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ローゼンベルク家の食卓

【ex10】水の向こうは空の色(前編)

2010/04/25 16:23 番外十海
attention!
こちらの作品は2010年に書かれたものです。
事件のモチーフに一部、1989年にサンフランシスコで起きたロマ・プリータ地震を取りあげています。
お読みの際にはその旨あらかじめご了承ください。
  • 番外編。夢守りの狩人たち、再び。ランドールとヨーコ、互いに離れ難い絆を感じながらもサンフランシスコ空港で別れた二人もまた……。
  • 大切な人が手をすり抜けて行く。沈んでしまった。二度と戻らない。暗い水のほとりに座り、鳴き叫ぶ……
  • 不吉な夢は夢魔の蠢く前触れ。日本とサンフランシスコ、遠く離れた二つの土地で狩人たちは動き出す。目的は一つ。「夢魔を狩り、人を救え」
  • 今回は番外編中の番外編、【ex8】桑港悪夢狩り紀行【ex5】熱い閉ざされた箱と同じ背景世界に基づくお話で、いつもの『食卓』の世界観とは少しだけ、別の世界にシフトしています。
  • 書いてる人間が変わらないので基本は同じ流れなのですが、ほとんどスピンオフ作品と言っていいかもしれません。
  • 海外ドラマで言うと、「CSI」や「フルハウス」よりはむしろ「デッドゾーン」寄りです。
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【ex10-0】登場人物

2010/04/25 16:24 番外十海
 
 sally02.jpg
【結城朔也】
 アメリカでの愛称はサリー。
 サンフランシスコに留学中の23歳、癒し系獣医。
 従姉の羊子とは母親同士が双子の姉妹で顔立ちがよく似ている。
 巫女さん姿がよく似合う。
 
 yoko.jpg
【結城羊子】
 通称ヨーコ、サクヤの従姉。26歳。
 小動物系女教師、期間限定で巫女さんもやります。
 高校時代、サンフランシスコに留学していた。
 現在は日本で高校教師をしているが、うっかりすると生徒に間違われる。
 NGワードは「ちっちゃくてつるぺた」「メリィちゃん」
 
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【カルヴィン・ランドールJr】
 純情系青年社長。ハンサムでゲイでお金持ち。
 サンフランシスコ在住の33歳、通称カル。
 骨の髄からとことん紳士。全ての女性は彼にとって敬うべき「レディ」。
 風見とは海と世代を越えたメル友同士。
 狼とコウモリに変身し、吸血鬼を彷彿とさせるドリームイメージ(夢の中の分身)を持つ。
 
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【風見光一】
 目元涼やか若様系高校生。羊子の教え子でサクヤの後輩。17歳。
 家が剣道場をやっている。自身も剣術をたしなみ、幼い頃から祖父に鍛えられた。
 幼なじみのロイとは祖父同士が親友で、現在は同級生。
 剣を携えた若武者のドリームイメージを有す。
 律義で一途でちょっぴり天然。
 
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【ロイ・アーバンシュタイン】
 はにかみ暴走系留学生。風見の幼なじみで親友、17歳。
 金髪に青い目のアメリカ人、箸を使いこなし時代劇と歴史に精通した日本通。
 祖父は映画俳優で親日家、小さい頃に風見家にステイしていたことがある。
 現在は日本に留学中。いろいろまちがった方向に迷走中。
 ニンジャのドリームイメージを持ち、密かに風見を仕えるべき『主』と決めている。
 兄弟子とか、先輩とかいろいろ気になる人が出てきて落ち着かない今日この頃。 
 
 ren.jpg
【三上蓮】
 ちょっぴり腹黒い糸目のお兄さん。
 本職は神父だが現在、結城神社に潜伏中。浅葱の袴の神官姿も板についてきた。
 天涯孤独で教会で育てられた過去を持つ。
 29歳、大柄で意外に鍛えている。
 風見の祖父より剣術の手ほどきを受け、兄弟子にあたる。
 羊子、サクヤとは学生時代から面識あり。
 発火能力の持ち主なだけに火種をまくのが得意。
 発火能力の持ち主なだけに激辛料理を好む。
 
 telly.jpg
【テリオス・ノースウッド】
 通称テリー。熱血系おにいちゃん。
 栗色の髪にターコイズブルーの瞳。
 獣医学部の大学院生、専門はイヌ科。
 サリーの大学の友人だが周りからは彼氏と思われているらしい。
 基本的に面倒見が良く、女の子に甘い。
 社長がサリーに手を出そうとしている、と誤解して絶賛警戒中。
 
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【ex10-1】かすかに、彼方に

2010/04/25 16:30 番外十海
 
 何の夢を見たんだろう。

 覚えているのは喪失の痛み。しっかり握っていたはずの大事な人の手が、するりと抜け落ち、沈んでゆく。
 止められない。

 確かに手の中にあった存在が、今はどこにもいない。
 何もできず、ひざまずいてのぞきこむ……底知れぬ暗い水の向こうを。いくら目をこらしても、あの人の姿は影も形もない。声を枯らして叫んでも返事は無い。こだますら返らない。

 ただ、暗く淀んだ水が揺れているだけ。

「う……」

 重苦しさに耐えかねて目を開ける。薄暗い部屋の中、一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。
 ああ、ここは居間だ。ソファの上で寝てしまったのか。

「んがぁ………ごご……」

 床の上でいびきをかいてる奴がいる。こんなことをやらかす相手は一人しかいないし、声も音も聞き覚えがありすぎる。
 大学の寮に住んでいた四年間、聞き続けていたのだから当然だ。
 チャールズ・デントンは昨夜蹴落とした姿勢のまま、床の上に仰向けにひっくり返って爆睡していた。酔った揚げ句に脱いだシャツとセーターはかろうじて、自分がかけた位置にある。

 ずきん、とこめかみの内側で鉛玉が転がる。まだ酒が残っているようだ。
 あの後、一人で飲み続けたのが敗因か……それとも、飲み慣れない外国の酒をあおった為か。口当たりのよさについ、二人で一瓶、空にしてしまった。その後、勢いに任せていったい何本あけたのやら。

 床に転がる瓶の間をよろめく足取りで通り抜け、窓際に立つ。 
 カーテンを開けるなり、白い冬の光が目を射た。まぶたの裏側がちくちくと痛い。

 目を細めて、遠くに霞む海を眺めた。

『ゴールンデンゲートブリッジ公園に行きたいな……』

 いまだにはっきりと動かない頭の中でくるりと、伏せられていたカードが表に返った。
 クリスマスが終り、彼女たちは帰ってしまった。だから、こんなにも寂しいのだ。

「っ!」

 無意識に拳を握った。
 寂しさが呼び水となったのか。不意にぐうっと鉛色の海面がせり上がり、真っ二つに割れた。
 不吉な夢の名残をしたたらせ、真っ黒な塊が浮上する。
 手のひらをすり抜けていったのは………彼女ではないのか?

『君を抱きしめる腕を、私は無くしてしまったのかな』
『無くしちゃったの?』

 あの時返されたのは問いかけと、すがりつく切なる願い。確たる証を得られぬまま、自分は彼女を送りだした。

 大切な存在が指の間をすりぬけて、暗い水底に沈んでゆく。どんなに手を伸ばしても、もう届かない。

 じりじりと真っ赤な熾き火が胸を焼く。焼かれた後はぽっかりと、色さえ無くした穴になる。
 声が、聞きたい。顔が見たい。携帯の画面の中の小さな画像なんかじゃない、生きて、動いている君に会いたい。

 会って、確かめたい。確かめずにはいられない。それ以外に、止める術はない。今、この瞬間、胸の中にじわじわと広がる焦りと空しさを。

『君を抱きしめる腕を、私は……』

(こんなによれよれになっている私を見たら、きっと呆れるだろうな)

 叱られるかもしれない。
 それでもいい。むしろ、そうしてほしいくらいだ……。
 会いたい人との間には茫々たる海原が横たわり、刻む時間にすら9時間の隔たりがある。自分はやっと起きたばかりなのに、彼女はもう明日の向こう側にいるのだ。
 乾いた唇が動き、かすれた音がこぼれ落ちる。

「ヨ………コ……」

 今すぐに会いたいのに。
 君は、あまりに遠い。

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【ex10-2】遥かなる青い瞳よ

2010/04/25 16:31 番外十海
 
 何の夢を見たんだろう。
 
 実体のない水をくぐり抜け、ゆるゆると浮かび上がる。身を包む灰色が薄れ、白い光に変わって行く。
 意識を取り戻した瞬間、胸からのどにかけて苦い痛みが走り抜けた。出発点は、あるべきものがえぐり取られたようにぽっかり開いたうつろな穴。
 いったいどれほどの間、自分はあの人と共に過ごしたのだろう……物理的な法則に従い、物質で構成されたこの確固たる現のただ中で。
 数えればわずか1週間にも満たない。それなのに。

 彼がそばに居ないことが今、何よりも寂しい。

「……っ」

 身に付けたものをむしり取り、浴室にかけこんだ。
 すりガラスの窓を開け放ち、朝の光を全身に浴びた。
 冷気がぴりぴりと肌を刺し、皮膚の表面に細かい粒が浮かぶ。なだらかな傾斜を描く隆起の中央にぷちっと、鋭敏な感覚が凝り固まった。
 蛇口をひねり、勢い良くシャワーを浴びる。

 水音に紛れ、知らぬ間に彼の名をつぶやいていた。わずか二つの音節で構成される短い名の中に、十や二十では及びもつかぬ。百でも千でもまだ足りぬ、万感の想いをこめて。

「カル………」

 今すぐ声が聞きたい。顔が見たい。サファイアよりも青い瞳を見上げて、波打つ柔らかな黒髪に触れたい。
 わかってる。あの懐かしい坂の街は、はるか海の向こう側。
 あなたは、あまりに遠い。

(だけど)

 彼は、生きている。
 窓越しに空を見上げた。ただでさえ小さな浴室の窓と生け垣に切り取られた、ちっぽけな青空を。
 彼は生きている。遠いかすかな夢の中ではなく、今自分が見上げているのと同じ空の下で。
 左の胸に手のひらを重ね、とくとくと脈打つ心臓を包み込む。

(進め、進め、前に進め。喪失の痛みに、追いつかれぬよう……)

 風呂から上がると、携帯の着信ライトが点滅していた。つ、と手にとり開く。メールが一通届いていた。差出人は風見光一、高校の教え子だ。

(何かあったか?)

 昨夜のあの幽かな夢は、ひょっとして……夢魔の蠢く予兆ではないのか。
 口を引き結び、背筋を正してメールを開くと。

『今日はお弁当持たずに学校に来てください。久しぶりに外でお昼ご飯食べましょう!(^_^)』

「なぁんだ……」 

 ほにゃっと顔がゆるんだ。今日は土曜日、学校は午前中で終る。いつもなら昼食をとり、そのまま『部活』(と称した訓練)に入る所なのだが。
 
「いいでしょう……」

 くすくす笑いながら、羊子は携帯を置き、はらりと体に巻いたバスタオルを取り去った。
 ラーメンぐらいなら、おごってやろっかな。クリスマスから正月にかけて、あの子らすごーくがんばったものな。
 
「……うん。餃子もつけちゃうぞ」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「それじゃ、みんな、気をつけて帰れよ。また来週!」
 
 そして、放課後。
 てきぱきと帰り支度を整えて校門に向かうと、既に風見光一とロイ・アーバンシュタインが待っていた。

「よっ、お待たせ」

 すちゃっと片手をあげて駆け寄った。

「お待ちしてまシタ」
「何食う? 昇竜軒のラーメンか? それともファミレス? ハンバーガー? お好み焼き?」
「あー、それが、ちょっと遠出しようかと思いまして……」
「へ?」 
「よきお店を見つけたのデ、是非、ヨーコ先生をお連れいたしたく!」
「はぁ……」

 これはちょっぴり予想外。いい店見つけたから、お連れする、だなんて。

「まるでデートだな」
「What's?」
「えっ、いや、俺はそんなつもりじゃなくてっ」
「わーってるって!」

 ころころと笑いながら羊子はんしょっと伸び上がり、ばしばしと教え子どもの背中を叩いた。

「じゃ、行こうか!」

 駅まで徒歩で15分。さらに私鉄で2駅下り、降り立ったのは通い慣れた綾河岸の駅。
 羊子とサクヤの実家であり、風見とロイがバイトをしている結城神社のある街だ。

「どこに行くのかと思ったらまあ……。まさかうちの神社で昼飯いただこうってんじゃあるまいね?」
「いえ、チガイマス!」
「こちらにどうぞ」

 導かれるまま駅の北口に降り、舗装された道を歩きだす。その一角はかつては森林公園とは名ばかりの雑木林がうっそうと生い茂り、濁ったドブ川の流れるうら寂しい場所だった。
 が。
 今やかつてのドブ川は美しいせせらぎに姿を変え、水の流れに沿って赤レンガの遊歩道が続いていた。雑木林は一部を残して切り開かれ、水面にはキラキラと光の粒が踊っている。

「うわー、きれいになっちゃったなあ。昔はこの辺り、昼間も薄暗くってさ」
「そうなんだ」
「女の子は一人で歩いちゃいけませんって言われてた」

 ずーっと昔ここで、ドブ川に飛び込んだ子がいた。沈みかけた段ボール箱の中で、にーにー鳴く子猫を助けるために。
 ガラスの欠片でざっくり足を切ったけど、抱えた子猫を放さなかった。

『サクヤちゃん、怪我っ、怪我してるってば。どうしよう、血がっ』
『大丈夫、もう痛くない……あ、あれ?』
『え? あれれ?』

 差し伸べた手のひらの下で、傷はきれいに消えていた。自分が何をしたのか、あの頃はまだ理解できなかった。

 しばらく歩き続けると、沿道には真新しい住宅街が広がり始めた。
 さらにひょいと曲って細い道に入って行くと……かつての雑木林を上手く活かして刈り整えた木立の中に、山小屋風のログハウスが一軒現れた。

「ここです」
「ふわぁ……」

 羊子はぽかーんと口を開け、ログハウスをしみじみと観察した。
 半分に切った丸太に、木を削った文字を組み込んだ看板が見える。『Café tail of happiness』

「信じられん。まさか綾河岸市に、こんなこじゃれたカフェができるなんて!」
「先生、先生」
「いくら地元だからって、それはあんまりなんじゃあ……」
「って言うか、君らがカフェ飯を選ぶってことにまず、びっくりだ」
「やった」

 風見がガッツポーズをとっている。

「先生の意表をついた!」
「快挙だネ!」
「おいおい。小学生か、君らは……」

 苦笑しながら入り口の階段を上り、「しあわせのしっぽ」のドアを開ける。
 カランカラーン。
 金属製のドアベルの音色に迎えられ、中に入ると……。

「っ!」

 羊子は息を飲み、立ち尽くした。
 あんなにも願い求めた青い瞳が、そこにあった。やわらかな黒い毛並みに縁取られ、優しく見つめている。

「あ……」

 太いしっぽがばたん、ばたたん、とリズミカルにフローリングの床を叩く。エプロンをつけた、恰幅のいいヒゲの男性がほほ笑みかけてきた。

「いらっしゃいませ」

 見回すと店内のお客は人間だけではなかった。椅子の脇、あるいはテーブルの下。床に敷かれたマットの上に控えるさまざまな大きさの犬、犬、犬。
 大きいの、小さいの、その中間。ぴんと立った耳、たれた耳、半分たれた耳。もさもさ、ふわふわ、あるいはツヤツヤ。座ってるの、ねそべってるの、ひっくり返ってるの。いずれも飼い主の足下でご機嫌だ。

「ドッグカフェなんですよ、ここ」
「じゃあ……この犬(こ)は」
「看板犬のジャックくんデス」

 がっしりした足。ふかふかの黒い毛皮。ぴんと立った耳。
 そうだ、この犬は見覚えがある。正月に神社に来ていた。ご祈祷の最中にも青い瞳が頭から離れず、信じられないような失敗をやらかした……。

「そっか……あの時の……」

 ヒゲのマスターはじっと羊子を見て、しばらく首をかしげていたが、やがてぽん、と拳で手のひらを叩いた。

「おや、だれかと思えばあなたは、結城神社の巫女さん」
「……はい、あの節はとんだ失礼を」

 思いだしただけで、きゅーっと縮こまって頭を下げる。

「いやいや、お気になさらず。三名様ですか?」
「はい」
「店内とテラス席、どちらになさいますか?」

 ちらっと羊子は青い瞳の黒いハスキー犬に視線を走らせる。

「……店内で」
「ではこちらに」

 窓際の日当たりのよい席に案内される。椅子とテーブルは建物にふさわしくどちらも木製。さらさらしていて手触りが良く、椅子に腰かけるとほどよく体を包み込み、支えてくれる。

「あれ、この感じ……」

 テーブルの表面をなでると、羊子はうなずいた。

「そうだね。レオンとマックスのとこの食卓と似てる」

 しあわせのしっぽには、しあわせな食卓がよく似合う。
 麻布張りの、絵本のような表紙のメニューを開いてのぞきこむ。

「何にする? 昼時だから、やっぱりランチセットか?」
「そうですね」

 ランチの内容は『本日のパスタ』とスープにサラダとデザート。パスタは好みでオムライスかドリア、ピラフに変更可。そして、仕上げにお好みの飲み物を一つ。
 
「んー、んー、どれにしよっかな……すいません、この本日のパスタって今日は何なんですか?」
「イタリアンスパゲティです」
「え?」
「えーと……」

 ヒゲのマスターはこりこりと耳の後ろをかいてから、ちょっぴり恥ずかしそうにほほ笑んだ。

「こちらに写真がありまして……はい」
「え、鉄板?」
「はい、鉄板です」

 それは何とも不思議な料理だった。
 ステーキ用の鉄板の上に、薄焼き卵に乗った、ケチャップ味のスパゲティが盛りつけられている。
 具は薄切りタマネキにピーマン、そして赤いウィンナー。しかも、ご丁寧にタコさんの形になっている。

「わ、かわいい」
「えーっと、これはもしかして……ナポリタン?」
「はい、ナポリタンです」
「そりゃ、確かにナポリはイタリアだけど……」
「名古屋の伝統的な喫茶店メニューなんです。学生時代に向こうに住んでまして、よく食べてました」
「なるほど。イタリア料理じゃなくて、由緒正しい名古屋料理なんデスネ!」

 ヒゲのマスターはぱちぱちとまばたきして、うれしそうに相好を崩した。

「……です!」

 ランチは三人とも、イタリアンスパゲティを選んだ。

「何飲む?」
「俺は、アイスティーを」
「僕はホットコーヒー」
「私は、キャラメルラテ、ホットで」
「はい、かしこまりました。ランチセット三つ、本日のパスタで。お飲み物はアイスティー一つとコーヒー、ホットで一つ、キャラメルラテ、ホット一つですね」
「はい。あの……それで……」

 こくっと羊子はのどを鳴らした。落ち着いて。普通に、普通に、さりげなく……。

「ご飯出てくるまで、ジャックくんと遊んでいてもいいですか?」
「はい、どうぞ! ジャック、おいで」

 のっそりとハスキー犬が近づいてきた。
 ふるふると震えながら羊子は椅子から降りて床に座り込み、そっと手を出した。

「うふっ?」

 大きくて、長い鼻面が手のひらに押し付けられる。がっちり堅くて、鼻先がひやりと冷たい。
 ぺろり、と幅広の舌で手をなめられた。

「ひゃっ」

 わっさわっさと尻尾が左右に揺れる。触っていいよ、と言う合図だ。

「よしよし……いい子ね……」

 頑丈な首筋の後ろを撫でると、ジャックは自分からぐいっと体をすり寄せてきた。

「きゃっ」
「あ」

 よろけた羊子はとっさにジャックの首筋にしがみついた。風見とロイが支えるより早く。がっしりしたハスキー犬はびくともしない。うれしそうに尻尾を振り、ヨーコの顔をなめまわした。

「もぉ。力強いなぁ、君は」
「わふっ」
「んー……ふかふかしてる……」

 銀色に縁取られた黒い毛皮にだきついて、もふもふと顔をうずめる。

「お日さまのにおいがする……」

 うっとりする先生の姿を見て、風見とロイはほっと胸をなで下ろした。

(よかった、元気出たみたいだ)
(このお店に連れてきて、正解だったネ)
 
「よーこ先生ー」
「んー?」

 視線がこっちに来たところで、カシャリと携帯で写す。
 うん、いい絵が撮れた。幸せそうだ。
 いつものようにメールで送った。一通はサクヤに。そしてもう一通は……。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
「………おや?」

 とっぷりと日の暮れたサンフランシスコで、カルヴィン・ランドールJrは携帯を取りだした。この着信音は、コウイチからだ。

『犬カフェでランチしてます』

 メールに添付された写真を見て、思わず顔がほころぶ。
 ヨーコだ。大きな黒い犬にしがみついて、しあわせそうにほほ笑んでる。

「はは……大きな犬とくっついてると、本当に子どもみたいだな」

 それはあくまで小さな画面の中の映像にすぎない。だけど、今、この瞬間、彼女の生きる時間のひとひらなのだ。 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 「ふはーっ、ごちそうさまー」

 デザートのチーズケーキまで、残さずぺろりと平らげてから(それでも先生の基準からすればかなり小食だったのだが)、羊子は満足げにため息をつき、くいっと口元をナプキンでぬぐった。

「卵と、スパゲッティのトマト味の組み合わせが、絶妙だった!」
「そうですね、まろやかって言うか、オムライス風?」
「懐かしい味だったネ」
「そっかー、アメリカにはミートボールスパゲティってのもあるしな」
「ハイ。アメリカのお袋の味デス」

 トマトソースで煮込んだミートボールをスパゲティにからめて食べる。当然ながらイタリアンスパゲティ同様、イタリアには存在しない。

「えっと……」

 もじもじしながら、羊子はまたちらっと看板犬ジャックに視線を向ける。

「もーちょっとだけ……」
「どうぞ」
「その為の犬カフェですカラ!」
「う、うん」

 床に降りて、歩き出そうとした瞬間。

「う?」

 携帯が鳴った。着信メロディは賛美歌103番 「牧人 羊を(The First Noel)」。この曲に指定してある送信者は一人しかいない。

「はい羊子」
「ああ、結城さん」

 いつもと同じ、飄々と落ち着き払った声。だが、奥にぴしっと張りつめた糸のような気配を感じる。即座に羊子はスイッチを切り替えた。
 ただならぬ空気を察したのだろう。風見とロイも居住まいを正し、表情を引き締めた。

「今、どこです」
「綾河岸駅北口の犬カフェ」
「ああ、じゃあ近いですね」

 何故そこにいるのか? 何しに来たのか。質問は一切なし、即座に三上は必要なことのみ、簡潔に伝えてきた。

「夢守り神社に来てください。可及的速やかに」

 そのひと言で全て事足りる。
 素早く羊子は風見とロイと見交わし、うなずいた。

「わかった。すぐ行く」

次へ→【ex10-3】神父or神主?

