▼ 【3-14】ライオンと翼
- 【3-13】★俺の天使に手を出すなの直後からスタート。
- 【3-14-12】は【3-14-11】のラブシーンの詳細をカットしたバージョンで、内容は同じです。BL要素が苦手な方は【3-14-12】をお読みいただくと吉。
- 【3-14-11】も★★★(ベッドシーン有り)の表記になっていますが実際には「ラブシーン」といった趣きでエロ重視ではありません。
【attenntion!】タイトルに『★★★』の入っている章には男性同士のベッドシーンが含まれています。十八歳未満の方、および男性同士の恋愛描写がNGの方は閲覧をお控えください。
記事リスト
- 【3-14-0】登場人物 (2008-06-21)
- 【3-14-1】病院の天使 (2008-06-21)
- 【3-14-2】双子と執事とライオンと (2008-06-21)
- 【3-14-3】迷子のレオン1 (2008-06-21)
- 【3-14-4】迷子のレオン2 (2008-06-21)
- 【3-14-5】★そして彼は黒をまとう (2008-06-21)
- 【3-14-6】ドライマティーニ (2008-06-21)
- 【3-14-7】おかえり (2008-06-21)
- 【3-14-8】★ずっと一緒に (2008-06-21)
- 【3-14-9】BlueLion (2008-06-21)
- 【3-14-10】新たなる扉 (2008-06-21)
- 【3-14-11】★★★ライオンと翼 (2008-06-21)
- 【3-14-12】★★ライオンと翼 (2008-06-21)
▼ 【3-14-0】登場人物
- より詳しい人物紹介はこちらをご覧下さい。
フリーの記者。25歳。
黒髪、アンバーアイ、身長180cm、細身(と言うか貧弱)
フレーム小さめの眼鏡着用。適度にスレたこずるい小悪党。
オティアに想いを寄せるが告白段階で激しく自爆。
もはや報われないことがステイタスとして確立した、本編の主な語り手。
バーのバイトで食いつないだ経験が有り、今でもカクテルとつまみは作れる。
そのせいで若干、酒の飲み方にはうるさい。
【オティア・セーブル/Otir-Sable 】
不思議な力を持つ双子の片割れ。16歳。
ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
極度の人間不信だがヒウェルには徐々に心を開きつつあった、が。
告白の際に著しく心を傷つけられ、今はひたすら『空気』扱い。
観察力に優れ、また記憶力は驚異的に良い。
ポーカーフェイスの裏側で実は意外に心揺れ動いている。
ディフの探偵事務所で助手をしている。
何を飲むかと問われれば返事は「水」。
【シエン・セーブル/Sien-Sable】
不思議な力を持つ双子の片割れ。16歳。
外見はオティアとほぼ同じ。
オティアより穏やかだが、臆病でもろい所がある。
また素直そうに見えて巧みに本心を隠してしまう一面も。
ディフになついている。
自覚のないままヒウェルに片想いしている。
その一方で、オティアとのこじれた仲を取り持とうとする複雑な立ち位置に。
レオンの法律事務所で秘書見習いをしている。
ジャスミンティーが好き。
【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】
通称レオン
弁護士。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
ライトブラウンの髪と瞳、身長180cm、着やせするタイプで意外と筋肉質。
一見、温厚そうな美人さん、実は腹黒。実家は金持ちだが家族への情は薄い。
恋人のディフを「俺の天使」と言い切る強気な人。
ディフと双子に害為す者に対しては穂高の槍の穂先並みに心が狭い。
ヒウェルに対してはとことん容赦無い。
酒は強く、酔っても顔に出ない。
【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】
通称ディフ、もしくはマックス。
元警察官、今は私立探偵。ヒウェルとは高校時代からの友人。25歳。
ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
頑丈そうな体格だが無自覚に色気をふりまく困った体質(ゲイ相手限定)。
裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
レオンの嫁で双子の『まま』。
バーボンよりスコッチを好む。
【アレックス/Alex-J-Owen】
レオンの秘書。もともとは執事をしていた。
有能。万能。
レオンさまのためなら火の中水の中。
自分で飲むなら、辛口の白ワイン。
【エリック/Hans-Eric-Svensson】
シスコ市警の科学捜査官。ディフの警官時代の後輩、23歳。
ライトブロンド、瞳は青緑色、身長186cm。
金属フレームの眼鏡着用。
今回失恋が確定したバイキングの末裔。
ビールはCarlsberg(カールスベア)と決めている。
【キャンベル/Rod-Campbell】
シスコ市警の科学捜査官。エリックの同僚、26歳。
黒髪、黒目、ドレッドヘアーのアフリカ系。
某缶詰スープと同じ綴り。実際、好物で常食にしてるらしい。
次へ→【3-14-1】病院の天使
▼ 【3-14-1】病院の天使
「いや、まだいい」
救出後、収容された病院でディフは断固として治療を受けようとしなかった。かろうじて検査用のガウンを身につけることは了承したものの、ドクターにも、ナースにも手を触れさせようとしない。
「証拠の採取が済んでからだ。命に関わるような怪我じゃない」
ディフの意志は固く、言葉も態度もしっかりしていた。
結果として彼の意志は尊重され、ドクターは渋りながらも鑑識の到着を待つと答えてくれた。
その間、レオンはずっと恋人の傍らを離れなかった。ほとんど言葉は交わさなかったが、しっかりと手を握りしめて。
やがて警察から二名のCSI捜査官やってきた。北欧系の背の高い金髪と、アフリカ系のドレッドヘアーの対照的な外見の二人組。CSIのロゴの入ったそろいの紺色の上着を着て、手にはめいめい四角いプラスチックの道具箱を下げている。
「よぉ、エリック、キャンベル。お前らが来たか」
「センパイ……」
二人ともディフとは顔見知り。かつては警察で苦楽を共にした友人であり、犯罪捜査のために力を合わせた仲間だった。
これから何が始まるのか。何をすればいいのか。
する方も、される方も、分りすぎるほど分っている。
「レオン。少しの間、席、外してくれるか」
「…………わかった」
ぐっと強く握ってからレオンは指の一本一本を強靭な意志の力で動かして手を離し、少しだけベッドから離れる。部屋から出るつもりは毛頭なかった。
キャンベルがカーテンを引き、ベッドの周囲に薄いクリーム色の結界を張る。
次に何をすればいいか、分かっていた。
だが、動けない。二人のCSI捜査官は顔を見合わせ、声も無く立ち尽くしていた。
「……………」
「どうした」
「あ……いや……」
いたたまれず、キャンベルは目をそらした。
不意にカーテンが揺れた。ベッドがぎしっと軋む。ぎょとして向き直るとディフが猛然とエリックに詰め寄り、胸ぐらをひっつかんでいた。
「聞け。今の俺の体は証拠の山だ……爪の間の皮膚、体にこびりついた体液も毛髪も全て拾い上げろ」
大型の肉食獣の唸りさながらの低い声。歯をむき出し、今にも噛み付きそうな勢いだ。
(ああ、同じだ。オレが警察に入ってから間もない頃、制服警官時代に容疑者を連行して来た時と)
「奴らを二度と娑婆に出すもんか。あの子たちにも。レオンにも、二度と手は出させない! 徹底的に叩きのめしてやる、そのためなら何だってする」
「……了解」
「わかったんなら、さっさと仕事しろ!」
エリックは意を決して道具箱の中から捜査用の道具を取り出し、薄いゴム手袋をはめた。
ディフはしばらくの間深く呼吸をして息を整えていたが、やがて自分から検査衣を脱ぎ、生々しい暴力と欲望の痕跡をかつての同僚の前にさらけ出した。
「失礼します」
シャツのすき間からちらりと見えるたびに顔が火照り、胸が高鳴った彼の体が今、目の前にある。
できればこんな形で目にしたくはなかった。
(しっかりしろ、エリック)
自分で自分を叱咤する。
これは犯罪捜査のために必要なのだ。自分の義務であり、何より彼がそのことを望んでいる。
それでも、使い慣れた道具を操る指先が震えた。
首筋の歯形の表面を綿棒で拭い、長さを計る。写真を撮る時、カーテンの向こうから剣呑な気配が伝わってきた。
キャンベルも薄々気づいたらしい。こわごわと背後を伺っている。
胸、わき腹、と同様に計測と写真撮影を続けていると、足の付け根のあたりを示された。
「ここにも歯形がある。別の奴だ」
淡々とした口調で説明される。うなずいて手伸ばした。
(こんな所まで……)
噛み痕の主は容赦無く歯を立てていて、計測も写真の撮影も容易に行うことができた。
「後ろ……向いてもらえますか」
「ああ」
背中に広がるタトゥーを目にした瞬間、エリックの心は二つに引き裂かれた。
警察官として冷静に犯罪の『証拠』を分析している自分と。
(これは、同じものだ。去年、水路に浮いていた死体のものと)
被害者を慕う友人として、怒りに震える自分と。
(パリス……センパイに何てことを!)
同時に感じてもいた。捜査官としての意識が冷静に怒りの手綱をとり、収めてしまうのを。
そうだ、怒るのは後でいい。今は目の前の証拠に集中しよう。
「これは……機械で?」
「いや。手彫りだ。筆跡鑑定、できるか?」
「かなり変則的ですが。やってみます」
この人も同じだ。他のタトゥーとの関連性を理解している。自分の事件だけじゃない、他の事件の証拠ともなり得ると。
「失礼します」
タトゥーの表面に付着物がないかどうか。綿棒で拭い、粘着性のシートをはり付ける。手が触れた瞬間、ディフの体が強ばり、血の気が失せる。蒼白とはまさにこの事だ。
歯を食いしばり、必死に何かを堪えている。
「すみません、痛みますか」
抑揚のない声が答えた。
「いや。続けろ」
「了解」
つとめて手早く作業を進めた。
付着物の採取を終えてから、写真を写す。カーテンの向こうの剣呑な気配がさらに強まった。
「……終わりました」
黙ってうなずくと、ディフはぎこちない動きで検査衣を身につけた。薄緑の布地をきつく体に巻き付けて、背中を隠すようにして。
※ ※ ※ ※
カーテンを開けるとCSIから来た二人組はレオンに会釈をして、足早に病室を出て行った。
黙って見送ってから、ドクターを呼んだ。
治療の間中、ディフは一言も口をきかなかった。ただ背中の傷に触れられた時だけ、びくんとすくみあがり、喉の奥で小さくうめいた。
握る手に力をこめる。
「………ここに居るから」
うなずいて、両手で握り返してくる。堅く目を閉じて、高熱を出した時のように震えていた。
※ ※ ※ ※
治療が終わって、二人きりになってからレオンに抱きしめられた。背中の一部に触れないよう、細心の注意を払っている。
迷ってから、目を合わせずに小さな声で問いかける。
「どんな絵………彫ったんだ。自分じゃ……見えない」
「羽根だよ」
「なんで…そんなもん………」
俺に似合いのを入れたと言った。何故、羽根なんか。
「文字……あるはずだ」
「ああ……」
「『俺の名前を一生背負って行け』って…………」
「……タトゥーは手術で消せる。レーザーで焼くんだけどね」
『汚れ切ったその体で、どの面下げてローゼンベルクの前に出るつもりだ?』
思わずレオンの手を振り払っていた。
あの部屋の冷たいベッドの上で、嬲られながらずっとお前を呼んでいた。
淫乱よ、裏切り者よと口々に罵られ、もうお前に愛される資格はないのだと嘲られながら、それでもひと目会いたいと願い続けた。
それさえもお前への裏切りなのだろうか。
肩を抱え、掠れた声を振り絞る。
「いっそこの身体全て焼き払いたい」
「それじゃ俺が困るよ」
「…………」
震える手を伸ばし、レオンの袖をつかむ。優しく手を握られた。
「君が今ここにいる……俺はそれだけで嬉しいよ」
手をしっかり握り返した。体が細かく震える。痛みのせいでも、熱のせいでもない。
黙って抱きしめてくれた。
夢中ですがりついていた。
「レオン……レオン……レオン……」
何度も呼ぶ。どんなに責め苛まれても。誇りも尊厳も全てはぎ取られ、心と体、もろとも引き裂かれても忘れなかった唯一の人の名を。
例えそれが裏切りだとしても、目の前の優しい腕を離すことは……できなかった。
次へ→【3-14-2】双子と執事とライオンと
▼ 【3-14-2】双子と執事とライオンと
マクラウドさまが入院してから今日で三日目になる。
メイリールさまは毎日警察に呼ばれている。今回は積極的に証言し、捜査に協力なさっているらしい。いつもほとんど表立って動かないあの方が。
その分、レオンさまが心置きなく病室に付き添えるようにとのお心遣いだろう。
オティアさまとシエンさまのお世話は私に任されている。
お二人とも熱心に勉強し、家事もよく手伝ってくださる。ただ、時折そわそわと落ちつかなかったり。びくっと何かに怯えるような素振りを見せることがあるのが気がかりだ。
おそらく他人の目から見てもほとんどわからないくらいの(オティアさまは特に)些細な揺らぎではあるのだが……。
おやつの仕度をしようとキッチンに行くと、食堂でかすかに人の気配がした。
シエンさまがぽつんと食卓に座っておられた。いつもご自分が座る席ではない。マクラウドさまの席に座り、ぺたりとつっぷしてテーブルの表面を手のひらで撫でている。
見ていて胸がしめつけられた。
そっと息をひそめて見守っていると、リビングからオティアさまが入ってきてシエンさまの肩に手を置いた。
やはりお二人とも心細いのだ。
エプロンを身につけて、静かに食堂に入る。
「アレックス」
「……」
オティアさまが何か言いたげな表情をしている。デイビットさまからいただいた白いエプロンを見ると、いつもこんなお顔をする。
「何か、作るの?」
「はい。マドレーヌを焼こうと思いまして」
シエンさまが立ち上がり、いそいそとご自分のストライプのエプロンを身につけた。
「手伝うよ」
「ありがとうございます。少し、多めに作りますので、助かります」
「そんなに沢山、どうするの?」
貝殻型の焼き型に薄くバターを塗る。
「マクラウドさまにお届けしようかと思いまして」
「あ、そっか、ディフ、好きだものね、これ」
「はい。焼き上がったら、お見舞いに参りましょう。よろしければ、ごいっしょに」
「…………うん」
シエンさまは、はにかみながらも嬉しそうにほほ笑んだ。その隣でオティアさまが何も言わずに冷蔵庫から牛乳と卵を取り出していた。
「あのね、アレックス。ディフの部屋から持ってきてほしいものがあるんだ」
※ ※ ※ ※
「シエン……オティア!」
お二人の顔を見て、マクラウドさまは嬉しそうにほほ笑んだ。
ベッドに半身を起こしてレオンさまの手を握ったまま。まだ少しやつれてはいるが、それでも子犬を見守る母犬のような穏やかな笑顔だった。
「ディフ……これ」
ベッドの傍らに歩み寄ると、シエンさまは大事そうにかかえてきたぬいぐるみを手渡した。
白いライオンと、少し古びた茶色のクマ。二匹のぬいぐるみを膝に乗せると、マクラウドさまは恥ずかしそうに頬を染め、「ありがとう」と囁いた。
「ちゃんと飯食ってるか?」
「うん」
「ベランダの鉢植えに水やってるか?」
「うん」
「勉強は?」
「大丈夫」
「洗濯……と、掃除は心配ないよな。アレックスがいるんだから」
「おそれ入ります」
一礼して、まだほんのりとあたたかいマドレーヌの入った袋をさし出した。
「サンキュ、アレックス。助かったよ、病院の飯は味気なくってさ」
「お弁当つくってこようか?」
にこにこしながらシエンさまがおっしゃった。
※ ※ ※ ※
マクラウドさまに会ったことでシエンさまは少し落ちつかれたようだった。
マクラウドさまも、お二人と話す間に(ほとんど話しているのはシエンさまで、オティアさまはうなずいておられるだけだったが)少しずつ、だが確実に活力を取り戻して行くのがわかった。
病室を出るとシエンさまがおっしゃった。
「アレックス、帰りにベーカリーに寄ってくれる? パン、買いたいんだ。サンドイッチ用の」
「かしこまりました」
「……レオンも、ディフと一緒なら、食べてくれるよね」
レオンさまは最近、ほとんど食事を召し上がらない。
案じておられるのだ。優しいお子だ。
親子。兄弟。友人。
どんな言葉で彼らの繋がりを表すべきかは判らないが……。
やはりお二人にはレオンさまとマクラウドさまの存在が必要なのだ。
レオンさまとマクラウドさまにとっても、オティアさまとシエンさまが必要であるように。
※ ※ ※ ※
事件の後、病院に運ばれてからディフはそのまま入院した。
去年の時ほど体の傷は重くはなく、検査が終われば一週間ほどで退院できると言う話だった。
レオンは日中はほとんど病室でつきっきりで、面会時間が終わってから帰って来る。仕事にも行っていないらしい。
何となく邪魔するのが気が引けて見舞いに行けずにいると、三日目の夜、俺の携帯に電話がかかってきた。
公衆電話からだ。
「ハロー」
「よお、ヒウェル」
「お前……どこから?」
「病院からだよ。携帯は使えないからな」
「レオンは?」
「もう帰った」
時間を確認する。
確かに面会時間はもう終わっていた。
「ちょっと持ってきてほしいものがあるんだ。頼まれてくれるか?」
「クマか?」
「それは、もうシエンが持ってきてくれた」
…………いつの間に。
もう、俺なんかよりあいつらの方がずっとディフに近い存在になっちまってるんだな。
ほっとするような、ちとさみしい様な、微妙な気分になる。
「頼みたいのは、肩掛け用のブランケットだよ。けっこう寒いんだ、病院」
「わーったよ。色の希望は?」
「できるだけ濃いめの」
電話を切ってから、ほっと息を吐く。
そう言や、奴が誘拐されて、救出されてからまともに言葉をかわしたのは初めてだった。
『お前、どこから?』
『クマか?』
我ながらまぬけなやり取りだ。
最初に何て声をかけりゃいいのか、いろいろ悩んでいたはずなんだけどなあ。
まあ、現実はこんなもんだろ。
さて、ここはネタに走ってショッキングピンクを持って行くべきだろうか。それとも、無難に茶系にしとくべきだろうか?
……迷うね。
次へ→【3-14-3】迷子のレオン1
▼ 【3-14-3】迷子のレオン1
ディフからの電話を切ってふーっと一息。片手にキープしていた煙草をくわえて吸い込み、ぽぽぽぽっと煙の輪っかを吐き出した。
「……器用ですねえ、H」
「よう、エリック。喫煙エリアにようこそ」
どこに居るかと言うと警察の廊下のそのまた突き当たりの角。コーヒーとチョコバーの自販機の並ぶこの一角には灰皿が設けてあり、スモーカーのささやかな憩いの場となっている。
「廊下に出たら後ろ姿が見えたもんで……電話ですか?」
「ああ、もう終わったよ」
携帯を閉じて無造作にポケットに突っ込んだ。
フレデリック・パリスは弁護士の同席を拒んだ。その代わり、記者を一名指名し、可能な限り取り調べに立ち会わせることを要求したのである。
すなわち、この俺だ。
「お前は最初に俺を記事にした奴だからな。最後まで見届けろ」
「……そりゃまた光栄で」
そんな訳で俺は捜査上の守秘義務に関する誓約書を何枚も書かされた上で、奴の取り調べに同席する栄誉に預かることとなった。
実際、パリスはよく喋った。『あなたにとって不利な証拠になる』ような事柄まで包み隠さず事細かに。
部下を指図してやらせたこともあれば彼自身が行ったことも有り。ざっと今日まで聞いた限りでは、最低でも終身刑になりそうな気配だ。
加えて双子の事件の際に書き溜めてきた取材記事と記録を警察側に進呈し、この三日間と言うもの、金髪眼鏡のバイキングの末裔と顔を付き合わせている。
エリックは自販機でコーヒーを一杯買うと俺の隣に座り、すすってひとこと。
「あー……あったかいなあ」
「またロクなもの食ってないのか」
「そーでもないですよ。リンゴとクラッカーと、バナナと……ああ、あとは今日、チーズも食いました」
「ああ、確かに健康的だね。俺に比べれば」
「あなたはもっと、きちんとしたもの食った方がいいですよ。チョコバーだけじゃなくて」
「ちゃんと栄養のバランスには気をつけてるよ」
「どのへんが?」
「……今日食ったのは、ピーナッツバター入り」
「ああ、ピーナッツスプレッドは体にいいらしいですからね」
何せずーっと顔つきあわせてるもんだから互いの食い物や飲み物の好みにやたらと詳しくなってしまった訳で。
この男が、仕事場以外でも白っぽい服を好むと言う事も初めて知った。(なにせ今まで会う時はいつも白衣だったから)
やがて俺はフィルターぎりぎりまで灰にした煙草を灰皿にねじ込み、エリックは空になった紙コップをくしゃりと握りつぶしてゴミ箱に放り込んだ。
「それじゃ、俺、そろそろ帰るわ。いい加減、原稿書かないと」
「おつかれさんです。俺もそろそろ分析に戻ります」
いつ寝てるんだろうなあ、こいつ。(きっと向こうもそう思ってる)
へろへろと手を振って廊下を歩き出すと、携帯が鳴った。ポケットから引っぱり出して発信者を確かめる。
……まさか。
こいつから電話がかかってくるなんて!
「よう。どうした、オティア?」
ハロー、も、元気? も無し。開口一番、必要なことだけぼそりと言ってきた。
「レオンが戻ってきてない」
「……………マジか?」
時計を確かめる。21時45分。
さっき、ディフは面会時間が終わって帰ったと言っていた。まだマンションに着いてないってのはどう言うことだ?
まさかレオンの奴、離れがたくなってこっそり病室に引き返したんじゃあるまいな。
「……アレックスに来てもらえ。番号分るな?」
「もう来てる。ああ、それと、ディフんところには行くな。あそこにはいない」
「………………わかった」
こっちの考えを読まれたんじゃないかと思って一瞬、どきりとした。オティアの直感は鋭い。彼がNoと言うのなら、病室にはいないのだ。
「事務所かな……」
「今日は行ってない」
「っ、じゃ、ほとんど行方不明か……どーこほっつきあるいてんだ。奴らしくねぇ」
電話の向こうで沈黙が答える。
それは俺の知ったことじゃない、と。
「心当たり探してみるよ。見つけたら連絡する。じゃあな」
電話を切ってポケットに突っ込む。
いったいどこに行ったんだ、レオン?
