▼ 【4-2】ねこさがし
- 2006年9月初旬の出来事。
- 50000ヒット御礼企画、オティアを中心としたエピソードです。
記事リスト
- 【4-2-0】登場人物紹介 (2008-09-08)
- 【4-2-1】リズの子どもたち (2008-09-08)
- 【4-2-2】ひっくり返ったバスケット (2008-09-08)
- 【4-2-3】オティア、猫を探す (2008-09-08)
- 【4-2-4】ヒウェル参上 (2008-09-08)
- 【4-2-5】初めての探偵料 (2008-09-08)
▼ 【4-2-0】登場人物紹介
- より詳しい人物紹介はこちらをご覧下さい。
フリーの記者。26歳。
黒髪、アンバーアイ、身長180cm、細身(と言うか貧弱)
フレーム小さめの眼鏡着用。適度にスレたこずるい小悪党。
オティアに想いを寄せるが告白段階で激しく自爆。
最近だいぶ影が薄くなってきた本編の主な語り手。
【オティア・セーブル/Otir-Sable 】
不思議な力を持つ双子の片割れ。16歳。
ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
極度の人間不信だがヒウェルには徐々に心を開きつつあった、が。
告白の際に著しく心を傷つけられ、今はひたすら『空気』扱い。
観察力に優れ、また記憶力は驚異的に良い。
ポーカーフェイスの裏側で実は意外に心揺れ動いている。
動物には優しい。猫が好き。
ディフの探偵事務所で助手をしている。
【シエン・セーブル/Sien-Sable】
不思議な力を持つ双子の片割れ。16歳。
外見はオティアとほぼ同じ。
オティアより穏やかだが、臆病でもろい所がある。
また素直そうに見えて巧みに本心を隠してしまう一面も。
ディフになついている。
自覚のないままヒウェルに片想いしている。
その一方で、オティアとのこじれた仲を取り持とうとする複雑な立ち位置に。
レオンの法律事務所で秘書見習いをしている。
動物はちょっと苦手。
【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】
通称レオン
弁護士。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
ライトブラウンの髪と瞳、身長180cm、着やせするタイプで意外と筋肉質。
ディフの旦那で双子の『ぱぱ』。
ふと気がつくと今回出番が無い。
【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】
通称ディフ、もしくはマックス。
元警察官、今は私立探偵。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
頑丈そうな体格だが無自覚に色気をふりまく困った体質(ゲイ相手限定)。
裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
レオンの嫁で双子の『まま』。
でも仕事モードの時は強面探偵所長。
【結城朔也】
通称サリー。カリフォルニア大学に留学中の日本人。
ディフやヒウェルの同級生だったヨーコ(羊子)の従弟。
サクヤという名が言いづらいためにサリーと呼ばれているが、男性。
動物病院では水色の白衣を着ている。
実家は神社。
【エドワード・エヴェン・エドワーズ/Edward-Even-Edwars】
通称EEE、もしくはエディ。英国生まれ、カリフォルニア育ち。
濃いめの金髪にライムグリーンの瞳。
元サンフランシスコ市警察の内勤巡査でディフとレオンの友人。
現在は父親から受け継いだ古書店の店主。やや引きこもり気味。
飼い猫のリズは家族であり、よき相談相手。
サリー先生のことが何かと気になる36歳。
【リズ】
本名エリザベス。
真っ白で瞳はブルー、手足と尻尾が薄い茶色のほっそりした美人猫。
エドワーズ古書店の本を代々ネズミから守ってきた由緒正しい書店猫。
現在、6匹の子持ち。
エドワーズのよき相談相手。
次へ→【4-2-1】リズの子どもたち
▼ 【4-2-1】リズの子どもたち
その日、いつもと同じ様に5:00かっきりに目を覚ますと、エドワード・エヴェン・エドワーズは朝食後に庭に出て薔薇を摘んだ。
こじんまりとした砂岩作りの建物の裏に広がるささやかな庭には大小色とりどりの夏薔薇が今を盛りと咲き誇り、とろりとした香りを朝の空気の中に漂わせていた。
さて、あの人にはどんな花が似合うだろう?
いつもより心持ち入念に手入れをしながら薔薇の花を品定めして行く。
緑滴る朝の庭で目を引くのは、まず、おとぎ話のお姫様のドレスのようなひらひらした花びらを幾重にも重ねた大輪の薔薇……ゴージャスだが、いささかかさばる。香りも強い。外で香る分には佳いけれど、部屋の中では少しきつそうだ。
花の中心から花弁の縁にかけてピンク色のグラデーションのかかった小花の薔薇と、同じ大きさのクリーム色のを合わせることにした。
開いたばかりの花と、まだ開いていない蕾を選んでガーデニング用のハサミでちょきん、ちょきんと切って行く。贈る相手に思いを馳せながら、心をこめて、丁寧に。
仕事場に持って行くのだから、あまりかさばらない方がいいだろう。花だけでは寂しいから、緑のシダの葉っぱも交ぜた方がいいかな……。
朝露をふくんだ薔薇のトゲを丹念にとると、改めて丈を短く切りそろえる。母のやり方を思い出しながら、丁寧に。
根本を濡らしたティッシュでくるみ、輪ゴムで留める。さらにその上からラップを巻いて水漏れを防ぐ。
仕上げに薄紙でくるりと巻いて、薄いピンクと青の細いリボンの2本どりで結わえる。
幸い、ラッピング用の薄紙とリボンは豊富にあった。
贈り物として本を買い求めるお客も多いのだ。
じっくりと時間をかけて小ぶりな薔薇の花束を作り上げるとエドワーズは満足げにうなずき、中にタオルをしいたピクニックバスケットを準備した。
さて、どうやって誘導しようかと考えていると、子猫たちは自主的に近づいてきた。
目をきらきら輝かせ、ヒゲをぴーんっと前倒しにして。
「みうー」
「にう、にう、にう」
「みゃ」
助かった。
この所、めっきり移動速度の早くなってきたこの6匹のにごにご動く毛玉どもを追いかけて、確保して、バスケットに詰め込むなんて……。
想像しただけで目眩がする。
できればそんな難易度の高い追いかけっこには参加したくないものだ。
バスケットのにおいをくんくん嗅いでる子猫たちを、ひょい、ひょい、とつまみあげて中に入れる。しっかりとフタを閉めて留め具をかけた。
準備をしている間中、リズはずっと足元にまとわりつき、何か言いたげに青い瞳で飼い主の動きの一つ一つを見守っていた。
「大丈夫、心配ないよ。サリー先生がどんなに優しいかお前も良く知ってるだろう?」
手をのばして頭をなでると、ひゅうんと長いしっぽが巻き付いてきた。
「それじゃ、リズ。行ってくるよ」
※ ※ ※ ※
20分後、エドワーズは大学付属の動物病院の待合室にいた。薄桃色とクリーム色の小さな薔薇をコンパクトにまとめた花束と、子猫の入ったピクニックバスケットを抱えて。
さっきまでは、ごそごそ、もそもそと動き回る気配がしたが今は静かだ。フタをあけて様子を確かめる。
初めての病院で緊張してはいないだろうか。
怖がってはいないだろうか?
もわっと、微かに湿り気を帯びたあたたかい空気が立ちのぼってくる。
白と薄茶の毛玉が五匹、黒い縞模様のが一匹。互いの体に顔を寄せ合い、折り重なって眠っていた。思わず顔がほころぶ。
しかし次の瞬間、子猫どもはぱちっと目を開き、一斉にこっちを見上げた。と、思ったら………押し合いへし合いしてよじ上ってきた。
おおっと!
