ようこそゲストさん

ローゼンベルク家の食卓

【ex9】初夢劇場「虎嫁」

2010/01/03 22:13 番外十海
 
  • 2010年は寅年。月梨さんからいただいた年賀用のイラストにお話をつけてみました。
  • いつの時代か知らねども、遠い遠い南の森の片隅で、ころりと生まれた物語。
  • 虎と嫁なのか。虎の嫁なのか。はたまた虎が嫁なのか……。

記事リスト

拍手する

【ex9-1】暴れん坊の虎神

2010/01/03 22:17 番外十海
 
 これは南の国の物語。
 ぽってりとした肉厚の葉っぱの木々が茂り、ねっとり甘い果実がたわわに実り、色鮮やかな花の香りが、優しく雨に溶ける森の奥。
 
 険しい険しい崖の上に、半ば獣、半ば人の土地神様がおりました。
 
 091031_0124~01.JPG
 illustrated by Kasuri
 
 虎の体に人の顔。風にたなびく赤い髪。
 母なる女神から「この土地を治めなさい」と命じられ、天高く霧に煙る山の頂より、降りてきたのですが……。

 何分、まだまだ若い神様で。気まぐれ、我がまま、ケンカ好き。早い話が血気盛んな暴れん坊。

「ここは俺様のなわばりだ、勝手なマネは許さねぇ!」

 悪いモノが入ってくると追っ払う。

「もっと美味いものもってこーい!」

 おそなえが気に入らないと暴れる。それでも一応、神様としての務めは果たしてくれるし。おいしいものをお供えしておけばご機嫌だったので、村の人々とはそれなりに上手く行っていたのですが……。

 神様もお年ごろ。いつの頃からか「嫁をよこせ!」と暴れるようになりました。

 仕方がないので村の娘を嫁入りさせることになりまして……。

 満月の夜、村外れの神殿に花嫁はただ一人残されました。
 真夜中を少し過ぎた頃、どうっと一陣の風が吹き抜け、黄金の毛皮に身を包んだ虎が現れました。

「おまえが俺の嫁か」

 色鮮やかな花嫁衣装に身を包み、髪に花を飾り、美しく装った嫁を見て虎神様は上機嫌。
 喜び勇んで背に乗せて、険しい崖を駆け上がり、巣穴に連れ帰りました。

「おまえは今日から俺の嫁だ。勝手に一人でふらふら出歩くなよ!」

 半ば虎で半ば人。鋭い牙に炎のように赤い髪。目つき鋭く声は轟き、たくましい手にぞろりと生えそろう虎の鍵爪。らんらんと光る目にはたと見据えられた娘はたちどころに震え上がり、怯えてさめざめ泣くばかり。

「何だ、腹が減ってるのか。待ってろ、餌をとってきてやる」

 ところが。
 一人目の娘は、虎の留守に逃げ出そうとして、ガケから落ちて死んでしまいました。
 仕方なく虎は亡骸を崖の下に埋め、青々とした葉っぱの茂る枝を挿しました。

 二人目の娘は逃げる途中で獣に襲われ、虎が駆けつけた時はもう事切れていました。
 仕方なく虎は亡骸をこんこんと澄んだ水の湧く泉のほとりに埋め、やっと見つけた甘い実を植えました。