【ex10-3】神父or神主?

2010/04/25 16:32 番外十海
 
 犬カフェへの電話に先立つこと一時間余り。
 三上蓮は神社を目指して綾河岸市のメインストリートを歩いていた。子ども時代を過ごした教会に赴き、育ての親でもある高原神父を訪ねての帰り道であった。
 黒い詰め襟に白いカラーの神父服の上に、ライトベージュのトレンチコートを羽織り、背中に十字架を背負って歩く彼の姿はもはやこの界隈では誰も意に介さない。
 それだけ馴染んでしまったと言うことだなのだろう。去年の年末から結城神社にとどまって既にひと月になろうとしている。

(宮司さんご一家のご好意に甘えて、すっかり長居してしまった……)

 教会を訪ねた際、高原神父から空きが出たので神父として赴任してこないかともちかけられていた。
 
(そろそろ潮時、でしょうね)
(ああ、でも、一つだけ気掛かりなことが)

 赤ずきん。
 うさぎを抱えて森の中、今にも迷子になりそうな小さな『よーこ』。

 サンフランシスコから帰国して以来、結城羊子は表面上はシャンとしているものの、時折、普段の彼女からは信じられないようなミスをやらかす。
 それが、気掛かりの種だった。

(彼女はチームの司令塔だ。普段なら笑えるミスも、時と場合によっては命取りになりかねない)
(なまじ意志が強い人なだけにギリギリまで堪えて。限界を突破した瞬間、突然崩れてしまう恐れがある……)

 どうしたものか。

 いっそ、社長をそそのかしてはっきりさせてやろうか? きっちり終るにせよ。前に進むにせよ。
 今の状態を長く続けるのは、あまり、よろしくない。だが、そうするにしても、今の自分には彼に対する伝手がない。
 こればかりはメールでも電話でも心もとない。直接、顔を合わせて言葉を交わすのが一番、確実なのだ。

 さて、どうしたものだろうか……。

 考え込んでいると、不意に声をかけられた。適度に遠慮をしつつ、絶対の信頼をよせた声でひとこと。

「Father(神父さま)?」

 神父さま。その響きに懐かしささえ覚える。思えばこの一月余りと言うもの、もっぱらこう呼ばれることの方が多かった。
『神主さん』、と。

「はい、何でしょう?」

 話しかけてきたのは、30代とおぼしき男性だった。褐色の肌にカールのかかった黒い髪、がっしりした頑丈そうな骨組み。
 おそらくアフリカ系か。こころなしか、厳つい肩を縮めてそわそわと落ち着きがない。かなり不安そうだ。日本語も、あまり堪能ではないらしい……来日して間も無いのだろう。

 珍しいことではない。この服装で歩いていると、しょっちゅう外国人に道を聞かれる。神父服は万国共通の安全保証章なのだ。

「実ハ道に迷ってしまいまして」
「ああ、それはお困りでしょう。どちらに行かれるのですか?」
「ユメモリジンジャへ」

 すうっと目を細める(元から細いが)
 その名を口にすると言うことはすなわち、彼にとって必要と言うことだ。

 長い長い石段を上った先の、こんもり茂った緑の森の懐奥深く、その神社は在った。
 ひっそりと。
 森の空気に溶け込むようにして、ひっそりと。
 土地の神、龍の神、そして雷の神を御祭神にいただくその社は『夢守り神社』と呼ばれ、悪夢を祓い、すこやかな眠りをもたらすとして古くから近在の人々に厚く信奉されている。

 普段は記憶の底に埋もれていても、必要とされる時には何故かふっと心に思い浮かぶ。
 その名を代々の祭祀の一族にちなみ、結城神社と云う。
 しかしながら、口伝の中の呼び名は地図上には記されていない。

「夢守り神社、ですか……」
「はい、そこに、夢のガーディアンがいると聞きました」
「ええ、悪夢払いの神社です」
「キリスト教徒でもいいんでしょうか」
「ええ、一向に問題ありませんよ。日本の宗教は懐が深いですから」

 静かに胸に手をあてて、コートの胸ポケットに入れた聖書に触れる。

「ちょうど私も向かっている所です。ご一緒しましょう」
「アリガトウゴザイマス!」
 
 男性を案内して結城神社に赴き、社務所に通した。わらわらと寄ってくる猫たちを、厳つい顔をほころばせて撫でていた。

「お茶をどうぞ」
「ありがとうございます……」

 おそるおそる湯飲みをのぞき込んでいる。やはり緑茶より紅茶の方がよかっただろうか。
 しかし次の瞬間、男性は安堵の表情を浮かべてずぞっとお茶を一口、また一口。一息に飲み干し、ふーっと深く息を吐いた。
 よほどのどが乾いていたらしい。

「もう一杯いかがです?」
「はい、お願いします。ここは気持ちの良い空気ですね。苦しいの、ちょっと直りました」

 しきりに首のあたりをさすっている……。目をこらすと、おぼろげな影のようなものがまとわりついていた。
 大当たりだ。

「英語に堪能な者を呼びますので、少々お待ちください」

 
 ※ ※ ※ ※
 

 電話を受けた羊子、風見、ロイは直ちに神社に向かった。

「ただいまー」
「おかえりなさい」
「待ってたわ」

 ひょい、ひょい、と瓜二つの女性が顔を出す。小柄な体躯といい、年齢を感じさせないリスのような容貌といい、羊子によく似ている。
 それもそのはず、一人は羊子の母、藤枝。今一人はサクヤの母、桜子。
 一卵性の双子なのである。

「こんにちは」
「お世話にナリマス」

 風見とロイもきちっと背筋を正して一礼した。

「ささ、こっちよ」

 ちょこまかと歩く双子の巫女さんに案内されたのは、何故か客人の通される奥座敷ではなく、住居に使われている居間だった。
 あれ、と思うまもなく、ささっと畳まれた白衣(はくえ)と袴が人数分、きっちり三着差し出される。

「ささ、着替えて、着替えて」
「何で?」
「神社の関係者としてお話を伺う方が、自然な流れでしょう? 先方も話しやすいでしょうし」

 なるほど、一理ある。めいめい手を伸ばして装束を受け取ったが。

「あの……すいません……また、袴が赤いんですけど」

 風見が遠慮がちに問いかけると、W母さんsはけろっとした顔でいけしゃあしゃあと代わりの袴を差し出した。

「あらごめんなさい、うっかりしてたわ。はい、浅葱色の袴」
「アリガトうございます」
「おかーさん! おば様も! いっつもいっつも白々しいんだから!」

 娘の突っ込みもどこ吹く風と、藤枝と桜子は顔をみあわせる。ちょこんと首をかしげるその仕草は、二十代の娘息子がいるとは思えないほど愛らしい。

「えー、ロイくん似合ってたのにー」
「風見くんもきっと似合うのにー。ねー?」
「ねー?」
「はいはい、ちゃっちゃと着替えて仕事、仕事!」

 一同、白衣と袴に着替えて静々と奥座敷に向かう。
 訳ありの客人はみな、ここに通されるのだ。中庭に面し、さんさんと日の差し込む心地よい部屋にはストーブが灯され、冬の最中でありながら春の日だまりのような温かさに満ちていた。
 座卓には岩を刻んだような厳つい黒人男性と、三上が向かいあって座っている。

(ん?)

 部屋に一歩足を踏み入れた刹那。羊子はあり得ざるにおいを嗅いだ。
 そう、確かにそれは今、この場所にはあまりにもそぐわないものであった。
 ぬるりとした、藻のこびりついたコンクリートの壁。よせては返す波すらも、立ちこめる腐臭を運び去ることはできない。
 淀み、濁った海水のにおい。
 風見とロイもまた、はっとした面持ちで目配せしてきた。

(やはりな)

 小さくうなずき、何食わぬ顔で畳に手をつき、きちっと一礼した。

「……お待たせいたしました」
「やあ、来ましたね」

 三上はにこやかにほほ笑むと頭(こうべ)を巡らせ、三人の視線を客人に誘導した。

「改めてご紹介いたしましょう、こちらはゴードン・ベネットさんです」
「よろしくお願いいたします」

 かくして。
 羊子とロイを通じ、日本語と英語を交えながらゴードン・ベネット氏は事の子細を語り始めた。
 彼自身はアメリカ生まれのアメリカ育ち、妻のグレース夫人は日本人の祖母を持つクォーターであること。
 もとはカリフォルニアに住んでいたが、おばあさんの縁をたどってこの土地に引っ越してきた。今は地元の紡績会社に勤めている。

「ああ、綾河岸は絹織物の名産地ですからね」
「はい。妻のグランマは、綾河岸紬の優れた織り手だったそうです。今は引退してしまいましたが」
「そりゃすごい。重要無形文化財の担い手だったんですね」
「はい」
 
 しぱしぱとまばたきすると、ゴードンははにかむような笑みを浮かべた。

「妻も、祖母の技をたいへん誇りにしています」
「………」

(アメリカンにしちゃ、えらく謙虚な人だなあ……)
(意外に日本に馴染むの、早いかも知れない)

 皮肉なことに、そう言った人間ほど夢魔の侵入を容易く許してしまうものなのだ。過剰なまでの自己主張は、時には侵入者を阻む強固な壁となる。

「日本にいらしてから、どれくらいになりますか?」
「あれは、妻が安定期に入った頃でしから……三ヶ月になりますね」
「まあ、赤ちゃんがお生まれになるんですね! おめでとうございます」
「ありがとうございます」

 ゴードン氏はあきらかに照れていた。目を細め、ちらっと白い歯を見せてほほえみながらくしくしと頭をかいている。 

(……あ、かわいい)

 180cmは優に超えているであろう偉丈夫相手に、思わずそんな形容詞が心に浮かぶ。
 しかし次の瞬間、彼は眉をよせて目を伏せ、ふうっとため息をついた。

「慣れない環境のせいか、どうも最近、疲れやすくて。眠ったと思うと妙な夢を見て、すぐに飛び起きる日が続いているのです」
「ああ。それはお疲れでしょう」
「ええ。毎晩ほとんど眠った気がしません。起きていても目まいと頭痛に悩まされて……妻と生まれてくる子どものために、がんばらないといけないのに」

 控えめで実直な人柄、加えて生真面目。しかも己の『正しさ』を振りかざす押しつけがましさは、微塵もない。
 人間なら好感を覚える相手だが、夢魔にとっては………格好の標的、それも『美味しい獲物』の部類に入るタイプだ。

「先ほどカリフォルニア、とおっしゃいましたが、どちらにお住まいでしたか?」
「サンフランシスコです」

 その瞬間、三上の片方の眉がわずかにぴくっと跳ねた。

(サンフランシスコといえば結城くんとか社長のいるところでしたっけ)

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【ex10-4】蠢く影は真珠の鱗

2010/04/25 16:33 番外十海
 
「先ほどカリフォルニア、とおっしゃいましたが、どちらにお住まいでしたか?」
「サンフランシスコです」
「っ!」

 不覚にも羊子はすくみあがった。
 クリスマスの夜の記憶の欠片が、街灯の明かりを反射する夜の雨のようにチカチカと瞬く。
 あるいは、暗い水の中にひらめく魚の鱗みたいに。

『ずるいよ、カル。こんなことしても……』
『………そうだね』

 いけない。集中しなければ!
 クリスマスの出来事をひとまとめにして、思考の隅っこに押しやる。その刹那、部屋の空気が変わった。
 ついさっき感じた、よどんだ海水のにおいがほんのわずかに密度を増し……ゴードン氏の首から腕、胸にかけて巻き付くおぼろな影が、ゆらりと濃くなる。

 羊子は瞳をこらした。つかの間、形を為したおぼろな影の正体を見通そうと試みる。
 まず見えたのは、真珠色の鱗。びっしりと太い胴体を覆い、くねる度にからり、ざらりと軋む。
 ………嫌な音だ。
 おぞましさにぞうっと総毛立つ。しかし同時に、美しいとも感じていた。

(これは……女……いや、ヘビ?)

 ゆらっと水の中、長い長い黒髪が広がり、ぽっかりと白い顔が浮かぶ。
 ぽってりした唇、顔の中央にまっすぐに通った鼻。ほお骨は高く、全体的に彫りの深いくっきりした面差し……美しい女をそのまま真珠貝に閉じこめ、長い年月をかけてでき上がったような顔だった。

(両方、か………)

 濡れた髪の毛が、あり得ざる水のゆらぎに乗ってふわふわと漂ってくる。このままでは、先端が触れる。

(来るな!)

 ぎりっと奥歯を食いしばる。

 りん!

 結城羊子は微動だにしなかった。
 にもかかわらず首にかけた鈴が鳴り、影は霧散した。
 だが、消えてはいない。

(……あぶない所でした)

 三上は眉を寄せ、ひそかに張りつめていた力を抜いた。
 神社の結界の中でこれだけの影響力を発揮するとは……今回の相手、なかなかに歯ごたえがありそうだ。
 風見とロイがはっと表情を引き締めた。いきなり鈴が鳴ったのでびっくりしたのだろう。
 彼らにしてみればそうとしか思えない状況だった。まだ若く、経験も浅い二人の狩人にとっては。

 急速に希薄になりつつある女面の蛇に向かって、改めて意識を集中する。
 ノイズ混じりのラジオのように、途切れ途切れに思考が伝わってきた。

「返せ……かえ……せ…………」

(……返せ? 一体、何をでしょうね)

「か……え………」

 女面の蛇は完全に形を失った。来た時と同じように薄いもやとなってゴードン氏の首のまわりにまとわりついている。
 つかの間、はっきりと見えた顔立ちは、白人女性の特徴が強く表れていた。
 と、なれば。
 悪夢の根幹は、アメリカにある可能性が高い。

「そうですか、サンフランシスコに、ね。思わぬ所で懐かしい地名が出てきましたね、結城さん」
「………」
「結城さん?」
「え、あ、はいっ」

 正座したままぴょっくんと跳ね上がり、羊子は背筋を伸ばした。まるでびっくりした子猫だ。

「彼女は高校生の時、サンフランシスコに留学していたんですよ」
「おお、そうだったのですか」
「え、ええ……今もイトコが向こうに留学中です。友人も多いし……」

 こくん、と細いのどが上下する。

「先月も、行ってきたばかりなんです」

 そう言って、羊子はほほ笑んだ。舌の奥に残る苦い記憶を飲み込んで。

「それ、で。向こうではどちらにお勤めだったんですか?」
「ランドール紡績です」

(ああっ!)
(禁句デス!)

 この瞬間、室内の空気にぴしっと、目に見えぬヒビのようなものが走った。
 風見とロイは表情を引き締め、とっさに身構えていた。

「シスコでも繊維のお仕事、なさってたんですね」
「ハイ。妻と出会った場所でもあります」
「まあ、社内結婚?」
「はい……恋愛には、オープンな会社でしたし」
「うんうん、そうでしょうね、さすがカリフォルニア!」

 真っ向から地雷原に飛び込んだにも関わらず、羊子は持てる根性の全てを振り絞って持ちこたえていた。
 一方で三上は眉をぴくっと、さっきより高くはね上げていた。

(おや、妙な縁があったものですね。しかし、これはありがたい)

 伝手を得る機会が向こうから飛び込んできてくれるとは。
 青い瞳の青年社長。目下のところ、『メリィちゃん』の心をかき乱す一番の原因。
 この機会に、少なくとも知己にはなっておくことにしよう。
 そうすれば、今すぐには無理としても今後『メリィちゃん』のことをはっきりさせていくことができるし、何より後々の役にも立つかもしれない。この先、潜伏先を海外に広げないとも限らないのだから。

「で……カリフォルニアからこちらに引っ越してから、奇妙な夢を見るようになった、と」
「ハイ」

 三上はうなずき、静かな深みのある声でじわり、と語りかけた。

「それは、どのような夢でしたか?」
「………それは……」
「どんな小さな事でもいい。どんなにあいまいな事でもいい。言葉にすれば、それだけ安心できると思うのです。得体のしれぬものより、形の定まった物の方が、怖くないですからね?」
「確かに、その通りです」

 ゴードンは腕組みをして眉間に皺をよせた。懸命に、自分の中をただよう曖昧模糊とした悪夢の記憶を表す言葉を探しているようだった。

「……水」

 鈴を振るのにも似た声で、羊子がささやく。

「はい?」
「夢を思い出すのって、水をのぞきこむのに似ていますよね。水面がちらちらと揺れて、すぐそばにあるのにはっきりと見えない」
「おぉ……そうです。水です!」

 ゴードンは大きく、何度も頷きwaterと言う単語を繰り返した。

「水の夢。私が見ているのは、まさにそれなのです。透き通ったきれいな水ではない。どちらかと言うと、どんよりと濁って……いくら目をこらしても、底が見えない」
「つまり、あなたは水面から中をのぞきこんでいるのですね? 夢の中で」
「……おお……確かにそうです!」

 ごつごつした太い指を何度も握っては開いている。

「何か大切なものが、落ちてしまって。濁った水をのぞきこみ、探している。そんな夢です……」
「そう、それでいい。続けてください」
 
 Fatherに促され、ゴードンはぽつり、ぽつりと語り続ける。

「この頃は、起きている時も水をのぞき込むと……ゆらめく奇妙な影が見えるような気がして」
「ほう?」
「最初は、光の反射かと思いました。けれど、明らかに動き方が異質なのです。何かがこう、自分の意志で動いているような……」

 目を閉じ、ごくり、とのどを鳴らした。

「そう、確かにあれは生きています。水の中の生き物です」
「なぜ、そう思うのですか?」
「鱗があるから」

 くっと羊子は拳を握りしめた。巫女装束の袖の中、爪が手のひらに食い込む。

「うねうねと、鱗のある生き物が身をくねらせているのです。姿ははっきり見えないが、目が離せない……気分が悪くなって、すうっと引き込まれそうになってしまうのです……おかしいですね、こんな話」
「いいえ。ここは、夢を守る神社ですもの」

 羊子はにっこりとほほ笑み、一同の顔を見渡した。真っ先に風見が力強くうなずき、続いてロイがぶんぶんと頭を縦に。最後に三上が鷹揚にほほ笑み、口を開いた。

「ここでは夢の話は、毎日の暮らしや仕事の話、家族との絆と同じくらい大切で、意味のある物なのですよ」
「……ありがとうございます」

 ゴードンはしぱしぱとまばたきして、ぐっとぬるくなったお茶を飲み干した。

「次第に影はありとあらゆる『水面』に現れるようになってきました。バスタブやコップの水や、朝、顔を洗う水、遊歩道の水路やコーヒーカップの中にまで……だから、水が怖かった。雨の日は、できるだけ地面を見ないようにして歩きました」
「お風呂は?」
「シャワーしか使っていません」
「うわ、冷えるのに」
「そうですね、ちょっと寒いです」