※ ※ ※ ※
『俺の天使』と離れるとレオンがどんな事をやらかすか……。
経験を元にすれば自ずと答えは出る。おそらく、どこかで飲んだくれてるはずだ。やさぐれた野郎一人が飲んでいても目立たない程度に規模の大きい店で。
病院からマンションまでの道すがら、条件に合いそうな店をピックアップして順繰りに回って行く。
五軒目で迷子を見つけた頃には、かなり遅い時刻になっていた。
ぼんやりとカウンターに肘をつき、ちっぽけなグラスに注いだ透明な酒を、氷も浮かべずストレートでくいくい飲んでいる。
ぱっと見、素面に見えるが俺はごまかされない。
さりげなく近づき、隣に腰を降ろした。
「……そう言う飲み方する酒じゃないですよ、それ」
「………やぁ」
ほらな。
微妙に反応が、鈍い。
「……ども」
のろのろとレオンは左手首に巻いた腕時計に視線を落した。
「……ああ、こんな時間か……」
「ええ。こんな時間です。いけませんよ、こんなとこで一人で無防備に飲んだくれちゃ」
「大丈夫だよ」
へっと口を歪めて笑い飛ばす。
ああ、もう、この人はてんでわかっちゃいないんだ。自分が今、どれほど隙だらけになってるか。
「どーだか? 『天使』と離れてる時のあなたがどうなるかは……いささか前例を見てますんでね」
とろんとしたかっ色の瞳が宙をさまよう。
「……あの時も……こんな店だったかな……」
「ええ。またあなたに言いよる奴がいたら、ウォッカ3倍の特製カクテルで潰しときますかね」
「もう随分前のことのような気がするな」
「そうですね。ほんの4年、いや5年前かな?」
まだレオンとディフが恋人じゃなくて親友同士だった頃の話だ。
双子も、ルースも、パリスも、俺たちの時間には影すら登場してはいなかった。
あの頃は、まさか俺たち三人が同じマンションに住んで。毎晩飯を一緒に食うようになるなんて思ってもみなかった……。
ただ一つ変わってないことがあるとしたら、あの時も、今も、変わらずレオンはディフだけを見てるってことだろう。
「君のせいでディフが引っ越してくることになったんだ、確か」
「あ……そう言やそんなこと言ってたなあ」
苦笑いして髪の毛をくしゃっとかきあげた。
「『悪い男とつきあうから放っとけない』って。確かに悪い男だ」
「わかっていたのにな……彼は、俺のだめなところを見つけると喜ぶんだ」
ふうっとため息をつくと、レオンはグラスの中味を一気にあおった。
「………………それすんっごい性格悪い奴ってことすかもしかして」
「自分が役にたてるって思うんだろうね」
「あ…あーあーあー……それすっげえわかる」
「それにつけこんでるんだから、俺のほうがよっぽど悪い男だ」
「さあてね。あなたの代わりは何にも誰にもできやしない。奴ぁ、あなたと居るのが一番幸せなんだ」
これ、言っちまっていいのかな。少しだけ迷ってから、口にする。
「……ずっと探してた」
「……クマを?」
ゆるく首を横に振る。
「あなたを。レオン、どこ? って」
「初耳だね」
「………初めて言いましたから」
「聞いていても何もかわらなかっただろうけどね……」
「それじゃ、俺はこの件に関しちゃ『悪い男』にならなかったと安心していいのかな」
「それでも」
「……それでも?」
「…………………………帰ろうか。送ってくれるだろ」
こらこら、またそうやって内側に溜め込もうとする。眼鏡を外して直に彼の瞳をのぞきこむ。
「レオン。言えるのは今だけだ。聞いたらすぐに忘れる」
しばらくためらってから、レオンは低い声で言葉を綴り始めた。ずっと内側に押し込めてきたものを、少しずつ紐解くようにして。
「後悔しているんだろう、俺は。彼を守りたいのは本当だけれど……それでも」
黙って先を促す。
「この手で彼を傷つける………いつか」
わずかに声が震えていた。
「それでも、手を離せますか?」
「できるわけがない」
レオンは自分の手を見つめて、くっと握った。その場にはいない誰かの手を握りしめるように。
「もう………無理だ」
ぽん、と背中を軽く叩く。ほんとは頭でも撫でてやりたいところだが、そいつは俺の役目じゃない。
「離れちゃだめだ、あなたも。ディフも」
「わかってる」
「そのたんびにこっちはいい迷惑」
にやっと笑って眼鏡をかけ直し、席を立った。
「帰りましょう。送ります」
「車は……置いていけばいいか」
「車で来たんですかっ」
うーわー。仮にも飲み来るのにそう言うことするか? 何か、根本的にまちがってるぞ。
「パーキングにいれてあるから平気だろう」
「いや……そう言う問題じゃないし……」
頭を抱えながら、レオンが会計を済ませる間に持ち帰り用にボトルウォーターを一本買い求める。
「んじゃま、俺の車で帰りましょう」
「ああ」
店を出て駐車場に歩いて行く。五月の末とは言え、夜はまだ冷える。海からの湿った風が流れ込み、空気中に湿気の居座る夜はなおさらに。
「君の車には乗ったことがない気がするな」
「……まあ、普通のトヨタのセダンっすよ。ふつーの!」
リモコンでロックを解除し、助手席に乗せてあった荷物をまとめて後部座席に突っ込んだ。
めき、とか、ばき、とか不吉な音が聞こえたが、もともとかなりカオスな状況なんだ。2、3上乗せしたところでどーってこたぁあるまい。
「どうぞ」
ちらっと後ろの混沌に目を向けてから、レオンは大人しく助手席に座った。
「これ、飲んどいてください」
手の中にボトルウォーターを押しつけ、運転席に座る。
赤いキャップの透き通ったペットボトルを抱えたままぼんやりしてる。
やっぱ相当飲んでたな。顔に出ないから始末が悪い。
エンジンをかけて走り出した。
「どうして、ここに?」
「オティアから電話かかってきたんですよ。レオンが帰ってこないって」
「良かったじゃないか」
「やーまったく役得です」
「とっくに着信拒否にされてるかと思ったよ」
ぎくっとした。その可能性、薄々考えてはいた。
「…………実は俺からはまだかけてません」
にこっと極上の笑みを浮かべると、レオンは手をさし出してきた。
憮然として携帯を引っぱり出し、その手に押し付けた。
「……ほんっと顔きれいなくせに性格悪ぃよ、あなたはっ」
慣れた手つきでオティアの番号を呼び出し、リダイアルしている。
耳に押し当て、待つことしばし。どきどきしながら横目で伺っていると、目を閉じて首を左右に振りやがった。
「……残念ながら」
「……やっぱし」
がっくりと肩を落す。
「ハロー。遅くなって悪かったね。いや、携帯を充電するのを忘れていて」
「ぃ?」
「今、帰るところだから。もうすぐ着くよ。ああ、一緒にいる」
ぱくぱくと酸素不足の金魚みたいに口を動かす。喋ってるし。ってか、オティア、電話に出てるし。つながってるし!
「そうかな? ああ、うん。そんなに飲んでないよ。本当だって」
こ、この男は………あーもう、なんって明るい声であっけらかんと話すか、この状況下で!
ちらっとこっちを見て、にこっと笑った。
「かわるかい? ………はいはい。わかったよ。すまなかった。シエンにも………ああ、戻ったら謝るから。では、後で」
電話を切ってからレオンはぽつりと言った。軽く肩をすくめて、まるでイタズラを見つかった子どもみたいに。
「怒られた」
「…………あなたって人は……ほんっとにもう、性格悪ぃなあっ! 俺の繊細な心を弄んで楽しいですかっ、ええっ?」
「楽しい」
「っかーっ、さらっと言いやがった!」
「ヒウェル、運転するときは前を見たほうがいいよ」
「わーってますよっ! ったく、なーにが『残念ながら』だ! てっきり着信拒否にされてると思ったじゃねえか……」
「だから言ったろう? 『残念ながら』かかってしまいましたって」
このよっぱらい、かなり始末が悪い。
次へ→【3-14-4】迷子のレオン2
「……器用ですねえ、H」
「よう、エリック。喫煙エリアにようこそ」
どこに居るかと言うと警察の廊下のそのまた突き当たりの角。コーヒーとチョコバーの自販機の並ぶこの一角には灰皿が設けてあり、スモーカーのささやかな憩いの場となっている。
「廊下に出たら後ろ姿が見えたもんで……電話ですか?」
「ああ、もう終わったよ」
携帯を閉じて無造作にポケットに突っ込んだ。
フレデリック・パリスは弁護士の同席を拒んだ。その代わり、記者を一名指名し、可能な限り取り調べに立ち会わせることを要求したのである。
すなわち、この俺だ。
「お前は最初に俺を記事にした奴だからな。最後まで見届けろ」
「……そりゃまた光栄で」
そんな訳で俺は捜査上の守秘義務に関する誓約書を何枚も書かされた上で、奴の取り調べに同席する栄誉に預かることとなった。
実際、パリスはよく喋った。『あなたにとって不利な証拠になる』ような事柄まで包み隠さず事細かに。
部下を指図してやらせたこともあれば彼自身が行ったことも有り。ざっと今日まで聞いた限りでは、最低でも終身刑になりそうな気配だ。
加えて双子の事件の際に書き溜めてきた取材記事と記録を警察側に進呈し、この三日間と言うもの、金髪眼鏡のバイキングの末裔と顔を付き合わせている。
エリックは自販機でコーヒーを一杯買うと俺の隣に座り、すすってひとこと。
「あー……あったかいなあ」
「またロクなもの食ってないのか」
「そーでもないですよ。リンゴとクラッカーと、バナナと……ああ、あとは今日、チーズも食いました」
「ああ、確かに健康的だね。俺に比べれば」
「あなたはもっと、きちんとしたもの食った方がいいですよ。チョコバーだけじゃなくて」
「ちゃんと栄養のバランスには気をつけてるよ」
「どのへんが?」
「……今日食ったのは、ピーナッツバター入り」
「ああ、ピーナッツスプレッドは体にいいらしいですからね」
何せずーっと顔つきあわせてるもんだから互いの食い物や飲み物の好みにやたらと詳しくなってしまった訳で。
この男が、仕事場以外でも白っぽい服を好むと言う事も初めて知った。(なにせ今まで会う時はいつも白衣だったから)
やがて俺はフィルターぎりぎりまで灰にした煙草を灰皿にねじ込み、エリックは空になった紙コップをくしゃりと握りつぶしてゴミ箱に放り込んだ。
「それじゃ、俺、そろそろ帰るわ。いい加減、原稿書かないと」
「おつかれさんです。俺もそろそろ分析に戻ります」
いつ寝てるんだろうなあ、こいつ。(きっと向こうもそう思ってる)
へろへろと手を振って廊下を歩き出すと、携帯が鳴った。ポケットから引っぱり出して発信者を確かめる。
……まさか。
こいつから電話がかかってくるなんて!
「よう。どうした、オティア?」
ハロー、も、元気? も無し。開口一番、必要なことだけぼそりと言ってきた。
「レオンが戻ってきてない」
「……………マジか?」
時計を確かめる。21時45分。
さっき、ディフは面会時間が終わって帰ったと言っていた。まだマンションに着いてないってのはどう言うことだ?
まさかレオンの奴、離れがたくなってこっそり病室に引き返したんじゃあるまいな。
「……アレックスに来てもらえ。番号分るな?」
「もう来てる。ああ、それと、ディフんところには行くな。あそこにはいない」
「………………わかった」
こっちの考えを読まれたんじゃないかと思って一瞬、どきりとした。オティアの直感は鋭い。彼がNoと言うのなら、病室にはいないのだ。
「事務所かな……」
「今日は行ってない」
「っ、じゃ、ほとんど行方不明か……どーこほっつきあるいてんだ。奴らしくねぇ」
電話の向こうで沈黙が答える。
それは俺の知ったことじゃない、と。
「心当たり探してみるよ。見つけたら連絡する。じゃあな」
電話を切ってポケットに突っ込む。
いったいどこに行ったんだ、レオン?
※ ※ ※ ※
『俺の天使』と離れるとレオンがどんな事をやらかすか……。
経験を元にすれば自ずと答えは出る。おそらく、どこかで飲んだくれてるはずだ。やさぐれた野郎一人が飲んでいても目立たない程度に規模の大きい店で。
病院からマンションまでの道すがら、条件に合いそうな店をピックアップして順繰りに回って行く。
五軒目で迷子を見つけた頃には、かなり遅い時刻になっていた。
ぼんやりとカウンターに肘をつき、ちっぽけなグラスに注いだ透明な酒を、氷も浮かべずストレートでくいくい飲んでいる。
ぱっと見、素面に見えるが俺はごまかされない。
さりげなく近づき、隣に腰を降ろした。
「……そう言う飲み方する酒じゃないですよ、それ」
「………やぁ」
ほらな。
微妙に反応が、鈍い。
「……ども」
のろのろとレオンは左手首に巻いた腕時計に視線を落した。
「……ああ、こんな時間か……」
「ええ。こんな時間です。いけませんよ、こんなとこで一人で無防備に飲んだくれちゃ」
「大丈夫だよ」
へっと口を歪めて笑い飛ばす。
ああ、もう、この人はてんでわかっちゃいないんだ。自分が今、どれほど隙だらけになってるか。
「どーだか? 『天使』と離れてる時のあなたがどうなるかは……いささか前例を見てますんでね」
とろんとしたかっ色の瞳が宙をさまよう。
「……あの時も……こんな店だったかな……」
「ええ。またあなたに言いよる奴がいたら、ウォッカ3倍の特製カクテルで潰しときますかね」
「もう随分前のことのような気がするな」
「そうですね。ほんの4年、いや5年前かな?」
まだレオンとディフが恋人じゃなくて親友同士だった頃の話だ。
双子も、ルースも、パリスも、俺たちの時間には影すら登場してはいなかった。
あの頃は、まさか俺たち三人が同じマンションに住んで。毎晩飯を一緒に食うようになるなんて思ってもみなかった……。
ただ一つ変わってないことがあるとしたら、あの時も、今も、変わらずレオンはディフだけを見てるってことだろう。
「君のせいでディフが引っ越してくることになったんだ、確か」
「あ……そう言やそんなこと言ってたなあ」
苦笑いして髪の毛をくしゃっとかきあげた。
「『悪い男とつきあうから放っとけない』って。確かに悪い男だ」
「わかっていたのにな……彼は、俺のだめなところを見つけると喜ぶんだ」
ふうっとため息をつくと、レオンはグラスの中味を一気にあおった。
「………………それすんっごい性格悪い奴ってことすかもしかして」
「自分が役にたてるって思うんだろうね」
「あ…あーあーあー……それすっげえわかる」
「それにつけこんでるんだから、俺のほうがよっぽど悪い男だ」
「さあてね。あなたの代わりは何にも誰にもできやしない。奴ぁ、あなたと居るのが一番幸せなんだ」
これ、言っちまっていいのかな。少しだけ迷ってから、口にする。
「……ずっと探してた」
「……クマを?」
ゆるく首を横に振る。
「あなたを。レオン、どこ? って」
「初耳だね」
「………初めて言いましたから」
「聞いていても何もかわらなかっただろうけどね……」
「それじゃ、俺はこの件に関しちゃ『悪い男』にならなかったと安心していいのかな」
「それでも」
「……それでも?」
「…………………………帰ろうか。送ってくれるだろ」
こらこら、またそうやって内側に溜め込もうとする。眼鏡を外して直に彼の瞳をのぞきこむ。
「レオン。言えるのは今だけだ。聞いたらすぐに忘れる」
しばらくためらってから、レオンは低い声で言葉を綴り始めた。ずっと内側に押し込めてきたものを、少しずつ紐解くようにして。
「後悔しているんだろう、俺は。彼を守りたいのは本当だけれど……それでも」
黙って先を促す。
「この手で彼を傷つける………いつか」
わずかに声が震えていた。
「それでも、手を離せますか?」
「できるわけがない」
レオンは自分の手を見つめて、くっと握った。その場にはいない誰かの手を握りしめるように。
「もう………無理だ」
ぽん、と背中を軽く叩く。ほんとは頭でも撫でてやりたいところだが、そいつは俺の役目じゃない。
「離れちゃだめだ、あなたも。ディフも」
「わかってる」
「そのたんびにこっちはいい迷惑」
にやっと笑って眼鏡をかけ直し、席を立った。
「帰りましょう。送ります」
「車は……置いていけばいいか」
「車で来たんですかっ」
うーわー。仮にも飲み来るのにそう言うことするか? 何か、根本的にまちがってるぞ。
「パーキングにいれてあるから平気だろう」
「いや……そう言う問題じゃないし……」
頭を抱えながら、レオンが会計を済ませる間に持ち帰り用にボトルウォーターを一本買い求める。
「んじゃま、俺の車で帰りましょう」
「ああ」
店を出て駐車場に歩いて行く。五月の末とは言え、夜はまだ冷える。海からの湿った風が流れ込み、空気中に湿気の居座る夜はなおさらに。
「君の車には乗ったことがない気がするな」
「……まあ、普通のトヨタのセダンっすよ。ふつーの!」
リモコンでロックを解除し、助手席に乗せてあった荷物をまとめて後部座席に突っ込んだ。
めき、とか、ばき、とか不吉な音が聞こえたが、もともとかなりカオスな状況なんだ。2、3上乗せしたところでどーってこたぁあるまい。
「どうぞ」
ちらっと後ろの混沌に目を向けてから、レオンは大人しく助手席に座った。
「これ、飲んどいてください」
手の中にボトルウォーターを押しつけ、運転席に座る。
赤いキャップの透き通ったペットボトルを抱えたままぼんやりしてる。
やっぱ相当飲んでたな。顔に出ないから始末が悪い。
エンジンをかけて走り出した。
「どうして、ここに?」
「オティアから電話かかってきたんですよ。レオンが帰ってこないって」
「良かったじゃないか」
「やーまったく役得です」
「とっくに着信拒否にされてるかと思ったよ」
ぎくっとした。その可能性、薄々考えてはいた。
「…………実は俺からはまだかけてません」
にこっと極上の笑みを浮かべると、レオンは手をさし出してきた。
憮然として携帯を引っぱり出し、その手に押し付けた。
「……ほんっと顔きれいなくせに性格悪ぃよ、あなたはっ」
慣れた手つきでオティアの番号を呼び出し、リダイアルしている。
耳に押し当て、待つことしばし。どきどきしながら横目で伺っていると、目を閉じて首を左右に振りやがった。
「……残念ながら」
「……やっぱし」
がっくりと肩を落す。
「ハロー。遅くなって悪かったね。いや、携帯を充電するのを忘れていて」
「ぃ?」
「今、帰るところだから。もうすぐ着くよ。ああ、一緒にいる」
ぱくぱくと酸素不足の金魚みたいに口を動かす。喋ってるし。ってか、オティア、電話に出てるし。つながってるし!
「そうかな? ああ、うん。そんなに飲んでないよ。本当だって」
こ、この男は………あーもう、なんって明るい声であっけらかんと話すか、この状況下で!
ちらっとこっちを見て、にこっと笑った。
「かわるかい? ………はいはい。わかったよ。すまなかった。シエンにも………ああ、戻ったら謝るから。では、後で」
電話を切ってからレオンはぽつりと言った。軽く肩をすくめて、まるでイタズラを見つかった子どもみたいに。
「怒られた」
「…………あなたって人は……ほんっとにもう、性格悪ぃなあっ! 俺の繊細な心を弄んで楽しいですかっ、ええっ?」
「楽しい」
「っかーっ、さらっと言いやがった!」
「ヒウェル、運転するときは前を見たほうがいいよ」
「わーってますよっ! ったく、なーにが『残念ながら』だ! てっきり着信拒否にされてると思ったじゃねえか……」
「だから言ったろう? 『残念ながら』かかってしまいましたって」
このよっぱらい、かなり始末が悪い。
次へ→【3-14-4】迷子のレオン2
▼ 【3-14-4】迷子のレオン2
マンションの地下駐車場に車を停めた。こんな時でもブレーキを踏むタイミングが荒くならない己の自制心を褒めてやりたい。
「着きましたよ。降りてください」
「ん……ありがとう」
「どーいたしまして」
素早く助手席側に回ってドアを開け、『姫』をエスコートした。
とりあえずちゃんと立って歩いてはいるが、いつぐらりと来ても支えられるよう、そばに付き添ってエレベーターに向かった。
「そんなに飲んでないよ」
「一応ドアの前まで送らせていただきます……それぐらいの役得あってもいいでしょ?」
「誰かの顔が見たいだけだろう」
楽しそうな顔しやがって。ああ、図星だよ。図星だともさ。
「ええそうですよ。オティアの顔が見たい」
最上階のボタンを押す。
しかしエレベーターのドアが閉まるなりレオンの奴は手を伸ばし、3階のボタンを押しやがった。俺の部屋のあるフロアだ。
「……大人しく帰れってことですか」
「いや」
ちょこんと首をかしげると、『姫』はあどけない口調でおおせられた。
「戻る前に……水が飲みたい」
おいおい、今、自分が両手に抱えてるのは何なんだ? 俺には500ml入りのミネラルウォーターのペットボトルに見えるんですがね?
「自分とこ帰ってから飲めばいいでしょうがっ」
「アルコール検査の前に水を飲むのは常套手段じゃないか」
だったら車ん中で飲めばいいだろうに! まさかボトルからは直に飲めない、とか言うつもりじゃあるまいな?
「……誘ってるつもりなら、きっぱりお断りしますよ」
横目で表情をうかがいながら憮然とした口調で言い切ると、レオンはぱちぱちとまばたきして、それからくっくっと声をたてて笑い始めた。
上品に口に手ーあててるところが余計にムカつく。
「……っ!」
ったく、人が心配してるってぇのにこのよっぱらいときたら!
