▼ 【4-15】犬の日
- 07年1月の日曜日。記録的な寒波の中、冬将軍をものともせずに双子とままがお出かけ。行き先は……
- 長らくお待たせしました、111111ヒット御礼の「デイビットと双子の話」をお届けします。
記事リスト
- 【4-15-0】登場人物 (2010-01-24)
- 【4-15-1】おでかけ (2010-01-24)
- 【4-15-2】ケンネルにて (2010-01-24)
- 【4-15-3】ばったり! (2010-01-24)
- 【4-15-4】パンの器にスープたっぷり (2010-01-24)
- 【4-15-5】ミルクのお粥が鍋いっぱい (2010-01-24)
▼ 【4-15-0】登場人物
- より詳しい人物紹介はこちらをご覧下さい。
【シエン・セーブル/Sien-Sable】
不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
外見はオティアとほぼ同じ。
臆病でもろい所があるが、いざという時はてきぱき立ち働く芯の強さを身に付けつつある。
ピスタチオグリーンの新しい手袋は「エビの人」からもらったもの。
オーレには慣れたけど、大きな生き物はまだ苦手。
【オティア・セーブル/Otir-Sable 】
不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
極度の人間不信だったがヒウェルの想いを受け入れる。
ポーカーフェイスの裏側で揺れ動く心はいまだに安らげないが、少しずつ前に進もうとしている。
肩に乗せた白い子猫と共に。
大きさを問わず、犬も好き。
【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】
通称レオン
弁護士。ヒウェルとは高校時代からの友人。27歳。
ライトブラウンの髪と瞳、身長180cm、着やせするタイプで意外と筋肉質。
一見、温厚そうな美人さん、実は腹黒。実家は金持ちだが家族への情は薄い。
ディフの旦那で双子の『ぱぱ』。
爽やかな笑顔の裏で実はかなりの激情家。
せっかくの日曜なのに、弁護士仲間の親睦会でお出かけ。
【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】
通称ディフ、もしくはマックス。
元警察官、今は私立探偵。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
レオンの嫁で双子の『まま』。
今回、双子を連れてお出かけにチャレンジ。
【結城朔也】
通称サリー。カリフォルニア大学に留学中の日本人。23歳。
癒し系獣医。
サクヤという名が言いづらいためにサリーと呼ばれているが、男性。
東洋人には堪える寒さの中、ふと油断すると鳥とかオコジョが暖めに来てくれるらしい。
【テリオス・ノースウッド】
通称テリー。熱血系おにいちゃん。
獣医学部の大学院生、専門はイヌ科。
サリーの大学の友人だが周りからは彼氏と思われているらしい。
基本的に面倒見が良く、女の子に甘い。
動物はなんでも好きだけれど特に犬系大好き。早くに両親を亡くし、里親の元で育った。
【エリック/Hans-Eric-Svensson】
シスコ市警の科学捜査官。ディフの警官時代の後輩、23歳。
ライトブロンド、瞳は青緑色、身長186cm。
金属フレームの眼鏡着用。
激務続きで食生活はとても寂しい。好物はエビ。
大ざっぱすぎる調理法はバイキングの遺伝子故か、あるいは本人の性格か。
【オーレ/Oule】
四話めにしてようやく本編に登場したオティアの飼い猫。
白毛に青い瞳、左のお腹にすこしゆがんだカフェオーレ色の丸いぶちがある。
最愛の『おうじさま』=オティアを守る天下無敵のお姫様。
趣味はフリークライミングとトレッキング(いずれも室内)、好物はエビ。
エドワーズ古書店の看板猫リズの末娘。
今回、一人でお留守番させられて拗ね度MAX。
【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
こんかい、ほとんどでばんがないぞ! どこにでてくるか、さがしてみよう。
illustrated by Kasuri
次へ→【4-15-1】おでかけ
▼ 【4-15-1】おでかけ
日曜日。風は冷たいが、よく晴れた日だった。
カリフォルニアは温かい。いつもの年なら、冬とは言え深刻に冷え込むことは滅多にない。しかしこの年は一月に入ってから強烈な寒波に見舞われていた。
コートよし、マフラーよし、手袋よし。
念入りに夫の防寒装備を確認すると、ディフは改めてぽん、とレオンの背を叩いた。
「……うん、いい男だ。カリフォルニアで一番、いや、世界一いい男だ」
「大げさだよ」
「いや、俺が決めた。訂正するつもりはないぞ?」
ほんの少し恥ずかしそうにほほ笑むと、レオンは広い背に腕を回しで抱き寄せ、キスを交わした。
「行ってくるよ」
「行ってこい。レイによろしくな」
扉の前にはアレックスが控えていた。
今日はロウスクールの同期生の親睦会が開かれるのだ。
(仕事絡みのパーティーは苦手だが、人脈は大事にしないとね……)
渋々出かけるレオンを見送ると、ディフは小さくため息をついた。
「日曜なのに……な」
足下にすりっとやわらかな温もりが触れる。屈みこみ、白い毛皮をなでた。
「ありがとな、オーレ」
「にゅ」
休日なのにレオンと離れるのは寂しいが、だからこそできることもある。
※ ※ ※ ※
「あったかくしとけよ、今日は冷えるからな」
「大丈夫」
「気分悪くなったら言えよ」
「ディフこそ……」
ケロっとした顔をしているけれど、彼が熱を出して寝込んでから、まだ四日しか経っていないのだ。
コートを着て、手袋をはめて、仕上げにすっぽりと真新しいニットの帽子を被る。ディフが革ジャケットの下に着ているのはいつもの綿のシャツではなく、タートルネックの薄手のセーターだ。
今日は三人で朝早くからお出かけ。ハンドルを握るのはディフ。オーレは家でお留守番。
カリフォルニア通りを西に。ヴァン・ニース街を左折して、101号線を南へ南へ。
見慣れたソーマ地区を離れて車は走る。双子は物珍しげに窓の外を見回した。
やがて、広々とした15番街に入って行くと、右側にオレンジ色の建物が見えてきた。建物の土台の部分は青みを帯びた緑色。外側には同じ色の頑丈な柵。そばを通りすぎる時、庭木と柵の間からちらりと、芝生に覆われた庭が見えた。
南北に細長く、かなり、広い。
「あれが、そう?」
