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ローゼンベルク家の食卓

【4-3-4】壁の傷、沈黙の理由

2008/09/15 23:21 四話十海
 木曜日。
 何事もなかったかのように(少なくとも表面上は)出勤するレオンと双子を送り出してからディフは朝食の後片付けをしていた。

 ユニオン・スクエア近くの事務所までレオンは車で、オティアとシエンは二人一緒にケーブルカーで通っている。
 探偵事務所の始業時間は弁護士事務所より若干遅い。だから家を出るのはディフが一番後になる。
 所長がやってきて事務所を開けるまでの間、オティアは上の法律事務所でシエンと二人、アレックスに勉強を見てもらうか、自習をするのが最近の習慣だった。

 洗い終わった食器を片付けていると、携帯が鳴った。
 名前を確認してから、とる。

「ハロー、マックス」
「やあ、ヨーコ。珍しいな、こんな時間に。どうした?」
「うん、実はさ、授業で911のことを扱うんだけど……」
「ああ、もうそんな時期か」
「当時の新聞や雑誌の切り抜きとか、持ってる?」
「あるよ。あの頃はまだ現職の警察官だったしな」
「さすが! コピーとってこっちにFAXしてもらえないかな。できるだけ、当時の生の情報が欲しいの」
「OK。取って来るよ」

 話しながらキッチンからリビングへと向かい、隣に通じるドアを開ける。

「学校に送ればいいのかな?」
「うん。学校にお願い」
「ラッキーだったな、まだ家に居たんだ。これが事務所なら一度引き返さなきゃならないとこだったぜ?」

 書庫の扉を開けて中に入った。

「そうなの? 運が良かった……それじゃ、よろしくね」
「じゃ、また」
「……あ、そうだ、マックス」
「何だ?」
「ワカメ食べなさい」
「ワカメ?」
「……海藻よ」
「ノリみたいなもんか」
「まあ似た様なもんね。サクヤに聞けば教えてくれるから。じゃあね」

 何のことかはわからないが……多分、体にいい食べ物なのだろう。
 本棚に目を走らせる。2001年9月のスクラップはすぐに見つかった。ぱらりと手にとりひらいてみる。さて、どのへんを送ろうか。
 英文の記事だがヨーコなら問題なく翻訳できるはずだ……あるいはあえて英語のまま生徒に渡して自力で読み取らせるのかも知れない。

 雑誌や新聞の切り抜きを見ているうちに、当時の記憶が蘇ってくる。あの頃はまだ制服警官で………。

「お前、きれいな髪の毛してるな」
「そうかぁ?」
「伸ばさないのか」

「っ!」

 水色の瞳。
 浅黒い肌。
 かつての相棒、親友だった男の面影が生々しく蘇る。
 ばさり、とスクラップブックが落ちた。

「ずっとお前をこうしてやりたかったんだよマックス……」

「あ……あぁ…………うそ……だ……フレディ……そん……な……」

 喉がつまる。
 確かに呼吸をしているはずなのに……息…………が………苦しい……。

「紹介しよう、レオンハルト・ローゼンベルクの愛人……いや、『最愛の人』だ」
「たっぷり可愛がってやれ」

「やめろ……触る……な」

「愛してるぜ、マックス。お前はもう、俺のモノだ」

「ちがう……ち……が……」

 ひゅう、ひゅう、ぜい、と喉が鳴る。こめかみの中で血液が脈打ち、全身の毛穴から冷たい汗がぽつぽつと噴き出した。
 視界がぐんにゃりと歪み、足がふらつく。ダリの絵にも似た悪夢の中、廊下にさまよい出した。

 記憶が混濁する。
 ここはどこだ。
 今はいつだ。
 俺の部屋……か?
 だめだ……………………倒れる。

 よろよろと寝室へと向かう。記憶にあった位置にベッドがなかった。手探りでさがし回り、やっと見つけた時はもう限界に近かった。
 どさりと倒れ込む。

 間に合った………。

 意識が途切れ、そのまま闇に飲み込まれた。


(辛い思いさせてごめんね。でも、もう終わったことなんだよ、マックス……)
「ヨーコ?」
(目を開けて。あなたの助けを必要としている子どもたちが居る)
「俺なんかに……できるのだろうか」

 銀の鈴を振るような笑い声。応えたのは、ただそれだけ。けれど閉ざされていた目の前が、すーっとひらけたような気がした。


 目を開ける。
 ぼんやりと霞んでいた景色が次第にはっきりとしてきた。

「あ」

 がばっと起きあがる。

「何で、ベッドが二つもあるんだ?」

 答えは簡単。ここはそもそも俺の寝室じゃない。

「やっちまった………」

 どれだけ混乱していたのだろう? 現在と過去の区別がつかなくなるなんて。
 いったいどれほど気を失っていたのか……。時計を探すが、無い。妙だな。確か、オティアが青い目覚まし時計を使っていたはずなんだ。
 1コインショップで珍しくあいつが自分で選んだクラシカルな青い時計。今時珍しい、ベル式の。