 三人目の娘には、将来を言い交わした恋人がおりまして。嫁入りの夜、震える手に山刀を握りしめ、神殿まで助けに来たのです。
 
「何だ貴様は。俺の嫁を横取りする気か?」
「横取りしたのはおまえだ! 彼女は俺の恋人だ! この世で一番、大切な人だ!」
「生意気なやつめ、引き裂いてやる!」

 前足の一振りで、若者はあっさり吹っ飛ばされてしまいました。
 牙をひらめかせ、虎が今しも若者ののど笛に食らいつこうとしたその時。

「まってください」

 花嫁衣装をなびかせて、娘がひしと取りすがったのです。

「私はあなたについて行きます。だから、この人だけはお助けください」
「そんなにこの男が大事か」
「はい。この世で一番、大切な人です」
「………」

 ぷいっと虎は横を向き、耳を伏せて座り込み。尻尾をぱたぱたさせて言いました。

「他の奴のモノなぞいらん。どこへなりと失せるがいい」

 そこで娘と若者は手に手をとって、遠くの町へと駆け落ちしたのでした。
 一人残された虎は、娘が髪に飾っていた花を巣穴の入り口に挿しました。

 二人が帰ってこないので、村ではこんな噂が広まりました。「虎神様の怒りを買って、二人とも食われてしまったに違いない」

 四人目はまだ幼い少女で、朝から晩まで泣いてばかり。
 とうとう三日目の朝、虎は少女を背に乗せて、崖を下り、森を駆け抜けて村まで降りて行きました

「泣いてばかりの嫁はいらん。とっとと家に帰るがいい」

 やがて時が流れて……

 崖の下に青々とした葉が生い茂り、泉のほとりに甘い果実が実り、巣穴の入り口ににおいのよい花が咲いても。
 泣いてばかりいた少女が美しい大人に成長しても、虎は独りぼっちのままでした。

「嫁をよこせー!」

 次第に暴れっぷりが激しくなり、近ごろは家の屋根はぶち抜く、畑の作物を蹴散らす。道の真ん中に大岩を投げ込み、揚げ句の果てに、牛を一頭丸ごとお持ち帰り。
 夜ともなれば村を駆け抜けて、雷の轟くような声で吠えたてるからたまったものではありません。

「嫁をよこせ! でないとお前ら、頭っからばりばり食っちまうぞー」

 困り果てた村人は、天高く霧に煙る頂に住まう、母なる女神におうかがいを立てました。
 すると、お告げが下ったのです。

『まもなく旅の戦士がやってくる。その者を嫁入りさせれば荒ぶる神は鎮まり、よき神になるであろう』

 母なる女神のお告げ通り、翌日、勇敢な戦士が村を通りかかりました。

 すらりとした手足に引き締まった肢体。涼やかな目元、明るい褐色の髪に瞳。だれもがほれぼれとするような美しい………男が。


次へ→【ex9-2】おまえが嫁か?

【ex9-2】おまえが嫁か?

2010/01/03 22:18 番外十海
 
 しなやかに鍛え上げられた肉体。身にまとった虎の毛皮、仕留めた獲物の牙を連ねた魔よけの首飾り。携える剣と手槍は使い込まれ、丹念に研ぎ澄まされ……旅の戦士は、ひと目で歴戦の勇者であると知れました。
 
 091031_2321_Ed.JPG
 illustrated by Kasuri
 
 一夜の宿を求めようと村に立ち寄った戦士の前に、老いも若きも、男も女も、村中全ての人々がひれ伏して口々に言いました。
 お願いしました。
 拝みました。

「お願いです、どうか嫁になってください!」
「え?」
「女神様のお告げなのです!」
「何とぞ、何とぞ、暴れん坊の虎神をお静めください」
「わたくしどもをお救いください!」

 何のことやらわからず、旅の戦士は目を点にしてぽかーんとあっけにとられてしまいました。
 が、詳しい事情を聞くと、おもむろにうなずいてひと言。

「……なるほど、つまり、その虎神を懲らしめれば良いんですね。わかりました」

 何やら違った方向で納得してしまいました。

「ありがとうございます、これで村は救われます!」
「ささ、こちらでお支度を」

 そして、夕暮れの東の空に丸い月がぽっかりと浮かぶ頃。
 
 091102_0110~01.JPG
 illustrated by Kasuri
 
 戦士は髪ににおいの良い花輪を飾り、美しい顔を念入りに化粧で彩り、神殿で一人、虎を待ちました。
 色鮮やかな花嫁衣装の下に、秘かに愛用の剣と手槍を携えて。

 やがて太陽は山の向こうに姿を消し、辺りは藍色の夜に包まれて行きました。
 月の光の落とす木々の陰が次第に濃くなり、見える物全てが青く霞んでゆく間、戦士はじっと待ちました。
 
 かがり火の放つ橙色の明かりがいやおうにも輝きを増し、祭壇の周囲が丸く浮かびあがるようになってから、ほどなく。

 音も無く空気が揺れ、何か猛々しい気配が降り立つのを感じました。

(……来たな)

