 今回家庭内で全力で本気を出す。

【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】 
 通称ディフ、もしくはマックス。
 元警察官、今は私立探偵。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
 頑丈そうな体格だが無自覚に色気をふりまく困った体質(ゲイ相手限定)。
 裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
 レオンの嫁で双子の『まま』。
 子育ての苦労は尽きない。

【アレックス/Alex-J-Owen】
 レオンの秘書。もともとは執事をしていた。
 有能。万能。
 レオンさまと奥様、双子のため日々がんばる。

【結城朔也】
 通称サリー。カリフォルニア大学に留学中の日本人。
 ディフやヒウェルの同級生だったヨーコ(羊子)の従弟。
 サクヤという名が言いづらいためにサリーと呼ばれているが、男性。
 動物病院では水色の白衣を着ている。
 
【結城羊子】
 通称ヨーコ、もしくはメリィさん。
 サリー(朔也)の従姉。
 高校時代、サンフランシスコに留学していた。
 ディフやヒウェルとは同級生。今もメールや電話でやりとりをしている。
 現在は日本で高校教師をしている。
 ヒウェルの天敵。


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【4-3-1】飲酒発覚

2008/09/15 23:17 四話十海
 ひた、ひた、ひたり。

 汗が流れている。
 冷たい汗が。

 上からも滴り落ちて来る。
 生臭い、獣の臭いのする汗が。

 組みしかれた体の下で、金属が軋る。ぎいぎい、ぎしぎしと耳障りな音を立てて泣き叫ぶ。

(ああ、五月蝿いな)
 
 生臭い汗をまとわりつかせた大きな手が、足を押し広げる。薄暗い部屋の中、無機質な光が閃いた。

 カシャリ。
 カシャ。
 カシャッ。

 五月蝿い。
 五月蝿い。
 五月蝿い。

 ああ、嫌だ。いっそ、何もかも消えてしまえばいい。

 獣の臭いのたちこめる薄暗い部屋も。
 なす術もなく弄ばれる…………………………この体も。

 ひた、ひた、ひたり………

(やめろ)

 ぎし、ぎし、ぎぃ。

(やめろ)

 ぎぃ、ぎぃ、ぎちり………ぎちぎちぎち………

(やめろ!)

 ガシャン!
 ジィイン…………ジャラン。

 どこかで堅い物の割れる音がした。

「オティア……オティア?」

 だれかが呼んでいる。この世で一番、身近で安心できる声。うっすらと目を開けた。

「あ……」
「………オティア」

 シエンがのぞきこんでいた。

 また、やってしまったのか。

 見回すと枕元に置いてあった目覚まし時計が消えていた。
 1コインショップで見つけた、レトロな形のベル式の時計。つやつやと青い塗料で塗られた外見が何となく目を引いて、買ったものだ。

 目をこらすと、寝室の壁際に落ちていた。ガラスが割れて針が飛び、ベルの部分が妙な角度にねじれ、二つあったうちの一つが無くなっていた。

 まるで気まぐれな手がぐいと時計を壁に押し付け、猛烈な力でにぎりつぶしたような……不自然極まりない壊れ方をしてる。

 皮肉なもんだ。
 あんな力、起きている時は出そうと思っても決して出せない。

 シエンが手を握ってくる。
 すがりつくように。
 にぎり返した。

(絶対、知られちゃいけない)

 優しさも信頼も、このことが知られた途端、一瞬のうちに畏れと嫌悪に変わった。今までずっとそうだった。

(知られたくない)

 無くしたくない。今、惜しみなく注がれる笑顔と信頼を。温かさに包まれれば包まれるほど、放り出された時の冷たさが恐ろしい。
 この部屋を……………この家を、離れたくない。
 シエンの為に。

 シエンとうなずきあうと、オティアはベッドを抜け出し、床に立った。

(片付けなければ。何事もなかったように、跡形も無く)

 濡れた寝間着がじっとりと肌にはりつく。

 ひた、ひた、ひたり。

 冷たい汗は、まだ流れていた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「っ!」

 ベッドの中、身を堅くして目を開けた。
 肋骨の内側で心臓が跳ね回っている。音が聞こえそうなほど激しく。口をとじていないと、喉から飛び出しそうだ。
 呼吸を整えながら隣を伺う。
 すぐそばでレオンが穏やかな寝息を立てていた。

 ほっとした。

 だが、相変わらずざわざわと、妙な胸騒ぎがする。
 そろり、そろりとベッドを抜け出した。愛しい人の眠りを妨げぬように、静かに。椅子の背にひっかけたガウンをとり、羽織る。足音をしのばせてドアを開け、廊下に出た。

 常夜灯のわずかな明かりを頼りに居間に向かう。
 胸の奥の不吉なさざ波はまだ収まらない。それどころか次第に強くなって行く。

 居間に入る。薄明かりの中、隣の部屋……かつては自分が住み、今はオティアとシエンの居る部屋に通じるドアが浮び上がって見えた。
 頭の半分は浅い眠りの中を漂い、もう半分は鋭く冴え渡る。夢と現つの境目の中、奇妙な確信を覚えた。

 子どもたちに何か起きたのだ。

 明かりのスイッチを入れる。
 まばゆい光の中、唐突に現実が戻ってきた。

(……俺、何やってるんだ?)

 日中、あのドアはほとんど開けっ放しだ。しかし今は鍵がかかっている。自分のキーホルダーにもその鍵はついているから、入ろうと思えばいつでも入れる。
 だが………あくまで、あそこは双子の住居だ。今、勝手に入ればあの子たちの信頼を裏切ることになる。
 そっとドアまで歩み寄り、耳をすます。五感を研ぎ澄まし、向こう側の気配をうかがう。

 ……。
 ………………。
 …………………………………何もわからん。
 
(当たり前だ、犬じゃあるまいし)

 震動もない。声も聞こえない。走り回る気配もない。やはり気のせいだったんだ。
 あの子たちも、隣に俺たちが居るのはちゃんと知ってるんだ。何かあったら、呼びに来てくれるだろう。
 そう、信じたい。

(呼ばれない限りこのドアの先へは入れない。今はまだ、入るべきじゃない)

 自分にそう言い聞かせる。だが、それでも立ち去りがたくて、未練がましくドアの前にたたずみ続ける。
 二月の終わり頃、二人そろって熱を出した時があった。あの時はまだこっちの部屋に居たから、夜中に様子を見に行くこともできたけれど……。

 ぽん、と肩を叩かれた。

「あ……レオン?」
「目がさめたら姿が見えないから……心配した」

 眉を寄せて、レオンは迷子の子どものような途方に暮れた顔をしていた。
 さらりとした絹のような明るいかっ色の髪をかきあげ、耳元で囁く。

「ごめん」

 優しい手が肩を包む。自分からも手を回して身を寄せた。そのまま明かりを消してリビングを出て、寝室に戻った。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 深く眠ってしまえばいいと思った。夢なんか見ないぐらいに、深く。
 眠る前にホットミルク? 冗談じゃない。ハーブティなんか気休めぐらいにしかならない。
 もっと強い物でなければダメだ。

 答えは意外に近い場所にあった。リビングの片隅に設えられたホームバー、その棚の中に。

 夕食が終われば朝が来るまで誰にも会わない。シエン以外には。
 翌朝、響かない程度に加減すればいい。

 最初に口にしたときは、あまりの刺激にむせた。それからは水で薄めることにした。
 一度に大量にとっていったら気づかれる。だから少しずつ。

 実際、しばらくの間は上手く行った。

 だがいくら聡いようでも所詮は子供。
 オティアは知らなかったのだ。本当の『酒飲み』は彼が思うよりずっと、酒の残量に目ざといと言うことを。 

 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 飯の仕度をしていたら、料理用のウイスキーが切れていた。必要な量はほんの少し。だが肉のつけ汁に入れるとぐっと香りが良くなる。
 今さら買いに行く時間はないし、ちょいともったいないが……あるもので済ませよう。
 リビングに行き、片隅に設えられたバーカウンターの棚を開ける。ずらりと並んだ酒の瓶はほとんどレオンが依頼人や仕事の付き合いのある相手からもらったものだ。
 さて、どれにするか。
 順繰りにチェックしてゆき、一段目の端まで行って、二段目に移ったところで異変に気づく。

 妙だな。
 何本か、少しずつ中味が減っているのがあるぞ?