 くすっと笑っている。

「この三ヶ月と言うもの、ほとんど水は口にしていません。目をつぶって飲んでも、吐いてしまうことがほとんどで」
「それはそれは。さぞかし、おつらいことでしょう。今までどうやって水分を補給してこられたのですか?」
「スポーツドリンクやお茶なら、どうにか。水ほどひどくはないので、我慢できるレベルです」
「やっぱり『うっ』となっちゃうんだ」
「ええ。間違えて腐った水を口にしたような嫌悪感をこらえて飲み込んでいます。コーラやソーダ、ビールは平気でしたね」

 どうやら、混ぜ物が多くなって純粋な水から遠ざかれば遠ざかるほど、悪夢の影響は少なくなるらしい。口にできる水分を求めて試行錯誤を重ねてきたのだろう。

「しかし、コーラやソーダはあまり好きではなくて……飲むと余計にのどが乾きます」
「そりゃそうだ」
「今のところ、牛乳やジュースでしのいでます。日本は飲み物の種類がたくさんあって助かります!」

 ここまで言い終えると、ゴードンはふうっとため息をつき、目を伏せた。
 
「あの影が、次第にはっきりと実体を得ているような気がするんです」

 声のトーンが徐々に下がっている。

「今朝はとうとう、あれが女性だと……それも髪の長い女性だと言うことまでわかってしまいました」
「なぜ、そう思われたのですか?」
「濡れた髪がね」

 がっしりした褐色の手で、しきりに首の周りをさすっている。

「こう、ぬるりと肌に貼り付いてきたんです。起きてからも、その感触がはっきりと残っていました」
「それで、この神社に?」
「はい。彼女がどんな顔をしているのか。知るのが……恐ろしい。お恥ずかしながら、今朝は顔を洗うのも怖くてできなかった」
「……の、割にはさっぱりしてらっしゃるようですが」
「洗顔用のウェットティッシュと歯磨きガムで、どうにか。日本って本当にきれい好きな国ですね」
「あー、なるほど……」

 ゴードン氏は空になった湯飲みを見下ろし、ほっと顔をほころばせた。

「このまま、ずっと水もお茶も飲めないのかと諦めかけてたのですが……ここの神社の水は平気でした。怖くないです」
「奥の森のわき水を使ってるんですよ。そうだ、少しお持ち帰りになるとよろしいでしょう」
「ありがとうございます」
「よし、それじゃ風見、ロイ」
「はい」
「ハイ」
「ひとっ走り水くんできてくれ。台所に使ってないペットボトルがあるから」
「了解! 早速くんできます」

 風見はすっくと立ち上がり、金髪の相棒の方に向き直った。

「行こう、ロイ」
「御意!」

 二人はゴードン氏に目礼し、すっすっとまっすぐに部屋を出て行った。もちろん畳のへりは踏まずに、速やかに。

「わざわざ、ありがとうございます」
「いえいえ、お気になさらず。大して手間はかかりませんから」

 実の所、泉の湧く奥の院まではけっこうな距離があるのだが……風見とロイの足なら、さほど時間はかからない。

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【ex10-5】何が見えた?

2010/04/25 16:34 番外十海
 
「さて、と……その間に」

 三上は改めて居住まいを正し、ゴードン氏に向き直った。

「実は私、カウンセラーの資格も持っていまして。これも何かのご縁でしょうし、ちょっと診てさしあげましょう」
「おお、ありがとうございます。日本では、カウンセラーにかかるのは一般的なことではないようで」

 さもありなん。アメリカでは、かかりつけのカウンセラーのいる人間はさほど珍しくはない。
 そもそもカウンセラーにかかるのは、医者にかかるうちには入らない。だが日本では別だ。気軽に相談できる相手もいない。
 最善の策としてゴードン氏が「ユメモリジンジャ」を訪れたのは、きわめて自然な成り行きであったろう。

「それじゃ、私、しばらく席を外すね」

 羊子は素早く立ち上がろうとした。が。

「待ってください」

 それより早く、三上の手が肩に乗せられる。指先にわずかに力がこもり、羊子は動きを止めた。
 なぜ?
 視線で問いかける。

「あなたが通訳しなくて、誰がするんですか」
「あ……そうだった……」

 つ、と目をそらし、羊子はふたたび正座した。

「ごめん」
「いえ。それではお願いします」

(おやおや)

 そっぽを向いてしまった。きゅうっと唇の端を噛みしめ、頬がわずかに紅潮している。
 拗ねているのか、悔しいのか。
 いずれにせよ、ランドール紡績の社名を聞いて動揺したようだ。それでも風見とロイの前では気を張っていた。二人が席を外してわずかに気がゆるんだ……おそらく、そんな所だろう。

(困ったことをしてくれましたね、Mr.ランドール……)

 やはり、彼とは一度きっちり話しておかねばならぬ。現実の地表においても、夢の中でも、その確かさに何ら変わりはない。
 そう、夢の守り人であり、狩人でもある自分たちにとっては。

 その時。

「にゃーっ」

 すっと廊下に面した雪見障子を引き開けて、やわらかな生き物が部屋に入ってきた。

「あ、こら、タマ」

 羊子が立ち上がり、細く開いた障子を閉める。

「もう、開けたんなら、閉めなさい?」
「にーっ」

 三毛猫は何やら不満げに耳をふせ、ぴこぽこと短い尻尾を左右に振った。

「おお、ジャパニーズボブテイル!」

 ゴードンは満面笑み崩してちょこん、と首をかしげ、三毛猫の一挙一動を見守っている。

(うわっ、この人猫好きだ!)

 三毛猫はぽてぽてとゴードンに近づき、当然、と言う顔で彼の膝に乗っかって。前足をたたんでうずくまった。

「ほああ………」

 ついさっきまでの不安げな表情はどこへやら。小声で話しかけながら、とろけきった表情で猫を撫ではじめた。

「キティ、キティ、キティ」
「その子は玉緒って言います。タマって呼んでるけど」
「おお。おタマさんですか」

(どこで覚えたんだろうなあ、そう言う表現)

 よほどの日本好きなのか。あるいは日本語を年配の人から習ってるのかも知れない……奥さんのおばあさんとか。
 三毛猫はうっとりと目を細めて、ごろごろとのどを鳴らし始めた。あきらかに猫を撫でるのに慣れた手つきだった。

(筋金入りだあ……)

「猫、お好きなんですね」
「はい、大好きです」

 カウンセリングはまず、相手の心をリラックスさせることから始まる。
 しかしながら猫の出現により、ゴードン氏の緊張もとまどいも一気に取り払われたようだった。

 羊子を通じて、時に日本語を交えつつ、ゴードン・ベネットはぽつり、ぽつりと語り始めた。
 心の中に抱え込んでいた不安を吐きだし、話す。三上は時折相づちを打ち、さりげなく導きはするものの、基本的には聞き役に徹した。
 やがて、密閉されていたゴードン氏の『不安』に出口がぽこっと開いた。あふれだす言葉と意識が、内側に溜まっていた澱(おり)を押し出し、洗い流す。

「今の職場の人も、妻の親族も、近所の人も、よくしてくれます。しかし生まれた国を離れて、異国に移り住んで……やっぱり心細い。ですが、どうしても、私たちはこうしなければならなかったのです」
「なるほど。あながしなければならかなったのは……ここに来ることですか? それとも、サンフランシスコを離れること?」

 ゴードン氏はしばし口をつぐみ、猫をなでた。三上はじっと待った。

「シスコを出ること、です。あの街を離れて、新しく出発したかった」
「ふむ。新しい出発は、いかがでしょう、順調だと思いますか?」
「はい!」

 迷いのない声だった。まっすぐに三上の目を見つめていた。

「妻を愛しています。世界で一番、大切な女性です。やはり、この町にきて、正解でした」

 前向きな言動とは裏腹に、ちらりと思い詰めた表情が浮かぶ。

(思ったよりダメージが大きいか……)

 彼は、実直で真面目な人間だ。しかし、得てしてそう言ったタイプの人間は、頑張りすぎる傾向が強い。
 外側はしっかりしているが、その分内側に侵食が進む。しかもなまじ残った外側が頑丈なだけに、ギリギリまで持ちこたえてしまう。

(念のため、もうちょっと回復させておいた方がよさそうですね……)

「んみ?」

 タマがぴくっと耳を立てる。ほどなく、隣室との境のふすまの向こうに人の気配がした。

「ただいま戻りました」
「おつかれ」

 すうっと音もなくふすまが開く。風見とロイがきちっと正座して控えていた。彼らの目の前には、透き通った水を満たした2リットルサイズのペットボトルが2本。水晶の塊のように穏やかな光をたたえている。

「ああ、ちょうど良いところに……風見くん」
「はい」
「戻ったところ申し訳ありませんが、ゴードンさんにもう一杯、お茶を入れてさしあげてくださいますか」
「イエ、そんなお構いなく」

 恐縮するゴードンに向かい風見光一は誇らしげに胸をはり、堂々と答えた。

「任せてください。お茶をたてるのは得意なんです」
「彼のおばあさまは茶道の先生をしてらっしゃるんですよ」
「サドー! おお、それはスバラシイ!」

 羊子は小さくうなずくと、立ち上がった。

「母から道具借りてくるね」

 すれ違いざまひょいと手を伸ばし、金髪と黒髪、それぞれに絡まる小枝と葉っぱをつまみとった。

「あ……」
「お疲れさん」
「では、私はお湯を沸かしてきましょう」

 ほどなくして。

 座敷に据えられた茶釜にしゅんしゅんと湯が沸き、風見光一は厳かな面持ちで茶を立てた。
 茶道具は羊子の母から借りたもの。袱紗が赤いのはこの際気にしないことにする。
 慎重な手つきで茶さじを操り、桜の樹皮細工の棗(なつめ)から抹茶をすくって腕に入れる。
 馴染みのない人でも飲みやすいよう、薄めに立てる。いわゆる「お薄」と言う奴だ。
 茶杓で茶釜のお湯をすくいとり、静かに注いで茶筅で混ぜる……。腕の中で泡立つ深い緑色と向き合い、思念を一つに絞り込む。

『癒したい。この人の内側に刻まれた、見えない傷を』

「……どうぞ」

 ゴードンは目を輝かせて畳の上に置かれた茶わんと、その内側の抹茶を見つめている。

「コレは、どうやって飲むのですか?」
「こうやって、手のひらにお茶わんをのせて、回すんです」
「こう、ですか?」
「そうそう、もう一回」

 味と香りを楽しみながら茶を飲み干すと、ゴードンはしみじみとため息をついた。

「ああ……fantastic!」

 楽しそうだ。張りつめたものが、だいぶ抜けてきた。
  
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 茶をふるまった後、ゴードン氏を伴って一同は本殿に赴き、神社に詣でた。
 羊子の父であり宮司である結城羊治が祝詞をあげる中、ゴードンは慎重な面持ちで背筋を伸ばし、熱心に祈っていた。
 参拝が終ってから、宮司はおもむろに三方に乗せた鈴をささげ持ち、進み出る。

「これは、『夢守りの鈴』と言って、この神社のタリスマンです。悪い夢を退け、おだやかな眠りを守ってくれます」
「おお、ありがとうございます……」

 ゴードン氏は大きな手のひらに、ちいさな鈴を乗せてころころ転がした。
 ちりりん。
 赤い紐の先端で、金色の鈴が軽やかな音色を奏でる。

「キュートなタリスマンですね」
「それから、こちらも」

 羊子が白い和紙に包まれた小さめの日本酒の瓶を。風見とロイがペットボトルに入れた神社のわき水を持って進み出る。

「水を飲む時は神社の水を混ぜて。お風呂にはこのお神酒を入れるとよいですよ」
「ありがとうございます」

 岩を刻んだような背中が遠ざかるのを見送りながら、風見がぽつりとつぶやいた。

「いい人ですね」
「……ああ。だからこそ、夢魔にとっちゃ『美味しいごはん』なんだ」
「これで、当面は大丈夫、ですよね」
「応急措置ですけどね」
「……十分だ。さて、作戦会議と行こうか?」

 社務所に戻り、居間のこたつに潜り込む。急に温度の下がったこたつの中で、『みゃっ』『にゃうっ』と不満げな声があがる。

「あ、ごめん」
「失礼シマス」

 猫団子を避けつつ、落ち着いたところでお互いの見えたもの、感じたものを話しあう。

 おぼろに感じ取ったのは女の顔、真珠色の鱗、ヘビの胴体、ゆらめく長い黒髪。
 今はまだゴードン氏は悪夢にうなされるだけ。だが少しずつ悪夢が現実に染み出している。

「どう思う? このケース、悪夢の宿主(レミング)が、ゴードンさんの夢に侵入して苦しめてると見た」
「同感です。取りついているのは、おそらく女性だ」
「半分蛇の、ね……」
「確かにアレは蛇。それも海ヘビだと思いマス」
「同感」
「今回の事件の鍵は、水だね」
「それも海の水ですね。あともう一つ、気になったことが」
「何?」
「その、半分蛇で半分女の夢魔なんですが……ゴードンさんに巻き付いて、こうささやいてたんです」

 しばし言葉を区切ってから、三上蓮はひと言、ひと言、己の読み取った夢魔の思念を言葉にした。

「返せ、と」
「うーん……蛇の体に、まとわりつく髪の毛、それに返せ、か………」

 羊子はこつこつと指先で額を叩き、首をひねった。

「女の嫉妬?」
「前の恋人?」
「不倫……と、言う可能性もありますね………」

 一同顔を見合わせ、すぐに首を左右に振った。

「ないないない」
「無理でしょうねえ、ゴードンさんには」

 すっと三上は右手を掲げ、人さし指を立てた。

「それからもう一つだけ、気になったことが」
「コロンボか!」
「すいません、今気付いたもので」
「……ま、そう言うことなら……で、何?」
「夜よりも、むしろ昼間の方が影響が強いように思えてならないんです。それだけ現実への侵食が強まった、とも考えられますが……」

 確かに。夜の夢はただ『奇妙な夢』と表現していたが、明け方や昼間にまとわりついてきた『影』は、より具体的なイメージを伴っていた。
 憑依の初期段階において、夢魔は宿主が眠っている時により強く力を発揮する。夜の夢の中では、起きている時よりも理性の締めつけゆるみ、秘めたる願望や欲望があらわになるためだ。

「つまり、夢魔の宿主が眠っているのは、『昼間』にあたる時間なんだ」
「夜起きて、働いてる?」
「あるいは、時差がある……そうか!」

 はっとした表情で風見が叫ぶ。

「宿主は、アメリカにいるんだ!」
「ええ……私も、そう思います」

 三上は静かにうなずいた。

「あの夢魔の顔立ちは、白人女性の特徴を備えていた」

(これは、なんともタイミングのいい)

 口元に笑みが浮かぶ。

 海外でのサポートが必要となるとまずは結城くんだろうが、彼一人ではやや心もとない。となれば、彼の補助ができるのは事実上社長しかいないだろう。
 社会的な影響力もあるし、財力も高い。この点ではロイくんの祖父もかなりものだが、何と言っても映画スター。潜入捜査をしようにも、あまりに目立ちすぎる。(当人は喜んでやりそうだが)

 いつものにこやかな「神父の微笑」とほとんど見分けがつかない穏やかなほほ笑みの内側で、三上は秘かに戦闘準備を始めることにした。

 カルヴィン・ランドールJrとの邂逅に備えて。

「結城さん」
「……わかった」

 羊子は懐から携帯を取りだした。いつものようにボタンを押そうとして、一瞬戸惑う。

(犠牲者がランドール紡績の関係者なんだから、まずはカルにかけるべき、なんだろうな………)
(でも……)

 さっき、言えなかったことがある。
 心が揺れたあの瞬間。半蛇の女妖の黒髪がゆらりと広がり、触れそうになった。
 敵対者への威嚇と言うより、まるで………自分を招くように蠢いていた。

(気のせいだ。そんな事、あるわけがない!)

 懸命に否定しながらも、不安をぬぐい去ることができない。それがただの憶測ではないことは、自分が一番良く知っている。
 今、あの人の声を聞いたら。
 心の波がもっと大きく波打って、崩れてしまうのではないか。また、あの夢魔を呼び寄せてしまうのではないか……。

 携帯片手に戸惑っていると、やにわにとんでもない爆弾が投下された。

「結城くん一人では少し不安ですよね。かと言ってロイくんのお祖父さんでは目立ちすぎますし……例の社長に頼ってみてはどうでしょう?」

 一瞬、羊子は硬直した。束ねた黒髪がぶわっと逆立つような心地がする。まるでびっくりした猫みたいに。

「………?!」

 そんな彼女を察してか、風見光一もまた、ぎょっとこたつの中ですくみ上がった。

「ラ、ランドールさんにですか……確かにサクヤさん一人じゃ大変なのはわかりますけど………」
「ええ、そのランドール氏にです。万一悪夢と戦うことにでもなったら、やはり一人では厳しいでしょうしね」

 ああ、さっきから心臓に悪い名前が連呼されているような気がする。
 そう言えば帰国してからこっち、だれも自分の前では彼の名前を口にしようとしていなかった。

(すまん、風見。おまえにまで気ぃ使わせて)
(って言うか、三上さん、事情全部知ってるくせに)

 そらせていた目線を、顎をとってくいっと向けられた気がした。しかるべき位置に、優しい指先で……しかし、断固とした動きで。

「そうだね」

 抑揚のない声で返事をすると、羊子はギクシャクした動きで携帯を開き、ボタンを押した。

(さて、どちらにかけるでしょうね……)

「やっほー、サクヤちゃん元気?」
「うん、元気だよ。どうしたの、よーこちゃん」

(ああ、やはり結城くんでしたか)

 サクヤの声を聞いたら、何だかしゃきっとした。遠く離れているのに、手をとりあって支えてくれたような気がした。

「事件だよ。根っこはたぶん、そっちにある」

 きっぱりと言い切る羊子の口調に、もはや迷いはなかった。

「あなたとカルの協力が必要なの」

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【ex10-6】これよりシスコ側のターン

2010/04/25 16:35 番外十海
 
 土曜日の夕方。カリフォルニア大学サンフランシスコ校のキャンパスを足早に歩く結城サクヤの姿があった。
 待ち合わせ場所まで、ケーブルカーとバスを乗り継いで20分。大丈夫、間に合うはずだ。

「よぉ、サリー」
「あ……テリー」

 内心、しまった、と思った。ちょっとした誤解から、彼はこれから会いに行く相手のことをあまり快く思っていないのだ。

「夕飯、まだだろ?」
「あ……うん」

 しまった、パート2。もう食べたって言っておけばよかった。

「一緒に飯食わないか?」
「ごめん、今日はちょっとこれから、人と会う約束が……」

 わずかに口ごもるサリーの様子に、テリーは何やらピン、と来てしまったようだ。これも身に付いた『おにいちゃん』本能のなせる技か。

「……あいつか」
「そうだけど」

 すぱっと答える。

(考えてみれば隠す必要なんてないんだ。ランドールさんとは『任務』の話をするだけなんだし、夕飯を食べるのもたまたまその時間に会うからだし……)

 土曜日の午後にカフェで待ち合わせして、同じテーブルについて。談笑しつつ一緒に食事をする……しかも夕飯。相手はハンサムでゲイでお金持ち、加えて評判の『遊び人』。
 サリーは欠片ほども意識していないが、はたから見れば立派なデートである。
 そして、テリーも同じ結論にたどり着いたのだった。

「俺も一緒に行く」
「え、でも……」
「飯はどこかで食わなきゃいけないんだ。それとも俺が一緒にいると、何か不都合があるのか?」
「いや……別に……」
「だったらいいだろ?」
 
 困った。
 ターコイズブルーの瞳が、断固たる意志の光を放っている。こうなったら、テリーはがんとして後に引かない。
 急がないと待ち合わせの時間に遅れてしまう。ただでさえ、こっちは日本より9時間出遅れているのに。

「しょうがないな……一緒に来てもいいけど、一つ約束してくれる?」
「ああ」
「わかんない内容でも、大事な話だから口を出さないでね」
「わかったよ」

 OK。これで安心だ。
 テリーは約束は守ってくれる。いつでも必ず。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 待ち合わせ場所のカフェに着いたのは、ランドールの方が少し早かった。
 コーヒーだけではなく、カリフォルニアワインやビールも気軽に楽しめるセルフサービス式の店だ。オーダーは後回しにしてまず、席を取る。幸い、隅の禁煙席が空いていた。

