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ローゼンベルク家の食卓

【side15】レッドサーモン、レッドコード

2011/02/21 22:26 番外十海
 
  • 熱したフライパンを放置して、キッチンを離れちゃいけない。しかし緊急事態ともなるとそうも行かない場合もあるわけで……「レオン! 動くな、俺が行くまで動くな!」
  • 2007年6月の出来事。マクラウド探偵事務所に荷物が届いた。中味は最高級のベニザケ(Red salmon)が丸ごと一匹、フレッシュで。
  • 到底、いつもの5人と1匹で食べ切れる大きさじゃない。アレックス一家におすそ分けしてもまだ余る。
  • 「サケは新鮮なうちに食うに限るんだ」かくして、記念すべき6人目が食卓に招かれる。
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【side15-1】ベニザケが来た

2011/02/21 22:36 番外十海
 
 六月の昼下がり。さんさんと金色の陽射しが降り注ぎ、ともすればまどろみに誘われそうなここちよい静寂が、唐突に破られた。
 マクラウド探偵事務所に、何の前触れもなく風変わりな荷物が届いたのだ。
 長さにしておよそ27インチ(70センチ)。厳重梱包、要冷蔵、放置厳禁。

 白い毛並みに青い瞳、優雅に弧を描くしなやかなしっぽ。事務所の美人秘書は並々ならぬ関心を示し、らんらんと目を光らせてにおいを嗅いだ。

「んにゃーう、にゅぐるるるる、きゅるるうん」

 箱の周囲を踊るような足取りで歩き回り、合間にぐしぐしと顔をすり寄せる。
 金髪に紫の瞳の少年助手は小さくため息をつき、所長に報告のメールを打った。念のため、箱の写真も貼付して。

『荷物が届いた。中味はサーモン。冷蔵庫には入らない。どうする?』

 速攻で所長から指示が飛ぶ。

『上に置かせてもらえ』

 賢明な判断だ。
 確かに法律事務所のキッチンは、ここの簡易キッチンより広い。冷蔵庫もけっこうな大きさがある。

「んびゃっ、んびゃびゃっ」

 何より、猫の手が届かない。

「こら」

 今しも箱に爪を立てようとしていた。危ない、危ない……。

「あとでな」
「みーう」

 一方、赤毛の所長ははいそいそとメールを打っていた。
 まずは一通、忠実な執事アレックスの妻にして『ママ友』のソフィアに当てて。

『サーモン好きか?』

 続いてもう一通、友人にして双子のベビーシッター、サリーへ。

『大量にサーモンをもらった。夕食、食べに来られるか?』

 間もなく返信。

『サーモン、大好きよ』
『ごめん、今夜は友だちと約束があるんだ』

「……ふむ」

 素早く計算する。
 27インチクラスのサーモンが丸ごと一匹。魚は新鮮なうちに食うに限る。一部はソフィアんとこに持ってくとして……もう一人、食う余裕がある。サリーが来られないとなると(友だちと一緒ってことは多分、テリーも塞がってる)、あと家に呼べるような奴は。

「やっぱりあいつ、だろうな」
 
  ※
 
 三時間後。
 件の荷物はローゼンベルク家のキッチンカウンターに載せられていた。へしゃげた口に、真っ赤な体の巨大なサケ……最高級のベニザケが丸ごと一匹。塩漬けでも薫製でもなく、フレッシュな状態で箱詰めにされていた。

「すごいね」
「ああ。丸ごと一匹だ」

 双子の片割れ、シエンは目を丸くして、文字通り「真っ赤」な魚を見つめた。まるで巨大な金魚だ。頭から尻尾まで全部そろってる。今までサーモンと言ったら、切り身になった状態で売ってるのしか買ったことがない。
 
「どうしたの、これ」
「探偵事務所の依頼人から、もらったんだ。覚えてるだろ、オティア? カーン夫妻だ」

 オティアはうなずいた。
 犬の名前はアビー。
 黒と白の、利発なボーダーコリーの血を引く雑種犬。金銭的価値はそれほどではないが、夫妻にとっては掛け替えのないただ一匹の犬だった。
 アジリティ(犬の障害物競技)の会場で盗まれた犬を取り戻すため、ディフはそれこそ猟犬のような熱心さと粘り強さで犯人グループを追いつめた。
 一味が拠点にしていた倉庫を突き止め、売り払われる直前にアビーを救出。同じように盗まれた他の犬たちも、無事に飼い主の元に送り返すことができたのだった。

「これ、どうする?」
「このままじゃ、料理できんからな」

 ディフは腕まくりをしてエプロンを着け、髪の毛をきゅっと後ろでくくった。

「さばく」
「できるのっ?」
「うん。子供の時に親父から一通り教わった。スズキとかマスとか」
「それ、もしかして釣りの時に?」
「ああ。サイズはちがうが、要は魚だ。構造は同じだろ?」

 その言葉に偽りはなかった。基本を知っている上に、ディフは力が強い。そして意外にも彼の指先は器用に動き、真っ赤なシャケは速やかに分解された。
 頭を取り除き、尻尾を切り落とし、背骨に沿って半身に。内臓は既に抜かれていた。
 ここまで来れば後は楽勝。大きな骨を取り除き、スライスして行く。
 丸ごと一匹の魚がさくさくと、切り身の山に変換されて行く。