 ウイスキーは樽ん中で醸造してる間に蒸発したり、樽に染み込んだりして少し量が減る。こいつを『天使の取り分』と言うらしい。が、これはもう瓶に入ってる。天使が飲んだとは到底思えない。

 俺が飲む時はいつもレオンと一緒だし、第一、こんな妙な飲み方はしない。
 まさか、ヒウェルが?

 ………いや、奴なら一瓶まるごとガメてくはずだ。

「一体………誰が」

 答えはもう、見えている。減っているのは比較的低い位置にある棚の瓶ばかりだ。だが、確かめるのが怖かった。
 ぎりっと奥歯を噛む。

 ここで逃げてはいけない。可愛いだけ、愛しいだけじゃ『親』は勤まらない。

 アルコールに、ドラッグに、銃。

 誘惑の手は多く、落ちる時はあっと言う間だ。ほんのささいな兆しでも、見過ごすことはできない。信頼と言う言葉に甘えてはいけないのだ。

「………ディフ………」

 背後で小さく名前を呟く声がした。振り向くと、怯え切った紫の瞳が見上げていた。

「シエン。オティアを呼んできてくれ」

 幸い、レオンが帰ってくるまでにはまだ時間があった。

「話がある」

 ※ ※ ※ ※
 
 オティアとシエン、二人そろったところで改めて切り出す。 
 酒が不自然な減り方をしていること、自分やレオン、ヒウェルはこんな飲み方をしないこと。順序立てて説明してゆく。
 双子がやったのなら主犯はおそらくオティアだ。シエンならそもそも黙ってこっそり酒を持ち出したりしない。知ってはいたのだろうけれど……。

「お前が飲んだのか?」

 確認すると、彼はぶっきらぼうに一言

「ああ」と答えた。

「そうか。もう一度聞くぞ。お前が、一人で飲んだのか?」
「ああ」

 そうでなければいいとどんなに願ったか。だが、彼がYesと言うならそれは事実なのだ。
 何故今まで気づかなかった。何故、止められなかった。何故。何故?
 いくつもの何故、が喉の奥から競り上がり、声のボリュームが跳ね上がる。
 
「………………………オティア」

 震える両手で細い肩を包み込む。指に力を入れぬよう、精一杯の努力を振り絞った。顔が歪み、涙がにじみそうになる……ええい、こらえろ。ここで俺が取り乱したらそれこそ収集がつかない。

 オティアはちらっと俺の目を見て、それからぷい、と視線をそらしてしまった。

「…………………もうしない」
「……なら、いい………」

 反抗はしていない。だが反省もしていない。悪びれた様子もない。

「ごめんなさい」

 シエンが小さく縮こまっている。オティアの肩から手を離し、一歩下がって距離をとった。

「オティアがしないと言うなら、もうしないってことだ。それで……いい」

 ほほ笑むことはできなかったが、さっきより穏やかな声を出すことはできた。

 叱ることはできなかった。
 抱きしめることもできなかった。
 ただ、オティアの雇い主として『もうするな』といい、『もうしない』と返された彼の答えに納得することしかできなかった。
 もどかしい。
 口惜しい。

 結局、酒を飲んだ理由は聞けなかった。
 憶測は危険、だがオティアが一人で部屋で飲んでいたとなると……パーティで悪ノリしてビールをひっかけるのとは訳が違う。大人ぶって、悪ぶって、かっこつけて仲間に見せつけるのとも違う。

 飲まなければいけない理由があったのだ。俺には言えない、何かが。

 これからはオティアとシエンの様子をもっと注意深く観察することにしよう。
 話してくれないのなら、こちらから情報を集めるしかない。注意深く証拠を探して、真実を探り当てよう。

 口元に苦い笑みが浮かぶ。

 親のやり方じゃないな。
 まるっきり、警察の捜査法だ。爆弾のわずかな破片から仕掛けた人間、作った人間を探り出す時のやり方だ……子どもたちを容疑者扱いするようで、心苦しい。だが、俺は他にやり方を知らない。

(レオンには、話せない)

 その日。
 結婚して初めて、彼に隠し事ができてしまった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 その夜、部屋に戻ってからオティアはため息をついた。

 ヘーゼルブラウンの瞳の中央にめらめらと緑の炎が揺らめいていた。
 ずっしりと肩にかかる手が重かった。

(ディフは怒っていたのだろうか。それとも、悲しんでいたのだろうか?)

 いずれにせよ、自分には関係ない。ばれてしまったのなら、しかたない。もう酒を使うのはあきらめよう。

(深く眠ってしまえればいいのに)
(夢になんか追いつかれないくらい、深く)

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【4-3-2】もし、俺がハゲても

2008/09/15 23:19 四話十海
 
 風呂から上がって寝る前に髪をとかしていると、妙な手応えがあった。ずるりと絡み付き、引き抜くほどに糸を引くような……。
 不審に思ってブラシを見ると、ごっそりと髪の毛がからみついている。

 ぎょっとした。

 落ち着け、慌てるな。
 長さがあるから、少し抜けてもかさがあるように見えるだけだ。
 確かに頭を洗ってる時も妙に指にまとわりついていたが………。

 改めてブラシを見る。
 からみつく髪の毛にはいずれも毛根がついている。ってことは根本から抜けたのか? だが、その割に痛みは感じなかった。
 
 ……やばいな。

 ブラシから髪を抜き取り、無造作にゴミ箱に放り込む。ついさっき使ったタオルを手にとると、白い布地にまるでマーブル模様みたいにびっしりと赤い髪がこびりついていた。
 これは、深刻だ。
 寝室に戻り、レオンに聞いてみる。

「なあレオン。俺がもし将来ハゲても……愛してくれるか?」
「ん?」

 レオンは目をぱちくりさせて、逆に聞き返してきた。

「君の家系は髪が薄くなるほうかい?」
「いや。親父もじーちゃんもふさふさだけどな……」

 頭をかきそうになって、手が止まる。ここで指にからみついてまたごっそり、なんてことになったらそれこそシャレにならん。

「念のためだ、うん」
「別に君の体重が200kgぐらいになっても俺は全然かまわない……」

 にこにこしながら言いかけて、急に真剣な顔になった。

「いやちょっとかまうかな」
「…………それは……………ヤだな。すごく」

 ぺらっとシャツをめくって腹を確かめる。さすがにボディビルダーやアメコミのヒーロー、海兵隊員には負けるが一応割れてるし、今んとこ余計な肉はついてない。
 うん、異常なし。

「君が君のままならなんだっていいよ」
「……そっか」

 これまで何度も言われた言葉だ。だが今、彼のその言葉がいつになく嬉しくて、心に染みた。強ばった頬がゆるむ。
 ひょいとベッドに飛び乗り、レオンに後ろから抱きついた。