「ああ。サンフランシスコ・アニマルケア&コントロールだ」
ずいぶんと遠くまで来てしまったような気がする。でも手首に巻いた時計を確かめると、10分も経っていないのだった。
建物の手前の駐車場では見覚えのある二人組が待っていた。
車を降りると、かすかに犬の声が聞こえた。
待っていたのは、サリーとテリー。さすがに寒いのか、テリーはきっちりとダウンジャケットを着込み、サリーはダッフルコートにニットの帽子とマフラーでもこもこだ。
「よっ! 元気か!」
テリーは挨拶の途中でふと言葉を区切り、しみじみと双子の顔を見比べている。ニット帽で髪の毛が隠れた二人はそっくりで、ほとんど見分けがつかなくなっていたのだ。
サリーが迷わず空色の帽子を被った少年に呼びかけ、次いでカフェオレ色の帽子に手を振った。
「おはよう、オティア、シエン」
「……そっか」
小さくテリーはうなずいた。一度、見分けがつけば大丈夫。
(空色の帽子がオティアで、カフェオレ色がシエン、と……)
今日はサリーとテリーの紹介で、サンフランシスコのアニマル・シェルターを見学に来たのだ。
レンガ色の入り口には、白い文字でこう書かれていた。
San Francisco Animal care&control
CITY&COUNTRY OF SAN FRANCISCO
「ずいぶんおっきな建物なんだね」
「ああ、大所帯だからな」
ガラスのはめ込まれた白いドアをくぐり、中に入る。受付カウンターに居た恰幅のよい女性がぱっと顔を上げた。ふっくらした顔全体に、人なつっこい笑みが浮かぶ。
「まああ、テリー先生にサリー先生」
びっくりするほど声は高く軽やかで、まるで水晶のベルみたいによく響いた。
「今日は往診の日だったかしら?」
「いや、見学」
「俺たちじゃ、ないんですけど……この子たちが」
双子は目をぱちくり。
そうだ、テリーもサリーも獣医さんなんだ。
わかっているはずなのに、改めて『先生(doctor)』と呼ばれてるのを聞くと、ちょっと不思議な感じがする。
「いらっしゃい。見学は大歓迎よ。あたしはマージョリー。マージって呼んでね」
「ども」
「こんにちは」
挨拶を返しながらも双子はじりじりと後退し、ディフの傍らに寄った。シエンが内側に、オティアが外側に。いつもの外歩きのポジションだ。かろうじて傍ら、後ろに隠れてはいない。
(うん、努力している)
「あー、そっちの赤毛さんは見覚えあるわよ。確か、探偵さんでしょ」
「マクラウドです」
「そうそう、マクラウド探偵事務所!」
マージは金髪の双子と赤毛の所長を見比べ、納得したようにうなずいた。
「ああ、なるほど、そう言うことなのね」
ディフが説明しようと口を開く。だがそれより早く、水晶の声が朗らかに鳴り響く。
「実践訓練? 良いことね。迷子のペットを探すのなら、道はおのずとここに通じるもの!」
「うん、まあそう言うことで」
「それにしても、いつの間にこんな可愛い助手さんを雇ったの、マックス?」
「去年から……」
「双子の兄弟なのね。ひと目でわかるわ!」
「うん、双子だ。こっちがオティアで、こっちがシエン」
「そう、よろしくね」
双子はまた、目をぱちくり。ディフが押されてる……。
自分より10インチは背の低いおばちゃんに、小学生みたいにあしらわれてる。
「……よろしく」
「よろしくお願いします」
「OK,Kids. じゃあこのビジターカードを見える所に着けてちょうだい」
プラスチックの入館証を渡され、名簿に住所と名前を記入する。
「さーてと。ケンネルに入る前にそこの消毒スプレーで手を消毒してね……はい、よろしい。ガイドは必要かしら?」
「いや、大丈夫」
「OK。一通り中を見て回ったら庭にいらっしゃい」
マージはぱちっとウィンクした。
「散歩から帰ってきた犬たちに会ってやって。 アダブションまでに、できるだけ多くの人間に慣れさせたいから」
※ ※ ※ ※
「アダプションって、何?」
マージのさえずりが遠ざかってから、シエンがようやく口を開いた。
「犬の譲渡会のことだ」
すかさずテリーが答える。
「ここには、迷い犬や、ストリートで保護された犬が収容されている。飼い主の都合で飼育できなくなったペットも連れてこられる」
「そう言うペットたちが、新しい飼い主を見つけられるように……人間の中で暮らせるよう、訓練して。健康を管理する施設なんだ、ここは」
「健康?」
「ああ。避妊手術にワクチンの接種、保護された時に病気だったり、怪我をしていたら治療もする」
「ふうん……」
「もちろん、迷子になったペットは、飼い主の所に帰るのが一番なんだけど……ね」
「時には、虐待されている動物を保護する場合もあるんだ」
「どれくらいの犬が、連れてこられるの?」
「そうだな……だいたい平均して一日に39頭ぐらいかな」
「そんなに?」
「まあ、な……」
うなずくテリーの動きには、何となく勢いが無かった。ほんの少し眉を寄せて、悲しそうな顔をしていた。
次へ→【4-15-2】ケンネルにて
▼ 【4-15-2】ケンネルにて
通路を進み、分厚い頑丈そうなドアを開ける。もわっと獣のにおいが強くなった。同時に、わん、きゃん! くーん、がり、がりがり……
吠える声、鼻を鳴らす声、床をひっかく音、その他声になる前の息遣い。
生きている犬の気配がどっと押し寄せてくる。
「ここがケンネル(犬小屋)だよ」
防音の効いたドアの奥には、さらにフェンス状の扉があった。外側の扉を閉めてから、改めて奥の二枚目を開ける。
犬が逃げ出さないよう、二重構造になっているのだ。
扉の向こうには細い通路が続き、左右には細長い小部屋が並んでいる。部屋の入り口は素通しの金網。中には1頭ずつ犬が入っている。
なるほど、ケンネル(犬小屋)だ。
そこは清潔で明るく、空気の管理も室温も行き届いていた。
それでも、部屋の中にひしめく四つ足の生き物のにおいを完全に消し去ることはできない。
「こっちの犬と、こっちの犬では首輪(カラー)の色が違うね」
「ああ。オスは青いのを、メスはピンクのを着けることになってるんだ」
テリーはそっと扉に貼り付けられたカードに手を触れた。犬を驚かさないように、ゆったりした動きで。
「ここに名前と年齢、健康状態が書いてある」
「全部名前がついてるの?」
「そうだよ。ストリートで保護された犬は、本名がわからないから新しい名前をつけるんだ」
「そうでない犬は……」
「…………」
双子は黙って、うつむいてしまった。
そんな二人を見ながら、テリーは低い声で淡々と続けた。まるで教科書を読み上げるように落ち着いた口調で。
