▼ 【ex10-2】遥かなる青い瞳よ
何の夢を見たんだろう。
実体のない水をくぐり抜け、ゆるゆると浮かび上がる。身を包む灰色が薄れ、白い光に変わって行く。
意識を取り戻した瞬間、胸からのどにかけて苦い痛みが走り抜けた。出発点は、あるべきものがえぐり取られたようにぽっかり開いたうつろな穴。
いったいどれほどの間、自分はあの人と共に過ごしたのだろう……物理的な法則に従い、物質で構成されたこの確固たる現のただ中で。
数えればわずか1週間にも満たない。それなのに。
彼がそばに居ないことが今、何よりも寂しい。
「……っ」
身に付けたものをむしり取り、浴室にかけこんだ。
すりガラスの窓を開け放ち、朝の光を全身に浴びた。
冷気がぴりぴりと肌を刺し、皮膚の表面に細かい粒が浮かぶ。なだらかな傾斜を描く隆起の中央にぷちっと、鋭敏な感覚が凝り固まった。
蛇口をひねり、勢い良くシャワーを浴びる。
水音に紛れ、知らぬ間に彼の名をつぶやいていた。わずか二つの音節で構成される短い名の中に、十や二十では及びもつかぬ。百でも千でもまだ足りぬ、万感の想いをこめて。
「カル………」
今すぐ声が聞きたい。顔が見たい。サファイアよりも青い瞳を見上げて、波打つ柔らかな黒髪に触れたい。
わかってる。あの懐かしい坂の街は、はるか海の向こう側。
あなたは、あまりに遠い。
(だけど)
彼は、生きている。
窓越しに空を見上げた。ただでさえ小さな浴室の窓と生け垣に切り取られた、ちっぽけな青空を。
彼は生きている。遠いかすかな夢の中ではなく、今自分が見上げているのと同じ空の下で。
左の胸に手のひらを重ね、とくとくと脈打つ心臓を包み込む。
(進め、進め、前に進め。喪失の痛みに、追いつかれぬよう……)
風呂から上がると、携帯の着信ライトが点滅していた。つ、と手にとり開く。メールが一通届いていた。差出人は風見光一、高校の教え子だ。
(何かあったか?)
昨夜のあの幽かな夢は、ひょっとして……夢魔の蠢く予兆ではないのか。
口を引き結び、背筋を正してメールを開くと。
『今日はお弁当持たずに学校に来てください。久しぶりに外でお昼ご飯食べましょう!(^_^)』
「なぁんだ……」
ほにゃっと顔がゆるんだ。今日は土曜日、学校は午前中で終る。いつもなら昼食をとり、そのまま『部活』(と称した訓練)に入る所なのだが。
「いいでしょう……」
くすくす笑いながら、羊子は携帯を置き、はらりと体に巻いたバスタオルを取り去った。
ラーメンぐらいなら、おごってやろっかな。クリスマスから正月にかけて、あの子らすごーくがんばったものな。
「……うん。餃子もつけちゃうぞ」
※ ※ ※ ※
「それじゃ、みんな、気をつけて帰れよ。また来週!」
そして、放課後。
てきぱきと帰り支度を整えて校門に向かうと、既に風見光一とロイ・アーバンシュタインが待っていた。
「よっ、お待たせ」
すちゃっと片手をあげて駆け寄った。
「お待ちしてまシタ」
「何食う? 昇竜軒のラーメンか? それともファミレス? ハンバーガー? お好み焼き?」
「あー、それが、ちょっと遠出しようかと思いまして……」
「へ?」
「よきお店を見つけたのデ、是非、ヨーコ先生をお連れいたしたく!」
「はぁ……」
これはちょっぴり予想外。いい店見つけたから、お連れする、だなんて。
「まるでデートだな」
「What's?」
「えっ、いや、俺はそんなつもりじゃなくてっ」
「わーってるって!」
ころころと笑いながら羊子はんしょっと伸び上がり、ばしばしと教え子どもの背中を叩いた。
「じゃ、行こうか!」
駅まで徒歩で15分。さらに私鉄で2駅下り、降り立ったのは通い慣れた綾河岸の駅。
羊子とサクヤの実家であり、風見とロイがバイトをしている結城神社のある街だ。
「どこに行くのかと思ったらまあ……。まさかうちの神社で昼飯いただこうってんじゃあるまいね?」
「いえ、チガイマス!」
「こちらにどうぞ」
導かれるまま駅の北口に降り、舗装された道を歩きだす。その一角はかつては森林公園とは名ばかりの雑木林がうっそうと生い茂り、濁ったドブ川の流れるうら寂しい場所だった。
が。
今やかつてのドブ川は美しいせせらぎに姿を変え、水の流れに沿って赤レンガの遊歩道が続いていた。雑木林は一部を残して切り開かれ、水面にはキラキラと光の粒が踊っている。
「うわー、きれいになっちゃったなあ。昔はこの辺り、昼間も薄暗くってさ」
「そうなんだ」
「女の子は一人で歩いちゃいけませんって言われてた」
ずーっと昔ここで、ドブ川に飛び込んだ子がいた。沈みかけた段ボール箱の中で、にーにー鳴く子猫を助けるために。
