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ローゼンベルク家の食卓

【4-2-4】ヒウェル参上

2008/09/08 22:21 四話十海
 
 ここんとこオティアは具合が悪そうだ。
 寝込むほどではないにしろ、ベストコンディションからは遠い。オレンジとイエローの境目をふらふらと低空飛行をするような、何となくそんな日々が続いている。

『大丈夫か?』
『ちょっと休んだ方がいいんじゃないか?』

 とてもじゃないが、俺の口からはまちがってもそんな指摘はできやしない。言った瞬間に黙って背を向けるのはいい方で、下手すりゃ睨むだけじゃすまされないかもしれない。
 もっとも空気が何かをほざいた所でそれこそ風の音ぐらいにしか聞こえないのだろうけれど。

 だから、黙って見守るしかない。
 おそらく、シエンのフォローでどうにか今の状態を維持しているのだろう。
 ディフは心配そうに見守っている。ほんの少し眉根を寄せて、離れた場所から。普段はその素振りすらオティアには見せず、彼が部屋に戻ってから目を伏せて小さくため息をつく。

 食卓に漂う温かな空気の中に、ざらりと。みぞれみたいな小さな固い粒が混じっている。一つ言葉を交わすたびに顔に当たり、喉の奥にチクチクとつき刺さる。
 そこはかとなくいたたまれない……原因は俺。
 全て俺。
 だが、それでもオティアから離れると言う選択肢はない。
 我ながら勝手な男だ。
 だけど気になるんだよ。

 最近、何げにサリーが事務所に出入りする回数が増えてるし。また奴が来るとオティアの様子が柔らかくなるってーか……寛ぐのだ。
 紫の瞳の奥に常にうねっている苛立ちのさざ波が、ほんの少しだが確実に穏やかになっている。

 悔しいけれど、俺にはできない。
 無理だ。
 何かしたところで余計にオティアにストレスをかけるだけ。打つ手はいつも見当違い。四苦八苦した挙げ句に選ぶ答えはいつも外れで、かえって事態を悪化させる。
 だったら大人しくしてりゃいいのに、ガマンできずにまた手を出す。
 悪循環だ。

 それでも、かろうじて職場にまで顔を出すのは自粛していた……一週間ばかり。ここまでがまんしたんだ、そろそろいいよな? 自分勝手な理屈をひねり、久しぶりに探偵事務所に行ってみたらカギがかかっていた。
 
 やれやれ。
 やっぱり俺には外れクジがお似合いってことですかい。

 運命の女神相手に軽く悪態をつき、事務所のドアに背を向ける。しおしおとエレベーターまで引き返し、ボタンに手を伸ばした。
 どうする?
 指先が下りのボタンに触れる直前でくるりと手のひらを返し、上りのボタンを押した。
 このまま引き下がってたまるかよ!
 ディフも、オティアもいないのなら、必ず上の法律事務所に連絡を入れているはずだ……。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

「よう、シエン」
「オティアなら猫探しにいくって言ってた」

 挨拶への返事がこれだ。わかってらっしゃる。

「猫……そうか………猫かぁ………………どの辺り……かな。」

 慌てて付け加えた。

「あ、いや、ほら、手は多い方がいいだろっ」
「詳しくは聞いてないけど。んー」
 
 シエンはちょこんと首をかしげている。

「……あ、いや、いい、ディフに電話してみるから」

 しばらくコール音が続き、低い声が出た。

「何の用だ」

 あまり機嫌よさげじゃないな。だが構うもんか。無視されなきゃこっちのもんだ。

「シエンから聞いた。猫探してるんだって?」
「ああ、生後三ヶ月の子猫をな」
「俺も手伝うよ」
「お前が?」
「手は多い方がいいだろ?」

 ほんの少し考える気配がした。

「わかった。猫の写真と現在位置をメールする」
「了解、お待ちしてます、隊長」
「所長だ、阿呆」

 ぷつっと電話が切れた。
 シエンが心配そうにこっちを見てる。

「大丈夫、いつものことだよ……お、来た来た」

 短く鳴った携帯を開き、メールを呼び出した。白い体に青い瞳の子猫が写っていた。左側の腹に薄茶色のぶちがある。
 ぶちの形はちょっとゆがんだ円形。真ん中は濃く、縁に近づくに連れて徐々に淡く霞んで行き、まるでコーヒーをにじませたみたいだ。