「すごいね」
「まあな。爆弾解体するのに比べりゃ、楽なもんだぜ」
「そう言う問題?」
「多少切り間違えても、ベニザケは爆発しないだろ?」

 脂の乗った身をちょい、と取り分け、オティアに渡す。

「そら、これはオーレの分だ」
「ああ」

 オティアの足下で、白い猫がピンクの口をかぱっと開け、ぴーんと尻尾を立てて震わせた。

「んみーっ」

 続いて大振りな切り身を4切れほど取り分け、皿に載せてラップに包む。

「シエン。これ、ソフィアのとこに届けてきてくれるか?」
「わかった」

 さて、これで分別は完了。今、手元にあるのは今夜家で食う分だ。
 タッパーにオリーブオイルを入れて、乾燥させたローリエとローズマリーを漬ける。ここにサーモンの切り身を浸し、まんべんなくオイルをまぶして15分ほど置く。
 ディフが下ごしらえをしている間、オティアは猫用のサーモンを調理していた。ラップで包んでレンジでチン。さまして、ほぐして、小さめのタッパーに詰める。素材のうま味と香りを最大限に生かす。塩もコショウもオリーブオイルも無し。
 
「ただいま」
「お帰り。ご苦労さん」
 
 シエンが戻ってきた。
 
「あのね、ソフィアから伝言。サーモンありがとう、後でパンを届けるね、って」
「わかった」
 
 まな板の上には、赤い鱗が何枚も貼り付いている。念入りに洗い落とし、手と包丁を洗っているとレオンが帰ってきた。
 手を拭って迎えに出る。

「お帰り」
「ただ今」

 抱き合って、いつものように念入りにキスを交わしてから、問いかける。 

「レオン」
「何だい?」
「客呼んでいいか?」
「ああ、届いた魚がたくさんあるからかい?」
「うん。新鮮なうちに食った方が美味いから」

 ほんの少しの間、レオンは考えた。
 事後承諾ではなく、事前にこうして確認をとってくれたか。進歩だ。喜ぶべき事態だ。問題は誰を呼ぶか、だが。
 夕食を共にできる人間と言ったら自ずと限られてくる。

「それで誰を呼びたいのかな。サリー?」
「いや、エリック」

(あいつか!)

 ツンツンに尖った金髪に青緑の瞳、ひょろ長でふよふよしたバイキングの末裔。人畜無害の顔をして意外と計算高く、ヒウェルとは別の意味で抜け目がない。
 一秒ほど却下しようかと思った。
 正直、もろ手を挙げて歓迎したい相手、とは言いがたいし、何より現職の捜査官が家に出入りするのは好ましくない。
 もちろん公私混同はしないが、余計な疑いを持たれる可能性のある要素は、最初から持っていたくない

 だが。

 彼とシエンはちょくちょく、昼休みにスターバックスで会っている。今のところコーヒーを飲んで話す程度だが……
 今後もつき合いが続くようなら、一度自分の見ている前に呼びつけるのも一つの手だろう。
 二人がどの程度のつき合いなのか、確認できる。
 いい機会だ。誰が監督しているのか、しっかりと教えておくべきだろう。ついでに釘の一本二本も刺しておこうか。

「彼か……そうだな。いいよ」
「さんきゅ!」

 弾けるような笑顔だ。ディフなりに気を使ってくれたのだろう。携帯を出そうとする手を押さえて、もう一度じっくりとキスを交わした。

「……やばいな」
「何がだい?」
「魚焼く前に、ベッドに飛び込みたくなる」

 ゆるく波打つ髪を撫でると、くすぐったそうに身じろぎした。

「嬉しいけれど、それはちょっと困るね」
「ん……わかってる」

 それで、いい。続きは今夜、じっくりと。
 ようやく解放されるとディフは呼吸を整え、今度こそ電話をかけた。

「ハロー、エリック? 今夜、飯はまだだろ。食いに来ないか。ベニザケのいいのをもらったんだ」

 返事を聞いてからキッチンに戻り、ちょこまかと立ち働く双子に報告する。

「一人分追加だ。客が来ることになった」
「……誰?」
「エリックだ」
「……わかった!」

 シエンは冷蔵庫を開けて、作り置きしておいたエビ餃子を取り出した。
 いそいそと蒸し器の準備をするシエンを横目で見ながら、レオンはさりげなくキッチンに入った。

「お茶を淹れるよ」
「わかった」

 ディフがすかさずヤカンに水を入れてコンロにかける。その間、レオンは食器棚の前で考えていた。
 さて、今日は何を使おうか。
 ……よし、これにしよう。

 薄く堅く焼かれた白い磁器に描かれた、黄色い薔薇の花。使い慣れたマイセンの茶器を選ぶ。紅茶は……アッサムがいいかな。カップを温め、ポットに茶葉を入れて、沸騰したお湯を注ぐ。
 作業が一段落した所を見計らって声をかけた。

「お茶が入ったよ」
「お、サンキュ」
「居間で飲もうか」
「……そうだな」

 トレイに載せた紅茶を居間に運ぶ。
 食卓には、今し方さばいたばかりのサーモンの生臭いにおいが強く残っていて、紅茶を楽しむにはいささか不向きな状態だったのだ。

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【side15-2】マイセン粉砕!