「世話のできなくなった飼い主に、連れて来られるペットもいる。残念なことに」
「……知ってる、さっき聞いた」
「そうだったな。引っ越し先では動物が飼えない。世話にかけるお金がない。暴れたり、家具を壊したり、吠えたり騒いだりする。だいたい、原因はこんな所だ……」
「…………」
「シェルターに連れてこられた動物は、5日間の保護期間内に譲渡する決まりになっている」
珍しくオティアが口を開いた。
「5日を過ぎたら?」
「民間のシェルターに移す。ボランティアに一時的に預ける事もある……」
「民間でやってるとこもあるのか」
「ああ。民間のシェルターでは、保護期間が定めらていないからな。設備のキャパシティが許す限り、受け入れてくれる」
オティアはじっとテリーの顔を見上げた。紫の瞳がまばたきもせずに問いかける。
その先があるはずだ、と。
テリーは小さく息を吐き出し、言葉を続けた。
「安楽死させるのは、最後の手段だ。だけど、収容するにも限度がある……1頭でも多くの動物に新しい飼い主が見つかるように。second-chanceが訪れるように。最大限の努力をしてる」
「だれも、元気な犬に安楽死の注射なんか打ちたく無いからね」
サリーの声はいつもと同じように静かで、澄んでいた。けれどほんの少し震えているようだった。
「個々の家庭に色々事情はあるし。何よりも今、目の前でしっぽを振ってる犬の命を自分の手で断ちたくない。恐ろしいし、可哀想だ。その気持ちは、とても自然なことだよ」
サリーはきゅっと拳を握ると左胸に当て、しばらく深い呼吸を繰り返していた。
「だけどね。本当にその子を愛しているのなら……どんなにつらくても。最後の息を吐き出す瞬間まで、飼い主にそばに着いていてほしい。見捨てないでやってほしい。見知らぬ人たちの中で、その子の一生を終わらせちゃいけない」
言葉が途切れるその刹那、ひゅーっとのどを鳴らして、吸い込んでいた。双子も。ディフも。テリーも、サリーも。生きている犬の生み出す体温と、湿り気、においの溶け込んだ空気を。
そして、聞いていた。
感じていた。自分たち以外の小さな心臓の奏でる、テンポの速いリズムを。
ぶるっと身震いすると、サリーは食いしばった歯を内側からこじあけた。強靭な意志の力を振り絞って。
「犬は命の消える瞬間まで、その人を待っているから。心臓が止まり、瞳に何も映らなくなる最後の一秒まで、ずっと……」
「きゅーうるううん」
不意に、甲高い声が響き渡る。サリーの立っているすぐそばのケンネルの主が。黒と白の、ふかふかした毛皮の犬がきちっと座り、扉に顔をくっつけていた。
うるんだ黒い瞳でじっとサリーを見上げて、わっさわっさとしっぽをふる。まるでモップだ。
「うん……ありがとう、ゴドー………」
「くぅうん」
金網の隙間から手を伸ばすと、サリーは黒いふかふかの毛皮を撫でた。ゴドーと呼ばれた犬は精いっぱい舌をのばしてサリーの手をぺろぺろと舐める。
「えっ」
はっとサリーが目を見開き、それからまじまじと犬の顔を見た。
「きゅうう」
引き結ばれていた口がゆるみ、ほわっとやわらかなほほ笑みが広がる。
「そっか……良かったね」
「お」
テリーが入り口のカードを確認し、うなずいた。
「こいつ、アダプションが決まったのか」
「うん……」
にっぱーっと顔全体で笑うと、テリーはばしばしと友人の背中を叩いた。
「よかったなー。何てったって、ゴドーって名前はサリーがつけたんだものな!」
「そうなの?」
「おお、こいつは名前つける天才だよ。サリーが名前つけた犬とか猫は、すぐ反応するんだ。まるでずーっとそう呼ばれてたみたいにな!」
シエンとオティアは、合図でもしたようにそろってディフの顔を見た。
ディフは熱心に扉に貼り付けられた犬の情報をメモしていたが、気配に気付いて振り返った。
「……どうした?」
「………別に」
「ん、大したことじゃないよ」
「そうか」
オティアはのびあがり、所長の手元をのぞきこんだ。犬の名前、種類、外見的特徴、保護された場所がびっしりと書留められている。
「何で、わざわざメモを?」
「ここ来る時の習慣なんだ。ひょっとしたら、こいつらを探してくれって依頼が来るかもしれないだろ?」
「………」
オティアが首をかしげる。そのわずかな仕草の意味することを読み取り、ディフはゆったりとうなずいた。
「そうだな、確かにネットにも情報は出る。だけど、リアルタイムとは限らない。収容される犬の数は膨大だが、打ち込みは全部手作業だ」
そう言って、ボールペンで手帳の表面をツコツと叩いた。
「それに。犬の特徴が一部なりとも記憶にあれば、0の状態から検索するより早い」
なるほど。
筋は通っている。
「こう、手を動かして書いた方が頭に入るし!」
こう言うところは、アナログだ。
※ ※ ※ ※
「ちょっと待て、そっちじゃない」
双子がケンネルから出て、ロビーに向かおうとするとテリーに呼び止められた。
「今度はこっちからだ」
廊下を左に曲り、行き当たった先のドアを開く。
ひゅうっと冷たい空気が押し寄せてきた。
……外だ。
頬の皮膚がぴりぴりと引きつれ、思わず首をすくめていた。
「あ」
そこは、細長い庭だった。来る時にフェンスの合間からちらりと見えた、あの庭だ。
木に囲まれた、こんもりとした芝生の絨毯。蔦の絡まる小さな張り出し屋根は今は枯れているけれど、夏には生い茂って気持ちの良い日陰になってくれるだろう。
庭の中央には白い消火栓のようなものが立っていて、いくつもの蛇口が突き出していた。
「犬の水飲み場だよ」
そこには、大小合わせて5匹の犬がいた。犬1頭に対して一人ずつ、紺色の袖無しスモックを着たボランティアが着いている。
背中には、白いラインで犬と猫のシルエットと文字が印刷されていた。
『San Francisco Animal care&control』
建物の入り口に書かれていたのと同じロゴだ。テリーとサリー、ディフは彼らと顔見知りらしい。親しげに手を振って挨拶を交わしている。
「ハロー、先生。ひょっとして休日出勤?」
「あら、探偵さんまで。また迷子さがし?」
「いや、今日は見学の付き添い」
話す合間に、ボランティアスタッフは慣れた手つきで犬のリードを外してしまった。
自由になった犬たちは、追いかけっこをしながらぐるぐると細長い庭を走り回る。
「散歩の前と後は、ここでリード外して自由に走らせるんだ」
「そ、そうなんだ」
シエンは正直、びくびくしていた。
さっきの部屋の犬は、ケージに入っていた。外に出る時は、リードでつながれるから大丈夫だと思っていた。
だけど、こんなのは予想外!