(飲み物を買うのは、サリーが来てからにしよう)

 今日の会合は『任務』……すなわち夢魔狩りの打ち合わせだ。わかってはいたが、それでもちょっぴり心が弾む。
 サリーはヨーコの従弟だ。顔立ち、仕草、そして声の根本的な響き。二人はそれこそ姉弟と言っていいほどよく似ている。
 ヨーコに会えないこの寂しさも、彼と会えば少しは癒されるだろう。

「……ん」

 店のドアが開き、見慣れた顔が入ってきた。さらりとしたストレートの黒い髪。卵形のつやつやした顔、くりっとした黒い瞳、ほっそりした手足、なだらかな肩。
 待ち人が現れた。

「こんばんは」
「やあ、サリー………」

 記憶と言うのは、思ったよりあてにならないものだ。
 こうして直に向き合うと、サリーはとてもおだやかで、ふんわりしていて……秘めたる芯の強さこそあるものの、研ぎ澄まされた朝の空気のような、ぴりっとした鋭さにはほど遠い。
 何より、においが違う。

「どうかしましたか?」
「あ、いや………」

 ランドールは軽く肩をすくめてまゆ根を寄せ、ため息まじりに答えた。

「意外に似てないんだな、と思ってね」

(わ、なんか今、さりげに失礼なこと言われた気がする)

 誰に似てるのか、なんていちいち確認するまでもない。
 しかし。
 サリーの背後に付き従うもう一人を確認した途端、ランドールはぴょこっと顔を上げ、ぶんぶんと尻尾を全開で振った。

「やあ、テリーくん!」
「よぉ」
「君も一緒だったのか」
「残念ながら」
「いや、うれしいよ。座りたまえ」
「失礼します」

 サリーがランドールの向かいに座ろうとした。が、テリーは満面の笑みをうかべてぐいっと押しのけ、自分が代わりにその位置に座ってしまった。
 やむなくサリーはランドールと対角線上に腰を降ろした。

(困ったな……ランドールさんの近くに行きたいのに)

 しかたない。できるだけ顔を寄せて話しかけよう。

 一方でランドールは上機嫌。うきうきしながらメニュー片手にテリーに話しかけた。

「とりあえず、何か飲むかい?」
 
 テリーがぎろっと目をむいてにらみつけてくる。
 その表情に、マーメイド・ラグーンでの一件を思い出した。どうやら、酒を警戒しているらしい。

「……あ、いえ今日は」
「そうか………では失礼して、私はコーヒーを頂こう。テリー君はどうする?」
「み………」

 水、と言おうとした瞬間、入れ立てのエスプレッソの芳香がふわぁん、と漂ってきた。

「………カプチーノ」
「あ、それじゃ俺もカフェラテ。コーヒーならいいよね?」
「ああ、コーヒーならな」
「OK、それじゃコーヒー一つとカプチーノ、カフェラテだね」

 ランドールが椅子から立ち上がるやいなや、テリーがポケットから小銭を取り出し、かちりとテーブルに並べた。

「これ、俺の分」

 断固たる口調とまなざしで『おごってもらう気はない』と主張している。
 サリーがちょこんと首をかしげた。

「あれ、テリー、マイマグは使わないの?」
「ああ、今日は持ってきてない」
「おや、いつもはマイマグなのかい?」
「ええ、まあ……ちょっと安くなるし。けっこう気に入ってるんで」
「ほう」
「ロイからのプレゼントなんですよ」
「ニンジャのプリント入りなんだ」
「ニンジャの?」
「絵じゃなくて、漢字ですよ。見た目はシンプルだけど、インパクトはあるかな?」

 にこにこしながらサリーは言葉を続けた。

「俺のと対になってるんです」
「そう……か……それは、良かったね」

(あれ?)

 一瞬、ランドールの声のトーンがわずかに揺れた。ちょっぴりがっかりしたような。拗ねたような気配を感じた。

(ひょっとしてランドールさん、うらやましいのかな……ニンジャマグ)
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「お待たせ。サリーはカフェラテだったね」
「ありがとうございます」

 まずサリーにラテを渡し、続いてふわっと盛り上がるミルクの泡に、褐色の渦巻きの浮かぶカプチーノのカップを手にとる。

「それから、これは……」

 差し出されたテリーの手が、するりと宙をかく。カップに届く瞬間、わずかにランドールが手を引いたのだ。

「っと……失敬」
「どーも」

 むっとした顔でテリーは今度こそカプチーノを確保した。

(わあ、大人げない)

 湯気の立つラテをひとくちすするとサリーはおもむろに身を乗り出し、声をひそめた。

「実はヨーコさんから連絡がきて……」

 ランドールの耳ぴくっと動く。

「ヨーコからっ?」

 ずきり、と鈍い痛みが心臓を噛む。
 先日、見たばかりの気掛かりな夢の記憶がひらめいた。暗い水の中で月の光を反射する、魚の鱗のようにチカチカと……。

 大事なものが指の間からすり抜ける。どんなに手を伸ばしても、届かない。

 何だかここ数日と言うもの、同じ夢を繰り返して見ているような気がした。しかも日を追うごとに、漠然とした喪失感が徐々に強くなっている。

(もしや、彼女の身に何かトラブルが?)

 落ち着け、落ち着け。ここでうかつに事件が、なんて口にしたらテリーくんを驚かせてしまう。もっと穏やかで、一般的な言い回しを考えるんだ。

「その………私に、何か手助けできるような事が……起きたのかな?」
「はい。内容がすこし複雑だったので、英語だと説明しづらかったみたいですね。概要はこちらに」

 サリーは鞄から折り畳んだ紙をさし出した。まるで仕事用の書類でもやりとりするかのようにさりげなく。
 あらかじめ、事件の概要と調べるべき事柄をまとめてプリントアウトしておいたのだ。

「そうか……ありがとう」

 書類に目通しするなり、きりっとランドールの表情が引き締まる。大会社を取り仕切る、『社長』の顔に切り替わる。

「なるほど、確かにこれは私の役目だね」
「わかったことがあれば、メールで全員に送ってもらったほうがいいかな。時差は気にせずに」
「わかった………………」

(何なんだ、こいつら!)

 互いに身を乗り出して親しげに、傍から聞いていてわけのわからない話をしている。
 しかも、かなり真剣に。
 そんな二人を見ながら、テリーはがぶがぶとコーヒーを飲んだ。いくらカフェインを補給しても一向に気が収まらない。
 とうとう、テリーはむすっとした顔で席を立った。

「どこ行くの、テリー?」
「……トイレ」

 サリーとランドールは顔を見合わせた。
 テリーには悪いけど、チャンスだ! これでしばらくは心置きなく事件のことを話せる。

「それで。この情報収集の作戦なんですけど」
「ああ、いつでもOKだ。さすがに日曜は休みだから、あまり人がいないが……」
「できるだけ急いだ方がいいですね。月曜日に実行しましょう」
「わかった」

 顔を寄せ、ひそひそと込み入った話をする二人の姿はぱっと見、愛をささやいてるように見えなくもない。
 だが幸いにして、この現場を目撃して一番、ダメージを受けそうな人物はこの場には居なかった。

「やっぱり………毎回裸になるのは問題ですよね。今回は俺がやりますから」
「う………む、済まない。固定観念とは厄介なものだな………」
「服を着たまま出来る様になれば、色々と便利ですし」
「……と言うか、いちいち裸になってると、色々と不利益だな……有難う、でもはっきり言ってくれて構わないよ」

 ちらちらと漏れ聞こえる内容も、服を脱ぐの、着たままできるのと、かなり怪しい。しかし本人たちはいたって真剣だ。

「後は、そうだな……サリー。くれぐれも私の秘書に見つからないように気をつけてくれたまえ」
「えっ、そんなに怖い人なんですか?」
「いや。彼女はエレガントで有能で、節度を心得た女性だよ」
「あ、女の人なんだ」
「うむ。ただ、その……可愛いものに目が無くてね」
「あ……なるほど……」

(そう言う意味、なんだ)

「注意します」
「うん」
「……っと」

 二人は申し合わせたように、ぱたっと話をやめた。

「……お帰り、テリー」
「ん」

(何なんだ、こいつら。俺に聞かれちゃまずい話でもしてたのかっ)

 むすっとした顔でテリーは再び腰を降ろした……ランドールの真向かいに。

「話、もう終ったのか?」
「うん、だいたいは」
「そっか。いい加減、俺、腹減ったんだけど」
「私もだよ。君たちも食事はまだなんだね?」

 おかまいなく!
 用意した台詞が声になる前に、ぐうううう、と派手にテリーの腹の虫が返事をしていた。

 くすっと笑うとランドールは壁際に立てかけてあったメニューをとり、差し伸べた。

「ここのピザはなかなか美味いよ。新鮮なバジルと岩塩ベースの味付けで、試してみる価値はある。サンドイッチもいけるね。だが、バーガーは避けた方が無難だ」
「そんなに、ひどい味なのかっ?」
「いや。サイズが尋常じゃない」
「ああ、そう言うことなら、俺はバーガーで」
「サリーは何にする?」
「んー、ピザはクリスピータイプですか?」
「ああ」
「じゃ、マルガリータのSサイズを一つ。テリー、シェアしよ?」
「おう、かまわないぞ」
「では、私もピザにしよう……ジェノベーゼのLサイズを」

 注文しようとランドールが席を立つより早く、さっとテリーが立ち上がっていた。

「俺も行く」
「ありがとう!」
 
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 illustrated by Kasuri 

 屈託の無い笑顔でうなずくと、ランドールもまた立ち上がり……二人で並んでカウンターに向かって歩き出す。
 一人はこの上もなく上機嫌。もう一人はこの上もなくご機嫌斜めで。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「ごちそうさま……ほんとにピザ、美味しかったです。ぱりっとしててて!」
「そうか、気に入ってくれて嬉しいよ」
「んー、俺はもーちょっとこってりチーズとソースがかかってた方が……」
「えー。俺にはあれぐらいが丁度良かったよ。小麦の味が、しっかり出てるし」
「おまえ、そーゆーの好きだよな」
「うん、和食に通じるものがあるし?」

 ランドールはほくほくと上機嫌だった。
 期待したほど、ヨーコ分の補給はできなかったが、それを補って余りある収穫があった。テリーと一緒にコーヒーを飲み、夕食まで食べたのだ!

 ……支払いはあくまで、個人個人だったけれど。
 大口を開けてバーガーにかぶりつく姿を、こんなに間近に見られるなんて。

「んじゃ、飯食ったし。とっとと帰るぞ、サリー」
「え、あ、うん」
「用事はもう終ったんだろ?」
「うん……一応」

 サリーは申し訳なさそうにランドールに一礼して立ち上がった。

(気にすることはないよ。今夜は十分、楽しかった)

 ランドールはサリーに手を振り、ちら、とテリーの顔を見ていたずらっぽい笑みを浮かべた。靴下を口いっぱいにほお張った、やんちゃな仔犬(パピー)の顔で。

「今度は是非、見せて欲しいな……その、ニンジャマグとやらを」
「ああ。機会があったら、いくらでも見せてやるぜっ」

(こいつ、次のデートの約束のつもりかっ)

 引きつり笑顔でテリーはずいっとランドールとサリーの間に肩を割り込ませた。

(サリーに手は出させないぞ、遊び人め!)

「『俺の』ニンジャマグをな!」
「楽しみにしているよ」

 二人の思惑は物の見事にすれ違っているのだが……結果として事態はランドールの望む方向に動いていたりするのだった。
 意図することなく、きわめてナチュラルに。
 一方でサリーは。

(ランドールさんとテリー、ちょっとは親しくなれたみたいだ……良かった)

 こっちもある意味、ずれていた。

(それにしても意外だったな。ランドールさんが、ニンジャグッズに興味があったなんて)

 後でロイに聞いてみようと思った。『あの湯飲み、どこで見つけたの?』って。
 
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【ex10-7】シスコ側のターンその2

2010/04/25 16:37 番外十海
 
 月曜日の朝。いつものように始業より20分早く出勤してきたシンシアは、社長室のドアを開けようとしてフリーズした。

「まあ………そんな、こんな事が?」

 滅多にないことだが、彼女は動揺していた。
 あろうことか、社長が。カルヴィン・ランドール・Jrがデスクに座り、熱心にパソコンを叩いている!

「やあ、おはよう、シンディ」

 ちらりとこっちを見て、再びモニター画面に目を戻す。すさまじい集中力だ。いったいこれはどんな天変地異の前触れか。
 ただでさえ寒波の襲来したカリフォルニアに、ブリザードでも吹き荒れはしないか。あるいは霜のかわりにニシンの大群でも降ってくる?

「お……おはようございます」

 内心の動揺を押し隠し、にこやかに答える。

「今朝はずいぶんとお早いんですね?」
「ああ、ちょっと調べ物をしておきたくてね」
「あら、でしたら私にお申し付けくださればよろしいのに……」

 さりげなくデスクに近づき、画面に目を走らせる。

(社員名簿?)

 彼は社長だ。社員名簿を見るのに何ら問題はないし、正当な権限もある。しかし、企業のトップに立つ彼が何だっていきなりそんな気を起こしたのか。個人的に気になる社員でもいたのだろうか?
 シンシアはすっとアーモンド型の瞳を細めた。

「何を……調べてらっしゃるのかしら」
「いや、大したことじゃないんだ」

 ランドールは素早く頭を巡らせた。シンディは有能だ。頭の回転も早く、目の付け所も鋭い。下手なごまかしはかえって疑惑を招く。ここはストレートにありのままを語ろう。
 ただし、肝心な部分は伏せて。

「日本の知人が、向こうでうちの元社員と知り合ったらしいよ。世界は広いけれど……世間は狭いものだね」
「そうでしたか、日本の……」

 そのひと言が、有能な秘書の耳から脳の内部に飛び込み……魔法にも似た虹色の閃光を散らした。

(日本の知人……ですって)

 さらりとした長い黒髪。つやつやの卵形の頬。サクランボのような唇。抱きしめたら折れてしまいそうな華奢な体、そしてぷりっと愛らしいお尻。

(まさか、あの子? あの子のことなの?)

 思わず頬がゆるみかけた所に、畳みかけるようにランドールが話しかけて来る。

「そう言えばシンディ、知り合いの知り合いを伝っていくと、驚くほど少ない人数で世界中の人と繋がるらしいよ?」
「ああ………そんな話、聞いたこともありますわね」
「間に六人挟めば何らかのつながりができてくる、とも言うね」
「ええ……まあ……」

 この瞬間、彼女は全力で顔も知らぬその『元社員』をうらやましく思っていた。何故、日本に居るのが自分ではないのかと。
 普段の明晰な思考も、鋼の理性もこの時ばかりはアンドロメダ星雲の彼方へと放り投げて。

「それで……シンディ」
「はい?」

 有能秘書が上の空なのを幸い、ランドールはさりげに話を望む方向に誘導した。

「今日のランチは、中庭で食べる事にしたよ。午後一番に人と会う予定は入っていなかっただろうね?」
「え、ええ……」
「では少しゆっくりしても問題ないね?」
「そうですわね……ええ、社内にいらっしゃるのでしたら……」
「ありがとう」

 
 ※ ※ ※ ※


 そして、昼休み。
 ランドールは最寄りの市電の駅までサリーを車で迎えに出た。

「やあサリー。待っていたよ。ランチはもう済ませたかな?」
「はい。いつでも準備OKです」
「では、行こうか……」

 銀色のトヨタに乗り込んだのは二人。
 しかしランドール紡績の門をくぐった時は、車に乗っているのはランドール社長ただ一人になっていた。

「お帰りなさいませ」
「やあ、ご苦労さま」

 守衛に軽くうなずいて車を走らせる。
 駐車場に停車すると、ランドールはゆったりとした歩調で歩き出した。自分のオフィスのある本社ビルではなく、社員食堂に向かって。
 ランドール紡績の社員食堂は、本社ビルと、隣接した工場、双方の職員が利用できるように敷地のほぼ中央に建てられていた。
 二階建てのガラス張り。入り口で食券を購入するカフェテリア形式。先代社長の意向に従い、提供される料理も、それを食べる場所も、きわめて快適に整えられている。
 快適な食生活は、健康を培うとともに効率的な労働を支える。それがカルヴィン・ランドール・シニアの持論なのだ。

「もうすぐだからね……」
「きぃ」
 
 角を一つ曲ったところでばったりと、グレープフルーツジュース(当然、100%のしぼりたてフレッシュ)を満たしたカップを手にしたシンディと出くわした。

「あら、社長」
「やあ、シンディ」
「今……だれかとお話し中でした?」
「ああ、ちょっと電話をしていた」

(何かしら……今、ものすごく好みの子の気配がしたのだけれど)

 怪訝な表情で見回すシンディに、ランドールはうやうやしく道をゆずった。

「どうぞ」
「ありがとうございます。これからランチですか?」
「うん、まあ、そんな所だね」
「ごゆっくり……」

 シンディとすれ違った直後、ランドールのポケットの中で小さな何かが動く。
 ポケットチーフにしてはいささか風変わりなふかふかしたものが、ちょろりと覗き……もそもそっと奥に潜り込んだ。 
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 ライ麦パンにベーコンとレタスとトマトのサンドイッチを一つ、ベーグルにスモークサーモンとチーズのサンドイッチを一つ、リンゴとコーヒーの大を一つ。
 外での食べやすさを重視すればこんなものだろう。みずみずしいオレンジにも心魅かれたが、汁が飛んだら厄介だ。

 よく晴れた日だった。そして冬でも新鮮な空気と日光、そして解放感を求めて、外のテラス席で食事とる社員は多かった。
 社員名簿に記された、ゴードン・ベネットならびにグレース・ベネットの所属部署と。食堂内に散らばる社員の顔を照らし合わせつつ、テーブルの一つに足を向ける

「失礼、ここは空いてるかな?」
「ええ、どうぞ……って、社長?」

 若社長に気付き、テーブルに着いていた数名の男女が慌てて背筋を伸ばす。

「いや、そのままでいい。私も君たち同様、外の空気を吸いたいだけだからね……秘書には内緒にしておいてくれよ?」

 ぱちっとウィンクして、唇の前に人さし指を立てる。

「OK!」
「了解しました!」

 若い社員たちはくすくすと笑いながらうなずいた。シンディの鬼秘書ぶりは、社内のすみずみまで普く知れ渡っているらしい。
 サンドイッチをかじりつつ、ランドールはのんびりと話しかけた。最初こそ緊張していたものの、若社長の気さくな物言いに社員たちが打ち解けるのに、それほど多くの時間はかからなかった。
 グループの中に、日本通の青年が一人いたことも幸いし、ごく自然に話題をかの国に向けて誘導することができた。

「おお、これがジンジャの写真ですか!」
「素敵、何てエキゾチック」
「ニッポンかあ……いっぺん行ってみたいなあ。友人が今、そっちに居るんですよ」
「おや、そうかね」
「ええ、奥さんのおばあさんが向こうの出身だそうで。確か、地元の織物会社に転職したって言ってたな」
「ほう。やはりシルクかな?」
「そうです。ツムギって言ってました」
「日本の絹織物は最上級だそうだね……しなやかで、つやがあって……」

 藍色の夜を背景に、はらりと散り咲く薄紅色。八月の日差しの中、そこだけが春の夜を夢見ていた。まだ名前すら知らなかったあの日、初めて会った時に彼女が着ていた桜のキモノ。
 間近に目にした日本のシルク。細やかな刺繍の織りなす光と質感に一瞬、目と心を奪われた。

(……しっかりしろ、カルヴィン・ランドール!)