2011/02/21 22:37 番外十海
 
 リビングで紅茶を飲んだ。一人がけのソファにそれぞれシエンとオティアが座り、膝の上にごきげんのオーレ。
 ローテーブルを挟んで反対側の長椅子にはレオンとディフが並んで腰かける。

 ディフは深々とアッサムの香りを吸い込み、薔薇模様のカップに満たされた、透き通った茶を口に含んだ。

「ああ、いいな……紅茶もコーヒーも、お前が入れてくれるのが一番美味い」
「ありがとう」

 もはやお約束のやり取り。双子は静かにカップに口をつけ、おのおののペースでお茶を楽しんだ。
 あらかた紅茶が飲み干された頃、呼び鈴が鳴った。ヒウェルやエリックが来るにはまだ早い。と、言うことは。
 ディフが立ち上がり、大股で玄関へと歩いて行く。ドアを開けると、予想通り。

「はろー」
「よう、ディーン」
「サーモンいっぱいありがとう! これ、ママから」

 ほかほかの焼き立てパン。しかも、形が凝っている。

「これ、魚か」
「Yes!」
「ディーンが作ったのか?」
「うん!」
「すごいな!」

 ざっかざっかと居間に引き返すディフの後を、ちょこまかとディーンが歩く。バターたっぷりのパンのにおいを嗅ぎつけ、つぴーんっとオーレがヒゲを前に倒した。青い瞳がきらきら輝く。

「みゃっ」
「キティ!」
「……シエン!」
「はいっ」

 ディーンからパンの入ったバスケットを受け取り、シエンは足早にキッチンに向かう。その間にディフはキャンディポットのふたを開け、透き通った黄色の、まぁるいキャンディを取り出した。

「ごくろうさん。ごほうびだ」
「サンクス!」

 ぽっこりとディーンの頬が丸く膨らむ。ころころとキャンディを口の中で転がしながら、ディーンはちらっ、ちらっと白い小猫を目で追いかける。服にしみついたにおいが気になるのだろう。手が届くかどうかの微妙な距離を保ちながら、じっとディーンの様子をうかがっている。

「あのね、あのね、ディフ」
「何だ?」
「オーレと遊んでも、いい?」

 ディフはオティアを見た。
 ……うなずいてる。

「ああ。いいよ」
「サンクス!」

 腕時計で時間を確かめる。そろそろサーモンを焼き始めてもいい頃合いだ。直にヒウェルとエリックも来るだろう。
 四歳児とやる気満々の猫を残して行くのはいささか不安だが、レオンがいるし、オティアもついてるなら心配はない。
 くっと飲みかけのカップを干すと、ディフはレオンに声をかけた。

「……ここ、頼んでいいか?」
「ああ、かまわないよ」

 明るい茶色の髪をかき上げ、なめらかな額にキスすると、ディフはキッチンに戻って行った。
 
     ※
 
 長いしっぽをくゆらせて、オーレはしゃなり、しゃなりとソファの背を渡り歩く。
 はっきり言って、ちっちゃな男の子は苦手。うるさいし、突進してくるし、しつこいし。でも今日は平気。王子様が一緒だから、ちょっとぐらい相手してあげてもいいわ。

「キティ、キティ、キティ!」

 ディーンは目をきらきらさせてオーレの後を追いかける。ちっちゃな手を伸ばすが、触れるか触れないかのタイミングでするりと逃げられる。そのたびにがっかりした顔をするが、あきらめずに再度チャレンジ。
 ちょこまかとオーレの後をついて回る。どこまでも。どこまでも。

 やれやれ。
 紅茶を飲みつつ、レオンはさりげなく目をそらしていた。
 どこが面白いんだろう? とりあえず、彼の飽くなきチャレンジ精神は認めよう。だが、この間みたいにいきなりばたっと寝られたら、困るな……。
 まあ、今回は自分一人ではない。オティアも居るから、大丈夫だろう。

 四歳児と猫の攻防戦は、いよいよ白熱していた。
 オーレはもはや完全に当初の余裕を忘れていた。ぐるんぐるんと咽を鳴らしながら縦横無尽に駆け巡る。
 後れを取るまいとディーンも必死で飛ぶ。跳ねる。

 追いつ追われつぐるぐる回る一人と一匹を見守りつつ、オティアがぼそりとつぶやいた。

「危ないぞ」

 控えめな警告は、ヒートアップしたディーンに聞こえるはずもなく。一方、レオンは聞いてはいたものの、自分のことだとは夢にも思わない。

 そして、事件は起こった。

 オーレがたーっとキャットウォークに駆け上がる。負けじとディーンはソファによじ登り、さらに驚くべき俊敏さと根性で背もたれの登頂に成功。
 ソファの背に足をかけ、よれよれと立ち上がり、キャットウォークの猫に手を伸ばし……バランスを崩した。

「あ」

 ぐらり、とディーンの体が傾く。むっちりした手が支えを求めて空しく宙を掻き、そのままころりとひっくり返る。
 驚いたのはレオンだ。見ないふりをしつつ紅茶を飲んでいたら、横から四歳児が降って来た! 咄嗟に受け止めたものの、カップが手からすっ飛び、テーブルの縁に激突。
 ガシャーン。
 高らかに破壊の音色が鳴り響き、マイセンが粉砕された。

 幸い、カップに紅茶はほとんど残っていなかった。熱湯が飛び散る最悪の事態は回避したが、薄く、鋭い磁器の破片が飛び散った。
 どうする?
 刃物のように鋭い破片に囲まれ、レオンは戸惑った。ソファの上も、絨毯の上にも、マイセンの欠片が飛び散っている。なまじ丈夫なだけに、小さな粒でも厄介だ。
 ディーンを降ろすか。破片を拾うか、どっちを優先するべきか?

