▼ 【4-2-5】初めての探偵料
家に帰ってから、エドワーズは上の空だった。と、言うか抜け殻だった。
店を開ける気にもなれず、「休憩中」の札を出してカウンターにぼんやりと座る。
足元では子猫たちがこれ幸いところころと遊び回っている。あんな脱走劇を繰り広げた後なのに、なんてタフなんだろう。
1、2、3、4……何度数えても5匹。いちばんちっぽけで臆病なモニーク。そのくせ妙に好奇心旺盛で、隙あらば庭に出ようと身構えている。
今頃、どうしているのだろう……。
ひやりと湿った感触が手首に押しつけられる。控えめに、そっと。
「……リズ」
ひゅん、と長い尻尾を腕に絡めてきた。
「すまない。私がうっかり転んだばっかりに……」
リズは黙って顔を掏り寄せてきた。抱き寄せ、やわらかな毛並みをなでる。
「大丈夫だよ。マックスは優秀な警察官だったし、助手の少年も利発そうな子だった。あの二人ならきっとモニークを見つけてくれる」
「にゃ」
「あの子……結婚式で見かけたね。確か、レオンの落した指輪を拾った子だ」
「みぅ」
「リングボーイを勤めるぐらいだからかなり親しい間柄なのだろうな。そっくりの子がもう一人いたはずだが……双子かな?」
リズと話しているうちに少し落ち着いてきた。
くいっとシャツを引っぱられる。袖に引っかかった葉っぱをリズが前足でちょいちょいとつついていた。
あれから服もまだ着替えていない……シャツはかぎ裂きだらけで、ベストにも木の枝や葉っぱがこびりついたままだ。
「ああ、確かにこれは、ひどいね……着替えてこよう」
奥で破れたシャツを脱いていると、カウンターの上で携帯が鳴った。慌てて飛びつく。
「マックス?」
脱いだシャツが何かに引っかかって崩れて、どさどさ、ばささっと派手な音がしたが、今はそれどころじゃない。
「よう、EEE。喜べ、モニークが見つかった」
「本当か! すぐ、迎えに」
「……いや、こっちが送ってく。お前は大人しく待ってろ」
はたと気づくと脱ぎかけたシャツがくしゃくしゃに丸まって腰のあたりにぶらさがり、上半身はアンダーシャツ一枚。
信じられない、こんな格好で店に飛び出していたのか。
さらに足元には、きちんとジャンルごとに分類して箱に収めてあったはずの整理前の在庫本が、床一面にちらばっている。まるでヨセミテ国立公園の落ち葉みたいに。
箱ごとひっくり返したらしい。
不覚。
本をこんな風に乱雑に扱ってしまうなんて。
「ああ……そうだな。お願いするよ」
「それじゃ、また後で」
マックスの読みは正しい。今みたいな状態でハンドルを握るのはとてつもなく危険だ。
足元をするりとしなやかな毛皮がすり抜ける。
「リズ。モニークが見つかったよ」
駐車場でひっくり返ってから数時間。初めて笑顔が浮かんだ。
※ ※ ※ ※
駐車場に着くと、既にディフが戻っていた。
「よう」
「手間かけたな。ありがとう」
「いや、見つけたのはオティアだし」
「ああ、それはわかってる」
あー、はいはい、『まま』は全部お見通しですか……言いかけて口をつぐむ。
口をへの字に曲げててきぱきと、四駆の中からペットキャリーを取り出す今のディフはどっから見ても仕事モード。
ままじゃなくて所長の顔だ。
「お疲れさん、オティア。よく見つけたな、人見知りの激しい子なのに」
「わかりにくいとこに隠れてた」
「そうか……助かったよ」
言う方も、言われる方も、にこりともしない。
作業のついでに声をかけていると言った感じで視線すら合わせない。
そのくせ、キャリーのフタが開けられるのにぴたりとタイミングを合わせてオティアがディフの傍に歩み寄る。
そして両者流れる様な動きで子猫をペットキャリーに……入れようとして問題が発生した。白い子猫がひしっとオティアにしがみついて離れようとしない。
無理に引きはがそうとすると爪を立ててますます強くしがみつき、シャツがびろーんと引っぱられる。
「……しかたない。この子は責任持って最後までお前が送り届けろ。EEEんとこまで送ってってやるから」
「………」
「今、あいつに車運転させたらどうなるかわかりゃしねえし。できるだけ早く母猫や兄弟に合わせてやりたいだろ?」
オティアはディフの顔を見上げて、それからこっちに視線を向けてきた。
「……はいはいわかりましたよ」
両手を上げて一歩後じさる。
「子猫は無事確保で一件落着、役目の終わった助っ人は大人しく退散しますよ……あ、これ、返しとく」
ディフにチラシの入ったクリアファイルを手渡し、さっさと自分の車に乗り込んだ。
シートベルトを着けながら、バックミラーを確認する。ミラー越しにオティアがこっちを見ている、ような気がした。
まさかな。
ちらっと写っていただけだ。
あきらめの悪い俺の願望がそんな風に見せただけ……そうに決まってる。