こいつは鏡で毎日この綺麗な顔を見てるうちに、だんだん性格がねじれて悪くなってったんだ。きっとそうに違いない。
タイミング良く開いたエレベーターからざかざか大またに歩き出す。
「さっさと来りゃいいじゃないですか! ええ、水でも何でも好きなだけ飲んでけばいい!」
頭から湯気ふき出しそうな心境で自分の部屋の前まで歩き、拳を握ってずいっと親指でポイントする。
「Hey,Leon! come on!(来るんだったらとっとと来やがれレオン!)」
「そんなに怒るなよ」
「怒る? 誰が? 俺が?」
さして悪びれる様子もなくとことこと歩いて来た。
妙な話だが、自分が子ども相手に怒鳴り散らしてるような錯覚にとらわれる。
「………………いや…………………そうか……」
こいつは確かに子どもなのだ。
最愛の人から離れて、ひとりぼっちで途方に暮れてる。
頭の片隅で古いジャズのレコードが回り始める。少しかすれて調子の外れた歌声が記憶の中から流れ出す。
Sometimes I Feel like a Motherless Child……
ガキの時分はこの歌が大っきらいで、ちらとでも耳にするたびに速攻で消したもんだ。ラジオのスイッチを切る、テレビのチャンネルを変える。それができなきゃ急いで音の聞こえる範囲から退避した。
今はと言うと……さりげなくiPodのローテーションに加えてある。
くいっと眼鏡の位置整えてから鍵を開け、うやうやしくドアを開けた。
「魔界へようこそ」
「ふむ」
中に入るとレオンは周囲を見回し、それから軽く拳を握って口元に当てた。ディフそっくりの仕草と口調で。
「……何言いたいかはおおよそ察しがつきますよ……」
「シエンが掃除に来てるんじゃなかったかな?」
「来ましたよ、先週。おかげで食器類は清潔に保たれてる」
積み上げた資料や雑誌をざっと横に避けてソフアーの上に空間を開け、テーブルにどんっとコップを置いて。
「それ、こっちに」
水のペットボトルを受け取り、封を切ってコップに注いだ。
「どうぞ」
「ありがとう」
やれやれ、やっといつもの顔になってきたか。
ほっとして、冷蔵庫の隅に転がってたリンゴを一個取り出し、皮のままかじる。
レオンは素直に水を飲みながらぼんやりしている。
リンゴが芯だけになってもまだぼんやり。
「………レオン?」
「………………ん、何かな」
「ぼーっとしてた。珍しく。後一回呼んで返事がなけりゃ、『姫』って呼んでやろうかと思った」
「ああ……じゃあ、戻るよ。水、ありがとう」
「どーいたしまして。次に飲む時は誘ってください。おつきあいしますよ」
立ち上がる彼をドアまで送り出す。
「………レオン。大丈夫だよ。大丈夫だから」
別れ際にそっと手を握った。
「……ああ」
「おやすみ。オティアとシエンによろしく」
「来ないのか?」
「……よろしいので?」
「そうか、おやすみ」
すたすたと歩き出しやがったよ、この人は! ちょっとは引き留めるとかしようと思わないのか、ええ? ってかもしかして俺をいじくって発散してないか、レオン?
「っこのいじめっこがっ」
走って追いかけるとエレベーターに乗り込み、今度こそ最上階を押す。
「……あの部屋に、戻るのが怖かったんだ……本当は」
「怖い? 自分の家じゃありませんか…………………ディフがいないから?」
彼は少し自嘲気味に笑って、そのあとはずっと黙っていた。
Sometimes I feel like a motherless child
Sometimes I feel like a motherless child
Sometimes I feel like a motherless child
A long ways long ways long ways from home
エレベーターのドアの開く直前、ぼそりとささやく。我ながら妙なこと口走ってるなと自嘲しながら。
「たまに奴のことをお袋みたいだなって思うことがある。同い年なのに。男なのに」
レオンは何も言わずに聞いてくれた。
ひょっとしたら聞こえてなかっただけなのかもしれないが、とにかく今度は声を立てて笑うようなマネはしなかった。
※ ※ ※ ※
レオンの部屋のドアの前まで来たが、肝心の鍵を持ってる奴が動こうとしない。
「まさか鍵忘れて開けられない、とか言いませんよね?」
「………あるよ」
「じゃ、なんで入らないんすか」
「怒られると思うと入りづらいじゃないか」
にやりと笑う。
「入りなさい。レオン。ついてってあげますから?」
「冗談だよ」
「ほんとに?」
いい年こいた大人二人が大人げない会話をしているところに、かちゃりとドアが開く。
「あ」
「おかえりなさいませ」
「やあ、アレックス」
レオンは小さく溜息をついた。
「ただいま」
もしかしてアレックスに叱られるのが怖かったのか? まさかな。
やっぱ電話の相手だろう。
しかし肝心のお怒りの人は一向に出てくる気配がない。ちらとでも顔が拝めればと思ったんだがなあ。
「おかえりなさい」
ひょっこりとシエンが顔を出した。
「よ、シエン。迷子は無事に回収したぜ」
「心配をかけたようで、すまなかったね」
「ん……アレックスがいてくれたし」
のびあがって未練ったらしく奥をうかがっていると、シエンに気を使われてしまった。
「あ……えっと……」
今度は俺がため息をつく番だった。
「ん、いやいいんだ。役目は果たしたから」
「さっき電話をしたらすごく叱られてね」
「あー……」
シエンは微妙な表情で後ろを振り返り、部屋の方を見ている。
「何て叱られたんです?」
「よっぱらいと話をする気はないって」
「ぷっ」
遠慮無くふき出した。さっきこいつは俺のことをさんざん笑ってくれたんだ。ちょっとぐらいお返ししたっていいだろう?
「今日はオティアに弁明するのは諦めるよ……遅くに悪かったね。おやすみ、シエン」
「おやすみ……」
※ ※ ※ ※
自分の部屋に戻る途中、ディフの部屋の前で足が止まる。
Sometimes I feel like a motherless child
A long ways from home
確かに俺に母親はいない。オティアにも。シエンにも。レオンの両親は健在だが家族の絆は薄く、無いに等しい。
だが、俺の家はここだ。
「メイリールさま」
背後から控えめに呼びかけられる。
「どうした、アレックス。レオンは?」
「お休みになられました」
やれやれ、やっぱりつぶれたか。その方が安心だ。少なくともこれ以上飲む心配はない。
「それで……不しつけなお願いなのですが、レオンさまはどちらに車を置いてこられたのか、お教えいただけますでしょうか?」
「車、取りに行くのか?」
「はい」
賢明な判断だ。ハンドルロックなんて気の利いたものを、あの状態のレオンがかけたとは思えない。
「案内するよ。……いや、店まで送ろう」
「おそれ入ります」
アレックスと二人、エレベーターに向かって歩き出す。
二度目の『夜のドライブ』の始まりだ。今度はいじめられることはないだろう。
次へ→【3-14-5】★そして彼は黒をまとう
「着きましたよ。降りてください」
「ん……ありがとう」
「どーいたしまして」
素早く助手席側に回ってドアを開け、『姫』をエスコートした。
とりあえずちゃんと立って歩いてはいるが、いつぐらりと来ても支えられるよう、そばに付き添ってエレベーターに向かった。
「そんなに飲んでないよ」
「一応ドアの前まで送らせていただきます……それぐらいの役得あってもいいでしょ?」
「誰かの顔が見たいだけだろう」
楽しそうな顔しやがって。ああ、図星だよ。図星だともさ。
「ええそうですよ。オティアの顔が見たい」
最上階のボタンを押す。
しかしエレベーターのドアが閉まるなりレオンの奴は手を伸ばし、3階のボタンを押しやがった。俺の部屋のあるフロアだ。
「……大人しく帰れってことですか」
「いや」
ちょこんと首をかしげると、『姫』はあどけない口調でおおせられた。
「戻る前に……水が飲みたい」
おいおい、今、自分が両手に抱えてるのは何なんだ? 俺には500ml入りのミネラルウォーターのペットボトルに見えるんですがね?
「自分とこ帰ってから飲めばいいでしょうがっ」
「アルコール検査の前に水を飲むのは常套手段じゃないか」
だったら車ん中で飲めばいいだろうに! まさかボトルからは直に飲めない、とか言うつもりじゃあるまいな?
「……誘ってるつもりなら、きっぱりお断りしますよ」
横目で表情をうかがいながら憮然とした口調で言い切ると、レオンはぱちぱちとまばたきして、それからくっくっと声をたてて笑い始めた。
上品に口に手ーあててるところが余計にムカつく。
「……っ!」
ったく、人が心配してるってぇのにこのよっぱらいときたら!
こいつは鏡で毎日この綺麗な顔を見てるうちに、だんだん性格がねじれて悪くなってったんだ。きっとそうに違いない。
タイミング良く開いたエレベーターからざかざか大またに歩き出す。
「さっさと来りゃいいじゃないですか! ええ、水でも何でも好きなだけ飲んでけばいい!」
頭から湯気ふき出しそうな心境で自分の部屋の前まで歩き、拳を握ってずいっと親指でポイントする。
「Hey,Leon! come on!(来るんだったらとっとと来やがれレオン!)」
「そんなに怒るなよ」
「怒る? 誰が? 俺が?」
さして悪びれる様子もなくとことこと歩いて来た。
妙な話だが、自分が子ども相手に怒鳴り散らしてるような錯覚にとらわれる。
「………………いや…………………そうか……」
こいつは確かに子どもなのだ。
最愛の人から離れて、ひとりぼっちで途方に暮れてる。
頭の片隅で古いジャズのレコードが回り始める。少しかすれて調子の外れた歌声が記憶の中から流れ出す。
Sometimes I Feel like a Motherless Child……
ガキの時分はこの歌が大っきらいで、ちらとでも耳にするたびに速攻で消したもんだ。ラジオのスイッチを切る、テレビのチャンネルを変える。それができなきゃ急いで音の聞こえる範囲から退避した。
今はと言うと……さりげなくiPodのローテーションに加えてある。
くいっと眼鏡の位置整えてから鍵を開け、うやうやしくドアを開けた。
「魔界へようこそ」
「ふむ」
中に入るとレオンは周囲を見回し、それから軽く拳を握って口元に当てた。ディフそっくりの仕草と口調で。
「……何言いたいかはおおよそ察しがつきますよ……」
「シエンが掃除に来てるんじゃなかったかな?」
「来ましたよ、先週。おかげで食器類は清潔に保たれてる」
積み上げた資料や雑誌をざっと横に避けてソフアーの上に空間を開け、テーブルにどんっとコップを置いて。
「それ、こっちに」
水のペットボトルを受け取り、封を切ってコップに注いだ。
「どうぞ」
「ありがとう」
やれやれ、やっといつもの顔になってきたか。
ほっとして、冷蔵庫の隅に転がってたリンゴを一個取り出し、皮のままかじる。
レオンは素直に水を飲みながらぼんやりしている。
リンゴが芯だけになってもまだぼんやり。
「………レオン?」
「………………ん、何かな」
「ぼーっとしてた。珍しく。後一回呼んで返事がなけりゃ、『姫』って呼んでやろうかと思った」
「ああ……じゃあ、戻るよ。水、ありがとう」
「どーいたしまして。次に飲む時は誘ってください。おつきあいしますよ」
立ち上がる彼をドアまで送り出す。
「………レオン。大丈夫だよ。大丈夫だから」
別れ際にそっと手を握った。
「……ああ」
「おやすみ。オティアとシエンによろしく」
「来ないのか?」
「……よろしいので?」
「そうか、おやすみ」
すたすたと歩き出しやがったよ、この人は! ちょっとは引き留めるとかしようと思わないのか、ええ? ってかもしかして俺をいじくって発散してないか、レオン?
「っこのいじめっこがっ」
走って追いかけるとエレベーターに乗り込み、今度こそ最上階を押す。
「……あの部屋に、戻るのが怖かったんだ……本当は」
「怖い? 自分の家じゃありませんか…………………ディフがいないから?」
彼は少し自嘲気味に笑って、そのあとはずっと黙っていた。
Sometimes I feel like a motherless child
Sometimes I feel like a motherless child
Sometimes I feel like a motherless child
A long ways long ways long ways from home
エレベーターのドアの開く直前、ぼそりとささやく。我ながら妙なこと口走ってるなと自嘲しながら。
「たまに奴のことをお袋みたいだなって思うことがある。同い年なのに。男なのに」
レオンは何も言わずに聞いてくれた。
ひょっとしたら聞こえてなかっただけなのかもしれないが、とにかく今度は声を立てて笑うようなマネはしなかった。
※ ※ ※ ※
レオンの部屋のドアの前まで来たが、肝心の鍵を持ってる奴が動こうとしない。
「まさか鍵忘れて開けられない、とか言いませんよね?」
「………あるよ」
「じゃ、なんで入らないんすか」
「怒られると思うと入りづらいじゃないか」
にやりと笑う。
「入りなさい。レオン。ついてってあげますから?」
「冗談だよ」
「ほんとに?」
いい年こいた大人二人が大人げない会話をしているところに、かちゃりとドアが開く。
「あ」
「おかえりなさいませ」
「やあ、アレックス」
レオンは小さく溜息をついた。
「ただいま」
もしかしてアレックスに叱られるのが怖かったのか? まさかな。
やっぱ電話の相手だろう。
しかし肝心のお怒りの人は一向に出てくる気配がない。ちらとでも顔が拝めればと思ったんだがなあ。
「おかえりなさい」
ひょっこりとシエンが顔を出した。
「よ、シエン。迷子は無事に回収したぜ」
「心配をかけたようで、すまなかったね」
「ん……アレックスがいてくれたし」
のびあがって未練ったらしく奥をうかがっていると、シエンに気を使われてしまった。
「あ……えっと……」
今度は俺がため息をつく番だった。
「ん、いやいいんだ。役目は果たしたから」
「さっき電話をしたらすごく叱られてね」
「あー……」
シエンは微妙な表情で後ろを振り返り、部屋の方を見ている。
「何て叱られたんです?」
「よっぱらいと話をする気はないって」
「ぷっ」
遠慮無くふき出した。さっきこいつは俺のことをさんざん笑ってくれたんだ。ちょっとぐらいお返ししたっていいだろう?
「今日はオティアに弁明するのは諦めるよ……遅くに悪かったね。おやすみ、シエン」
「おやすみ……」
※ ※ ※ ※
自分の部屋に戻る途中、ディフの部屋の前で足が止まる。
Sometimes I feel like a motherless child
A long ways from home
確かに俺に母親はいない。オティアにも。シエンにも。レオンの両親は健在だが家族の絆は薄く、無いに等しい。
だが、俺の家はここだ。
「メイリールさま」
背後から控えめに呼びかけられる。
「どうした、アレックス。レオンは?」
「お休みになられました」
やれやれ、やっぱりつぶれたか。その方が安心だ。少なくともこれ以上飲む心配はない。
「それで……不しつけなお願いなのですが、レオンさまはどちらに車を置いてこられたのか、お教えいただけますでしょうか?」
「車、取りに行くのか?」
「はい」
賢明な判断だ。ハンドルロックなんて気の利いたものを、あの状態のレオンがかけたとは思えない。
「案内するよ。……いや、店まで送ろう」
「おそれ入ります」
アレックスと二人、エレベーターに向かって歩き出す。
二度目の『夜のドライブ』の始まりだ。今度はいじめられることはないだろう。
次へ→【3-14-5】★そして彼は黒をまとう
▼ 【3-14-5】★そして彼は黒をまとう
朝起きたら頭が重かった。
シャツにも、髪の毛にもアルコールと煙草のにおいが染み付いている。それとは別に、袖口にかすかに酸味のある柑橘系の香りがした。
グレープフルーツだ。
そう言えばベッドに倒れ込む寸前、アレックスに何か飲まされたような気がするが……きっとグレープフルーツのジュースだったのだろう。
ぼんやりしたまま浴室に入り、シャワーを浴びた。
ディフの病室に行く前に、少しでもすっきりしておきたい。
行かない、と言う選択肢は無かった。
※ ※ ※ ※
さすがに動き始めるとこめかみが疼いた。うずくまるほどではないが、それでも車のクラクションやドアの閉まるバタンと言う音が脳の奥に響く。
時折町中で耳にする他人の迷惑を顧みずに大音量で流される調子っぱずれの音(あれを音楽だなどと認めるものか、断じて!)に軽く殺意を覚えつつ病院に向かう。
「レオン!」
昨日よりだいぶ具合がいいらしい。笑顔にも、声にも力がある。双子と会えたのがよほど嬉しかったのか。
(俺だけでは君を救うことができなかった)
ベッドの上に半身を起こし、象牙色のパジャマの上からくるりと大きめの肩掛けを巻き付けている。薄くて軽い。色は黒。
昨日まではなかったものだ。
「………冷えるかい?」
「少し、な」
参ったね。その色の組み合せは危険だよ、ディフ。
君自身の生来の肌の白さときめの細かさが。(多少陽に焼けた程度では隠せやしない)髪の色の鮮やかさが、一層引き立ってしまうじゃないか。
いったい誰が選んだんだ?
幸い髪の毛はゆるく三つ編みにまとめられ、左の肩を通して前に回してある。どこをとっても典型的な病室の服装、髪型だ。
にもかかわらずこんな風に艶っぽさが強調されてしまうなんて。
本当に……困ったものだね。
(いっそどこかに閉じ込めてしまおうか。誰の目にも触れないように。もう二度と、誰の手にも汚されぬように)
「おみやげがあるよ。シエンが持って行けって」
朝、家を出る時に持たされたランチボックスを開ける。サンドイッチがきっちりと詰められていた。
「わあ。うれしいなあ……病院の飯、不味いから、すっげえ嬉しい」
目を細めて顔中で笑う。本当に、こう言う時の君は出会った頃と変わらない。
(だが、その笑顔は俺以外の存在にも惜しみなく向けられる)
己の内側でざわめく不穏な心を押し隠し、何食わぬ顔を装いつつステンレスボトルに入れた紅茶を取り出した。
「お茶も持って来たよ」
「いたれりつくせりだな……紅茶も、コーヒーも、お前が入れてくれるのが一番美味い」
「あと少しの辛抱だよ」
「うん……」
少しの間、彼は目を伏せて何か考えていた。それから俺を見上げて、ちょい、ちょい、と手招きしてきた。
「何だい?」
近寄って、ベッドに腰を降ろす。
手を伸ばして来る。
くしゃっと髪の毛を撫でられた。
「ディフ?」
目を閉じると、彼は俺を引き寄せてキスしてきた。ほんの少し、震えている。
そっと肩に手を回して抱き寄せる。
唇と唇を触れあわせる、ただそれだけのことに、どれほど勇気を振り絞ったことか。それはディフが誘拐されてから、初めて交わす口づけだった。
閉じられたまぶたにキスをすると、彼はうっすらと目を開けて囁いてきた。
「……あんまり飲みすぎんなよ」
「……気をつける」
その肩掛け、誰が持ってきたかわかった。
(……ヒウェル)
※ ※ ※ ※
この日、ディフは自分から積極的に触れてきた。俺を抱きしめて、髪の毛や背中を優しくなでる。骨組みのしっかりした温かな手で。
抱擁を重ね、くり返すごとに少しずつ震えが収まって行き、迷いが薄らいで行くのが伝わってきた。
そして夜。
面会時間の終わりが刻一刻と迫ってくる中、頬に、額に、唇、耳に。惜しみなく与えられる柔らかなキスの合間に囁かれた。
「俺の手の記憶が霞んだらまた明日も来い……何度でもつけてやるから」
「忘れてなくても来るよ。毎日」
ぐいっと強く抱きしめられた。その力の確かさに安堵すると同時に堪え難い吸引力をも感じた。
離れたくない。
君をこの部屋に残して帰りたくなんかない。
「……ここに泊まると怒られるかな……」
「ベッドの下にでも隠れとくか?」
「通報されたら困るな」
「すっとぼけてやるさ……ここの所轄の巡査は俺の後輩だ」
肩をすくめて、くすくす笑っている。
「やれやれ。悪い子だな」
手を伸ばし、ゆるく波打つ赤い髪を撫でる。目を細めてすり寄ってきた。
ああ……そんなに嬉しそうな顔をして。困ったものだね。このままでは、どうにも自分を押さえ切れなくなりそうだ。
(君を離したくない。誰にも渡したくない……)
「また、明日も来るよ。警察にも行かなければいけないから時間はわからないけれど……必ず来る」
「ああ。子どもたちを、よろしく頼む」
次へ→【3-14-6】ドライマティーニ
シャツにも、髪の毛にもアルコールと煙草のにおいが染み付いている。それとは別に、袖口にかすかに酸味のある柑橘系の香りがした。
グレープフルーツだ。
そう言えばベッドに倒れ込む寸前、アレックスに何か飲まされたような気がするが……きっとグレープフルーツのジュースだったのだろう。
ぼんやりしたまま浴室に入り、シャワーを浴びた。
ディフの病室に行く前に、少しでもすっきりしておきたい。
行かない、と言う選択肢は無かった。
※ ※ ※ ※
さすがに動き始めるとこめかみが疼いた。うずくまるほどではないが、それでも車のクラクションやドアの閉まるバタンと言う音が脳の奥に響く。
時折町中で耳にする他人の迷惑を顧みずに大音量で流される調子っぱずれの音(あれを音楽だなどと認めるものか、断じて!)に軽く殺意を覚えつつ病院に向かう。
「レオン!」
昨日よりだいぶ具合がいいらしい。笑顔にも、声にも力がある。双子と会えたのがよほど嬉しかったのか。
(俺だけでは君を救うことができなかった)
ベッドの上に半身を起こし、象牙色のパジャマの上からくるりと大きめの肩掛けを巻き付けている。薄くて軽い。色は黒。
昨日まではなかったものだ。
「………冷えるかい?」
「少し、な」
参ったね。その色の組み合せは危険だよ、ディフ。
君自身の生来の肌の白さときめの細かさが。(多少陽に焼けた程度では隠せやしない)髪の色の鮮やかさが、一層引き立ってしまうじゃないか。
いったい誰が選んだんだ?