あわてて閉めた。
やれやれ、油断もすきもない。だが、この分なら心配しなくてよさそうだ。
「エドワーズさん、どうぞ」
来た。
彼だ。
ラッキーなことに待合室まで呼びに来てくれた。すっと立ち上がると、エドワーズは水色の白衣を着た眼鏡の獣医師に歩み寄った。
「あの、サリー先生」
「はい、何でしょう?」
「これを……」
さし出された薔薇の花束を見て、サリー先生はわずかに眉根を寄せて何とも微妙な表情をした。困惑と戸惑い、そして微笑が入り交じり、そのどれでもなくなっている……。
慌ててエドワーズは付け加えた。
「ちょうど……夏薔薇が盛りでしたので……その、いつもお世話になってる感謝をこめてっ」
「……ありがとうございます、綺麗ですね……。 待合室に飾ってもらいますね」
サリー先生の眉に入っていた力が抜ける。ほっとしたのが伝わってきた。
「……はい。棘はとっておきましたから……」
早まったことをしてしまったかな。
苦笑しながらバスケットを抱えて診察室に入る。
ほわほわの砂糖菓子のようなクリーム色と薄いピンクの薔薇の花束は、アシスタントのミリー嬢に手渡された。
「それで、今日はどうしましたか?」
「はい、リズの子供たちを連れてきました。健康診断をお願いします」
かぱっとバスケットを開けると、一匹ずつ子猫を取り出して診察台の上に並べた。たちまち、ちっちゃな尻尾が6本つぴーんと立てられる。
「みうー」
「うわあ、可愛いなあ……」
サリー先生は屈託のない笑顔を浮かべて子猫たちを見ている。花を渡された時よりうれしそうだ。
6匹の子猫たちは我れ先にサリー先生に近づき、鼻をくっつけてくんくんとにおいを嗅いだ。ピンク色の口をかぱっと開けて口々に、人間には聞こえないほどの甲高い声で何やら話しかけている。
「はいはい、順番にねー」
サリー先生は次々と子猫たちを抱き上げて体温と体重を量り、素早く歯や目、耳、手足、爪、尻尾、お尻の穴、お腹を確認してゆく。
撫でているとしか思えないようなさりげない仕草で、子猫たちもまったく警戒していない。
楽しそうにころころと転がり、四つ足をじたばたさせながら「にうー」と甘えた声を出す。
「はい、終わり。次は君ね」
「みゅー」
もっと遊ぶ、とまとわりつく子猫をぽいっとバスケットに入れてお次の一匹。見ているうちにさくさくと6匹ぶんの健康診断が終わった。
「はいみんな健康ですねー。特に感染症もなさそうだし。ワクチンはもうちょっとたってからにしますか?」
「そろそろもらい手も決まってるので……今日お願いできますか?」
「はい。じゃあ少しお待ちくださいね。すぐ準備します。マリー先生!」
「まあ、可愛い団体さん……リズの子猫?」
「はい」
「お母さんに似て器量よしぞろいね」
サリー先生とマリー先生、二人の獣医師は手際よくぷすぷすと注射をして行く。初めて注射をされた子猫がちっぽけな牙を剥き、「しゃっ」と怒った時にはもう終わっている。
ただ一匹、バーナードJr.は何をされても終始静かで、「にゃ」とも「しゃっ」とも鳴かなかった。
「はい、おしまい。みんな元気でね」
サリー先生は名残惜しそうに最後のモニークを撫でるとバスケットに入れた。
「ありがとうございました」
6匹もいれば少しは診療時間も長くなって、それだけ一緒にいられるかとほのかに期待したのだが……。
こんな時はちょっぴりその手際の良さが寂しい。
「子猫たちがいなくなってしまうと、寂しくなりますね」
「そうですね。ずっと賑やかな日が続いていましたから。もらわれて行く先は、ほとんど近所なんですが」
「近くなら、時々会いに行けて、いいじゃないですか」
ああ、花を渡した時より、何倍もすてきな笑顔だ。くやしいな。
「ええ……そうですね」
でも、この顔が見られることが今、ひたすらうれしい。
「ワクチン接種時期は新しい飼い主の方にも教えてあげてくださいね」
「はい、忘れずに伝えます。ありがとうございました」
「お大事にー」
バスケットを抱えて待合室に戻る。
ふわっとかすかに馴染みのある香りを嗅いだ。
ピンクとクリーム色の薔薇が花瓶にいけられ、受け付けのカウンターに飾られていた。
※ ※ ※ ※
花をいけた花瓶をカウンターに置いてから、ミリーは素早く手帳をめくり、秘かに日記に記入しているスコアを更新した。
『本日の撃墜者1名。クリーム色とピンクの薔薇の花束』
後でサリー先生に聞いてみよう。「あの花をくれた人、どう?」って。
次へ→【4-2-2】ひっくり返ったバスケット
▼ 【4-2-2】ひっくり返ったバスケット
駐車場に戻るエドワーズの足どりは重かった。
花束を渡した瞬間のサリー先生のあの何とも微妙な……困ったような顔が頭から離れない。
あの人を困らせてしまった。しかも、フォローしようと慌てて心にもない言い訳をづらづらと口走って。みっともないにも程がある。
感謝の印だって? 嘘をつけ。
(いや、確かに半分はそうだったのだけれど。あと半分は……)
深いため息が漏れた瞬間、踏み出した足がガツっと固いものにぶつかった。駐車場の車止めだ。何故、こんな所に?
(いや、これはここにあるのが正しい。まちがっているのはむしろ踏み出した自分だ)
大量に分泌されたアドレナリンが思考を飛躍的に加速する。
妙に冷静な分析が閃く中、エドワーズの体は確実に駐車場のアスファルトの上に倒れてゆく。掴まり、体を支える場所はない。
子猫たちを守らないと!
とっさに片手で受け身をとりつつ、もう片方の手でがっちりとバスケットを抱え込む。警察を辞めてから3年が経過していたが、警察学校で身につけたことは抜けていなかった。
思い出すより早く体がきちんと然るべき動きをし、直撃は免れた。バスケットも無事だった。
だが何と言う不運。留め具の締め方が甘かった!
衝撃でかぱっとフタが開き……
「みー」
「にゃっ」
「みゃっ」
ころころとやわらかな毛玉が6匹、転がり出る。
「ああっ」
地面に降りたと思ったら立ち上がり、短い足を素早く動かし、た、た、たーっと四方八方に飛び散って行く。
脱走だ!
「大変だっ」
あわてて手近にいた一匹をつかまえ、ベストの懐に突っ込んだ。
「にうー」
もぞもぞと懐の奥で動いている。とりあえず一匹確保。だが他の子猫はどこだっ?
がくがく震える膝をふみしめて見回す。ちらっと隣の車の下に見慣れた黒縞の尻尾が見えた。
「バーナード! そんな所に入ってないで……」
懐の中にいた一匹をバスケットに移し、今度こそ留め具をしっかりかけてから腹這いになって車の下に潜り込む。
「おいで、バーナード」
バーナードはとことこと近づいてくると、ふん、ふん、と指先のにおいを嗅いだ。くすぐったい。だが遠い。もうちょっと……今だ!
前足をつかんだつもりが手の中にあるのは後足だった。素早いったらありゃしない、いったいいつ方向転換したのだろう?
「ごめんよ、バーナード……」
じたばたするバーナードの後足をつかんで引き寄せる。痛くはないだろうか。心配だが今はまず、身柄の確保が最優先だ。
じりじりともう片方の手が届く位置まで引き寄せて、両手で抱えて車の下から連れ出した。
素早く確認する。
よかった、怪我はないようだ。
「よくガマンしたね。えらかった」
バスケットの中にいれると先客が「にう!」と声を出す。その時になって最初に確保したのがティナだったとわかった。
「あと4匹……どこだ?」
見回した瞬間、心臓が凍りついた。
そばの街路樹の幹を、ざっしざっしと登っている白い毛玉が………アンジェラだ。いつの間に、あんな高い所まで!
「Noooooo!」
もはやなり振りかまっていられない。バスケットを木の根本に置くと、エドワーズは何年ぶりかで木登りに挑戦した。
ベストやシャツにいくつもかぎ裂きができる。木の枝が顔をひっかき、葉っぱが髪の毛にへばりつく。だが、構わず遮二無二登り、なおも高みを目指すアンジェラを捕まえて懐に押し込んだ。
「危なかった……」
降りるのは登る以上に大変だった。慎重に、慎重に。懐のアンジェラをまかりまちがってもつぶしたりしないように。
ああ、地上が遠い。
他の子たちはどこにいるんだろう。こうしている間に遠くまで行ってやしないだろうか。
「うわっ」
ずるっと足が滑る。慌てて枝を掴み、体を支える。片足が宙に放り出される。危ない、危ない……。
待てよ。この高さなら、飛び降りた方が早くないか?