   ※
 
 一方、キッチンでは着々とサーモンを焼く準備が整いつつあった。

「シエン、そっち任せていいか?」
「うん」

 副菜(蒸し餃子とサラダ)とスープをシエンに任せ、フライパンをコンロに載せる。
 大振りのサーモンを六切れともなると、一度に焼くのは難しい。三、三で二回に分けるか。

 熱くなったフライパンにオリーブオイルをたらし、バターを一かけら投入。溶けるのを待っていると……
 がっしゃん、と食器の割れる音が聞こえた。プラス猫の悲鳴、そして子供の叫び声。一瞬で血の気が引き、髪の毛が逆立った。

 リビングにすっ飛んで行くと、恐ろしい光景が繰り広げられていた。

 まず目に入ったのは、ディーンを荷物みたいに抱えたレオン。ぶわぶわに膨らみ、パニックを起こす直前のオーレ。そして床に散らばる、カップの破片。薄く硬い陶磁器の欠片は、一つ一つが刃物のように鋭い。

 コード・レッド! 爆発寸前の爆弾並の危険な状況。

「動くなレオン! 俺が行くまで動くな!」
「あ、ああ」

 鋭い破片に包囲されたレオンをディーンもろとも抱き上げる。慎重にバランスをとりながら、安全なエリアに退避させた。

「よし……もう降ろしていいぞ」
「わかった」

 床にレオンを立たせ、肩を抱き頭を撫でる。レオンはふうっと息を吐くと、ぎこちない動きでディーンを床に降ろした。 

「ディーン、動くな、レオンと一緒にいろ」
「う、うん」

 かくかくと頷いている。子供心に動くのは危ない! と悟ったのだろう。

「よし、いい子だ」

 オーレはいち早く離脱、キャットウォークの上でうずくまっていた。猫の危険回避能力は高い。さあ、一刻も早くこの危険物を除去してしまおう。
 ディフは新聞を広げ、床に散らばる剣呑な破片を回収しようと身をかがめた。

 その時。

次へ→【side15-3】キッチン炎上

【side15-3】キッチン炎上

2011/02/21 22:38 番外十海
  
 がっしゃーん!

 リビングから響く物騒な破壊音。聞きつけるやいなや、ディフがダッシュで飛んで行った。心配になって後を追いかけて、リビングの様子をうかがう。
 カップが割れていた。黄色い薔薇の模様の破片が飛び散り、鋭い切っ先を上に向けている。
 幸い、ポットはオティアが持って退避してたし、レオンとディーンも無事、破片のない場所に避難している。オーレは丸めていた背中を伸ばすと、ささっとキャットウォークに上ってうずくまった。
 よかった、もう大丈夫。
 ほっとしてキッチンに引き返すと………

「わ」

  フライパンが炎上していた。
 
    ※
 
「フライパンが燃えてるよー」
「何っ」

 シエンの声を聞いた瞬間、リラックスしかけた心臓が、ぎゅーっと極限まで縮み上がる。

「消せーっ!」

 きびすを返して猛然とダッシュ。アドレナリンが吹き出し、加速された思考がびゅんびゅん回る。
 フライパン。
 うっかり、油とバターを載せて加熱したまま放置していた。空焚きが原因だ。つまり、燃えているのは油。

 油だ!

 消せと言われて、とっさに水をかけたりしたら……えらいことになる!
 キッチンまでの距離がやけに遠く感じられる。もつれそうになる足を必死で前に繰り出した。食堂を突っ切り、カウンターの脇を抜ける。

「水は使うな、フタを!」

 キッチンに駆け込んだ瞬間。
 目にしたのは、オレンジの火柱をあげるフライパン。脇に立つ、双子。オティアがシエンの前に立ちふさがり、盾みたいに鍋の蓋を構えていた。

「っ!」

 下がれ。
 叫ぶより早く、オティアが動く。
 かぽっと、蓋をした。

「あ……」

 火柱はぺしゃんこにつぶれ、一瞬だけすき間からちろりとのぞいた。だが所詮は最後のあがき。すぐに縮んで、引っ込んでしまった。
 すかさずシエンがコンロを消す。

「火災報知器、鳴らなかったね」
「煙あまり出てないしな」
「レンジフードがちょっと焦げたね」

 双子は落ち着き払って話してる。パニックのパの字もない。

 Clear.

 炎の置き土産、プラスチックの焦げた臭いと、バターの香りが漂っている。
 終った、と認識したその瞬間、耳の奥で何かが切れた。
 膝から力が抜けて、へなへなと床にへたり込む。
 オティアはちゃんと手にキッチンミトンをはめていた。しかも防火性の高い奴を選んで。何てこった、俺よりこの子たちの方がよっぽど落ち着いてる!

「ディフ」

 不意に横合いから手をとられた。レオンだ。いつ、来てたんだろう?
 食堂の椅子には、ちょこんとディーンが座ってる。そこで待つように言われたのだろう。のびあがって、心配そうにこっちを見てる。

「………怪我ないか? 大丈夫か?」
「ああ」
「そっか……よかった……………」

 レオンに手を引かれるまま立ち上る。情けないことに、足に力が入らない。腹にも力が入らず、すきま風みたいにかすれた声しか出てこない。
 いつも通り、立てると思った。だが唐突に膝がかくっと折れて、バランスが崩れる。

「おっと」

 あったかい胸に、しっかりと抱き留められていた。自然に背中に手を回し、しがみつく。レオンの体温が。心臓の鼓動が伝わってくる。
 その時になってようやく、びゅんびゅん回っていた世界が元に戻った。

「情けないなぁ……爆弾解体してたくせに……」
 
 レオンはほほ笑み、黙って撫でてくれた。頭を。髪を。背中を。しなやかな手のひらが、まとわりつく心の闇をぬぐい去ってくれる。
 カップの粉砕と、フライパンの炎上。たかだかそれだけの事で、パニックに陥るなんて。まったく信じられない!
 背中に回された腕に力がこもる。ほーっと息を吐き、胸に顔をうずめた。

(あー、あったかい)