猫を探している間はオティアと二人きりでいられた。ちゃんと俺を見て、存在を認め、言葉を交わしてくれた。
それだけで十分だ。
エンジンをかけて走り出す。見送るより、見送られる方がいい。だんだん遠ざかる車を見ていると、訳も無く寂しくなっちまうから。
大切な人が乗っていると、なおさらに。
※ ※ ※ ※
カランカラン……
ドアを開けると、上端に取り付けられた金属製のベルがやや低めの音程を奏でる。
心地よい響きに迎えられてエドワーズ古書店に入って行くと、オティアに向かって5匹の子猫たちが我れ先にわらわらと駆け寄ってきた。
「にうー」
ぴん、と立てられた5本の尻尾が足にまとわりつく。
そして最後に、すらりとした白い猫が駆け寄ってきて足元にきちんと座り、見上げてきた。屈み込むとオティアは腕に抱えた白い子猫をそっと床に降ろした。
母猫は子猫にすりより、ぺろぺろと愛おしげになめる。すぐに他の5匹も押し寄せてきて、帰ってきた末の妹を出迎えた。
「お帰り、モニーク……ありがとう、マックス」
「俺じゃない。見つけたのは彼だ」
エドワーズは子猫を抱いていた少年に近づき、敬意と感謝をこめて一礼した。
「ありがとう、ええと……」
「オティア・セーブルだ。オティア、こいつはエドワード・エヴェン・エドワーズ。俺の警官時代の同僚だ」
オティアは秘かに納得した。
だからEEEなんて呼んでたのか。いつも思うが、ディフの命名センスはどこかずれてる。
「ありがとう、Mr.セーブル。あなたはモニークの命の恩人です。いくら感謝しても足りない」
オティアは正直とまどった。こんな風に他人から率直にほめられることに慣れていないのだ。
増して一人前の大人みたいに扱われるなんて! 振り返ってディフの顔を見上げる。
所長、どうすればいい?
ヘーゼルの瞳がわずかに細められる。ほんの少し目尻が下がり、口角がぴっとはねあがる。
仕事中の基準で言えばこれがディフの「笑顔」になる。OK、あるいは問題無し、と言うことらしい。
改めて依頼人に向き直り、軽く頭をさげた。ほほ笑んで、うなずいてくれた。
「なーっ、なーっ」
母猫が足元にすりより、顔を見上げて甲高い声で鳴いている。何やら言いたげだ。
しゃがみこむと膝に前足をかけて伸び上がり、ふん、ふん、とにおいをかいできた。
ヒゲが当たってくすぐったい。
そーっと撫でる。目を細めて顔をすりよせてきた。指の間を、つややかな白い毛皮がすり抜けて行く。何て柔らかいんだろう。
自分が今まで触れたどんな布の中にも、こんなに柔らかくて手触りの良いものはない。
結婚式の時になでたシェパードの堅い毛並み、がっちりした骨格とはまるっきり別物だ……あれはあれで温かくて心地よかったけれど。
足元をころころと6匹の子猫が転げ回っている。
手をふれずにじっと見守った。
「……しばらく、そっとしておいた方が良さそうだね」
「ああ。猫の好きな子なんだ。ぜひ、そうさせてくれ」
「わかった。お茶を入れてくるよ」
そのうち、子猫たちは何かのスイッチが入ったように、だだだだーっと追いかけっこを始めた。
リズは目を細めてスフィンクスみたいな優雅な姿勢でうずくまり、子猫の運動会を見守っている。
走ったと思うと何の前ぶれもなく2匹がジャンプ、空中でがっつり四つに組み合って床を転げ回る。
感心して見学していると、だだーっと何やら身軽な生き物が背中を駆けあがってきて肩の上で足を踏ん張った。
小さな爪がきゅっと食い込む。
「いてっ」
モニークだ。他の兄弟たちを見下ろし「ふんっ!」と鼻息を荒くしている。
「……いてぇよ、お前……」
モニークはオティアの顔を見て、ちっぽけなピンクの口を開けて「にゃーっ」と鳴いた。どうやら、すごくいい場所を確保したと思っているらしい。
困った。どうしたものか。
とまどっているオティアの足を、残りの5匹がわらわらとのぼっていた。
あっと言う間に少年は6匹の猫にたかられ、もこもこした毛皮に覆われてしまった。
「ああ……やっぱり」
白と茶色、一部黒の混じった『猫ツリー』を見てポットを抱えたエドワーズが小さくつぶやいた。
「大丈夫かな?」
「大丈夫だろう。長袖着てるし、子猫の爪なら大したダメージはない」
「けっこうあなどれないものだよ?」
「怪我なら手当すりゃいいし、服が破けたなら繕えばいいさ」
「……相変わらずだね、マックス」
「お前も相変わらず紅茶派だよな」
「ミルクは使うかい?」
「いや、ストレートで」
濃い目に入れた紅茶をすすりながら二人はさりげなくオティアと子猫たちを見守った。
「…………」
子猫たちはオティアの背中に、肩にまとわりつき、頭も顔もおかまい無しによじ上る。さすがに彼の忍耐も限界に近づき、こめかみがひくひくと震え始めた。
「にゃ!」
鋭くリズが鳴き、限度を知らない子猫たちを一喝。子猫たちがひるんだその隙にオティアは立ち上がった。