目で地面との距離を計る。今は一秒でも時間が惜しい。よし、やるぞ。
どさりと飛び降りた。じーん、と足の裏から膝、腰にかけて衝撃が走る。懐でごそごそとアンジェラが身動きした。
「よしよし、驚かせてしまったね」
取り出して無事を確認してから、バスケットに入れた。
これで3匹確保!
あとは? どこだ? どこだ? まさか表通りに出てはいないだろうな……。
「あら、子猫ちゃん」
二台向こうの車に乗ろうとした女性がふと足元を見て首をかしげた。
「どうしたの、あなた。こんな所で何してるの?」
「そ、その猫、うちのですっ」
全力で駆け寄った。
女性は一瞬、ぎょっとした顔でエドワーズを見返してきたが、満身創痍の彼と抱えたバスケット(もぞもぞ動いてにーにー鳴いている)を見て全てを察したらしい。
うなずくと足元にすりよるオードリーを抱き上げてくれた。
「どうぞ」
「ありがとうございます……」
女性の手からオードリーを受け取り、バスケットに入れた。残りはモニークとウィルだ。いったいどこに?
その瞬間、表通りの方ででキーっと車の急停車する音が聞こえてきた。
「まさかっ。ウィル? モニークっ?」
駆け出そうとしたその時、目の高さで「にーっ」と鳴く声がした。
「あ………ウィル………………」
白茶の子猫が一匹、すぐそばの車のボンネットの上でとくいげに足をふんばっていた。
※ ※ ※ ※
ウィルを回収してから念のため表通りまで確認しに行った。幸いなことに……本当に幸いなことに、車の急停止は子猫とも、それ以外の動物とも無関係だった。
(神よ、感謝します)
しかし、モニークの姿はこつ然と消えたまま、いくら探しても見つからない。
時間はどんどん過ぎて行く。
捜索範囲を広げようにも一人で探せる距離はおのずと限られてしまう。
どうしよう。
一体、どうすれば?
不吉な予感がぐるぐると胸の底でうずを巻く。
ふとその時、脱走したバーナードを届けた時の花屋の店主の言葉を思い出す。
『ああ、よかった、もう少しで探偵事務所に電話しようと思ってたんだ!』
探偵。その一言から細い糸が伸びてゆき、記憶の底から友人の結婚式でサリー先生と交わした会話を釣り上げる。
『時々探偵事務所で動物探したりしてます』
『………迷子のペットも探してるんですね、彼が』
エドワード・エヴェン・エドワーズはいざとなると迷わない男だった。
決然とした面持ちでバスケットを抱えて車に乗り込むと、ユニオン・スクエアに向けて走り出した。
自宅ではなく、友人の経営する事務所に向かって。急げば10分もかかからず着けるはずだ。
彼は捜査のプロだ。こう言う時はプロに任せた方がいい。それがベストの選択なのだ。
※ ※ ※ ※
「戻ったぞ」
マクラウド探偵事務所では、ちょうど帰ってきた赤毛のいかつい所長が、ややくすんだ金髪に紫の瞳の有能少年助手に声をかけた所だった。
「留守の間、何かあったか?」
「急ぎの用事は、別に」
「OK。じゃあ、本日の捜査はこれにて終了。一件片付いたから報告書にまとめる」
「ん」
「留守番ご苦労。しばらく自由にしていていいぞ」
「わかった」
所長がデスクの上のノートパソコンを起動し、有能少年助手が読みかけの本に手を伸ばしたその時……呼び鈴が鳴った。
二人は顔を見合わせ、所長が声をかけた。
「どうぞ。開いてます」
勢い良くドアが開いて、シャツもズボンも髪の毛もくしゃくしゃにした金髪の男が血相変えて、ピクニックバスケットを抱えて入ってきた。
「マックス、助けてくれ、リズの娘が行方不明なんだ!」
行方不明?
ディフとオティアは顔を見合わせた。いきなり穏やかじゃない。だが、それなら彼の取り乱した様子もうなずける。
「落ち着け、EEE。その子、年はいくつだ?」
「三ヶ月」
「誘拐かっ?」
既にごつい手が卓上の電話に伸び、受話器を取り上げていた。
「いや……病院の帰りに……逃げ出して………」
ぱちくりとディフはまばたきした。
逃げ出した? 確かに今、そう言った。
「えらくアクティブな0歳児だな」
「私がいけないんだ………うっかり、バスケットをひっくりかえしたばっかりに!」
バスケット?
所長と助手は顔を見合わせると、改めてエドワーズの抱えたピクニックバスケットに視線を向けた。
きっちりフタの閉められたバスケットからはかすかに、ごそごそと何かの動き回る気配がした。さらに落ち着いて耳をすますと何やら「みゅーみゅー」と小さな甲高い声が聞こえる。
「もしかして……いなくなったのは………猫、か」
「ああ。子猫だ」
「何てこった!」
ディフは受話器を一旦置き、電話を切った。
「担当が違うじゃないか。SFPD(サンフランシスコ市警)じゃなくて、アニマルポリスだ!」
いなくなったのが猫だろうが、人間の子供だろうが。一大事なことには変わらない。少なくともこの3人にとっては。
「それで、いなくなった場所は?」
「動物病院の駐車場」
「大学病院付属の?」
「ああ」
「そこなら馴染みの場所だ。第一駐車場?」
「いや、裏手の第二駐車場だ」
「そっちか。わかった。病院で保護されてないかどうか確認してみる」
(そうだ、まずは病院に確認をとるべきだった。何故、気づかなかったのだろう? しっかりしろ、エドワード)
「子猫の名前は?」
「モニーク。白い体に胴体の左側に薄茶のぶちがある。目は青、ピンクの首輪に迷子札をつけている」
「OK。メスだな?」
「ああ」
「マイクロチップは?」
「まだ入れていない。新しい飼い主の家に行ってからの方が良いと思って」
「そうだな、その方が手続きは楽だ……いなくなった時間は?」
エドワーズは必死で記憶を手繰った。
財布から病院のレシートを取り出し、記載されていたレシートの時間と自分の懐中時計を見比べる。祖父の代から受け継がれてきた銀色の時計はこまめなメンテナンスのおかげで今も正確に時を刻んでくれる。
駐車場までは歩いておよそ5分、故に自分が転んでから経過した時間は……。
「だいたい30分ぐらい前だ」
「わかった。アニマルポリスにもかけとくか?」
「いや、自分でやるよ」
「OK、そっちは任せた」
エドワーズは唇を噛むと携帯を取り出し、アニマルポリスに電話をかけた。万が一に備えて番号は登録してあったが、まさか使う日が来るなんて。
「ハロー? うん、俺だ。実は子猫が行方不明で……名前はモニーク、白に腹の左側に薄茶のぶち、ピンクの首輪、迷子札をつけている」
マックスの声を聞きながら、半分、悪い夢を見ているような気分でアニマルポリスの担当にいなくなったモニークの特徴を告げる。
しばらく電話口の向こうでパソコンを操作し、データを照会する気配がした。
『……お待たせしました』
電話の相手は事務的な口調に適度な共感を織り交ぜつつ、『残念ながら該当する子猫はまだ保護されていない』と教えてくれた。
見つかったら連絡してくれるよう頼んで電話を切る。
「……そう、エドワーズんとこの子猫だ。30分前に第二駐車場でいなくなった。そっちに保護されてないか? ……そうか。うん、ぜひ頼むよ。それじゃ、後でまた」
どうやらマックスの方も空振りだったらしい。
ため息をついてうなだれる。
ウ……イィイイイン、カシャ。
視界の隅で何かが動く。
かすかな音とともにプリンターから紙が吐き出されていた。ちらっと見た所、動物病院付近の地図のようだった。どこでいつ、行方不明になったのかも詳細に記録されている。いつの間に準備していたのだろう?
