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ローゼンベルク家の食卓

【4-4-6】今日からおひめさま

2008/09/29 23:44 四話十海
 
 2006年9月11日の朝が来た。
 オティアとシエンは『本宅』のリビングに置かれた朝刊を見て、ほとんど同時に小さく「あ」とつぶやいた。
 
「おはよう」

 のっそりとキッチンから出てきたデイフが二人に声をかけ、何気なく朝刊に視線を落す。第一面にもうもうと煙を吹き上げる1対の高層ビルの写真が載っていた。

「ああ……9月11日だな」
「うん」
「もう5年になるのか。当時まだ俺は制服警官でね」
 
 ディフはどこか遠くを見るような目つきで言った。半分、自分に言い聞かせているような口調だった。 

「911がきっかけでサンフランシスコでもテロ対策が強化された。それで爆発物処理班が増員されることになって……転属したんだ」

 言い終えると肩の力を抜き、ふう、と小さく息を吐いた。

「飯の仕度できてるぞ」
「え、もう?」
「早起きしたんだ。弁当作るついでにな」

 オティアは小さく首をかしげたが、結局何も言わずディフとシエンの後をついてキッチンに向かった。

「おはよう」

 キッチンでは既にレオンがコリコリと手回し式のミルでコーヒー豆をひいていた。

「オティア。オレンジジュースとリンゴジュースどっちにする?」
「……ニンジン」
「わかった」

 生のニンジンとリンゴを1かけらに牛乳をプラスして、まとめてブレンダーでガーっとやる。ほとんど甘くはないし、ビタミンもきっちりとれる。
 どっしりした木の食卓の上に並んだ四枚の皿には、スクランブルエッグと茹でたブロッコリー、こんがりきつね色にトーストした食パンがほこほこと湯気をたてている。
 いつもの朝食の風景。

 だけど、微妙に空気が違う。
 ほんの少しだけ……何だろう?

 
 ※ ※ ※ ※


「ハロー、ディフ? ええ。これから大学を出ます。それじゃ、よろしくお願いしますね」
 
 真夏よりいくぶんまろやかに、それでいて眩しさを増した9月の太陽が西の空を赤く染める頃。
 サリーは大学を出る前に電話一本、かけてからアパートに戻った。

 さて、迎えが来る前に準備を整えておかなきゃ。

 キャンバス地のしっかりした肩掛けカバンに昨日買った本二冊を入れる。せっかくきれいに包んでくれた紙に皺がよらないよう、気をつけて。
 冷蔵庫にしまっておいた『誕生日のご馳走』の材料を銀色の保冷バッグに入れていると、呼び鈴が鳴った。

「よう、サリー」
「いらっしゃい、ディフ」
「何か運ぶものあるか?」
「じゃあ、これを」
「けっこう重いな……粉か?」
「はい」
「小麦粉なら家にもあったのに」
「これはちょっと特別なんです」
「そうなのか」

 厳つい四輪駆動車に荷物を積み込む。
 行く先はエドワーズ古書店。二人はこれから子猫を迎えに行くのだ。

「EEEに電話しといた方がいいか?」
「そうですね、準備もあるでしょうし」

 ディフは携帯を取り出すと電話帳のEの項目を呼び出し、かけた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 カラン、コローン……。
 聞き慣れたはずのベルの音色が違ったものに聞こえる。いつもより音量が大きいような……いや、いつも通りだ。
 電話をもらってから、ずっとそわそわしていて落ち着けなかった。リズが耳をぴん、と立ててドアの方を見た途端、心臓が早鐘のように打ち始めた。

「こんにちは、エドワーズさん」
「いらっしゃい、サリー先生! お待ちしてました」 

 やや遅れて、ぬっと肩幅の広い、がっちしりた体格の赤毛が入ってきた。

「よう、EEE」
「……やあ、マックス」

 あらかじめ電話で彼も一緒だと知ってはいたが、それでもがっかりしてしまう……ほんの少しだけ。

「モニークは?」
「ああ、さっきまでそこに」
「にう!」
「……あれ?」

 カウンターに乗せられた真新しいピクニックバスケットの中から高い声が聞こえた。ぴん、と立った白い尻尾が開いた蓋の奥でひょこひょこ動いている。

「もう入ってるんだ……」
「いつの間に」

 中にふかふかのタオルを敷いたピクニックバスケット。キャットフード(ドライのと缶詰と)、そしてトイレ用の砂。それがモニークのお嫁入り道具一式だった。

「えーっと、猫用トイレは……」
「一応、事務所の備品を持って来ておいた。当座はこれでいいだろう」
「それがいいだろうね」
「あれ?」
「どうしたんだい、マックス?」
「この首輪、この間と違うぞ。迷子になった時はピンクだった」
「ああ。Mr.セーブルは青い色がお好みのようだから……」

