▼ 【3-14-9】BlueLion
翌日、レオンは久しぶりにジーノ&ローゼンベルク法律事務所のドアをくぐり、開口一番、共同経営者に告げた。
「結婚することにしたよ」
「そうか! おめでとう。それで、指輪は用意したのかい?」
「そうか……確かに指輪が必要だな。ありがとう、デイビット」
「どういたしまして。バラの花束も忘れずにな!」
ぱちっとウィンクしている。
どうやら、この陽気なハンサム・ガイはこれからプロポーズに行くものと思っているらしい。彼の思考パターンからすれば、それが自然なプロセスなのだろう。
「ちなみに俺がイザベラにプロポーズした時は、月の美しい夜に真紅のバラの花束を捧げてひざまずき、胸ポケットから彼女の瞳によく似合うエメラルドのエンゲージリングを収めたベルベットの小箱を取り出して……」
もうプロポーズは済ませた。自分に必要なのはエンゲージリングではなく、結婚指輪なのだ。
美しき思い出に浸るデイビットの誤解をあえて訂正しないまま、携帯電話を取り出す。
まず最初にアレックスに連絡しようとして、止めた。
次にディフに電話しようとして、やっぱり止める。
一応、今日は自分だけで下見に行こう。よさそうなのをいくつかピックアップして、後でディフと相談して決めればいい。
そう思っていたのだ。たまたま立ち寄ったメイデン通りの宝石店で、あの指輪を見つけるまでは。
マリッジリングを見たいと店員に告げると、いくつか主立った品を取り出してカウンターの上に並べてくれた。
結婚指輪なんてみんな似た様なデザインだと思っていたが、結構なバリエーションがあるものなのだなと感心しながら見ていると……
そいつを見つけた。すっと手を伸ばして指さす。
「あれを」
「はい、ご覧になりますか?」
「いや、あれをもらおう」
幸い、サイズは在庫があった。名前の刻印も1時間ほどで仕上がった。
次に立ち寄った花屋で少し躊躇する。こんな店に一人で入るのはそもそも初めてだ。
真紅のバラの花束とデイビットは言っていた。確かに彼の細君にはぴったりだが、ディフには……今ひとつイメージが合わない。
どうしたものか。いっそ買わずに帰ろうか? ……それもいささか物寂しい。
ふと学生時代の会話を思い出す。
「俺、マーガレットが好きなんだ。家の庭にいっぱい咲いてた」
黄色の円をふちどる白い細長い花びら。すらりと伸びた細い茎。目玉焼きそっくりの配色の素朴な花。去年の秋、病室に届けられた花かごもあの花だった。
さほど広くはない店の中を見回し、じきに目的の花を見つけた。指さして店員に一言告げる。
「それを全部」
「全部、ですか?」
「ああ。カード、使えるかな?」
「え、ええ、使えますとも! 少々お待ちください」
※ ※ ※ ※
「ただ今」
「レオン!」
笑顔で出迎える人を引き寄せる。身にまとう薄い黒い布がふわりと揺れた。少し強引だったかとも思ったが、そのまま唇を重ねた。
もう、誰が見ていようとためらわない。かまうものか。
ディフは少し驚いたように目を見開いたが、それも一瞬。すぐに目元を和ませて応えてくれた。
名残を惜しみながらゆっくりと離れる。
「……お帰り」
「ただ今」
かすかに頬が赤い。可愛いな。そっと指先で乱れた赤い髪を整えた。
「ん……? 何だ、それ」
「ああ。これ」
マーガレットの花束を手渡すと、彼は大事そうに両手で抱えて顔をほころばせた。
「ありがとな。この花、一番好きなんだ……覚えててくれたんだな」
「気に入ってくれてよかったよ」
「活けてくる」
「そうだね……あ、ディフ」
「ん? 何だ?」
「まだあるんだが」
さらにもう一つ、花束を手渡す。ヘーゼルブラウンの瞳がきょとん、と丸くなる。
「マジシャンみたいだな……」
「その……かさが多くなるものだとは思わなくて」
さらに、もう一つ。これでも花屋の店員は一生懸命、コンパクトにまとめてくれたのだが。
「誰かさん、言わなかったか。イメージだけ伝えて後は花屋の店員に任せろって」
マーガレットの花束を3つ抱えて、ディフはくすくす笑い出した。
「そんなこと言ったかな……」
「言ったんだよ」
顔をよせ、頬にキスしてきた。
彼と花屋の話なんかしたことがあっただろうか?