金髪の少年がカタカタとキーボードに指を走らせている。またたく間に画面上にチラシのひな形が呼び出された。
タイトルは
『迷い猫さがしています』。
Wordであらかじめ基本のフォーマットを作ってあったらしい。
かたかたとキーが鳴り、先ほど自分の告げたモニークの特徴が打ち込まれて行く。
「写真、ありますか?」
「あ、ああ、これを」
エドワーズは携帯を開き、モニークを写した画像を呼び出した。リズと6匹の子猫たちは全て一匹ずつ、写真に収めてあったのだ。
「その携帯、Bluetooth対応?」
「ええ」
「じゃ、こっちに送ってください」
言われるまま、少年の操るパソコンに写真を転送する。彼は手際よくチラシにモニークの写真を張り付けた。
「ああ……こんなことなら、リズも連れてくればよかった」
作業の合間に少年が顔を上げ、何やら物問いたげな視線を向けてきた。
「リズは母猫の名前です。いなくなったモニークは一番末っ子で……冒険心旺盛かと思えば臆病で。家にいるときもしょっちゅう物置やら庭木の下にもぐりこんで姿が見えなくなる。けれど、いつもリズが見つけてくれた」
少年はじっと聞いていた。レイアウト作業が終わるとエドワーズを手招きし、画面を確認してくれと言ってきた。
「あの、このチラシに私の住所や電話番号は入れなくていいんですか?」
「連絡先は、ここの事務所にしています」
「でも、外に出ていたら」
「大丈夫、留守番で俺が残ります」
「そうですか……では、これでお願いします」
少年はこくんとうなずくと、『印刷』のボタンを押した。かすかな音ともにプリンタが次々と「迷い猫探しています」のチラシを印刷して行く。
ぴん、と尻尾を立てた白い子猫の写真が何枚も、何枚も重なって行く。
ああ、モニーク。
無事でいてくれ。
「モニークは、家から出たのははじめてなんです。家族以外の他の猫に会ったこともまだなくて……。臆病な子だから、引っ掻かれないように、気をつけて」
こくん、とまた、金髪の少年がうなずいた。
「大丈夫」
チラシの印刷が終わると、今度は写真そのものをプリントアウトし始めた。
おそらく調査の時、人に見せて聞き込みをするのに使うのだろう。実に有能なアシスタントだ。しっかりと教育が行き届いているようだ。
「オティア、写真は二人分だ。人手が足りない。お前も来い」
「……ああ」
「事務所が空になるから上に連絡入れとけ」
「わかった」
オティアと呼ばれた少年が青い携帯を開いてどこかに電話をかける間、所長は卓上の固定電話を操作していた。
「チラシの番号に連絡が入ったら俺の携帯に転送されるようにしておいた。お前は、こいつらつれて一旦帰ってろ。見つけたら連絡する」
「わかった……頼むよ、マックス」
ぼふっと肩を叩かれた。骨組みのしっかりした、大きな手で。
「任せろ、EEE」
※ ※ ※ ※
エドワーズを見送ってから、オティアとディフは車に乗り込み、問題の場所に向かった。
動物病院の駐車場にいかつい四駆車を停め、ドアを開け、左右に降りる。
手足の長さも体重も、筋肉の付き方も違うのに何故か二人が地面に降り立つタイミングはほぼ一緒だった。
「装備確認。地図」
「OK」
「写真」
「OK」
「チラシ」
「OK」
「よし、手分けして探そう。ここを中心にして、俺はこっちを探す。お前は向こうだ」
「わかった」
「猫を見つけたらその場で連絡。何かトラブルに巻き込まれてもすぐに連絡しろ。いいな?」
「OK」
「……体調悪くなったら無理せず休め。いいな?」
オティアは黙ってうなずいた。いつもと同じポーカーフェイスで、ぴくりとも表情を動かさないまま。
「それじゃ調査開始」
猫探しは円を描くように動くのが基本だ。
所長と助手は背中合わせに歩き出し、それぞれ自分のペースで猫探しを始めた。
一人は大またで、ゆっくりと。
一人は小さな歩幅で小刻みに。
次へ→【4-2-3】オティア、猫を探す
▼ 【4-2-3】オティア、猫を探す
ディフはもう行ってしまった。相変わらず歩くのが早い。振り返りもしない。ここは俺に任せたってことだろう。
まず猫がいなくなった現場を観察してみる。
病院の駐車場だが、メインではなくやや離れたところにある。横は病院目的以外の車はほとんど通らなさそうな路地だった。その向こうは住宅街が広がっている。
これなら慌てて飛び出して交通事故って可能性は減る。
3ヶ月の子猫だから、あまりうろうろしないでそのあたりに隠れてるといいんだが……。
チラシを入れたクリアファイルを手に歩き出す。
見失った場所を起点にして、半円を描くように道を選び、ゆっくりと。
何だか手足が重い。事務所で座っている時はそれほどでもなかったが、動き出すとじわじわと体調の悪さを自覚させられる。
9月初旬、天気は晴れ。海からの風が強い時はそれなりにひやりとするが、長袖シャツにジーンズという格好ではまだ暑い。野球帽はかぶってきたが、あまり時間をかけないほうが良さそうだ。
半袖の服は持っていない。サイズが同じだからシエンのを借りることもできるがそのつもりもない。
肌を晒すのが嫌なのだ。他人の目にも。自分の目にも。
このあたりの家は、表通りからは庭が見えないつくりが多い。
隣の家と庭同士がフェンス一枚で仕切られていて、道もない場所もある。手入れされていないとかなり茂っていたりして、そういう場所に入り込まれると外からでは探しようもない。
仕方がないので、用意したチラシをポストに入れて、見える範囲で中をのぞき込むことにする。
昼間の住宅街は、通る人もほとんどいない。時々すれ違う人にチラシを見せてみるが、皆首を振る。
もっとも、これは元々期待はしていないが。
時おりじっとチラシを熱心に見て、探してみるよと答える人がいる。きっと自分でも猫を飼ってるのだろう。
そんな調子で一軒一軒チェックしながら歩いていくと、数軒分離れた場所にある家のレンガ塀の上で、大きな猫が寝ていた。
顔の丸い、耳のたれた猫だ。
狭い塀の上で器用に横になっている。どう見ても身体がはみだしているんだが、落ちないんだろうか?
確かスコティッシュフォールドって名前だったよな…と思いつつ歩いていくと、猫もこちらに気づいた。だが、ちらりとこちらを見ただけであくびをひとつして、また寝はじめた。
「お前、オスメスどっちだ?」
「にゃー」
寝たままで返事があった。でもどっちだかわかんないぞ。
発情期のオスは子猫を見ると噛み殺すことがある、とサリーが言っていた。こいつはのんびりしてるから発情中ってことはないだろうが、それでも縄張りに他の猫が入ってきたら追い出すかもしれない。
うーん、尻尾つかんだら怒るだろうなぁ。
性別を確かめるのは諦めて、近寄って軽く撫でてみる。
猫は満足そうにごろごろと喉を鳴らした。
撫でていると、塀の向こうの庭の奥に、もう一匹違う猫が現れた。
今度は灰色と黒の虎縞だ。塀の上にいるやつよりはひとまわりほど小さい。身体を低くして耳を後ろに向けている。
警戒のポーズ、だが、狙っているのはこちらではない。
塀の上のやつはあいかわらず昼寝中。背後で何が起こっているか気にする様子もない。
虎縞は更に庭の奥に向かっている。植木の向こうに隣の家との境になるフェンスがあって、どうやらその向こうにターゲットがいるようだ。
低くうなり声をあげる。
「ふーーーー!」
その声に隣の家の茂みが、小さく揺れた。
……いた!
声は聞こえなかったし、姿も見えなかったが、間違いない。
虎縞はフェンスを超えることができず、威嚇しただけだ。
「わりぃ、通してくれ」
チラシを入れたファイルを小脇に挟み、いまだに動こうとしない昼寝猫の横に手をかけ、乗り越えようとした。
その時。
「待て、お前!」
「っと」
背後からの声に、塀の上にのっかった状態で止まる。ちょっとまぬけだ。
横で猫が不機嫌そうに「にゃー」と鳴いた。
「そこから降りろ!」
振り返ると、立っていたのは40前ぐらいの作業着の男性だった。
ポリスじゃない。おそらくこの家の主でもない。ただの通りすがりの。
しまったな。反射的に止まっちまったけど、無視するべきだった。通報されたところで、後でどうとでもなったのに。
さっきの猫を追いかけるには、タイミングを逸してしまった。
「このクソガキ、こんな昼間っから空き巣か!?」
作業着の男はやけにエキサイトしている。
………ウザい。
「うるせぇよ」
「なんだと」
「あんたこのへんの人間じゃねーだろ。口出すな」
「このガキ…!」
男が手を伸ばしてくる。それをかわして、道路に飛び降りた。ばさり、と足元にファイルが落ちる。中に挟んだチラシが数枚、こぼれ出して扇状に広がった。
どうする?