しかも、よりによって5頭のうち3頭が大型犬だった。
(一般的には中型犬の部類に入るのかも知れない。でも、シエンの基準から見れば、十分大きな犬だった)
ちっちゃい2頭もやたらと元気が良く、ぴょーん、ぴょーん、と信じられない高さまで飛び上がっている。
シエンはぴたっとオティアに寄り添った。オティアも手を伸ばし、二人はしっかりと手を繋いだ。
ひとしきり駆け回ると、犬たちはとっとっとっとリズミカルに近づいてきた。
しっぽを振ってテリーとサリーのにおいをかぎ、軽くディフを点検し……
熱心にオティアのにおいをかいでいる。鼻をコートに押し付けて、そりゃあもう鼻息で髪の毛が舞い上がるくらいの勢いで。
オティアはほんの少し困った顔をしながらも、嫌がってはいなかった。元々、動物は好きなのだ。
(それにしてもこいつら、何でこんなにテンション高いんだ?)
「オーレだよ」
首をひねっていると、サリーが答えてくれた。
「猫のにおい。気になるんだって」
「あ……」
必然的に、シエンも同じ理由でにおいを嗅がれていた。
オーレには慣れたけど、この犬たちは、全然体の仕組みが違う。
ごつごつしていて、勢いがあって、別の生き物だ!(いや、確かに別の生き物なんだけど)
シエンは硬直し、ぎくしゃくした動きでオティアの後ろに隠れてしまった。
「ああ……やっぱりああなっちまったか」
少し離れた位置で見守っていた大人三人は、顔を見合わせた。
「勢いのある連中が、そろってるからなあ」
「オティアは平気みたいだよ?」
「ほんとだ。穏やかな目、してる……」
次へ→【4-15-3】ばったり!
▼ 【4-15-3】ばったり!
犬たちの遊び時間の終了とともに、双子と保護者たちは部屋の中に戻った。
最後の頃はシエンも最大限の勇気を振り絞り、一番小さくて、一番おとなしい犬の頭をなでることができた。
「人なつっこい連中だったな」
「ああ、聞き分けのいい奴らで助かった」
「……そうだね」
言葉少なに目を伏せるサリーの背を、どんっとテリーが叩く。
「大丈夫だって。適応訓練も上手く行ってるし、もう何処に出しても恥ずかしくないぜ、あいつらは!」
「……うん」
「適応?」
「ああ、中には人間に接するのを怖がるようになってる犬もいるから、な」
「あ、それで……」
『犬たちに会ってやって。 アダブションまでに、できるだけ多くの人間に慣れさせたいから』
シエンの頭の中で、マージの言葉と今聞いた事実がカチリと噛み合った。
「うん、そう言うことだ」
ロビーまで戻ってくると、見覚えのある人物に出くわした。
そう、特にシエンは毎日会ってる相手だ。でも、何でここにいるんだろう?
アイラインのくっきりしたラテン系の顔立ち、張りのある声。彼がいるだけで、お世辞にも暖房が効いてるとは言いがたい真冬の部屋が、真夏に変わるこの不思議。
「あ」
「やあ、シエン! こんにちは、オティア。ディフも、サリー先生も、おそろいで!」
デイビットはぱちくりとまばたきして、双子を交互に見つめた。
「さすが双子だ、こうしているとそっくりだね。一瞬、どっちがどっちかわからなかったよ!」
「デイビット……どうして、ここに?」
ぱちっと陽気なラテンガイはウィンクをして答えた。
「ちょっと、仕事の打ち合わせに」
「……」
ディフはしばらく顎に手を当てて考えていた。
「いつの間にペット弁護士も始めたんだ?」
「いや。いや、冗談だよ。もっともレイは、本当はペット弁護士になりたかったんだそうだけどね」
「いいんじゃないか。彼、向いてると思うぞ」
「でも依頼人に怖がられるから、あきらめたって」
「あー……」
「うん……」
ペット弁護士。動物の権利問題を専門に扱う弁護士のことだ。必然的に飼い主や動物との接触が多くなる訳だが……
顔を合わせるたびに、クライアントがソファの下に隠れて「ふしゃーっ!」なんてことになったら、困る。
「ところで、そちらの青い目の紳士は初めて見る顔だね?」
「ああ、彼はサリーの大学の友人で、テリーだ。テリー、こちらはデイビット・A・ジーノ。レオンの事務所のシニアパートナーだ」
「やあ、テリー」
「ども、よろしく」
「サリー先生のご学友ってことは、君も獣医さんなのかな?」
「はい、まだ学生ですけど……」
「ンまあ、デビーじゃないの!」
負けずおとらずうるさい……いや、にぎやかな人がやってきた。
「やあマージ」
思わず目を丸くするシエンの前で、マージとデイビットはがっつりと熱い抱擁を交わした。
(でっ、デビーってっ。今、デイビットのことをデビーって!)