可能性があるとしたら、マーガレットが好きだと聞いたのと、ほぼ同じ時期だろうか。
「10年ぐらい前だったかな」
「ああ。高校の時だ。あの時も、同じ部屋に住んでた」
「思い出した。君がデートに行くって言ったんだ」
「うん。そっちは忘れてたんだな……あの時言ったんだ。この花が一番好きだって」
「俺はそのあと花屋に入ることもなかったしね」
「……嬉しいよ、レオン」
二人して玄関にいつまでもいたものだから心配になったのだろう。シエンがひょっこりと顔をのぞかせ、やっぱり目を丸くした。
「お帰りなさい……わ。花束?」
「一つ持ってくれるか? 流石に全部抱えるのはちと難しい」
「うん。すごいね」
「ああ。すごいな」
ディフはとても上機嫌だ。シエンは素直に感心している。
こっちはこっちで微妙に……気まずい。夜中にうっかり皿を割った時もこんな気分だった。
「花瓶、出してこなきゃね」
「ああ。いくつか必要だな」
「あ……その、ディフ」
「何だ?」
「終わったら書斎に来てくれ。話がある」
「わかった」
※ ※ ※ ※
書斎に戻ってきた彼の髪の毛には、ひとひら白い花びらがついていた。そっと指先でつまみとる。
「あ……ついてたか」
「似合ってたけど、ね」
「柄じゃねえよ」
口をへの字に曲げているけれど目が笑っている。本気じゃないのはすぐにわかる。
そんなディフの表情をつぶさに見守りながら、胸ポケットに手を入れた。
あいにくと月の美しい夜ではないけれど。膝まずくのは……やめておこう。おそらく彼は望まない。
「もう一つ、おみやげがあるんだ」
取り出したベルベットの小箱を開いた。
ディフはまばたきもせずに目を見開いて、じっと小箱の中味を見つめた。
青い内張りの上に並ぶ、二つの指輪を。
「………これ………その………やっぱり……あれ……か? 結婚指輪」
「受けとってくれるね?」
「ったりめえだっ! プロポーズ受けたのに、今さらっ」
口調はぞんざいだが、声はかすかに震えている。
並んだ指輪のうち一つを手にとり、彼の左手を握って引き寄せる。
拗ねたような表情からふっと余計な力が抜けて行くのがわかった。
「病める時も、健やかなる時も。貧しい時も、豊かな時も、喜びにあっても、悲しみにあっても、命ある限り君を愛し、君とともにあると誓う」
「ああ……俺も……誓う」
ぽろぽろと涙をこぼしながらディフはほほ笑んだ。
忘れ得ぬ苦い記憶も。刻まれた傷の痛みさえも包み込んで花開く、それは俺だけに向けられる唯一の笑みだった。
「この指輪は、その証しだ」
左の薬指に指輪をはめるとディフは目を閉じて、小さく息を吐き、身を震わせた。
それからまぶたを上げると、迷いのない動きで箱から指輪を取り上げて。俺の左手を握った。
「この指輪を婚姻の証しとしてお前に捧げる……俺の魂も、肉体も全てお前だけのものだ、レオン」
まるで騎士の宣誓さながらにしっかりした声でよどみなく言い終えると、俺の左の薬指に指輪を滑り込ませた。
流れ落ちる澄んだ涙はまだ止まらない。抱き寄せて、キスで受けとめた。
「大好き……だ……レオン」
囁くと、彼は自分から唇を重ねてきた。
ここが教会ではないことをむしろ幸いと思おう。誓いの口づけがどれほど長かろうと、深かろうと、誰にも何も言われない。
※ ※ ※ ※
名残を惜しみつつ唇を離すと、ディフは嬉しそうに左手を握り合わせ、二つの指輪を重ねた。
「本当は一緒に買いにいこうと思ってたんだけれど、ね」
「いや……これ、いいよ。すごく……素敵だ……」
わずかに緑を帯びたヘーゼルブラウンの瞳が細められ、指輪に刻まれた小さな紋様を愛おしげに見つめる。
「あるんだな、こんなの」