「……なんか、どっかで見たような猫だな……」
 
 シエンが横からのぞきこむ。

「ちいさいね」
「生後三ヶ月だってさ。まだほんの子猫だ。飼い主、心配してるだろうな………」

 添えられた現在位置の座標を元にシエンのパソコンを借りて地図を呼び出し、確認してからもう一度電話をかけた。

「写真届いた。場所もわかった。猫の逃げた現場ってのは、どこだ?」
「動物病院の第二駐車場」
「なるほど、でお前さんは西に向かってるんだな?」
「ああ」
「調査開始は何時頃? ……OK、すぐそっちに向かうよ」

 よし、大体の位置はつかめてきたぞ。
 電話を切って、シエンに一言、ありがとう、と告げてから走り出す。
 裏道使って車を飛ばし、10分もかからずに子猫の失踪現場にたどり着いた。
 まちがいない、ディフの車がどんっと停まってる。

 所長が西に向かったんならオティアは東だ。以前、猫を探すのは現場から円を描くように追跡するのだと聞いたことがある。二人掛かりだから今回の場合は半円か。

 軽く眼鏡を整えて歩き出した。

 オティアを探しながら。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 道の両脇にこぎれいな家の立ち並ぶ住宅街。きちんと区画分けされた庭は通りには直接面していない。子猫を探しているなら、この奥まった庭をチェックしながらゆっくりと移動しているはずだ。

 目を凝らし、耳をすましながら歩いていると、風に乗ってかすかに聞き覚えのある声が聞こえてきた……耳はいいのだ。実際に。
 それが言葉として脳みそで認識されるより早く、声音を聞いた時点で走り出していた。
 にごりのない澄んだ少年の声とごわごわの男のだみ声。どちらも短調、おせじにも上機嫌とは言いがたく、特にだみ声は最悪。
 時おり音程を外して跳ね上がり、明らかにエキサイトしているのが伝わってくる。

「ふぁーおおおおぅ、ふぉーっっ」

 猫の声だ。ドスが利いてる。ありゃ、そうとう怒ってるな?
 一気に胸の中の不吉な予感が膨れ上がる。

 角一つ曲がった瞬間、とんでもない光景を見ちまった。

 作業服姿の四十がらみの男が、よりによってオティアの腕をつかんでやがる! 一方、オティアの傍らの塀の上からはずんぐりむっくりした茶虎の猫が一匹、背を丸めて尻尾をぶわぶわに膨らませ、かっと赤い口を開けて唸ってる。
 怒りの矛先は作業服姿の男だ。

「しゃーっ!」
「な、何だ、このどら猫がっ」

 猫に威嚇され、男がわずかにたじろいだ。
 オティアが無表情のまま拳を握り、さりげに片足に体重をかける。
 一発仕掛ける気だな?
 だが、今やったらお前、出るのは拳じゃすまないぞ! 自分じゃ気づいてないみたいだが……。

 ガラスみたいに冷たく堅い光を宿した紫の瞳の奥に、かすかに……あらゆる色の混じり合った色のない虹がうねり、今にもぬうっとせり上がろうとしている。
 真昼の明るさの中でもそれと知れる、単なる光線の反射なんかじゃすまされない底知れぬ煌めき。
 まだ、ほんの兆しでしかないが、あの光は見間違えようがない。いつぞや倉庫を崩壊させた力の奔流……その前ぶれとなった渦巻く虹。
 いったいどれだけストレス溜めてるんだ、オティア。能力の制御すら甘くなっているなんて。

 滅多に全力疾走はしない主義だが、今回ばっかりは別だ。
 走りながら声を張り上げる。

「Hey! オティア!」

 こっちを見た。
 見てくれた!

 ……バカだな、俺。こんな時だってのに、嬉しい、とか思ってる。

 彼が俺の存在を認めた瞬間、ちろちろとゆらめいていた剣呑な光がすうっと消えた。
 よし、最大のピンチは脱したぞ。
 よれよれになりながら駆け寄る俺を、作業着のおっさんが胡散臭そうににらみつけてきた。