ガラスの欠片でざっくり足を切ったけど、抱えた子猫を放さなかった。
『サクヤちゃん、怪我っ、怪我してるってば。どうしよう、血がっ』
『大丈夫、もう痛くない……あ、あれ?』
『え? あれれ?』
差し伸べた手のひらの下で、傷はきれいに消えていた。自分が何をしたのか、あの頃はまだ理解できなかった。
しばらく歩き続けると、沿道には真新しい住宅街が広がり始めた。
さらにひょいと曲って細い道に入って行くと……かつての雑木林を上手く活かして刈り整えた木立の中に、山小屋風のログハウスが一軒現れた。
「ここです」
「ふわぁ……」
羊子はぽかーんと口を開け、ログハウスをしみじみと観察した。
半分に切った丸太に、木を削った文字を組み込んだ看板が見える。『Café tail of happiness』
「信じられん。まさか綾河岸市に、こんなこじゃれたカフェができるなんて!」
「先生、先生」
「いくら地元だからって、それはあんまりなんじゃあ……」
「って言うか、君らがカフェ飯を選ぶってことにまず、びっくりだ」
「やった」
風見がガッツポーズをとっている。
「先生の意表をついた!」
「快挙だネ!」
「おいおい。小学生か、君らは……」
苦笑しながら入り口の階段を上り、「しあわせのしっぽ」のドアを開ける。
カランカラーン。
金属製のドアベルの音色に迎えられ、中に入ると……。
「っ!」
羊子は息を飲み、立ち尽くした。
あんなにも願い求めた青い瞳が、そこにあった。やわらかな黒い毛並みに縁取られ、優しく見つめている。
「あ……」
太いしっぽがばたん、ばたたん、とリズミカルにフローリングの床を叩く。エプロンをつけた、恰幅のいいヒゲの男性がほほ笑みかけてきた。
「いらっしゃいませ」
見回すと店内のお客は人間だけではなかった。椅子の脇、あるいはテーブルの下。床に敷かれたマットの上に控えるさまざまな大きさの犬、犬、犬。
大きいの、小さいの、その中間。ぴんと立った耳、たれた耳、半分たれた耳。もさもさ、ふわふわ、あるいはツヤツヤ。座ってるの、ねそべってるの、ひっくり返ってるの。いずれも飼い主の足下でご機嫌だ。
「ドッグカフェなんですよ、ここ」
「じゃあ……この犬(こ)は」
「看板犬のジャックくんデス」
がっしりした足。ふかふかの黒い毛皮。ぴんと立った耳。
そうだ、この犬は見覚えがある。正月に神社に来ていた。ご祈祷の最中にも青い瞳が頭から離れず、信じられないような失敗をやらかした……。
「そっか……あの時の……」
ヒゲのマスターはじっと羊子を見て、しばらく首をかしげていたが、やがてぽん、と拳で手のひらを叩いた。
「おや、だれかと思えばあなたは、結城神社の巫女さん」
「……はい、あの節はとんだ失礼を」
思いだしただけで、きゅーっと縮こまって頭を下げる。
「いやいや、お気になさらず。三名様ですか?」
「はい」
「店内とテラス席、どちらになさいますか?」
ちらっと羊子は青い瞳の黒いハスキー犬に視線を走らせる。
「……店内で」
「ではこちらに」
窓際の日当たりのよい席に案内される。椅子とテーブルは建物にふさわしくどちらも木製。さらさらしていて手触りが良く、椅子に腰かけるとほどよく体を包み込み、支えてくれる。
「あれ、この感じ……」
テーブルの表面をなでると、羊子はうなずいた。
「そうだね。レオンとマックスのとこの食卓と似てる」
しあわせのしっぽには、しあわせな食卓がよく似合う。
麻布張りの、絵本のような表紙のメニューを開いてのぞきこむ。
「何にする? 昼時だから、やっぱりランチセットか?」
「そうですね」
ランチの内容は『本日のパスタ』とスープにサラダとデザート。パスタは好みでオムライスかドリア、ピラフに変更可。そして、仕上げにお好みの飲み物を一つ。
「んー、んー、どれにしよっかな……すいません、この本日のパスタって今日は何なんですか?」
「イタリアンスパゲティです」
「え?」
「えーと……」
ヒゲのマスターはこりこりと耳の後ろをかいてから、ちょっぴり恥ずかしそうにほほ笑んだ。
「こちらに写真がありまして……はい」
「え、鉄板?」
「はい、鉄板です」
それは何とも不思議な料理だった。
ステーキ用の鉄板の上に、薄焼き卵に乗った、ケチャップ味のスパゲティが盛りつけられている。
具は薄切りタマネキにピーマン、そして赤いウィンナー。しかも、ご丁寧にタコさんの形になっている。
「わ、かわいい」
「えーっと、これはもしかして……ナポリタン?」
「はい、ナポリタンです」
「そりゃ、確かにナポリはイタリアだけど……」
「名古屋の伝統的な喫茶店メニューなんです。学生時代に向こうに住んでまして、よく食べてました」
