▼ 【おまけ】惑い花の残り香
2012/06/14 0:44 【騎士と魔法使いの話】
- 拍手お礼用短編の再録。
- 【16】望まれなかった騎士の後日談。
ディートヘルム・ディーンドルフが騎士宣誓を終えて数日後。
東の交易都市エプレポートでは、衛士隊副長ロベルト・イェルプが港近くの食堂で、遅い昼食を取っていた。
王都からの客船が到着すると、大量の人や荷が出入りする。必然的に衛士隊の仕事も増えるのだ。
窓際の席に腰を降ろし、注文を取りに来た給仕に一言手短に告げる。
「いつものを頼む」
ほどなくして、身の詰まった堅いパンとチーズ、そして陶器のジョッキに満たされたビールが運ばれてきた。
「ご苦労」
礼を言って、口を着けるか着けないかのうちに男が一人、慌ただしく駆け込んできた。
黒髪に琥珀の瞳の、リスのような小柄な男……ハインツだ。
「あ、いた、いた、副長!」
ざわっと店内の客がどよめく。
衛士隊の隊員が慌てふためいているのだ。すわ何事かと、身構えもしよう。半ば腰を浮かしている客もいる。
「騒がしいぞ、ハインツ」
ぎろりとロベルトは薄紫の瞳でにらみつけた。
「緊急か?」
「いえ」
「では控えろ。他の客の迷惑になる」
「はい……すんません」
「とにかく座れ。食ってる間、前に突っ立っていられたら落ち着かん」
「はい」
素直にハインツが座った所を見計らって先を促す。
「で。何があった」
「あ、はい。さっき王都からの便に乗ってきた連中から聞いたんすけどね……」
ハインツは商人の息子だ。故に商船の乗組員や客に知り合いが多い。
「ダインの奴がね。騎士宣誓を済ませて、晴れて正騎士になったってんですよ!」
「誰だそれは」
「えーっ」
かっくんとハインツの顎が落ちる。
「あなた、あれだけしばき倒した奴をあっさり忘れますか」
「……冗談だ」
ロベルトはぐっとビールを煽り、またぽつりとつぶやいた。
「そうか。やっと、正騎士になったか」
「はい! ですがね、やっこさん何を考えてんだか。父親の家名じゃなくって、伯母さんの家名で宣誓しちまったんですよ!」
「不思議はなかろう。奴はずっとディーンドルフを名乗っていた」
「ええ、まあ、表向きはね……あ、俺もビールとソーセージとパンを」
「かしこまりました」
給仕が遠ざかるのを見届けてから、ハインツは心持ち声を潜めた。
「てっきり、これを機会に親父さんの家の一員として、正式に認められるんじゃないかって、思ってたんすけどねえ」
商家に生まれ育ったハインツの価値観では、それが理に叶ったことなのだろう。
才能のある息子を家に迎え、家業を継がせるのに何の不都合があるかと。兄がいるなら、暖簾を分けるなり何なりすればよいではないか、と。
だが、生憎とハンメルキン家は貴族だ。爵位と名誉、見栄と体裁がおまけで着いてくる。
「馬鹿だなあ、ダインのやつ。家を継ぐ権利を、完全に放棄するなんて……」
「それが、ディーンドルフの選んだ道なのだろう」
「はぁ」
「考えてもみろ。あの直情馬鹿に、だだっぴろい領地を運営する才覚なぞ、あると思うか?」
「………結構、上手く行きそうな気もしますが」
「貴族社会の腹芸も含めて、だぞ?」
「あ、それは無理ですね」
「そう言うことだ」
がつがつとチーズとパンをほお張り、かみ砕き、ぐい、とビールで流し込む。
恐らく男爵夫人と、兄に遠慮した上での決断だろう。思えばあいつはいつでも背中を丸めて、何かから身を隠そうとしていた。
怖いからではない。
極力、目立たぬように。自分の存在、動きで心乱される者がいると知っていたからこそ。
「騎士ディーンドルフ、か……」
ため息とともに吐き出したその時だ。
チャリン、とすぐ側で金属の落ちる音がした。見ると、真後ろのテーブルからスプーンが落ちた所だった。座っていた女性が立ち上がりかける。
「どうぞ、そのまま」
押しとどめて拾い上げ、すっ飛んできた給仕に渡す。ついでに替えのスプーンを受けとり、うやうやしく差し出した。
「どうぞ」
「ありがとう」
ふわりと甘い花の香りが漂う。
春先だと言うのに、みっしり着込んだ羊毛織りのマントの下からのぞく手には、白いヒスイの指輪がはめられていた。
「鈴蘭……」
「え?」
「鈴蘭の花ですね、これは」
「ええ」
目深におろしたフードの陰で、彼女がほほ笑んだような気がした。
「母の形見なんです」
「なるほど。よくお似合いだ」
「ありがとう」
ほどなく女性は食事を終え、店を出て行った。後ろ姿を見送りながら、ロベルトが呟く。
「いい女だな」
「え? 顔、ほっとんど見えなかったじゃないすか!」
「甘いぞ、ハインツ。女の価値は顔じゃない」
「じゃあ、何なんですか」
「体だ」
迷い無くきっぱりと言い切る上官に、ハインツはへばーっとため息をつくのだった。
※
鈴蘭の女は歩き続ける。
目深にフードを被ったまま。やがて波止場まで来ると、そのまま桟橋の上を歩き始めた。海から吹く風にマントがはためく。
「馬鹿な子だ。ああ、まったく、ほんとになんって馬鹿な子だろう!」
ウミネコの声と、港の賑わいに紛れるようにして女は呟いた。
「ほんっと、馬鹿。おかしくって涙が出る!」
頬を一筋、涙が伝い落ちる。それを拭おうともせずに女は歩き続ける。
(あんたはあたしを、宝物みたいに扱ってくれた。手のひらで大事に包んで、うっとり夢見るような澄んだ目で見つめて……)
(だからあたしも。あたしみたいな女でも、あんたの前では、宝物でいられた)
(まばたきよりも短い間だけど、生まれてきて良かったって思えたんだよ……)
桟橋のとっつきで、フードを脱ぐ。
艶やかな赤い髪が風に煽られて広がった。まるで翼のように。
(グレイス)
(グレイス?)
(グレイス!)
風に紛れ、彼の声が聞こえる。耳の奥に、遠くかすかに。
その名前はあんたにあげる。
だから覚えていておくれ。
あんたが覚えている限り、あたしはあんたの宝物。
(惑い花の残り香/了)
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