「髪が薄くなるのは俺のほうかもしれないよ?」

 肩を揺らしてくすくす笑ってる。ったく可愛い顔しやがって。どうしてくれよう、この男は?
 髪の毛をわしゃわしゃとかき回してやった。

「くすぐったいよ、ディフ」
「……お前は……髪の毛が薄くなろうが。いくつになろうが、美人だ。余計な心配すんな」
「なんで急にそんなことが気になったんだい」

 動きが止まる。
 別に。
 何でもない。
 この期に及んであいまいな言葉で言い逃れる自信はなかった。既にでかい隠し事を一つしてるとなれば、なおさらに。

「……………頭洗ったり…髪の毛とかしたりしてたら」

 ぽつぽつと言葉を綴る。

「うん」
「…………ごっそり抜けてた」

 レオンはちらりと俺を振り返り、眉をひそめた。

「原因はストレスかもね」
「……犬か、俺は」
「むしろ人間のほうが顕著に症状に出ると思うね。俺の依頼人達を見ていても、強い不安感や焦りは体調を左右するし、証言もかわる」
「そうだな……」
「このところずっと子供達のことを気に病んでいただろう。最近何かあったかい」

 目を閉じて、深く呼吸をする。
 何から話すべきか。
 オティアの飲酒の件は……あれは、もう終わったことだ。今さら蒸し返すまでもない。
 
「飯食ってた時に……スープを口にした瞬間、オティアが顔しかめたんだ……ほんの少しだけ。熱くて口の中にしみたらしい」
「うん」
「気をつけてよく見た。歯が、ほんの少し黄ばんでる。肌も荒れてる。多分、口の中も……………慢性的な嘔吐の証拠だ。何故、見落としていたんだろう」
「……俺から見てもそこまで悪そうには見えなかったよ、今まで」

 そう、確かにオティアは巧みに自分の不調を押し隠していた。だからって俺が気づけなかった言い訳にはならないが。

「目の下、うっすらクマ浮いてやがった。眠れてないのかな、あいつ」
「確かに……彼の調子が良い時と悪い時で波を感じることはあるけれど。それほど痩せたようでもない」

 肩に顎を乗せたまま、じっとレオンの声に耳を傾ける。

「だが、君が言うように……慢性化しているなら問題だな」

 レオンの手が伸びてきて、頭を撫でる。目を閉じて優しい指先に身をゆだねる。こめかみ、額の中央、顎の噛み合わせ。知らぬ間にあちこちにがっちりこびりついていた鈍色の塊がほどけてゆく。

「彼らはそんなにバカじゃない。自分達の状況はわかっているはずだ」
「……そうかな………そうだと……いい」
「それでも訴えてこないなら、何かそうしなければならない理由があるんだろう」

 こくん、とうなずいた。

「それで、君は。どうしたいんだい?」

 オティアの頑なな表情、抑揚のない低い声……堅く閉ざされた石の扉にも似て。この手でこじあければ、赤い血がふき出すだろう。

「俺に言えないことがあるのなら言わないままでもいい。ただ、今みたいにオティアが。それをフォローしてるシエンが身も心もすり減らしてるのだけは止めたい」

(ごめんなさい)

 ふて腐れてそっぽを向くオティアの隣でシエンが謝っていた。小さく身を縮めて、何度も。
 まるでカードの表と裏のようだった。
 眠れない夜を、不安に怯えて過ごしているのはあの子も同じなんだ。

「……実際、体に悪影響出てるんだしな。根っこが心の中にあるにせよ」
「言い出すきっかけを失ったとか、病院が嫌いだとか、それぐらいの理由だといいんだが……一度、俺から話してみるよ。それでいいかい」

 こくっとうなずき、耳元にささやく。

「ありがとな、レオン。お前の嫁になってよかった」

 レオンはようやくほほ笑んでくれた。しかめっ面もきれいだが。どんな表情をしていようが、こいつがきれいなことに変わりはないんだが。
 やはりその顔の方がいい。

 頬に温かな唇が押しあてられる。目を細めて受け入れた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 ベッドに入ってから改めてディフを抱き寄せ、髪の毛に指をからめる。
 ことさら執着しているつもりはないのだが、長さがあって触りやすいものだからつい、弄ってしまう。

「よせよ、くすぐったい」

 くすぐったいと言いながら微笑み、甘えるように顔をすりよせてくる。その仕草が愛おしくてまた弄る。

 彼が髪を伸ばし始めたのは首筋の火傷の跡をカバーするためだった。

 初めて恋人同士のキスをかわした時は肩に軽くつく程度。今では背中にまで広がっている。
 アイリッシュセッターを思わせるやわらかな赤い髪。初めて出会ったころは今よりもっとカールが強くかかっていたが、年齢を重ねるにつれて次第にゆるやかなウェーブへと変わっていった。
 今でも水気を含むとくるりと巻きあがって少年の頃を思いだす。

 長い髪をかきわけ、なで回していると、ふと、見慣れぬものを見つけた。
 ぽつっと小さく白く地肌が見えている。豆一粒ほどの、小さなものではあったけれど……。

 何てことだ。

「あ、こら、どこ触ってるんだ?」

 指で撫でると、彼はくすぐったそうに身をよじった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 翌朝、事務所で。いつものようにその日のスケジュールを確認している時、アレックスに言われた。

「レオンさま。一つ、ご報告したいことがあるのですが……いささかプライベートなことで」
「何だい?」
「先日、居間のバーカウンターの中味をチェックしていたのですが」
「ああ。何か足りないものでもあったのかい」
「はい」

 アレックスは控えめな口調で手短に告げた。シエンに聞かせまいとする気づかいだろう。今は別室にいるとは言え、いつ入ってくるかわからない。

「中味が減っている?」
「はい。二段目の棚の瓶のものが、何本か」
「……わかった。心に留めておくよ。ありがとう」
「おそれ入ります」

 俺やディフでないことは確かだ。飲む時はいつも二人一緒だし、彼が寝酒に一杯二杯引っ掛けるとしてもそんな飲み方はしない。
 ヒウェルか、とも思ったが彼なら悪びれもせずに「一本もらってきますね」と瓶ごと持ち去るだろう。

 帰宅してから確かめてみよう。もっとも、だれの仕業かは、容易に想像がつくが。

(だからあんなに悩んでいたのか。まったく君って人は繊細なのか、豪胆なのか……)

 目を閉じると目蓋の裏にぽつりと、白い豆粒ほどの斑点が浮かぶ。赤いたてがみの中に生じた小さな空間。
 これは由々しき事態だ。ディフの髪がなくなる前に、解決しなければ……断固として。


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【4-3-3】ぱぱの説得

2008/09/15 23:20 四話十海
 その日、マクラウド探偵事務所は5時かっきりに営業を終了した。

「よし、今日はこれで上がりだ」

 所長自らがそう言って帰り支度を始める。降りてきたシエンと連れ立って三人でディフの運転する車に乗り込み、スーパーでいつものように食料品を買い込み、途中でクリーニング屋に立ち寄って洗濯物を引き取ってマンションに戻る。

