▼ 【ex10-3】神父or神主?
犬カフェへの電話に先立つこと一時間余り。
三上蓮は神社を目指して綾河岸市のメインストリートを歩いていた。子ども時代を過ごした教会に赴き、育ての親でもある高原神父を訪ねての帰り道であった。
黒い詰め襟に白いカラーの神父服の上に、ライトベージュのトレンチコートを羽織り、背中に十字架を背負って歩く彼の姿はもはやこの界隈では誰も意に介さない。
それだけ馴染んでしまったと言うことだなのだろう。去年の年末から結城神社にとどまって既にひと月になろうとしている。
(宮司さんご一家のご好意に甘えて、すっかり長居してしまった……)
教会を訪ねた際、高原神父から空きが出たので神父として赴任してこないかともちかけられていた。
(そろそろ潮時、でしょうね)
(ああ、でも、一つだけ気掛かりなことが)
赤ずきん。
うさぎを抱えて森の中、今にも迷子になりそうな小さな『よーこ』。
サンフランシスコから帰国して以来、結城羊子は表面上はシャンとしているものの、時折、普段の彼女からは信じられないようなミスをやらかす。
それが、気掛かりの種だった。
(彼女はチームの司令塔だ。普段なら笑えるミスも、時と場合によっては命取りになりかねない)
(なまじ意志が強い人なだけにギリギリまで堪えて。限界を突破した瞬間、突然崩れてしまう恐れがある……)
どうしたものか。
いっそ、社長をそそのかしてはっきりさせてやろうか? きっちり終るにせよ。前に進むにせよ。
今の状態を長く続けるのは、あまり、よろしくない。だが、そうするにしても、今の自分には彼に対する伝手がない。
こればかりはメールでも電話でも心もとない。直接、顔を合わせて言葉を交わすのが一番、確実なのだ。
さて、どうしたものだろうか……。
考え込んでいると、不意に声をかけられた。適度に遠慮をしつつ、絶対の信頼をよせた声でひとこと。
「Father(神父さま)?」
神父さま。その響きに懐かしささえ覚える。思えばこの一月余りと言うもの、もっぱらこう呼ばれることの方が多かった。
『神主さん』、と。
「はい、何でしょう?」
話しかけてきたのは、30代とおぼしき男性だった。褐色の肌にカールのかかった黒い髪、がっしりした頑丈そうな骨組み。
おそらくアフリカ系か。こころなしか、厳つい肩を縮めてそわそわと落ち着きがない。かなり不安そうだ。日本語も、あまり堪能ではないらしい……来日して間も無いのだろう。
珍しいことではない。この服装で歩いていると、しょっちゅう外国人に道を聞かれる。神父服は万国共通の安全保証章なのだ。
「実ハ道に迷ってしまいまして」
「ああ、それはお困りでしょう。どちらに行かれるのですか?」
「ユメモリジンジャへ」
すうっと目を細める(元から細いが)
その名を口にすると言うことはすなわち、彼にとって必要と言うことだ。
長い長い石段を上った先の、こんもり茂った緑の森の懐奥深く、その神社は在った。
ひっそりと。
森の空気に溶け込むようにして、ひっそりと。
土地の神、龍の神、そして雷の神を御祭神にいただくその社は『夢守り神社』と呼ばれ、悪夢を祓い、すこやかな眠りをもたらすとして古くから近在の人々に厚く信奉されている。
普段は記憶の底に埋もれていても、必要とされる時には何故かふっと心に思い浮かぶ。
その名を代々の祭祀の一族にちなみ、結城神社と云う。
しかしながら、口伝の中の呼び名は地図上には記されていない。
「夢守り神社、ですか……」
「はい、そこに、夢のガーディアンがいると聞きました」
「ええ、悪夢払いの神社です」
「キリスト教徒でもいいんでしょうか」
「ええ、一向に問題ありませんよ。日本の宗教は懐が深いですから」
静かに胸に手をあてて、コートの胸ポケットに入れた聖書に触れる。
「ちょうど私も向かっている所です。ご一緒しましょう」
「アリガトウゴザイマス!」
男性を案内して結城神社に赴き、社務所に通した。わらわらと寄ってくる猫たちを、厳つい顔をほころばせて撫でていた。
「お茶をどうぞ」
「ありがとうございます……」
おそるおそる湯飲みをのぞき込んでいる。やはり緑茶より紅茶の方がよかっただろうか。
しかし次の瞬間、男性は安堵の表情を浮かべてずぞっとお茶を一口、また一口。一息に飲み干し、ふーっと深く息を吐いた。
よほどのどが乾いていたらしい。
「もう一杯いかがです?」
「はい、お願いします。ここは気持ちの良い空気ですね。苦しいの、ちょっと直りました」
しきりに首のあたりをさすっている……。目をこらすと、おぼろげな影のようなものがまとわりついていた。
大当たりだ。
「英語に堪能な者を呼びますので、少々お待ちください」
※ ※ ※ ※
電話を受けた羊子、風見、ロイは直ちに神社に向かった。
「ただいまー」
「おかえりなさい」
「待ってたわ」
ひょい、ひょい、と瓜二つの女性が顔を出す。小柄な体躯といい、年齢を感じさせないリスのような容貌といい、羊子によく似ている。
それもそのはず、一人は羊子の母、藤枝。今一人はサクヤの母、桜子。