幸い髪の毛はゆるく三つ編みにまとめられ、左の肩を通して前に回してある。どこをとっても典型的な病室の服装、髪型だ。
にもかかわらずこんな風に艶っぽさが強調されてしまうなんて。
本当に……困ったものだね。
(いっそどこかに閉じ込めてしまおうか。誰の目にも触れないように。もう二度と、誰の手にも汚されぬように)
「おみやげがあるよ。シエンが持って行けって」
朝、家を出る時に持たされたランチボックスを開ける。サンドイッチがきっちりと詰められていた。
「わあ。うれしいなあ……病院の飯、不味いから、すっげえ嬉しい」
目を細めて顔中で笑う。本当に、こう言う時の君は出会った頃と変わらない。
(だが、その笑顔は俺以外の存在にも惜しみなく向けられる)
己の内側でざわめく不穏な心を押し隠し、何食わぬ顔を装いつつステンレスボトルに入れた紅茶を取り出した。
「お茶も持って来たよ」
「いたれりつくせりだな……紅茶も、コーヒーも、お前が入れてくれるのが一番美味い」
「あと少しの辛抱だよ」
「うん……」
少しの間、彼は目を伏せて何か考えていた。それから俺を見上げて、ちょい、ちょい、と手招きしてきた。
「何だい?」
近寄って、ベッドに腰を降ろす。
手を伸ばして来る。
くしゃっと髪の毛を撫でられた。
「ディフ?」
目を閉じると、彼は俺を引き寄せてキスしてきた。ほんの少し、震えている。
そっと肩に手を回して抱き寄せる。
唇と唇を触れあわせる、ただそれだけのことに、どれほど勇気を振り絞ったことか。それはディフが誘拐されてから、初めて交わす口づけだった。
閉じられたまぶたにキスをすると、彼はうっすらと目を開けて囁いてきた。
「……あんまり飲みすぎんなよ」
「……気をつける」
その肩掛け、誰が持ってきたかわかった。
(……ヒウェル)
※ ※ ※ ※
この日、ディフは自分から積極的に触れてきた。俺を抱きしめて、髪の毛や背中を優しくなでる。骨組みのしっかりした温かな手で。
抱擁を重ね、くり返すごとに少しずつ震えが収まって行き、迷いが薄らいで行くのが伝わってきた。
そして夜。
面会時間の終わりが刻一刻と迫ってくる中、頬に、額に、唇、耳に。惜しみなく与えられる柔らかなキスの合間に囁かれた。
「俺の手の記憶が霞んだらまた明日も来い……何度でもつけてやるから」
「忘れてなくても来るよ。毎日」
ぐいっと強く抱きしめられた。その力の確かさに安堵すると同時に堪え難い吸引力をも感じた。
離れたくない。
君をこの部屋に残して帰りたくなんかない。
「……ここに泊まると怒られるかな……」
「ベッドの下にでも隠れとくか?」
「通報されたら困るな」
「すっとぼけてやるさ……ここの所轄の巡査は俺の後輩だ」
肩をすくめて、くすくす笑っている。
「やれやれ。悪い子だな」
手を伸ばし、ゆるく波打つ赤い髪を撫でる。目を細めてすり寄ってきた。
ああ……そんなに嬉しそうな顔をして。困ったものだね。このままでは、どうにも自分を押さえ切れなくなりそうだ。
(君を離したくない。誰にも渡したくない……)
「また、明日も来るよ。警察にも行かなければいけないから時間はわからないけれど……必ず来る」
「ああ。子どもたちを、よろしく頼む」
次へ→【3-14-6】ドライマティーニ
▼ 【3-14-6】ドライマティーニ
「腹減ったー。今日の飯、何?」
久しぶりに夕飯をたかりに行くと、レオンはちゃんと家に居た。
ほっと胸を撫で下ろす。何っとなーくにらまれたような気がしないでもないが。
微妙にオティアの方を気にしつつアレックスの作ってくれた料理を食う。久々に人間らしい食い物を口に入れた気がした。
時折シエンが話しかけてくれるものの、食卓の空気は未だに堅い。
そしてオティアの視線は俺を素通り。どうやらまた俺の存在レベルは『空気』に逆戻りしてしまったらしい。
(ディフが誘拐されてた時はけっこう話してたような気がするんだけどなあ)
夕食が終わると、レオンは居間の片隅に設えられたバーカウンターへすたすたと。何の迷いも無く歩いて行き、棚から透明な液体の満たされた瓶を取り出した。
「つきあうかい? いいスピリタスがあるよ」
なるほど、そうか、そう言うことか。今夜は家で飲むことにしたって訳か!
昨日、あれだけ飲んだ後だってのに……。
軽く目眩を覚え、額に手を当てた。
予想すべき展開だった。こいつの辞書に『休肝日』なんぞと言う殊勝な言葉は存在しない。
「だから……何でそーゆー強い酒ばっかり……」
「嫌かい。しょうがないなぁ」
「いいですか、あなたが酒に強いのは百も承知ですがね。んーな引火しそうな酒ばっかがばがば飲むのはっ」
「はいはい、わかってる。それじゃ、君のおすすめでいいよ」
肩をすくめて腕をまくり、バーカウンターの内側に入ると酒瓶の列に目を走らせる。
スピリタスにウォッカにアクアビット、スコッチ、バーボン、その他リキュール各種。シェーカー、ミキシンググラス、ステア用のマドラスetc……カクテルを作るのに必要な道具は全てそろってる。家庭用にしちゃ過ぎた品ぞろえだ。
おそらく管理してるのはアレックスだろう。さすが、パーフェクトだぜ。
有能執事の手腕に感心しつつ、キッチンに必要な材料を調達に行く。
お、いいね。グレープフルーツがあるじゃないか……よし、こいつを使うとしよう。
軽く湿らせたグラスの縁にざらりと塩をまぶしてウォッカを注ぐ。絞ったばかりのグレープフルーツのジュースと氷を浮かべてステアして、カットしたレモンをグラスの縁に飾り付ける。
ソルティドッグ。
レオンと初めて学校の外で顔を合わせた時に作った酒だ。どんっとカウンターに乗せて一言、告げる。
「一気飲みはご容赦」
「カクテルなんて飲むのは久しぶりだ」
「……俺も久しぶりに作りました」
言われた通りにちびちびと、塩をなめながら飲んでいる。
ウォッカとオレンジジュースを3対1で混ぜ合わせ、自分用にスクリュードライバーを作って付き合った。
「どうぞ。食いながら飲まないと胃によくない」
ついでに台所で調達してきたクラッカーにスライスしたチーズとキュウリを乗せて出してみるが……。
気乗りしない様子でもそもそと、一つだけ食って、後が続かない。
そう言や夕飯もほとんど口にしてなかったよな。
あー、まったく。ディフといいレオンといい、こいつらほんっとに離れるとダメだ!
あきらめて、ライムにグレープフルーツにオレンジ……とにかく柑橘系のジュースを使ったカクテルを出してビタミンを補給させようと試みる。
しかし二杯ほど出した所で言われてしまった。
「ジュースはやめてくれ」
ええい、この、ザルがっ!
「はいはい……じゃ、マティーニでも」
ジンとベルモットを取り出した。あいにくとオリーブがなかったのでレモンの皮をすりおろす。
「ドライで頼むよ」
「やたらとドライにすりゃいいってもんじゃないんですけどね……お好みなら、ドライで」
「エクストラドライでもいいんだが」
ぴくりと左の眉が跳ね上がる。
実話かフィクションだか定かじゃないが、ベルモットの瓶を横目で見ながらジン飲んでた奴がいたらしいな。正視すると甘口すぎる、とか抜かして。
「いっそベルモットの瓶だけ眺めてますか?」
「ベルモットは嫌いじゃないよ」
「そりゃよかった…」
ちょい、とジンとベルモットの味を見てから12対1のかなりドライな奴を調合し、仕上げにレモンの皮を絞って加えた。
「……どうぞ。もっとドライがお好みなら次はベルモットは氷につけただけで流します」
一口すするとレオンは小さくうなずいた。微妙なタイミングだ。Yesか、Noか、どっちだ?
「いや……これでいい」
「そーっすか」
ほっと一息。どうやら柄にも無く緊張していたらしい。
「こればっかりはやたらといろんなレシピ覚えちまってね。何せ店に来る客がいちいち俺流をご教授してくださったから」
「マティーニはアレンジが効くからね。ウォッカベースのも飲んだことがあるな」
「ああ。あるある」
「カクテルは店によって……いや、バーテンによってかわるけど、マティーニは特に色々ある」
並ぶ酒瓶のうち、引き延した水滴のような細長い流線型のボトルに目を留める。
ラズールのグレープフルーツリキュールだ。透き通った青い酒。
「あれを入れると色がキレイなんだよな……かなり変則的だけど」
「一度……どこだったかな、紫色のを見たことがあるが……あれは何が入ってたんだろうな」
「んー……そうですね。ここにある酒で作るなら……」
茶色の四角い瓶に入ったチェリーのリキュールを見つけた。デンマーク生まれの透き通った赤い酒。ちょいと甘口だが色はこれ以上ないってくらいに理想的だ。
青いリキュールとジン、そしてベルモットに赤いリキュールを加えてシェイクする。こころもち青を多めに。
できあがった淡い藤色のカクテルを冷やしたグラスに満たした。
「……こんなとこかな。あまりドライじゃありませんけど」
「将来、酒が飲める歳になったら、つくってあげたらいい」
一瞬、彼の言葉の意味が理解できなかった。
改めてグラスの中味を見る。シェイクされてほんのりスモークのかかった紫色……どこか夜明けの空の色にも似て。
(ああ、なんだ。そう言うことか)
「…………そう……ですね……いつか」
「いつか……ね」
グラスの縁を指で弾く。澄んだいい音がした。
「でもね。これ、そもそもあいつのリクエストで作ったんですぜ? あなたの色だ、とかわけわかんない事言って」
「理由はわからないけど……薄い紫色がイメージらしいよ。どうしてだろうね」
「あなたが奴を天使だとか言うのと同じ理由じゃないすかね……」
自分用にもう一杯作る。
今度はチェリーのリキュールを数滴増やし、ほんの少し赤を濃くした。
「オティアなら、こんな感じかな」
レオンはそれ以上何も言わない。黙ってグラスを掲げ、藤色のカクテルを飲み干した。
次へ→【3-14-7】おかえり
久しぶりに夕飯をたかりに行くと、レオンはちゃんと家に居た。
ほっと胸を撫で下ろす。何っとなーくにらまれたような気がしないでもないが。
微妙にオティアの方を気にしつつアレックスの作ってくれた料理を食う。久々に人間らしい食い物を口に入れた気がした。
時折シエンが話しかけてくれるものの、食卓の空気は未だに堅い。
そしてオティアの視線は俺を素通り。どうやらまた俺の存在レベルは『空気』に逆戻りしてしまったらしい。
(ディフが誘拐されてた時はけっこう話してたような気がするんだけどなあ)
夕食が終わると、レオンは居間の片隅に設えられたバーカウンターへすたすたと。何の迷いも無く歩いて行き、棚から透明な液体の満たされた瓶を取り出した。
「つきあうかい? いいスピリタスがあるよ」
なるほど、そうか、そう言うことか。今夜は家で飲むことにしたって訳か!
昨日、あれだけ飲んだ後だってのに……。
軽く目眩を覚え、額に手を当てた。
予想すべき展開だった。こいつの辞書に『休肝日』なんぞと言う殊勝な言葉は存在しない。
「だから……何でそーゆー強い酒ばっかり……」
「嫌かい。しょうがないなぁ」
「いいですか、あなたが酒に強いのは百も承知ですがね。んーな引火しそうな酒ばっかがばがば飲むのはっ」
「はいはい、わかってる。それじゃ、君のおすすめでいいよ」
肩をすくめて腕をまくり、バーカウンターの内側に入ると酒瓶の列に目を走らせる。
スピリタスにウォッカにアクアビット、スコッチ、バーボン、その他リキュール各種。シェーカー、ミキシンググラス、ステア用のマドラスetc……カクテルを作るのに必要な道具は全てそろってる。家庭用にしちゃ過ぎた品ぞろえだ。
おそらく管理してるのはアレックスだろう。さすが、パーフェクトだぜ。
有能執事の手腕に感心しつつ、キッチンに必要な材料を調達に行く。
お、いいね。グレープフルーツがあるじゃないか……よし、こいつを使うとしよう。
軽く湿らせたグラスの縁にざらりと塩をまぶしてウォッカを注ぐ。絞ったばかりのグレープフルーツのジュースと氷を浮かべてステアして、カットしたレモンをグラスの縁に飾り付ける。
ソルティドッグ。
レオンと初めて学校の外で顔を合わせた時に作った酒だ。どんっとカウンターに乗せて一言、告げる。
「一気飲みはご容赦」
「カクテルなんて飲むのは久しぶりだ」
「……俺も久しぶりに作りました」
言われた通りにちびちびと、塩をなめながら飲んでいる。
ウォッカとオレンジジュースを3対1で混ぜ合わせ、自分用にスクリュードライバーを作って付き合った。
「どうぞ。食いながら飲まないと胃によくない」
ついでに台所で調達してきたクラッカーにスライスしたチーズとキュウリを乗せて出してみるが……。
気乗りしない様子でもそもそと、一つだけ食って、後が続かない。
そう言や夕飯もほとんど口にしてなかったよな。
あー、まったく。ディフといいレオンといい、こいつらほんっとに離れるとダメだ!
あきらめて、ライムにグレープフルーツにオレンジ……とにかく柑橘系のジュースを使ったカクテルを出してビタミンを補給させようと試みる。
しかし二杯ほど出した所で言われてしまった。
「ジュースはやめてくれ」
ええい、この、ザルがっ!
「はいはい……じゃ、マティーニでも」
ジンとベルモットを取り出した。あいにくとオリーブがなかったのでレモンの皮をすりおろす。
「ドライで頼むよ」
「やたらとドライにすりゃいいってもんじゃないんですけどね……お好みなら、ドライで」
「エクストラドライでもいいんだが」
ぴくりと左の眉が跳ね上がる。
実話かフィクションだか定かじゃないが、ベルモットの瓶を横目で見ながらジン飲んでた奴がいたらしいな。正視すると甘口すぎる、とか抜かして。
「いっそベルモットの瓶だけ眺めてますか?」
「ベルモットは嫌いじゃないよ」
「そりゃよかった…」
ちょい、とジンとベルモットの味を見てから12対1のかなりドライな奴を調合し、仕上げにレモンの皮を絞って加えた。
「……どうぞ。もっとドライがお好みなら次はベルモットは氷につけただけで流します」
一口すするとレオンは小さくうなずいた。微妙なタイミングだ。Yesか、Noか、どっちだ?
「いや……これでいい」
「そーっすか」
ほっと一息。どうやら柄にも無く緊張していたらしい。
「こればっかりはやたらといろんなレシピ覚えちまってね。何せ店に来る客がいちいち俺流をご教授してくださったから」
「マティーニはアレンジが効くからね。ウォッカベースのも飲んだことがあるな」
「ああ。あるある」
「カクテルは店によって……いや、バーテンによってかわるけど、マティーニは特に色々ある」
並ぶ酒瓶のうち、引き延した水滴のような細長い流線型のボトルに目を留める。
ラズールのグレープフルーツリキュールだ。透き通った青い酒。
「あれを入れると色がキレイなんだよな……かなり変則的だけど」
「一度……どこだったかな、紫色のを見たことがあるが……あれは何が入ってたんだろうな」
「んー……そうですね。ここにある酒で作るなら……」
茶色の四角い瓶に入ったチェリーのリキュールを見つけた。デンマーク生まれの透き通った赤い酒。ちょいと甘口だが色はこれ以上ないってくらいに理想的だ。
青いリキュールとジン、そしてベルモットに赤いリキュールを加えてシェイクする。こころもち青を多めに。
できあがった淡い藤色のカクテルを冷やしたグラスに満たした。
「……こんなとこかな。あまりドライじゃありませんけど」
「将来、酒が飲める歳になったら、つくってあげたらいい」
一瞬、彼の言葉の意味が理解できなかった。
改めてグラスの中味を見る。シェイクされてほんのりスモークのかかった紫色……どこか夜明けの空の色にも似て。
(ああ、なんだ。そう言うことか)
「…………そう……ですね……いつか」
「いつか……ね」
グラスの縁を指で弾く。澄んだいい音がした。
「でもね。これ、そもそもあいつのリクエストで作ったんですぜ? あなたの色だ、とかわけわかんない事言って」
「理由はわからないけど……薄い紫色がイメージらしいよ。どうしてだろうね」
「あなたが奴を天使だとか言うのと同じ理由じゃないすかね……」
自分用にもう一杯作る。
今度はチェリーのリキュールを数滴増やし、ほんの少し赤を濃くした。
「オティアなら、こんな感じかな」
レオンはそれ以上何も言わない。黙ってグラスを掲げ、藤色のカクテルを飲み干した。
次へ→【3-14-7】おかえり
▼ 【3-14-7】おかえり
「OK。もう服を着てもいいですよ、マクラウドさん」
シャツを頭からかぶり、パジャマの上着を羽織る。
ここのところ毎日、主治医は午前中のうちに回診に来ている。
レオンが病室に来る前に、だ。
俺が一人でも落ちついて治療を受けられるようになったし、それ以上にレオンに気を使ってくれているらしい。
エリックとキャンベルが来た時ほどではないが、治療のためにベッドの周囲にカーテンが引かれる度にレオンの奴はかなりナーバスになっていたからな。
「傷も順調に回復してるし、食事もきちんと取れてる。検査の結果もクリアだ。この分だと予定通り明日に退院できますね」
「ありがとうございます、先生」
ふわりと肩掛けを羽織る。
何か必要なものはないかとアレックスにもレオンにも聞かれたけれど……結局ヒウェルに調達してもらったものだ。
肩と背中を覆うのに充分な大きさでありながら羽根みたいに薄くて軽い。
『病院に黒ってのもどうかなって思ったんだけどさ。他に濃いめの色が見つからなくって』
『いや……これぐらい強い色の方がいい』
奴のセンスにしちゃ上出来だ。いつも着ている革ジャケットと同じ色だったし。
「それで……」
こくり、と喉が鳴る。何堅くなってるんだ、情けない。
「背中のタトゥーの事なんですが。治療……できますか?」
「ええ。友人の形成外科医に相談してみました。幸い、線彫りで色は入っていない。レーザー治療で消せるでしょう」
「……そうですか」
「ただ」
主治医は一旦言葉を区切り、手元のカルテに視線を落した。
「あなたの体は少し色素が薄い。髪や瞳の色を考えれば、極めて標準的なレベルですが」
「……はい」
その通り。赤毛の人間はブルネットや金髪に比べてやや色素が薄い傾向にある。
俺も子どもの頃は鼻や目、ほお骨の周りにそばかすが散っていたし、今でも強い陽射しの下では肌が赤く、斑になる。
「ですから、レーザー治療を施しても跡が残る可能性がある……普段は目立たなくても、血色が良くなると赤く浮かびあがって見えてしまうかもしれません」
ぎくりとした。
無意識に手が左の首筋に。火傷の跡に触れる。
最も見られたくない時に、見られたくない人の目に触れてしまうってことか……あいつの刻んだ署名が。
「皮膚を切除する方法もありますが、あなたの場合は広範囲にわたっている。お勧めはできません」
「そうですか。ありがとうございます」
「それで、ですね、マクラウドさん」
「はい?」
声のトーンが少し変わった。いつの間にか、カルテも伏せられている。
「ちょっと発想を変えて、別の友人に相談してみたんです。チャイナタウンに住むタトゥーアーティストなんですが」
「アーティスト……ですか。交友範囲、広いんですね」」
「まあそのへんは職業柄色々と。彼女が言うには、カバーアップと言う選択肢もあるそうです。退院したら、一度訪ねてみてはいかがでしょう」
そう言って彼は名刺を一枚、渡してくれた。薄紅色のつるつるした手触りの、とても美しいカードに流れる様な書体でスタジオの住所と、電話番号と、件のアーティストの名前が記されている。
「きっと、良い相談相手になってくれますよ」
※ ※ ※ ※
退院の日。
廊下を歩く間、ディフはずっとレオンの手を握っていた。手続きをしている間は服の袖を。アレックスの運転する車に乗ってからは腕を組んで。
とにかくどんな時も、どこかしらでレオンと繋がっていたいようだった。
マンションに戻ってからは、当たり前のように自分の部屋の前を素通りしてしまう。レオンも彼を離すつもりはなかった。
「おかえりなさい! ……あ」
迎えに出たシエンが足を留め、遠慮するように視線をそらした。
ディフはぽん、とレオンの肘を軽く叩いてから絡めていた腕を外し、シエンに歩み寄った。顔いっぱいに屈託の無い笑みが広がる。まるで大輪のヒマワリだ。
「………ただ今」
「………おかえり」
紫の瞳がわずかに潤む。ディフは床に膝をつくと、そっとシエンに向かって手を差し伸べた。ゆっくりと。ゆっくりと……指先が金色の髪に触れる。
「………おかえりなさい」
welcome home.
welcome home.
澄んで高い少年の声がくり返し、彼を包み込んで行く。
ここが"家"なのだと。
レオンにはまるで『もう、どこにも行かないで』と呼びかけているように思えた。ひょっとしたら、彼自身の気持ちが共鳴していただけなのかもしれない。
「ただいま……シエン」
「よかった……」
ディフは震える手でそっとシエンの髪を撫でると耳元に口を寄せ、静かな声で囁いた。
「ありがとな。帰ってこられて……嬉しい。すごく………」
ヘーゼルの瞳に涙が浮かんでいる。
「うん……」
二人とも、上手く言葉が出ないらしい。潤んだ瞳のまま見つめ合い、そのうちディフはくしゃくしゃと豪快にシエンの頭をなで回し始めた。
「くすぐったい……よ……ディフ」
「そうか? だったらお前も俺の頭撫でていいぞ」
そんな彼らを少し離れた場所からオティアがじっと見守っていた。いつものようにポーカーフェイスで。
今日だけは(渋々)黙認するつもりらしい。
レオンの口もとに微かな笑みが浮かぶ。
(わかるよ……その気持ち。君の場合とは対象が違うけれどね)
夕食の仕度の間、ディフはずっとリビングでレオンに寄り添っていた。上着は脱いだが、相変わらず黒い肩掛けを羽織ったまま。
キッチンでちょこまかと動き回る双子たちをじっと見守っている。まるで日なたに寝そべる犬のように、おだやかな表情を浮かべて。
「ねぇディフ、コーンブレッドって1:1でよかったっけ?」
「そうだよ。コーンミール1カップに小麦粉1カップだ」
「うん!」
うなずくとシエンはまたパタパタとキッチンに駆けて行く。
笑顔で。
にこにこと楽しそうに。
「……いい子だ」
つぶやいてから、ディフはわずかに表情を曇らせた。
「大丈夫かな」
「大丈夫だよ。あの子たちの料理の腕はなかなかのものだからね」
「いや、そっちじゃない。あんまり眠れてないんじゃないか、あいつら」
「……そうかな」
「そうだよ」
そっと腕を回してディフはレオンの肩を抱き、彼の瞳をのぞきこんだ。
「お前もだ、レオン」
「……大丈夫だよ」
(君が帰ってきたからね。もう迷子には、ならない)
※ ※ ※ ※
その夜、シエンは久しぶりにぐっすり眠った。
その隣のベッドではオティアも安らかな寝息を立てていた。
一方、レオンの寝室では……。
次へ→【3-14-8】★ずっと一緒に
シャツを頭からかぶり、パジャマの上着を羽織る。
ここのところ毎日、主治医は午前中のうちに回診に来ている。
レオンが病室に来る前に、だ。
俺が一人でも落ちついて治療を受けられるようになったし、それ以上にレオンに気を使ってくれているらしい。
エリックとキャンベルが来た時ほどではないが、治療のためにベッドの周囲にカーテンが引かれる度にレオンの奴はかなりナーバスになっていたからな。
「傷も順調に回復してるし、食事もきちんと取れてる。検査の結果もクリアだ。この分だと予定通り明日に退院できますね」
「ありがとうございます、先生」
ふわりと肩掛けを羽織る。
何か必要なものはないかとアレックスにもレオンにも聞かれたけれど……結局ヒウェルに調達してもらったものだ。
肩と背中を覆うのに充分な大きさでありながら羽根みたいに薄くて軽い。
『病院に黒ってのもどうかなって思ったんだけどさ。他に濃いめの色が見つからなくって』
『いや……これぐらい強い色の方がいい』
奴のセンスにしちゃ上出来だ。いつも着ている革ジャケットと同じ色だったし。
「それで……」
こくり、と喉が鳴る。何堅くなってるんだ、情けない。
「背中のタトゥーの事なんですが。治療……できますか?」
「ええ。友人の形成外科医に相談してみました。幸い、線彫りで色は入っていない。レーザー治療で消せるでしょう」
「……そうですか」
「ただ」
主治医は一旦言葉を区切り、手元のカルテに視線を落した。
「あなたの体は少し色素が薄い。髪や瞳の色を考えれば、極めて標準的なレベルですが」
「……はい」
その通り。赤毛の人間はブルネットや金髪に比べてやや色素が薄い傾向にある。
俺も子どもの頃は鼻や目、ほお骨の周りにそばかすが散っていたし、今でも強い陽射しの下では肌が赤く、斑になる。
「ですから、レーザー治療を施しても跡が残る可能性がある……普段は目立たなくても、血色が良くなると赤く浮かびあがって見えてしまうかもしれません」
ぎくりとした。
無意識に手が左の首筋に。火傷の跡に触れる。
最も見られたくない時に、見られたくない人の目に触れてしまうってことか……あいつの刻んだ署名が。
「皮膚を切除する方法もありますが、あなたの場合は広範囲にわたっている。お勧めはできません」
「そうですか。ありがとうございます」
「それで、ですね、マクラウドさん」
「はい?」
声のトーンが少し変わった。いつの間にか、カルテも伏せられている。
「ちょっと発想を変えて、別の友人に相談してみたんです。チャイナタウンに住むタトゥーアーティストなんですが」
「アーティスト……ですか。交友範囲、広いんですね」」
「まあそのへんは職業柄色々と。彼女が言うには、カバーアップと言う選択肢もあるそうです。退院したら、一度訪ねてみてはいかがでしょう」
そう言って彼は名刺を一枚、渡してくれた。薄紅色のつるつるした手触りの、とても美しいカードに流れる様な書体でスタジオの住所と、電話番号と、件のアーティストの名前が記されている。
「きっと、良い相談相手になってくれますよ」
※ ※ ※ ※
退院の日。
廊下を歩く間、ディフはずっとレオンの手を握っていた。手続きをしている間は服の袖を。アレックスの運転する車に乗ってからは腕を組んで。
とにかくどんな時も、どこかしらでレオンと繋がっていたいようだった。
マンションに戻ってからは、当たり前のように自分の部屋の前を素通りしてしまう。レオンも彼を離すつもりはなかった。
「おかえりなさい! ……あ」
迎えに出たシエンが足を留め、遠慮するように視線をそらした。
ディフはぽん、とレオンの肘を軽く叩いてから絡めていた腕を外し、シエンに歩み寄った。顔いっぱいに屈託の無い笑みが広がる。まるで大輪のヒマワリだ。
「………ただ今」
「………おかえり」
紫の瞳がわずかに潤む。ディフは床に膝をつくと、そっとシエンに向かって手を差し伸べた。ゆっくりと。ゆっくりと……指先が金色の髪に触れる。
「………おかえりなさい」
welcome home.
welcome home.
