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ローゼンベルク家の食卓

【side7-1】★★蜜月の夜1

2008/07/27 17:57 番外十海
 
 初めて恋人とキスした日。
 初めて恋人とベッドインした日。
 何をもって初夜と呼ぶのか基準はさまざまだが……wedding nightと言うからにはやはり結婚式の夜と考えるべきなのだろうか。

 脱いだ上着を左肩にかつぐようにしてひっかけて、右の手をレオンの腰に回して寄り添いながら寝室に向かう間、ディフはずっとそんな事を考えていた。

 もっとも彼に限って言えば初めて恋人としてレオンとキスをしたのも、ベッドを共にしたのも同じ日の出来事なのだが。
 寝室のドアを開けて中に入る。もう何十回もくり返した動作だが、部屋に入った瞬間、感じた。

 いつもと違う。
 わずかな差異ではあるのだが、確かに今朝出た時と同じ部屋ではない、と。

 まず感じたのは空気に混じるほのかな花の香り。
 見ると結婚の祝いにと贈られた花の一部だろうか。薔薇と、マーガレット、そしてほんの少しだけど百合の花も。小さな花瓶に活けられて、部屋のそこ、ここにさりげなく飾られている。
 適度に自己主張しつつ、鼻腔の奥にも喉の粘膜にもしつこい後味を残さない。人工的に合成されたルームフレグランスには到底真似のできない微妙に控えめな香しさを漂わせている。
 すでに花の香りは部屋の空気にまんべんなく溶け込んでいた。
 誰が用意したのかはすぐにわかった。

 アレックスだな。

 クローゼットに上着を掛け、靴下と靴を脱ぐ。身につけたキルトを外し、シャツのボタンを外していると……視界の端にちらりとベッドが写る。
 以前はセミダブルのものだったが自分がこの部屋に正式に引っ越してから改めてキングサイズのものを入れた。
 もっともベッドの大きさが変わったからと言ってぴったり寄り添って眠る事に何ら変わりはないのだが。

 しかし、ここも、何か、違っている。

 ベッドに腰をかけて手を触れた瞬間、理解した。
 新品だ。
 ベッドカバーも、シーツも、枕カバーも何もかも、ついぞ自分が洗濯した覚えのないまっさらな新品、しかも肌触りのよい上質のものばかり。

 アレックス……気ぃ使いすぎだ!
 
 何もかも新婚の初夜のために整えられたものなのだと理解した瞬間。ぽつっと体の中央に一粒、堅い物が落ちて。池に広がる波紋のようにひしひしと体中に広がり始めた。
 そやつの名を『緊張』と言う。

 糊付けに失敗したシャツみたいに全身つっぱらせて固まっていると、ぽん、と肩を叩かれた。

「どうしたんだい?」
「あ……その……ちょっと考え事を」
「そんな格好で?」

 言われて、改めて見下ろす。自分が今、どんな姿をしているか……。
 袖口のボタンも襟も開けたまま、白いドレスシャツ一枚でベッドの上に座っている。しかも片足であぐらをかいて。
 目元から頬骨のあたりまでかっかと熱くなるのを感じながら、ディフはそれでも精一杯平静を装って答えた。

「リラックスするんだよ。楽だし」
「別に構わないけどね。目の保養になる」
「なっ」

 慌ててがばっと上掛けのコットンケットの下に潜り込む。
 しなやかな布の向こうでくすくすと笑う気配がした。

(何やってんだ、俺は………………)

 そろりと顔をのぞかせる。

「そのままベッドから出てこないつもりかい? それとも、先にシャワーを浴びようか」
「……あ、うん、シャワー、浴びる。けっこう汗かいたからな」

 ケットの下から抜け出し、床に降りた。

「君があんなにダンスが上手いとは知らなかった」
「そう言や初めてだったな……お前と踊るの」

 言ってからしまったと思った。暗に宣言したようなもんじゃないか。他の子たちとは何度も踊ったって。

「あ……その、今のは、えっと」

 ほほ笑んでいる。口にこそ出さないが気にすることはないよ、と言っている。

「………………………これからは、何曲、何百曲だって踊ってやるから……覚悟しとけ」
「うれしいね。君のリードなら安心だ」
「……言ってろ」

 くしゃりと明るいかっ色の髪の毛をかきあげて肩を抱き、バスルームに向かった。ダンスでも踊るみたいな体勢のまま。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 シャワーを浴びながら軽くじゃれ合って、上がった所でふとディフは気づいた。

(やべえ、着替え持ってくんの、忘れた?)

 しかし脱衣所のバスケットの中にはきちんとパジャマと下着が用意されている。

(気ぃ使いすぎだ、アレックス……だが、助かった)

 ほっとしながら手にとる。ほんのりとブルーがかったグレイの光沢のある生地だ。つややかで肌にしっとり馴染む。おそらくこれも新品だろう。

(これ、まさか……シルクか?)