 いや、それ以前に時計なら自分で持ってるだろう!
 左手首の腕時計で時間を確かめる。ヨーコから電話をもらってから、やっと10分が経過したところだった。
 スクラップブックを探すまでに5分もかかっていない。気絶していたのはせいぜい5分ってところか。
 ほっと息を吐いてから、改めて部屋の中を見回す。

「この部屋……何で、こんなに物がないんだ?」

 無くなっていたのは目覚ましだけじゃなかった。ベッドサイドのスタンドも、テーブルも。椅子も、スリッパも。床に敷かれたラグさえ無くなっている。
 天井を見上げる。
 何てこったい、電灯も外されているじゃないか!

「何があったんだ………」

 しかも、壁が、傷だらけだ。引っ掻いたなんて可愛いレベルじゃない。ナイフで滅茶苦茶に突き刺し、切り裂いたような傷が一面に刻まれている。
 顔を近づけて調べてみた。
 何かの破片が刺さっていた。

 一度、自分の部屋に引き返し、ピンセットとレーザーポインターを持って戻る。
 壁にめり込んだ破片をピンセットで取り出し、手のひらに乗せる。青いツヤツヤの金属片………目覚ましの欠片だ。おそらくベルの一部。しかし、どうやったらこんな風に欠けるんだ?
 焼けこげこそないが、まるで爆弾で吹っ飛ばされたみたいな壊れ方じゃないか!

 破片のめり込んでいた角度に合わせてレーザーポインターを固定し、スイッチを入れる。

 ぽつっと、赤い斑点がベッドの一つを示した。
 壁の他の傷でも試してみたが、結果は同じ。

 爆心地は……オティアだ。

 目を閉じる。
 ついさっき、自分を襲った強烈なフラッシュバックとそれに続く悪夢のようなひと時を思い出す。

 あの閉ざされた『撮影所』で、オティアは俺の何倍も酷い目にあわされていた……そして、あの子には手を触れずに物を動かす能力がある。
 俺に向かって発射された弾丸を逸らし、命を救ってくれた力が。
 だが同時に暴走し、安普請とは言え、倉庫一つを丸ごと崩壊させた力でもある。

 目を開けた。

 空っぽの部屋に、夜、起きたであろう光景をだぶらせる。
 悪夢にうなされるオティア。見えない腕が枕元の時計をつかみあげ、壁に向かって叩き付け、ぐいぐいとねじ込む。
 オティアが目を覚ますと同時にひしゃげた時計は引力に引かれて下に落ち、ベルの欠片が壁に残る。
 隣のベッドではシエンが怯えて………いや、シエンがうなされるオティアを起こしたと考えた方が自然だろう。

(だから、眠りたかったのか)

 胸の奥を鋭い刃物で切り裂かれる思いがした。

「あいつらがいると薄気味悪い出来事が続いて……」
「小さな頃から、泣き出すとあっちこっちから物が飛んできて……」

 去年の十月の終わり、サンフランシスコ市警の取調室。
 オティアを人身売買組織の仲買人に売り払った施設の職員が、口角から泡を飛ばしながら自供した。

「里親から何度戻されたと思う。押し付けられたこっちはいい迷惑さ」
「他の連中だって内心ほっとしてるんじゃないか? 厄介払いができたって……」

(だから、俺には言えなかったのか)
 
 寝室を出て、書庫に戻る。床に落ちたスクラップブックを拾い上げ、ページをめくった。
 もう、悪夢は起きなかった。

 君の言う通りだ、ヨーコ。
 やらなければいけないことがある。過去に捕まってる暇はない。

 携帯を開いてボタンを押し、耳に当てた。

「ハロー、アレックス。ああ、俺だ。すまないがシエンとオティアを家に送ってきてもらえないか……。うん、可及的速やかに頼む」

 アレックスは理由は聞いてこなかった。ただ静かに「かしこまりました」とだけ。

「ありがとう。探偵事務所は、本日休業だ」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

「ただ今……ディフ、どこ?」
「こっちだ。書庫にいる」

 ぱたぱたと軽い足音が2人分。近づいて来る………開け放した境目のドアを潜り、廊下を歩いて。次第にゆっくりと、ためらいがちに。
 双子はしっかりと手を握り合い、書庫に入ってきた。
 シエンは真っ青な顔で震えている。オティアはと言うと、珍しく困ったような顔をしていた。
 どうやら、何が原因で呼び戻されたのか、わかっているようだ。