澄んで高い少年の声がくり返し、彼を包み込んで行く。
ここが"家"なのだと。
レオンにはまるで『もう、どこにも行かないで』と呼びかけているように思えた。ひょっとしたら、彼自身の気持ちが共鳴していただけなのかもしれない。
「ただいま……シエン」
「よかった……」
ディフは震える手でそっとシエンの髪を撫でると耳元に口を寄せ、静かな声で囁いた。
「ありがとな。帰ってこられて……嬉しい。すごく………」
ヘーゼルの瞳に涙が浮かんでいる。
「うん……」
二人とも、上手く言葉が出ないらしい。潤んだ瞳のまま見つめ合い、そのうちディフはくしゃくしゃと豪快にシエンの頭をなで回し始めた。
「くすぐったい……よ……ディフ」
「そうか? だったらお前も俺の頭撫でていいぞ」
そんな彼らを少し離れた場所からオティアがじっと見守っていた。いつものようにポーカーフェイスで。
今日だけは(渋々)黙認するつもりらしい。
レオンの口もとに微かな笑みが浮かぶ。
(わかるよ……その気持ち。君の場合とは対象が違うけれどね)
夕食の仕度の間、ディフはずっとリビングでレオンに寄り添っていた。上着は脱いだが、相変わらず黒い肩掛けを羽織ったまま。
キッチンでちょこまかと動き回る双子たちをじっと見守っている。まるで日なたに寝そべる犬のように、おだやかな表情を浮かべて。
「ねぇディフ、コーンブレッドって1:1でよかったっけ?」
「そうだよ。コーンミール1カップに小麦粉1カップだ」
「うん!」
うなずくとシエンはまたパタパタとキッチンに駆けて行く。
笑顔で。
にこにこと楽しそうに。
「……いい子だ」
つぶやいてから、ディフはわずかに表情を曇らせた。
「大丈夫かな」
「大丈夫だよ。あの子たちの料理の腕はなかなかのものだからね」
「いや、そっちじゃない。あんまり眠れてないんじゃないか、あいつら」
「……そうかな」
「そうだよ」
そっと腕を回してディフはレオンの肩を抱き、彼の瞳をのぞきこんだ。
「お前もだ、レオン」
「……大丈夫だよ」
(君が帰ってきたからね。もう迷子には、ならない)
※ ※ ※ ※
その夜、シエンは久しぶりにぐっすり眠った。
その隣のベッドではオティアも安らかな寝息を立てていた。
一方、レオンの寝室では……。
次へ→【3-14-8】★ずっと一緒に
▼ 【3-14-8】★ずっと一緒に
シャワーは別々に浴びた。
どうしてもレオンにこの体を見せたくなかった……見せられなかった。
寝室に戻り、ためらいながら彼の肩に手をかける。顔を近づけ、耳もとに口を寄せる。形の良い耳たぶにそっと口付けた。
「……くすぐったいよ」
柔らかな微笑みに勇気づけられる。
やっと、正真正銘、二人っきりになれた。もう、面会時間の終わりを気にする必要はない。
誰はばかることなく、ずっと言いたかった言葉を囁くことができる。
「レオン……」
「ん……」
絹のような明るい褐色の髪をかきあげる。
「あ……」
声が、止まった。
今さら何、照れてるんだ?
伝えたいのは、ただ一言「愛してる」。さすがに病室で囁く度胸はなかったが、今まで何十回となく言ってきた言葉じゃないか。
「どうしたんだい?」
「な、なんでもない」
深く息を吸い、ゆっくり吐き出す。
……よし、行くぞ、仕切り直しだ。
おずおずと口を開く。
「…………」
声が出ない。出せない。舌に鍵がかかったみたいに動かない。息すらろくにできず、喉が詰まる。
「う……」
最愛の人に、その事実を伝えることができない。やっとお前のそばに帰って来ることができたのに!
言いたいのに、言えない。苦しい。悲しい、やり切れない。
それなのに涙さえ出やしない。
謝罪の言葉さえも。
「う……ぁ…あ……」
喉を。胸をかきむしり、髪を振り乱して身をよじる。見えない枷を引きちぎろうと、必死でかきむしる。
「欲しくてたまらないんだろ? お望み通りにしてやるぜ。足開けよ、ほら」
「あれほどヤりまくったのにまだ足りないのか……つくづく淫乱な奴だ」
「ああ……いいぞ。遠慮する……な、もっと腰を振れ、ほら」
「ほんとに……いやらしい体だよ」
できるはずがない。
皮膚を侵食し、肉にまとわりつき、体の奥底にまで染みついているのだから。
(お前以外の男に抱かれたくなんかなかった。触れられたくなかった。それなのに……)
「さすがにキツそうだなぁ。口で上手にできたら、これ以上後ろは弄らないでおいてやるよ」
「いい眺めだ、たまんないね……ほら、もっと舌を使いな」
「……そう簡単に悪党を信じちゃダメだよ、お巡りサン? 失礼、元、だったよな」
「そらそら、上がお留守になってるぜ? こっちも忘れてもらっちゃ困るなぁ」
何度、果てただろう。
嬲られ、嘲られながらも嬌声をあげ、身をくねらせて…………。
背中の刻印が囁く。
『もうお前は……奴一人の可愛い恋人じゃないんだよ、ディフ』
「あぁっ」
薄い寝間着を引き裂いて、肌が自らの爪で傷だらけになり血がにじむ。それでも止まらない。
「……ディフ」
そっと手首を押さえられた。
レオンは何も言わない。ただ優しく受けとめられ、抱きしめられた。
すがりつき、すすり泣くような声で何度も名前を呼んだ。
「恐いんだ……ここに居るのはただの夢で……目がさめたら、まだあの部屋の冷たいベッドに括りつけられているんじゃないかって」
「もう君を誰も苦しめたりしない。俺が、させない。……愛してるよ」
「あ……して……る……レ……オ……」
「うん。わかってる」
初めて涙がこぼれた。
※ ※ ※ ※
ディフは俺の腕の中でひっそりと泣いた。
救出されてから一度も、他の人間の前では涙を見せなかった……おそらくは、ずっと、これからも。
(君の涙も、苦しみも、辛さも……全部俺の。俺だけのものだ)
ただのルームメイトから親友、そして恋人に。
彼との距離が近くなるにつれて、どんどん我慢ができなくなっていった。もう……限界だ。隣の部屋にも帰したくない。
いつか、きっとディフにつらい思いをさせてしまう。
そうとわかっていても、目の前の人を、どうしても、欲しかった。
「このまま……ずっとここに居てくれないか」
「………いいのか…?」
「君でなければ駄目なんだ。俺には…君が必要だよ、ディフ」
「俺は……俺は………………もう二度と…お前と……離れたくない……レオン」
「離さないよ。約束する」
「あいつらにされたことより、お前ともう会えないだろうって………そのことの方が、辛かった……それさえも、お前への裏切りなんじゃないかって」
抱きしめる腕に力が入る。
離すものか。絶対に。誰にも、渡さない。
※ ※ ※ ※
嬉しかった。
レオンに求められて。
彼だけのものになることができるのだと。
意地もプライドも全て脱ぎ捨てて……ただ、彼の腕の中にいたいと思った。
「何があっても離れたくない。お前だけだ、レオン。ずっと……一緒に居させてくれ……」
やわらかな囁きが耳をくすぐる。
「愛してる……」
「俺も………………………愛してる」
次へ→【3-14-9】BlueLion
どうしてもレオンにこの体を見せたくなかった……見せられなかった。
寝室に戻り、ためらいながら彼の肩に手をかける。顔を近づけ、耳もとに口を寄せる。形の良い耳たぶにそっと口付けた。
「……くすぐったいよ」
柔らかな微笑みに勇気づけられる。
やっと、正真正銘、二人っきりになれた。もう、面会時間の終わりを気にする必要はない。
誰はばかることなく、ずっと言いたかった言葉を囁くことができる。
「レオン……」
「ん……」
絹のような明るい褐色の髪をかきあげる。
「あ……」
声が、止まった。
今さら何、照れてるんだ?
伝えたいのは、ただ一言「愛してる」。さすがに病室で囁く度胸はなかったが、今まで何十回となく言ってきた言葉じゃないか。
「どうしたんだい?」
「な、なんでもない」
深く息を吸い、ゆっくり吐き出す。
……よし、行くぞ、仕切り直しだ。
おずおずと口を開く。
「…………」
声が出ない。出せない。舌に鍵がかかったみたいに動かない。息すらろくにできず、喉が詰まる。
「う……」
最愛の人に、その事実を伝えることができない。やっとお前のそばに帰って来ることができたのに!
言いたいのに、言えない。苦しい。悲しい、やり切れない。
それなのに涙さえ出やしない。
謝罪の言葉さえも。
「う……ぁ…あ……」
喉を。胸をかきむしり、髪を振り乱して身をよじる。見えない枷を引きちぎろうと、必死でかきむしる。
「欲しくてたまらないんだろ? お望み通りにしてやるぜ。足開けよ、ほら」
「あれほどヤりまくったのにまだ足りないのか……つくづく淫乱な奴だ」
「ああ……いいぞ。遠慮する……な、もっと腰を振れ、ほら」
「ほんとに……いやらしい体だよ」
できるはずがない。
皮膚を侵食し、肉にまとわりつき、体の奥底にまで染みついているのだから。
(お前以外の男に抱かれたくなんかなかった。触れられたくなかった。それなのに……)
「さすがにキツそうだなぁ。口で上手にできたら、これ以上後ろは弄らないでおいてやるよ」
「いい眺めだ、たまんないね……ほら、もっと舌を使いな」
「……そう簡単に悪党を信じちゃダメだよ、お巡りサン? 失礼、元、だったよな」
「そらそら、上がお留守になってるぜ? こっちも忘れてもらっちゃ困るなぁ」
何度、果てただろう。
嬲られ、嘲られながらも嬌声をあげ、身をくねらせて…………。
背中の刻印が囁く。
『もうお前は……奴一人の可愛い恋人じゃないんだよ、ディフ』
「あぁっ」
薄い寝間着を引き裂いて、肌が自らの爪で傷だらけになり血がにじむ。それでも止まらない。
「……ディフ」
そっと手首を押さえられた。
レオンは何も言わない。ただ優しく受けとめられ、抱きしめられた。
すがりつき、すすり泣くような声で何度も名前を呼んだ。
「恐いんだ……ここに居るのはただの夢で……目がさめたら、まだあの部屋の冷たいベッドに括りつけられているんじゃないかって」
「もう君を誰も苦しめたりしない。俺が、させない。……愛してるよ」
「あ……して……る……レ……オ……」
「うん。わかってる」
初めて涙がこぼれた。
※ ※ ※ ※
ディフは俺の腕の中でひっそりと泣いた。
救出されてから一度も、他の人間の前では涙を見せなかった……おそらくは、ずっと、これからも。
(君の涙も、苦しみも、辛さも……全部俺の。俺だけのものだ)
ただのルームメイトから親友、そして恋人に。
彼との距離が近くなるにつれて、どんどん我慢ができなくなっていった。もう……限界だ。隣の部屋にも帰したくない。
いつか、きっとディフにつらい思いをさせてしまう。
そうとわかっていても、目の前の人を、どうしても、欲しかった。
「このまま……ずっとここに居てくれないか」
「………いいのか…?」
「君でなければ駄目なんだ。俺には…君が必要だよ、ディフ」
「俺は……俺は………………もう二度と…お前と……離れたくない……レオン」
「離さないよ。約束する」
「あいつらにされたことより、お前ともう会えないだろうって………そのことの方が、辛かった……それさえも、お前への裏切りなんじゃないかって」
抱きしめる腕に力が入る。
離すものか。絶対に。誰にも、渡さない。
※ ※ ※ ※
嬉しかった。
レオンに求められて。
彼だけのものになることができるのだと。
意地もプライドも全て脱ぎ捨てて……ただ、彼の腕の中にいたいと思った。
「何があっても離れたくない。お前だけだ、レオン。ずっと……一緒に居させてくれ……」
やわらかな囁きが耳をくすぐる。
「愛してる……」
「俺も………………………愛してる」
次へ→【3-14-9】BlueLion
▼ 【3-14-9】BlueLion
翌日、レオンは久しぶりにジーノ&ローゼンベルク法律事務所のドアをくぐり、開口一番、共同経営者に告げた。
「結婚することにしたよ」
「そうか! おめでとう。それで、指輪は用意したのかい?」
「そうか……確かに指輪が必要だな。ありがとう、デイビット」
「どういたしまして。バラの花束も忘れずにな!」
ぱちっとウィンクしている。
どうやら、この陽気なハンサム・ガイはこれからプロポーズに行くものと思っているらしい。彼の思考パターンからすれば、それが自然なプロセスなのだろう。
「ちなみに俺がイザベラにプロポーズした時は、月の美しい夜に真紅のバラの花束を捧げてひざまずき、胸ポケットから彼女の瞳によく似合うエメラルドのエンゲージリングを収めたベルベットの小箱を取り出して……」
もうプロポーズは済ませた。自分に必要なのはエンゲージリングではなく、結婚指輪なのだ。
美しき思い出に浸るデイビットの誤解をあえて訂正しないまま、携帯電話を取り出す。
まず最初にアレックスに連絡しようとして、止めた。
次にディフに電話しようとして、やっぱり止める。
一応、今日は自分だけで下見に行こう。よさそうなのをいくつかピックアップして、後でディフと相談して決めればいい。
そう思っていたのだ。たまたま立ち寄ったメイデン通りの宝石店で、あの指輪を見つけるまでは。
マリッジリングを見たいと店員に告げると、いくつか主立った品を取り出してカウンターの上に並べてくれた。
結婚指輪なんてみんな似た様なデザインだと思っていたが、結構なバリエーションがあるものなのだなと感心しながら見ていると……
そいつを見つけた。すっと手を伸ばして指さす。
「あれを」
「はい、ご覧になりますか?」
「いや、あれをもらおう」
幸い、サイズは在庫があった。名前の刻印も1時間ほどで仕上がった。
次に立ち寄った花屋で少し躊躇する。こんな店に一人で入るのはそもそも初めてだ。
真紅のバラの花束とデイビットは言っていた。確かに彼の細君にはぴったりだが、ディフには……今ひとつイメージが合わない。
どうしたものか。いっそ買わずに帰ろうか? ……それもいささか物寂しい。
ふと学生時代の会話を思い出す。
「俺、マーガレットが好きなんだ。家の庭にいっぱい咲いてた」
黄色の円をふちどる白い細長い花びら。すらりと伸びた細い茎。目玉焼きそっくりの配色の素朴な花。去年の秋、病室に届けられた花かごもあの花だった。
さほど広くはない店の中を見回し、じきに目的の花を見つけた。指さして店員に一言告げる。
「それを全部」
「全部、ですか?」
「ああ。カード、使えるかな?」
「え、ええ、使えますとも! 少々お待ちください」
※ ※ ※ ※
「ただ今」
「レオン!」
笑顔で出迎える人を引き寄せる。身にまとう薄い黒い布がふわりと揺れた。少し強引だったかとも思ったが、そのまま唇を重ねた。
もう、誰が見ていようとためらわない。かまうものか。
ディフは少し驚いたように目を見開いたが、それも一瞬。すぐに目元を和ませて応えてくれた。
名残を惜しみながらゆっくりと離れる。
「……お帰り」
「ただ今」
かすかに頬が赤い。可愛いな。そっと指先で乱れた赤い髪を整えた。
「ん……? 何だ、それ」
「ああ。これ」
マーガレットの花束を手渡すと、彼は大事そうに両手で抱えて顔をほころばせた。
「ありがとな。この花、一番好きなんだ……覚えててくれたんだな」
「気に入ってくれてよかったよ」
「活けてくる」
「そうだね……あ、ディフ」
「ん? 何だ?」
「まだあるんだが」
さらにもう一つ、花束を手渡す。ヘーゼルブラウンの瞳がきょとん、と丸くなる。
「マジシャンみたいだな……」
「その……かさが多くなるものだとは思わなくて」
さらに、もう一つ。これでも花屋の店員は一生懸命、コンパクトにまとめてくれたのだが。
「誰かさん、言わなかったか。イメージだけ伝えて後は花屋の店員に任せろって」
マーガレットの花束を3つ抱えて、ディフはくすくす笑い出した。
「そんなこと言ったかな……」
「言ったんだよ」
顔をよせ、頬にキスしてきた。
彼と花屋の話なんかしたことがあっただろうか?
可能性があるとしたら、マーガレットが好きだと聞いたのと、ほぼ同じ時期だろうか。
「10年ぐらい前だったかな」
「ああ。高校の時だ。あの時も、同じ部屋に住んでた」
「思い出した。君がデートに行くって言ったんだ」
「うん。そっちは忘れてたんだな……あの時言ったんだ。この花が一番好きだって」
「俺はそのあと花屋に入ることもなかったしね」
「……嬉しいよ、レオン」
二人して玄関にいつまでもいたものだから心配になったのだろう。シエンがひょっこりと顔をのぞかせ、やっぱり目を丸くした。
「お帰りなさい……わ。花束?」
「一つ持ってくれるか? 流石に全部抱えるのはちと難しい」
「うん。すごいね」
「ああ。すごいな」
ディフはとても上機嫌だ。シエンは素直に感心している。
こっちはこっちで微妙に……気まずい。夜中にうっかり皿を割った時もこんな気分だった。
「花瓶、出してこなきゃね」
「ああ。いくつか必要だな」
「あ……その、ディフ」
「何だ?」
「終わったら書斎に来てくれ。話がある」
「わかった」
※ ※ ※ ※
書斎に戻ってきた彼の髪の毛には、ひとひら白い花びらがついていた。そっと指先でつまみとる。
「あ……ついてたか」
「似合ってたけど、ね」
「柄じゃねえよ」
口をへの字に曲げているけれど目が笑っている。本気じゃないのはすぐにわかる。
そんなディフの表情をつぶさに見守りながら、胸ポケットに手を入れた。
あいにくと月の美しい夜ではないけれど。膝まずくのは……やめておこう。おそらく彼は望まない。
「もう一つ、おみやげがあるんだ」
取り出したベルベットの小箱を開いた。
ディフはまばたきもせずに目を見開いて、じっと小箱の中味を見つめた。
青い内張りの上に並ぶ、二つの指輪を。
「………これ………その………やっぱり……あれ……か? 結婚指輪」
「受けとってくれるね?」
「ったりめえだっ! プロポーズ受けたのに、今さらっ」
口調はぞんざいだが、声はかすかに震えている。
並んだ指輪のうち一つを手にとり、彼の左手を握って引き寄せる。
拗ねたような表情からふっと余計な力が抜けて行くのがわかった。
「病める時も、健やかなる時も。貧しい時も、豊かな時も、喜びにあっても、悲しみにあっても、命ある限り君を愛し、君とともにあると誓う」
「ああ……俺も……誓う」
ぽろぽろと涙をこぼしながらディフはほほ笑んだ。
忘れ得ぬ苦い記憶も。刻まれた傷の痛みさえも包み込んで花開く、それは俺だけに向けられる唯一の笑みだった。
「この指輪は、その証しだ」
左の薬指に指輪をはめるとディフは目を閉じて、小さく息を吐き、身を震わせた。
それからまぶたを上げると、迷いのない動きで箱から指輪を取り上げて。俺の左手を握った。
「この指輪を婚姻の証しとしてお前に捧げる……俺の魂も、肉体も全てお前だけのものだ、レオン」
まるで騎士の宣誓さながらにしっかりした声でよどみなく言い終えると、俺の左の薬指に指輪を滑り込ませた。
流れ落ちる澄んだ涙はまだ止まらない。抱き寄せて、キスで受けとめた。
「大好き……だ……レオン」
囁くと、彼は自分から唇を重ねてきた。
ここが教会ではないことをむしろ幸いと思おう。誓いの口づけがどれほど長かろうと、深かろうと、誰にも何も言われない。
※ ※ ※ ※
名残を惜しみつつ唇を離すと、ディフは嬉しそうに左手を握り合わせ、二つの指輪を重ねた。
「本当は一緒に買いにいこうと思ってたんだけれど、ね」
「いや……これ、いいよ。すごく……素敵だ……」
わずかに緑を帯びたヘーゼルブラウンの瞳が細められ、指輪に刻まれた小さな紋様を愛おしげに見つめる。
「あるんだな、こんなの」
「いくつか出してもらった中にあってね。その場で買うって言ってしまって」
「お前が? 珍しいな……でも……これなら、わかるよ」
「気に入ってくれてよかった」
「よくサイズわかったな」
「自分と比較すればいいだけだからそれほど難しくなかったよ」
身長はほぼ同じだが、骨格は明らかに彼の方ががっちりしている。ディフの薬指と俺の中指とがだいたい同じサイズなのだ。
ディフはそろりと俺の薬指を撫でて。それから中指を撫でて、続いて自分の薬指を撫でた。
「……ほんとだ」
※ ※ ※ ※
「腹減った。今日の飯、何?」
「エビチリと、春巻き!」
「いいにおいだ。何か手伝おうか」
「ありがと。お皿並べてくれる?」
「OK」
ディフはリビングでぴたっとレオンに寄り添っている。生成りの綿のシャツの上から、俺の持っていった黒い肩掛けを羽織って。
二人ともほとんど言葉はかわさず。ただ静かに見つめ合う。
ディフのやつ、ものすごく嬉しそうな顔してやがる……熟した桃の実の、うっすら赤くなった部分みたいにほんのり頬を染めて。
いったい何があったんだ?