 いつもと同じ水曜日の日課だった。
 ただ、一つだけいつもと違っていたのは、帰宅した3人をドアを開けてレオンが出迎えたことだった。

「やあ、お帰り。待っていたよ」

080920_0256~01.JPG※月梨さん画「ぱぱのお出迎え」

 満面に穏やかな笑みを浮かべて。今まで数多の陪審員を魅了し、何度も勝訴を勝ち取ってきた笑顔をひと目みた瞬間、双子は内心すくみ上がった。

「オティア、話があるんだ。ちょっと書斎まで来てくれないか?」

 オティアは観念した。彼には逆らえない。逆らってはいけない。勝ち目のない相手だ。
 うなずき、先導されるまま書斎に向かうしかなかった。

 シエンはとまどい、おろおろしながら二人を見送り、ディフを見上げた。

「……大丈夫だから」
「うん………」
 
 噛みしめていないと、歯がかちかちと鳴りそうだ。あんな恐いレオンを見たのは初めてだった。

「買ってきたもの、冷蔵庫に入れてくるよ」
「あ、俺も手伝う」
「ありがとう」

 ディフはいつも通りだ。ちょっと元気がないけど、いつもと同じ、優しい笑顔、あたたかな声だ。
 …………良かった。

(オティア、大丈夫かな……)
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 書斎に入るとレオンは窓を背にしたデスクに座り、にっこりとまたほほ笑んだ。ふさふさと豊かなまつ毛に縁取られた明るいかっ色の瞳の奥に、断固たる意志をにじませて。

「最初に言っておくけれど、俺は君とシエンをここ以外で育てさせるつもりはない。この先何があっても十八歳までは面倒を見る。州検事との取り決めもあるし……」

 レオンは一旦言葉を区切り、表情を改めた。相変わらず声音は穏やかだが、絹のスカーフで包んだ刃物のような鋭さを含んでいる。

「彼を悲しませたくはないんだ。わかるね?」

 この場合の『彼』が誰のことか、なんていちいち確認するまでもない。

 オティアはうなずいた。
 うなずくしかなかった。

 そう、確かにレオンハルト・ローゼンベルクにとって自分たちは保護するべき対象だ。ディフの好意が自分とシエンに向けられている限りは。

「今の状況を説明するか、カウンセラーと一週間ばかり合宿するか選びなさい」
「わかった。でもディフには言うな」
「約束はできるけどすぐにディフにもわかることだよ」
「それはそれで構わない。でも俺からは言わない」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 レオンとオティアが書斎にこもってからそろそろ1時間が経過しようとしていた。

 その間、ディフとシエンはリビングのソファに座ったきり。距離を置いて座り、書斎に通じるドアを見たまま、喋らずにじっと待つ。
 視線さえ合わせないまま。

 不意にぱっとシエンが立ち上がる。やや遅れてディフは微かな足音を聞いた。

 ガチャリ。

 ドアが開いて、レオンと、非常に不本意そうな顔のオティアが戻ってきた。どうやら終わったらしい。
 シエンがオティアに駆け寄り、そっと手を握った。
 
 ディフは真っすぐにレオンに歩み寄り、物問いたげな視線を向けた。やわらかなほほ笑みが返され、ほっと息をつく。

「医者に行くことには同意してくれたから、ちょっと行ってくるよ」
「これから?」
「知り合いに夜遅くまでやってるクリニックがあるからね。予約を入れておいた」
「……そうか」

 拳を握って口元に当て、ほんの少しの間考える。

「……聞けたのか。理由」
「聞いてはいないね」
「でも、医者には行くんだな?」
「ああ。主に俺の推測を語ってみた。というところかな」
「……………当たってたのか?」
「多分ね」
「…………そうか……………………だったら………いい」

 双子は手を握り合ってじっとこっちを見ている。

「やっぱり俺も一緒に……いや…………お前がついてった方が……いいんだろうな」
「途中で逃げられても困るからね。それに今は……俺ぐらい突き放してるほうがいいんだろう」

 ディフは唇を噛んでうつむいた。

「そうだな………待ってる」

 悔しいが、レオンの言う通りだ。自分は感情移入しすぎて相手の心までかき回してしまう。警官時代もたびたびそれが原因でトラブルに巻き込まれた。

「お前に任せるよ、レオン。それが一番いいんだ、きっと」

 
 ※ ※ ※ ※
  
 
 オティアが連れて行かれたのは、いかにも病院と言った場所ではなく。薬のにおいも白いリノリュームの廊下とも無縁の、ゆったりした建物だった。
 インテリア雑誌さながらに低いソファと観葉植物の配置された待合室を素通りして診察室に案内される。
 どうやら、あらかじめ訪れる旨伝えてあったらしい。

「お待ちしていましたよ、ローゼンベルクさん」
「やあ、先生。彼が電話でお話した子です」

 出迎えた初老の医師ににこやかに挨拶すると、レオンはさっと脇にどいて道を開けた。
 必然的にオティアは医師と正面から対面する形になる。ノーネクタイ、ノージャケット、青いシャツ。ドクターと言う割にはラフな服装だ。

「では、よろしくお願いします」

 部屋を出る間際、レオンはこっちを見てうなずいた。後は彼に話すように…………………無言のうちに告げていた。

 二人きりになると、医師はまず身振りでオティアに座るように勧めた。
 ソファは待合室にあったものと同じ様に丈が低く、さらさらした布張りで、大きめのクッションが二つ置かれている。そのどちらにも頼らず浅く腰かけると、医師は斜め向かいのソファに深々と腰を降ろし、ほんの少し、前屈みの姿勢をとった。
 オティアの座っている椅子と対になっているらしく、やはり丈の低い布張り。寝椅子に患者、肘掛け椅子に医師、と言うお決まりのスタイルは踏襲していないようだ。

「さて。それでは……最近の状況を話してもらえるかな?」

 オティアは内心、舌打ちした。
 やられた。
 どうやら、予約どころか既にレオンから何もかも説明され、準備万端整えて待ち構えていたらしい。
 どこまでも用意周到で抜け目のない奴だ……。

 こうなったら観念して話すしかない。医師には守秘義務がある。少なくともここで自分の話したことはレオンにも、ディフにも漏れる気づかいはない。
 ………シエンにも。
 
 
 ※ ※ ※ ※
  
 
 その頃。
 ディフは上の空で夕食の仕度をしていた。
 ありがたいもので、こんな時でも体が動きを覚えていてくれる。慣れた手つきでかしゃんと片手で卵を割り、殻を捨てた。

「あ」

 シエンが声をあげる。

「ん? どうした」
「逆だよ……」
「逆って……」

 殻をボウルに入れて、中味をゴミ入れに捨てていた。

「あ……あ……………あーあ、もったいない。せっかくのグレードA(生食可)の卵が……」

 ちょうどその時、洗濯機のアラームが終了を告げた。台所をシエンに任せて見に行く。
 きっちり乾燥まで終わってることは終わっていたのだが……どうも、洗剤のにおいが濃すぎる。手触りもなんとなくぬるりとしている。

 まさか、と思って洗剤投入口を開けてみた。
 かすかに残る残留物を指ですくいとり、においをかいでみる。

 ……やっちまった。
 柔軟剤と洗剤を逆にセットしていた。

 やり直し決定。

 今度こそ正しくセットしてスタートボタンを押す。

 しっかりしろ。家事のミスなんてのは可愛い新婚の奥さんがやってるから許されるんだ。俺がやらかしたら、シャレにならんぞ。

 額に手を当て、うつむいていると玄関の扉の開く気配がした。
 帰ってきた!