マージおばさんにかかれば、デイビットもboy扱いらしい。
サリーは行儀良く微笑を浮かべ、テリーはくすっと笑い、ディフはぴくっと眉をはね上げたが、口元がかすかに緩んでいる。
オティアは表面上は微動だにせず。
それぞれ程度の差はあれ、呆気にとられる五人の前ではマージがわしわしとデビー坊やの頭をなで回していた。
「来てくれて、うれしいわ、ハンサム・ボーイ」
「君こそ、あいかわらずキュートだね!」
「ありがと、お世辞でも嬉しいわ」
「とんでもない、本心だよ!」
そう、彼はいつだって本気だ。人種、年齢、職種を問わず、すべからく女性を褒め称える時はいつでも本気で、心の底から全力で。
「今日はうちのLittle-princessを連れてきたんだ。ママ・マージに久しぶりに会いたいって言うからね」
「まあああ、嬉しいわ……彼女、元気?」
「ああ。車の中でお待ちかねだよ!」
(Little-princess……ああ、あの子か)
デイビットは犬を飼っている。これまで何度か事務所で話題に出たことがあった。
どうやら、彼の愛犬も元はこのシェルターに収容されていたらしい。
(ちっちゃなお姫さま、かあ。きっと、小さくて可愛い犬なんだろうな。オーレみたいな感じの……)
そのまま、連れ立って駐車場に出る。塀の外は容赦なく風が吹きつけ、庭よりずっと寒かった。双子はどちらからともなく手袋を取り出し、はめた。
「あれ?」
デイビットが迷わず一直線に歩いて行く先は、見慣れたシルバーの高級車ではなく、ごっつい四輪駆動車だった。
それこそディフが運転してきたような、海岸でも山道でもばんばん走れるようなワイルドな作りの車だ。
「ん? どうしたんだい、シエン」
「車が……ちがうような」
「ああ、こっちはプライベート用だよ!」
「そうなんだ」
「荷物もたくさん積めるし、何と言っても丈夫だからね!」
確かに、犬を連れ歩くのならこっちの方が向いているだろう。
人の気配を察したのか、車の中で何かが動いた。ぐらっと四角い頑丈な車体が揺らぐ。
(あれ、思ったよりちょっと、大きいかも?)
シエンは秘かに頭の中で犬の予想サイズを変更した。
「まあ、相変わらずパワフルね、彼女」
「ドッグパーク(屋外型の広いドッグラン)に行く途中で、ここの近くを通りかかると大騒ぎするんだ。ちゃんと覚えてるんだね」
デイビットは勢い良く後部のドアを開け、中に一声、朗々たる美声で呼びかけた。
「出ておいで、ベアトリス!」
ぐらぁり。
車体が傾き、中から白地に黒い斑点の散ったしなやかな獣が降りてきた。
「わ」
「うわぁ」
「おお」
がっちりした骨格、広い胸板、ピンと立った両耳。大人が四つんばいになったほどの大きさの巨大な犬。
(うそうそうそうそうそ、こんなサイズの犬、いるのっ? って言うかこれ本当に犬?)
(何か別の大動物じゃないのっ?)
テリーが軽く口笛を吹き、感嘆交じりにつぶやいた。
「グレートデンか。美人さんだなぁ」
「うん、美人さんだ」
のんびりした口調でディフが相づちを打つ。
「思ったより小柄だな。やっぱり女の子だからか?」
(これでちっちゃいってっ! そりゃあ、ディフから見たらそうかも知れないけどーっ)
「でしょうねー。骨格からしてほっそりしてるし」
(え、え、サリーまで何言ってるの?)
「何って言うか、華奢だよな」
「うんうん、確かにLittle-princessだ」
(どこがっ)
『ちっちゃなプリンセス』は優雅に身をくねらせて主人の傍らに足をたたんで座った。
いくぶん動きは大人しくなったものの、ぱたぱたと短い尻尾が左右に揺れている。
「紹介しよう、ベアトリス。私の友人たちだ……それと、この子はシエン。前に話したことがあったね。うちの事務所の有能なアシスタントだ!」
「うぅ?」
ベアトリスはちょこんと小首をかしげると、ぬうっと鼻面を寄せてきた。むふうっと生暖かい息が顔をなでる。
その瞬間、ぴきーんっとシエンの中でメーターが振り切れてしまった。
ディフが何か言おうとしたが、それより早くオティアが進み出て、シエンと巨大な犬との間に割って入る。
「うふぅっ」
ベアトリスは耳を伏せると、今度は熱心にオティアのにおいを嗅ぎ始めた。庭で出会った犬たちと比べると、上品に、適度な距離を保ちつつ。
その様子を見守りながら、マージは目を細めてにこにこと顔中で笑っていた。
「ほんと、この子の引取先を探すのは苦労したわ。気立ての優しい、賢い子なんだけどサイズがね」
グレートデンを飼うとなると、広い家でなければ難しい。
さらに、飼い主にも犬のパワーに負けないだけの体力と気力が求められる。
「譲渡会にやってきたデビーをひと目見て思ったの。この人ならぴったりだって! だからね、一直線に突進して、言ったのよ。『あなたにぜひ、会って欲しい犬がいるんです』って」
「あー……」
「うん……」
目に浮かぶようだ。きっとためらいもせずデイビットに近づき、有無を言わせず引っ張って行ったに違いない……。
この、巨大なお姫さまのご寝所まで。
「おお、マージ。私も、イザベラもどれほど君に感謝してるかわからない。ベアトリスに引き合わせてくれたんだからね!」
本当に、ベアトリスは気性の優しい、穏やかな犬だった。
全身に喜びを表しながらも、決して乱暴にぶつかったりしない。マージが撫でてくれるまできちっと座って待っている。
「ハロー、ベアトリス。元気そうね……キスしてくれる?」
途端にベアトリスは後足で立ち上がり、強靭な前足をマージの肩にかけて顔を舐めた。ぞーりぞーりと、それこそ目鼻を削り取られそうな勢いで。しかしマージは一向にひるむ気配もなく巨大な犬を抱きしめ、なで回している。
「んー、あいかわらず情熱的なキスだこと!」
がっつりと再会のハグ&キスを堪能してから、巨大なお姫さまは再び双子に視線を向けてきた。
オティアはまばたきもせずに、じっと見ている。
何て大きな犬だろう。まるで小馬だ!(まだ実物を見たことはないけど、きっとこれぐらいの大きさだろう)
でも、穏やかで優しい目をしている。
「君も、彼女に挨拶してくれるかい?」
こっくりとうなずくと、オティアはベアトリスに歩み寄り、手をさしのべた。
静かに、静かに、そっと。上からではなく、下から。