 黙って机の上に目覚まし時計の破片を乗せた。
 シエンがびくん、とすくみ上がった。

「ごめんなさい………ごめん………なさい…………」
「謝らなくていい……シエン。謝らなくていいんだよ」

 それでも彼は肩を震わせ、小さな声で謝り続ける。オティアがますます途方に暮れた顔をした。

「俺に話したくなかったのは……シエンのため……か? オティア」
「………ああ」
「そうか……」

 破片の拡散状況を調べていて一つ気づいたことがある。どんなに酷く飛び散っても、シエンの眠っている場所だけは避けていた。
 悪夢にうなされて、追い詰められている瞬間でさえ、オティアはシエンを傷つけなかったのだ。

 深く息を吸い、吐き出す。ともすれば震えそうな膝にしっかりと力を入れて、双子を見つめる。
 怯えた2対の紫の瞳が見上げてくる……。

「シエン。オティア」

 名前を呼ばれただけで、びくん、と肩がすくみあがるのが分った。
 言うのは辛い。表面をかき分け、彼らの内側に踏み込むのが恐い。
 塞がりかけた傷口を無理矢理押し広げて、新たな血があふれ出すんじゃないかと思うと言葉が鈍り、逃げ出したくなる。
 だが、今言わなければ俺はずっと、都合のいい『大人』のままだ。気まぐれにほほ笑みかけて、可愛がるだけの……。

 この子たちを育てる『親』にはなれない。
 いつまでたっても。
 それは、嫌だ。

「ちっちゃい頃から泣く度に物が飛んでたんだってな。施設の職員が言ってるのを聞いた。そんなになるまで調子悪くなってたのか?」

 返事はない。だが、オティアがかすかにうなずいた。

「……力もお前達の一部なんだから。走ったり歩いたりするのと同じように自然にすることだと思ってる。第一、倉庫の天井落ちたの見てるんだ。今さらちょっとばかし物が飛ぶ程度でびびったりしないさ」

 シエンの瞳がうるむ。透明な涙の雫が盛り上がり、今にもこぼれおちそうだ。白い、細い喉がひくひくと震えている。
 
「今すぐ信じろって言っても難しいだろうけど……追い出したりなんか、しない。むしろ出て行くって言われたらどうしようって、びくついてんのは俺の方だ」

 とうとう、シエンは泣き出してしまった。
 追い出されたらどうしよう。ずっと、それが恐かったんだ。その一心で二人だけで耐えてきたのか。明かりのない部屋で寄り添って、震えて。

 俺は、バカだ。大バカだ。何故あの夜、ドアを開けなかったのだろう。踏み込むことを恐れてしまったのだろう?
 
 今ここで行くなと言っても、シエンとオティアは信じてはくれないかもしれない。
 まがりなりにも続いてきた穏やかな関係を、自分から乱すのは、とてつもなく恐ろしい。全身がすくみそうになる。だが、互いのずれを少しでも埋める最初の一歩にはなる。

「行かないでくれ、シエン……オティア……。ここに………居て……くれ………頼む」

 掠れた声で、それでも最後まで言い切った。

 永遠にも等しい一瞬の後。

 シエンが、涙をぽろぽろとこぼしながら、空いてる方の手をそろそろと伸ばしてきてくれた!
 そっと自分からも近づき、屈み込んで目線を合わせた。
 だいぶためらってから、シエンは俺の腕に触れた。一瞬、ぴくっと震えてから、指がまとわりつき、つかんだ。
 熱い。
 彼の手の、幼い熱が胸の中心、一番奥深い所にまで染み通り……震えた。

「……ありがとう」

 何故、そんな言葉を口走ったのか、自分でもわからない。だが震えるシエンの指先を感じたその瞬間、ほほ笑んでいた。
 シエンは俺の腕をつかむ自分の手に額を当てて、小さな声でまた、

「ごめんなさい」と言った。

 静かに手をのばし、髪の毛に触れる。少しくすんだ金色の髪を撫で下ろす……そっと。そのまま肩へと滑り降ろし、ためらいながら細い肩を手のひらで包み込んだ。

 本当は二人まとめて抱きしめたい。この胸の中に。だけど、それをやったら今は怯えさせてしまうだけだ。
 せめてシエンを通して少しでもオティアに気持ちが伝われば……と、願うのは俺の傲慢だろうか?

「ごめんなさい……」
「うん。俺からも……ごめん」

 そのまま、シエンは静かに泣き続け、オティアは疲れたような、ほっとしたような顔でそれを見守っていた。
 

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