 ダッシュで洗濯室を飛び出し、玄関に向かった。

「………お帰り」
「ただ今」

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【4-3-4】壁の傷、沈黙の理由

2008/09/15 23:21 四話十海
 木曜日。
 何事もなかったかのように(少なくとも表面上は)出勤するレオンと双子を送り出してからディフは朝食の後片付けをしていた。

 ユニオン・スクエア近くの事務所までレオンは車で、オティアとシエンは二人一緒にケーブルカーで通っている。
 探偵事務所の始業時間は弁護士事務所より若干遅い。だから家を出るのはディフが一番後になる。
 所長がやってきて事務所を開けるまでの間、オティアは上の法律事務所でシエンと二人、アレックスに勉強を見てもらうか、自習をするのが最近の習慣だった。

 洗い終わった食器を片付けていると、携帯が鳴った。
 名前を確認してから、とる。

「ハロー、マックス」
「やあ、ヨーコ。珍しいな、こんな時間に。どうした?」
「うん、実はさ、授業で911のことを扱うんだけど……」
「ああ、もうそんな時期か」
「当時の新聞や雑誌の切り抜きとか、持ってる?」
「あるよ。あの頃はまだ現職の警察官だったしな」
「さすが! コピーとってこっちにFAXしてもらえないかな。できるだけ、当時の生の情報が欲しいの」
「OK。取って来るよ」

 話しながらキッチンからリビングへと向かい、隣に通じるドアを開ける。

「学校に送ればいいのかな?」
「うん。学校にお願い」
「ラッキーだったな、まだ家に居たんだ。これが事務所なら一度引き返さなきゃならないとこだったぜ?」

 書庫の扉を開けて中に入った。

「そうなの? 運が良かった……それじゃ、よろしくね」
「じゃ、また」
「……あ、そうだ、マックス」
「何だ?」
「ワカメ食べなさい」
「ワカメ?」
「……海藻よ」
「ノリみたいなもんか」
「まあ似た様なもんね。サクヤに聞けば教えてくれるから。じゃあね」

 何のことかはわからないが……多分、体にいい食べ物なのだろう。
 本棚に目を走らせる。2001年9月のスクラップはすぐに見つかった。ぱらりと手にとりひらいてみる。さて、どのへんを送ろうか。
 英文の記事だがヨーコなら問題なく翻訳できるはずだ……あるいはあえて英語のまま生徒に渡して自力で読み取らせるのかも知れない。

 雑誌や新聞の切り抜きを見ているうちに、当時の記憶が蘇ってくる。あの頃はまだ制服警官で………。

「お前、きれいな髪の毛してるな」
「そうかぁ?」
「伸ばさないのか」

「っ!」

 水色の瞳。
 浅黒い肌。
 かつての相棒、親友だった男の面影が生々しく蘇る。
 ばさり、とスクラップブックが落ちた。

「ずっとお前をこうしてやりたかったんだよマックス……」

「あ……あぁ…………うそ……だ……フレディ……そん……な……」

 喉がつまる。
 確かに呼吸をしているはずなのに……息…………が………苦しい……。

「紹介しよう、レオンハルト・ローゼンベルクの愛人……いや、『最愛の人』だ」
「たっぷり可愛がってやれ」

「やめろ……触る……な」

「愛してるぜ、マックス。お前はもう、俺のモノだ」

「ちがう……ち……が……」

 ひゅう、ひゅう、ぜい、と喉が鳴る。こめかみの中で血液が脈打ち、全身の毛穴から冷たい汗がぽつぽつと噴き出した。
 視界がぐんにゃりと歪み、足がふらつく。ダリの絵にも似た悪夢の中、廊下にさまよい出した。

 記憶が混濁する。
 ここはどこだ。
 今はいつだ。
 俺の部屋……か?
 だめだ……………………倒れる。

 よろよろと寝室へと向かう。記憶にあった位置にベッドがなかった。手探りでさがし回り、やっと見つけた時はもう限界に近かった。
 どさりと倒れ込む。

 間に合った………。

 意識が途切れ、そのまま闇に飲み込まれた。


(辛い思いさせてごめんね。でも、もう終わったことなんだよ、マックス……)
「ヨーコ?」
(目を開けて。あなたの助けを必要としている子どもたちが居る)
「俺なんかに……できるのだろうか」

 銀の鈴を振るような笑い声。応えたのは、ただそれだけ。けれど閉ざされていた目の前が、すーっとひらけたような気がした。


 目を開ける。
 ぼんやりと霞んでいた景色が次第にはっきりとしてきた。

「あ」

 がばっと起きあがる。

「何で、ベッドが二つもあるんだ?」

 答えは簡単。ここはそもそも俺の寝室じゃない。

「やっちまった………」

 どれだけ混乱していたのだろう? 現在と過去の区別がつかなくなるなんて。
 いったいどれほど気を失っていたのか……。時計を探すが、無い。妙だな。確か、オティアが青い目覚まし時計を使っていたはずなんだ。
 1コインショップで珍しくあいつが自分で選んだクラシカルな青い時計。今時珍しい、ベル式の。

 いや、それ以前に時計なら自分で持ってるだろう!
 左手首の腕時計で時間を確かめる。ヨーコから電話をもらってから、やっと10分が経過したところだった。
 スクラップブックを探すまでに5分もかかっていない。気絶していたのはせいぜい5分ってところか。
 ほっと息を吐いてから、改めて部屋の中を見回す。

「この部屋……何で、こんなに物がないんだ?」

 無くなっていたのは目覚ましだけじゃなかった。ベッドサイドのスタンドも、テーブルも。椅子も、スリッパも。床に敷かれたラグさえ無くなっている。
 天井を見上げる。
 何てこったい、電灯も外されているじゃないか!

「何があったんだ………」

 しかも、壁が、傷だらけだ。引っ掻いたなんて可愛いレベルじゃない。ナイフで滅茶苦茶に突き刺し、切り裂いたような傷が一面に刻まれている。
 顔を近づけて調べてみた。
 何かの破片が刺さっていた。

 一度、自分の部屋に引き返し、ピンセットとレーザーポインターを持って戻る。
 壁にめり込んだ破片をピンセットで取り出し、手のひらに乗せる。青いツヤツヤの金属片………目覚ましの欠片だ。おそらくベルの一部。しかし、どうやったらこんな風に欠けるんだ?
 焼けこげこそないが、まるで爆弾で吹っ飛ばされたみたいな壊れ方じゃないか!

 破片のめり込んでいた角度に合わせてレーザーポインターを固定し、スイッチを入れる。

 ぽつっと、赤い斑点がベッドの一つを示した。
 壁の他の傷でも試してみたが、結果は同じ。

 爆心地は……オティアだ。

 目を閉じる。
 ついさっき、自分を襲った強烈なフラッシュバックとそれに続く悪夢のようなひと時を思い出す。

 あの閉ざされた『撮影所』で、オティアは俺の何倍も酷い目にあわされていた……そして、あの子には手を触れずに物を動かす能力がある。
 俺に向かって発射された弾丸を逸らし、命を救ってくれた力が。
 だが同時に暴走し、安普請とは言え、倉庫一つを丸ごと崩壊させた力でもある。

 目を開けた。

 空っぽの部屋に、夜、起きたであろう光景をだぶらせる。
 悪夢にうなされるオティア。見えない腕が枕元の時計をつかみあげ、壁に向かって叩き付け、ぐいぐいとねじ込む。
 オティアが目を覚ますと同時にひしゃげた時計は引力に引かれて下に落ち、ベルの欠片が壁に残る。
 隣のベッドではシエンが怯えて………いや、シエンがうなされるオティアを起こしたと考えた方が自然だろう。

(だから、眠りたかったのか)

 胸の奥を鋭い刃物で切り裂かれる思いがした。

「あいつらがいると薄気味悪い出来事が続いて……」
「小さな頃から、泣き出すとあっちこっちから物が飛んできて……」

 去年の十月の終わり、サンフランシスコ市警の取調室。
 オティアを人身売買組織の仲買人に売り払った施設の職員が、口角から泡を飛ばしながら自供した。

「里親から何度戻されたと思う。押し付けられたこっちはいい迷惑さ」
「他の連中だって内心ほっとしてるんじゃないか? 厄介払いができたって……」

(だから、俺には言えなかったのか)
 