 まず、自分では買わない。だから余計に珍しくて髪の水気を拭き取るのもそこそこに、しげしげと手にしたパジャマを眺めていると……。
 ひそりと耳元でささやかれる。

「ディフ」
「ん?」
「今夜は、下着は着けないで……ね」

 そう言う当人は既にさっさとパジャマを身につけていた。同じ色のシルク、わずかに光沢のある青みがかったグレイの布地がしなやかな肢体を覆っている。
 あいつもあの下、ヌードなのか?
 想像しただけで体が細かく震える。早くも火照りの前兆が体に表れてしまいそうで、あわててディフは絹の寝間着を身につけた。
 かすかに笑う気配がして、先にレオンが浴室を出て行く。
 ほっとして、頭をごしごしとバスタオルでぬぐった。

 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 浴室を出ようと歩き出した瞬間、ディフはとまどった。
 あるべきものがないと、やはり足元が妙にたよりない。キルトを着けてる時に比べればズボンを履いてるのだから数段マシなはずなのだが。
 どうにも、歩くたびにこのすべすべした布が肌にこすれて……落ちつかない。
 何でレオンの奴はこんなもの着たままですたすた歩けたんだろう。やっぱりあいつ、自分は下着着けてるのか?

 だとしたら……余計に恥ずかしい。自分だけがこんな格好をしてるのかと思うと。
 浴室を出て寝室に戻るとレオンはベッドに腰かけていた。サイドに置いた小さなテーブルの上にはいつの間に持ってきたのだろう。ハーフサイズのワインのボトルが一本、氷を詰めた銀色のペールの中に埋まっている。そして、クリスタルのワインググラスが二つ。

 何となくほっとして近づき、自分も隣に腰を降ろす。

「まだ飲むのか?」
「パーティの間はあまり飲まないようにしてたんだ。それに……特別な日だからね。最後は二人きりで」
「……ああ。そうだな……」

 グラスに赤い透き通る液体が注がれる。
 赤は室温でとよく言われるが、きりっと冷やした赤ワインの方がディフは好きだった。比較的辛口で渋みのあるパンチの効いたものだとなおいい。
 軽くグラスを触れあわせて喉の奥に流し込む。

「ふぅ……効くなぁ……」
「君も祝杯以外ではほとんど飲んでいなかったようだね?」
「んー……まあ、な……緊張してたし……」

 子どもたちが一緒だと思うとどうしても酔えなかったのだ。何かあったらと心配で、ここで酔っぱらう訳には行かないのだと。
 だが、今は二人っきりだ。
 そう思うと知らず知らずのうちに杯が進む。ワインの酔いが回るうちに次第にふわふわとした気分になってきた。

「あれ? もう空か?」
「そうみたいだね……」
「お前、ほとんど飲んでないんじゃないか?」
「そうでもないよ」

 穏やかな笑みを浮かべながら、レオンは目の前の愛しい人の姿をじっと観察していた。頭のてっぺんからつまさきまでじっくりと、ただし、さりげなく。
 少し湿り気を帯びた赤い髪が首筋にまとわりついている。左の首筋にほんのりと、薔薇の花びらほどの大きさの火傷の跡が浮び上がっている。
 ガチガチに緊張していたのがいい具合にほぐれてくれたようだ。

「……なんだか眠ってしまうのが惜しいな」
「ん…………」

 子どもみたいにあどけない顔でにこにこしながら、こくっとうなずいて。何かに気づいたらしく、はっとした。
 ああ、やっと気づいたのかな。この後に何が控えているのか。けれど、さっきほど堅くはなっていないようだ。ワインに感謝しよう。

 そーっと顔を寄せてのぞきこんで来る。ミルクティをそのまま透き通らせたようなヘーゼルブラウンの瞳の中央に、ゆらめく緑の炎をにじませて。
 何も言わずにほほ笑み返すと、頬に手を当ててきた。その手に自分の手を重ねると、にこっとまたほほ笑んだ。
 少しだけ顔をずらしてディフの手にキスをする。

「んっ」

 目を閉じてびくっと震えた。

(ああ……相変わらず君は、手へのキスに弱いね……)

 初めてベッドを共にした時の記憶が蘇る。あの時もこんな風に手にキスをした。この部屋のベッドの上で。

(君は小さく震えて俺を見上げて……初めて言ってくれたね。『愛してる』と)

「………………ディフ」
「何だ?」
「こんなことを言うと笑われるかもしれないけど」
「……笑わないよ。お前の言うことなら」
「眠ったらみんな夢になってしまうような気がして」
「それは……困る」

 彼は少しの間、口元に軽く握った手を当てて考え込んでいたが、そのうちくいっと手を引っぱって俺を引き寄せ、抱きしめてくれた。
 すっぽりと胸の中に抱え込むようにして

「どうだ? 夢か? ん?」

 温かな胸に顔をうずめ、首を横に振る。かすかに身じろぎする気配がして、ディフの口から小さなため息が漏れた。
 薄い、つやつやした布がこすれて刺激されたらしい。
 彼のことだ。おそらく自分の言葉に素直に従い、下着は着けていないだろう。

「何度でも証明してやるよ。夢じゃないって」
「俺はずっと結婚する気もなかったし、考えたこともなかった……こんな日がくるなんて」

 しっかりした指が。大きくて温かい手のひらが、髪を、背中をなでる。その左の薬指には青いライオンを刻印した銀色の指輪が光っている。
 自分の左手にはまるのと同じ、対になった輪が。
 その事実に。髪をかきわける指の間に触れる、確かな堅さに安堵する。

「全部、きみのおかげだよ……ありがとう」
「ありがとうって言うのは……俺の方……だ……」

 囁きの合間に耳にキスされた。ああ。くすぐったいな。

「愛してるよ」
「ああ。先に言われちまったな……俺も、愛してる」

(今だけは俺のために、ただ一人の男でいてくれ。子どもたちの『まま』なんかじゃなくて、俺一人のものに)


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