「何だ、貴様」
「…………………保護者」

 男の注意が俺に移った一瞬をついて、オティアがつかまれた腕を振りほどく。この細っこい体のどこにこれほどの力が潜んでいるのやら。

「このっ、ガキがっ」

 慌てて二人の間に割って入る。

「はーい、そこまで。善意ある市民の平穏な会話で済ませますか?」

 にっこりと口の端を釣り上げてほほ笑むと、練り上げた言葉の針をちくりと差し込む。

「それとも、未成年者への暴行……」

 さーっとMr.作業着の顔から血の気が引いた。
『未成年』と『暴行』。この二つの単語の組み合せがエキサイトした脳みそを一気にクールダウンしてくれたらしい。

「どっちを選びます、Mr?」
「いや……俺は……ただ、子供が一人で歩いてたから……」

 見え見えの言い訳だがうなずいて同意を示す。少なくとも相手が事態を丸く収めたがってるんだ、便乗しない手はない。

「そりゃどうもご親切に」

 気を良くしたのか、男はほんのちょっぴり勢いを取り戻し、俺にびしっと人さし指を突きつけてきた。

「お、お前も保護者なら、ガキのそばを離れるんじゃねえっ!」

 オティアが露骨にムっとした顔をした。ガキと言われたのが気に食わないのか、それとも俺が保護者じゃ不満か? ともあれこの場はこのおっさんに退場いただくが最優先。にっこり笑ってぱたぱたと手を振った。

「ありがとう。ご忠告、肝に銘じときます。それじゃごきげんよう!」

 Mr.作業服を見送ってからオティアの方に向き直ると、つま先に何か軽いものが触れた。
 迷い猫のチラシだ。絡まれた時にでも落ちたか。拾い上げて軽く土を払って元通り中に収める。

「これ」

 ちらっとこっちを見て、そのまま歩き出しやがった。さし出したファイルはもちろんスルー。

「おい……待てよ」
 
 返事もしない。
 代わりに「くぁーっ」と塀の上であくびをした奴が約一匹。さっきの虎猫が塀の上にうずくまり、眠そうにしぱしぱと目をしばたかせていた。
 すれ違い様、一声かける。

「……お前、よくその体勢で安定できるなあ……」

 大きなお世話、とでもいいたげに耳を伏せ、そっぽを向かれた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 オティアは文字通り後も見ずにすたすたと歩いて行く。どうやら、こいつには子猫の居場所がわかっているようだ。
 迷いのない足どりで区画の反対側に周りこみ、さらに前進。さっきまで居た場所のほぼ反対側やって来るとぴたりと止まった。
 木戸越しに手入れの行き届いた裏庭が見える。ふかふかした緑の芝生の奥に物置がぽつんと建っていて、引き戸にわずかにすき間が開いていた。

 ここいらの家は道に面するようにしてまず建物があり、庭は敷地の背面に回る構造になっている。
 さっき虎猫の昼寝していた家と、こっち側の家とは庭同士が接触している訳だ。人間ならいちいち道に出て玄関口に回らなきゃいけないが、猫なら庭伝いに自由に動ける。

 察するにオティアの奴、子猫を見つけてとっさに塀を乗り越えようとでもしたか?
 そこで空き巣狙いとまちがえられて絡まれたってとこか……通りすがりの庭師か、清掃業者、あるいは配管、配線工事の業者にでも。

 立ち止まった背中に声をかける。

「どうした、オティア」
「……いる」
「子猫が? ここに?」

 答えはない。だが、じっと物置の扉のすき間を見つめている。こいつがいると言うのなら、それはかなりの確率で真実だ。

「OK、ちょっと待ってろ」

 全力疾走でくしゃくしゃになった髪を手ぐしで整え、首の後ろできっちり結わえ直す。シャツを整え、ネクタイをきちんと締めて……今にも喉がぐえっとなりそうになる。だがこの方が印象はいい。

 仕上げにばたばたと全身のほこりをはらい、汗をふいて。一通り身繕いを終えてから玄関の呼び鈴を押した。

「はい……どなた?」

 ドアの向こうで優しげな初老のご婦人の声がした。覗き穴に向かい、さっと『迷い猫』のチラシを一枚掲げてにっこりと笑みかける。

「失礼します、実は私、居なくなった子猫を探していまして……お宅の庭を、それらしい子猫がうろちょろしてるのをこの子が見つけたものですから」

 半歩さがってオティアの姿が見えるようにする。そっぽを向いているが、こっちが子連れだとアピールしといた方が警戒される度合いが格段に下がるのだ。

 果たしてドアが開き、品の良さそうなご婦人が現れた。淡いオレンジ色のサマードレスを着てレースのショールを羽織り、肩の上では白髪まじりの亜麻色の髪の毛がふわふわと、綿菓子みたいに波打っている。
 ヘーゼルブラウンの瞳が俺と、オティアを交互に見つめた。
 すかさず、手にしたチラシをうやうやしくご婦人にさし出した。