 寝室を出て、書庫に戻る。床に落ちたスクラップブックを拾い上げ、ページをめくった。
 もう、悪夢は起きなかった。

 君の言う通りだ、ヨーコ。
 やらなければいけないことがある。過去に捕まってる暇はない。

 携帯を開いてボタンを押し、耳に当てた。

「ハロー、アレックス。ああ、俺だ。すまないがシエンとオティアを家に送ってきてもらえないか……。うん、可及的速やかに頼む」

 アレックスは理由は聞いてこなかった。ただ静かに「かしこまりました」とだけ。

「ありがとう。探偵事務所は、本日休業だ」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

「ただ今……ディフ、どこ?」
「こっちだ。書庫にいる」

 ぱたぱたと軽い足音が2人分。近づいて来る………開け放した境目のドアを潜り、廊下を歩いて。次第にゆっくりと、ためらいがちに。
 双子はしっかりと手を握り合い、書庫に入ってきた。
 シエンは真っ青な顔で震えている。オティアはと言うと、珍しく困ったような顔をしていた。
 どうやら、何が原因で呼び戻されたのか、わかっているようだ。

 黙って机の上に目覚まし時計の破片を乗せた。
 シエンがびくん、とすくみ上がった。

「ごめんなさい………ごめん………なさい…………」
「謝らなくていい……シエン。謝らなくていいんだよ」

 それでも彼は肩を震わせ、小さな声で謝り続ける。オティアがますます途方に暮れた顔をした。

「俺に話したくなかったのは……シエンのため……か? オティア」
「………ああ」
「そうか……」

 破片の拡散状況を調べていて一つ気づいたことがある。どんなに酷く飛び散っても、シエンの眠っている場所だけは避けていた。
 悪夢にうなされて、追い詰められている瞬間でさえ、オティアはシエンを傷つけなかったのだ。

 深く息を吸い、吐き出す。ともすれば震えそうな膝にしっかりと力を入れて、双子を見つめる。
 怯えた2対の紫の瞳が見上げてくる……。

「シエン。オティア」

 名前を呼ばれただけで、びくん、と肩がすくみあがるのが分った。
 言うのは辛い。表面をかき分け、彼らの内側に踏み込むのが恐い。
 塞がりかけた傷口を無理矢理押し広げて、新たな血があふれ出すんじゃないかと思うと言葉が鈍り、逃げ出したくなる。
 だが、今言わなければ俺はずっと、都合のいい『大人』のままだ。気まぐれにほほ笑みかけて、可愛がるだけの……。

 この子たちを育てる『親』にはなれない。
 いつまでたっても。
 それは、嫌だ。

「ちっちゃい頃から泣く度に物が飛んでたんだってな。施設の職員が言ってるのを聞いた。そんなになるまで調子悪くなってたのか?」

 返事はない。だが、オティアがかすかにうなずいた。

「……力もお前達の一部なんだから。走ったり歩いたりするのと同じように自然にすることだと思ってる。第一、倉庫の天井落ちたの見てるんだ。今さらちょっとばかし物が飛ぶ程度でびびったりしないさ」

 シエンの瞳がうるむ。透明な涙の雫が盛り上がり、今にもこぼれおちそうだ。白い、細い喉がひくひくと震えている。
 
「今すぐ信じろって言っても難しいだろうけど……追い出したりなんか、しない。むしろ出て行くって言われたらどうしようって、びくついてんのは俺の方だ」

 とうとう、シエンは泣き出してしまった。
 追い出されたらどうしよう。ずっと、それが恐かったんだ。その一心で二人だけで耐えてきたのか。明かりのない部屋で寄り添って、震えて。

 俺は、バカだ。大バカだ。何故あの夜、ドアを開けなかったのだろう。踏み込むことを恐れてしまったのだろう?
 
 今ここで行くなと言っても、シエンとオティアは信じてはくれないかもしれない。
 まがりなりにも続いてきた穏やかな関係を、自分から乱すのは、とてつもなく恐ろしい。全身がすくみそうになる。だが、互いのずれを少しでも埋める最初の一歩にはなる。

「行かないでくれ、シエン……オティア……。ここに………居て……くれ………頼む」

 掠れた声で、それでも最後まで言い切った。

 永遠にも等しい一瞬の後。

 シエンが、涙をぽろぽろとこぼしながら、空いてる方の手をそろそろと伸ばしてきてくれた!
 そっと自分からも近づき、屈み込んで目線を合わせた。
 だいぶためらってから、シエンは俺の腕に触れた。一瞬、ぴくっと震えてから、指がまとわりつき、つかんだ。
 熱い。
 彼の手の、幼い熱が胸の中心、一番奥深い所にまで染み通り……震えた。

「……ありがとう」

 何故、そんな言葉を口走ったのか、自分でもわからない。だが震えるシエンの指先を感じたその瞬間、ほほ笑んでいた。
 シエンは俺の腕をつかむ自分の手に額を当てて、小さな声でまた、

「ごめんなさい」と言った。

 静かに手をのばし、髪の毛に触れる。少しくすんだ金色の髪を撫で下ろす……そっと。そのまま肩へと滑り降ろし、ためらいながら細い肩を手のひらで包み込んだ。

 本当は二人まとめて抱きしめたい。この胸の中に。だけど、それをやったら今は怯えさせてしまうだけだ。
 せめてシエンを通して少しでもオティアに気持ちが伝われば……と、願うのは俺の傲慢だろうか?

「ごめんなさい……」
「うん。俺からも……ごめん」

 そのまま、シエンは静かに泣き続け、オティアは疲れたような、ほっとしたような顔でそれを見守っていた。
 

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【4-3-5】オティア寝込む

2008/09/15 23:22 四話十海
 
 昼休み。仕事の合間を縫ってレオンが家に戻ってきた。
 傷だらけになった双子の寝室の壁を見て、彼は事も無げに言った。

「落ち着いたら壁紙を張り直そうか。子供部屋なんだから多少傷がついたり汚れるのは想定内だよ」
「……そうか」

 神妙な面持ちで見守るディフと双子を振り返り、レオンは穏やかな笑みを浮かべた。

「オティア。疲れてるようだね……今日はもう横になった方がいい。ああ、薬を飲むことも忘れずに」

 薬、と言う言葉にほんの少しだけ力が込められている。
 のろのろとオティアはうなずいた。

「水、取ってくる」
「その前に、何か腹に入れた方がいい。胃がやられる」
「ん」

 シエンの持ってきた栄養補給用のゼリー飲料をほんの少し口にすると、オティアは大人しく薬を飲み、ベッドに横たわった。
 枕に頭をつけたと思ったらもう、眠っていた。

 それまで続けていた『無理』を完全に放棄してしまったようだ。意識の統制から解放された少年の顔は、起きて動いていた時と比べて急に一回り小さくなってしまったように見えた。

(あんなもの、いつ買ったんだろう?)