 炎の色の髪をゆらめかせ、虎が現れました。
 並べられた供物にも、丹精込めて織り上げられた絹の織物にも、かぐわしい酒にすら見向きもせずに。のそり、のそり、と花嫁めざして歩み寄る。
 胸から上はたくましい男の顔。前足はどことなく人めいた形を残し、金色に漆黒の縞模様の混じる毛皮が全身を覆う。
 獣の瞳でじっくりと、頭のてっぺんからつまさきまで花嫁をねめ回し、ちろりと舌なめずりすると、虎は満足げにのどを鳴らしました。

「おお、美人の嫁だ。今までで一番、美人の嫁だ」

 上機嫌で尻尾をひゅんっと一振り。高々と掲げ、顔を寄せてくんかくんかと匂いを嗅ぐなり、くわっと目を見開きます。

「お前、男か!」
「そうだ」

 虎はしぱしぱとまばたきして、きょとんと首をかしげました。

「……男なのに、嫁になりにきたのか?」
「そういう神託があったらしい。だが、タダではくれてやらない」

 戦士が剣を構えれば、虎も負けじと牙を剥く。

「面白い! 気に入ったぞ。めそめそ泣いてるだけのヨメよりよほど歯ごたえがありそうだ」

 そして戦士と虎は激しく争いました。
 槍を繰り出し、剣で切りかかり。爪で受け流し、牙で噛む。
 どちらも傷だらけになりながら争いましたが、いかに強くとも、人と神。
 とうとう戦士はたくましい前足に組み敷かれてしまったのです。

「こうも高ぶったは久しぶり。だが、ここまでだな」
「くっ」

 押さえ込まれながらもにらみ返す戦士を見て、虎はくくっと楽しげにのどを鳴らしました。

「つくづく気の強い奴だ……可愛いな」

 獣の舌にぬるりと首筋を舐められ、戦士は顔を背けて固く目を閉じ、身を震わせました。

「や、やめろ……」
「やめるものか。お前は、俺の嫁になるんだ」
「よせっ」

 歯を食いしばり、なおも顔を背ける戦士を見下ろして、ふと虎は切なげな目をしてため息をもらしました。

「醜い虎の嫁はいやか?」
「醜いなんて言ってない」
「俺を見た女は大抵そう言う。醜くて恐ろしい、化け物だと言う」
「……そんなことは問題じゃない。俺は男で……嫁になれるわけがない」
「お前はきれいだ。お前が望むのなら女の姿にもなろう。だが、俺はお前が欲しい」
「俺は負けた。俺の命はお前のものだ。嬲るなり殺すなり好きにしたらいい」
「殺しはしない。嬲りもしない……愛でるだけだ」

 高々と藍色の天に輝く満月の下、戦士は虎の嫁になりました。
 しかしながら荒ぶる神との交わりはあまりに激しく、事が終わる頃には嫁は全身傷だらけですっかり息も絶え絶えに。

「たいへんだ、嫁が死んでしまう!」

 虎は大慌て。嫁を抱えて巣穴に飛び帰り、必死になって看病しました。ぺろぺろと体中の傷を丁寧になめて。ふかふかの毛皮で傷ついた体を包み込み、ぴったりと寄り添いました。
 食べることも、飲むことも忘れ、生まれて初めて、自分以外の誰かのために持てる力の全てを振り絞り、祈ったのです。

「死なないでくれ、お願いだ」

 今まで一度だって、誰かを癒したいと思ったことはない。救いたいと願ったことはない。
 それでも一生懸命祈りました。

 つたないながらも癒しの力が流れたのでしょうか。あるいは祈りが通じたのでしょうか。
 一夜過ぎ、二夜が明け、三日目の朝日の中。狩人のまぶたが震え、ぱっちりと、明るい茶色の瞳が現れました。