男は怒りに顔を赤く染めている。
最初から話し合う気はないし、単に逃げるのも手間と時間がかかる。
体調は良くないが、この程度の相手なら、どうとでもできる。
……やるか。
固く拳を握り、体重を軸足にかけた。
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▼ 【4-2-4】ヒウェル参上
ここんとこオティアは具合が悪そうだ。
寝込むほどではないにしろ、ベストコンディションからは遠い。オレンジとイエローの境目をふらふらと低空飛行をするような、何となくそんな日々が続いている。
『大丈夫か?』
『ちょっと休んだ方がいいんじゃないか?』
とてもじゃないが、俺の口からはまちがってもそんな指摘はできやしない。言った瞬間に黙って背を向けるのはいい方で、下手すりゃ睨むだけじゃすまされないかもしれない。
もっとも空気が何かをほざいた所でそれこそ風の音ぐらいにしか聞こえないのだろうけれど。
だから、黙って見守るしかない。
おそらく、シエンのフォローでどうにか今の状態を維持しているのだろう。
ディフは心配そうに見守っている。ほんの少し眉根を寄せて、離れた場所から。普段はその素振りすらオティアには見せず、彼が部屋に戻ってから目を伏せて小さくため息をつく。
食卓に漂う温かな空気の中に、ざらりと。みぞれみたいな小さな固い粒が混じっている。一つ言葉を交わすたびに顔に当たり、喉の奥にチクチクとつき刺さる。
そこはかとなくいたたまれない……原因は俺。
全て俺。
だが、それでもオティアから離れると言う選択肢はない。
我ながら勝手な男だ。
だけど気になるんだよ。
最近、何げにサリーが事務所に出入りする回数が増えてるし。また奴が来るとオティアの様子が柔らかくなるってーか……寛ぐのだ。
紫の瞳の奥に常にうねっている苛立ちのさざ波が、ほんの少しだが確実に穏やかになっている。
悔しいけれど、俺にはできない。
無理だ。
何かしたところで余計にオティアにストレスをかけるだけ。打つ手はいつも見当違い。四苦八苦した挙げ句に選ぶ答えはいつも外れで、かえって事態を悪化させる。
だったら大人しくしてりゃいいのに、ガマンできずにまた手を出す。
悪循環だ。
それでも、かろうじて職場にまで顔を出すのは自粛していた……一週間ばかり。ここまでがまんしたんだ、そろそろいいよな? 自分勝手な理屈をひねり、久しぶりに探偵事務所に行ってみたらカギがかかっていた。
やれやれ。
やっぱり俺には外れクジがお似合いってことですかい。
運命の女神相手に軽く悪態をつき、事務所のドアに背を向ける。しおしおとエレベーターまで引き返し、ボタンに手を伸ばした。
どうする?
指先が下りのボタンに触れる直前でくるりと手のひらを返し、上りのボタンを押した。
このまま引き下がってたまるかよ!
ディフも、オティアもいないのなら、必ず上の法律事務所に連絡を入れているはずだ……。
※ ※ ※ ※
「よう、シエン」
「オティアなら猫探しにいくって言ってた」
挨拶への返事がこれだ。わかってらっしゃる。
「猫……そうか………猫かぁ………………どの辺り……かな。」
慌てて付け加えた。
「あ、いや、ほら、手は多い方がいいだろっ」
「詳しくは聞いてないけど。んー」
シエンはちょこんと首をかしげている。
「……あ、いや、いい、ディフに電話してみるから」
しばらくコール音が続き、低い声が出た。
「何の用だ」
あまり機嫌よさげじゃないな。だが構うもんか。無視されなきゃこっちのもんだ。
「シエンから聞いた。猫探してるんだって?」
「ああ、生後三ヶ月の子猫をな」
「俺も手伝うよ」
「お前が?」
「手は多い方がいいだろ?」
ほんの少し考える気配がした。
「わかった。猫の写真と現在位置をメールする」
「了解、お待ちしてます、隊長」
「所長だ、阿呆」
ぷつっと電話が切れた。
シエンが心配そうにこっちを見てる。
「大丈夫、いつものことだよ……お、来た来た」
短く鳴った携帯を開き、メールを呼び出した。白い体に青い瞳の子猫が写っていた。左側の腹に薄茶色のぶちがある。
ぶちの形はちょっとゆがんだ円形。真ん中は濃く、縁に近づくに連れて徐々に淡く霞んで行き、まるでコーヒーをにじませたみたいだ。
「……なんか、どっかで見たような猫だな……」
シエンが横からのぞきこむ。
「ちいさいね」
「生後三ヶ月だってさ。まだほんの子猫だ。飼い主、心配してるだろうな………」
添えられた現在位置の座標を元にシエンのパソコンを借りて地図を呼び出し、確認してからもう一度電話をかけた。
「写真届いた。場所もわかった。猫の逃げた現場ってのは、どこだ?」
「動物病院の第二駐車場」
「なるほど、でお前さんは西に向かってるんだな?」
「ああ」
「調査開始は何時頃? ……OK、すぐそっちに向かうよ」
よし、大体の位置はつかめてきたぞ。
電話を切って、シエンに一言、ありがとう、と告げてから走り出す。
裏道使って車を飛ばし、10分もかからずに子猫の失踪現場にたどり着いた。
まちがいない、ディフの車がどんっと停まってる。
所長が西に向かったんならオティアは東だ。以前、猫を探すのは現場から円を描くように追跡するのだと聞いたことがある。二人掛かりだから今回の場合は半円か。
軽く眼鏡を整えて歩き出した。
オティアを探しながら。
※ ※ ※ ※
道の両脇にこぎれいな家の立ち並ぶ住宅街。きちんと区画分けされた庭は通りには直接面していない。子猫を探しているなら、この奥まった庭をチェックしながらゆっくりと移動しているはずだ。
目を凝らし、耳をすましながら歩いていると、風に乗ってかすかに聞き覚えのある声が聞こえてきた……耳はいいのだ。実際に。
それが言葉として脳みそで認識されるより早く、声音を聞いた時点で走り出していた。
にごりのない澄んだ少年の声とごわごわの男のだみ声。どちらも短調、おせじにも上機嫌とは言いがたく、特にだみ声は最悪。
時おり音程を外して跳ね上がり、明らかにエキサイトしているのが伝わってくる。
「ふぁーおおおおぅ、ふぉーっっ」
猫の声だ。ドスが利いてる。ありゃ、そうとう怒ってるな?
一気に胸の中の不吉な予感が膨れ上がる。
角一つ曲がった瞬間、とんでもない光景を見ちまった。
作業服姿の四十がらみの男が、よりによってオティアの腕をつかんでやがる! 一方、オティアの傍らの塀の上からはずんぐりむっくりした茶虎の猫が一匹、背を丸めて尻尾をぶわぶわに膨らませ、かっと赤い口を開けて唸ってる。
怒りの矛先は作業服姿の男だ。
「しゃーっ!」
「な、何だ、このどら猫がっ」
猫に威嚇され、男がわずかにたじろいだ。
オティアが無表情のまま拳を握り、さりげに片足に体重をかける。
一発仕掛ける気だな?
だが、今やったらお前、出るのは拳じゃすまないぞ! 自分じゃ気づいてないみたいだが……。
ガラスみたいに冷たく堅い光を宿した紫の瞳の奥に、かすかに……あらゆる色の混じり合った色のない虹がうねり、今にもぬうっとせり上がろうとしている。
真昼の明るさの中でもそれと知れる、単なる光線の反射なんかじゃすまされない底知れぬ煌めき。
まだ、ほんの兆しでしかないが、あの光は見間違えようがない。いつぞや倉庫を崩壊させた力の奔流……その前ぶれとなった渦巻く虹。
いったいどれだけストレス溜めてるんだ、オティア。能力の制御すら甘くなっているなんて。
滅多に全力疾走はしない主義だが、今回ばっかりは別だ。
走りながら声を張り上げる。
「Hey! オティア!」
こっちを見た。
見てくれた!