一卵性の双子なのである。
「こんにちは」
「お世話にナリマス」
風見とロイもきちっと背筋を正して一礼した。
「ささ、こっちよ」
ちょこまかと歩く双子の巫女さんに案内されたのは、何故か客人の通される奥座敷ではなく、住居に使われている居間だった。
あれ、と思うまもなく、ささっと畳まれた白衣(はくえ)と袴が人数分、きっちり三着差し出される。
「ささ、着替えて、着替えて」
「何で?」
「神社の関係者としてお話を伺う方が、自然な流れでしょう? 先方も話しやすいでしょうし」
なるほど、一理ある。めいめい手を伸ばして装束を受け取ったが。
「あの……すいません……また、袴が赤いんですけど」
風見が遠慮がちに問いかけると、W母さんsはけろっとした顔でいけしゃあしゃあと代わりの袴を差し出した。
「あらごめんなさい、うっかりしてたわ。はい、浅葱色の袴」
「アリガトうございます」
「おかーさん! おば様も! いっつもいっつも白々しいんだから!」
娘の突っ込みもどこ吹く風と、藤枝と桜子は顔をみあわせる。ちょこんと首をかしげるその仕草は、二十代の娘息子がいるとは思えないほど愛らしい。
「えー、ロイくん似合ってたのにー」
「風見くんもきっと似合うのにー。ねー?」
「ねー?」
「はいはい、ちゃっちゃと着替えて仕事、仕事!」
一同、白衣と袴に着替えて静々と奥座敷に向かう。
訳ありの客人はみな、ここに通されるのだ。中庭に面し、さんさんと日の差し込む心地よい部屋にはストーブが灯され、冬の最中でありながら春の日だまりのような温かさに満ちていた。
座卓には岩を刻んだような厳つい黒人男性と、三上が向かいあって座っている。
(ん?)
部屋に一歩足を踏み入れた刹那。羊子はあり得ざるにおいを嗅いだ。
そう、確かにそれは今、この場所にはあまりにもそぐわないものであった。
ぬるりとした、藻のこびりついたコンクリートの壁。よせては返す波すらも、立ちこめる腐臭を運び去ることはできない。
淀み、濁った海水のにおい。
風見とロイもまた、はっとした面持ちで目配せしてきた。
(やはりな)
小さくうなずき、何食わぬ顔で畳に手をつき、きちっと一礼した。
「……お待たせいたしました」
「やあ、来ましたね」
三上はにこやかにほほ笑むと頭(こうべ)を巡らせ、三人の視線を客人に誘導した。
「改めてご紹介いたしましょう、こちらはゴードン・ベネットさんです」
「よろしくお願いいたします」
かくして。
羊子とロイを通じ、日本語と英語を交えながらゴードン・ベネット氏は事の子細を語り始めた。
彼自身はアメリカ生まれのアメリカ育ち、妻のグレース夫人は日本人の祖母を持つクォーターであること。
もとはカリフォルニアに住んでいたが、おばあさんの縁をたどってこの土地に引っ越してきた。今は地元の紡績会社に勤めている。
「ああ、綾河岸は絹織物の名産地ですからね」
「はい。妻のグランマは、綾河岸紬の優れた織り手だったそうです。今は引退してしまいましたが」
「そりゃすごい。重要無形文化財の担い手だったんですね」
「はい」
しぱしぱとまばたきすると、ゴードンははにかむような笑みを浮かべた。
「妻も、祖母の技をたいへん誇りにしています」
「………」
(アメリカンにしちゃ、えらく謙虚な人だなあ……)
(意外に日本に馴染むの、早いかも知れない)
皮肉なことに、そう言った人間ほど夢魔の侵入を容易く許してしまうものなのだ。過剰なまでの自己主張は、時には侵入者を阻む強固な壁となる。
「日本にいらしてから、どれくらいになりますか?」
「あれは、妻が安定期に入った頃でしから……三ヶ月になりますね」
「まあ、赤ちゃんがお生まれになるんですね! おめでとうございます」
「ありがとうございます」
ゴードン氏はあきらかに照れていた。目を細め、ちらっと白い歯を見せてほほえみながらくしくしと頭をかいている。
(……あ、かわいい)
180cmは優に超えているであろう偉丈夫相手に、思わずそんな形容詞が心に浮かぶ。
しかし次の瞬間、彼は眉をよせて目を伏せ、ふうっとため息をついた。
「慣れない環境のせいか、どうも最近、疲れやすくて。眠ったと思うと妙な夢を見て、すぐに飛び起きる日が続いているのです」
「ああ。それはお疲れでしょう」
「ええ。毎晩ほとんど眠った気がしません。起きていても目まいと頭痛に悩まされて……妻と生まれてくる子どものために、がんばらないといけないのに」
控えめで実直な人柄、加えて生真面目。しかも己の『正しさ』を振りかざす押しつけがましさは、微塵もない。
人間なら好感を覚える相手だが、夢魔にとっては………格好の標的、それも『美味しい獲物』の部類に入るタイプだ。
「先ほどカリフォルニア、とおっしゃいましたが、どちらにお住まいでしたか?」
「サンフランシスコです」
その瞬間、三上の片方の眉がわずかにぴくっと跳ねた。
(サンフランシスコといえば結城くんとか社長のいるところでしたっけ)
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