 目を閉じて、レオンの鼓動を聞いた。息遣いに耳をすました。
 次第に心臓の鼓動が穏やかさを取り戻し、四方八方に乱れ飛んでいた思考が集まってくる。

 ……いや。たかだか、じゃないな。家庭が現場で、家族が危険に晒されたんだ。

 レオンが危ない、ディーンが危ない。
 オティアが。
 シエンが。

 認識した瞬間、訓練された職業意識がきれいにすっ飛んでいた。

「座って。少し休んだ方がいい」
「あ、ああ」

 導かれるまま、食堂の椅子に座る。レオンがすぐ隣に腰を降ろす。
 マグカップにティーポットに残っていた紅茶を注いで、渡してくれた。

「飲んで。落ち着くよ」
「うん」
「だいぶ冷めてしまったけれどね」
「ありがとう」

 ぬるい紅茶が、からからに乾いた口の中を滑り降りる。飲んでる間、レオンはずっと背中を撫でてくれた。

「ディーン」

 シエンが声をかける。

「家まで送るよ」
「うん」

 ばいばい、と手を振り、シエンと手をとりあって帰って行く。手を振り返すのが精一杯だった。
 
次へ→【side15-4】W眼鏡参上

【side15-4】W眼鏡参上

2011/02/21 22:39 番外十海
 
 鎮火を見届けてから、オティアはリビングへと歩いて行った。
 オーレの姿が見えない。
 注意深く破片を避けつつ境目のドアを抜けて、隣の部屋へ移動すると……果たして、キャットタワーの猫ハウスからにゅるっと白い毛皮が出てきた。

「オーレ」

 ぴょん、と床に飛び降り、足の間を8の字を描いてすり抜ける。

「うにゃおん、ぐるるるる、にゃおん、うにゃん」

 膨らんでいた毛皮はもう、元に戻っている。ついさっき、出くわした騒動のことなんか欠片ほども気にしていないみたいだ。
 なめらかな体をすりよせ、ピンと立てた尻尾を震わせ、咽の奥から甘えた声を出す。

(おうじさま、おうじさま! 何かたいへんだったんだけどもうだいじょうぶよ!)

 今はもう、プリンセスはおうじさまに撫でられてご機嫌なのだった。
 オーレを頭に載せて居間に引き返す。ちょうどシエンが下から戻ってきた所だった。

「掃除機とってくるね」
「ん」

 イギリス製のサイクロン式強力掃除機を見るなり、オーレは尻尾を膨らませてキャットウォークに駆け上がった。
 破片を拾い、念入りに掃除機をかける。ナイフのように鋭いマイセンの残骸を完全に取り除くと、双子は互いに頷き合い、キッチンに戻った。
『まま』はようやく、落ち着きを取り戻していた。

「……すまん」
「ん」
 
 焦げたフライパンは横に取りのけられ、予備のフライパンがセットされる。コンロに火が灯り、夕食の仕度が再開された。
 やがて……
 黒髪と金髪、W眼鏡がやってきた。申し合わせたように二人一緒に。
 
 101218_0153~01.JPG
 illustrated by Kasuri

「こんばんわ」
「腹減ったー。今日の飯、何?」
「サーモンだ」

 テーブルの上には、既にパン(ご丁寧に魚の形)とスープ、蒸した餃子にサラダが並んでいる。ただメインの皿だけは空っぽで、付け合わせのブロッコリーと、マッシュポテトだけが乗っていた。

「あれ、珍しいね、まだ調理中?」
「ああ。ちょっとアクシデントがあってな。そこに座ってろ、今焼くから」

 ヒウェルはぴくりと片方の眉をはね上げた。

(いつもは準備万端、整ってるタイミングなんだがなぁ。メインディッシュがこれからって。一人増えたからか?)

 一方、一人増えた分=エリックはカウンターを越えてキッチンに回り込み……

「はい、これジャスミンティー。来る途中で見つけた。新製品っぽいから」

 スーパーのビニール袋から取り出した、薄い緑の紙箱をシエンに渡すのだった。

「あ……」

 シエンは正直、驚いていた。袋を持っていたから、たぶんお土産だろうなとは思ってた。てっきりディフに渡すのかと思ったら、こっちに来るなんて。
 びっくりした。
 でも……うれしい。

「ありがと」

 その時、シエンはほほ笑んでいた。自分でも意識しないうちに、ごく自然に。エリックのほお骨の周りがほわっと赤く染まる。

「ごちそうになるのに、手ぶらで来るのも気恥ずかしいから、ね。あとこれも」

 袋から出てきたのは、小エビ入り猫缶。

「猫、好きだから、つい……。実家でも飼ってるんだけど、めったに会えないし」
「オーレ喜ぶよ、これ好きだから」

 ね、とシエンが振り返る。オティアはしぶしぶ頷いた。

(手土産持参か、くらげ眼鏡め)

 スーパーの袋に直につっこんだまま、カードはおろかリボンもラッピングも何もなし。おそらく値札もはがしてない。けれどシエンは一向に気にしない。むしろうれしそうだ。
 二人して、顔を見合わせ、にこにこしてる。しかめっ面でにらみつけても、周囲に張り巡らされた見えないバリアーの表面をつるんと滑って弾かれる。

「じゃあ、座っててね」
「うん!」

 下手に自分が手伝ったらどうなるかは、さすがに学習したらしい。
 エリックはおとなしく食卓に着き、にこにこしながらサーモンが焼き上がるのを待った。

 レオンはほほ笑みながら、シエンとバイキングを見守っていた。石のように冷ややかで、およそ人間らしい温もりの片鱗も無い、明るい茶色の瞳で。

(うひぃいい、レオン、目! 目が笑ってねぇえええっ)

 気付いているのは、ヒウェルのみ。エレベーターで顔を合わせた瞬間から予測していた嵐が今、刻一刻と現実のものとなりつつある。
 一見、和やかな光景の中、彼は秘かにテーブルの下で手を組み、父祖の地ウェールズの守護聖女に祈りを捧げていた。

(ああ、聖女さま。ウィニフレッドさま。何とぞこの食卓の平和を守りたまえ……)
 
   ※ 

「できたぞ。冷めないうちに、食え」

 こんがり焼き上がったサーモンが皿に載せられる。一、二、三、全部で六切れ。これまでもエリックが夕食に招かれた時はあった。だが、いつも誰かしらが欠けていた。一回目の時はレオン、二回目の時はディフもいなかった。
 今日は全員、そろっている。

「にゃぐぐぐぐ、ぐるにゃうん」

 オーレはテーブルの下、小エビの缶詰めと新鮮なベニザケをもらってご満悦。

(おいしい、おいしい、サーモンおいしい。エビもおいしい。うれしい!)