「機会があったら、取り寄せてみたいものだな。その、何と言ったかな、君の友人は」
「ベネットです。ゴードン・ベネット」
「そうか。ありがとう」

 為すべきことはした。自分の勤めはここまでだ。
 空になったトレイを手に、ランドールは立ち上がった。

「お先に失礼するよ。楽しかった。ありがとう」

 軽快な足取りで遠ざかる社長の背中を見送ると、居合わせた社員たちの一人が誰ともなくぽつりとつぶやいた。

「ベネットか……いい奴だったけど」
「災難だよな」

 さすがに社長の前では口にできなかった、もっと込み入った話がぽつり、ぽつりと誘い出される。記憶の海の底から、糸で連なる真珠のようにつらつらと。

「あんな事がなければな……」
「……あら、かわいい」

 女性社員の一人が手近の木の枝を見てほほ笑んだ。ふわふわの尻尾、ぴんと立った耳、つぶらな黒い瞳。リスだ。
 逃げもせずに首をかしげ、ちょろちょろと近づいて来る。

「人懐っこい奴だなー」
「ナッツ食べる? リンゴの方がいい?」
「きぃ、きぃ」

 小さなリスは前足でリンゴの欠片を抱え込み、コリコリと美味そうにかじり始めた。

「結局は、家族を選んでケリを着けたんだろうな」
「カリフォルニアは自由な土地だけど、さすがに大っぴらに不倫はいかんよ……しかも社内で」
「奥さんの親友相手は、なあ……」
「ほんとに、ね。彼女とグレース、まるで姉妹みたいに仲が良かったのよ?」
「ああ、シモーヌは子どもの頃、妹を地震で亡くしてるから。余計にグレースのことが可愛かったんじゃないかな」
「だよね。年は同じだったけど、日系の子ってちっちゃくてキュートだものね」
「確か、大学の同期生だって言ってなかったっけ」
「うん。会社に入る前からの付き合いだったって」
「今、思うとさ……ゴードンもグレースも。引っ越す直前あたりから、シモーヌのこと避けてたよ……ね」
「あー、確かに……前はしょっちゅう、家に行き来してたのに。会社でも、ほとんど顔合わせてなかった」
「そうなの?」
「うん、そうだった」

 しばし会話が途切れ、コーヒーをすする音がやけに大きく響いた。
 やがて、男性社員の一人がふーっと深くため息をついた。

「結果としてあれでよかったんだよ。さすがに海を越えれば、シモーヌだって」

 話の間、リスはずっとテーブルの回りや芝生の上で首をかしげたり、毛繕いをしたりと愛らしい姿を惜しみなく披露していた。
 そして、そろそろ昼休みが終ろうと言うころ、またちょろちょろっと木立の間に戻って行った。

「あ、行っちゃった……バイバイ」
「まるで人間の言葉がわかるみたいだったわね、あのリス」
「ははっ、まさか。単にリンゴが好物ってだけだろ?」

 ちょろちょろとリスが走ってゆく。枝から枝へと飛び移り、最後に上等のスーツの肩にぴょいっと飛び乗った。

「お帰り、サリー」
「きぃ、きぃ」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 数分後。ランドールは自分のオフィスに居た。デスクの傍らにサリーが立ち、一緒にパソコンの画面をのぞき込んでいる。

「名前は、シモーヌ……年齢は、グレース・ベネットと同じなんだね?」
「はい、大学の同期生だそうです」
「だとすると、条件に合致するのは……」

 画面上に白人女性の写真が表示された。波打つ黒髪は長く肩を覆い、ぽってりと肉感的な唇が印象的。緑を帯びた青い瞳は、まるで晴れた日の海のようだ。

「彼女だ。シモーヌ・アルベール」
「きれいな人……ですね」
「ああ。美しい女性だね。だが危うい女性だ」
「え?」

 サリーはまばたきして、じっと写真を見つめた。言われてみれば、そんな風に思えなくも……
 ううん、やっぱりわからないや。

「この人が、ナイトメアに寄生されてるのかな」
「私の狩人としての経験はわずかだがね。恋する男女は数多く目にしてきたつもりだ」
「はあ………」
「情熱的な恋と言うものは、ひとたび道を違えれば憎しみにも変わる。彼女はその種の激しさを秘めているように思えてならないんだ」

 サリーは小さく感嘆のため息をもらした。

(やっぱりランドールさんって、大人なんだな)

「グレースさんとは、姉妹みたいに仲が良かったはずなのに。旦那さんと……」

 こくっとのどが鳴る。

「不倫、していたなんて」
「結婚していると言う事実が、ブレーキにならない場合もあるんだよ、サリー……」
「ええ、それは……俺も、よくわかります」

 おそらくは、秘めたる思いで終らせるつもりだったのだろう。だが、ぽっかりと開いた穴に生じた『歪み』がそれを許さなかった。
 シモーヌ・アルベールにとっては、ただ夢を見ているだけにすぎない。
 彼女が眠っている間、心の闇に巣くった夢魔が理性の枷からから解き放たれ、ゴードン・ベネットを苦しめているのだ。
 少しずつ彼を衰弱させ、生命の最後の一滴まで絞り取るまで悪夢は終らない。
 そして無自覚に夢魔の力を使えば使うほどシモーヌ・アルベールはより深く侵食され、主導権を奪われて行く。

「……報告書はこんな感じでいいかな?」
「ええ。十分です」
「それでは、メールで送っておこう。君のパソコンにも」
「お願いします。それじゃ、そろそろ帰りますね」
「ああ、送ろうか?」
「いえ、大丈夫です。あ、そこの窓開けていいですか?」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「……失礼します」

 シンシアが昼休みから戻って来ると、窓際に社長が立っていた。

「やあ、シンディ。お帰り」
「何をなさっているんですか」
「ああ、うん、ちょっとバードウォッチングをね」

 窓の外に目をやると、今しも白い鳩が一羽、遠ざかって行くのが見えた。

「あら、きれいな鳩」
「この距離でわかるのかい?」
「ええ、わたくし、視力には自信がありますの」

 にこやかに答えつつ、シンシアは内心、首をかしげていた。

(何かしら、また、とてつもなく好みの子の気配がしたような……)
(わたくしとした事が! どうかしてるわ)

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【ex10-8】彼女の織った海

2010/04/25 16:38 番外十海
 
 日曜日の午後。
 結城羊子は緋色の袴と白衣(はくえ)の巫女装束に身を包み、すたすたとせせらぎの遊歩道を歩いていた。
 真新しい一戸建ての並ぶ住宅街は、昨日ランチをとった犬カフェといくらも離れていない。

「この辺りかな」
「ええ、そろそろですね」

 同じく白衣に浅葱の袴を身に着けたロイと風見が後に従う。

「どーした、二人とも。表情固いぞ?」
「いや、だって神社の外でこの装束来て歩くのは、始めてで、緊張しちゃって……」

 羊子は歩みを止め、引き返すと教え子たちを前後左右からじっくり検分。しかる後、うなずいてポン! と風見の背を叩いた。

「問題ない。剣道の装束とちょっと色が違ってるだけじゃないか」
「あ、そうか」
「二人とも決まってるぞ。中々に男前だ。もっと自信持て!」
「カタジケナイ」
「ありがとうございます……」
 
 道行きを再開してまもなく。ロイがすっと立ち並ぶ家の一軒を指さす。やはり母国語だ、英語の表札をいち早く見つけたらしい。

「あ、ありましたヨ、先生!」
「B、e、n、n、e、t、t……ベネット。本当だ」
「意外に近くでしたね」
「よし、では手はず通りに」
「了解!」
「御意!」

 とことこと玄関に歩み寄ると、羊子は伸び上がって呼び鈴を押した。

「ごめんください」

 インターホンから返事がかえって来る。かすかに巻き舌で、日本語ではあるけれど微妙にイントネーションが違う。

「どなたデスカ?」
「結城神社の者です。昨日、ご主人のゴードンさんが当社にご参拝になったのですが、その時に忘れ物がありまして……」
「少々お待ちください」

 よし、第一関門クリア。途中から流ちょうな英語に切り替えたのも大きかった。
 やや間があって、玄関の扉が開かれ、お腹のまぁるく膨らんだ黒髪の女性が顔を出した。日系のクォーターと言う話だったが、外見はほとんど日本人と変わらない。ただ身に付けた服や、うっすらほどこしたメイクにどことなくアメリカの空気を感じる。
 ポップでカジュアル、くっきり鮮やか。
 まちがいない。彼女がグレース・ベネットだ。

「こんにちは」

 3人そろってきちっと一礼する。わずかながら残っていたグレース夫人の警戒が解かれる。神社の装束と、ロイの存在に気付いて安心したのだろう。

「主人はあいにくと出かけておりまして」
「はい、かまいません。忘れ物をお届けにあがっただけですので」

 羊子は手にした袱紗を解き、薄紙に包んだお札を風見に差し出す。受け取ると風見光一はしずしずと前に進み出た。

「昨日のご参拝の際に、こちらのお札をお渡しするのを忘れておりまして……」
「まあ、わざわざありがとうございます」

 グレースはほっそりした両手でお札を受け取り、しみじみと眺めた。それから、ややためらいながらも口を開いた。

「あの……一つ、お聞きしてもよろしいですか?」
「はい、どうぞ」
「このお札は何のお守りなのですか?」
「それは、安産祈願です」
「アンザン?」
「元気なbabyが生まれるようにって言うお守りデス!」
「ああ……そうだったんですね!」

 グレースの顔にほっと安堵の笑みが広がる。
 ゴードン氏が神社の参拝の理由をどのように彼女に伝えていたかはわからない。しかしながら彼は妻に心配かけまいと必死だった。だとすれば。
 夢のガーディアンにお参りした……とは、伝えていない可能性が高い。それほど悪夢に深刻に悩まされているのだと、妻に気取らせてしまうから。
 それに、嘘はついていない。両親の安全を守ることは、広義の意味で安産祈願でもある。
 大らかなかつ柔軟な解釈に基づき、安産のお札を持参したのだが……ベネット家を訪れた本当の目的は直接グレースと対面し、夫妻の家を見るためであった。

 幸いにも夢魔の被害はグレースには及んでいなかった。
 しかし、ゼロではない。目をこらすとやはりゆらゆらと水に揺れる藻のような影がまとわりついているのがわかった。
 風見がお札を手渡す時に送った念のおかげで精神的な疲労は和らいだようだが……まだまだ予断は許されない。

「あら?」
 
 ふと、羊子は玄関の壁に目をとめた。
 縦にすらりと青い色が揺らぐ。最初は水槽でも置いてあるのかと思ったが、ちがっていた。空の青から海の青、そしてさらなる深い緑へと、微妙に変化してゆくグラデーション。海と空が織り込まれた薄い、しなやかなタペストリー。
 美しい、けれど怖い。見つめれば見つめるほど、糸で織られた海はゆらめき、さざめき、渦を巻き、すうっと意識が奥底に引きずり込まれそうになる……。

(引き込まれてどうする。しっかりしなきゃ!)

「わあ、きれい。ひょっとしてこれ、手織りですか?」
「はい。私が糸をつむいで、染色しました」
「織ったのも、ご自分で?」
「いえ、それは……………」

 グレースは目を伏せ、きゅっと左手を握った。

「友人が………」

 うつむきながら右手で薬指に光る銀色の指輪をなでさすっている。

「アメリカの?」
「え、ええ………向こうの。彼女は良い友人でした。とても、とても」

 微妙な『間』。含みのある物言い。それに応えるようにゆらゆらと、グレースにまとわりつく『もや』がわずかに濃くなる。
 羊子は教え子二人に目配せし、首にかけた細い鎖に手を伸ばした。風見とロイもそれぞれ懐に手を入れる。

 りん!

 微かに鈴が鳴る。悪夢を祓う夢守りの鈴が大小合わせて三つ。三人の指先で鳴り響き、一つの音色に溶け合った。
 その刹那。
 おぼろな影は散り散りに弾き飛ばされ、床に落ちる。すすーっとこぼれた水銀のように床面を走り、壁を上り……
 吸い込まれて行った。
 
 青いタペストリーの中に。

(見得た)

「あの……奥さん」
「はい」
「あのタペストリー、もう少し近くで拝見してもいいですか」
「あ、ど、どうぞ」

 三人は玄関の壁際に歩み寄り、しみじみとタペストリーを観察した。
 今はただの布にしか見えない。ついさっきはうねり、渦を巻く水面に思えたのに。
 そう、触れればそのまま捕まり、引き込まれそうな深い海に……。

(惑うな。迷うな。するべきことをしなければ)

「………」

 改めて間近に見ると空にはカモメが一羽、飛んでいるのがわかった。くっきりと浮かび上がる白い翼は、つややかな絹糸で施された刺繍だった。さらにタペストリーの右下に刺繍がもう一ヶ所……こちらは文字だった。

(S.A……イニシャルか?)

 深く息を吸うと結城羊子は瞳を閉じ、意識を滑らせた。現つから夢へ。あらゆる物が動きを止めたもう一つの時と空間の中、彼女は袖の中から鈴をとり出した。赤い組み紐の先に揺れる小さな金色の鈴。
 タペストリーをつり下げる糸に組み紐を絡め、裏側に垂らす。
 あからさまに護符を貼り付ければ、さすがに目立つ。発覚した時に怪しまれ、即座に剥がされてしまうだろう。しかし、何の変哲もない小さな鈴なら……まず気付かれない。何より、呪術的な意味合いを気取られる可能性はぐっと低くなる。
 鈴の位置を整えてから、羊子は集中を解いた。
 途端に現実の音と気配が戻ってくる。

「このカモメ、刺繍なんですね」
「はい……生成りの絹糸を使いました」
「ああ、だからこんなにつややかなんだ」
 
 何喰わぬ顔でうなずき、つつましく後に下がる。

「それでは、これでおいとまいたします」
「ありがとうございました」

 
 ※ ※ ※ ※

 
 ベネット家を辞してしばらく歩く。ある程度離れてから、羊子がぽつりと言った。

「とりあえず、悪夢の侵入口は塞いだ。いつまでもつか、わからないけれど」
「大丈夫ですよ、先生。俺、いざとなったら、鈴を頼りに飛びます!」
「ボクも、いざとなったら壁抜けして!」

 にまっと羊子はほほ笑み、教え子たちの肩をたたいた。

「頼んだぞ、風見。ロイ」
「はいっ」
「ハイ!」
「んじゃ、帰るか………っとと、あっ」

 いきなり小さな体がバランスを崩し、段差を踏み抜いたようにがくっと傾く。白い袖が。緋色の袴が翻り、なめらかなふくらはぎがあらわになる。
 とっさに風見とロイは目をそらした。

「あ」
「しまった!」

 びったん! 

 派手な音に我に返った時は既に遅く。結城羊子はものの見事に路面に突っ伏していた。

「いったぁあ……」
「大丈夫ですか、先生!」
「あ、ああ。これぐらいなら、大したことない」

 ずれた眼鏡をかけ直し、乱れた髪をかき上げる。すりむいた手のひらも、ひねった足首も、ちょいとこすればもう元通り。

「珍しいな、先生がこけるなんて……あ!」

 足下を見て、合点が行く。草履の鼻緒がぷっつり切れていた。

「あーあ……」
「何で、切れるかな」

 羊子はじとーっと目を細め、うらめしげに草履を脱ぎ、片手でぶらさげた。

「ちゃんと新しいの履いてきたのに」
「そう言うこともありますよ」

 風見は慣れた手つきで懐から手ぬぐいをとり出し、口にくわえてびっと細く引き裂いた。

「貸してください」
「あ、ああ……ありがとう」
「ロイ、先生を頼む」
「OK」
「おわ」

 ひょいっとロイに支えられる。

「意外に力あるんだな、お前」
「鍛えてマスから!」

 一方で風見は裂いた手ぬぐいを紐状にし、切れた鼻緒の代わりに穴に通した。

「器用だなあ、風見」
「じっちゃんから教わりました。庭で稽古してる時、しょっちゅう下駄の鼻緒、切ってましたから……」
「すごいや、コウイチ!」
「いや、俺にしてみればロイの方がすごいよ」

 風見はしみじみと親友を称賛のまなざしで見つめた。

「お姫さまだっこで微動だにしないなんて!」
「……うん、それ、私も思ってた」

 ロイは履物を失った羊子を軽々と両腕で抱きかかえていたのだ。

「おじい様の教えです。ご婦人を支える時は、お姫さまだっこ以外に選択肢はないと!」
「ハリウッド式か!」
「ハイ!」
「さすがだな、ロイ!」

 誇らしげに胸を張りつつ、ロイはちょっぴり切なかった。

(どうしてボクの鼻緒が切れなかったんだろう……)


 ※ ※ ※ ※


 神社に戻ると、大鳥居の前で背の高い黒服の男が待っていた。

「お帰りなさい」
「ただいま」
「……おや?」

 三上蓮は羊子の足下に目をやり、首をかしげた。

「どうしたんですか、それ」
「ああ、うん、帰り道で鼻緒が切れちゃってさ」
「おや、それは大変でしたね。お怪我はありませんか?」
「ん、もうないよ?」
「それは何より……ああ、お昼ご飯の仕度、できてますよ」
「わーい、もーおなかぺっこぺこ!」

 土曜日から羊子とロイ、風見の三人は神社に泊まり込んでいた。
 その方が九時間の時差のあるサンフランシスコと連携が取りやすいし、何よりベネット夫妻の家にも近いからだ。
 正月に引き続き、事件解決までは合宿状態。当然、月曜日は三人そろって神社から通学する予定である。

(寝てもさめてもコウイチと一緒だなんて……一緒に通学して、一緒に帰ってきて、ご飯も一緒だなんて。ああ、夢のようだ!)

 悪夢事件解決のためだとわかっていても、ロイはあふれる喜びを噛みしめずにはいられなかった。
 ひっそりと。あくまで心の中で、ひっそりと。

 
 ※ ※ ※ ※
 

 火曜日の早朝。
 9時間の時差を超えて、サンフランシスコのランドールとサクヤから報告のメールが届いた。

「シモーヌ・アルベール……S.A。タペストリーのイニシャルと一致する」

 社務所のパソコンでメールを開き、じっくりと目を通してから三上はうなずいた。

「確かにこの写真の女性でしたね。ゴードンさんにまつわりついていた蛇女は」
「その言い方やめて……」

 羊子が顔をしかめる。

「ああ、これは失敬。苦手でしたね、蛇」
「そーよ。巳年の年賀状も、蛇革のベルトも鞄も上着も、沖縄のサンシンもハブ酒もだめ!」
「……あれって、飲み終わったら『具』はどうするんでしょうね」
「やめてーっ」

 風見とロイの背後に隠れ、涙目でじとーっと三上をにらみつける。

「失敬失敬。もう言いません」
「うー……」
「ひとまず、レジストコードを付けておきますか。メデューサ……いや、メリジューヌとでも」

 風見が首をかしげて問いかける。

「メリジューヌ?」
「ええ。フランスの伝承に語られる、腰から下がヘビの姿をした水の妖精です」
「フェアリーですカ」
「いいかもね」

 抑揚のない声で羊子が応える。

「愛する人に裏切られ、永遠に半ばヘビの姿でさまよう女。ぴったりだ」
「本当に、そう思いますか?」

 三上はずいっと身をかがめ、赤いフレームの奥の瞳をじっと見つめた。まばたきをして、視線をそらされる。

「ああ、やはり。自分の言葉に納得してませんね」
「……参ったなあ。お見通し?」
「はい」

 がっしりした骨組みの手のひらが、小さな肩を包む。

「言ってください。どんなに些細な疑問でも。違和感でも。私たちは決して軽んじない。真剣に聞きますよ……他ならぬあなたの言葉なのですから」
「……うん」

 こくっと小さくうなずくと、羊子はぽつりと言った。

「小泉八雲の怪談で『破約』って話があるの、知ってる?」

 かいつまんであらすじを語ると、こうだ。

 とある武士の妻が病にたおれ、今際の際に懇願する。「決して後妻をめとってくれるな」と。
 夫は約束したが、彼らの間に子はまだなかった。親戚や同僚から『再婚しろ』『子がいなければ家が絶える』と責められ言いくるめられ、やむなく後妻を娶る。
 すると亡き妻の死霊が現れ、後妻を惨たらしく殺した。
 体が朽ち果ててもなお、死霊の手はカニのように引きちぎった後妻の首をかきむしり、ずたずたに引き裂いてしまった。
「ひどい話だね。なぜ彼女は約束を破った男を恨まなかったのだろう?」八雲の問いかけに友人が答える。
「それは殿方の考えです」

 語り終えると羊子は小さく息をついた。

「訳本によってはこの『友人』を『彼』と訳しているけれど、実は女性だったんじゃないかなって思うんだ……」

 きょとん、とした表情で風見とロイは首をかしげた。

「えーっと、つまり?」

 ああ。やはり通じないか。
 羊子はひょい、と眼鏡の位置を整えると顔を上げ、きっぱりと言い切った。

「恋人をとられた女が祟る時、その対象は本人じゃなくて、新しい相手だってこと!」
「そう言うもんなんですかねえ……」

 三上さんまで……
 いや、いや、無理もない。
 この人だってまだ二十代、しかも独り身なのだ。どろどろした女の情念に疎くとも致し方ない。

「そーゆーもんよ」
「何故?」

 あまりに素直な少年の問いかけが、すうっと胸に染み透る。あらゆる防御壁を通り抜け……癒えきらぬ傷を貫いた。

(まだ好きだから)

『ずるいよ、カル……こんなことしても………どうせ、テリーの方が好みなんでしょ?』
『そうだよ』
『っ!』

(あの時、一瞬テリーのことをねたましいと思った。憎らしいと思ってしまった)
(彼のせいじゃないって、わかっていたのに……感情が理性のコントロールを振り切った)