「いくつか出してもらった中にあってね。その場で買うって言ってしまって」
「お前が? 珍しいな……でも……これなら、わかるよ」
「気に入ってくれてよかった」
「よくサイズわかったな」
「自分と比較すればいいだけだからそれほど難しくなかったよ」
身長はほぼ同じだが、骨格は明らかに彼の方ががっちりしている。ディフの薬指と俺の中指とがだいたい同じサイズなのだ。
ディフはそろりと俺の薬指を撫でて。それから中指を撫でて、続いて自分の薬指を撫でた。
「……ほんとだ」
※ ※ ※ ※
「腹減った。今日の飯、何?」
「エビチリと、春巻き!」
「いいにおいだ。何か手伝おうか」
「ありがと。お皿並べてくれる?」
「OK」
ディフはリビングでぴたっとレオンに寄り添っている。生成りの綿のシャツの上から、俺の持っていった黒い肩掛けを羽織って。
二人ともほとんど言葉はかわさず。ただ静かに見つめ合う。
ディフのやつ、ものすごく嬉しそうな顔してやがる……熟した桃の実の、うっすら赤くなった部分みたいにほんのり頬を染めて。
いったい何があったんだ?
食堂をのぞいてみて理由がわかった。食卓の上に花瓶が置かれ、マーガレットが活けられている。よく見ると、あっちにも、こっちにも。小分けされてはいるが、合計したらかなりの量になりそうだ。
店中のを買い占めたんじゃないかってくらいに。
ああ。そう言うことか。これじゃあディフのやつ頬染めもするだろうな。
しかしまあ、本来はこんな風にどさーっと大量に贈るような花じゃないだろうに……ったくレオンめ、何浮かれてるんだ?
そんな具合に勝手に納得してたんだが、甘かった。事実は俺の予想をはるかにすっ飛ばして進展していたのだった。
夕食が終わり、食後のお茶が出る段になってレオンが厳かに告げた。
「一応、報告しておく。今日からディフはこっちの部屋に住むことになったから」
その隣でディフはそれこそエビみたいに真っ赤になってやがる。そっと目を伏せてはいるが、ものすごく……嬉しそうだ。
「するってぇと、あれか。お前引っ越すのか、こっちに」
「……うん」
「そうか………」
不覚にもその時初めて気づいたのだ。二人の左手に、そろいの銀色の指輪が光っていることに。
それなりの幅と存在感があり、がっちりした男の手にはめても見劣りしない。
ほどよくマットのかかった表面には、青いライオンが……騎士の盾に描かれるエンブレムさながらに、後足で立ち上がるライオンの姿が刻まれていた。
いかにもこの二人にふさわしいと思った。
「………おめでとう」
俺はずっと見ていた。高校生の頃、この二人がルームメイトとして出会った頃からもどかしい親友時代を経て今に至るまで、ずっと。
って言うかディフと知り合ったのも、こいつをディフと呼び始めたのも、俺の方が早いのだ、実は。
※月梨さん画。高校時代の3人
ふーっと、ここんとこ数日、頭から首にかけてガチガチに絡み付いていた見えない鎖が蒸発して消えて行くような心地がした。
「よかったね」
目の周りを赤く染めてシエンがほほえみかける。
ディフはやっと顔を上げて、嬉しそうに、恥ずかしそうに答えた。
「……………ありがとう」
オティアはいつもと変わらずポーカーフェイスで。単なる一つの事実として受けとめている風だった。
だが、何か考えているようにも見える。
たまに俺と目が合うこともあるがいつものようにあっさりスルー。
やっぱり俺は空気か。
空気なんだろうなあ……。
※ ※ ※ ※
夕食後、書斎でレオンと話した。やっぱりここにもマーガレットが活けてある。さっき見たらディフがいそいそとリビングにも飾っていた。
いったい、どんだけ買ってきたんだ、レオン?