 ぽつんとトレイの上に残されたゼリー飲料の銀色のパッケージを見ながらディフは首をかしげた。

(嘔吐の続く間、ずっと、これでしのいでたのか……)

「こうしてみると……やつれてるな」
「点滴した方がよさそうだね。アレックスに手配させよう」
「頼む」

 枕元で交わされる『ぱぱ』と『まま』のやりとりを聞きながら、とろとろとオティアは浅い眠りの中を漂った。

 結婚式で招待客に無遠慮に向けられたカメラのレンズ。シャッターの音が引き金となって呼び起こされた「撮影所」に囚われていた時の記憶。
 うなされていた本当の理由はシエンには聞かれたくなかった。なまじ似た様な経験をしてしまった今となってはディフにも話したくなかった。
 ヒウェルは論外。
 レオンも適任ではない。

 誰にも打ち明けることができないまま、全てを無表情の仮面の下に押し隠して何事もない振りをする。自分は平気なのだと自分自身をも欺いて……。
 その間も身体は確実に衰弱していた。

 壁の傷がディフにばれたと知った瞬間、張りつめていた精神の糸が音をたててぷっつりと切れ、彼はやっと休むことができたのだった。

 付きそうシエンはしょんぼりとうなだれている。

「お前が悪いんじゃない」

 ディフに言われても、首を横に振るばかり。 

 誰が悪いのだろう?
 強いて言うなら、全員悪い。慎重になりすぎて歯車が噛み合わず、言いたいことも言えぬまま、手探りで見当違いの方向に迷い歩いてすれ違う。
 
(おいで)
(助けて)

 ただ一言、まっすぐ伝えることさえできたなら、こんな結果にはならなかったのだろうか……。
 それぞれが舌の奥に苦い後悔を噛みしめている間も時間は流れてゆく。

 やがて、夏の終わりの陽射しが西に傾き、東の空をラベンダー色の霞みが染める頃。ディフは立ち上がり、シエンに告げた。

「飯の仕度の手伝いはいいから、オティアに付き添ってろ」
「うん……」

 本宅に戻ると珍しくヒウェルが来ていた。
 リビングを、と言うよりドアの前をうろうろとしていたらしい。入ってきたディフを見て露骨にがっかりした顔をした。

「何だ、お前か」
「ああ、俺だ。珍しいな、まだ飯できてないぞ?」
「へっ、おあいにくさま。俺はそこまで食い意地張ってませんよーっと」

 口をぐんにゃり曲げてそっぽを向いて、吐き出すように言い捨てる。その割には妙にそわそわしている。

「……オティアか」
「まあ、な」

(やっぱりな。こいつが悪ぶった口を聞くときは、大抵、何か気に病んでる時なんだ)

 後ろでレオンが苦笑してる。どうやら部屋に入ろうとしたのを止められて自粛していたらしい。

「今は眠ってるよ。シエンが付き添ってる」
「そっか……」
「丁度いい。お前、手伝え」
「俺が?」
「ああ。ぼーっと待ってるより気が紛れるだろ」
「へいへい……それじゃ僭越ながら双子の代理に」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

 その夜のローゼンベルク家の台所はいつになく賑やかだった。
 
「あーっ、こらピーマン使うな!」
「うるさい、つべこべ抜かすな、黙ってイモの皮を剥け」
「信じらんねえ、こいつ、ポトフにセロリ入れてやがる!」
「いつも黙って食ってるじゃないか。肉の臭みをとるのにいいんだよ。ほんのひとかけらだ、大した量じゃないだろ?」
「いいや、見てしまった以上は断固として抗議する」

「…………………ヒウェル?」

 ディフの顔に浮かぶ満面の笑みを見て、ヒウェルはあっさりと平伏した。

「ごめんなさい、俺が悪うございました」
「わかればよろしい」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「よし、飯、できたからシエン呼んできてくれるか?」

 ままに言われて二つ返事で引き受けた。リビングを通り抜ける時、ちらりとレオンがこっちに視線を向けてきた。

「………ディフに頼まれたんですよ」

 言い訳めいた台詞を口にして、ドアを開ける。
 ディフが住んでいた頃は何度も足を踏み入れた部屋だが、双子が住むようになってからは入るのは初めてだ。書庫の前を抜けて寝室へと向かう。
 何だか妙な気分だ。逆走しているみたいで。

(ああ、いつもは逆の入り口から出入りしていたからだ)

 遠慮がちに寝室のドアをノックする。

「どうぞ」

 細く開けて、中をのぞきこんだ。

「シエン。飯、できたぞ」
「ん」

 シエンは立ち上がるとすたすたと歩いてきた。どことなくがらんとした印象の部屋は窓のカーテンが開けられ、外の光がぼんやりと差し込んでいる。灯りはついていなかった。
 シエンはオティアの方を振り返り、それからこっちに視線を向けてきた。

「ちょっと見てて」
「任せろ」

 シエンと入れ違いに寝室に足を踏み入れると、オティアの枕元に置かれた椅子に腰を降ろした。
 ばくばく躍り上がる心臓を気取られまいと精一杯さりげなく、平常心を装って。

 変わった電気スタンドだな、と思ったら反対側のベッドサイドに置かれていたのは点滴台だった。吊るされたパックから伸びた細い管が右腕の血管に刺さっている。
 ああ、そうか。オティアは左利きだから右腕なんだな……。
 ぼんやりそんなことを考えていると、オティアが顔をしかめてか細い声でうめいた。

「う……んぅ……」
「オティア?」

 眉間に皺が寄り、わずかに身をよじっている。うなされているのか。
 ぴくぴくと、左手の指先が震えている……何かにすがるように。思わず握っていた。初めて出会ったあの日のように。
 ゆるく握り返してきた。

 きゅうっとえも言われぬ切なさに胸をしめつけられ、息をするのも忘れた。

 何故だろう。
 二月に熱を出した時、寝間着を脱がせて身体まで拭いたってのに。初めて会った時なんざ服を脱がせて身体を調べたのに。
 今、こうして手を触れあわせているだけで、どうしようもなく胸が高鳴る。重ねた手のひらと、絡みあわせた指の間にこもる熱で蕩けそうになる。
 力を入れた。
 もっと、深くオティアに触れたくて……ほんの少しだけ。

 ぴくっとまぶたが震えた。堅くとざされていた目がうっすらと開き、とろりとした紫の瞳が見上げてくる。
 参ったな。なんて……返事すりゃいいんだ。
 
「……よぉ」

 どうにか笑顔に近い表情を浮かべ、ありきたりな挨拶の言葉を口にする。ほんの少しの間、オティアは俺の顔を見ていた。

(何でこいつがここにいるんだろう?)

 さて、次に何て話しかければいいのやら。
 元気か? いや、それは寝込んでる相手に言うにはあんまりに間抜けだ。
 大丈夫か? …………今イチ。
 迷っている間にオティアはまた目を閉じてしまった。

(多分夢だ。薬のせいで頭が回らない……もう、考えるのもめんどうくさい)

 握った手は離さず、そのままに。

(ああ……でも……知られてしまったけれど、この家を出なくて済んだ。こいつからも離れずに済んだ)

 この一瞬が、永遠に続けばいい。
 本気で願っていた。

(……よかった。シエンのためにも)
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 手早く食事を終えると、シエンは自分たちの部屋に戻った。
 寝室のドアは開いたままだった。
 中をのぞきこんで、はっと息を飲む。呼びかけようとした声は喉の半ばで滞り、全身の動きが止まった。

 ヒウェルがオティアの手を握っていた。
 信じられなかった。
 オティアが、自分以外の人間にあんな風に手を握らせるなんて!