「何てきれいな瞳だろう。どんな星よりも、花よりも美しい」

 その瞬間、虎の心臓は目に見えない矢で射ぬかれていたのです。
 こうして、虎と嫁は一緒に暮らし始めました。
 泉のほとりから甘い果実をとってきて。

「食え」

 神殿に捧げられていた敷物を持ってきて。
 ある時は鹿をまるごと獲ってきて。

「これを使え」

 戦士が器用に鹿の皮をなめし、肉を料理する姿を虎はちょこんと座って眺めました。
 夜ともなれば、敷き詰められた柔かな織物、鹿皮の上で仲むつまじく戯れる。

「可愛い嫁だ。美人の嫁だ。世界一の嫁だ」
「……あまり嫁、嫁と連呼するな」
「何で?」
「俺にはレオンと言う名前がある」
「……そうか」

 耳を伏せて、尻尾をぱたぱたしてしばらく考えてから、虎は嫁にすりより、ごろんと仰向けに。

「レオンは可愛い。レオンは美人だ。世界一の嫁だ」
「…………まあいいか。」

 嫁はちいさくため息をつくと、ふかふかの毛皮をなでるのでした。

(こいつは確かに我が侭だけど、悪意はないのだ)

 それから、虎は変わりました。

「やたらと暴れるな。物を壊すな。畑を荒らすな」
「むー」
「家畜を盗むなんて言語道断。欲しければ自分で獲物を獲れるだろう」
「むーむむむ」

 何しろ嫁にべた惚れですから、説教されるとちょっと不満そうな顔をしますが、決して逆らいません。逆らえません。
 こうして、母なる女神のお告げ通り、嫁をもらった虎は次第によい神様になって行きました。

 やがて月満ちて、二人の間に玉のような子トラがころころと……。
 
 trrayome.jpg※クリックで拡大します。
 illustrated by Kasuri


 ※ ※ ※ ※


「うわあ」

 暗闇の中、あたふたと手さぐりする。
 物の見事にベッドからずり落ちていた。ごそごそとはい上がり、明かりをつけてタバコを一本くわえる。
 赤いグリフォン(グリフォンなんだったらグリフォンだ!)のライターで火をつけて、深々と吸い込み、ゆっくり吐き出した。

「ふう…………」

 新年早々、どえらい夢を見たもんだ。
 俺があの二人の子どもって。レオンの見てる前でディフにじゃれるとか。あまつさえ尻尾にじゃれつくとか、どんな自爆行為だーっ!

 って言うかどっちが産んだんだろう?

 今夜は一月二日。
 今日見た夢を、日本では初夢と言うらしい。
 つまり、何だ。アレが俺の初夢ってことですか。うーわー。絶対、人に言えねえ。(特にレオン)

 ああ、でも金髪の子トラは……ものすごく、可愛かったなあ。


(初夢劇場「虎嫁」/了)

次へ→【side11】ポテトは野菜、コーンも野菜

殻のあるシーフード

2010/01/03 22:26 短編十海
 
  • 拍手御礼用短編の再録。
  • 本編【4-14】カルボナーラの夕食の場面で、実はこんな会話も交わされていました。
  • 今明かされる、ヒウェルの「カニ怖い」のルーツ
 
 水曜日。Wednesdayってのは、北欧の主神Odin、またはWodenに由来する日らしい。
 Wodenの日、すなわちWednesdayってことらしい。(oとeの違いはあるが、発音はoとeの中間だから許容範囲だろ)

 そのせいか知らんが、先週、今週と続いて俺は、バイキングと面を突き合わせて飯を食っている。金髪に青緑の瞳に眼鏡をかけた、斧の代わりに試験管と綿棒を武器にしたバイキングと。

 ハンス・エリック・スヴェンソンは、目下の所フォークを武器にして小エビのサラダと格闘中。
 ほとんど息もつかずにがっついて、残らず平らげてから、ほう……と幸せそうにため息をついた。

「そんなにエビが好きかい、おまえさんは」
「ええ、好きですよ。毎日食っても飽きない……あなたは?」
「んー、好きだよ」
「カニ」

 ぎっくうっと心臓が縮み上がる。落ち着け、落ち着け、不意打ちだからちょっとびっくりしただけだ。

「……も好きだけど、やっぱりエビは特別だなあ。あれ、顔色がよくないですよ、H」
「わざとじゃないよな?」
「は?」

 ぱちぱちとまばたきして、人の顔をじーっとのぞき込んで来やがった。それから、はたと膝を打つ。

「あー、あー、そう言えばカニ、苦手でしたっけね!」
「……………」
「もったいないなぁ、サンフランシスコの名物なのに……」
「ええい、それ以上、俺の前でアレの名前を口にするな!」
「でもエビは平気なんだ」
「まあな」
「どっちも殻のついたシーフードなのに」
「ぜんっぜん違う!」