「この猫です」

 綿菓子頭のご婦人はごく自然にチラシを受け取り、優しげなヘーゼルの瞳でじっと見つめている。
 どうやら、猫好きらしい。いい傾向だ。

「まあ、かわいい猫ちゃん……ちょっとお待ちくださいね、今、木戸を開けますから」

 亜麻色の髪のご婦人は一旦奥に引っ込み、しばらくすると庭に通じる木戸の向こう側にやってきて内側から鍵を開けてくれた。

「どうぞ、お入りください」
「ありがとうございます、それじゃおじゃましますね……おいオティア、OKだってさ」

 オティアはぺこりとおじぎをして、とことこと庭に入って行く。
 迷わず、物置き目指して一直線。

 少し離れて見守っていると、引き戸に手をかけてこっちに確かめるような視線を向けてきた。

「あの物置、開けてもよろしいですか?」
「ええ、ガーデニングの道具しか入っていませんし……」
「いいってさ!」

 こくっとうなずき、そっと扉を開けて、中に入って行く。ごそごそと動く気配がした。

「あなたは、行かなくてよろしいんですか?」
「ええ、猫の扱いは彼の方が上手いんです………プロですから!」
「まあ、すごいのね、お若いのに」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 物置の中は薄暗く、土と、木と、芝生のにおいがした。建物の中なのに、まるで深い森の中にいるような錯覚にとらわれる。

「モニーク?」

 床に置かれた木箱の間から「にう………」とかすかな声が聞こえた。

 いた。

 床に膝をつくと、オティアは慎重に手を伸ばした。

「しゃふーっ!」
 
 暗がりで青い瞳がぴかっと光る。
 全身の毛をぼわぼわに逆立て、ちっぽけな口を開けていっちょまえに威嚇している。箱と箱のすき間に手を入れて近づいて行くと、あぐっと噛まれた。
 尖った細い牙が四本、ぷつっと指に刺さる。
 思わず顔をしかめた。
 幸い、後ろは壁だ。これ以上逃げられることはない。オティアはそのまま猫をつまみあげ、連れ出した。

「にう、にうにう」

 ちっぽけな白い毛皮の塊がころん、と手の中に転がり込んで来る。片手で楽に抱けるくらいの大きさで、ほとんど重いとも感じない。

「………こんなちびのくせに脱走したのか……」

 改めて両腕で抱きかかえて、外に出る。明るい場所で見ると、白い後足にぽつっと赤い染み。血がにじんでいる。他所の猫にやられたか、あるいはパニックを起こして走り回っているうちにどこかに引っ掛けたか。

 怪我をして、怯えてここに隠れていたのだろう。もぞもぞとシャツに鼻面を押し付けてきた。
 傷口に手を当て、意識を集中する。この程度の傷なら自分一人でも治せる。

「に?」

 一瞬、手のひらと傷口の間にわずかな熱がこもる。手を離すと、子猫の傷は跡形もなく消えていた。
 これでいい。
 木戸の所に戻り、オレンジの服の婦人にぺこりとおじぎをして歩き出した。

「見つかったのね。よかった」

 隣で待ち構えていたヒウェルのことは……見ないふりをした。

「あ、おい、待てって!」

 すっと横を通りすぎる。
 背後で婦人に礼を言っているのが聞こえた。

「あ、ありがとうございます、おかげさまで無事見つかりました。ほんっとーに感謝します! それじゃ」

 やっぱりあいつ、女性相手の方が楽しそうだ。やたらと礼儀正しいし、気配りにも抜かりがない。
 ぎゅっと奥歯を噛みしめる。

「にう」

 手の中で子猫が身動きした。
 あたたかい。
 子猫はオティアの顔を見上げて、ちっぽけな口をぱかっと開けた。

「にゃーっ」
「……オティア」

 振り向くとヒウェルが立っていた。心配そうにこっちを見てる、その顔つきを見て収まりかけた苛立ちがまた頭をもちあげそうになる。

「連絡は?」

 そうだ、それがあった。
 手の中を見る。白い子猫はすっかり安心したらしく、丸くなってごろごろと喉を鳴らしている。ちっぽけな前足でオティアの腕にしがみついて。
 シャツの袖ごしに押しあてられた肉球が、熱い。

「……かけろ。ディフに」
「はいはい。お取り込み中なんですね」

 首をすくめてヒウェルは携帯を取り出した。

「ハロー? うん、俺。今オティアと一緒にいるんだ。いなくなった子猫、見つけたよ。無事だ……ああ、これから駐車場に戻る。それじゃ!」

 ヒウェルが電話を切った時、オティアは既に子猫を抱えて早足で歩いていた。

「わあ、素っ気ない」

 ため息一つ。ぐいっとネクタイをひっぱっていつも通り適度にゆるんだ状態に戻すと、ヒウェルは小走りに後を追いかけた。
 慣れない全力疾走の反動ですっかり力が抜けて、カクカク震える膝を踏みしめながら。
 
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