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ローゼンベルク家の食卓

【ex10-4】蠢く影は真珠の鱗

2010/04/25 16:33 番外十海
 
「先ほどカリフォルニア、とおっしゃいましたが、どちらにお住まいでしたか?」
「サンフランシスコです」
「っ!」

 不覚にも羊子はすくみあがった。
 クリスマスの夜の記憶の欠片が、街灯の明かりを反射する夜の雨のようにチカチカと瞬く。
 あるいは、暗い水の中にひらめく魚の鱗みたいに。

『ずるいよ、カル。こんなことしても……』
『………そうだね』

 いけない。集中しなければ!
 クリスマスの出来事をひとまとめにして、思考の隅っこに押しやる。その刹那、部屋の空気が変わった。
 ついさっき感じた、よどんだ海水のにおいがほんのわずかに密度を増し……ゴードン氏の首から腕、胸にかけて巻き付くおぼろな影が、ゆらりと濃くなる。

 羊子は瞳をこらした。つかの間、形を為したおぼろな影の正体を見通そうと試みる。
 まず見えたのは、真珠色の鱗。びっしりと太い胴体を覆い、くねる度にからり、ざらりと軋む。
 ………嫌な音だ。
 おぞましさにぞうっと総毛立つ。しかし同時に、美しいとも感じていた。

(これは……女……いや、ヘビ?)

 ゆらっと水の中、長い長い黒髪が広がり、ぽっかりと白い顔が浮かぶ。
 ぽってりした唇、顔の中央にまっすぐに通った鼻。ほお骨は高く、全体的に彫りの深いくっきりした面差し……美しい女をそのまま真珠貝に閉じこめ、長い年月をかけてでき上がったような顔だった。

(両方、か………)

 濡れた髪の毛が、あり得ざる水のゆらぎに乗ってふわふわと漂ってくる。このままでは、先端が触れる。

(来るな!)

 ぎりっと奥歯を食いしばる。

 りん!

 結城羊子は微動だにしなかった。
 にもかかわらず首にかけた鈴が鳴り、影は霧散した。
 だが、消えてはいない。

(……あぶない所でした)

 三上は眉を寄せ、ひそかに張りつめていた力を抜いた。
 神社の結界の中でこれだけの影響力を発揮するとは……今回の相手、なかなかに歯ごたえがありそうだ。
 風見とロイがはっと表情を引き締めた。いきなり鈴が鳴ったのでびっくりしたのだろう。
 彼らにしてみればそうとしか思えない状況だった。まだ若く、経験も浅い二人の狩人にとっては。

 急速に希薄になりつつある女面の蛇に向かって、改めて意識を集中する。
 ノイズ混じりのラジオのように、途切れ途切れに思考が伝わってきた。

「返せ……かえ……せ…………」

(……返せ? 一体、何をでしょうね)

「か……え………」

 女面の蛇は完全に形を失った。来た時と同じように薄いもやとなってゴードン氏の首のまわりにまとわりついている。
 つかの間、はっきりと見えた顔立ちは、白人女性の特徴が強く表れていた。
 と、なれば。
 悪夢の根幹は、アメリカにある可能性が高い。

「そうですか、サンフランシスコに、ね。思わぬ所で懐かしい地名が出てきましたね、結城さん」
「………」
「結城さん?」
「え、あ、はいっ」

 正座したままぴょっくんと跳ね上がり、羊子は背筋を伸ばした。まるでびっくりした子猫だ。

「彼女は高校生の時、サンフランシスコに留学していたんですよ」
「おお、そうだったのですか」
「え、ええ……今もイトコが向こうに留学中です。友人も多いし……」

 こくん、と細いのどが上下する。

「先月も、行ってきたばかりなんです」

 そう言って、羊子はほほ笑んだ。舌の奥に残る苦い記憶を飲み込んで。

「それ、で。向こうではどちらにお勤めだったんですか?」
「ランドール紡績です」

(ああっ!)
(禁句デス!)

 この瞬間、室内の空気にぴしっと、目に見えぬヒビのようなものが走った。
 風見とロイは表情を引き締め、とっさに身構えていた。

「シスコでも繊維のお仕事、なさってたんですね」
「ハイ。妻と出会った場所でもあります」
「まあ、社内結婚?」
「はい……恋愛には、オープンな会社でしたし」
「うんうん、そうでしょうね、さすがカリフォルニア!」

 真っ向から地雷原に飛び込んだにも関わらず、羊子は持てる根性の全てを振り絞って持ちこたえていた。
 一方で三上は眉をぴくっと、さっきより高くはね上げていた。

(おや、妙な縁があったものですね。しかし、これはありがたい)

 伝手を得る機会が向こうから飛び込んできてくれるとは。
 青い瞳の青年社長。目下のところ、『メリィちゃん』の心をかき乱す一番の原因。
 この機会に、少なくとも知己にはなっておくことにしよう。
 そうすれば、今すぐには無理としても今後『メリィちゃん』のことをはっきりさせていくことができるし、何より後々の役にも立つかもしれない。この先、潜伏先を海外に広げないとも限らないのだから。

「で……カリフォルニアからこちらに引っ越してから、奇妙な夢を見るようになった、と」
「ハイ」

 三上はうなずき、静かな深みのある声でじわり、と語りかけた。

「それは、どのような夢でしたか?」
「………それは……」
「どんな小さな事でもいい。どんなにあいまいな事でもいい。言葉にすれば、それだけ安心できると思うのです。得体のしれぬものより、形の定まった物の方が、怖くないですからね?」
「確かに、その通りです」