「あー、その………改めまして、ご結婚、おめでとうございます。で、式は?」
「まだ考えてないよ」
「いずれはやりますよね? 奴の花嫁姿はぜひ拝んでみたい」
「うん、だから考えてない」
「……つまり俺に見せるのはお断りと」
「No, 地球上の誰にも、だ」
さっくり言い切ったよこの男は。
「予測すべき答えでした」
「結婚といっても正式なものじゃない。法で縛られるわけでもない。……今はまだ」
「今は、ね」
確かに2005年の同性結婚許可の法案は州知事が署名せずチャラになったが。
2006年現在、カリフォルニア州最高裁では婚姻を男女の結びつきのみ、とする州法の違憲性を問う審議が進められている。
こいつが通れば将来、同性間でも結婚が認められ、晴れて夫婦として結婚証明署を受けとれる可能性は充分にある。
「式は……彼がやりたいんなら別だけどね」
レオンがちょいと肩すくめる。
手を伸ばしてマーガレットに触れてみる。白い、みずみずしい花びらに。あいつの一番、好きな花だ。
「……やりたいんじゃないかな。自分はあなただけのものなんだって。その事を何よりも確認したいだろうから」
「いずれにせよ、すぐには無理だね。ちょっと仕事を貯めすぎた」
「あー………そーいや……俺も………」
そろそろ、ジョーイが頭から湯気吹きそうなレベルまで原稿が遅れている。しかも三社分同時に。
今まではどうにか一つを進めて、直しが戻ってくるまでの間に別のをやって、ってな具合にやりくりしていたのだが。
誘拐事件とそれに続く連日の警察通いでさすがに自転車操業にも無理が出始めている。
「しばらく夕飯、食いにこれそうにないな……」
「だから今日言ったんだ」
「お見通しでしたか。そりゃどーも」
おやすみを言って(実際にはまだ寝るどころの騒ぎじゃないが)部屋を出る。
魔窟へと引き上げ、手帳をめくって仕事のスケジュールを確認しようとして、はたと気づいた。
そう言やもう、六月になっていたんだなって。
ジューンブライドなんて、柄じゃねえ、と奴は笑い飛ばすだろう。けれど………幸せになって欲しいと思った。
待て。
この場合はむしろレオンか?
次へ→【3-14-10】新たなる扉
「結婚することにしたよ」
「そうか! おめでとう。それで、指輪は用意したのかい?」
「そうか……確かに指輪が必要だな。ありがとう、デイビット」
「どういたしまして。バラの花束も忘れずにな!」
ぱちっとウィンクしている。
どうやら、この陽気なハンサム・ガイはこれからプロポーズに行くものと思っているらしい。彼の思考パターンからすれば、それが自然なプロセスなのだろう。
「ちなみに俺がイザベラにプロポーズした時は、月の美しい夜に真紅のバラの花束を捧げてひざまずき、胸ポケットから彼女の瞳によく似合うエメラルドのエンゲージリングを収めたベルベットの小箱を取り出して……」
もうプロポーズは済ませた。自分に必要なのはエンゲージリングではなく、結婚指輪なのだ。
美しき思い出に浸るデイビットの誤解をあえて訂正しないまま、携帯電話を取り出す。
まず最初にアレックスに連絡しようとして、止めた。
次にディフに電話しようとして、やっぱり止める。
一応、今日は自分だけで下見に行こう。よさそうなのをいくつかピックアップして、後でディフと相談して決めればいい。
そう思っていたのだ。たまたま立ち寄ったメイデン通りの宝石店で、あの指輪を見つけるまでは。
マリッジリングを見たいと店員に告げると、いくつか主立った品を取り出してカウンターの上に並べてくれた。
結婚指輪なんてみんな似た様なデザインだと思っていたが、結構なバリエーションがあるものなのだなと感心しながら見ていると……
そいつを見つけた。すっと手を伸ばして指さす。
「あれを」
「はい、ご覧になりますか?」
「いや、あれをもらおう」