 恋しい、愛しい、憎らしい、恨めしい。表裏一体なんて単純に割り切れはしない。入り交じり境目はあまりにも曖昧。

 ぎりっと奥歯を食いしばる。噛みつぶした言葉の苦味がじっとりとのどの奥に広がり、浸透してゆく。
 無理やり唇の端をひっぱりあげて、さばけた笑顔と声を取り繕った。

「それだけ、去ってった相手への執着が強いってことでしょ?」
「なるほど。ではそーゆーもんとして話を進めますが、であれば憑かれたのがゴードン氏であるのはいささか奇妙ですね?」

 ほんの少しためらってから、羊子はこっくりとうなずいた。

「本当に不倫関係にあったのだとすれば、グレースさんの方に憑いているのが妥当でしょう。つまり……」

 三上はさりげなく視線を滑らせ、奇妙なほどに落ち着いた横顔を見据えた。視線を感じた彼女がこうべを巡らせ、こちらを見る。その瞬間をとらえ、じわり、と言葉を進めた。

「メリジューヌが本当に執着しているのは、グレースさんの方……と見ていますか?」

 息を飲む気配が伝わる。どうやら、的を射貫いたようだ。

「その方が、自然だと思うの」
「そうですね。あの時の『返せ』もこれで繋がります」

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【ex10-9】喪失の痛みは重なり歪み

2010/04/25 16:39 番外十海
 
 火曜日の朝。
 サンフランシスコのランドール紡績本社ビル。その最上階でシンシアはまたしても信じられない光景を目にした。
 昨日一日なら、たまたまとか気まぐれとか。あるいは年に一度の珍事で済ませることもできただろう。だが、まさか二日連続で社長が自分より早く出勤しているなんて!
 しかも、またしても熱心にパソコンに向かっている。

「やあ、おはようシンディ」
「おはようございます」
「早速ですまないが、濃いコーヒーを一杯入れてもらえるかな。ブラックで」
「いつものお茶ではなく?」
「ああ。カフェインが欲しい気分なんだ」
「かしこまりました。少々お待ちください」

 首をかしげつつシンシアは簡易キッチンに向かい、コーヒーを入れた。

「お待たせいたしました」
「ありがとう」

 カップを置きながらさり気なく画面に目を走らせる。よもや私的な目的で会社のパソコンを使っているとは思いたくないが、一応、念のため。
 画面上には一人の社員のデータが呼び出されていた。ぽってりと官能的な唇に青緑の瞳、波打つ長い黒髪の……女性。少なくとも個人的な趣味で眺めている訳ではなさそうだ。が。

「あら、この娘は……」

 ぴくっと耳を動かし、ランドールは顔を上げた。

「知りあいかい?」
「いえ、2、3度すれ違っただけです。うちの社員だったんですね」
「ってことは会ったのは社の外なんだね?」
「ええ」

 そう言って、美人秘書は艶然とほほえんだ。サンゴ色の唇からちらりと白い歯がのぞく。

「可愛い子は、忘れませんから」

 ピン、ときた。シンディがそんな表情をすると言うことは。
 シモーヌ・アルベールは同性愛者だ。彼女が愛するのは女性だ!
 霧に閉ざされていた視界がさっと晴れ渡り、知り得た情報の意味ががらりと変わる。わずかに感じていた違和感が消え、全てがあるべき位置に収まった。
 ランドールは素早く立ち上がり、美人秘書の手をとると、うやうやしく口付けた。

「……ありがとう、シンディ。君の有能さに改めてほれぼれするよ!」
「え?」

 シモーヌとグレースは学生時代からの親友ではなく、仲むつまじい恋人同士だったのだ。
 既に二人が一緒に部屋を借りていたことは調べがついている。
 休日は、二人で一緒にファーマーズ・マーケットにクラフトショップを出店していたと言う。
 グレースが糸を紡ぎ、染色し、シモーヌは布を織る。二人で一つの作品を作る時間は、恋人同士の濃密な甘い語らいの時でもあったに違いない。
 しかし、グレースは男性も女性も同じように愛せる人間だった。ランドール紡績に入社後にゴードンと出会い、魅かれて……プロポーズを受け入れた。
 女である以上、シモーヌ・アルベールはグレースと正式に結婚することはできない。愛しているからこそ二人を祝福し、これからはよき友人であろうと心に決めた……かつて自分がひっそりとアレックスの結婚を見守ったように。
 失われた恋の記憶が共鳴し、夢魔への怒りがふつふつと沸き起こる。厳しい表情で口元を引き締めると、ランドールは秘書にしばらく席を外すように命じた。

「大事な電話があるんだ」
「………」

 青い瞳に強靭な意志の力がみなぎっている。目を合わせているだけで、見えない流れにぐいぐいと押されるような心地さえする。気迫に飲まれ、シンシアは理由を問うこともできずにうなずいてしまった。

「かしこまりました」

 ドアが閉まる。
 ランドールはおもむろに携帯を開き、電話をかけた。

「Hello,サリー?」
「ランドールさん。何かわかったんですね?」
「ああ……色々とね。我々はとんだ見込み違いをしていたようだ。シモーヌ・アルベールと恋愛関係にあったのは、ゴードンではなくグレースの方だったんだ」
「えっ?」
「別に驚くことではないよ。我が社では同性愛者はそれほど珍しくはない。ここはサンフランシスコだし、私自身が就任当時からゲイであることを公表しているしているからね」

 手短に、かつ要領良く。ビジネスの時と同じくらい、いや、ひょっとしたらそれ以上の的確さでランドールはサリーに己の知り得た情報を伝えた。

「彼女たちは、自分から積極的にカムアウトはしていなかったようだが……頑なに隠してもいなかった」

 夢魔の行動基準は寄生した宿主の抱く秘かな欲望によって決まる。宿主の願いを叶えると見せかけて、より深く食い入り、吸い取るために。
 何故、彼女が心の中に歪みを生じ、夢魔を巣くわせるに至ったか。
 狩人は識らねばならない。識らねば夢魔を追いつめ、根源から断つことはできない。

「シモーヌ・アルベールは、子どもの頃に妹を地震で失った。彼女と親交のある社員たちはそう信じていたが、事実はちがっていたんだ」
「……記憶を夢魔に書き換えられたんですね」
「ああ。君の言う『現実の侵食』が起きていたようだ」

 夢魔は人の記憶と認識を歪ませる。真実を歪め、己の作り出した『現実』を割り込ませて行く。
 最初は宿主の周囲の人間から。侵食の範囲が広まるにつれ、本来の現実は希薄になって行く。やがて限界を超えた時……悪夢が現実に取って代わるのだ。

「シモーヌの実家はオークランドだ。1989年10月17日に、サンフランシスコのロマ・プリータ地震を体験している」
「今25歳だから……8歳の時、ですね」
「ああ。あの地震の事は私もよく覚えているよ……」

 それまで安全だと信じていた自分の世界が崩れ去り、根底から覆される恐怖。ニュース番組で繰り返し報道された崩落したベイ・ブリッジの映像は、幼いランドールの記憶に強烈に焼き付いた。

「だが、奇妙なことに、ロマ・プリータ地震の犠牲者の名簿に、彼女の妹に該当する少女の名前はないんだ。彼女の両親も、遺族会には参加していない」
「よく、わかりましたね」
「顔はそれなりに広いからね。それに、私はシモーヌ・アルベールの雇用主なんだ」

 夢魔による現実の侵食は、まだ宿主の周囲の人間の記憶を書き換えるのにとどまっている。
 彼女から離れた所にあり、認識の薄い公的な記録を書き換えるのには至らなかったのだ。

「シモーヌには確かに妹がいる。だが、その子は地震のあった日は、サンフランシスコにいなかったんだ。1987年に両親が離婚して、母親は妹を連れて北欧に移住していたんだよ」
「そんなに、遠くに?」
「ああ。もともと母親は北欧出身だったらしいね」
「それじゃあ、シモーヌさんの妹は、地震で亡くなったんじゃなくて……」
「両親の離婚で生き別れになったんだ」

 夢魔はその記憶を、より悲惨に書き換えた。
 恋人だったグレースと、妹。現在と過去、二つの喪失の痛みが混在し、あいまいになり……奪った者=ゴードンへの憎しみを増長する。

「俺の方でもお知らせすることが」
「何だい?」
「ゴードンさんたちの住んでいた近所で聞き込みをしてみたんですけれど……シモーヌさんは執拗に二人に付きまとっていたらしいです」
「そんな事までしていたのか」
「はい。夜遅くに、じっと外に立って中をのぞき込んで、無言電話をかけたり。捨てられたゴミをこっそり持ち帰ったり。グレースさんが外出する度に、後をつけていた、とも」

 サリーの情報源はホモ・サピエンスのみに留まらない。
 犬や猫、そして鳥、もちろんリスも。動物たちは実に率直に己の見たまま聞いたまま、人間たちの行動を語ってくれた。

「ストーカーそのものじゃないか。ベネット夫妻は警察には相談しなかったのかい?」
「……おそらくは」

 少しずつ、彼女は歪んでいたのだろう。夫妻のよき友人を演じている間にじわじわと……。
 夢魔に侵食され、次第に常識を逸脱してゆくシモーヌから逃れるため、ベネット夫妻は日本への移住を決意したのだ。

「だいぶ、見えてきましたね」
「ああ。では、この事を君からヨーコたちに伝えてくれるかい?」
「いいですけど……」

 どうしてランドールさんは自分で電話しないんだろう。

『意外に似てないんだな、と思ってね』

 あんなこと言うくらいなら、直接、話せばいいのに。
 よーこちゃんはよーこちゃんで、最初に連絡してきたときに「カルに伝えてね」なんて言ってたし。
 二人とも何って言うか……

「素直じゃないなあ」

 思わず日本語でつぶやいていた。ランドールがあっけにとられた声で問い返してくる。

「What's?」
「いえ、何でもありません。それじゃ、また」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

 水曜日、午前0時。

「……うん、わかった。ありがとう」

 サンフランシスコのサクヤからの電話を受け、結城羊子は即座に風見とロイ、三上を招集した。深夜ではあったが3人は速やかに寝床から起き上がり、着替える間も惜しんで居間に集った。

「確定したな。ナイトメアに寄生されているのは奥さんの元恋人シモーヌ・アルベールだ」
「海を隔てても『恋人を奪った男』への憎しみは尽きなかった、と言うことですね」
「返せ、って言うのはMrs.ベネットのことだったんだ」
「確かに恋人本人じゃなくて相手に祟ってる……」
「見事な洞察力です、結城さん」
「う、ううん。そんなんじゃないよ」

(私も、同じ……だから)

「ひゃっ」

 懐の携帯が震える。良くない知らせだと開く前に分かった。

「どうしたの、サクヤちゃん」
「シモーヌさんが無断欠勤してる。これから、すぐにランドールさんと彼女の家に向かう」
「OK。気を付けて」

 羊子はきりっと表情を引き締め、一同を見渡した。

「サクヤちゃんとカルがレミング(夢魔の宿主)の確保に向かった。ただちにドリームダイブの準備に取り掛かる。OK?」
「はい!」
「御意」
「では、仕度して来ます」
「私もちょっくら水浴びてくる」

 羊子は足早に風呂場に行き、しゅるりと紐をほどいて寝巻きを脱ぎ捨てた。
 本来なら奥の泉に行きたい所だが、あいにくと時間が無い。手おけに水を満たし、浴びる。冷たい水が肌に触れ、ゆらいでいた意識がはっきりと定まった。
 
 為すべきことは一つ。
 夢魔を狩り、人を救え。


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【ex10-10】黒い涙は止めどなく

2010/04/25 16:40 番外十海
 
 サンフランシスコ、火曜日、AM9:00。
 ランドールとサリーは、車でバークレーの住宅街の一角に急行した。白い玄関ポーチに小さな芝生、レモン色の壁。お菓子のように愛らしく、エンピツみたいに縦に細長い小さな家。

「ここですね」
「ああ、ここだ」

 かつて若い恋人たちが仲むつまじく暮らした愛の巣。そして今、残されているのは思い出と……シモーヌ・アルベールただ一人。
 玄関のポーチに上がり、呼び鈴を鳴らす。

「おや?」

 ………応答無し。
 さらに数回呼び鈴を押し、ノックもしてみたがやはり答えは無かった。

「ここには居ないのかな……」
「いや……待て」

 ランドールは意識を集中し、自らの意識をスライドさせた。現実と重なり合うもう一つの世界へと。
 街路樹を鳴らす風の音、道路を行き交う車の音、枝の上で鳴き交わす鳥の声。周囲の色と音、空気の流れ。あらゆる感覚の波長が変わり、分厚いアクリル板を間に挟んだように、もわっと霞む。
 サリーの目にはその間、現実のランドールの姿に夢の中のイメージが重なっているように写る。
 黒いマントをまとい、青白い顔の口元から鋭い犬歯をのぞかせた、吸血鬼めいた姿が。
 
「む……」

 青い瞳が閉じられ、わずかに尖った耳がぴくり、と動く。

 ガシャン、ジャッ、バタン。ガシャン、ジャッ、バタン……

 聞き慣れた音がした。ランドールにとっては極めて身近な音。
 織り機だ。何者かが布を織っている。
 しかし奇妙なことに。機械仕掛けの自動織り機のごとき早さでありながら、あまりにその音は不規則で、背後に紛れもなく人の息遣いを感じた。いや、それどころか鬼気迫る気配を感じる。まるで髪を振り乱し、狂わんばかりの勢いで全力疾走しているような……。

 集中を解く。
 霞んでいた現実が再び戻って来る。

「彼女は中に居る。だが、既に『普通の』状態では無さそうだ」
「急がないと!」

 ドアノブに手をかけると、さしたる抵抗もなく、がちゃりと内側に開く。鍵はかかっていなかった。
 二人は無言で中に入った。玄関ホールの壁には、海を織り込んだつづれ織りが飾られていた。

 ガシャン、ジャッ、バタン。ガシャン、ジャッ、バタン……

 織り機の音を頼りに廊下を奥へと進む。ドアは開け放たれ、戸口は幾重にもつり下げた布でふさがれていた。のれんでもない。ロールアップスクリーンでも、カーテンでもない。ただ闇雲に布をぶらさげ、外界とのつながりを遮断しようとしている。
 ランドールは手を伸ばしてざっと布を払いのけ、奥へと進んだ。サリーが後に続く。

「これは……」
「まるで、巣穴ですね」

 そこは、庭に面した日当たりの良いリビングだった……本来ならば。
 大きなガラス張りの窓の前にはドアと同じく幾重にも分厚く布がつり下げられ、ふさがれていた。壁も、床も、家具の上も、あますところなく布、布、布。
 布を積み上げ、広げ、張り巡らせた薄暗い部屋の中には、湿っぽい生き物の匂いが充満していた。
 巣穴の中央には、まるでグランドピアノのように織り機が鎮座し、ひっきりなしに新たな布を吐き出している。
 今この瞬間も、猛烈な勢いで。

 織っているのは黒髪の女。この寒いのに薄い黒いローブを一枚羽織ったきり。
 長い髪を振り乱し、一心不乱に手を動かし、足で踏む。上下に別れた縦糸の間に、目にも留まらぬ早さでシャトルをくぐらせ横糸を通し、リードでがしゃん、と手前に打ち込む。その繰り返し。
 織られている布は、最初のうちこそ美しい青色をしていた。だが次第にどす黒く変色している。
 青から鈍いブルーグレイ、ついには灰色、鉛色へ。今、手元で織られている部分はほとんど真っ黒だ。
 彼女の指先からぽたり、ぽたりと黒い雫が滴り落ち、織りかけの布を染めてゆく。
 糸の青を、黒く濁らせる。

 サリーに目配せするとランドールは慎重に歩を進め、穏やかな声でゆっくりと話しかけた。

「シモーヌ?」
「だ……れ……」

 機を織る手は休めずに、シモーヌはろれつの回らない口調で返事をした。

「カルヴィン・ランドールJr。君の雇い主だよ」
「しゃ……ちょ……う?」
「そうだ」
「な……ぜ……?」
「君が心配なんだ。今日、だまって会社休んでしまっただろう? 普段は真面目な君が……」
「……も……いいの……会社にいっても、あの子はいないもの」

 ぽとり、とまた黒い雫が指先から滴り落ちる。暗がりに慣れた目がようやく、雫の出所を突き止めた。
 顔だ。
 シモーヌの顔からとめどなく黒い雫が流れ、肩から腕へと伝い落ちているのだ。着ているローブも、元から黒かったのではない。裾の方に本来の白さが残っている。

(危険だ。すぐに止めさせなければ!)

 ランドールはさらに一歩、また一歩とシモーヌに近づく。彼女は相変わらず見向きもせずに一心不乱に織り続けている。
 その後ろ姿を見て、ふと違和感を覚えた。
 おかしい、写真の彼女の髪の毛は肩を覆う程度の長さだった。だが目の前のシモーヌの髪はさらに長く伸び、床にまで広がっている……。
 さらに近づく。もう少し。手を伸ばせば、彼女の肩に触れる。

 その時、気付いた。

(これは髪の毛ではない。影だ!)

 その瞬間。床を這う髪の毛がぶわっと生き物のようにかま首をもたげ、ランドールに巻き付き、締め上げた。

「うっ」
「ランドールさん!」

 ねっとりと湿り気を帯びた糸の束が手に、足に、胴体に、首に絡みつき、ぎちぎちと容赦なく締め上げる。
 しかも先端は釣り針のように尖り、顔や手足の皮膚を掻きむしっている。

「く……うう」

(落ち着け。攻撃してくると言うことは、実体があると言うことだ……)

 シモーヌが、ばっと立ち上がり、振り向いた。青緑の瞳は真っ赤に充血し、とめどなく黒い涙が流れ落ちる。

「ひ……あ……あ……」

 ぎくしゃくと口を開き、絶叫した。泣き叫んでいるのか、それとも笑っているのか……。

「あー、あー、あー、あーーーーーーーーーっ、い、いひぃ、あーーーーーーあああぅううううぃーーーっ」
「シモ……ヌ………」

 確実なことが一つある。彼女は、苦しんでいる。

(止めなければ)

 ランドールの指先からぱらぱらと小さな粒が落ちた。床に転がり、芽吹き、トゲをまとった蔓となる。
 一本、二本と絡み合い、すんなりと彼の手のひらに収まった。くっと拳を握るやいなや、ランドールは無造作に茨の鞭を振るった。

 ざん!