……バカだな、俺。こんな時だってのに、嬉しい、とか思ってる。
彼が俺の存在を認めた瞬間、ちろちろとゆらめいていた剣呑な光がすうっと消えた。
よし、最大のピンチは脱したぞ。
よれよれになりながら駆け寄る俺を、作業着のおっさんが胡散臭そうににらみつけてきた。
「何だ、貴様」
「…………………保護者」
男の注意が俺に移った一瞬をついて、オティアがつかまれた腕を振りほどく。この細っこい体のどこにこれほどの力が潜んでいるのやら。
「このっ、ガキがっ」
慌てて二人の間に割って入る。
「はーい、そこまで。善意ある市民の平穏な会話で済ませますか?」
にっこりと口の端を釣り上げてほほ笑むと、練り上げた言葉の針をちくりと差し込む。
「それとも、未成年者への暴行……」
さーっとMr.作業着の顔から血の気が引いた。
『未成年』と『暴行』。この二つの単語の組み合せがエキサイトした脳みそを一気にクールダウンしてくれたらしい。
「どっちを選びます、Mr?」
「いや……俺は……ただ、子供が一人で歩いてたから……」
見え見えの言い訳だがうなずいて同意を示す。少なくとも相手が事態を丸く収めたがってるんだ、便乗しない手はない。
「そりゃどうもご親切に」
気を良くしたのか、男はほんのちょっぴり勢いを取り戻し、俺にびしっと人さし指を突きつけてきた。
「お、お前も保護者なら、ガキのそばを離れるんじゃねえっ!」
オティアが露骨にムっとした顔をした。ガキと言われたのが気に食わないのか、それとも俺が保護者じゃ不満か? ともあれこの場はこのおっさんに退場いただくが最優先。にっこり笑ってぱたぱたと手を振った。
「ありがとう。ご忠告、肝に銘じときます。それじゃごきげんよう!」
Mr.作業服を見送ってからオティアの方に向き直ると、つま先に何か軽いものが触れた。
迷い猫のチラシだ。絡まれた時にでも落ちたか。拾い上げて軽く土を払って元通り中に収める。
「これ」
ちらっとこっちを見て、そのまま歩き出しやがった。さし出したファイルはもちろんスルー。
「おい……待てよ」
返事もしない。
代わりに「くぁーっ」と塀の上であくびをした奴が約一匹。さっきの虎猫が塀の上にうずくまり、眠そうにしぱしぱと目をしばたかせていた。
すれ違い様、一声かける。
「……お前、よくその体勢で安定できるなあ……」
大きなお世話、とでもいいたげに耳を伏せ、そっぽを向かれた。
※ ※ ※ ※
オティアは文字通り後も見ずにすたすたと歩いて行く。どうやら、こいつには子猫の居場所がわかっているようだ。
迷いのない足どりで区画の反対側に周りこみ、さらに前進。さっきまで居た場所のほぼ反対側やって来るとぴたりと止まった。
木戸越しに手入れの行き届いた裏庭が見える。ふかふかした緑の芝生の奥に物置がぽつんと建っていて、引き戸にわずかにすき間が開いていた。
ここいらの家は道に面するようにしてまず建物があり、庭は敷地の背面に回る構造になっている。
さっき虎猫の昼寝していた家と、こっち側の家とは庭同士が接触している訳だ。人間ならいちいち道に出て玄関口に回らなきゃいけないが、猫なら庭伝いに自由に動ける。
察するにオティアの奴、子猫を見つけてとっさに塀を乗り越えようとでもしたか?
そこで空き巣狙いとまちがえられて絡まれたってとこか……通りすがりの庭師か、清掃業者、あるいは配管、配線工事の業者にでも。
立ち止まった背中に声をかける。
「どうした、オティア」
「……いる」
「子猫が? ここに?」
答えはない。だが、じっと物置の扉のすき間を見つめている。こいつがいると言うのなら、それはかなりの確率で真実だ。
「OK、ちょっと待ってろ」
全力疾走でくしゃくしゃになった髪を手ぐしで整え、首の後ろできっちり結わえ直す。シャツを整え、ネクタイをきちんと締めて……今にも喉がぐえっとなりそうになる。だがこの方が印象はいい。
仕上げにばたばたと全身のほこりをはらい、汗をふいて。一通り身繕いを終えてから玄関の呼び鈴を押した。
「はい……どなた?」
ドアの向こうで優しげな初老のご婦人の声がした。覗き穴に向かい、さっと『迷い猫』のチラシを一枚掲げてにっこりと笑みかける。
「失礼します、実は私、居なくなった子猫を探していまして……お宅の庭を、それらしい子猫がうろちょろしてるのをこの子が見つけたものですから」
半歩さがってオティアの姿が見えるようにする。そっぽを向いているが、こっちが子連れだとアピールしといた方が警戒される度合いが格段に下がるのだ。
果たしてドアが開き、品の良さそうなご婦人が現れた。淡いオレンジ色のサマードレスを着てレースのショールを羽織り、肩の上では白髪まじりの亜麻色の髪の毛がふわふわと、綿菓子みたいに波打っている。
ヘーゼルブラウンの瞳が俺と、オティアを交互に見つめた。
すかさず、手にしたチラシをうやうやしくご婦人にさし出した。
「この猫です」
綿菓子頭のご婦人はごく自然にチラシを受け取り、優しげなヘーゼルの瞳でじっと見つめている。
どうやら、猫好きらしい。いい傾向だ。
「まあ、かわいい猫ちゃん……ちょっとお待ちくださいね、今、木戸を開けますから」
亜麻色の髪のご婦人は一旦奥に引っ込み、しばらくすると庭に通じる木戸の向こう側にやってきて内側から鍵を開けてくれた。
「どうぞ、お入りください」
「ありがとうございます、それじゃおじゃましますね……おいオティア、OKだってさ」
オティアはぺこりとおじぎをして、とことこと庭に入って行く。
迷わず、物置き目指して一直線。
少し離れて見守っていると、引き戸に手をかけてこっちに確かめるような視線を向けてきた。
「あの物置、開けてもよろしいですか?」
「ええ、ガーデニングの道具しか入っていませんし……」
「いいってさ!」
こくっとうなずき、そっと扉を開けて、中に入って行く。ごそごそと動く気配がした。
「あなたは、行かなくてよろしいんですか?」
「ええ、猫の扱いは彼の方が上手いんです………プロですから!」
「まあ、すごいのね、お若いのに」
※ ※ ※ ※
物置の中は薄暗く、土と、木と、芝生のにおいがした。建物の中なのに、まるで深い森の中にいるような錯覚にとらわれる。
「モニーク?」
床に置かれた木箱の間から「にう………」とかすかな声が聞こえた。
いた。
床に膝をつくと、オティアは慎重に手を伸ばした。
「しゃふーっ!」
暗がりで青い瞳がぴかっと光る。
全身の毛をぼわぼわに逆立て、ちっぽけな口を開けていっちょまえに威嚇している。箱と箱のすき間に手を入れて近づいて行くと、あぐっと噛まれた。
尖った細い牙が四本、ぷつっと指に刺さる。
思わず顔をしかめた。
幸い、後ろは壁だ。これ以上逃げられることはない。オティアはそのまま猫をつまみあげ、連れ出した。
「にう、にうにう」
ちっぽけな白い毛皮の塊がころん、と手の中に転がり込んで来る。片手で楽に抱けるくらいの大きさで、ほとんど重いとも感じない。
「………こんなちびのくせに脱走したのか……」
改めて両腕で抱きかかえて、外に出る。明るい場所で見ると、白い後足にぽつっと赤い染み。血がにじんでいる。他所の猫にやられたか、あるいはパニックを起こして走り回っているうちにどこかに引っ掛けたか。
怪我をして、怯えてここに隠れていたのだろう。もぞもぞとシャツに鼻面を押し付けてきた。
傷口に手を当て、意識を集中する。この程度の傷なら自分一人でも治せる。
「に?」
一瞬、手のひらと傷口の間にわずかな熱がこもる。手を離すと、子猫の傷は跡形もなく消えていた。
これでいい。
木戸の所に戻り、オレンジの服の婦人にぺこりとおじぎをして歩き出した。
「見つかったのね。よかった」
隣で待ち構えていたヒウェルのことは……見ないふりをした。
「あ、おい、待てって!」
すっと横を通りすぎる。
背後で婦人に礼を言っているのが聞こえた。
「あ、ありがとうございます、おかげさまで無事見つかりました。ほんっとーに感謝します! それじゃ」