 こんがり焼いたサーモンは、塩とコショウ、レモン汁でシンプルに味付けされていた。皮はぱりっと焼き上げられ、よく締まった身はきれいな紅色。この種の魚につきものの、嫌な生臭さはほとんどない。

「お、美味い」
「さすが新鮮だね」
「本当はソースも作りたかったんだけどな、時間なくて」
「そう、それだよ。何で時間足りなくなった。アクシデントっつってたけど」
「あー……それは……だな」

(ったく、遠慮なく突っ込んできやがる、この男は)

 だが今に始まったことじゃない。つき合いは長いのだ。慣れている。
 こほん、と咳払いをすると、ディフは簡潔、かつ要領よく、何が起きたかを報告した。
 聞いているうちに、眼鏡どもの目が点になり、口がかぱっと開き、顎が落ちた。

「信じらんねぇ……」
「嘘みたいだ、眉も動かさず黙々と爆弾解体してた人が。カップが割れてフライパンが燃えただけで、パニックになるなんて!」
「そうなの?」
「うん。黙々と配線切ってた。防護服着てたけどね」

 ディフは精一杯平静を装った。だが白い肌の内側からわき出す赤みはどんどん広がり、首筋にくっきりと『薔薇の花びら』そっくりの傷痕を浮かび上がらせる。

「なっちまったんだから、しょうがねぇだろ」
「はいはい」
「まあ……自宅と現場では意識もちがいますしね」

 それとなく話題を切り上げつつエリックはエビ餃子を口に運び、ぱあっと顔を輝かせた。

「うわあ、ぷりぷりしてる。焼いたのもおいしいけど、餃子って蒸すとこんな食感になるんだね!」
「うん。この間は、時間無くて焼いたけど、今日は蒸してみたんだ」
「おいしいよ。すごく」
「よかった」

 にこにこしながら語らう二人を見つつめつつ、レオンはただ、ほほ笑んでいた。大理石の彫像そっくりの、完ぺきな笑顔で。

(やっぱ目が笑ってねぇええっ)
 
次へ→【side15-5】釘を刺す人、刺される人

【side15-5】釘を刺す人、刺される人

2011/02/21 22:41 番外十海
 
「スヴェンソンくん」

 食後の紅茶を飲み終わったところで、Mr.ローゼンベルクに声をかけられた。にこやかに、さらりと、文句のつけようのない丁寧な物腰で。

「ちょっと来てくれるかな。話したいことがあるんだ」

 言われて思った。これは逆らっちゃいけないんだと。ここは彼の家(テリトリー)なのだから。

「わかりました」

 シエンがこっちを心配そうに見てる。つまり彼が心配するような事態が待っているってことか。正直、ビビらないと言えば嘘になる。だけど、ほほ笑んで軽く手を振った。

(大丈夫だから)

 あれあれ。hがこっそり十字を切ってる。大げさ……じゃ、ないんだろうな、多分。

 リビングのドアを開けて、廊下を進む。以前、シエンの部屋に来た時とは反対側だ。ずっしりと重い樫材の扉を潜り、中に入る。
 部屋の壁は本で埋め尽くされ、奥には執務用のデスクが据えられている。書斎かな、ここは。
 ドアが閉まる。
 静けさの中に閉じこめられたような気がした。
 勧められた椅子に座り、デスクを挟んでMr.ローゼンベルクと視線を合わせる。この空気は、取調室に似ている……ただし今、取り調べを受けているのは俺だ。
 
「話したいことって、何でしょう?」
「ああ。今後のことについて、少しね」
「今後のこと……ですか」

 来るぞ。腹に力を入れて身構える。誰と誰の今後のことなのかは、互いに口にするまでもない。

「俺は、君とシエンの間のことは歓迎しない」
「……」

 予想以上にストレートだった。なまじ絡め手で来られるより、こたえる。逃げ場がない。同時に、わずかながらも反抗心が揺らめく。
 確かにあなたはシエンの保護者だ。だからってここまで露骨に言うか? いや、むしろ言ってくれて感謝するべきなんだろうな。
 
「職業上の問題もある。君にこの家に頻繁に出入りさせるわけにはいかない」
「です、ね」

 右手を顔の前に掲げ、中指と親指で眼鏡のフレームを支え、位置を整える。頭の中を、オフタイムからオンタイムへ。事件に向かい合う時の、ぴしっと張り詰めた思考に切り替える。

「以後、配慮して行動します。確かに現職の捜査官が弁護士の家に出入りするのは好ましい状況じゃない」
「まぁ、そんなことはどうとでもなるからいいんだが」
「……はい?」
「もっと深刻な問題もある」
「法的な問題、ですか」
「改めて言うまでもなく。君も知っていることだが――あの子達は、最悪の犯罪の被害者だ」
「はい」
「そして、君は一度しくじった」
 
