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とりねこの小枝

【20-3】泣き叫ぶ子供★

2012/10/11 18:28 騎士と魔法使いの話十海
 
 うー……うぅううう、るーーるぉおろぉぉぉぉ、うぅぅるるるる……。

 微睡みの中、フロウは不吉な声を聞いた。獣の唸る低い声。合間にガチガチと牙を鳴らす音が響いてくる。耳から入る音のみならず、振動が直に伝わって来る。
(何だ? 何が居るんだ?)
 熱い、生臭い息を吐き、強大な何者かがもぞりと身じろぎする。ぞりっと生命の根幹を鋭いナイフで削がれるような心地がした。
(やばい、絶対やばい、すぐに起きなきゃやばい!)
 寝起きの気だるさを振り払い、無理やり瞼を押し開く。

「うー、うう、ぐぅるるるぅ」

 すぐ傍らで件の唸りが聞こえた。心臓の鼓動が早くなる。今にも爆発しそうだ。そっと、そっと。繁みの中を這い進む兎のようにそっと身を起こして確かめる。
 ダインだ。
 だらだらと脂汗を流し、食いしばった歯の間から涎までこぼして唸ってる。

「うー、ううぅ、うー……」

 腹の底から。内臓から直に絞り出すような、凄みのある声だった。しかも、がくがくと瘧にかかったように全身を震わせている。

「おい……」

 手をかけ、揺り起こそうとしたその時だ。

「がぁっ!」

 何の前触れもなくダインは背中を弓なりに反らせ、かっと目を開いた……左目だけを。右目は縫い閉じられたようにピクとも動かず、固く閉ざされている。
 対して限界まで見開かれた左目は、真っ白な光の渦に完全に覆い尽くされていた。元の緑色が全く見えない。

『月虹の瞳』が、ついぞ見たこともないほど荒れ狂っている。
 全ての色が混じりあい、打ち消しあった白い光が渦を巻いている。さながら深海に潜む大蛇のようにうねり、ぶつかり、また離れ、見つめていると底知れぬ深みへと引き込まれそうになる。
 それは正しく異界の色彩。背筋が凍えるほどに美しく、そしておぞましい輝きだった。

「う、ぐ、が……」

 ぎりぎりと軋る歯は遂に唇を噛み切り、ぷつっと血が滲む。月の光の下でもはっきりと分かる、現の赤。
 はっとフロウは我に返った。

「ぐ、お、うぅ」

 一段と低い声で唸り、ベッドから飛び出そうと身構えるダインを抱き寄せた。ざわざわと風も無いのに逆立つ髪を撫で梳いて、柔らかな声で耳元に呼びかける。

「ダイン」

 汗ばむ額に口付ける。わずかに触れた舌先を、ぴりっと濃い塩の味が刺す。
 途端にすうっとダインの体から強張りが抜け、ベッドに崩れ落ちた。
 両目は閉じられ、食いしばっていた歯も緩む。僅かに残る口元の血を、そろっと指先で拭いながらもう一度呼びかける。

「ダイン?」

 ぴくっと瞼が震え、開いた。いつもの穏やかな緑色が現われる。左目にわずかに月色の虹の名残が揺れてはいるが、それだけだ。

「あ……フロウ?」
「どうしたい」

 ゆるりと笑いかけると、しがみついて来た。まるで溺れかけた子供のように体を縮め、必死になって身を寄せている。抱き留めて頭を撫でた。ダインは心地良さげに目を細め、胸元に顔をすり寄せる。

「ははっ、今夜はやけに甘えん坊だねぇ。え、騎士さま?」

 胸の辺りからもわっと熱気が噴き上がる。盛大に息を吐いたらしい。寝巻き越しに肌がなでられ、何ともくすぐったい。

「甘えるのに理由が必要か?」
「ん~? 必要ないけど、理由があるなら聞きたくなるだろう?」

 汗ばむ髪にそっと唇で触れる。ダインは小さく身震いして顔を上げた。

「夢を見た」

 話の先を促すように、しなやかな指先で広い背中を撫でる。寝巻きにぐっしょりと冷たい汗が染みていた。

「夢ん中の俺はちっちゃな子供で……家が、燃えてるんだ。姉上も母上もいなくて、俺は一人で部屋の中で泣いてる」
「……ん」

 相槌をうちながら、ゆっくりと背中をなでる。ちゃんと聞いているのだと、伝えながら。

「星空の絨毯の下に潜り込んで、さ。おかしいだろ? 他に隠れる場所がなかったんだ」

 絨毯と言っても、上に大人一人が寝ころべる程の小さなものだ。しかし細工は細かい。藍色の地に夜空を彩る星座がみっしり織り込また、上質な絨毯。
(こいつの生まれた家にあった物だって、言ってたな)
 育て親たる伯母の手でアインヘイルダールに送り届けられ、今は兵舎の部屋に敷かれている。