 ぶんっと頭を左右に振って力説した。

「カニは……カニは……あいつは地球の生き物じゃねえっ!」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 そうとも、カニは宇宙からやってきたんだ。 
 
 忘れもしない、あれは俺がまだいたいけな少年だった頃。
 里親のピーターとウェンディ夫妻に引き取られて間も無い、ある夜のこと。心細くてなかなか眠れず、やっとうとうとしてたら夜中に目をさましちまった。
 明かりの消えた部屋の中は、全て濃い藍色に塗りつぶされていて、しーんと静まり返っていて……。
 
 いや、声が聞こえる。ドアの向こうから、かすかに。足音を忍ばせ、ドアを開けた。何でもいい。自分以外の生き物のたてる音が恋しかった。
 自分以外の生き物が動いている姿を見たかった。

 ひたひたと廊下を歩く。居間に通じるドアの隙間から、オレンジ色の光が漏れていた。
 誘われるように近づき、ドアを開けると……ピーターがテレビを見ていた。

『おや、ヒウェル、どうしたんだい?』

 穏やかな低い声。いたずらを見つかった子供が肩をすくめるような、ちょっぴりきまり悪そうな顔。そいつを見てなんだかものすごく安心して、ちょこまかと近づいた。
 そして、見てしまったのだ……。

 テレビの画面に大写しになった円錐型の頭にぎょろ目、ぶつぶつの甲羅にハサミのある巨大な怪物を!
 女の人の立っている、窓のすぐ外にいっぱいに広がって。ハサミを振り上げて……。

 今思うとあれはいわゆるレイトショー、深夜にやってる俗悪映画(Bad Movies)だったんだな。
 タイトルもわかってる。ロジャー・コーマン監督のB級SF「金星人地球を征服」。ピーターのささやかなお楽しみ。

 だけどちっちゃなヒウェル坊やにとってそいつは、形を得た悪夢そのものだった。
 怯えきった俺は火がついたように泣き出し、あわててピーターはテレビをoff。寝室からすっ飛んできたウェンディ・ママにしがみついてわんわん泣いた。

『カニこわい……カニが……カニがっ』

 俺がティーンエイジャーになるまで、ピーターはひっそりと寝室の小さなテレビで深夜映画を楽しむようになった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
   
「……そんな事があったんですか」
「ああ。以来、アレは食えない」

 オティアとシエンは顔を見合わせ、エリックは慈愛に満ちたまなざしを注いできた。

「深夜映画で………ねえ……」
「ええい、そんな、生暖かい目で見るな! いくら俺でも、それだけでここまでのトラウマにはならねえよ!」
「え、まだあるんですか」
「あるともさ……」
 
 金星ガニとの恐るべき遭遇からひと月ほどが経ち、恐怖も徐々に薄らぎはじめた頃。
 ピーターとウェンディに連れられて買い物に行った魚市場で、更なる試練が待ち受けていたのだ。

 並んでいる屋台の一つに、大量にイチョウガニが積み上げられていた。
 膨れ上がったいびつな楕円形の胴体、禍々しくも黒みがかった赤い甲羅、ぶつぶつのハサミ、節くれ立った足。
 何、怖くないさ、アレにくらべりゃちっちゃい、ちっちゃい。
 目をそらしつつ、そばを通り抜けようとした瞬間。よりによってそいつは……動きやがった。がさがさっと足をばたつかせて!

『ぎゃーっ』

「あー……それは、けっこう強烈ですね………」
「ああ、その場で引きつけ起こして大パニックだよ」

 それ以来、味やにおいだけでもう、幼少時の恐怖体験がフラッシュバック。冷や汗は吹き出す、顔がひきつる。
 大人になってからは、どうにか隣で他人がカニ食っても冷静に対処できるようになったが……。

「子供の頃は、フィッシャーマンズワーフの看板すら直視できなかった」
「でもB級SFは好きですよね」
「もちろん!」

 B級映画は人生を彩るスパイスだ。あの忌まわしい殻のついたシーフードと一緒にしちゃいけない。


(殻のあるシーフード/了)

次へ→『H』はHOOKのH