▼ 1.見えないさん
2012/02/11 22:29 【騎士と魔法使いの話】
見ようとすると、見えない。
そんなちっぽけな「お隣さん」の存在に初めて気付いたのは、物心ついてまもない頃だった。
たとえばテーブルの片隅、何気なく前を通り過ぎた本棚の上、部屋の隅っこ壁の際、食器棚のお皿のかげ。それこそ家中、あらゆる所でそいつを見かけた。
にじむ視界の隅っこで、かさかさ、ちょこちょこすばしっこく動き回る。じっと見ようとすると、すぐ逃げてしまう。
他の人には、見えない。だけど夢じゃない。
月虹宿る左目に、写るあいまいで不確かな風景を共有できるのは、姉上だけだったのだ。
一度なんか、床の上で遊んでた途中、オモチャ片手に突っ伏して眠り込んでいたら、くいくいと髪の毛を引っ張られた事がある。
泡喰って飛び起きた視界の隅っこを横切ったのは、ちょこまかと駆けてくちっぽけな『何か』。
大きさは手のひらに乗っかるぐらい。人間と同じように二本足で歩いていた、ような気がした。
はっきりと見聞きした訳じゃないが、そいつがもそもそ動く気配と、きゃわきゃわつぶやく声が伝わってきた。
それはまるで、木のうろの中でかさこそ動く小鳥の気配にも似て……聞いてるだけで首をすくめたくなるような、くすぐったさを感じた。
もっともこの辺は後になって思い出したことで、その時はひたすらびっくり仰天。
目をまんまるにして口をぽっかーんと開けて、床に座り込んでいた。
ちっぽけな『何か』はちょこまかと毛足の長い絨毯の上を走り抜け、家具のすき間に消えた。
「どうしたの、ディー」
「あねうえ、あれ、あれ!」
指さす手が、ふわりと姉上の両手に包まれる。
「ディー、見ちゃだめよ」
「でも、でもっ」
「そんなにじーっと見てたら、イタズラされちゃうかもよ?」
びくっとすくみ上がり、姉上の手にしがみつく。口がわなわな震えて、涙がにじんだ。
子供心にも、恐ろしかったんだな。『見えない未知の存在』に、何かされるのが。
「こわいの? いたいの?」
「いいえ。それは『見ないで』って言う合図なの」
姉上はぶるぶる震えてる俺を抱きしめて、頭を撫でてくれた。やわらかくてあったかい指が髪の毛の間を通り過ぎる。
途端に恐怖は朝露よりもはかなく消え、震えもおさまり、涙も引っ込む。
そう、そこは。姉上の腕の中は、『ちっちゃなディー』にとって世界中でいちばん、安心できる場所だったんだ。
現金なもので、 相手に害意がないと知った途端、今度はむくむくと好奇心が頭をもたげてくる。
「なんで逃げるのかな。いっしょに遊びたいのに」
姉上はちょっと困ったように眉を寄せて、ぱたぱたと俺の背中を手のひらで叩いた。
「ちっちゃいさんたちは、はずかしがり屋さんだから」
「ちっちゃいさん?」
「そう、見えないさんで、ちっちゃいさん」
歌うようにささやきながら、姉上は笑ってミルクを入れた小皿を置いた。
部屋の隅っこに、ことりと。
※
見えないけど、居る。
ちっぽけな「お隣さん」を知ってるのは、自分と姉上だけだと思っていた。
大人に話したところで、まともに取り合ってもらえるはずもなく。子供の空想と軽く受け流された。
「そうなの、よかったわね」
「ディーぼっちゃまは本当に、感性豊かでいらっしゃる」
ディーンドルフの伯母上も、従姉も、館の使用人たちも。みんなうなずいてはくれるけど、本気にしてないのは明らかだった。
小さな子供のうちはまだいい。夢見がちな子、空想好きな子ですまされる。だが、さすがに十を越えればこっちも知恵がついてくる。
うかつに口にすれば笑われる。
14の歳に王都に引き取られ、『呪われた目の子』と呼ばれるようになってからは、なおのこと。
(見えない。見てはいけない。話してはいけない)
ちっちゃいさんの事は、成長とともに記憶の底に沈め、鍵をかけて封印していた。
フロウに出会うまでは。
※
「……あれ?」
薬草香る家で迎えた初めての朝。裏庭の井戸で顔を洗っているときに『そいつ』の気配を感じた。
両手ですくった水を、ばしゃばしゃと顔にかけている時に、すぐそばで、かさこそと小さな生き物の動く気配がしたんだ。
小鳥でもいるのか。それともリスか、ネズミか?
顔を上げると、水滴ににじむ視界の隅っこをささっと駆け抜けるちっぽけな影が見えた。しかし目をこらすと消えちまう。
(気のせいか?)
手ぬぐいで顔をごしごしふいていると、またすぐそばでかさりこそり。
顔を上げると、ぴくとも動きゃしねえ。そのくせ、じーっとこっちをうかがってる気配だけは感じる。
(何なんだ!)
その後、飯食ってる時も。厩で黒の手入れをしてる時も。とにかく一日中、そいつはずっーと俺につきまとっていた。
見えないさん。
ちっちゃいさん。
にじむ空気の中、かさりこそりと視界の隅を走り抜けるちっちゃな『誰か』。
すぐそばに居るくせに、目線を合わせようとすると素早く物陰に潜り込む。後に残るは気配のみ。
こうもまとわりつかれると、こっちも段々ムキになってくる。
どうにかして見つけてやろうと、首を捻ってあちこちのぞきこんでいると、くいとフロウに耳をひっぱられた。
「いってえっ」
「あんまりジロジロ見んなよ。お前さんが珍しいんで、うろちょろしてるんだろ」
「えっ?」
天気の話でもするみたいにさらりと言ってやがる。こいつにとっちゃ、ごく普通の。ありふれた出来事なんだ。
「あいつら、照れ屋なんだ。見ないふりしてやんな」
口元をゆるませ、目尻を下げるとフロウはミルクを入れた小皿を床に置いた。
居るんだ、この家にも。
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