幸い、サイズは在庫があった。名前の刻印も1時間ほどで仕上がった。
次に立ち寄った花屋で少し躊躇する。こんな店に一人で入るのはそもそも初めてだ。
真紅のバラの花束とデイビットは言っていた。確かに彼の細君にはぴったりだが、ディフには……今ひとつイメージが合わない。
どうしたものか。いっそ買わずに帰ろうか? ……それもいささか物寂しい。
ふと学生時代の会話を思い出す。
「俺、マーガレットが好きなんだ。家の庭にいっぱい咲いてた」
黄色の円をふちどる白い細長い花びら。すらりと伸びた細い茎。目玉焼きそっくりの配色の素朴な花。去年の秋、病室に届けられた花かごもあの花だった。
さほど広くはない店の中を見回し、じきに目的の花を見つけた。指さして店員に一言告げる。
「それを全部」
「全部、ですか?」
「ああ。カード、使えるかな?」
「え、ええ、使えますとも! 少々お待ちください」
※ ※ ※ ※
「ただ今」
「レオン!」
笑顔で出迎える人を引き寄せる。身にまとう薄い黒い布がふわりと揺れた。少し強引だったかとも思ったが、そのまま唇を重ねた。
もう、誰が見ていようとためらわない。かまうものか。
ディフは少し驚いたように目を見開いたが、それも一瞬。すぐに目元を和ませて応えてくれた。
名残を惜しみながらゆっくりと離れる。
「……お帰り」
「ただ今」
かすかに頬が赤い。可愛いな。そっと指先で乱れた赤い髪を整えた。
「ん……? 何だ、それ」
「ああ。これ」
マーガレットの花束を手渡すと、彼は大事そうに両手で抱えて顔をほころばせた。
「ありがとな。この花、一番好きなんだ……覚えててくれたんだな」
「気に入ってくれてよかったよ」
「活けてくる」
「そうだね……あ、ディフ」
「ん? 何だ?」
「まだあるんだが」
さらにもう一つ、花束を手渡す。ヘーゼルブラウンの瞳がきょとん、と丸くなる。
「マジシャンみたいだな……」
「その……かさが多くなるものだとは思わなくて」
さらに、もう一つ。これでも花屋の店員は一生懸命、コンパクトにまとめてくれたのだが。
「誰かさん、言わなかったか。イメージだけ伝えて後は花屋の店員に任せろって」
マーガレットの花束を3つ抱えて、ディフはくすくす笑い出した。
「そんなこと言ったかな……」
「言ったんだよ」
顔をよせ、頬にキスしてきた。
彼と花屋の話なんかしたことがあっただろうか?
可能性があるとしたら、マーガレットが好きだと聞いたのと、ほぼ同じ時期だろうか。
「10年ぐらい前だったかな」
「ああ。高校の時だ。あの時も、同じ部屋に住んでた」
「思い出した。君がデートに行くって言ったんだ」
「うん。そっちは忘れてたんだな……あの時言ったんだ。この花が一番好きだって」
「俺はそのあと花屋に入ることもなかったしね」
「……嬉しいよ、レオン」
二人して玄関にいつまでもいたものだから心配になったのだろう。シエンがひょっこりと顔をのぞかせ、やっぱり目を丸くした。
「お帰りなさい……わ。花束?」
「一つ持ってくれるか? 流石に全部抱えるのはちと難しい」
「うん。すごいね」
「ああ。すごいな」
ディフはとても上機嫌だ。シエンは素直に感心している。
こっちはこっちで微妙に……気まずい。夜中にうっかり皿を割った時もこんな気分だった。
「花瓶、出してこなきゃね」
「ああ。いくつか必要だな」
「あ……その、ディフ」
「何だ?」
「終わったら書斎に来てくれ。話がある」
「わかった」
※ ※ ※ ※
書斎に戻ってきた彼の髪の毛には、ひとひら白い花びらがついていた。そっと指先でつまみとる。
「あ……ついてたか」
「似合ってたけど、ね」
「柄じゃねえよ」
口をへの字に曲げているけれど目が笑っている。本気じゃないのはすぐにわかる。
そんなディフの表情をつぶさに見守りながら、胸ポケットに手を入れた。