 言葉に詰まる。

 降りしきる冷たい雨の中、シエンの肩を強引に掴み、引き寄せた。振り返った彼のおびえた瞳。凍りついた表情……そして逃走。

「この国では、失敗しても、失ってもまた立ち上がればいい……そんな夢があふれてるね。それは否定はしない」

 正面から見据えるライトブラウンの瞳からは、およそ人間らしい温もりが欠け落ちていた。まるで磨き抜かれた虎眼石だ――真実を見抜く石。

「だが、決して取り戻せないものも存在する」

 だらだらと、冷たい汗がしたたり落ちる。背中を。わきの下を。

「今はいい。シエンも安定してきた。以前のように家から出られなくなることも……少なくなった」

 ねばつく嫌な汗を流しながら、自分の体がだんだん縮んでゆくような錯覚に囚われる。さながら気分はクリスマスケーキに乗っかった、雪だるまのロウソクだ。

「何か、言いたいことは?」
「……シエンが好きです。浮ついた気持ちではなく、真剣に」

 ゆっくりと、言葉に変換して行く。自分の気持ちを偽らず、率直に。ここで見栄を張ったり取り繕ったところでどうなる?
 オレの本意ぐらい、この人はとっくの昔に見抜いている。だから呼び出されたんだ。

「失った信用は戻せない。だが新しく造ることはできる。それでもまたしくじったら……その時は容赦なく俺を断罪してください」
「それですむならね」

 うわ。氷の盾で払われた。だが負けるもんか。こちとらバイキングの末裔だ、寒さには耐性がある!

「……あなたに戦争をしかけるつもりはありません。退くつもりもありません」
「人の感情は不安定なものだ。恋愛ともなれば、なおさらだ」
「支えます。覚悟の上だ」

 美しい眉がわずかにひそめられる。
 ――怖いな。鋭いナイフを素手でにぎる気分だ。ちょっとでも動いたら、切れる。

「愛情こそが人を傷つける。実例なら山のようにある」

 普遍的な言葉。だが、込められた重みがずしんと胸を打つ。自ら見て、体験してきた者のみが知る、津波にも似た圧倒的な質量の重みが……。
 逃げずに正面から受け止めた。
 そうとも、逃げる訳には行かないんだ。その《実例》があなたとセンパイのことならば、なおさらに。

「だけど、手を離すことのできない相手がいる。俺にとって、それはシエンなんだ」
「それが君のひとりよがりでないと言えるかい?」
「……さあ……まだ途中ですから。いや、はじまったばかりかな?」

 ふっと彼の目が細められ、冷ややかに言い捨てられる。オレの方が背が高いはずなのに、一段高い場所から見下ろされたような気がした。

「その程度なら、さっさと恋心など捨てて帰りたまえ」
「お断りします」

 オレは一体何をしてるんだろう? 若手弁護士の中でも名うての切れ者、レオンハルト・ローゼンベルクに逆らってる。彼の家の、彼の書斎で。
 我ながら無謀なことをしてる。だけどここで退いたら今までの人生が無意味になる。シエンと過ごしてきた時間が、ゼロにされてしまう。真剣勝負だ、逃げも隠れもするもんか。

「シエンと俺は、今、ガラスのあちら側とこちら側で手探りしてるんです。手探りしながら、少しずつ前に出ている。ここでガラスをたたき割って手をつかんだら、それこそしくじりを繰り返す」

 ひと言発するごとに背筋がしゃっきりと伸びる。もう、汗はかかない。

「俺の態度をあなたが『その程度』と評価なさるのは自由です。だが、腹くくった上でやってる事だ。撤退と言う選択肢は、無い」
「それは……とても、危険な道だ。失敗のない人生はない。だが君にはもう二度と許されない」

 うなずいて同意を示す。

「ええ。もう、二度と」
「それがわかっていればいい」
「……了解」

 彼は立ち上がり、それとなく出口を示した。
 これにて謁見終了、下がってよろしいってことだ。

「失礼します。夕食をごちそうさまでした」
 
   ※
 
 居間に戻ると、シエンが待っていた。
 少しくすんだ金色の髪。夜明けの空にも似た紫の瞳。眉の間にうっすら皴がよっている。心配してくれてたんだね。ありがとう。

「エリック……」
「話、終ったよ」

 まださっきの対決の余波が抜けない。顔がこわばっている。正直、上手く笑うことができるかどうか……なんて、案ずるまでもなかった。シエンの顔を見た瞬間、書斎の重苦しさも、冷たく切りつける氷の刃もころっと忘れてしまった。

「夕飯ごちそうさま。また明日、ね」
「……うん」

 シエンはほんの少しとまどって、それから、はにかむような笑みを返してくれた。

「おやすみ」
「おやすみ」
 
   ※
 
 レオンはじっと目を閉じて、耳をすましていた。
 玄関の扉が閉まる、かすかな振動が伝わってくる。バイキングは出ていったようだ。

 目を開く。
 もともと最初から別れろ、と言う気はなかった。だが、シエンには正直、恋愛は早い。人を好いて、好かれて、それ故に傷ついて……あの子には、まだ、それに立ち向かうだけの耐性が無い。
 見た限りでは心配するような深い付き合いでは無さそうだが、相手はティーンエイジャーだ。どこで突然火が着くか、わかったものじゃない。
 バターを放り込んだまま空焚きした、フライパンみたいに。

 実際見えないところで会っているよりは、家に呼んだほうがいいのかどうか、迷う所だが……家庭の中は安心だ。けれどそこに篭ってしまうのも困る。
 彼がいるから。会いたいと願うからこそ、シエンは順調に回復しているのだ。それをハンス・エリック・スヴェンソンに教えるつもりは、毛頭ないが。

 当面、シエンのためには外で会わせた方がいい。それが恐怖感にならない限り。
 幸い、金髪眼鏡バイキングの性格はある程度把握している。しばらくの間はこうしてプレッシャーを与えておくだけでよしとしよう。