 それに、ヒウェルのあの表情(かお)……。
 うっすらと頬を染めて、目を細めて……ほほ笑んでいる。いつもの皮肉めいた薄笑いとはまるで違ってる。何て幸せそうな笑顔。

 それが、自分には決して向けられないことは分っていた。分っているつもりだった。
 オティアとヒウェルが仲直りできるようにこの数ヶ月の間、ずっと心を砕いてきた。
 喜ぶべきなんだろう。
 そのはずなのだけれど………。

 何だろう。胸の奥が、ずきりと痛い。

 声をかけることができなくて、シエンは黙って手を握り合う二人を見つめていた。自らの胸を蝕む鈍い痛みの意味も知らぬまま。

(ヒウェル………………………)
 
 細い管の中、透明な液がひと雫、ぽとりと落ちた。

(hardluck-drinker/了)

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モニのおうじさま

2008/09/15 23:30 短編十海
 拍手用お礼短編の再録。
 【4-2】ねこさがしを子猫の視点から見ると……
 
 ある所に……と申しますか、カリフォルニア州、サンフランシスコ市のユニオン・スクエア近くにあるエドワーズ古書店に、モニークと言う女の子がいました。

 一緒に生まれた兄弟姉妹は全部で6ぴき。
 ママそっくりの白いふかふかの毛皮にブルーの瞳、ぴん、とのびた長いしっぽと左のお腹にあるちょっぴりゆがんだ丸い形の薄茶のぶちがチャームポイント。
 末っ子のモニークは兄弟たちの中で一番小さかったけれど一番勇敢でした。
 いつもお庭やクローゼットに『ぼうけんのたび』に出かけます。でもそのたびにママに見つけられ、連れ戻されてしまうのでした。
 モニークはこっそり夢見ていました。

「いつか、ひろいせかいにぼうけんにゆくの」

 ある日、とうとうチャンスがやってきました。
 兄弟たちとモニークは、飼い主のエドワーズさんに連れられて旅に出ることになったのです。
 四角い乗り物に乗って、しばらくがたごとゆれていたなと思ったら急にフタがぱかっと開いて、モニークは見たことも嗅いだこともないような不思議な世界にいたのでした。

 まあ、何てここは明るいんでしょう。空気はつーんとして、知らない動物のにおいがたくさん混じっています。
 何がはじまるのかわくわくしていると、優しい手がころころとモニークをなで回してくれました。何だかとっても気持ちいい。

「はいみんな健康ですねー。特に感染症もなさそうだし。ワクチンはもうちょっとたってからにしますか?」
「そろそろもらい手も決まってるので……今日お願いできますか?」

 ひょい、と持ち上げられて、首筋に何かがちくっと刺さります。
 一体、何が起こったの?
 ちっちゃな口をかぁっと開けて自慢の牙をむいた時には、もう終わっていました。

 なあんだ。たいしたことなかった。

 また、四角い乗り物に乗せられて、ふわっと浮き上がります。出発進行。今度はどこに行くのかしら?
 わくわくしていると、いきなり乗り物ががくんとゆれて、大きく傾きました。

「にうー!」
「みうーっ」

 しかも、ころころ転がり落ちるその先で、フタが開いてしまったじゃありませんか!
 ころころり。
 ころりん。

 空中に放り出されてしまったけれどモニークは慌てません。くるっと一回転して、地面にすとん。

 でもここって一体、どこ?
 どこなのっ?
 
 

 わあ、広い。
 壁が……………………………………………………ないっ!
 
 
 
 つぴーんとヒゲが前に倒れます。しっぽにぞくぞくっと稲妻が走り、瞳がまんまるに広がります。
 ああ、まぶしい!
 何だか、何だか、すごーくわくわくどきどきするーっ!
 ああ、もう、だめ、じっとなんかしてらんないっ!

 モニークは全力で走り出しました。

 すごい、すごい。
 見たことのないものばかり。かいだことのないにおいばかり。聞いたことのない音ばかり!

 あたし、いま、ぼうけんしてるんだわ。

 いつもほんのちょっと足を乗せた途端にママに捕まっていた緑の芝生。もっとふかふかしていると思ったけれど、ちょっぴりチクチク、足の裏。
 でもひんやりして気持ちいい。
 土のにおいはトイレ用の砂とは全然違う。くろっぽくて、ほろほろと柔らかい。鼻を押し付けたら、口のまわりについちゃった。
 くしくしと前足で洗って、また歩き出すと、お花の間をふわふわ、ひらひらとちっちゃな生き物が飛んでいます。

 えものだわ!

 うずくまって、お尻をふりふり………えいっ!
 素早く繰り出した白い前足の先を、ちょうちょはすいーっとすり抜けてしまいます。惜しかった。あと1インチ(およそ2.5cm)。

 ちっちゃすぎてあたらなかったんだわ。もっとおっきいのをつかまえよっと。

 夢中になって探検していると、突然……出ました。おっきいのが。

「ふぁおー………」

 見たこともないほど大きな猫が、大きな大きな口を開けて飛びかかってきたではありませんか!

「ふーっ!」

 モニークはびっくり仰天、逃げ出しました。
 早く、早く、逃げなくちゃ!
 必死で走っていると、何か堅くて尖ったものに後足がぶつかってしまいました。

 いたい!

 兄弟たちとじゃれあってるときも。ママに怒られた時も、一度だってこんなに痛かったことはありません。

 いたい、いたい、いたいっ!

 どうしよう。外の世界は危険がいっぱい。
 どこかに隠れなくちゃ。暗くて、しずかで、狭いところ。
 よろよろとモニークはさまよい歩きました。歩いて、歩いて、くたくたに疲れた時にようやく、たどりついたのです。
 暗くて、しずかで、狭い所に。

 かくれなきゃ。かくれなきゃ……。

 すき間にもぐりこみ、いっしょうけんめい傷口をなめます。

 ママ。ママ。こわいよぉ。いたいよぉ。
 どこにいるの、ママ。たすけて、だれかたすけて!

 このまま、お家に帰れなくなったらどうしよう。ママにも、兄弟たちにも、エドワーズさんにも会えなくなっちゃったらどうしよう。
 痛いのと、悲しいのと、怖いのとでぶるぶる震えていると……優しい声で呼ばれました。

「モニーク」

 はい!

 ちっちゃな声で返事をすると、優しい王子様が、あったかい手でモニークを抱き上げてくれたのです。(とりあえずかみついた事は忘れました)
 金色の髪に紫の瞳、話す声はまるで音楽のよう。
 王子様がなでてくれると、ずきずきしていた足がすーっと楽になりました。

 すごいわ、おうじさま……すてき……かっこいい……。

 王子様に抱っこされて、モニークはうっとりしながらお家に帰りました。
 ママも、兄弟たちも、エドワーズさんも大喜び。

「モニークをたすけてくれてありがとう。お礼にこの子をお嫁にもらってくれませんか」
「……いいえ」

 こうしてモニークはふられてしまいました。

「おうじさまいっちゃった」

 がっかりしてお見送りしているモニークを優しく毛繕いしながらママが言いました。

「まだあなたはちっちゃいからね。一人前のレディーになったら…また素敵な殿方とめぐり合うかもよ?」
「いや。モニはおうじさまがいいの! これは、うんめいのであいなの!」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「ふうん……そんなことがあったんだ」

 脱走劇の翌日。念のため、健康診断に連れて来られたモニークから120%美化された(推測)物語を聞き終えると、サリーはため息をついた。
 オティアがこの子を飼ってくれればよかったのに。
 動物を飼うことは、きっとあの子にとって良い方向に働いてくれると思ったのだ。

「しかたないね。こう言うことは、本人が決めないといけないから」

 あごの下をくすぐると、モニークは目を細めてすりよって、それからぱちっと青い瞳を開けて鳴いた。実にきっぱりとした口調で。

「にう!」
「え? 運命?」
「にゃ!」
「そっか………がんばってね」

 深く考えないまま、サリーはうなずいた。後にモニークの頑張りがどんな結果をもたらすか、なんてことは……予想だにせずに。

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(モニのおうじさま/了)

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