 白い子猫の首には、真新しい青い首輪が巻かれていた。きらりと光る丸い迷子札はまっさらで、猫の名前も飼い主の電話番号も記されていない。

「モニーク、と言うのは私が仮に着けた名前です。この子が正式に彼の猫になったら……改めて新しい名前をつけてやってください」
「わかりました。伝えておきます」

 エドワーズはバスケットの中に手を差し入れて、モニークを撫でた。愛おしさをこめて、何度も、何度も。
 モニークは湿った鼻先を寄せてエドワーズの指先のにおいをかぎ、ぐいぐいと顔を掏り寄せた。
 リズはバスケットの傍らに後足をそろえてきちんと座り、じっと末娘を見守っている。これまで他の子猫たちを見送った時のように……最初にモニークを送り出した時のように。
 長い薄茶色の尻尾がぱたぱた踊り、規則正しい柔らかな音を奏でる。

「それじゃ、モニークのこと、よろしくお願いします」
「はい」
「ありがとな、EEE」
 
 二人と一匹を送り出してしまうと、店の中は急にがらーんとしてしまった。
 ……………………静かだ。
 静かすぎる。

 妙な話だ。元々ここに暮らしていたのは自分とリズだけだった。ほんの数ヶ月前の状態に戻っただけのはずなのに。

「さみしくなってしまったね、リズ」
「にゃ」

 リズは優しく喉を鳴らし、エドワーズの手に顔をすり寄せた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 ヒウェルはそわそわしながら待っていた。
 ローゼンベルク家のリビングでソファに腰かけ、見るともなしに新聞なんか読みながら。さっきから文字は目の前を滑って行くだけでちっとも頭に入らない。
 少し前に双子が部屋に戻ってきた気配がした。さっきから境目のドアの向こうが気になって仕方ない。ほんのわずかな物音にすら、ぐいっと意識が持って行かれる。
 
「お」

 かすかな震動。エレベーターが上がって来たな。
 一秒、二秒、三秒、五秒………確定。(四が抜けたような気がするけど気にしない)
 アレックスではない。忠実な万能執事は既にキッチンでパーティの準備に取りかかっている。
 足音は二人分、軽やかで規則正しいのと重くて大またのと。どちらもレオンではない。ビンゴだ。
 小刻みにステップを踏む心臓を、なだめすかして平静を装う。ほどなくドアが開いた。もう我慢できない、限界だ! ぱっと立ち上がり玄関に出るとうやうやしく一礼。

「お待ちしてました」
「あれ、ヒウェル?」
「何だ、来てたのか。早かったな」
「まあ……ね。で、お姫様は?」

 サリーの抱えたバスケットがもぞっと動いた。

「よし。それじゃ、オティアとご対面と行きますか」
「俺はキッチンにこいつを運んどくよ」
「お願いします」

 何やら荷物を抱えてキッチンに入って行くディフを見送ると、ヒウェルはサリーに声をかけた。

「こっちだよ」

 境目のドアをノックすると、ひょい、とシエンが顔を出した。

「あ……ヒウェル。サリーも。どうしたの? 夕食にはまだ早いよ?」
「うん、ちょっと、いいかな。見せたいものがあるんだ」
「?」

 今度はバスケットはもそ、とも動かない。にゃお、とも、みう、とも鳴かなかった。

 双子の居間に入った瞬間、ヒウェルは懐かしさと違和感の入り交じる奇妙な感触をおぼえた。
 ディフが住んでいた時は何度もこの部屋でグラスを片手にだらだらしゃべったものだ。ポップコーン抱えてDVDやサッカー中継に見入ったこともある。
 間取りこそ同じ部屋だが、インテリアがまるで変わってしまった。通い慣れた部屋のはずなのに、何だか別の空間みたいだ。
 オティアは丈の低いソファに座って本を読んでいた。

 ヒウェルとサリーが入って行くと本を閉じて、顔を向けてきた。

「よぉ」
「こんにちは」
「……何の用だ」

 オティアの声を聞いた瞬間、もぞもぞっとバスケットが動き始めた。

「みう、みう、みう、みう」
「え。猫?」

 シエンがほんの少しだけ顔を強ばらせる………動物が苦手なのだ。レオンほど徹底してはいないが。

「うん、猫」
「お前もよーくご存知のお嬢さんだよ」
「ちょっと、いいかな。ここに置くよ」

 サリーがソファの上にバスケットを置いて、フタを開けると白い子猫がひょこっと顔を覗かせた。

「みゃー」
「あ……モニーク? 何で?」
「にうー」

 するりとバスケットから抜け出すと、モニークはオティアの膝の上によじ上り、丸くなった。
 オティアはとまどいながらも白い毛皮に手を伸ばし、そろりと撫でる。
 
 よし、いいぞ。いい傾向だ。内心、うなずきながらヒウェルは話を続けた。言葉を選んで、一言一言、噛んで含めるようにして。

「んー、まあ話せば長くなるんだけどさ……その子、脱走癖がひどくてね」

 ひと呼吸置いて、口にする。一番大切な一言を。

「里子に出された先から、戻されちまったんだ」

 双子は僅かに身を震わせ、どちらからともなく顔を見合わせた。

「それ……本当?」

 シエンが掠れた声で問いかける。サリーがうなずいた。
 オティアは膝の上で丸まって、幸せそうに喉を鳴らすちっぽけな白い毛皮の塊に視線を落し……手のひらで包み込む。

「Mr.エドワーズがさ、言うんだよ。お前にならその子猫を安心して任せられるって」
「………………」
「ディフとレオンのことなら心配すんな。一応、話は通してあるから」
「………………」