「それで?」
「子供の頃、家に仕えてたアルベルトって男が居た。そいつが俺を呼んでるんだ。ぼっちゃん、早くこっちに! って。でも俺、足が動かなくて……火がどんどん強くなって、息をするのも苦しくて……」
「おやおや、大変だ。……それで?」
「煙と炎に覆われて、何も見えなくなる。苦しくて、怖くて悲しくて、目が覚めた」
「……夢だよ、ダイン」

 ゆっくりと撫でる。広い背中を。堅く引き締まった筋肉に包まれた、頑丈な肩を。陽に焼けた首筋を。くしゃくしゃの癖っ毛に包まれた頭を、何度も。
 お前が今居るのはここだと、触れあう肌を通して語りかける。ダインはふるふるっと子犬のように身を震わせ、しがみつく腕に力を込めてきた。
 その瞬間、フロウは確信した。
 ただの夢じゃない。
 家が燃えたのは、紛れも無い事実なのだと。燃える家と、泣き叫ぶ子供。昼間の出来事が鍵となり、過去への扉を開いた。

「もう終わった事……だろ?」

 果たして、腕の中のダインがうなずいた。

「実際にはアルベルトが助けてくれた。俺を絨毯に包んで炎から守って、家の外に運び出してくれた。わかってるはずなのに」
「……なのに?」
「時々、引き戻されちまうんだ。炎の中で泣いてた瞬間に」

 がっちりした手足がこわばる。歯を食いしばる気配が伝わって来る。咽が震え、あの不吉なうなり声が微かに聞こえた。

 こいつは確かに勇敢だ。だが恐れを知らないからじゃない。
 恐怖を知って、それを必死になって乗り越えるありふれた凡人に過ぎない。人並みに怖じ気づきもするし、怖けりゃ尻尾も巻く。
 だが、決して後へは退かない。
(身をすくませる恐怖を知っているからこそ、全力で守るのだ。助けを求める手を、決して振り払わないのだ)
 歯を食いしばって片意地張って、自分の前でだけ、こうして弱さを見せる。 

「……ったく、甘ったれだねぇ」

 クツクツと咽を鳴らして笑いかける。抱きしめる腕に自らも力を込めて、ぎゅっと体と体を密着させて、すがりつくでっかいわんこを受け止めた。胸の中にすっぽりと包み込んだ。

「ほら、寝とけ……良い夢見るまで、こうしといてやるから。」
「……」

 その一言であっけなく、ダインの全身からすーっと嫌な強張りが抜けた。

「……うん」

 見上げてほほ笑むその顔の、何とあどけない事か。

「……ほら、さっさと寝ろ」

 あんまりに無防備に懐かれて、妙に気恥ずかしい。頬の表面がむずむずとこそばゆい。

「明日は早いぞ? 畑の草取りやら、薬草干しやら、お前さんにやってもらう事はいっくらでもあるんだからな?」
「うん。おやすみ……フロウ……」

 こてんっとより掛かるとダインは目を閉じた。安心しきった顔で、すぐにすやすやと寝息を立て始める。
 
「ったく、世話の焼ける犬っころめ」

 フロウは屈みこんで顔を寄せ、うっすらと血の滲む唇に自らの唇でそ、と触れた。

『混沌より出し黒、花と木の守護者マギアユグドよ。芽吹き、茂り、花開きて実を結ぶ。汝の命の力もて、彼の者を癒したまえ……』

 淡い緑の光に包まれて、小さな傷は跡形も無く消える。

「おやすみ、ダイン。よい夢を……」

 囁く声は眠るわんこの耳に届いたのか。
 ほわっと青年は目元を和ませ、口元をほころばせ……フロウの胸に顔を埋めたのだった。


(夕陽の如く赤々と/了)

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