食堂をのぞいてみて理由がわかった。食卓の上に花瓶が置かれ、マーガレットが活けられている。よく見ると、あっちにも、こっちにも。小分けされてはいるが、合計したらかなりの量になりそうだ。
店中のを買い占めたんじゃないかってくらいに。
ああ。そう言うことか。これじゃあディフのやつ頬染めもするだろうな。
しかしまあ、本来はこんな風にどさーっと大量に贈るような花じゃないだろうに……ったくレオンめ、何浮かれてるんだ?
そんな具合に勝手に納得してたんだが、甘かった。事実は俺の予想をはるかにすっ飛ばして進展していたのだった。
夕食が終わり、食後のお茶が出る段になってレオンが厳かに告げた。
「一応、報告しておく。今日からディフはこっちの部屋に住むことになったから」
その隣でディフはそれこそエビみたいに真っ赤になってやがる。そっと目を伏せてはいるが、ものすごく……嬉しそうだ。
「するってぇと、あれか。お前引っ越すのか、こっちに」
「……うん」
「そうか………」
不覚にもその時初めて気づいたのだ。二人の左手に、そろいの銀色の指輪が光っていることに。
それなりの幅と存在感があり、がっちりした男の手にはめても見劣りしない。
ほどよくマットのかかった表面には、青いライオンが……騎士の盾に描かれるエンブレムさながらに、後足で立ち上がるライオンの姿が刻まれていた。
いかにもこの二人にふさわしいと思った。
「………おめでとう」
俺はずっと見ていた。高校生の頃、この二人がルームメイトとして出会った頃からもどかしい親友時代を経て今に至るまで、ずっと。
って言うかディフと知り合ったのも、こいつをディフと呼び始めたのも、俺の方が早いのだ、実は。
※月梨さん画。高校時代の3人
ふーっと、ここんとこ数日、頭から首にかけてガチガチに絡み付いていた見えない鎖が蒸発して消えて行くような心地がした。
「よかったね」
目の周りを赤く染めてシエンがほほえみかける。
ディフはやっと顔を上げて、嬉しそうに、恥ずかしそうに答えた。
「……………ありがとう」
オティアはいつもと変わらずポーカーフェイスで。単なる一つの事実として受けとめている風だった。
だが、何か考えているようにも見える。
たまに俺と目が合うこともあるがいつものようにあっさりスルー。
やっぱり俺は空気か。
空気なんだろうなあ……。
※ ※ ※ ※
夕食後、書斎でレオンと話した。やっぱりここにもマーガレットが活けてある。さっき見たらディフがいそいそとリビングにも飾っていた。
いったい、どんだけ買ってきたんだ、レオン?
「あー、その………改めまして、ご結婚、おめでとうございます。で、式は?」
「まだ考えてないよ」
「いずれはやりますよね? 奴の花嫁姿はぜひ拝んでみたい」
「うん、だから考えてない」
「……つまり俺に見せるのはお断りと」
「No, 地球上の誰にも、だ」
さっくり言い切ったよこの男は。
「予測すべき答えでした」
「結婚といっても正式なものじゃない。法で縛られるわけでもない。……今はまだ」
「今は、ね」
確かに2005年の同性結婚許可の法案は州知事が署名せずチャラになったが。
2006年現在、カリフォルニア州最高裁では婚姻を男女の結びつきのみ、とする州法の違憲性を問う審議が進められている。
こいつが通れば将来、同性間でも結婚が認められ、晴れて夫婦として結婚証明署を受けとれる可能性は充分にある。
「式は……彼がやりたいんなら別だけどね」
レオンがちょいと肩すくめる。
手を伸ばしてマーガレットに触れてみる。白い、みずみずしい花びらに。あいつの一番、好きな花だ。
「……やりたいんじゃないかな。自分はあなただけのものなんだって。その事を何よりも確認したいだろうから」
「いずれにせよ、すぐには無理だね。ちょっと仕事を貯めすぎた」
「あー………そーいや……俺も………」
そろそろ、ジョーイが頭から湯気吹きそうなレベルまで原稿が遅れている。しかも三社分同時に。
今まではどうにか一つを進めて、直しが戻ってくるまでの間に別のをやって、ってな具合にやりくりしていたのだが。
誘拐事件とそれに続く連日の警察通いでさすがに自転車操業にも無理が出始めている。
「しばらく夕飯、食いにこれそうにないな……」
「だから今日言ったんだ」
「お見通しでしたか。そりゃどーも」
おやすみを言って(実際にはまだ寝るどころの騒ぎじゃないが)部屋を出る。
魔窟へと引き上げ、手帳をめくって仕事のスケジュールを確認しようとして、はたと気づいた。
そう言やもう、六月になっていたんだなって。
ジューンブライドなんて、柄じゃねえ、と奴は笑い飛ばすだろう。けれど………幸せになって欲しいと思った。
待て。
この場合はむしろレオンか?
次へ→【3-14-10】新たなる扉
「結婚することにしたよ」
「そうか! おめでとう。それで、指輪は用意したのかい?」
「そうか……確かに指輪が必要だな。ありがとう、デイビット」
「どういたしまして。バラの花束も忘れずにな!」
ぱちっとウィンクしている。
どうやら、この陽気なハンサム・ガイはこれからプロポーズに行くものと思っているらしい。彼の思考パターンからすれば、それが自然なプロセスなのだろう。
「ちなみに俺がイザベラにプロポーズした時は、月の美しい夜に真紅のバラの花束を捧げてひざまずき、胸ポケットから彼女の瞳によく似合うエメラルドのエンゲージリングを収めたベルベットの小箱を取り出して……」
もうプロポーズは済ませた。自分に必要なのはエンゲージリングではなく、結婚指輪なのだ。
美しき思い出に浸るデイビットの誤解をあえて訂正しないまま、携帯電話を取り出す。
まず最初にアレックスに連絡しようとして、止めた。
次にディフに電話しようとして、やっぱり止める。
一応、今日は自分だけで下見に行こう。よさそうなのをいくつかピックアップして、後でディフと相談して決めればいい。
そう思っていたのだ。たまたま立ち寄ったメイデン通りの宝石店で、あの指輪を見つけるまでは。
マリッジリングを見たいと店員に告げると、いくつか主立った品を取り出してカウンターの上に並べてくれた。
結婚指輪なんてみんな似た様なデザインだと思っていたが、結構なバリエーションがあるものなのだなと感心しながら見ていると……
そいつを見つけた。すっと手を伸ばして指さす。
「あれを」
「はい、ご覧になりますか?」
「いや、あれをもらおう」
幸い、サイズは在庫があった。名前の刻印も1時間ほどで仕上がった。
次に立ち寄った花屋で少し躊躇する。こんな店に一人で入るのはそもそも初めてだ。
真紅のバラの花束とデイビットは言っていた。確かに彼の細君にはぴったりだが、ディフには……今ひとつイメージが合わない。
どうしたものか。いっそ買わずに帰ろうか? ……それもいささか物寂しい。
ふと学生時代の会話を思い出す。
「俺、マーガレットが好きなんだ。家の庭にいっぱい咲いてた」
黄色の円をふちどる白い細長い花びら。すらりと伸びた細い茎。目玉焼きそっくりの配色の素朴な花。去年の秋、病室に届けられた花かごもあの花だった。
さほど広くはない店の中を見回し、じきに目的の花を見つけた。指さして店員に一言告げる。
「それを全部」
「全部、ですか?」
「ああ。カード、使えるかな?」
「え、ええ、使えますとも! 少々お待ちください」
※ ※ ※ ※
「ただ今」
「レオン!」
笑顔で出迎える人を引き寄せる。身にまとう薄い黒い布がふわりと揺れた。少し強引だったかとも思ったが、そのまま唇を重ねた。
もう、誰が見ていようとためらわない。かまうものか。
ディフは少し驚いたように目を見開いたが、それも一瞬。すぐに目元を和ませて応えてくれた。
名残を惜しみながらゆっくりと離れる。
「……お帰り」
「ただ今」
かすかに頬が赤い。可愛いな。そっと指先で乱れた赤い髪を整えた。
「ん……? 何だ、それ」
「ああ。これ」
マーガレットの花束を手渡すと、彼は大事そうに両手で抱えて顔をほころばせた。
「ありがとな。この花、一番好きなんだ……覚えててくれたんだな」
「気に入ってくれてよかったよ」
「活けてくる」
「そうだね……あ、ディフ」
「ん? 何だ?」
「まだあるんだが」
さらにもう一つ、花束を手渡す。ヘーゼルブラウンの瞳がきょとん、と丸くなる。
「マジシャンみたいだな……」
「その……かさが多くなるものだとは思わなくて」
さらに、もう一つ。これでも花屋の店員は一生懸命、コンパクトにまとめてくれたのだが。
「誰かさん、言わなかったか。イメージだけ伝えて後は花屋の店員に任せろって」
マーガレットの花束を3つ抱えて、ディフはくすくす笑い出した。
「そんなこと言ったかな……」
「言ったんだよ」
顔をよせ、頬にキスしてきた。
彼と花屋の話なんかしたことがあっただろうか?
可能性があるとしたら、マーガレットが好きだと聞いたのと、ほぼ同じ時期だろうか。
「10年ぐらい前だったかな」
「ああ。高校の時だ。あの時も、同じ部屋に住んでた」
「思い出した。君がデートに行くって言ったんだ」
「うん。そっちは忘れてたんだな……あの時言ったんだ。この花が一番好きだって」
「俺はそのあと花屋に入ることもなかったしね」
「……嬉しいよ、レオン」
二人して玄関にいつまでもいたものだから心配になったのだろう。シエンがひょっこりと顔をのぞかせ、やっぱり目を丸くした。
「お帰りなさい……わ。花束?」
「一つ持ってくれるか? 流石に全部抱えるのはちと難しい」
「うん。すごいね」
「ああ。すごいな」
ディフはとても上機嫌だ。シエンは素直に感心している。
こっちはこっちで微妙に……気まずい。夜中にうっかり皿を割った時もこんな気分だった。
「花瓶、出してこなきゃね」
「ああ。いくつか必要だな」
「あ……その、ディフ」
「何だ?」
「終わったら書斎に来てくれ。話がある」
「わかった」
※ ※ ※ ※
書斎に戻ってきた彼の髪の毛には、ひとひら白い花びらがついていた。そっと指先でつまみとる。
「あ……ついてたか」
「似合ってたけど、ね」
「柄じゃねえよ」
口をへの字に曲げているけれど目が笑っている。本気じゃないのはすぐにわかる。
そんなディフの表情をつぶさに見守りながら、胸ポケットに手を入れた。
あいにくと月の美しい夜ではないけれど。膝まずくのは……やめておこう。おそらく彼は望まない。
「もう一つ、おみやげがあるんだ」
取り出したベルベットの小箱を開いた。
ディフはまばたきもせずに目を見開いて、じっと小箱の中味を見つめた。
青い内張りの上に並ぶ、二つの指輪を。
「………これ………その………やっぱり……あれ……か? 結婚指輪」
「受けとってくれるね?」
「ったりめえだっ! プロポーズ受けたのに、今さらっ」
口調はぞんざいだが、声はかすかに震えている。
並んだ指輪のうち一つを手にとり、彼の左手を握って引き寄せる。
拗ねたような表情からふっと余計な力が抜けて行くのがわかった。
「病める時も、健やかなる時も。貧しい時も、豊かな時も、喜びにあっても、悲しみにあっても、命ある限り君を愛し、君とともにあると誓う」
「ああ……俺も……誓う」
ぽろぽろと涙をこぼしながらディフはほほ笑んだ。
忘れ得ぬ苦い記憶も。刻まれた傷の痛みさえも包み込んで花開く、それは俺だけに向けられる唯一の笑みだった。
「この指輪は、その証しだ」
左の薬指に指輪をはめるとディフは目を閉じて、小さく息を吐き、身を震わせた。
それからまぶたを上げると、迷いのない動きで箱から指輪を取り上げて。俺の左手を握った。
「この指輪を婚姻の証しとしてお前に捧げる……俺の魂も、肉体も全てお前だけのものだ、レオン」
まるで騎士の宣誓さながらにしっかりした声でよどみなく言い終えると、俺の左の薬指に指輪を滑り込ませた。
流れ落ちる澄んだ涙はまだ止まらない。抱き寄せて、キスで受けとめた。
「大好き……だ……レオン」
囁くと、彼は自分から唇を重ねてきた。
ここが教会ではないことをむしろ幸いと思おう。誓いの口づけがどれほど長かろうと、深かろうと、誰にも何も言われない。
※ ※ ※ ※
名残を惜しみつつ唇を離すと、ディフは嬉しそうに左手を握り合わせ、二つの指輪を重ねた。
「本当は一緒に買いにいこうと思ってたんだけれど、ね」
「いや……これ、いいよ。すごく……素敵だ……」
わずかに緑を帯びたヘーゼルブラウンの瞳が細められ、指輪に刻まれた小さな紋様を愛おしげに見つめる。
「あるんだな、こんなの」
「いくつか出してもらった中にあってね。その場で買うって言ってしまって」
「お前が? 珍しいな……でも……これなら、わかるよ」
「気に入ってくれてよかった」
「よくサイズわかったな」
「自分と比較すればいいだけだからそれほど難しくなかったよ」
身長はほぼ同じだが、骨格は明らかに彼の方ががっちりしている。ディフの薬指と俺の中指とがだいたい同じサイズなのだ。
ディフはそろりと俺の薬指を撫でて。それから中指を撫でて、続いて自分の薬指を撫でた。
「……ほんとだ」
※ ※ ※ ※
「腹減った。今日の飯、何?」
「エビチリと、春巻き!」
「いいにおいだ。何か手伝おうか」
「ありがと。お皿並べてくれる?」
「OK」
ディフはリビングでぴたっとレオンに寄り添っている。生成りの綿のシャツの上から、俺の持っていった黒い肩掛けを羽織って。
二人ともほとんど言葉はかわさず。ただ静かに見つめ合う。
ディフのやつ、ものすごく嬉しそうな顔してやがる……熟した桃の実の、うっすら赤くなった部分みたいにほんのり頬を染めて。
いったい何があったんだ?
食堂をのぞいてみて理由がわかった。食卓の上に花瓶が置かれ、マーガレットが活けられている。よく見ると、あっちにも、こっちにも。小分けされてはいるが、合計したらかなりの量になりそうだ。
店中のを買い占めたんじゃないかってくらいに。
ああ。そう言うことか。これじゃあディフのやつ頬染めもするだろうな。
しかしまあ、本来はこんな風にどさーっと大量に贈るような花じゃないだろうに……ったくレオンめ、何浮かれてるんだ?
そんな具合に勝手に納得してたんだが、甘かった。事実は俺の予想をはるかにすっ飛ばして進展していたのだった。
夕食が終わり、食後のお茶が出る段になってレオンが厳かに告げた。
「一応、報告しておく。今日からディフはこっちの部屋に住むことになったから」
その隣でディフはそれこそエビみたいに真っ赤になってやがる。そっと目を伏せてはいるが、ものすごく……嬉しそうだ。
「するってぇと、あれか。お前引っ越すのか、こっちに」
「……うん」
「そうか………」
不覚にもその時初めて気づいたのだ。二人の左手に、そろいの銀色の指輪が光っていることに。
それなりの幅と存在感があり、がっちりした男の手にはめても見劣りしない。
ほどよくマットのかかった表面には、青いライオンが……騎士の盾に描かれるエンブレムさながらに、後足で立ち上がるライオンの姿が刻まれていた。
いかにもこの二人にふさわしいと思った。
「………おめでとう」
俺はずっと見ていた。高校生の頃、この二人がルームメイトとして出会った頃からもどかしい親友時代を経て今に至るまで、ずっと。
って言うかディフと知り合ったのも、こいつをディフと呼び始めたのも、俺の方が早いのだ、実は。
※月梨さん画。高校時代の3人
ふーっと、ここんとこ数日、頭から首にかけてガチガチに絡み付いていた見えない鎖が蒸発して消えて行くような心地がした。
「よかったね」
目の周りを赤く染めてシエンがほほえみかける。
ディフはやっと顔を上げて、嬉しそうに、恥ずかしそうに答えた。
「……………ありがとう」
オティアはいつもと変わらずポーカーフェイスで。単なる一つの事実として受けとめている風だった。
だが、何か考えているようにも見える。
たまに俺と目が合うこともあるがいつものようにあっさりスルー。
やっぱり俺は空気か。
空気なんだろうなあ……。
※ ※ ※ ※
夕食後、書斎でレオンと話した。やっぱりここにもマーガレットが活けてある。さっき見たらディフがいそいそとリビングにも飾っていた。
いったい、どんだけ買ってきたんだ、レオン?
「あー、その………改めまして、ご結婚、おめでとうございます。で、式は?」
「まだ考えてないよ」
「いずれはやりますよね? 奴の花嫁姿はぜひ拝んでみたい」
「うん、だから考えてない」
「……つまり俺に見せるのはお断りと」
「No, 地球上の誰にも、だ」
さっくり言い切ったよこの男は。
「予測すべき答えでした」
「結婚といっても正式なものじゃない。法で縛られるわけでもない。……今はまだ」
「今は、ね」
確かに2005年の同性結婚許可の法案は州知事が署名せずチャラになったが。
2006年現在、カリフォルニア州最高裁では婚姻を男女の結びつきのみ、とする州法の違憲性を問う審議が進められている。
こいつが通れば将来、同性間でも結婚が認められ、晴れて夫婦として結婚証明署を受けとれる可能性は充分にある。
「式は……彼がやりたいんなら別だけどね」
レオンがちょいと肩すくめる。
手を伸ばしてマーガレットに触れてみる。白い、みずみずしい花びらに。あいつの一番、好きな花だ。
「……やりたいんじゃないかな。自分はあなただけのものなんだって。その事を何よりも確認したいだろうから」
「いずれにせよ、すぐには無理だね。ちょっと仕事を貯めすぎた」
「あー………そーいや……俺も………」
そろそろ、ジョーイが頭から湯気吹きそうなレベルまで原稿が遅れている。しかも三社分同時に。
今まではどうにか一つを進めて、直しが戻ってくるまでの間に別のをやって、ってな具合にやりくりしていたのだが。
誘拐事件とそれに続く連日の警察通いでさすがに自転車操業にも無理が出始めている。
「しばらく夕飯、食いにこれそうにないな……」
「だから今日言ったんだ」
「お見通しでしたか。そりゃどーも」
おやすみを言って(実際にはまだ寝るどころの騒ぎじゃないが)部屋を出る。
魔窟へと引き上げ、手帳をめくって仕事のスケジュールを確認しようとして、はたと気づいた。
そう言やもう、六月になっていたんだなって。
ジューンブライドなんて、柄じゃねえ、と奴は笑い飛ばすだろう。けれど………幸せになって欲しいと思った。
待て。
この場合はむしろレオンか?
次へ→【3-14-10】新たなる扉
▼ 【3-14-10】新たなる扉
あの二人が結婚した。
正確には同棲を始めたということだが、もうとっくに同棲しているのと同じだったし、事実婚ということになるんだろう。元々、いつそうなってもおかしくなかった。
ディフのためにはそのほうがいいと思う。
自分の中にもまだある、深い闇。いつまでも消えない記憶と感情。どうしようもない苛立ちと絶望。
そんなものを消せるとは思わないけれど、それでも。
丁度良い機会だし、前から考えていたことを実行しよう。
レオンはおそらく反対しないだろうが……
ヒウェルが帰るのを確認してから書斎に入る。
「おや、どうしたんだい?」
思った通りレオンは反対しなかった。全て聞き終えるとうなずいて、静かに一言。
「わかったよ。ただし、ディフを説得するのは自分でやるんだね」
※ ※ ※ ※
「隣に引っ越したい」
「何? もう一度言ってみろ」
「だから。なんで新婚家庭にいなきゃいけねーんだよ。ディフが使ってた部屋が空くんだから、そっちに行く」
長い間、ディフは拳を握って口元に当てて考えた。
去年の冬の平凡だが穏やかで平和な一日。食卓で交わした会話が記憶の底から浮び上がる。
「……シエン、そいつが一緒に住むようになったら、俺達は出ていくことになるぞ」
「そんなこと、二度と言うな」
「ごめん、そういう理由で追い出されたことあるから」
「いや普通に考えても誰が新婚家庭にいたいと思うかと」
出ていく、とは言っていない。引っ越すと言っても同じフロアの、隣の部屋だ。
「……いいだろう…だが飯はちゃんと食べに来いよ。資料や本なんかは書庫に残しておく。鍵も俺が1本持つ。いいな?」
「わかったよ……」
ちらりとシエンに目を向ける。双子はいつも一緒だ。オティアが引っ越すと言うのなら、それはシエンも行く、と言うことなのだ。
少し困ったような顔をしていた。
(心配するな。俺はもう、大丈夫だから)
気がつくと、笑みかけていた。まず口の端をくいっと上げて。続いて目を細めてにまっと豪快に。
(こんな風に笑うのは久しぶりだ)
「OK、それじゃあ、明日から始めよう。とりあえず、アレックスに相談だな」
「……うん」
※ ※ ※ ※
今日はまだジョーイから催促の電話が来ない。メールも。
ラッキー! とか内心思いつつだらだらと仕事を続ける。別にやる気がない訳じゃないんだ。ちょとばかしノリが悪いっつーか、波が来ないんだよな。
この程度のテキスト量なら三日で書き上げたことだってある。その後、しばらく使い物にならなくなったが、とにかく、ある。
もっと深刻な修羅場を潜ったことだってあるんだ。
この程度。まだ………とか思ってたら電話が鳴った。
「ハーイ、ヒウェル。仕事、進んでる?」
「……やあ、ジョーイ。もちろん絶好調さ!」
「んー、その不自然にあっかるい声がかえって信用できないんだよねえ」
呼び鈴が鳴る。
まさか……そんなこと、ないよな?