「なるほど。イタリア料理じゃなくて、由緒正しい名古屋料理なんデスネ!」
ヒゲのマスターはぱちぱちとまばたきして、うれしそうに相好を崩した。
「……です!」
ランチは三人とも、イタリアンスパゲティを選んだ。
「何飲む?」
「俺は、アイスティーを」
「僕はホットコーヒー」
「私は、キャラメルラテ、ホットで」
「はい、かしこまりました。ランチセット三つ、本日のパスタで。お飲み物はアイスティー一つとコーヒー、ホットで一つ、キャラメルラテ、ホット一つですね」
「はい。あの……それで……」
こくっと羊子はのどを鳴らした。落ち着いて。普通に、普通に、さりげなく……。
「ご飯出てくるまで、ジャックくんと遊んでいてもいいですか?」
「はい、どうぞ! ジャック、おいで」
のっそりとハスキー犬が近づいてきた。
ふるふると震えながら羊子は椅子から降りて床に座り込み、そっと手を出した。
「うふっ?」
大きくて、長い鼻面が手のひらに押し付けられる。がっちり堅くて、鼻先がひやりと冷たい。
ぺろり、と幅広の舌で手をなめられた。
「ひゃっ」
わっさわっさと尻尾が左右に揺れる。触っていいよ、と言う合図だ。
「よしよし……いい子ね……」
頑丈な首筋の後ろを撫でると、ジャックは自分からぐいっと体をすり寄せてきた。
「きゃっ」
「あ」
よろけた羊子はとっさにジャックの首筋にしがみついた。風見とロイが支えるより早く。がっしりしたハスキー犬はびくともしない。うれしそうに尻尾を振り、ヨーコの顔をなめまわした。
「もぉ。力強いなぁ、君は」
「わふっ」
「んー……ふかふかしてる……」
銀色に縁取られた黒い毛皮にだきついて、もふもふと顔をうずめる。
「お日さまのにおいがする……」
うっとりする先生の姿を見て、風見とロイはほっと胸をなで下ろした。
(よかった、元気出たみたいだ)
(このお店に連れてきて、正解だったネ)
「よーこ先生ー」
「んー?」
視線がこっちに来たところで、カシャリと携帯で写す。
うん、いい絵が撮れた。幸せそうだ。
いつものようにメールで送った。一通はサクヤに。そしてもう一通は……。
※ ※ ※ ※
「………おや?」
とっぷりと日の暮れたサンフランシスコで、カルヴィン・ランドールJrは携帯を取りだした。この着信音は、コウイチからだ。
『犬カフェでランチしてます』
メールに添付された写真を見て、思わず顔がほころぶ。
ヨーコだ。大きな黒い犬にしがみついて、しあわせそうにほほ笑んでる。
「はは……大きな犬とくっついてると、本当に子どもみたいだな」
それはあくまで小さな画面の中の映像にすぎない。だけど、今、この瞬間、彼女の生きる時間のひとひらなのだ。
※ ※ ※ ※
「ふはーっ、ごちそうさまー」
デザートのチーズケーキまで、残さずぺろりと平らげてから(それでも先生の基準からすればかなり小食だったのだが)、羊子は満足げにため息をつき、くいっと口元をナプキンでぬぐった。
「卵と、スパゲッティのトマト味の組み合わせが、絶妙だった!」
「そうですね、まろやかって言うか、オムライス風?」
「懐かしい味だったネ」
「そっかー、アメリカにはミートボールスパゲティってのもあるしな」
「ハイ。アメリカのお袋の味デス」
トマトソースで煮込んだミートボールをスパゲティにからめて食べる。当然ながらイタリアンスパゲティ同様、イタリアには存在しない。
「えっと……」
もじもじしながら、羊子はまたちらっと看板犬ジャックに視線を向ける。
「もーちょっとだけ……」
「どうぞ」
「その為の犬カフェですカラ!」
「う、うん」
床に降りて、歩き出そうとした瞬間。
「う?」
携帯が鳴った。着信メロディは賛美歌103番 「牧人 羊を(The First Noel)」。この曲に指定してある送信者は一人しかいない。
「はい羊子」
「ああ、結城さん」
いつもと同じ、飄々と落ち着き払った声。だが、奥にぴしっと張りつめた糸のような気配を感じる。即座に羊子はスイッチを切り替えた。
ただならぬ空気を察したのだろう。風見とロイも居住まいを正し、表情を引き締めた。
「今、どこです」
「綾河岸駅北口の犬カフェ」
「ああ、じゃあ近いですね」
何故そこにいるのか? 何しに来たのか。質問は一切なし、即座に三上は必要なことのみ、簡潔に伝えてきた。
「夢守り神社に来てください。可及的速やかに」
そのひと言で全て事足りる。
素早く羊子は風見とロイと見交わし、うなずいた。
「わかった。すぐ行く」
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