 のし、のし、と大股で歩く足音が近づいてくる。
 ああ、片づけが終ったんだな。

 頑丈な拳で、ゆっくりとドアがノックされる。

「どうぞ」

 扉が開いて、ディフが顔をのぞかせた。

「取り込み中か?」
「いや。もう終ったよ」
「……そうか」

 するりと部屋に滑り込み、近づくと体を寄せてきた。何があったか、彼はちゃんとわかっている。
 ヘーゼルブラウンの瞳は暖かい光をたたえ、背中に回された手は優しく、力強い。

「……おつかれ」
「ありがとう」

 唇を重ねる。ふわふわの赤い髪の毛から、まだかすかに……

 サーモンの香りがした。

(レッドサーモン、レッドコード/了)

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すやすや

2011/02/21 22:42 短編十海
 
  • 拍手御礼短編の再録。
  • 実はちっちゃな子供が苦手なレオンが子守を頼まれてしまいました。
  • 双子は留守、ディフも席を外している中、さてどうなりますか……。
 
 レオンハルト・ローゼンベルクは当惑していた。
 
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 illustrated by Kasuri

 リビングのソファに腰かけ、優雅にひじかけにもたれかかりつつ、手にした本に目を落とす。反対側の手すりによりかかっているのはディーン。ついこの間、四歳になったばかりのアレックスの息子。でれんと手足を投げ出し、熟睡している。
 信じられない。ついさっきまで、きゃっきゃとオーレを追いかけ回していたのに。

 ランチの後、いつものようにバスケットを抱えてディーンが配達にやってきた。中味は焼きたてのクロワッサンとマドレーヌ。いつもは遠くから様子を伺うだけのオーレが、鼻を膨らませて飛びついてきた。

「みゃーっ」
「キティー!」
「おおっと」

 速やかにディフがバスケットを確保、キッチンに退避。その間にディーンは猫を追いかけ、部屋中ぴょんぴょん跳ね回る。
 ソファーの背に駆け上がったオーレに向かって手を伸ばし、いきなり動きが止まったなと思ったら……その場にぱたっと突っ伏してしまったのだ。
 さすがにぎょっとしたが、ディフは落ち着き払ってディーンを抱き上げた。

「心配ない。眠ってるだけだ」
「……そうなのか」
「電池が切れたってやつだな。これぐらいの年の子供にはよくあることだ」

 熟睡する四才児をソファに寝かしつけるディフの姿を、やや遠巻きに見守っていると。

「毛布とってくる。その間見ててくれ」
「わかった」

 約束したから、見ている。可能な限り離れつつ、読書の合間にちらりちらりと横目で見ている。
 正直、落ち着かない。小さな子供は苦手だ。早くディフが戻ってこないか。そわそわと主寝室につながるドアに目を向けていると。

「んー……」

 ディーンが寝返りを打った。しかも、そのままずるりっと滑り落ちる。
 危ない!

 とっさに手を出し、受け止めた。
 熟睡する四才児の体は、流動体だった。溶けたバターみたいにぐにゃぐにゃで、あらぬ方向に垂れ下がる。今にも腕をすり抜け、にゅるんっとこぼれ落ちそうだ。

(何で首がこんな角度に!)

 抱き取ったのはいいものの、どうしても体が逃げてしまう。妙に熱っぽい、湿った体。骨が通ってるんだろうかと思うぐらい、ぐにゃっとした手足。まるで異界の生き物だ。必要以上に触りたくない。かと言って放り出す訳にも行かない。

(こ、これからどうすればいいんだ……)

 今にも崩れそうな流動体生物を抱えたまま、立つことも座ることもできずに固まっていると……
 のっしのっしと大股な足音が近づいてくる。ほどなくドアが開いた。

 ああ、天使が戻ってきた!

「待たせた、レオン。ちょうどいい大きさのがなかなか見つからなくてな」
「ディフ!」

 顔にも声にも、ほっとしたのがにじみ出ている。いや、あふれている。家長の威厳も何もあったもんじゃない。だが構うものか。幸い子供たちは図書館に出かけている。この場にいるのは自分とディフだけだ。

「……大胆な寝相だな」
「うん……ちょっとびっくりしたよ」
「ありがとな、助かった」

 ひょいとディーンを抱き取り、くるんと手際よく毛布でくるんでいる。

「こんな状態でも起きる気配は無し、か。良い度胸してるなあ、ディーン」

 目を細めて顔中笑み崩すと、ディフはすやすや眠るディーンを膝に抱いてぽふっとソファに腰かけた。
 何て優しい眼差しだろう。何て穏やかな横顔だろう。レオンはすかさず妻の隣に座り、ぴと、と身を寄せた。

「どうした、レオン」
「……可愛いな」
「ああ、可愛いな」

 二人の視線は微妙にすれ違っているのだが、まったく問題はない。
 がっしりした肩に手を回し、ふわふわした赤い髪の毛をなでる。優しく指にまとわりつく手触りが、まるで綿菓子みたいだ。くすぐったい。心地よい。

「しばらく寝かせといてやるか」
「ああ、そうだね」

 こう言う時のディフは最高に柔らかく、穏やかな表情を見せる。まるで幼子を見守る天使のように。間近に見ているとひしひしと幸せが胸を満たし、身も心も温かな光に包まれる。
 幸い、ディーンの眠りは深く、目を覚ます気配はない。ゆるく波打つ赤い髪に顔をうずめる。腕の中、愛しい人がくすぐったそうに身をよじる。だが逃げる気配は微塵もない。
 午後の陽射しの中、レオンは存分に幸せに浸るのだった。

(すやすや/了)

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