「やだなあ、人聞きの悪い。やってますって、今、バリバリと」
がちゃっとドアを開ける。
「ハーイ、ヒウェル。もう逃がさないよー」
予感的中。本人が来やがったーっ!
それからはもう、ジョーイは俺の部屋に居座り、背後霊状態、まーさーにstand by me。ただしこのスタンド、絶対に俺の思う通りにゃ動いちゃくれない。
「ジョーイ、仕事たまってるだろ社に戻れば?」
「お気遣い無く。仕事環境ぜーんぶモバイル対応だから!」
もはや気が散る、とか。他社の仕事もやってんだから守秘義務が、とか、甘いことをほざいている余裕はない。
背後霊をはり付けたまま、ひたすら書いて、書いて、たまに頭かかえて、ディスカッションして(これはありがたい。電話よりメールよりチャットより、直に面付き合わせてしゃべるのが一番頭が回る)そして、また書く。
互いに限界が来たかと感じたらひっくり返って仮眠して。
時間が来たら起きてる方に叩き起こされ、再び仕事する。
「腹減った………」
「待ってろ……なんか探して………」
かぱっと冷蔵庫を開ける。
「……なあ、ジョーイ」
「なあに?」
「ピーナッツバターとチョコバーと牛乳とマスタード、どれがいい?」
「そうねえ、とりあえず牛乳かな?」
「……ごめん、ヨーグルトだった。って言うか、ヨーグルトになってる」
「自家製、とか言わないよね?」
レオンに宣言した通り、とてもじゃないが上に飯をたかりに行く余裕はなかった。
※ ※ ※ ※
ヒウェルはここのところ夕食に来ない。
一度だけ、編集さんがぴったりひっついてて逃げられない、と電話があった。
仕事が忙しいんだってレオンが言っていた。そのレオンも、やっぱりすごく忙しいらしい。
ヒウェル、ちゃんとご飯食べてるかな。
食べてないだろうな。
「よぉ……シエン……げんき……か」
久しぶりに部屋に行ってみたら、ドアを開けて出てきたヒウェルは髪の毛はくしゃくしゃ、シャツはよれよれ。
ゾンビみたいな状態だった。
「俺は平気だけど……これ」
用意してきたお弁当、二人分さし出した。
「おおー、なんかいいにおいがするー」
くしゃくしゃの天然パーマの男の人がにゅう〜っと出てきた。
大人の男の人って言うよりなんだかカートゥーンのキャラクターがそのまま実体化したような雰囲気。
この人なら、あまり怖くない……かな?
「あ……紹介するよ。こいつ、出版社の編集で……ジョーイっての」
「ありがとうねー。もぉお腹ぺっこぺこで。この部屋なーんも食い物ないから」
「連絡してくれたら何かもってくるよ?」
「んー」
ジョーイは首をかしげて、目をぱちぱちさせてからキッチンの方をちらっと見て。きっぱりと言い切った。
「人間の飲めるコーヒー」
「何だとぉ?」
「ん、わかった。次はコーヒーもってくるね」
「ありがとねー。こいつのとこに缶詰だからまともな食い物あきらめてたよ」
「ジョーイ、うるさい」
ばふっとヒウェルはクッションを投げつけてから、こっちを向いてにこっと笑った。
「……ありがとな、シエン」
「うん。お仕事、がんばってね」
※ ※ ※ ※
次のデリバリーは、おやつとステンレスボトルに詰まったコーヒーが一緒に届けられた。
まだほんのりとあたたかい、ブルーベリーマフィン。
「ブルーベリーって目にいいんだよね」
「ああ……ありがとな」
いつの間にそんな事まで覚えたのだろう。
「なるほどねえ」
マフィンをかじりながらしみじみした口調でジョーイがつぶやいた。
「あれが魔窟を人の住処に変えた恋人さんの正体か。ついにティーンズまで守備範囲にしやがって、この犯罪者め!」
「俺は犯罪者か!」
勝手に人を有罪にしておきながら、ご当人、今度はしみじみとコーヒーなんかすすってやがる。
「ああ……まともなコーヒーだ」
「うるせえよ、ジョーイ」
※ ※ ※ ※
ジョーイとの不毛な缶詰状態は一週間ほど続いた。
その間、シエンの差し入れのおかげで生き延びたと言っても過言ではない。
ようやく仕事を終えてからベッドに倒れ込み、泥のように眠りこけてから起きたらもう夕方だった。
久しぶりにシャワーを浴びて、きちんとひげを剃り、顔を洗う。
「腹減ったー。今日の飯、何?」
晴れて一週間ぶりに部屋から出て、軋む足腰を伸ばしながら食いに行った夕飯の美味いことと言ったら!
相変わらず中華がメインってことはシエンが作っているのだろう。
少しずつディフも動き回るようになってはいるが、まだ本調子ではないらしい。
だいたい奴は体力に任せて無茶をやらかすから……こんな風に精神的に参った時は、かえって長引く。
それでもレオンと指輪を交わして以来、だいぶ落ちついたんだなと感じる。
黒い肩掛けは、相変わらず彼の背中を覆っている。もっと華やいだ色にすればよかったと今さらながら悔やまれる。
夕食の後、双子は連れ立って廊下を歩いて行く。
「じゃあ、おやすみー」
いつもの風景だが、ちょっと待て。方向が微妙に違ってないか?
見ると、廊下のつきあたりに見慣れないドアがある。
どっしりした木の表面はつやつやしていて、ノブもぴかぴか。まだ新しい。
「……あんなドアあったっけ?」
「新しくつくったんだ」
「でも、あの位置だと隣の部屋に突き抜けちまいませんか?」
「それでいいんだよ」
「……へ? ってことは、つまり……二軒分繋げちまったのか」
「ディフの荷物を全部こちらに持ってくるのも無理だったしね。とはいっても、一応隣の家なんで、鍵はかけてあるよ。普段は」
「今後はあっちが双子のお部屋ってことですか」
「ああ。あの子たちの希望でね」
そう言や、リビングの壁にバグパイプがかかっている。あれは確かにディフの部屋にあったものだ。
「つまりディフがこっちに引っ越して、双子が隣に引っ越した、と。全然気づかなかった……」
「君は引越し手伝いの役にはたちそうもないからね」
ぐっ、と言葉に詰まる。思わずうつむき、口を歪めていた。
「そーらそうでしょうとも、どーせ俺は貧弱ですよ……荷物の移動にしろ家具の組み立てにしろ、アレックスとディフが居ればじゅーぶんでしょうから……」
レオンは軽く肩をすくめてさらりと言った。
「実は俺も手伝わせてもらえなかった」
「…………………………………………………………………………………でしょうね」
レオンにお手伝いさせたら危険。双子と、俺と、ディフとアレックスの間での暗黙の了解だった。
それに……。
こいつ、俺に比べりゃしゃっきりとしちゃいるが、全身から漂う疲労の色は隠せない。
ここんとこ激務続きで疲れているのだ。ゆっくり休んでいろと言われたに違いない。
そして唐突に気づく。
俺、今新婚家庭にお邪魔してるんだ。急に何とも言えない気まずさを覚え、そそくさと立ち上がる。
レオンはにっこりとほほ笑んで小さく手を振った。
出ようとしたところにディフが入ってきた。
「何だ、もう帰るのか?」
「ああ。何気に全身ぼろぼろだしね……久々にゆっくり寝直すよ」
「そうか。おやすみ」
「おやすみなさい」
新婚夫婦にうやうやしく一礼して退散した。
真新しいドアに一瞥くれて。
あの向こうにオティアがいるのだと思うと……胸が震えた。
通常ルート→【3-14-12】★★ライオンと翼
BLルート→【3-14-11】★★★ライオンと翼
正確には同棲を始めたということだが、もうとっくに同棲しているのと同じだったし、事実婚ということになるんだろう。元々、いつそうなってもおかしくなかった。
ディフのためにはそのほうがいいと思う。
自分の中にもまだある、深い闇。いつまでも消えない記憶と感情。どうしようもない苛立ちと絶望。
そんなものを消せるとは思わないけれど、それでも。
丁度良い機会だし、前から考えていたことを実行しよう。
レオンはおそらく反対しないだろうが……
ヒウェルが帰るのを確認してから書斎に入る。
「おや、どうしたんだい?」
思った通りレオンは反対しなかった。全て聞き終えるとうなずいて、静かに一言。
「わかったよ。ただし、ディフを説得するのは自分でやるんだね」
※ ※ ※ ※
「隣に引っ越したい」
「何? もう一度言ってみろ」
「だから。なんで新婚家庭にいなきゃいけねーんだよ。ディフが使ってた部屋が空くんだから、そっちに行く」
長い間、ディフは拳を握って口元に当てて考えた。
去年の冬の平凡だが穏やかで平和な一日。食卓で交わした会話が記憶の底から浮び上がる。
「……シエン、そいつが一緒に住むようになったら、俺達は出ていくことになるぞ」
「そんなこと、二度と言うな」
「ごめん、そういう理由で追い出されたことあるから」
「いや普通に考えても誰が新婚家庭にいたいと思うかと」
出ていく、とは言っていない。引っ越すと言っても同じフロアの、隣の部屋だ。
「……いいだろう…だが飯はちゃんと食べに来いよ。資料や本なんかは書庫に残しておく。鍵も俺が1本持つ。いいな?」
「わかったよ……」
ちらりとシエンに目を向ける。双子はいつも一緒だ。オティアが引っ越すと言うのなら、それはシエンも行く、と言うことなのだ。
少し困ったような顔をしていた。
(心配するな。俺はもう、大丈夫だから)
気がつくと、笑みかけていた。まず口の端をくいっと上げて。続いて目を細めてにまっと豪快に。
(こんな風に笑うのは久しぶりだ)
「OK、それじゃあ、明日から始めよう。とりあえず、アレックスに相談だな」
「……うん」
※ ※ ※ ※
今日はまだジョーイから催促の電話が来ない。メールも。
ラッキー! とか内心思いつつだらだらと仕事を続ける。別にやる気がない訳じゃないんだ。ちょとばかしノリが悪いっつーか、波が来ないんだよな。
この程度のテキスト量なら三日で書き上げたことだってある。その後、しばらく使い物にならなくなったが、とにかく、ある。
もっと深刻な修羅場を潜ったことだってあるんだ。
この程度。まだ………とか思ってたら電話が鳴った。
「ハーイ、ヒウェル。仕事、進んでる?」
「……やあ、ジョーイ。もちろん絶好調さ!」
「んー、その不自然にあっかるい声がかえって信用できないんだよねえ」
呼び鈴が鳴る。
まさか……そんなこと、ないよな?
「やだなあ、人聞きの悪い。やってますって、今、バリバリと」
がちゃっとドアを開ける。
「ハーイ、ヒウェル。もう逃がさないよー」
予感的中。本人が来やがったーっ!
それからはもう、ジョーイは俺の部屋に居座り、背後霊状態、まーさーにstand by me。ただしこのスタンド、絶対に俺の思う通りにゃ動いちゃくれない。
「ジョーイ、仕事たまってるだろ社に戻れば?」
「お気遣い無く。仕事環境ぜーんぶモバイル対応だから!」
もはや気が散る、とか。他社の仕事もやってんだから守秘義務が、とか、甘いことをほざいている余裕はない。
背後霊をはり付けたまま、ひたすら書いて、書いて、たまに頭かかえて、ディスカッションして(これはありがたい。電話よりメールよりチャットより、直に面付き合わせてしゃべるのが一番頭が回る)そして、また書く。
互いに限界が来たかと感じたらひっくり返って仮眠して。
時間が来たら起きてる方に叩き起こされ、再び仕事する。
「腹減った………」
「待ってろ……なんか探して………」
かぱっと冷蔵庫を開ける。
「……なあ、ジョーイ」
「なあに?」
「ピーナッツバターとチョコバーと牛乳とマスタード、どれがいい?」
「そうねえ、とりあえず牛乳かな?」
「……ごめん、ヨーグルトだった。って言うか、ヨーグルトになってる」
「自家製、とか言わないよね?」
レオンに宣言した通り、とてもじゃないが上に飯をたかりに行く余裕はなかった。
※ ※ ※ ※
ヒウェルはここのところ夕食に来ない。
一度だけ、編集さんがぴったりひっついてて逃げられない、と電話があった。
仕事が忙しいんだってレオンが言っていた。そのレオンも、やっぱりすごく忙しいらしい。
ヒウェル、ちゃんとご飯食べてるかな。
食べてないだろうな。
「よぉ……シエン……げんき……か」
久しぶりに部屋に行ってみたら、ドアを開けて出てきたヒウェルは髪の毛はくしゃくしゃ、シャツはよれよれ。
ゾンビみたいな状態だった。
「俺は平気だけど……これ」
用意してきたお弁当、二人分さし出した。
「おおー、なんかいいにおいがするー」
くしゃくしゃの天然パーマの男の人がにゅう〜っと出てきた。
大人の男の人って言うよりなんだかカートゥーンのキャラクターがそのまま実体化したような雰囲気。
この人なら、あまり怖くない……かな?
「あ……紹介するよ。こいつ、出版社の編集で……ジョーイっての」
「ありがとうねー。もぉお腹ぺっこぺこで。この部屋なーんも食い物ないから」
「連絡してくれたら何かもってくるよ?」
「んー」
ジョーイは首をかしげて、目をぱちぱちさせてからキッチンの方をちらっと見て。きっぱりと言い切った。
「人間の飲めるコーヒー」
「何だとぉ?」
「ん、わかった。次はコーヒーもってくるね」
「ありがとねー。こいつのとこに缶詰だからまともな食い物あきらめてたよ」
「ジョーイ、うるさい」
ばふっとヒウェルはクッションを投げつけてから、こっちを向いてにこっと笑った。
「……ありがとな、シエン」
「うん。お仕事、がんばってね」
※ ※ ※ ※
次のデリバリーは、おやつとステンレスボトルに詰まったコーヒーが一緒に届けられた。
まだほんのりとあたたかい、ブルーベリーマフィン。
「ブルーベリーって目にいいんだよね」
「ああ……ありがとな」
いつの間にそんな事まで覚えたのだろう。
「なるほどねえ」
マフィンをかじりながらしみじみした口調でジョーイがつぶやいた。
「あれが魔窟を人の住処に変えた恋人さんの正体か。ついにティーンズまで守備範囲にしやがって、この犯罪者め!」
「俺は犯罪者か!」
勝手に人を有罪にしておきながら、ご当人、今度はしみじみとコーヒーなんかすすってやがる。
「ああ……まともなコーヒーだ」
「うるせえよ、ジョーイ」
※ ※ ※ ※
ジョーイとの不毛な缶詰状態は一週間ほど続いた。
その間、シエンの差し入れのおかげで生き延びたと言っても過言ではない。
ようやく仕事を終えてからベッドに倒れ込み、泥のように眠りこけてから起きたらもう夕方だった。
久しぶりにシャワーを浴びて、きちんとひげを剃り、顔を洗う。
「腹減ったー。今日の飯、何?」
晴れて一週間ぶりに部屋から出て、軋む足腰を伸ばしながら食いに行った夕飯の美味いことと言ったら!
相変わらず中華がメインってことはシエンが作っているのだろう。
少しずつディフも動き回るようになってはいるが、まだ本調子ではないらしい。
だいたい奴は体力に任せて無茶をやらかすから……こんな風に精神的に参った時は、かえって長引く。
それでもレオンと指輪を交わして以来、だいぶ落ちついたんだなと感じる。
黒い肩掛けは、相変わらず彼の背中を覆っている。もっと華やいだ色にすればよかったと今さらながら悔やまれる。
夕食の後、双子は連れ立って廊下を歩いて行く。
「じゃあ、おやすみー」
いつもの風景だが、ちょっと待て。方向が微妙に違ってないか?