ビロードのような鼻先が手のひらを掠める。
ベアトリスは上品ににおいをかぐと、尻尾を振って顔をすりよせた。
「うわ」
仕草はオーレと同じ、だけど何て力だろう。ぐらっとよろけて、急いで足を踏ん張った。
「お、持ちこたえた」
「がんばってるね、オティア」
大きさとパワーに慣れてさえしまえば、ベアトリスはとてもつき合いやすく、愛らしい生き物だった。
オティアは慎重な手つきでがっしりした首を撫で、頭を撫でた。
温かい。
今まで接してきた、どんな犬よりおおらかで、余裕がある。
シエンはオティアの背後に隠れ、そっとベアトリスの様子を伺っている。さすがに今度は、触る勇気はなかった。
しばらくベアトリスは目を細めてされるがままになっていたが、不意にぴくっと耳を立てた。
ほどなくゆっくりと駐車場に車が入ってきた。家庭用のワゴン車だ。
駐車スペースに停まり、ドアが開く。
家族連れが降りてきた。父親と母親、小学生ぐらいの息子ともっと小さな娘。四人とも晴れやかな笑顔で、特に男の子は弾むような足取りで歩いている。
嬉しくてたまらないのだろう。
「あら、お客様だわ……行かなきゃ。それじゃ、元気でね、Boys」
マージがいそいそと出迎えた。
「電話したアンダーソンです。犬を迎えに来ました」
「はい、お待ちしてましたわ、アンダーソンさん! 準備はできています、どうぞお入りください」
オレンジ色の入り口の向こうに消える家族連れを、一同は厳かな気持ちで見送った。
「……ゴドーを迎えに来たのかな」
「そうだよ。きっと」
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▼ 【4-15-4】パンの器にスープたっぷり
「それじゃ、また月曜日に!」
帰路につくデイビットと彼の愛犬を見送り、手を振る。ふとサリーはシエンの手元に目を留めた。
「あれ。もしかしてそれ新しい手袋?」
「あ……うん」
シエンは微妙な表情でうなずく。
「きれいな色だね」
「ありがと……」
オティアはちらりと二人に視線を向けたが、結局何も言わなかった。
「抹茶クリームっぽい色だね」
「そっか? どっちかっつうとピスタチオクリームだろ」
「結局、食べ物か……」
ディフが手首の時計を確かめる。
「そろそろランチタイムだな。飯食いに行くか? 案内してもらったお礼だ。ご馳走させてくれ」
「お、サンキュー!」
「何か食べたいもの、あるか?」
「んー」
サリーが目をぱちぱちとさせて首をかしげた。
「やっぱり、温かいものがいいかな……クラムチャウダーとか」
「OK!」
※ ※ ※
朝とは逆に、101号線を北へ北へと向かい、陸地の端っこにやってきた。
海の上を渡る風はことさらに冷たい。
車を降りた所でオティアの携帯にメールが入った。タイトル無し、本文のみのショートメッセージ。内容はいたって単純。
『オーレは元気。ランチは小エビ入りの缶詰めをさしあげた』
「……」
目を通し、黙って携帯をしまう。
「ミャウ!」
猫?
はっとして顔を挙げる。
すぱっと青い空を背にした、太い柱の上に陣取った丸い看板。舵輪をかたどったフレームに、カモメが一羽止まっていた。寒さのせいか、もこもこに羽毛を膨らませている。看板の円周にそって地名が。そして中央には赤々と誇らしげに、あの甲殻類の姿が描かれていた。
「……カニ」
「ああ、カニだな」
「イチョウガニって言うんだ。ほら、甲羅の形が葉っぱに似てるだろ?」
「……」
記憶の中でイチョウの葉っぱと看板のカニを比べてみる。色は似ても似つかないが、確かに扇型の甲羅が似ている。
「ああ」
本日のランチはフィッシャーマンズワーフのボーディンベーカリー。
レゴで組み立てたようなカラフルな四角い建物の内側に一歩入るなり、こんがり焼けた小麦粉の匂いに包まれた。
甘くて、こうばしくて、ほんのちょっぴり酸っぱい。それまで大人しく体の片隅で控えていた空腹感がにゅうっとのびあがり、大声で叫び始める。
『おなかがすいた。おなかがすいたぞ!』
壁や天井、あるいはガラスケースの中。店内にはいたる所にパンで作った動物や、クリスマスツリー、リースが飾られていた。
「あ」
シエンの目が引きつけられる。長々と横たわる、ほぼ等身大のアリゲーター。
「これ、全部パンでできてるんだ」
「ああ。ここまで来ると芸術だな」
(ディーンが作ってたロボットのパン。粘土じゃなくて本物のパンで作ったらこんな感じなのかな?)
「……」
オティアは商品の棚に山盛りにされた、とあるパンをじっと見ていた。これは展示用じゃなくて、ちゃんと食べられるらしい。
「イチョウガニ……」
「ああ。イチョウガニだな」
「これ、カニが入ってるのか?」
「いや、形だけだ」
「そうか……」
「食いたいか、カニ」
「いや……別に」
ランチタイムを迎え、カフェの中は徐々に混み始めていた。
一行はディフを先頭にわさわさと人混みをかき分け、どうにか大人5人が座れる席を確保する。
メニューを広げて、さて何にしようか首をひねる双子にサリーがほほ笑みかけた。
「スープとコーヒーのセットがおすすめだよ」
「スープ?」
「うん。ミネストローネとか、チリもあるけど俺はクラムチャウダーが一番好きだな」
「じゃあ、それで」
「ん」
「俺も」
「俺は……サンドイッチ追加するかな。テリーも食うか?」
「食う食う! サンキュ!」
「カニでいいか?」
「OK、OK!」
やがて、運ばれてきた料理を見て双子は目を丸くした。
スープって言うから、カップに入ったのを想像してたのに!
現れたのは、丸いパンをくりぬいた器に、たぷたぷのクリームスープを満たした代物だった。ご丁寧に、くりぬいたパンもごろっと横に添えられている。
「こ、これ、どうやって食べればいいの?」
「中身を食べながら、この蓋の部分を浸して食うんだ……こんな風に」
ディフはおもむろに、パンの塊を太い指でむしっとちぎり取り、チャウダーに浸してみせた。
「器は皮の部分だけだから、けっこう丈夫なんだ。こぼれる心配はない。中身食べ終わる頃には汁を吸って、いい具合にほやほやになってる」
初めて見た、パンの器なんて!
実質的にこの巨大な丸パン、まるごと一つが一人分ってことなんだ。食べ切れるだろうか?