あいにくと月の美しい夜ではないけれど。膝まずくのは……やめておこう。おそらく彼は望まない。
「もう一つ、おみやげがあるんだ」
取り出したベルベットの小箱を開いた。
ディフはまばたきもせずに目を見開いて、じっと小箱の中味を見つめた。
青い内張りの上に並ぶ、二つの指輪を。
「………これ………その………やっぱり……あれ……か? 結婚指輪」
「受けとってくれるね?」
「ったりめえだっ! プロポーズ受けたのに、今さらっ」
口調はぞんざいだが、声はかすかに震えている。
並んだ指輪のうち一つを手にとり、彼の左手を握って引き寄せる。
拗ねたような表情からふっと余計な力が抜けて行くのがわかった。
「病める時も、健やかなる時も。貧しい時も、豊かな時も、喜びにあっても、悲しみにあっても、命ある限り君を愛し、君とともにあると誓う」
「ああ……俺も……誓う」
ぽろぽろと涙をこぼしながらディフはほほ笑んだ。
忘れ得ぬ苦い記憶も。刻まれた傷の痛みさえも包み込んで花開く、それは俺だけに向けられる唯一の笑みだった。
「この指輪は、その証しだ」
左の薬指に指輪をはめるとディフは目を閉じて、小さく息を吐き、身を震わせた。
それからまぶたを上げると、迷いのない動きで箱から指輪を取り上げて。俺の左手を握った。
「この指輪を婚姻の証しとしてお前に捧げる……俺の魂も、肉体も全てお前だけのものだ、レオン」
まるで騎士の宣誓さながらにしっかりした声でよどみなく言い終えると、俺の左の薬指に指輪を滑り込ませた。
流れ落ちる澄んだ涙はまだ止まらない。抱き寄せて、キスで受けとめた。
「大好き……だ……レオン」
囁くと、彼は自分から唇を重ねてきた。
ここが教会ではないことをむしろ幸いと思おう。誓いの口づけがどれほど長かろうと、深かろうと、誰にも何も言われない。
※ ※ ※ ※
名残を惜しみつつ唇を離すと、ディフは嬉しそうに左手を握り合わせ、二つの指輪を重ねた。
「本当は一緒に買いにいこうと思ってたんだけれど、ね」
「いや……これ、いいよ。すごく……素敵だ……」
わずかに緑を帯びたヘーゼルブラウンの瞳が細められ、指輪に刻まれた小さな紋様を愛おしげに見つめる。
「あるんだな、こんなの」
「いくつか出してもらった中にあってね。その場で買うって言ってしまって」
「お前が? 珍しいな……でも……これなら、わかるよ」
「気に入ってくれてよかった」
「よくサイズわかったな」
「自分と比較すればいいだけだからそれほど難しくなかったよ」
身長はほぼ同じだが、骨格は明らかに彼の方ががっちりしている。ディフの薬指と俺の中指とがだいたい同じサイズなのだ。
ディフはそろりと俺の薬指を撫でて。それから中指を撫でて、続いて自分の薬指を撫でた。
「……ほんとだ」
※ ※ ※ ※
「腹減った。今日の飯、何?」
「エビチリと、春巻き!」
「いいにおいだ。何か手伝おうか」
「ありがと。お皿並べてくれる?」
「OK」
ディフはリビングでぴたっとレオンに寄り添っている。生成りの綿のシャツの上から、俺の持っていった黒い肩掛けを羽織って。
二人ともほとんど言葉はかわさず。ただ静かに見つめ合う。
ディフのやつ、ものすごく嬉しそうな顔してやがる……熟した桃の実の、うっすら赤くなった部分みたいにほんのり頬を染めて。
いったい何があったんだ?
食堂をのぞいてみて理由がわかった。食卓の上に花瓶が置かれ、マーガレットが活けられている。よく見ると、あっちにも、こっちにも。小分けされてはいるが、合計したらかなりの量になりそうだ。
店中のを買い占めたんじゃないかってくらいに。
ああ。そう言うことか。これじゃあディフのやつ頬染めもするだろうな。
しかしまあ、本来はこんな風にどさーっと大量に贈るような花じゃないだろうに……ったくレオンめ、何浮かれてるんだ?
