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ローゼンベルク家の食卓

【ex10-1】かすかに、彼方に

2010/04/25 16:30 番外十海
 
 何の夢を見たんだろう。

 覚えているのは喪失の痛み。しっかり握っていたはずの大事な人の手が、するりと抜け落ち、沈んでゆく。
 止められない。

 確かに手の中にあった存在が、今はどこにもいない。
 何もできず、ひざまずいてのぞきこむ……底知れぬ暗い水の向こうを。いくら目をこらしても、あの人の姿は影も形もない。声を枯らして叫んでも返事は無い。こだますら返らない。

 ただ、暗く淀んだ水が揺れているだけ。

「う……」

 重苦しさに耐えかねて目を開ける。薄暗い部屋の中、一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。
 ああ、ここは居間だ。ソファの上で寝てしまったのか。

「んがぁ………ごご……」

 床の上でいびきをかいてる奴がいる。こんなことをやらかす相手は一人しかいないし、声も音も聞き覚えがありすぎる。
 大学の寮に住んでいた四年間、聞き続けていたのだから当然だ。
 チャールズ・デントンは昨夜蹴落とした姿勢のまま、床の上に仰向けにひっくり返って爆睡していた。酔った揚げ句に脱いだシャツとセーターはかろうじて、自分がかけた位置にある。

 ずきん、とこめかみの内側で鉛玉が転がる。まだ酒が残っているようだ。
 あの後、一人で飲み続けたのが敗因か……それとも、飲み慣れない外国の酒をあおった為か。口当たりのよさについ、二人で一瓶、空にしてしまった。その後、勢いに任せていったい何本あけたのやら。

 床に転がる瓶の間をよろめく足取りで通り抜け、窓際に立つ。 
 カーテンを開けるなり、白い冬の光が目を射た。まぶたの裏側がちくちくと痛い。

 目を細めて、遠くに霞む海を眺めた。

『ゴールンデンゲートブリッジ公園に行きたいな……』

 いまだにはっきりと動かない頭の中でくるりと、伏せられていたカードが表に返った。
 クリスマスが終り、彼女たちは帰ってしまった。だから、こんなにも寂しいのだ。

「っ!」

 無意識に拳を握った。
 寂しさが呼び水となったのか。不意にぐうっと鉛色の海面がせり上がり、真っ二つに割れた。
 不吉な夢の名残をしたたらせ、真っ黒な塊が浮上する。
 手のひらをすり抜けていったのは………彼女ではないのか?

『君を抱きしめる腕を、私は無くしてしまったのかな』
『無くしちゃったの?』

 あの時返されたのは問いかけと、すがりつく切なる願い。確たる証を得られぬまま、自分は彼女を送りだした。

 大切な存在が指の間をすりぬけて、暗い水底に沈んでゆく。どんなに手を伸ばしても、もう届かない。

 じりじりと真っ赤な熾き火が胸を焼く。焼かれた後はぽっかりと、色さえ無くした穴になる。
 声が、聞きたい。顔が見たい。携帯の画面の中の小さな画像なんかじゃない、生きて、動いている君に会いたい。

 会って、確かめたい。確かめずにはいられない。それ以外に、止める術はない。今、この瞬間、胸の中にじわじわと広がる焦りと空しさを。

『君を抱きしめる腕を、私は……』

(こんなによれよれになっている私を見たら、きっと呆れるだろうな)

 叱られるかもしれない。
 それでもいい。むしろ、そうしてほしいくらいだ……。
 会いたい人との間には茫々たる海原が横たわり、刻む時間にすら9時間の隔たりがある。自分はやっと起きたばかりなのに、彼女はもう明日の向こう側にいるのだ。
 乾いた唇が動き、かすれた音がこぼれ落ちる。

「ヨ………コ……」

 今すぐに会いたいのに。
 君は、あまりに遠い。

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