 絡みつく黒い糸が切れ切れに飛び散る。まるで飴細工打ち砕いたように、あっけなく。
 床に飛び散り、水銀みたいにころころ転がり、凝縮して行く。

 ぞろり。
 髪に溶け込んでいた影が全て集まり、一つになった。
 それは、上半身はシモーヌ・アルベールそのものの美しい女の姿をしていた。ただし、額にころん、と丸みを帯びた小さな角状の突起が生えている。
 美しい緑色の瞳は絵の具で描いた人形の目のようだ。うすっぺらで立体感がまるでない。見えているのかすらも定かではない。
 そして、腰から下は巨大な水蛇だった。びっしりと真珠のきらめきをまとった鱗に覆われたその姿は、背筋を逆なでされるほど美しい。
 サリーがかすれた声でつぶやいた。

「メリジューヌ……」

 ずるり、と真珠色の蛇体がくねる。両腕を広げ、夢魔(ナイトメア)はじりじりとランドールの前に立ちはだかり、のびあがり……覆いかぶさった。

「む」

 茨の鞭を振るい、迎え撃つ。確かに横になぎ払ったはずなのに……
 ランドールの一撃は夢魔の体を素通りし、髪の毛一筋ほどの傷もつけられない。まるで流れる水を通り抜けたような感触だった。
 からかうようにメリジューヌは後ろに反り返り、ゆらり、ふらりと体を左右にくねらせる。

「くっ……どうなってるんだ」

 唇がめくれあがり、ちらりと尖った歯が覗いた。笑っている。いや、あざ笑っている。

「ランドールさん、下がって!」

 とっさに横に飛び退き、道を空けた。

「神通神妙神力、加持奉る!」

 ぱしん、と華奢な手のひらが打ち鳴らされた刹那、サリーの体からパリっと青白い光が立ち上り………電光一筋走り抜け、真っ向から夢魔の体を貫いた。

「キッシャアアアアアアアアア!」

 じゅうっと蒸気を発すると、メリジューヌの体は一瞬で崩れ去り、ばしゃり、と床に広がる。

「ごぼっ、ぐぷっ、う、けほっ」

 崩壊した夢魔は一塊の黒い水となってシモーヌの口に流れ込み、完全に姿を消した。
 まるでフィルムの早回しを見ているようだった。最後の一滴が消えると同時にシモーヌの体から力が抜け、がくりと崩れ落ちる。
 素早くランドールは駆け寄り、受け止めた。

 ……軽い。
 げっそりとやつれ、やせ細っている。一体どれほどの間、彼女は織り続けていたのだろう。己自身の命を。魂を削りながら……。
 
「ランドールさん」

 涼やかな声に名を呼ばれ、はっと我に返る。

「急ぎましょう。彼女を助けないと」
「ああ……そうだったね」

 サリーはてきぱきと用意してきた道具をとり出した。小さく切った和紙、塩の詰まったジップロック、お神酒を満たしたボトル。

「シモーヌさんを、そこに」
「わかった」

 横たえたシモーヌを囲むように東西南北の四隅に塩を盛り、お神酒を注ぐ。次いでランドールと共に結界の中に立ち、携帯を取り出した。

「準備できたよ、よーこちゃん」


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【ex10-11】歪な記憶は眼を塞ぎ

2010/04/25 16:41 番外十海
 
 日本、綾河岸市、午前1:00。
 静まり返った境内に、玉砂利を踏む音が響く。一つ、二つ、三つ、四つ……鳥居の前に集合する。

「お待たせしました」
「よし、全員そろったな」

 一番軽い足音の主がくるりと振り返り、一同を見渡した。
 風見とロイは学生服。それぞれ愛用の日本刀とニンジャ道具を携えて。
 羊子は白衣に緋袴の巫女装束に身を包み、三上は神父服の上にベージュのトレンチコートを羽織っている。
 いつも背負っている十字架は左手に。
 横木のすぐ下を握り、いつでも引き抜けるように身構えて……明らかに武器とわかる持ち方をしているのは、本来の用途を隠す必要がないからだ。

「どうしたの、そのコート」
「今回の相手は水妖ですからね。一応、濡れてもいいようにと思いまして……まあ、気休め程度ですが」
「あー、だったら私も傘持って来れば良かったかな……いっそ水着とか?」
「いいですね、夏ならば」

 真顔で軽妙なやり取りを交わしつつ、悠々と本殿へと向かう。そんな大人二人に、風見とロイはひそかに感嘆した。
 社殿の扉の前には神職の装束をまとった人影が三人、厳かな面持ちで待っている。
 一人は神社の宮司であり、羊子の父でもある結城羊司。左右に控える二人の巫女のうち一人は羊子の母藤枝、今一人はサクヤの母桜子だ。それぞれ榊の枝と幣(ぬさ)を手にしている。

「……それでは、行ってまいります」
「気をつけて」

 扉の前で一礼。履物を脱ぎ、中に入って再度一礼する。
 羊子、風見、ロイ、そして三上。四人が中に入ると、背後で静かに扉が閉ざされた。
 それまで外とつながっていた空間が、不意に小さく区切られる。
 音と気配は内側にこもり、ほんの小さな息遣いさえ壁に、天井に反響し、大木の枝を鳴らす風よりもなお大きく、はっきりと聞こえる。
 扉の外で、ざざ、ざらり、としめ縄を張る気配がした。狩人たちが悪夢を祓い、再び現に戻るまで扉の開くことはない。
 この社殿そのものが、結城神社と言う大きな結界の中に作られた、もう一つの小さな結界なのだ。

 しかしながら海を越え、夢魔の待ち受ける夢の中に跳ぶには二重の結界に守られてさえ、大きなリスクが伴う。

(こんな大掛かりなドリームダイブは初めてだ……)

 風見光一はいつになく緊張していた。平常心を保とうと勤めても、どうしてもちらっと先生の顔を……始めて夢の中に跳ぶことを教えてくれた人の横顔を見てしまう。

(あ、目が合った)

 まばたき一つすると、羊子先生はにまっと笑った。いつもと同じつるりと愛らしい少女のような顔に、どこか不敵さをにじませて。
 あまつさえ右手をぐっと握り、親指を立ててサムズアップまでしている!

(……そっか。いつもやってるように、やればいいんだ)

 肩から力が抜け、全身の強張りが解けたような気がする。大きく深呼吸すると、風見は自分からもサムズアップを返した。

 羊子は小さくうなずき、再び正面に向き直る。左手の指を右手の上に重ね、背筋をピンと伸ばしてすっ、すっとすり足で祭壇の前に進み出る。
 立ったまま、深々と二礼。身を起こして両手のひらを胸の前で合わせる。しかる後右手をわずかに下方にスライドさせ、一呼吸置いてから手を打ち鳴らした。
 パァン……パァン……。
 張りのある、小気味よい音が響く。
 おもむろに羊子は神前から、一本の軸を中心に環に連ねた鈴を縦に三段、ピラミッド状に重ねた鈴……神楽鈴を取り上げ、うやうやしく両手でささげ持つ。

 一礼して後ろに下がった丁度その時、懐の携帯が鳴った。

「準備できたよ、よーこちゃん」
「OK。行くよ」
「はい!」
「御意」
「いつでもどうぞ」
 
 わずかなタイムラグの後、海の向こうから二人分、返事が返ってくる。
 
「うん」
「Yes,Ma'am」

 しゃらりん。
 3連の輪に連なった金色の鈴が鳴る。悪夢を祓い、やすらかな眠りを守る『夢守りの鈴』。祈りを込めた音が成る。

「掛まくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に」

 リィ……ン。
 サンフランシスコでは、サクヤが携帯のストラップに下げた小さな鈴を鳴らし、詠唱を重ねる。

「禊祓へ給ひし時に成り座せる祓戸の大神等 諸々の禍事 罪 穢有らむをば」

 リ、リィ………ン。
 ランドールの胸元から澄んだ音が響く。十字架に添えられた鈴が、ひとりでに鳴り始めたのだ。

「祓へ給ひ 清め給へともうす事を」
「祓へ給ひ 清め給へともうす事を」

 海を越えて二つの声が一つに溶け合う。

「聞し食せと 恐み恐みもうす………」

「神通神妙神力……」

 鈴の音が互いに呼びあい、共鳴し……遠く離れた二つの空間を結び、重ねる。

「加持奉る!」

 リ、リィン……。

 つかの間、風見たちは見た。分厚く張り巡らされた布の合間から漏れる、かすかな昼の光を。
 サクヤとランドールは、しん……と静まり返った畳敷きの部屋を感じた。
 アメリカと日本。遠く離れた昼と夜が交じり合い、境目が揺らぐ。

 リン!

(落ちる!)

 大切な人が、落ちる。
 手のひらをすり抜け、まっすぐに落ちてゆく。
 絶望に満ちた目で見上げ、私を呼ぶ。
 どんなに手を伸ばしても届かない。そのまま、足下からすとんと暗い水に吸い込まれた。消えてしまった。
 二度と取り戻せない。
 名前を呼ぼうにも咽が詰まり、声が出ない。封じられた叫びは内側にこもり、荒れ狂い……

 心臓を真っ二つに引き裂いた。

「っ」

 がくり、と落ちる感覚が止まり、青空が広がる。まぶしい太陽の光、赤レンガの広場、そして四角い時計台。
 頭上には高々とヤシの木がそびえ、葉擦れの音が聞こえる。
 見えるものは全て全体的に黄緑が強く、いくら目をこらしても微妙にピントも合わず、ぼやけている。

 そして、彼らは共に居た。
 まるで古びた写真にも似た、あり得ざる景色の中で。

「あ……」

 あの人に会ったら何て言えばいいんだろう。
 どこを見れば良いんだろう。いろいろ思い、悩んだけれど実際に彼の姿を見たら、憂いも悩みもどこかに消し飛んでしまった。
 ただ、今、そばに居ることが嬉しい。間近にあるサファイアブルーの瞳を見上げているだけで、胸の奥がほろほろと温かくなる。

「ヨーコ……」

 離れる日々が重なれば重なるほど、君との絆が希薄になるような気がしていた。
 ひょっとしたら、もう失われてしまったのではないかと恐れていた。
 ああ、だけど今、目の前にいる君は……

「っ、カル?」

 手を握るだけのつもりだった。けれど指先に彼女の確かな温もりを感じた瞬間。たまらず引き寄せ、抱きしめてしまった。
 すっぽりと、目の覚めるように赤い裏地の黒いマントの内側に包み込む。

「会いたかった」
「………私も……」

 ささやく声。胸に響くかすかな振動。
 確かに、彼女はここにいる。
 ここに、居るんだ……。

「あー、その」

 こほん、と誰かが咳払いした。
 青いニンジャスーツのロイは、珍しく現実世界と同じレベルのシャイさを発揮し、頬をかすかに赤らめつつあらぬ方角に目を向けている。
 浅葱の陣羽織を羽織った若武者姿の風見に至っては、完全に背を向けていた。
 サクヤは羊子とそろいの巫女姿。にこにこと静かにほほ笑み、見守っている。
 そして、トレンチコートを羽織った神父が一人。視線がかち合うとおもむろに一歩踏み出し、一礼した。

「そろそろ、よろしいですか?」
「はい、Father!」

 聖職者の姿に、条件反射でランドールは居住まいを正した。名残を惜しみつつも腕を緩めると、羊子は自分からするりと抜け出していった。

(あぁ……)
 
 あと五秒。いや、一秒でいい。離れずにいたかった。
 迷いを振り切るように、羊子は顔を上げ、きびきびした口調で告げた。

「カル、こちらは三上蓮。神父さんなの。三上さん、彼がカルヴィン・ランドールJrよ」
「お目にかかれて光栄です、Mr.ランドール」

 三上神父は左胸に手を当て、丁寧に一礼した。

「お噂はかねがね」
「お恥ずかしい。まだまだ未熟もので……」

 神父と吸血鬼は礼儀正しく握手を交わした。その時になってようやく、風見とロイは声を出すことができた。

「何だかここ、見たことがあるなぁ」
「とってもアメリカっぽいネ! この青空といい、建物の作りとイイ!」

 サクヤが答える。

「フェリービルディングだよ」
「本当だ、あの時計塔、まちがいないでゴザルよ! でも、どうしてここに出たんだロウ?」
「思い出の場所だから……かな」

 ランドールが後を続ける。

「恋人だった頃、シモーヌとグレースは毎週土曜日、ここで開かれるファーマーズマーケットにクラフトショップを出店していたんだ」

 羊子は目を伏せ、ぽつりとつぶやいた。

「……布を?」
「ああ」
「グレースが紡ぎ、シモーヌが織った」
「そうだ」

 ベネット家の玄関に飾られていたタペストリーを思い出す。空の青から海の碧へと連なるグラデーション。縫いこめられた白いカモメ。

「シモーヌさんの部屋には、彼女の織った布があふれていた」
「青い布?」
「うん。部屋中一面に敷き詰めてあった。まるで思い出を守る巣穴みたいに」
「そう………」

 サクヤは話した。
 ナイトメアに憑かれたシモーヌが、一心不乱に命を削りながら布を織り続けていた事を。真っ黒な涙を流し、青い布をどす黒く染めながら。

「胸が痛みますね……」

 厳かに十字を切ると、三上はさりげなく一歩ランドールに向けて身を乗り出し、ささやいた。低い声でぼそりと、彼にだけ聞こえるように。

「あなたですね。結城さんを泣かせた色男というのは」
「ユウキ………?」

(はて、誰のことだろう?)

 目をぱちくりさせて首をかしげ、真顔で考え込んでいる。三上は秘かに舌打ちした。

(しまった、ファーストネームで呼ぶのがあちらさんの流儀でしたっけ……それにしても、ここまで天然だったとは)

 どうやら変化球は通じないらしい。作戦を変更した方がよさそうだ。

「Missヨーコのことですよ。何やら愛の伴わない行為をされた、と聞き及んでおりますが」
「っ!」

 一瞬、ランドールはぎょっと青い瞳を見開いた。深く、深く息を吸い、ゆっくりとまばたき一つ。

「その、通りです。Father」

 キスへの言い訳、理由付けはもはやチャーリー相手に出尽くした。この期に及んで何を言っても逃げになる。素直に認めるしかない。

 泣かせた、と彼は言った。

(彼の前で泣いたのか、ヨーコ?)

 いつも凛としている君が。時にもろく、か弱い面も見せる。だがそれは、あくまで自分の前なればこそ、と思っていた。

(私とキスした時の事も……このFatherに話したのか)

 告解室で打ち明けたのかとも思ったが、そんな事はあり得ない。神父が告解を漏らすはずは無い。
 だとしたら……

「つかぬ事をお聞きしますが、神父様」
「何でしょう?」

 ちらり、とヨーコの後ろ姿に視線を向ける……まばたきよりも短い間。サリーとコウイチ、ロイと熱心に話している。
 きりっとした横顔には、いささかの迷いもないように見えた。

「彼女とは……ヨーコとは、いったいどのようなお知り合いなのですか?」

 言ってから気付く。分かり切ったことを聞いてしまった。ハンター仲間、それ以外に何があると言うのか。

「んー……先輩と後輩、と言った所ですかね?」

 予想は裏切られた。どうやら、単なるチームメイトではないらしい。

「以前、同じ人に師事していたんですよ。その縁で、今は結城さんのご両親のところでご厄介になっています」

 自らの名を聞き留めたのだろう。ヨーコがひょい、と神父の背後から顔をのぞかせる。

「よく言う。久々に会ったらころっと忘れてたくせに!」
「あれは忘れてた訳じゃありませんよ。最初に会った頃とは見違えるように可愛くなっててわからなかっただけです」

 神父は肩越しに振り返り、彼女にほほ笑みかけた。

「ちゃんと後でわかったじゃないですか……和尚に『メリィ』って言われたからですが」
「だーかーらーメリィちゃん言うなっつーとろぉがああ」
「私は『ちゃん』まではつけてませんよ……っと」
 
 頭から突っ込んでくるヨーコを神父はコートを翻し、闘牛士さながらにやり過ごした。実に鮮やかな手際だ。

「そっちこそ『あの事』をころっと忘れていたくせに」

 身をかわしつつ、さらりと言ってのける。

「わーったったたった、それは無し、言わないでーっ」

 効果てきめん。ヨーコは真っ赤になっておろおろ、右往左往。一体、何があったのか。

「あの事?」
「ああ、大したことじゃありません。メリィちゃんはね。初めて会ったとき……」
「すとっぷ、すとーっぷ!」
「私に、プロポーズしたんです」

(そうか………そうだったのか……)

 ようやく合点が行った。先刻の彼の言葉の意味。愛の無い行為と断じた理由も。
 なるほど。意外な所に伏兵が居た、と言う訳か。
 年上で、中々に頭の切れる人物と見た。ヨーコに言いくるめられないだけの器量も。守るだけの腕も備えているようだが、果たして生涯の伴侶としてはどうだろう?

「つまり……その……」

 いささか年が離れすぎてはいないか? それに、彼はカトリックの神父だ。本来なら生涯、独身を通すはずの身ではないか!

「しかし、Father……あなたは、クリスチャンではありませんか?」
「問題ありません、日本ではキリストもお釈迦様も等しく八百万の一柱扱いですよ? 結城神社さんは女系で、今の宮司さんも婿養子ですからねえ」
「みーかーみーっ!」

 暴れヒツジの突進をするりとかわし、再度向き直る頭を手のひらで軽く押さえてしまった。
 押さえ込まれて近づけず、ヨーコは手足をじたばたさせるばかり。

「くーっ、はーなーせーっ」
「はい、どうぞ」
「わっ」

 急に手を離され、前につんのめる体をぽふっと受け止めている。ランドールは苦笑しつつ差し伸べた手で空をつかみ、引っ込めるしかなかった。

「おや? 景色が変わりましたね。潮の香りが強くなった」
「ふぇ?」

 いつしか青い空には濁った鉛色が混じり、沖合から冷たい風が吹き始めていた。

「ここは……どこなんでしょうね?」


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【ex10-12】あり得ざる橋は崩れ

2010/04/25 16:42 番外十海
 
 霧が出ていた。
 透明な水の中にミルクをほんの少したらして、かきまぜる。すっかり混ざりきる直前の、ほわっと漂う淡い白が、視界を覆っていた。
 それほど濃くはない。だが、距離が離れるにつれて次第に白が厚く塗り重ねられ、やがて見えるものは全て霧の中に飲み込まれて行く。目をこらすと空気中を漂う細かい水の粒が見える。
 吸い込むと、強く海のにおいがした。

「ここは……」

 ハンター達は橋の上に居た。海の上にかかる、長い長い吊り橋の途中に。前にも後ろにも橋は伸び、来し方も行く末も霧に閉ざされている。どこまで続くのか、見当もつかない。

 それでも、橋そのものの形状は容易に見て取ることができた。
 土地勘のある三人がいち早く気付く。

「ベイブリッジだな」

 ランドールの言葉に羊子はうなずき、すっと行く手を指さした。

「そうね。あっちがオークランドで」

 サクヤが背後に視線を向ける。

「こっちがサンフランシスコだね」
「でも、変ね、この比率」
「ああ。橋が、いささか大きすぎる」
「……そうか……これ、子どもの視点なんだ!」

 その言葉に応えるようにして目の前の霧が分かれ、子どもが二人現れた。小さな女の子だ。どちらも十歳にもなっていないだろう。

「おねえちゃん、つかれたよ」
「大丈夫よ、マリエ。おねえちゃんが手を引いてあげるからね」
「はやくおうちに帰りたい」
「もう少しよ。この橋を渡れば、すぐだからね」

 黒い髪のおねえちゃんと金髪の小さな妹。おそろいのワンピースを着て仲良く手をつなぎ、トコトコと歩いてゆく。
 サクヤは目をこらし、少女の横顔にまごう事無きシモーヌ・アルベールの面影を認めた。

「あれは……シモーヌさん?」

 がくんっと橋が揺れる。

「あっ」
「うわっ」

 ぐらん、ぐらんと足下が波打つ。ついさっきまであれほど強固に自分たちを支えていたはずの橋が……ぐにゃりぐにゃりと上下にくねり、かと思えばぼこんとへこむ。まるで生のパン生地だ!
 立っていられない。

「くっ」
「むっ」

 とっさに男性陣は踏ん張り、持ちこたえる。だがサクヤと羊子は地面に倒れ、ころころ転がって行く。

「サクヤちゃんっ」
「よーこちゃんっ」

 かろうじて二人で手をとりあう。投げ出された足に風見とロイが飛びついた。

「先生っ」

 寸での所で二人の体はがくん、と引き止められた。サクヤの足が片方、橋の手すりから空中にはみ出した状態で。

「風見くん、ロイくん!」

 三上の手の中に不意にロープが現れる。空中で2、3度振り回して勢いを付けると、少年たちめがけて投げた。
 
「かたじけない!」

 すかさずロイが受け取り、風見とサクヤ、羊子の体に巻き付けた。

「Mr.ランドール、手を貸していただけますか?」
「Yes,Father!」

 二人がかりで引き寄せる。

「もう少しです、がんばって!」
「……っせいっ」

 凍りついたソリを引っ張る橇犬もかくやと言う勢いで、ランドールはロープに体重をかけ、ぐいっと引っ張った。

「わ」
「ひゃっ」

 ずるりっ。
 凄まじい勢いでロープがたぐりよせられ、四人の体が引き戻される。
 一同がそろった所でロープは細かい光の粒となり、霧散して消えた。

「さんきゅ、助かった!」
「危ない所でしたね……しっかりつかまって」
「う、うん」
「ありがとうございます」

 ビシ。
 ビシ、バシ、ビキっ!