やっぱりあいつ、女性相手の方が楽しそうだ。やたらと礼儀正しいし、気配りにも抜かりがない。
ぎゅっと奥歯を噛みしめる。
「にう」
手の中で子猫が身動きした。
あたたかい。
子猫はオティアの顔を見上げて、ちっぽけな口をぱかっと開けた。
「にゃーっ」
「……オティア」
振り向くとヒウェルが立っていた。心配そうにこっちを見てる、その顔つきを見て収まりかけた苛立ちがまた頭をもちあげそうになる。
「連絡は?」
そうだ、それがあった。
手の中を見る。白い子猫はすっかり安心したらしく、丸くなってごろごろと喉を鳴らしている。ちっぽけな前足でオティアの腕にしがみついて。
シャツの袖ごしに押しあてられた肉球が、熱い。
「……かけろ。ディフに」
「はいはい。お取り込み中なんですね」
首をすくめてヒウェルは携帯を取り出した。
「ハロー? うん、俺。今オティアと一緒にいるんだ。いなくなった子猫、見つけたよ。無事だ……ああ、これから駐車場に戻る。それじゃ!」
ヒウェルが電話を切った時、オティアは既に子猫を抱えて早足で歩いていた。
「わあ、素っ気ない」
ため息一つ。ぐいっとネクタイをひっぱっていつも通り適度にゆるんだ状態に戻すと、ヒウェルは小走りに後を追いかけた。
慣れない全力疾走の反動ですっかり力が抜けて、カクカク震える膝を踏みしめながら。
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▼ 【4-2-5】初めての探偵料
家に帰ってから、エドワーズは上の空だった。と、言うか抜け殻だった。
店を開ける気にもなれず、「休憩中」の札を出してカウンターにぼんやりと座る。
足元では子猫たちがこれ幸いところころと遊び回っている。あんな脱走劇を繰り広げた後なのに、なんてタフなんだろう。
1、2、3、4……何度数えても5匹。いちばんちっぽけで臆病なモニーク。そのくせ妙に好奇心旺盛で、隙あらば庭に出ようと身構えている。
今頃、どうしているのだろう……。
ひやりと湿った感触が手首に押しつけられる。控えめに、そっと。
「……リズ」
ひゅん、と長い尻尾を腕に絡めてきた。
「すまない。私がうっかり転んだばっかりに……」
リズは黙って顔を掏り寄せてきた。抱き寄せ、やわらかな毛並みをなでる。
「大丈夫だよ。マックスは優秀な警察官だったし、助手の少年も利発そうな子だった。あの二人ならきっとモニークを見つけてくれる」
「にゃ」
「あの子……結婚式で見かけたね。確か、レオンの落した指輪を拾った子だ」
「みぅ」
「リングボーイを勤めるぐらいだからかなり親しい間柄なのだろうな。そっくりの子がもう一人いたはずだが……双子かな?」
リズと話しているうちに少し落ち着いてきた。
くいっとシャツを引っぱられる。袖に引っかかった葉っぱをリズが前足でちょいちょいとつついていた。
あれから服もまだ着替えていない……シャツはかぎ裂きだらけで、ベストにも木の枝や葉っぱがこびりついたままだ。
「ああ、確かにこれは、ひどいね……着替えてこよう」
奥で破れたシャツを脱いていると、カウンターの上で携帯が鳴った。慌てて飛びつく。
「マックス?」
脱いだシャツが何かに引っかかって崩れて、どさどさ、ばささっと派手な音がしたが、今はそれどころじゃない。
「よう、EEE。喜べ、モニークが見つかった」
「本当か! すぐ、迎えに」
「……いや、こっちが送ってく。お前は大人しく待ってろ」
はたと気づくと脱ぎかけたシャツがくしゃくしゃに丸まって腰のあたりにぶらさがり、上半身はアンダーシャツ一枚。
信じられない、こんな格好で店に飛び出していたのか。
さらに足元には、きちんとジャンルごとに分類して箱に収めてあったはずの整理前の在庫本が、床一面にちらばっている。まるでヨセミテ国立公園の落ち葉みたいに。
箱ごとひっくり返したらしい。
不覚。
本をこんな風に乱雑に扱ってしまうなんて。
「ああ……そうだな。お願いするよ」
「それじゃ、また後で」
マックスの読みは正しい。今みたいな状態でハンドルを握るのはとてつもなく危険だ。
足元をするりとしなやかな毛皮がすり抜ける。
「リズ。モニークが見つかったよ」
駐車場でひっくり返ってから数時間。初めて笑顔が浮かんだ。
※ ※ ※ ※
駐車場に着くと、既にディフが戻っていた。
「よう」
「手間かけたな。ありがとう」
「いや、見つけたのはオティアだし」
「ああ、それはわかってる」
あー、はいはい、『まま』は全部お見通しですか……言いかけて口をつぐむ。
口をへの字に曲げててきぱきと、四駆の中からペットキャリーを取り出す今のディフはどっから見ても仕事モード。
ままじゃなくて所長の顔だ。
「お疲れさん、オティア。よく見つけたな、人見知りの激しい子なのに」
「わかりにくいとこに隠れてた」
「そうか……助かったよ」
言う方も、言われる方も、にこりともしない。
作業のついでに声をかけていると言った感じで視線すら合わせない。
そのくせ、キャリーのフタが開けられるのにぴたりとタイミングを合わせてオティアがディフの傍に歩み寄る。
そして両者流れる様な動きで子猫をペットキャリーに……入れようとして問題が発生した。白い子猫がひしっとオティアにしがみついて離れようとしない。
無理に引きはがそうとすると爪を立ててますます強くしがみつき、シャツがびろーんと引っぱられる。
「……しかたない。この子は責任持って最後までお前が送り届けろ。EEEんとこまで送ってってやるから」
「………」
「今、あいつに車運転させたらどうなるかわかりゃしねえし。できるだけ早く母猫や兄弟に合わせてやりたいだろ?」
オティアはディフの顔を見上げて、それからこっちに視線を向けてきた。
「……はいはいわかりましたよ」
両手を上げて一歩後じさる。
「子猫は無事確保で一件落着、役目の終わった助っ人は大人しく退散しますよ……あ、これ、返しとく」
ディフにチラシの入ったクリアファイルを手渡し、さっさと自分の車に乗り込んだ。
シートベルトを着けながら、バックミラーを確認する。ミラー越しにオティアがこっちを見ている、ような気がした。
まさかな。
ちらっと写っていただけだ。
あきらめの悪い俺の願望がそんな風に見せただけ……そうに決まってる。
猫を探している間はオティアと二人きりでいられた。ちゃんと俺を見て、存在を認め、言葉を交わしてくれた。
それだけで十分だ。
エンジンをかけて走り出す。見送るより、見送られる方がいい。だんだん遠ざかる車を見ていると、訳も無く寂しくなっちまうから。
大切な人が乗っていると、なおさらに。
※ ※ ※ ※
カランカラン……
ドアを開けると、上端に取り付けられた金属製のベルがやや低めの音程を奏でる。
心地よい響きに迎えられてエドワーズ古書店に入って行くと、オティアに向かって5匹の子猫たちが我れ先にわらわらと駆け寄ってきた。
「にうー」
ぴん、と立てられた5本の尻尾が足にまとわりつく。
そして最後に、すらりとした白い猫が駆け寄ってきて足元にきちんと座り、見上げてきた。屈み込むとオティアは腕に抱えた白い子猫をそっと床に降ろした。
母猫は子猫にすりより、ぺろぺろと愛おしげになめる。すぐに他の5匹も押し寄せてきて、帰ってきた末の妹を出迎えた。
「お帰り、モニーク……ありがとう、マックス」
「俺じゃない。見つけたのは彼だ」
エドワーズは子猫を抱いていた少年に近づき、敬意と感謝をこめて一礼した。
「ありがとう、ええと……」
「オティア・セーブルだ。オティア、こいつはエドワード・エヴェン・エドワーズ。俺の警官時代の同僚だ」
オティアは秘かに納得した。
だからEEEなんて呼んでたのか。いつも思うが、ディフの命名センスはどこかずれてる。
「ありがとう、Mr.セーブル。あなたはモニークの命の恩人です。いくら感謝しても足りない」
オティアは正直とまどった。こんな風に他人から率直にほめられることに慣れていないのだ。
増して一人前の大人みたいに扱われるなんて! 振り返ってディフの顔を見上げる。
所長、どうすればいい?