「食べきれない分は、お持ち帰りできるからね」
「………うん」
巨大なパンの器に満たされた、濃厚な味のクリームスープ。具材は細かく刻んだジャガイモ、ニンジン、キャベツ、わすれちゃいけない、むき身のアサリがたっぷりと。
一口含むと、体いっぱいに海の香りが広がった。
恐る恐る千切って浸してみたパンは、いつも食べてるものと違ってほんのりと酸っぱい、ヨーグルトに似た風味があった。
「このパン、酸っぱい」
「サワードーって言うんだ。サンフランシスコのご当地ブレッド」
「ふうん」
「美味いか?」
「うん、割と好きかも」
答えるシエンの隣では、オティアが黙々とチャウダーに浸したサワードーを口に運んでいた。
「サンフランシスコのクラムチャウダーは色々あるけれど、ここのは日本のクリームシチューに似ていて食べやすいな」
「日本にもあるのか、クリームシチュー」
「あるよ。こっちのとはちょっと違うけど、寒い日には、よく作るね。固形のルー……こっちで言う所のホワイトソースが売ってるし」
「缶詰めじゃないんだ」
「うん。思いっきり分厚い板チョコみたいな形をしてる」
「ははっ、チョコと間違えてかじる子がいそうだな」
サリーはそっと目をそらした。
「あー……そうだね……たまに……いるよ」
一瞬、テーブルに微妙な沈黙が訪れる。
「……かじったのか、彼女」
名前こそ出さないものの、おそらく全員、同じ人物の顔を思い浮かべている。
「甘いの期待したら、しょっぱくてショックだったって」
「固さは問題じゃないんだ……」
「どんだけ丈夫な顎なんだ」
ガラスの壁の向こうでは、実際にパンを作っている様子を見ることができた。
白衣を着た職人たちが鮮やかな手つきで生地をこねて、形を整え、オーブンの天板に並べて行く。
同じ作業をしているのに、一人一人の動きが微妙に違うのだ。
シエン熱心に見ていた。あまり熱心に見ていたものだから手が止まり、スープがさめてしまうほどだった。
(楽しいんだな)
目を輝かせてパン作りに見入るシエンを見て、ディフは嬉しかった。
一昨年の冬に買い物に行った時のことを思い出す。オープンカフェで、ホットビスケットを食べていた姿を。
常にびくびくと周囲を警戒していた。楽しむなんてもっての他、増して何かに興味を示すなんて夢のまた夢。
あの時と比べて、何と言う進歩だろう。
(思いきって、連れ出してよかった……)
「シエン」
「ん?」
「自分でもパン、焼いてみるか?」
頬をうっすら赤くそめて、こくっとうなずいている。
「よし、それじゃ今度、ソフィアに作り方を教えてもらおう」
「うん!」
※ ※ ※ ※
巨大なパンの器にたっぷりスープ、そして熱いコーヒー。テリーとディフはあまさず平らげ、おまけにカニのサンドイッチもぺろり。
しかしながらやはりと言うべきか、サリーと双子はさすがに全部は食べきれず……
「すいません、ドギーバッグを三つお願いします」
「かしこまりました」
防水加工の施された持ち手付きの四角い箱に、くり貫いた蓋の部分のサワードーがきちっと収められる。
「何でこれ、ドギーバッグ(犬用バッグ)って言うの?」
すかさず犬の専門家テリーが答える。
「昔は、食べきれない分を『犬用に持ち帰る』って言って包んでもらったんだ。その頃の名残だな」
「だから犬の絵が付いてるんだ」
「そうだよ」
何となくおかしくなって、シエンはくすっと笑った。
「どうした?」
「うん。この中には、犬飼ってる人いないのにって思って」
「……そう言えばそうだな」
「猫はいるけどね」
「Kitty bagってのは聞いたことないな」
箱に印刷された犬のシルエットをつぶさにオティアが観察している。
四角いマズル(鼻面)、ピンと立った耳、短い尻尾に短い足。全体的に角張って、がっしりした体つき。
「……テリアだ」
「ああ、テリアだな」
「スコティッシュ」
「そうだね、スコッティの特徴だ」
オティアは満足げにうなずいた。
※ ※ ※ ※
「ただいま、イザベラ。MySweet、我が愛しの大輪の薔薇よ!」
帰宅するなり、ディビットはいつものように妻を抱きしめ、いつものように熱い口付けを交わし、いつものように彼女の美しさ、優しさ、気高さをほめ讃えた。
「今日はドッグパークの帰りにシェルターに寄ったんだ。そこで誰に会ったと思う? シエンとオティアだよ!」
「まあ、デイビット、珍しい人に会えたのね」
「うん、ばったりとね。いい機会だから、うちのLittle-princessを紹介したよ!」
デイビットはわしわしと傍らに控えるベアトリスの頭をなで回した。
「ベアトリスもあの子たちが気に入ったようだ」
イザベラはほほ笑んで夫の言葉に耳を傾ける。
その後、デイビットの報告は延々と30分以上に及んだ。話が一区切りついた頃合いを見計らい、イザベラはにっこり笑って夫の唇にキスをした。
「それはよかったわね、デイビット」
「うん、実に有意義な時間だったよMySweet」
「じゃあ、手を洗っていらっしゃい。そろそろお昼にしましょう」
「ああ、そうだねMy Honey」
一方、マンションに戻ったオティアとシエン、そしてディフは……。
「ただいま」
「なーっ」
オーレの入念なチェックを受けたのだった。それはもう、足の先に至るまで念入りに。
留守番して拗ねてる所に、知らないにおいをわんさかつけて帰ってきたものだから、お姫さまは大むくれ。
ぺしぺしと尻尾で叩きながら三人の間を練り歩き、かぱっとピンクの口を開けて甲高い声で鳴いた。
※このアイコンは化け猫アイコンメーカーで作成しました。
「なーっ、なーっ、なーっ」
「何か……猛烈に抗議されてる気がする」
「みゃーっ!」
「手、洗ってくるか」
「み」
オーレは耳を伏せてじとーっと三人をにらみつけている。あまつさえ背中をまるめて尻尾を膨らませた。
ものすごく、目つきがわるい。
「……シャワー浴びた方が良さそうだな」
「ん」
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▼ 【4-15-5】ミルクのお粥が鍋いっぱい
その日、ハンス・エリック・スヴェンソンはいつものように早朝に帰宅し、シャワーを浴びるのもそこそこにベッドに倒れ込み、泥のように眠った。目を覚ますと、きっちり時刻は11:30‥‥‥これまたいつも通り。
見事な昼夜反転生活だが、ナイトシフト(夜勤)の月はこんなものだ。本当は、もう少し眠っておいた方が良いのだろう。
けれど、昼間寝るとどうにも眠りが浅くなる。何かに追い立てられるような夢を見て、かえって疲れてしまう。
これぐらいが丁度いいのだ、多分。
空気が乾燥しているせいか、やたらとのどが乾いていた。手探りでメガネをかけ、よろよろと台所に向かう。
何てこった。昨日、帰りがけに買ってきた牛乳がキッチンのテーブルに出しっぱなしになっている!
まあ、いいや。
現在、カリフォルニアは寒波到来真っ最中。6時間ぐらい室温にさらしたところで悪くなることもないだろう。
今更と言う気がしないでもないが、冷蔵庫に入れようと扉を開ける。
「あ」
……まだ1本、飲みかけが残ってる。うっかりしてた。しかもこれ、賞味期限が明日までじゃないか!