そんな具合に勝手に納得してたんだが、甘かった。事実は俺の予想をはるかにすっ飛ばして進展していたのだった。
夕食が終わり、食後のお茶が出る段になってレオンが厳かに告げた。
「一応、報告しておく。今日からディフはこっちの部屋に住むことになったから」
その隣でディフはそれこそエビみたいに真っ赤になってやがる。そっと目を伏せてはいるが、ものすごく……嬉しそうだ。
「するってぇと、あれか。お前引っ越すのか、こっちに」
「……うん」
「そうか………」
不覚にもその時初めて気づいたのだ。二人の左手に、そろいの銀色の指輪が光っていることに。
それなりの幅と存在感があり、がっちりした男の手にはめても見劣りしない。
ほどよくマットのかかった表面には、青いライオンが……騎士の盾に描かれるエンブレムさながらに、後足で立ち上がるライオンの姿が刻まれていた。
いかにもこの二人にふさわしいと思った。
「………おめでとう」
俺はずっと見ていた。高校生の頃、この二人がルームメイトとして出会った頃からもどかしい親友時代を経て今に至るまで、ずっと。
って言うかディフと知り合ったのも、こいつをディフと呼び始めたのも、俺の方が早いのだ、実は。
※月梨さん画。高校時代の3人
ふーっと、ここんとこ数日、頭から首にかけてガチガチに絡み付いていた見えない鎖が蒸発して消えて行くような心地がした。
「よかったね」
目の周りを赤く染めてシエンがほほえみかける。
ディフはやっと顔を上げて、嬉しそうに、恥ずかしそうに答えた。
「……………ありがとう」
オティアはいつもと変わらずポーカーフェイスで。単なる一つの事実として受けとめている風だった。
だが、何か考えているようにも見える。
たまに俺と目が合うこともあるがいつものようにあっさりスルー。
やっぱり俺は空気か。
空気なんだろうなあ……。
※ ※ ※ ※
夕食後、書斎でレオンと話した。やっぱりここにもマーガレットが活けてある。さっき見たらディフがいそいそとリビングにも飾っていた。
いったい、どんだけ買ってきたんだ、レオン?
「あー、その………改めまして、ご結婚、おめでとうございます。で、式は?」
「まだ考えてないよ」
「いずれはやりますよね? 奴の花嫁姿はぜひ拝んでみたい」
「うん、だから考えてない」
「……つまり俺に見せるのはお断りと」
「No, 地球上の誰にも、だ」
さっくり言い切ったよこの男は。
「予測すべき答えでした」
「結婚といっても正式なものじゃない。法で縛られるわけでもない。……今はまだ」
「今は、ね」
確かに2005年の同性結婚許可の法案は州知事が署名せずチャラになったが。
2006年現在、カリフォルニア州最高裁では婚姻を男女の結びつきのみ、とする州法の違憲性を問う審議が進められている。
こいつが通れば将来、同性間でも結婚が認められ、晴れて夫婦として結婚証明署を受けとれる可能性は充分にある。
「式は……彼がやりたいんなら別だけどね」
レオンがちょいと肩すくめる。
手を伸ばしてマーガレットに触れてみる。白い、みずみずしい花びらに。あいつの一番、好きな花だ。
「……やりたいんじゃないかな。自分はあなただけのものなんだって。その事を何よりも確認したいだろうから」
「いずれにせよ、すぐには無理だね。ちょっと仕事を貯めすぎた」
「あー………そーいや……俺も………」
そろそろ、ジョーイが頭から湯気吹きそうなレベルまで原稿が遅れている。しかも三社分同時に。
今まではどうにか一つを進めて、直しが戻ってくるまでの間に別のをやって、ってな具合にやりくりしていたのだが。
誘拐事件とそれに続く連日の警察通いでさすがに自転車操業にも無理が出始めている。
「しばらく夕飯、食いにこれそうにないな……」
「だから今日言ったんだ」
「お見通しでしたか。そりゃどーも」
おやすみを言って(実際にはまだ寝るどころの騒ぎじゃないが)部屋を出る。
魔窟へと引き上げ、手帳をめくって仕事のスケジュールを確認しようとして、はたと気づいた。
そう言やもう、六月になっていたんだなって。
ジューンブライドなんて、柄じゃねえ、と奴は笑い飛ばすだろう。けれど………幸せになって欲しいと思った。
待て。
この場合はむしろレオンか?
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