ヘーゼルの瞳がわずかに細められる。ほんの少し目尻が下がり、口角がぴっとはねあがる。
仕事中の基準で言えばこれがディフの「笑顔」になる。OK、あるいは問題無し、と言うことらしい。
改めて依頼人に向き直り、軽く頭をさげた。ほほ笑んで、うなずいてくれた。
「なーっ、なーっ」
母猫が足元にすりより、顔を見上げて甲高い声で鳴いている。何やら言いたげだ。
しゃがみこむと膝に前足をかけて伸び上がり、ふん、ふん、とにおいをかいできた。
ヒゲが当たってくすぐったい。
そーっと撫でる。目を細めて顔をすりよせてきた。指の間を、つややかな白い毛皮がすり抜けて行く。何て柔らかいんだろう。
自分が今まで触れたどんな布の中にも、こんなに柔らかくて手触りの良いものはない。
結婚式の時になでたシェパードの堅い毛並み、がっちりした骨格とはまるっきり別物だ……あれはあれで温かくて心地よかったけれど。
足元をころころと6匹の子猫が転げ回っている。
手をふれずにじっと見守った。
「……しばらく、そっとしておいた方が良さそうだね」
「ああ。猫の好きな子なんだ。ぜひ、そうさせてくれ」
「わかった。お茶を入れてくるよ」
そのうち、子猫たちは何かのスイッチが入ったように、だだだだーっと追いかけっこを始めた。
リズは目を細めてスフィンクスみたいな優雅な姿勢でうずくまり、子猫の運動会を見守っている。
走ったと思うと何の前ぶれもなく2匹がジャンプ、空中でがっつり四つに組み合って床を転げ回る。
感心して見学していると、だだーっと何やら身軽な生き物が背中を駆けあがってきて肩の上で足を踏ん張った。
小さな爪がきゅっと食い込む。
「いてっ」
モニークだ。他の兄弟たちを見下ろし「ふんっ!」と鼻息を荒くしている。
「……いてぇよ、お前……」
モニークはオティアの顔を見て、ちっぽけなピンクの口を開けて「にゃーっ」と鳴いた。どうやら、すごくいい場所を確保したと思っているらしい。
困った。どうしたものか。
とまどっているオティアの足を、残りの5匹がわらわらとのぼっていた。
あっと言う間に少年は6匹の猫にたかられ、もこもこした毛皮に覆われてしまった。
「ああ……やっぱり」
白と茶色、一部黒の混じった『猫ツリー』を見てポットを抱えたエドワーズが小さくつぶやいた。
「大丈夫かな?」
「大丈夫だろう。長袖着てるし、子猫の爪なら大したダメージはない」
「けっこうあなどれないものだよ?」
「怪我なら手当すりゃいいし、服が破けたなら繕えばいいさ」
「……相変わらずだね、マックス」
「お前も相変わらず紅茶派だよな」
「ミルクは使うかい?」
「いや、ストレートで」
濃い目に入れた紅茶をすすりながら二人はさりげなくオティアと子猫たちを見守った。
「…………」
子猫たちはオティアの背中に、肩にまとわりつき、頭も顔もおかまい無しによじ上る。さすがに彼の忍耐も限界に近づき、こめかみがひくひくと震え始めた。
「にゃ!」
鋭くリズが鳴き、限度を知らない子猫たちを一喝。子猫たちがひるんだその隙にオティアは立ち上がった。
「にうー」
ころころと柔らかな毛玉が転がり落ち、一回転して床に着地する。1、2、3、4、5……。モニークはジーンズにしがみついて最後までねばっていたが、とうとうリズに首根っこをくわえられて引っぱり降ろされてしまった。
「みぃ……」
「にゃっ!」
「みぅ……」
何となく、しょげているように見えた。
やれやれ、しかたない。
あきらめてオティアはもう一度しゃがんだ。モニークがぱっと顔をかがやかせてざっしざっしとよじ上り、膝の上で丸くなった。
うっとりと目を細めてごろごろと喉を鳴らしている。
「えらくリラックスしてるな、あの子猫」
「ああ。モニークは気に入ったようだ、彼のことを。一番の臆病なのに」
「そうみたいだな」
「……マックス」
「何だ?」
「Mr.セーブルは……その……猫の飼える家に住んでいるのだろうか?」
ディフはさほど深く考えずにうなずいた。
「ああ」
彼らの住んでいるマンションは実際、ペットOKだったのだ。
「そうか………」
やがて遊び疲れた子猫たちは部屋のすみっこに折り重なって眠ってしまった。
名残惜しげにモニークをリズに返してオティアがカウンターに近づいてきた時、エドワーズは紅茶をすすめながら控えめに切り出してみた。
「Mr.セーブル。モニークのことなんですが……まだ、行き先が決まっていないのです。よろしければ……」
ほんの一瞬、オティアは考えた。まばたきよりも短い間。そして、首を振る。
左右に。
「そうですか………」
エドワーズは思った。
残念だ。彼なら、モニークの良い飼い主になってくれるだろうに。
マックスも小さく息を吐き、目を伏せている。ああ、彼も同じ意見なのだな。
※ ※ ※ ※
事務手続きとモニークの捜索料金の支払いを終え、いとまを告げる探偵二人を送り出そうとしてふとエドワーズは気づいた。
オティアの指先にぽつっと、小さな赤い穴が開いている。上下左右対象に、全部で四つ。
モニークだ。
表面の血は既に乾いている。おそらく、迷子を発見した時に噛みついたのだろう。ベストのポケットから絆創膏を取り出し、うやうやしくさし出した。
「これを。よろしかったらお使いください」
「…………ありがとう」
オティアは思った。これぐらいの傷、すぐに治せる。しかし彼の心遣いを無視するのは何となく気が引けて、絆創膏を受けとることにした。
ちらりと所長の方をうかがうと、黙ってうなずいた。
OKってことらしい。
どうやら、自分は依頼人に対して正しい応対をすることができたようだ。
※ ※ ※ ※
帰りの車の中でオティアはぼんやりともらった絆創膏を眺めていた。
「……初めての探偵料だな」
「え?」
「それだよ」
「……ああ」
シャツの胸ポケットにしまう。
この手の物は自分にとってはほとんど必要ない。指先の傷に視線を落す。少し、ひりひりしてきた。治しておこうか?
ちっぽけな赤い点。子猫の歯形。膝の上で丸まって、ごろごろ喉を鳴らしていた。
白いふかふかの毛皮。瞳は澄んだブルー、母猫や他の兄弟たちとおそろい。左のお腹にちょっといびつな丸い薄茶色のぶちがあった。
まるでコーヒーをこぼしたような色と形をしていた。
ため息がもれる。
自分でも気づかないうちに。
「可愛い猫だったな」
「…………」
答える気にはなれなかった。ディフもそれっきり、何も言わない。黙って車を走らせる。
(お前、あの猫、飼いたかったんじゃないか?)
(猫、飼ってもいいか?)
言いたかった一言を、お互い胸の奥に沈めたまま。
事務所に戻ると、ディフは固定電話から動物病院に電話をかけた。
「ああ、もしもし、サリー。メール読んでくれたか?」
どうやらサリーがとったらしい。
「……うん、そうなんだ。モニークな、無事見つかったよ。さっきエドワーズん所に送ってきた所だ。安心してくれ。また何かあったらよろしく頼む。それじゃ」
会話を聞きながら帽子を脱ぎ、クリアファイルを机の上に置く。シャツのポケットから絆創膏を取り出して……引き出しにしまった。
電話を切るとディフはこっちを見て、ぼそりと言った。
「コロコロしとけ」
「……あ」
服にも、髪の毛にも、猫の毛がびっしりとへばりつき、まるで白いマーブル模様みたいになっていた。
全身にしがみついていた子猫たちの感触を思い出す。少ししっとりしてあたたかく、ゴムまりみたいに弾力があった。
口のまわりがむずむずする。無意識のうちに食いしばっていた奥歯がゆるみ、ほんの少しだけ力が抜けた。
その時、オティアは笑っていた。
それはとてもかすかなもので、誰の目にとまることもなくすぐに消えてしまったけれど……。
確かに、笑っていたのだった。
(ねこさがし/了)
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