 オティアは迷っていた。
 モニークを探し出してからずっとこの猫のことを忘れた日はなかった。
 悪夢に苛まれる日々の中、腕の中で安心しきって喉を鳴らすこの柔らかな生き物の記憶が………どれほど慰めになってくれたことだろう。

 もしも、ずっと、この猫と一緒に暮らせたら。
 朝も、昼も、夜も。
 自分と一緒の、自分の猫。

 いや、だめだ。シエンは動物があまり好きじゃない……。

「いいよ」

 えっ?

「いいよ、俺。オティアがいいって言うのなら」
「シエン」

 よし、これで難関は突破した。
 ヒウェルはサリーと顔を見合わせ、安堵の息を吐いた。

 オティアは黙っている。一言も言葉を発しないまま、白い子猫を撫でている。しーんと静まり返った部屋の中に、モニークが喉を鳴らす音だけが響いた。

 ごろ、ごろ、ごろ、ごろ………。

 こんなちっぽけな体のどこからこんなに大きな音が出るのだろう。
 そうするうちに、モニークはうっとりと目を細めて前足をオティアの手にかけ、もにもにと左右交互に押し始めた。

「お前………行く所、ないのか?」

 ぱちっと目を開けると、モニークはのびあがってオティアの顔に鼻先を寄せてきた。ヒゲをぴーんと前倒しにして、尻尾を高々と挙げて、かぱっとピンク色の口を開ける。

「んみーっ!」
「……………そうか」

 ためらいながらもオティアは白い子猫を両手で包み込み、抱きしめた。力を入れすぎないように、細心の注意を払って。
 
「よし、決まりだな……」

 早速、子猫を部屋に受け入れる準備が始まった。
 ピクニックバスケットは蓋を外してそのまま子猫のベッドに。
 探偵事務所の備品、普段は保護した迷子猫のために使っている猫用トイレに砂を敷き詰める。
 モニークはくんくん、と猫用トイレのにおいをかぐと耳を伏せ、鼻筋に皺を寄せた。

「あれ。もしかして、ご不満か?」
「………みたいですね」
「借り物不許可、あたし専用じゃないとダメ! ってか、このお姫様は」

 まっさらな迷子札に自分の携帯番号を書き込んで、猫の名前を書く段になって、ふとオティアは手を止めた。

「モニークって言うのは、エドワーズさんが仮につけた名前なんだ。だから君から新しい名前をつけてほしいって言ってたよ」
「………………」

 でも、この子猫はずっとモニークと呼ばれてきた。迷子になった時も、名前を呼ばれてちゃんと返事をした。
 別にこのままでもかまわない……か?

 いや、やっぱりだめだ。

 あの日、迷子になったモニークをエドワーズ古書店に送り届けて事務所に戻ってから、ディフがくすりと笑って言ったのだ。

『モニークって懐かしい名前だな。高校ん時、隣のクラスにいたんだ。可愛い子だった』


 名前を変えよう。
 オティアは心に決めた。
 これから毎日一緒に暮らすのに、ディフの昔のガールフレンドと同じ名前を呼ぶのはちょっと問題がある。何よりレオンがいい顔をしないだろう。

 だが急に新しい名前を考えつくのは難しい。やはり見てすぐわかるのがいいだろう。体の特徴を現したものがいいか。
 毛並みの色とか、瞳の色、尻尾………。

 じっくりとオティアは観察した。自分の飼い猫になったばかりの子猫を、すみからすみまで。
 真っ白な胴体の左側に、少し歪んだ丸いぶちがある。ランチの時に飲んだカフェオーレそっくりの、ほわほわした薄茶色。
 これでいい。
 わかりやすいし、シンプルだし、呼びやすい。

 迷子札に新しい名前を書き込んだ。一文字、一文字、丁寧に。

『Oule(オーレ)』

「オーレ、か」
「素敵な名前だね」

 新しい名前と、新しい飼い主の携帯番号を記入した迷子札は、改めて真新しい青い首輪に着けられた。

「似合うね」
「ああ、瞳の色にマッチしてる」

 サリーはモニークの……いや、オーレの頭を優しく撫で、言った。

「そのうちマイクロチップを入れに病院に連れてきてね」

 オティアはこくっとうなずいた。

 こうして、モニークは『オーレ』になった。

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