 ゴードンは腕組みをして眉間に皺をよせた。懸命に、自分の中をただよう曖昧模糊とした悪夢の記憶を表す言葉を探しているようだった。

「……水」

 鈴を振るのにも似た声で、羊子がささやく。

「はい?」
「夢を思い出すのって、水をのぞきこむのに似ていますよね。水面がちらちらと揺れて、すぐそばにあるのにはっきりと見えない」
「おぉ……そうです。水です!」

 ゴードンは大きく、何度も頷きwaterと言う単語を繰り返した。

「水の夢。私が見ているのは、まさにそれなのです。透き通ったきれいな水ではない。どちらかと言うと、どんよりと濁って……いくら目をこらしても、底が見えない」
「つまり、あなたは水面から中をのぞきこんでいるのですね? 夢の中で」
「……おお……確かにそうです!」

 ごつごつした太い指を何度も握っては開いている。

「何か大切なものが、落ちてしまって。濁った水をのぞきこみ、探している。そんな夢です……」
「そう、それでいい。続けてください」
 
 Fatherに促され、ゴードンはぽつり、ぽつりと語り続ける。

「この頃は、起きている時も水をのぞき込むと……ゆらめく奇妙な影が見えるような気がして」
「ほう?」
「最初は、光の反射かと思いました。けれど、明らかに動き方が異質なのです。何かがこう、自分の意志で動いているような……」

 目を閉じ、ごくり、とのどを鳴らした。

「そう、確かにあれは生きています。水の中の生き物です」
「なぜ、そう思うのですか?」
「鱗があるから」

 くっと羊子は拳を握りしめた。巫女装束の袖の中、爪が手のひらに食い込む。

「うねうねと、鱗のある生き物が身をくねらせているのです。姿ははっきり見えないが、目が離せない……気分が悪くなって、すうっと引き込まれそうになってしまうのです……おかしいですね、こんな話」
「いいえ。ここは、夢を守る神社ですもの」

 羊子はにっこりとほほ笑み、一同の顔を見渡した。真っ先に風見が力強くうなずき、続いてロイがぶんぶんと頭を縦に。最後に三上が鷹揚にほほ笑み、口を開いた。

「ここでは夢の話は、毎日の暮らしや仕事の話、家族との絆と同じくらい大切で、意味のある物なのですよ」
「……ありがとうございます」

 ゴードンはしぱしぱとまばたきして、ぐっとぬるくなったお茶を飲み干した。

「次第に影はありとあらゆる『水面』に現れるようになってきました。バスタブやコップの水や、朝、顔を洗う水、遊歩道の水路やコーヒーカップの中にまで……だから、水が怖かった。雨の日は、できるだけ地面を見ないようにして歩きました」
「お風呂は?」
「シャワーしか使っていません」
「うわ、冷えるのに」
「そうですね、ちょっと寒いです」

 くすっと笑っている。

「この三ヶ月と言うもの、ほとんど水は口にしていません。目をつぶって飲んでも、吐いてしまうことがほとんどで」
「それはそれは。さぞかし、おつらいことでしょう。今までどうやって水分を補給してこられたのですか?」
「スポーツドリンクやお茶なら、どうにか。水ほどひどくはないので、我慢できるレベルです」
「やっぱり『うっ』となっちゃうんだ」
「ええ。間違えて腐った水を口にしたような嫌悪感をこらえて飲み込んでいます。コーラやソーダ、ビールは平気でしたね」

 どうやら、混ぜ物が多くなって純粋な水から遠ざかれば遠ざかるほど、悪夢の影響は少なくなるらしい。口にできる水分を求めて試行錯誤を重ねてきたのだろう。

「しかし、コーラやソーダはあまり好きではなくて……飲むと余計にのどが乾きます」
「そりゃそうだ」
「今のところ、牛乳やジュースでしのいでます。日本は飲み物の種類がたくさんあって助かります!」

 ここまで言い終えると、ゴードンはふうっとため息をつき、目を伏せた。
 
「あの影が、次第にはっきりと実体を得ているような気がするんです」

 声のトーンが徐々に下がっている。

「今朝はとうとう、あれが女性だと……それも髪の長い女性だと言うことまでわかってしまいました」
「なぜ、そう思われたのですか?」
「濡れた髪がね」

 がっしりした褐色の手で、しきりに首の周りをさすっている。

「こう、ぬるりと肌に貼り付いてきたんです。起きてからも、その感触がはっきりと残っていました」
「それで、この神社に?」
「はい。彼女がどんな顔をしているのか。知るのが……恐ろしい。お恥ずかしながら、今朝は顔を洗うのも怖くてできなかった」
「……の、割にはさっぱりしてらっしゃるようですが」
「洗顔用のウェットティッシュと歯磨きガムで、どうにか。日本って本当にきれい好きな国ですね」
「あー、なるほど……」

 ゴードン氏は空になった湯飲みを見下ろし、ほっと顔をほころばせた。

「このまま、ずっと水もお茶も飲めないのかと諦めかけてたのですが……ここの神社の水は平気でした。怖くないです」
「奥の森のわき水を使ってるんですよ。そうだ、少しお持ち帰りになるとよろしいでしょう」
「ありがとうございます」
「よし、それじゃ風見、ロイ」
「はい」
「ハイ」
「ひとっ走り水くんできてくれ。台所に使ってないペットボトルがあるから」
「了解! 早速くんできます」

 風見はすっくと立ち上がり、金髪の相棒の方に向き直った。

「行こう、ロイ」
「御意!」

 二人はゴードン氏に目礼し、すっすっとまっすぐに部屋を出て行った。もちろん畳のへりは踏まずに、速やかに。

「わざわざ、ありがとうございます」
「いえいえ、お気になさらず。大して手間はかかりませんから」

 実の所、泉の湧く奥の院まではけっこうな距離があるのだが……風見とロイの足なら、さほど時間はかからない。

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