▼ 【side15-3】キッチン炎上
がっしゃーん!
リビングから響く物騒な破壊音。聞きつけるやいなや、ディフがダッシュで飛んで行った。心配になって後を追いかけて、リビングの様子をうかがう。
カップが割れていた。黄色い薔薇の模様の破片が飛び散り、鋭い切っ先を上に向けている。
幸い、ポットはオティアが持って退避してたし、レオンとディーンも無事、破片のない場所に避難している。オーレは丸めていた背中を伸ばすと、ささっとキャットウォークに上ってうずくまった。
よかった、もう大丈夫。
ほっとしてキッチンに引き返すと………
「わ」
フライパンが炎上していた。
※
「フライパンが燃えてるよー」
「何っ」
シエンの声を聞いた瞬間、リラックスしかけた心臓が、ぎゅーっと極限まで縮み上がる。
「消せーっ!」
きびすを返して猛然とダッシュ。アドレナリンが吹き出し、加速された思考がびゅんびゅん回る。
フライパン。
うっかり、油とバターを載せて加熱したまま放置していた。空焚きが原因だ。つまり、燃えているのは油。
油だ!
消せと言われて、とっさに水をかけたりしたら……えらいことになる!
キッチンまでの距離がやけに遠く感じられる。もつれそうになる足を必死で前に繰り出した。食堂を突っ切り、カウンターの脇を抜ける。
「水は使うな、フタを!」
キッチンに駆け込んだ瞬間。
目にしたのは、オレンジの火柱をあげるフライパン。脇に立つ、双子。オティアがシエンの前に立ちふさがり、盾みたいに鍋の蓋を構えていた。
「っ!」
下がれ。
叫ぶより早く、オティアが動く。
かぽっと、蓋をした。
「あ……」
火柱はぺしゃんこにつぶれ、一瞬だけすき間からちろりとのぞいた。だが所詮は最後のあがき。すぐに縮んで、引っ込んでしまった。
すかさずシエンがコンロを消す。
「火災報知器、鳴らなかったね」
「煙あまり出てないしな」
「レンジフードがちょっと焦げたね」
双子は落ち着き払って話してる。パニックのパの字もない。
Clear.
炎の置き土産、プラスチックの焦げた臭いと、バターの香りが漂っている。
終った、と認識したその瞬間、耳の奥で何かが切れた。
膝から力が抜けて、へなへなと床にへたり込む。
オティアはちゃんと手にキッチンミトンをはめていた。しかも防火性の高い奴を選んで。何てこった、俺よりこの子たちの方がよっぽど落ち着いてる!
「ディフ」
不意に横合いから手をとられた。レオンだ。いつ、来てたんだろう?
食堂の椅子には、ちょこんとディーンが座ってる。そこで待つように言われたのだろう。のびあがって、心配そうにこっちを見てる。
「………怪我ないか? 大丈夫か?」
「ああ」
「そっか……よかった……………」
レオンに手を引かれるまま立ち上る。情けないことに、足に力が入らない。腹にも力が入らず、すきま風みたいにかすれた声しか出てこない。
いつも通り、立てると思った。だが唐突に膝がかくっと折れて、バランスが崩れる。
「おっと」
あったかい胸に、しっかりと抱き留められていた。自然に背中に手を回し、しがみつく。レオンの体温が。心臓の鼓動が伝わってくる。
その時になってようやく、びゅんびゅん回っていた世界が元に戻った。
「情けないなぁ……爆弾解体してたくせに……」
レオンはほほ笑み、黙って撫でてくれた。頭を。髪を。背中を。しなやかな手のひらが、まとわりつく心の闇をぬぐい去ってくれる。
カップの粉砕と、フライパンの炎上。たかだかそれだけの事で、パニックに陥るなんて。まったく信じられない!
背中に回された腕に力がこもる。ほーっと息を吐き、胸に顔をうずめた。
(あー、あったかい)
目を閉じて、レオンの鼓動を聞いた。息遣いに耳をすました。
次第に心臓の鼓動が穏やかさを取り戻し、四方八方に乱れ飛んでいた思考が集まってくる。
……いや。たかだか、じゃないな。家庭が現場で、家族が危険に晒されたんだ。
レオンが危ない、ディーンが危ない。
オティアが。
シエンが。
認識した瞬間、訓練された職業意識がきれいにすっ飛んでいた。
「座って。少し休んだ方がいい」
「あ、ああ」
導かれるまま、食堂の椅子に座る。レオンがすぐ隣に腰を降ろす。
マグカップにティーポットに残っていた紅茶を注いで、渡してくれた。
「飲んで。落ち着くよ」
「うん」
「だいぶ冷めてしまったけれどね」
「ありがとう」
ぬるい紅茶が、からからに乾いた口の中を滑り降りる。飲んでる間、レオンはずっと背中を撫でてくれた。
「ディーン」
シエンが声をかける。
「家まで送るよ」
「うん」
ばいばい、と手を振り、シエンと手をとりあって帰って行く。手を振り返すのが精一杯だった。
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