参ったな。2リットル入りのボトルにまだ半分以上残ってる。飲みきれるだろうか?
「……とにかく顔、洗おう」
洗面所に向かい、験直しとばかりに念入りに歯を磨き、顔を洗い、ヒゲを剃る。部屋に戻ると、チカチカと携帯の受信ランプが点滅していた。
メールが一通。差出人は実家の母。
Dear ハンス・エリック
元気にしてる?
ここんとこカリフォルニアにしては信じられないくらいの寒さが続いてるけど、あなたは大丈夫?
サクラメントも寒いけれど、そちらは海沿いだからもっと冷え込むんじゃない?
おじいさん譲りの体質だから寒さには強いでしょうけれど、警察のお仕事は激務だし、あなたはただでさえオーバーワーク気味なんだから体調には気をつけてね。
タイガーは元気です。
霜柱をさくさく踏んで庭を飛び回っています。
それでね、この間聞かれたrisen grods(デンマーク式ミルク粥)のレシピだけど。
珍しいこともあるもんだわ、あなたが料理に興味を持つなんて!
一体、どう言う風の吹き回し? 明日あたり雪が降るかもしれないわね……
最近の寒さだと、シャレにならないけど。
とにかくざっと書いてみるわね。
ミルクを500ml、お米はだいたい75cc。
ミルクをお鍋に入れて火にかけて、沸騰したらお米を入れる。
弱火にして、時々かき混ぜて煮込む。
全体的にとろーっとなって、好みのやわらかさになったらできあがり。
塩ひとつまみと砂糖を適量。
好みでバターも入れて。
あと、忘れちゃいけないシナモンをたっぷり!
とにかく気前よくたっぷりよ。
小イブ(12/23)のご馳走ですものね。
余ったら、七分立てしたホイップクリームとアーモンドの粉末を入れて、冷蔵庫で冷やしてris a l'amand(リース・アラマン)にするといいわ。
チェリーソースも忘れずにね。
それじゃ、愛してるわ
ママより
「……え」
携帯画面を凝視したまま、エリックはパチクリとまばたき。もう一度、まじまじとレシピの最後の一文を読み返した。
ris a l'amand(リース・アラマン)、毎年クリスマスイブの夜に食べる、冷たいデザート。
チェリーソースをかけたアーモンドの香りのライスプディング。丸のままのアーモンドが出てきたら、幸運はその人のもの。
あれって、23日の夕食の残りのリサイクルだったのか!
「知らなかった……」
道理でほんのり塩味がきいてると思ったんだ。
台所に行き、準備を始める。
そもそもミルク粥のレシピを母に尋ねたのは、先日シエンが「お粥」を作ってるのを見たからだ。
とろっとしていて、美味しそうだと思った。消化もよさそうだし。いきなり本格的なのを作るのは無理としても、慣れ親しんだメニューなら何とかなるかも知れない。
まずは牛乳を使い切るのが最優先。レシピに500mlとあったところを、1リットルだばっと入れる。
お米も二倍にしてざらっと150cc。さすがに行きつけの食料品店にTAMAKIはなかったので、NISHIKIの2ポンド入りを一袋買っておいた。
ミルクを入れた鍋を火にかけて、沸騰したところで米を投入。弱火にして、その間に着替えをすませる。戻ってきたら、くつくつといい感じに煮え始めていた。
煮詰まったミルクがホワイトソースのようにとろりと粘り気を帯びている。牛乳に澱粉を加えて加熱している訳だから、基本的な成分は同じか。
「しまった、時々かきまぜなきゃいけないんだった!」
慌てて杓子でがしがし混ぜる。底の方にわずかにガチガチと固い感触があった。米粒がこびりついてしまったらしい。
いいや。ふやかしてから洗おう。
「ええと、これいつまで煮てればいいんだろう」
だいたい『好みのやわらかさになったら』とか、大ざっぱすぎるんだ、母さんのレシピは。
何分煮込むって具体的に指定してくれれば楽なのに。その方が失敗も少ないよ、絶対。
「……こんなもんかな……」
最初は鍋の下半分に沈んでいた米は、今や水分を吸い込んでふくれあがっている。塩と砂糖で味をつけ、ひとさじすくいとり、ふーふーさまして口に入れる。
……うん、この味だ。だけど。
「なんかシエンが作ってたのと違うなぁ……」
器に盛りつけ、シナモンを軽く振って食べる。
ちょっと物足りない。今度は景気良くばさばさとかけた。表面がうっすら茶色くそまるくらいにばさばさと。
「ああ……これだ」
おだやかな熱が、すうっと胃の腑に落ちてゆく。体の内側からじわじわと暖まってきた。
しかし、さすがにつくり過ぎた、か。一回食べた程度じゃ減りはしない。
まさか、ここまで膨れるとはちょっと予想外だった。
朝食後、しばらく考えてからエリックはタッパーをとり出し、粥を詰め始めた。
密封容器だし、大丈夫だろう。
※ ※ ※ ※
その日の夜。
サンフランシスコ市警察の鑑識ラボで、休憩室に一歩踏み込むなり、キャンベルはぎょっとして立ち止まった。
何だ、この匂いは! シナモンと、牛乳? それだけなら普通にある組み合わせだ。カプチーノかと思ったが、何か違う。
コーヒー豆とは別のものが混じっている。
見回すと、匂いの元は、テーブルに乗ったタッパーだった。中には白いどろっとした物体が満たされ、同僚がスプーンで熱心に口に運んでいる。
「おい、エリック……何、食ってるんだ?」
「ん? risen grods」
「何?」
「ライス・ポリッジ。デンマーク式のミルク粥だよ。母から作り方教わったんだ」
「そ、そうか……デンマーク料理か……」
バイキング式か。
バイキング式なんだな。
もしょっと粥を口に入れる。とろっとした触感を楽しみつつ、ちょっと噛んでこくんと飲み込む。
うん、バニラアイスよりよほどいい。穀物だし。たんぱく質もとれるし。
(でも……やっぱりシエンが作ってたのとは、何か違うなあ)
スタート地点からして既にまちがってるのだが、当人まったく気付いてない。
「ひとくちどう?」
「……遠慮しとく」
その後、ハンス・エリック・スヴェンソンは三日間、同僚にドン引きされつつミルクのお粥を食べ続けたのだった。
(犬の日/了)
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