「にうー」
ころころと柔らかな毛玉が転がり落ち、一回転して床に着地する。1、2、3、4、5……。モニークはジーンズにしがみついて最後までねばっていたが、とうとうリズに首根っこをくわえられて引っぱり降ろされてしまった。
「みぃ……」
「にゃっ!」
「みぅ……」
何となく、しょげているように見えた。
やれやれ、しかたない。
あきらめてオティアはもう一度しゃがんだ。モニークがぱっと顔をかがやかせてざっしざっしとよじ上り、膝の上で丸くなった。
うっとりと目を細めてごろごろと喉を鳴らしている。
「えらくリラックスしてるな、あの子猫」
「ああ。モニークは気に入ったようだ、彼のことを。一番の臆病なのに」
「そうみたいだな」
「……マックス」
「何だ?」
「Mr.セーブルは……その……猫の飼える家に住んでいるのだろうか?」
ディフはさほど深く考えずにうなずいた。
「ああ」
彼らの住んでいるマンションは実際、ペットOKだったのだ。
「そうか………」
やがて遊び疲れた子猫たちは部屋のすみっこに折り重なって眠ってしまった。
名残惜しげにモニークをリズに返してオティアがカウンターに近づいてきた時、エドワーズは紅茶をすすめながら控えめに切り出してみた。
「Mr.セーブル。モニークのことなんですが……まだ、行き先が決まっていないのです。よろしければ……」
ほんの一瞬、オティアは考えた。まばたきよりも短い間。そして、首を振る。
左右に。
「そうですか………」
エドワーズは思った。
残念だ。彼なら、モニークの良い飼い主になってくれるだろうに。
マックスも小さく息を吐き、目を伏せている。ああ、彼も同じ意見なのだな。
※ ※ ※ ※
事務手続きとモニークの捜索料金の支払いを終え、いとまを告げる探偵二人を送り出そうとしてふとエドワーズは気づいた。
オティアの指先にぽつっと、小さな赤い穴が開いている。上下左右対象に、全部で四つ。
モニークだ。
表面の血は既に乾いている。おそらく、迷子を発見した時に噛みついたのだろう。ベストのポケットから絆創膏を取り出し、うやうやしくさし出した。
「これを。よろしかったらお使いください」
「…………ありがとう」
オティアは思った。これぐらいの傷、すぐに治せる。しかし彼の心遣いを無視するのは何となく気が引けて、絆創膏を受けとることにした。
ちらりと所長の方をうかがうと、黙ってうなずいた。
OKってことらしい。
どうやら、自分は依頼人に対して正しい応対をすることができたようだ。
※ ※ ※ ※
帰りの車の中でオティアはぼんやりともらった絆創膏を眺めていた。
「……初めての探偵料だな」
「え?」
「それだよ」
「……ああ」
シャツの胸ポケットにしまう。
この手の物は自分にとってはほとんど必要ない。指先の傷に視線を落す。少し、ひりひりしてきた。治しておこうか?
ちっぽけな赤い点。子猫の歯形。膝の上で丸まって、ごろごろ喉を鳴らしていた。
白いふかふかの毛皮。瞳は澄んだブルー、母猫や他の兄弟たちとおそろい。左のお腹にちょっといびつな丸い薄茶色のぶちがあった。
まるでコーヒーをこぼしたような色と形をしていた。
ため息がもれる。
自分でも気づかないうちに。
「可愛い猫だったな」
「…………」
答える気にはなれなかった。ディフもそれっきり、何も言わない。黙って車を走らせる。
(お前、あの猫、飼いたかったんじゃないか?)
(猫、飼ってもいいか?)
言いたかった一言を、お互い胸の奥に沈めたまま。
事務所に戻ると、ディフは固定電話から動物病院に電話をかけた。
「ああ、もしもし、サリー。メール読んでくれたか?」
どうやらサリーがとったらしい。
「……うん、そうなんだ。モニークな、無事見つかったよ。さっきエドワーズん所に送ってきた所だ。安心してくれ。また何かあったらよろしく頼む。それじゃ」
会話を聞きながら帽子を脱ぎ、クリアファイルを机の上に置く。シャツのポケットから絆創膏を取り出して……引き出しにしまった。
電話を切るとディフはこっちを見て、ぼそりと言った。
「コロコロしとけ」
「……あ」
服にも、髪の毛にも、猫の毛がびっしりとへばりつき、まるで白いマーブル模様みたいになっていた。
全身にしがみついていた子猫たちの感触を思い出す。少ししっとりしてあたたかく、ゴムまりみたいに弾力があった。
口のまわりがむずむずする。無意識のうちに食いしばっていた奥歯がゆるみ、ほんの少しだけ力が抜けた。
その時、オティアは笑っていた。
それはとてもかすかなもので、誰の目にとまることもなくすぐに消えてしまったけれど……。
確かに、笑っていたのだった。
(ねこさがし/了)
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