「何だ、この音は」
「あ、アレをっ」

 ぐらん、ぐららんと上下にくねり、波打つ路面に耐えかねたか。
 橋を支えるワイヤーがねじれ、たるみ、その直後にピンと引っ張られ……切れる。
 
「橋が……落ちる!」
「危ないっ」

 轟音とともに橋が崩れ落ちる。崩壊の中心は、まさしく幼い姉妹の歩いている場所だった。

「きゃーっっ」

 甲高い悲鳴があがる。小さな妹の体が地面に叩きつけたゴムまりのようにバウンドし、空中に投げ出された。

「おねえちゃーんっ」
「マリエ!」

 伸ばした手の指先をすりぬけ、妹が落ちてゆく。絶叫が遠ざかり、姿が小さくなり……
 遥か足下に広がる暗い海面に、すうっと飲み込まれてしまった。

「お願い、お願い、妹を助けてっ」

 幼い姉が泣き叫ぶ。髪の毛を振り乱し、こちらに向かって両手を伸ばした。

「たすけてーっ!」
「今行く!」
「待て、風見、ロイ」

 身を乗り出す少年の肩を、小さな手が押さえた。

「何故でござるっ」
「これは夢魔の作った偽りの記憶だ」

 しっかりと地面を踏みしめ、結城羊子が立ち上がる。

「思い出せ。シモーヌ・アルベールの妹はロマ・プリータ地震で死んではいない」

 三上もまた身を起こし、首を左右に振った。

「そうと分かっていても、目の前で落ちる少女を救おうと、とっさに体が動いてしまう。あざといやり口ですね……」

 空中に左手を延ばし、くっと握る。手の中に使い慣れた仕込み十字架が現れる。

「実に、許し難い」

 鯉口を切り、すらりと抜き放った。黒木造りの十字架から、ぎらりと銀色の刃がこぼれ落ちる。

「シモーヌ・アルベール。聞きたまえ」

 ランドールは一歩前に踏み出し、英語で呼びかけた。雇い主である彼の声が届いたのだろうか。ぴたり、と橋の揺れが止まる。
 静まり返った霧の中、朗々たる声が響く。

「君の妹は。マリエは、地震が起きた1989年はアメリカには居なかった。離婚した母親と一緒に、北欧に渡っていたんだ」

 真実を暴き立てられ、少女はあどけない顔をくしゃり、と醜く歪ませた。

「ちくしょう。ちくしょう、ちくしょう!」

 静かにサクヤが言葉を続ける。

「それにね。ベイブリッジは、自動車専用の橋だよ。徒歩では、渡れない………」

 すっとサクヤは手を伸ばし、ぐるりと指し示した。
 崩れた橋を。
 眼下に広がる暗い海を。

「これは、夢魔の紡いだ偽りの夢」

 羊子が言葉を繋ぐ。

「シモーヌ・アルベール。あなたの妹は、生きている。それが、真実」
「ちくしょう! あんたたちなんか、嫌いだ……」

 ぶわっと幼いシモーヌの髪が伸び、広がる。

「だいっきらいだあ!」

 一瞬で少女の体が膨れ上がり、ナイトメア『メリジューヌ』に姿を変えた。
 
 100322_0320~01.JPG
 illustrated by Kasuri
 
 女の上半身と水蛇の下半身、コウモリの翼。全身くまなく美しい真珠色、だがその目だけは、黒い布が幾重にも巻き付き、ふさがれている。

「返せ! あの子を返せぇええ!」

 泣き叫ぶ声は黒い水と成り、狩人たちめがけて迸る。渦巻く激流が襲いかかってきた。

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【ex10-13】そして滅びの波が来る

2010/04/25 16:43 番外十海
 
 逆巻く激流が迫る。波しぶきに至るまで漆黒の、うかつに視れば奥底に、誘い呑まれる渦が来る。

(………あ……)

 刹那。
 瞬きよりも短い間、羊子は渦に見入っていた。戦況を見通し、導く司令塔としての役目を忘れていた。

「ここは、私が」
「っ!」
「手伝って」 
 
 三上の声に我に返り、慌てて彼に念を送る。
 間に合うか。間に合って。自らの犯した過ちを打ち消すのに……。
 5人の手から淡い光のラインが伸びる。五筋の光が三上の手のひらに結晶し、輝く。

「Light on!」

 両手の中に巨大な火球が出現し、真っ向から夢魔の放つ激流とぶつかった。

 獣の悲鳴にも似た音が響き、もうもうと蒸気が噴出した。湿った熱風が髪を、衣服を吹き流し、頬を撫でる。火球と互いに打ち消しあい、一瞬にして黒い水撃は蒸発した。
 ただ、わずかに水の威力が上回っていたものか。名残の奔流が三上を襲う。

(ここで避ければ後列に当たる。持ちこたえられるか?)

 腹をくくり、足を踏ん張る。だが。

「風よ舞え!」

 びゅう。
 疾風一陣走り抜け、空気の壁が水を弾く。
 砕かれた水撃はぱらぱらと、細かな水滴となって飛び散った。

「風神流……《旋風陣》」
「お見事」
 
 ぱちり、と風見は刀を収め、兄弟子に軽く目礼を返した。
 吹き散らされた黒い水しぶきは、海の匂いがした。浴びた瞬間、夢魔の絶叫に重なりシモーヌの声が聞こえた。音ではなく、直に頭の中に響いてきた。

『もう終わりにしなきゃいけない。あきらめなければ……』
『祝福しなきゃいけない。あの二人を祝福しようって決めたのに。決めたはずなのに!』
『頭で理解していても、感情が納得してくれない。収まらない、苦しい!』
『お願い、こっちを見て。私を忘れないで。置き去りにしないで。私を抜きにして、幸せになんかならないで……』
『返せ! 彼女を返せ!』

 それは、あまりに生々しい感情だった。意識をそらそうとしても、今の己の中に共に震え、応える物が確かにある。
 羊子はぶるっと頭を左右に打ち振り、右手を前に伸ばした。

「終らせてあげる……」

 手の中にちかっと金色の光が瞬き、瞬時に形を変える。夢の外側から、愛用の中折れ式の小さな拳銃……ダブルデリンジャーが呼び出される。グリップに走る斜めの傷。握りしめるとざらりと手のひらに当たる。

「終わりにしよう、シモーヌ」

 狙いをつけ、引きがねを引いた。

「おおおおおあああああああああ!」

 チュイ……ン。
 放たれた弾丸は、水蛇の鱗を弾いてあらぬ方へ。

(外れたっ?)

 動揺する羊子めがけて、蛇の尾がびしりと叩きつけられる。慌てて放つ二発目が夢魔の体に食い込むが、止めるほどの勢いはない。

(間に合わないっ)

 赤が閃く。鮮やかな色が目に染みる。
 ざんっ………。

「……あ……」

 守られていた。黒いマントの内側にすっぽりと包まれて。恐る恐る目を向ける。
 そしてメリジューヌの蛇体は、がっきと交叉する二振りの刃に阻まれていた。

「く……」
「む……」

 見交わしもせずただひゅうっと呼気のみを合わせ、風見光一と三上蓮は流れるような動きで刃を振るい、ぐいっとばかりに夢魔を押し戻した。
 食い込んだ刃が引き戻され、メリジューヌの体にすっぱりと鋭い傷が刻まれる。

「ひぃいいあああああああっ」
『お願い。私の憎しみを止めて!』

 のたうつ真珠の蛇体めがけ、どかかっと一列にクナイが突き立った。鉄の刃が深々と食い込み、ごぼっとどす黒い血が噴き出す。

「サクヤ殿、今でござる!」
「はい!」

 サクヤがぱしん、と両手を打ち合わせた。

「神通神妙神力……加持、奉る!」

 迸る雷光が、メリジューヌの体に刺さったクナイに『落ちる』。バチィンと、轟音が空を叩いた。

「あ……あ……ああああっ」

 びきびきと夢魔の美しい顔が縦にひび割れ、ばくっと割れた。
 その下からより禍々しい顔が現れる。角はより大きく捩れ、尖った歯がガチガチと耳障りな音を立てた。

「ああ、あ、あ、ひー………ぃあああううううううううう」
 
 100329_0058~01.JPG 
 illustrated by Kasuri

 ぽってりと官能的な唇は、鳴き叫ぶほどにめりめりと割れ裂け、耳元に達する。
 目を覆っていた黒い布の下からは、抉られて真っ赤に血が溜まり、肉のしたたり落ちる無残な眼窩が現れた。

「お……おお、おー、おー、おー………」

 鱗の色が変わって行く。美しい真珠色から、嵐の前の空の色。ずっしりと重たく冷たい灰色へ。しかも、一枚一枚がざわざわと逆立ち、鋭く尖る。己が胸を掻きむしる指先の皮膚が破れ、ぞろりと禍々しいカギ爪が生えそろった。

「崩れましたね。夢魔の障壁……」
「あ、ああ」

 羊子はそっとささやいた。小さな声で「ありがとう」。それだけ告げてマントをかき分け、外に歩み出す。
 優しい腕の主を振り返ることは……できなかった。

「ぐ、ご、が、おごぉっ」

 夢魔の変貌はまだ続いていた。次第に体が膨れ上がり、髪は長々と伸びて果てしなく広がってゆく。
 もはや上半身だけで15mはあろうか? だが、彼女の鱗は錆び付き、動くたびにぼろぼろとはがれ落ちている。
 メリジューヌは崩れながら巨大化していた。いつしか橋は消え、暗い海辺に変わっていた。履物を履いているにも関わらず、素足で湿ったコンクリートを踏むようなじっとりした嫌な湿気が足底を浸す。
 不吉な黄みを帯びた雲が渦まき、水平線の彼方へと凄まじい早さで流れてゆく。黒い海の水さえも引きずられ、見る見る海岸線が干上がる。

「くそっ、サイズが違いすぎる……」

 羊子はかすれた声でつぶやき、よろりと一歩後ずさった。灰色の砂にかかとがめり込み、白い足袋にじっとりと染みが広がる。
 這い登る嫌悪感に鳥肌が立った。

「反則だよ……こんなばかでっかいの相手に、どうやって戦えばいいんだ……」

 弱々しい声を聞きつけ、風見とロイはちらりと先生を振り返った。
 いつだって、先生は弱音を吐かない。どんな相手にも。どんなに不利な状況でも、不敵な笑みさえ浮かべて立ち向かう。
 時には皮肉めいたジョークの一つも交えつつ、活き活きと指揮をとってくれる。励ましてくれる。
 山羊角の魔女に子どもに変えられた時でさえ、それは変わらなかった……。

 その先生が、今、怯えている。戸惑っている。

(先生っ)

「しっかりなさい、メリィちゃん」

 のほほんとした声が、すとっと脳みそに突き立った。瞬時にかーっと熱いものが沸き起こる。

「メリィちゃん言うな!」

 条件反射。もはやパブロフの羊。気付いた時は、くわっと歯を剥いて三上に食ってかかっていた。

「何度言えば気がすむか、三上蓮!」
「……それでいいんです、羊子先生」

 笑ってる。瞼の隙間から穏やかなまなざしが見おろしている。

「……」

 自分が何者で。何を為すべきなのか。
 迷子になっていた『当たり前のこと』が、すうっと在るべき場所に収まった。

 かちりとデリンジャーを開き、空になった薬きょうを落とす。本来なら必要のない操作だが、手を動かすことでいい具合にスイッチが切り替わった。

「さんきゅ、レン。頭が冷えた」
「どういたしまして」

 深く息を吸い、整える。
 夢魔を祓う術は、正面からぶつかるだけじゃない。
 宿主にとって大切な人の記憶や思い出は、夢魔の障壁を崩す弱点となる。

(思い出せ。自分は既に視ているはずだ……夢に入る前に、彼女の最愛の人と会っているのだから)

 グレースの声、顔、髪、手、指先……。

(あ)

 見つけた。

「タペストリー……」
「あれかっ!」
「ソレでござる!」

 ぴくっと身震いすると、羊子は勢い良く顔を上げた。

「カル。サクヤちゃん。レン。しばらく集中する。その間、守って」
「うん」
「任せたまえ」
「……ありがとう」
「それでは、派手に行きましょうかね」

『かぁああええええせえええええ。がぁえええせ、かえぇゼ、かえせェええええ!』

 干からび、捩れた蝙蝠の翼がばさりと打ち下ろされる。あれで叩かれたらひとたまりもない。
 だがサクヤは静かに前に進み、さっと袖を打ち振った。

 ほとんど体を揺らさず、あたかも舞うような優雅な所作。だがその引き起こす稲妻たるや、すさまじい威力であった。

 ピシャァアア………ドォン!

 空を震わせ夢魔の翼を弾き返し、あまつさえ片方を木っ端みじんと吹き飛ばす。

『あーあぁぁああああ。痛い、痛い、いたいぃいいいいい!』

 メリジューヌは身もだえして泣き叫んだ。割れ裂けた口、ぞろりと生えそろう牙の合間から悲痛な叫びがほとばしる。抉られた眼窩から赤い涙が飛び散り、歪に尖った氷に変わり……降り注ぐ。
 ちかちかときらめく様は、さながら砕け落ちる窓ガラスの欠片。鋭い切っ先は一枚残らず、地面に立ちすくむちっぽけな標的を狙っている。
 だが、なまじ巨大に膨れ上がったのが災いした。氷の刃が地表に立つハンターたちに届くまでに、いささか間があった。
 その隙に三上が動く。

「そは我が炎に非らず。いと高き天より下る裁きの炎なり……」

 中世の修道騎士さながらに十字架剣を掲げ、祈りを捧げた。朗々たる詠唱の声に呼応し、剣の刃に沿って炎が燃え上がる。かすかに硫黄のにおいを漂わせて。

「Megid Flame!」

 目を開くや天突く火柱と化した剣を構え、無造作になぎ払った。
 燃え盛る炎は巨大な竜巻となり、天空高く巻き上がり……降り注ぐ紅蓮の炎が夢魔の放つ黒い雹を相殺する。
 生き物の体の焦げる、強烈な悪臭が漂った。

「Amen」

 口元にかすかな笑みを浮かべ、三上神父は軽く十字を切った。

「今だ、風見、ロイ、行け!」
「はいっ!」
「御意!」

 ロイが懐に入れた手を勢い良く突き出す。開いた拳の中から折り畳んだ紙が宙に飛ぶ。

「忍法、忍び凧(Ninja kite)!」

 くるりと翻ったかと思うと紙片ぱたぱたと開き……瞬く間に巨大な凧が出現した。白地に黒で真ん中に、一筆でかでかと『忍』の文字。
 あいにくとひし形の洋凧ではあったが、あくまでニンジャ凧。ひらりと飛び乗り、手をさしのべる。相手は言うまでもなく、唯一無二の相棒……

「コウイチ!」
「おう!」

 しっかりと凧に背を付け、横骨を握る。

「行くぞ、ロイ!」
「がってん、承知でござる!」
「風よ舞い上がれ、《烈風》!!」

 風見の巻き起こす風に乗り、ニンジャ凧は高々と舞い上がる。
 羊子は目を閉じ、両手をぱしぃん、と打ち鳴らした。

(思い出せ……あの日、あの家で見た物。聞いた事。話す声)

 合わせた手のひらの中に、ぽうっと淡い光が生じる。

『いぃいいやめろぉおおおお!』

 メリジューヌはきりきりと爪で己の胸をかきむしり、髪を振り乱す。群雲のごとき黒髪が襲いかかってきた。
 ぎゅるぎゅるとねじれ、不吉な音をたてながら迫る。
 今しも形を為そうとゆらめく、ちっぽけな光を打ち砕こうと……。

「生憎だが、Lady」

 ばさり。
 真紅の裏地をひらめかせ、黒いマントが翻る。
 ぱら……とマントの裾から小さな種が地面にこぼれ落ち、芽吹く。

「彼女には、指一本触れさせない」

 音も無く萌え出でる茨の壁は、意志を持った生き物のようにその身をくねらせ、黒髪をからめ捕る。

『く、う、あ……や……め……て……』
「聞けないな」

 ランドールは無造作に右手を振る。瞬時に茨の刃が黒髪を引きむしり、ずたずたに切り裂いてしまった。
 その間に、風見とロイを乗せた凧は巨大なメリジューヌの顔の辺りまで舞い上がっていた。

「……よし」

 我が事成れり。
 そ、と手を開く。
 花びらのように優しく膨らむ手のひらの間に、ぽう……と青い、小さな光が現れた。
 ふ、と唇をすぼめて吹く。くるくると回りながら青い光は糸の玉へと姿を変えた。

「風見! ロイ!」

 羊子の手から青い糸玉が飛ぶ。
 受け取る風見の手の中で糸玉は広がり、はらりと一枚の織物が出現した。鮮やかな青から優しく煙るブルーグレイ、目のさめるようなマリンブルーの深みへと連なるグラデーション。そして空の青のただなかに、白く縫い込まれたカモメが一羽。

 タペストリーだ。
 グレースが紡ぎ、シモーヌが織った空の青と海の碧。

「シモーヌさん、これ、覚えてるでしょう?」

 ぎょろり。
 真っ赤な眼窩が、風見を見据える。見えているのだろうか……いや、外見に騙されるな。既に目を塞ぐ黒布は破れた。
 見えているはずだ。

 風になびき、ひるがえった織物の一端をロイが受け止める。
 二人は見交わし、頷きあい、ざーっとタペストリーを左右に広げた。
 青い布はくるくると広がり続ける。かすかに輝きながら、くるくると。開ききってもまだ止まらない。広げるほどに拡大し、より鮮やかさを増してゆく。
 やがて実際の大きさをはるかに超え、メリジューヌの目の前に広がった。

「お、おお……」
「海に悲しい記憶しかないのなら、こんなきれいな青は織れない。思い出してください。海は、あなたの妹を奪ってなんかいない……」
「ゴードン殿も、グレース殿を奪ってなどいないのでござる!」
「おおおおおおっ!」

 確かに彼女には見えていた。
 メリジューヌの額がごぽり、と波打ち、シモーヌの顔が。首が。肩が浮かび上がる。

「今だ!」

 抜きざまに切りつけた風見の一撃が、乾涸びた顔を切り裂く。すかさずロイはシモーヌの肩をつかみ、渾身の力で引きずり出した。

「忍法……火事場のくそ力ぁあああっ!」

 ず……ずぶぶぶ……じゅるり……

「WOOOOOOOOOOO!」

 ずぼっ!

「やった!」

 夢魔の体からシモーヌの体が分離した。すかさず風見は風を繰り、遠ざかる。宿主を失い、メリジューヌは一気にミイラ状に干からびた。

『ひぃいいいあああああああああああああああああああ!』

 頬がこけ、骨の上に干からびた皮が貼り付き、髑髏の形を浮かび上がらせる。眼窩は黒く落ちくぼみ、ばらばらと鱗がはがれ落ちる。
 崩壊する一方で黒髪はなおもその艶とかさを増し、広がってゆく。伸びて行く。
 ねっとりと濃密な生き物の臭気が立ちこめていた。
 鼻腔に侵入し、のど奥にまとわり居座る……女の髪のにおいが。

『別れた恋人が幸せそうだと、ムカつくのよ!』

 干からびたメリジューヌの体表にいくつもの口が生じていた。ぱくぱくと動き、叫び、歯を食いしばる。きしらせる。

『あの人は私と別れて不幸になった。そうとでも思わなきゃ、自分が惨めで仕方ないじゃない!』
『私と別れた人たちが……私の居ない所で幸せになるのが我慢できない。許せないのよぉおお!』

「何だ……これ………」
「コウイチ、アレを!」

 果てしなく広がる黒髪は海へと変わっていた。
 地面が鳴いていた。空気が鳴いていた。
 そして、水平線の彼方から、滅びの波が来る。
 せり上がった漆黒の海面が壁となり、押し寄せる。風見光一は腹の底が冷えるような戦慄を覚えた。

「津波だ!」

『あーははははは、あーはははははははは、死ね、死ね、皆死ねぇえええっ』

 断末魔の夢魔は、自らの崩壊に狩人たちをもろとも巻き込むつもりなのだ。
 サクヤが叫ぶ。

「急いで、離脱して!」
「わかった!」

 ねっとりと粘りを帯びた空気が見えない手となり、逃すまいとまとわりつく。だが、振り払うのは容易だ。
 そのはずだった。

『あなたは私と同じ……』
「っ!」

『ずるいよ、カル……こんなことしても………どうせ、テリーの方が好みなんでしょ?』
『そうだよ』

 羊子はほんのわずかに動きが遅れた。その「ほんのわずか」が致命的だった。
 背後に漆黒の壁がそそり立ち……振り向くより早く、崩れ落ちる。

 サクヤ、風見、ロイ、三上、そしてランドール。
 悪夢から離脱し現実の空間にシフトしかけた5人の目の前で、羊子は波に呑まれ、消え失せた。

「…………………………っ!」

 叫んでも、聞こえない。声が、音にならない。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 がくん、と段差を踏み抜いたような衝撃とともにランドールは目を開いた。
 布で閉ざされた部屋。結界の中には横たわるシモーヌ・アルベール。

「う……」

 すぐ隣でサクヤが起き上がる気配がした。
 舌の上にいやな苦みが。耳の奥に鈍い衝撃が残っている。この感覚は覚えがある。夢から強制的に弾き出されたのだ。

「大丈夫か、サリー」
「ええ……俺は…………っ!」
 
 続く叫びは完全に日本語に戻っていた。それでもすぐに分かる。誰を呼んだのか。誰を案じているのか。

「くっ」

 ぎりっと唇の端を噛む。尖った歯の先が皮膚に食い込み、かすかに鉄錆びの味が広がった。
 彼女がいるのは……いや、彼女の肉体が『ある』のは、海を隔てた遠い日本。

 しっかり握っていたはずの大事な人の手が、するりと抜け落ち、沈んでゆく。
 止められない。

「ヨーコ……」

 確かに手の中にあった存在が、今はどこにもいない。

to be continued……
後編に続く