見ると、廊下のつきあたりに見慣れないドアがある。
どっしりした木の表面はつやつやしていて、ノブもぴかぴか。まだ新しい。
「……あんなドアあったっけ?」
「新しくつくったんだ」
「でも、あの位置だと隣の部屋に突き抜けちまいませんか?」
「それでいいんだよ」
「……へ? ってことは、つまり……二軒分繋げちまったのか」
「ディフの荷物を全部こちらに持ってくるのも無理だったしね。とはいっても、一応隣の家なんで、鍵はかけてあるよ。普段は」
「今後はあっちが双子のお部屋ってことですか」
「ああ。あの子たちの希望でね」
そう言や、リビングの壁にバグパイプがかかっている。あれは確かにディフの部屋にあったものだ。
「つまりディフがこっちに引っ越して、双子が隣に引っ越した、と。全然気づかなかった……」
「君は引越し手伝いの役にはたちそうもないからね」
ぐっ、と言葉に詰まる。思わずうつむき、口を歪めていた。
「そーらそうでしょうとも、どーせ俺は貧弱ですよ……荷物の移動にしろ家具の組み立てにしろ、アレックスとディフが居ればじゅーぶんでしょうから……」
レオンは軽く肩をすくめてさらりと言った。
「実は俺も手伝わせてもらえなかった」
「…………………………………………………………………………………でしょうね」
レオンにお手伝いさせたら危険。双子と、俺と、ディフとアレックスの間での暗黙の了解だった。
それに……。
こいつ、俺に比べりゃしゃっきりとしちゃいるが、全身から漂う疲労の色は隠せない。
ここんとこ激務続きで疲れているのだ。ゆっくり休んでいろと言われたに違いない。
そして唐突に気づく。
俺、今新婚家庭にお邪魔してるんだ。急に何とも言えない気まずさを覚え、そそくさと立ち上がる。
レオンはにっこりとほほ笑んで小さく手を振った。
出ようとしたところにディフが入ってきた。
「何だ、もう帰るのか?」
「ああ。何気に全身ぼろぼろだしね……久々にゆっくり寝直すよ」
「そうか。おやすみ」
「おやすみなさい」
新婚夫婦にうやうやしく一礼して退散した。
真新しいドアに一瞥くれて。
あの向こうにオティアがいるのだと思うと……胸が震えた。
通常ルート→【3-14-12】★★ライオンと翼
BLルート→【3-14-11】★★★ライオンと翼
▼ 【3-14-11】★★★ライオンと翼
オティアとシエン、そして俺自身の引っ越しが終わった翌日。
主治医からもらった名刺を頼りに、チャイナタウンのスタジオを訪れた。既に前日、電話でアポイントメントはとってある。
なめらかな女性の声が答えた
「わかりました。駐車場は裏に。店内に入ったらカウンターの上のベルを鳴らしてください。それでは、明日」
言われた通りに入って行くと、柔らかな中間照明に彩られた店内にはかすかに甘い香りが漂っていた。
どことなく東洋の、それも南の国を思わせるインテリアが多い。過度に異国趣味を強調するでもなく、ロータイプの家具は見る者の目を圧迫しない。
適度に床と椅子の境目があいまいで、植物を編んで作ったらしいラグが敷かれている。さらさらとして心地よい。
何となくオティアの好みに近いものがあるな、と思った。
今回の引っ越しでわかったんだが、あの子は床の上でごろごろするのが好きらしい。
俺の住んでいた部屋はアレックスのコーディネイトのもと、双子が住みやすくなるようにリフォームされた。
居間のソファはロータイプのものに変えられ、ラグも肌触りのよい、安全な材質のものに張り替えられた。素足で上を歩いたり、寝転んだりできるように。
店内に人の気配はなかった。昨夜電話で言われた通り、木のカウンターの上に置かれた金属製のベルを鳴らす。
シャラン……と、まるで月の光が結晶して、夜の空気の中で触れあうような音がした。
奥のカーテンが揺れて、シャム猫が一匹姿を現す。そのすぐ後ろから、ほっそりした東洋系の女性が出てきた。
うりざね顔で面長、切れ長の瞳に細く整えられた眉、つやつやと赤い唇。
スパッツに覆われたふくらはぎに猫がすりより、細長い尻尾を巻き付けた。
この飼い主と猫、とてもよく似ている。
「マクラウドさん?」
「……yes」
「お待ちしてました。店主のミヤコ・ヤシマです」
奥に通される前に靴を脱ぐよう求められる。
どうやら、スタジオ内部は基本的に床に座って生活するスタイルに統一されているようだ。
「もしかして、ジャパニーズ?」
「ええ。よくおわかりになりましたね? 場所柄、チャイニーズと思われる方が多いのに」
「どちらも友人にいるんです。あなたの名前と仕草はどっちかって言うと日本的だなと思って」
「なるほどね……それで、マクラウドさん」
背の低い木のテーブルの向こうから、ミヤコはすっと切れ長の瞳を細めて問いかけるような視線を向けてきた。
「ご存知かと思いますが私の仕事は、人の肌に直接触れることです。プライベートは尊重します。けれど……差し支えない程度でいい。聞かせたくない事は伏せたままでいい」
黙ってうなずく。タトゥーを消したい旨は既に伝えてあったが、それ以上に常ならぬ事情があるのだと察している口ぶりだった。
「できる限りの範囲でいいの。ヴェールを被ったままでかまわない。教えてください。あなたの事を」
「……夫がいる」
さらりと黒髪が揺れた。うなずいたのだ。
「名前を消してほしいんだ。二度と彼の目に触れぬよう」
「見せていただけますか? あちらのつい立ての向こうで」
背中のタトゥーを念入りに調べてから、彼女は言った。
「………これを刻んだ奴は………クレイジーね。さぞ、辛かったでしょう……」
「消せる……か?」
「消してみせる。これは言うなれば私と『彼』との1on1の真剣勝負」
赤いルージュを引いた唇の口角が上がり、艶やかに微笑う。
「負けるものですか」
その時、迷いが消えた。
タトゥーを消しても記憶は消せない、事実も消せない。彼女は信用できる。自分の技に誇りを持った人だ。
委ねてみよう。
※ ※ ※ ※
話し合った結果、施術は週に一回、三回に分けて行われることになった。ミヤコはもっと小分けにすることを勧めてくれたのだが、俺が無理を言って短縮した。
最後の施術の後はさすがに体がしんどくて。家に帰るなりソファに倒れ込み、しばらく動けなかった。
だるい。
背中がじりじりと熱い。
少し……熱が出たか。
茹ですぎたブロッコリーになった気分でぼんやりしていると、ふっと明かりが陰った。
うっすら目を開ける。
「……ディフ」
心配そうな紫の瞳が見下ろしている。いつの間に来たのだろう。全く気づかなかった。
「大丈夫?」
「ああ……もうちょっとだけ……待っててくれ」
ソファに手をついて起きあがる。
アスピリン、飲んどくか。鎮痛剤が効いてくれば、動けるようになるだろう。
立とうとすると、そっと手首を押さえられた。
「治していい? これぐらいなら、俺にもできるから」
「……………………そうだな」
ゆっくりとうなずく。
ここで無理したら、余計にこの子を。レオンを心配させてしまう。意地を張るのは、やめておこう。
「頼むよ、シエン」
「……うん」
ほっとした表情を浮かべると、シエンは手を伸ばしてきた。
背中に触れられても、恐ろしいとは………思わなかった。
不思議なものだ。
医者に手当を受ける時も。ミヤコの施術を受ける時も、どうしても緊張が抜けなかったのにな。
「終わったよ」
「ああ……ありがとう。楽になった」
立ち上がり、くいっと髪の毛を一つにまとめる。キッチンに向かい、壁にかけた自分用のエプロンを手にとった。
「ディフ?」
「長い事さぼっててすまなかったな」
「ううん、料理好きだし。何つくるの?」
いそいそと自分のエプロンを身につけている。
「そうだな……」
冷蔵庫の中味を確認する。
アレックスの管理は完ぺきだ。ひき肉もある。タマネギもある。牛乳とバターは言わずもがな、冷凍庫にはちゃんとミックスベジタブルも入っていた。
「久しぶりに焼くか、ミートパイ」
「うん。パイシートあるけど、使う? それともつくる?」
「……作る」
「はーい」
シエンはいそいそとボウルと小麦粉をとりだし、準備を始めた。
いい子だ。
胸の奥が熱い。
本当に……優しい子だ。
※ ※ ※ ※
家に帰るとソファの上に、黒い肩掛けが置き去りにされていた。まるで抜け殻みたいに。
キッチンからはパイの焼ける香りがして、ちょこまかと双子が出入りしている。
そして、ディフが。
焼き上がったパイを大皿に乗せて運んできた。きっちりと髪を一つに結わえて、見慣れたグリーンのストライプのエプロンを身につけて。
俺に気づくとパイをテーブルに置き、足早に近づいて。
自分からキスしてきた。
「……ただ今」
「お帰り」
※ ※ ※ ※
その夜のこと。
浴室から出てくると、彼は背を向けて髪をかきあげ、静かにバスローブを脱いだ。目を伏せて、わずかに恥じらいながら。
思わず息を飲んだ。
ローブの下、彼は何も身につけてはいなかったのだ……左手の指輪以外は。
「カバーアップしたから、元の絵柄より一回り大きくなっちまった」
肩甲骨を覆い、背にかかるように柔らかな翼を広げたライオンが描かれていた。
髪の色に合わせて、翼の付け根から先端にかけて明るめの黄褐色から赤褐色へとグラデーションがかかっている。
カバーアップ。旧い絵柄の上から別の絵を入れ、タトゥーを消す方法の一つだ。
刻印された文字は前より濃く、強い絵でなければ消せない。
「君が……選んだことなら」
ディフは肩越しに振り向いて、囁いてきた。
「見せるのは、お前だけだ」
「……ああ。……とても……綺麗だ」
肩に腕を巻き付けて、正面から抱きついてくる。
ためらった。
ほんの少しだけ。
もうひと月以上、彼と愛を交わしてはいない。一緒のベッドで抱き合い、眠って、キスをして……だが、それだけだ。
唇を重ねる。目を閉じて応えてきた。
何度もキスをした。角度を変えて、くり返し。合間にささやかれる。
「抱いてくれ。もっと……強く」
しっかりと抱きしめて、口づけを深めて行く。もう触れあわせるだけで終わらない。互いの中に舌を差し入れ、絡め合う。
熱くなった彼の体がぴたりとすりよせられ、次第に息が荒くなって行く。
「消してくれ……奴らの手の記憶……レオン……」
声が震えていた。
うっすら開いたまぶたの合間からのぞくヘーゼルの瞳が潤んでいる。ほんの少し、緑の色をにじませて。
「……おいで」
目元にキスをして、ベッドに横たえる。もうこれ以上我慢することはできなかった。
ディフの体のすみずみまで唇と指先で愛でる。初めて抱擁を交わした頃よりもなお丹念に。かすめるだけの愛撫にすら素直に声を上げ、しがみついてくる。
何度か我を忘れそうになった。
ふつふつとわき起こる黒い感情の命ずるまま、無防備に身を委ねる彼を引裂き、むさぼりたい衝動に駆られる。
その度に、背中を見る。
しっとりと汗ばんだ肌がうねり、翼が羽ばたく有り様に目が引きつけられる。
(俺は、奴とは違う)
不意に抱き寄せられ、耳元で囁かれた。
「いいよ……好きなだけ俺を壊せ」
「……できないよ……今日は……ね……」
奥深く彼の体内に押し進み、堅く手を握り合わせたまま動き始める。
乱れ切った息の合間に、何度も名前を呼ばれた。肩に立てられる爪の痛みさえ愛おしい。
「愛して……る……レオン……」
「愛してる。離さない。絶対に‥‥」
わずかに緑を帯びたヘーゼルの瞳が、まっすぐに見つめてくる。
「離すな。俺も、お前を離さない」
ほほ笑み返し、背に回した指先でタトゥーをなぞった。
「ぁ………」
びくっと震えてディフはわずかに背を反らせ、湿った吐息を漏らした。
大丈夫だよ。いずれ慣れるさ……しばらくは見るのがつらいけれど。
それが君の選んだ事なのだから。
「愛してるよ……」
彼の背に彫られたライオンは、翼を広げて護っているようにも……あるいは翼に包まれて安らいでいるようにも見えた。
(ライオンと翼/了)
次へ→【3-15】サムシング・ブルー前編
主治医からもらった名刺を頼りに、チャイナタウンのスタジオを訪れた。既に前日、電話でアポイントメントはとってある。
なめらかな女性の声が答えた
「わかりました。駐車場は裏に。店内に入ったらカウンターの上のベルを鳴らしてください。それでは、明日」
言われた通りに入って行くと、柔らかな中間照明に彩られた店内にはかすかに甘い香りが漂っていた。
どことなく東洋の、それも南の国を思わせるインテリアが多い。過度に異国趣味を強調するでもなく、ロータイプの家具は見る者の目を圧迫しない。
適度に床と椅子の境目があいまいで、植物を編んで作ったらしいラグが敷かれている。さらさらとして心地よい。
何となくオティアの好みに近いものがあるな、と思った。
今回の引っ越しでわかったんだが、あの子は床の上でごろごろするのが好きらしい。
俺の住んでいた部屋はアレックスのコーディネイトのもと、双子が住みやすくなるようにリフォームされた。
居間のソファはロータイプのものに変えられ、ラグも肌触りのよい、安全な材質のものに張り替えられた。素足で上を歩いたり、寝転んだりできるように。
店内に人の気配はなかった。昨夜電話で言われた通り、木のカウンターの上に置かれた金属製のベルを鳴らす。
シャラン……と、まるで月の光が結晶して、夜の空気の中で触れあうような音がした。
奥のカーテンが揺れて、シャム猫が一匹姿を現す。そのすぐ後ろから、ほっそりした東洋系の女性が出てきた。
うりざね顔で面長、切れ長の瞳に細く整えられた眉、つやつやと赤い唇。
スパッツに覆われたふくらはぎに猫がすりより、細長い尻尾を巻き付けた。
この飼い主と猫、とてもよく似ている。
「マクラウドさん?」
「……yes」
「お待ちしてました。店主のミヤコ・ヤシマです」
奥に通される前に靴を脱ぐよう求められる。
どうやら、スタジオ内部は基本的に床に座って生活するスタイルに統一されているようだ。
「もしかして、ジャパニーズ?」
「ええ。よくおわかりになりましたね? 場所柄、チャイニーズと思われる方が多いのに」
「どちらも友人にいるんです。あなたの名前と仕草はどっちかって言うと日本的だなと思って」
「なるほどね……それで、マクラウドさん」
背の低い木のテーブルの向こうから、ミヤコはすっと切れ長の瞳を細めて問いかけるような視線を向けてきた。
「ご存知かと思いますが私の仕事は、人の肌に直接触れることです。プライベートは尊重します。けれど……差し支えない程度でいい。聞かせたくない事は伏せたままでいい」
黙ってうなずく。タトゥーを消したい旨は既に伝えてあったが、それ以上に常ならぬ事情があるのだと察している口ぶりだった。
「できる限りの範囲でいいの。ヴェールを被ったままでかまわない。教えてください。あなたの事を」
「……夫がいる」
さらりと黒髪が揺れた。うなずいたのだ。
「名前を消してほしいんだ。二度と彼の目に触れぬよう」
「見せていただけますか? あちらのつい立ての向こうで」
背中のタトゥーを念入りに調べてから、彼女は言った。
「………これを刻んだ奴は………クレイジーね。さぞ、辛かったでしょう……」
「消せる……か?」
「消してみせる。これは言うなれば私と『彼』との1on1の真剣勝負」
赤いルージュを引いた唇の口角が上がり、艶やかに微笑う。
「負けるものですか」
その時、迷いが消えた。
タトゥーを消しても記憶は消せない、事実も消せない。彼女は信用できる。自分の技に誇りを持った人だ。
委ねてみよう。
※ ※ ※ ※
話し合った結果、施術は週に一回、三回に分けて行われることになった。ミヤコはもっと小分けにすることを勧めてくれたのだが、俺が無理を言って短縮した。
最後の施術の後はさすがに体がしんどくて。家に帰るなりソファに倒れ込み、しばらく動けなかった。
だるい。
背中がじりじりと熱い。
少し……熱が出たか。
茹ですぎたブロッコリーになった気分でぼんやりしていると、ふっと明かりが陰った。
うっすら目を開ける。
「……ディフ」
心配そうな紫の瞳が見下ろしている。いつの間に来たのだろう。全く気づかなかった。
「大丈夫?」
「ああ……もうちょっとだけ……待っててくれ」
ソファに手をついて起きあがる。
アスピリン、飲んどくか。鎮痛剤が効いてくれば、動けるようになるだろう。
立とうとすると、そっと手首を押さえられた。
「治していい? これぐらいなら、俺にもできるから」
「……………………そうだな」
ゆっくりとうなずく。
ここで無理したら、余計にこの子を。レオンを心配させてしまう。意地を張るのは、やめておこう。
「頼むよ、シエン」
「……うん」
ほっとした表情を浮かべると、シエンは手を伸ばしてきた。
背中に触れられても、恐ろしいとは………思わなかった。
不思議なものだ。
医者に手当を受ける時も。ミヤコの施術を受ける時も、どうしても緊張が抜けなかったのにな。
「終わったよ」
「ああ……ありがとう。楽になった」
立ち上がり、くいっと髪の毛を一つにまとめる。キッチンに向かい、壁にかけた自分用のエプロンを手にとった。
「ディフ?」
「長い事さぼっててすまなかったな」
「ううん、料理好きだし。何つくるの?」
いそいそと自分のエプロンを身につけている。
「そうだな……」
冷蔵庫の中味を確認する。
アレックスの管理は完ぺきだ。ひき肉もある。タマネギもある。牛乳とバターは言わずもがな、冷凍庫にはちゃんとミックスベジタブルも入っていた。
「久しぶりに焼くか、ミートパイ」
「うん。パイシートあるけど、使う? それともつくる?」
「……作る」
「はーい」
シエンはいそいそとボウルと小麦粉をとりだし、準備を始めた。
いい子だ。
胸の奥が熱い。
本当に……優しい子だ。
※ ※ ※ ※
家に帰るとソファの上に、黒い肩掛けが置き去りにされていた。まるで抜け殻みたいに。
キッチンからはパイの焼ける香りがして、ちょこまかと双子が出入りしている。
そして、ディフが。
焼き上がったパイを大皿に乗せて運んできた。きっちりと髪を一つに結わえて、見慣れたグリーンのストライプのエプロンを身につけて。
俺に気づくとパイをテーブルに置き、足早に近づいて。
自分からキスしてきた。
「……ただ今」
「お帰り」
※ ※ ※ ※
その夜のこと。
浴室から出てくると、彼は背を向けて髪をかきあげ、静かにバスローブを脱いだ。目を伏せて、わずかに恥じらいながら。
思わず息を飲んだ。
ローブの下、彼は何も身につけてはいなかったのだ……左手の指輪以外は。
「カバーアップしたから、元の絵柄より一回り大きくなっちまった」
肩甲骨を覆い、背にかかるように柔らかな翼を広げたライオンが描かれていた。
髪の色に合わせて、翼の付け根から先端にかけて明るめの黄褐色から赤褐色へとグラデーションがかかっている。
カバーアップ。旧い絵柄の上から別の絵を入れ、タトゥーを消す方法の一つだ。
刻印された文字は前より濃く、強い絵でなければ消せない。
「君が……選んだことなら」
ディフは肩越しに振り向いて、囁いてきた。
「見せるのは、お前だけだ」
「……ああ。……とても……綺麗だ」
肩に腕を巻き付けて、正面から抱きついてくる。
ためらった。
ほんの少しだけ。
もうひと月以上、彼と愛を交わしてはいない。一緒のベッドで抱き合い、眠って、キスをして……だが、それだけだ。
唇を重ねる。目を閉じて応えてきた。
何度もキスをした。角度を変えて、くり返し。合間にささやかれる。
「抱いてくれ。もっと……強く」
しっかりと抱きしめて、口づけを深めて行く。もう触れあわせるだけで終わらない。互いの中に舌を差し入れ、絡め合う。
熱くなった彼の体がぴたりとすりよせられ、次第に息が荒くなって行く。
「消してくれ……奴らの手の記憶……レオン……」
声が震えていた。
うっすら開いたまぶたの合間からのぞくヘーゼルの瞳が潤んでいる。ほんの少し、緑の色をにじませて。
「……おいで」
目元にキスをして、ベッドに横たえる。もうこれ以上我慢することはできなかった。
ディフの体のすみずみまで唇と指先で愛でる。初めて抱擁を交わした頃よりもなお丹念に。かすめるだけの愛撫にすら素直に声を上げ、しがみついてくる。
何度か我を忘れそうになった。
ふつふつとわき起こる黒い感情の命ずるまま、無防備に身を委ねる彼を引裂き、むさぼりたい衝動に駆られる。
その度に、背中を見る。
しっとりと汗ばんだ肌がうねり、翼が羽ばたく有り様に目が引きつけられる。
(俺は、奴とは違う)
不意に抱き寄せられ、耳元で囁かれた。
「いいよ……好きなだけ俺を壊せ」
「……できないよ……今日は……ね……」
奥深く彼の体内に押し進み、堅く手を握り合わせたまま動き始める。
乱れ切った息の合間に、何度も名前を呼ばれた。肩に立てられる爪の痛みさえ愛おしい。
「愛して……る……レオン……」
「愛してる。離さない。絶対に‥‥」
わずかに緑を帯びたヘーゼルの瞳が、まっすぐに見つめてくる。
「離すな。俺も、お前を離さない」
ほほ笑み返し、背に回した指先でタトゥーをなぞった。
「ぁ………」
びくっと震えてディフはわずかに背を反らせ、湿った吐息を漏らした。
大丈夫だよ。いずれ慣れるさ……しばらくは見るのがつらいけれど。
それが君の選んだ事なのだから。
「愛してるよ……」
彼の背に彫られたライオンは、翼を広げて護っているようにも……あるいは翼に包まれて安らいでいるようにも見えた。
(ライオンと翼/了)
次へ→【3-15】サムシング・ブルー前編
▼ 【3-14-12】★★ライオンと翼
オティアとシエン、そして俺自身の引っ越しが終わった翌日。
主治医からもらった名刺を頼りに、チャイナタウンのスタジオを訪れた。既に前日、電話でアポイントメントはとってある。
なめらかな女性の声が答えた
「わかりました。駐車場は裏に。店内に入ったらカウンターの上のベルを鳴らしてください。それでは、明日」
言われた通りに入って行くと、柔らかな中間照明に彩られた店内にはかすかに甘い香りが漂っていた。
どことなく東洋の、それも南の国を思わせるインテリアが多い。過度に異国趣味を強調するでもなく、ロータイプの家具は見る者の目を圧迫しない。
適度に床と椅子の境目があいまいで、植物を編んで作ったらしいラグが敷かれている。さらさらとして心地よい。
何となくオティアの好みに近いものがあるな、と思った。
今回の引っ越しでわかったんだが、あの子は床の上でごろごろするのが好きらしい。
俺の住んでいた部屋はアレックスのコーディネイトのもと、双子が住みやすくなるようにリフォームされた。
居間のソファはロータイプのものに変えられ、ラグも肌触りのよい、安全な材質のものに張り替えられた。素足で上を歩いたり、寝転んだりできるように。
店内に人の気配はなかった。昨夜電話で言われた通り、木のカウンターの上に置かれた金属製のベルを鳴らす。
シャラン……と、まるで月の光が結晶して、夜の空気の中で触れあうような音がした。
奥のカーテンが揺れて、シャム猫が一匹姿を現す。そのすぐ後ろから、ほっそりした東洋系の女性が出てきた。
うりざね顔で面長、切れ長の瞳に細く整えられた眉、つやつやと赤い唇。
スパッツに覆われたふくらはぎに猫がすりより、細長い尻尾を巻き付けた。
この飼い主と猫、とてもよく似ている。
「マクラウドさん?」
「……yes」
「お待ちしてました。店主のミヤコ・ヤシマです」
奥に通される前に靴を脱ぐよう求められる。
どうやら、スタジオ内部は基本的に床に座って生活するスタイルに統一されているようだ。
「もしかして、ジャパニーズ?」
「ええ。よくおわかりになりましたね? 場所柄、チャイニーズと思われる方が多いのに」
「どちらも友人にいるんです。あなたの名前と仕草はどっちかって言うと日本的だなと思って」
「なるほど……それで、マクラウドさん」
背の低い木のテーブルの向こうから、ミヤコはすっと切れ長の瞳を細めて問いかけるような視線を向けてきた。
「ご存知かと思いますが私の仕事は、人の肌に直接触れることです。プライベートは尊重します。けれど……差し支えない程度でいい。聞かせたくない事は伏せたままでいい」
黙ってうなずく。タトゥーを消したい旨は既に伝えてあったが、それ以上に常ならぬ事情があるのだと察している口ぶりだった。
「できる限りの範囲でいいの。ヴェールを被ったままでかまわない。教えてください。あなたの事を」
「……夫がいる」
さらりと黒髪が揺れた。うなずいたのだ。
「名前を消してほしいんだ。二度と彼の目に触れぬよう」
「見せていただけますか? あちらのつい立ての向こうで」
背中のタトゥーを念入りに調べてから、彼女は言った。
「………これを刻んだ奴は………クレイジーね。さぞ、辛かったでしょう……」
「消せる……か?」
「消してみせる。これは言うなれば私と『彼』との1on1の真剣勝負」
赤いルージュを引いた唇の口角が上がり、艶やかに微笑う。
「負けるものですか」
その時、迷いが消えた。
タトゥーを消しても記憶は消せない、事実も消せない。彼女は信用できる。自分の技に誇りを持った人だ。
委ねてみよう。
※ ※ ※ ※
話し合った結果、施術は週に一回、三回に分けて行われることになった。ミヤコはもっと小分けにすることを勧めてくれたのだが、俺が無理を言って短縮した。
最後の施術の後はさすがに体がしんどくて。家に帰るなりソファに倒れ込み、しばらく動けなかった。
だるい。
じりじりと背中が熱い。
少し熱が出たか。
茹ですぎたブロッコリーになった気分でぼんやりしていると、ふっと明かりが陰った。
うっすら目を開ける。
「……ディフ」
心配そうな紫の瞳が見下ろしている。いつの間に来たのだろう。全く気づかなかった。
「大丈夫?」
「ああ……もうちょっとだけ……待っててくれ」
ソファに手をついて起きあがる。
アスピリン、飲んどくか。鎮痛剤が効いてくれば、動けるようになるだろう。
立とうとすると、そっと手首を押さえられた。
「治していい? これぐらいなら、俺にもできるから」
「……………………そうだな」
ゆっくりとうなずく。
ここで無理したら、余計にこの子を。レオンを心配させてしまう。意地を張るのは、やめておこう。
「頼むよ、シエン」
「……うん」
ほっとした表情を浮かべると、シエンは手を伸ばしてきた。
背中に触れられても、恐ろしいとは………思わなかった。
不思議なものだ。
医者に手当を受ける時も。ミヤコの施術を受ける時も、どうしても緊張が抜けなかったのにな。
「終わったよ」
「ああ……ありがとう。楽になった」
立ち上がり、くいっと髪の毛を一つにまとめる。キッチンに向かい、壁にかけた自分用のエプロンを手にとった。
「ディフ?」
「長い事さぼっててすまなかったな」
「ううん、料理好きだし。何つくるの?」
いそいそと自分のエプロンを身につけている。
「そうだな……」
冷蔵庫の中味を確認する。
アレックスの管理は完ぺきだ。ひき肉もある。タマネギもある。牛乳とバターは言わずもがな、冷凍庫にはちゃんとミックスベジタブルも入っていた。
「久しぶりに焼くか、ミートパイ」
「うん。パイシートあるけど、使う? それともつくる?」
「……作る」
「はーい」
シエンはいそいそとボウルと小麦粉をとりだし、準備を始めた。
いい子だ。
胸の奥が熱い。
本当に……優しい子だ。
※ ※ ※ ※
家に帰るとソファの上に、黒い肩掛けが置き去りにされていた。まるで抜け殻みたいに。
キッチンからはパイの焼ける香りがして、ちょこまかと双子が出入りしている。
そして、ディフが。
焼き上がったパイを大皿に乗せて運んできた。きっちりと髪を一つに結わえて、見慣れたグリーンのストライプのエプロンを身につけて。
俺に気づくとパイをテーブルに置き、足早に近づいて。
自分からキスしてきた。
「……ただ今」
「お帰り」
※ ※ ※ ※
その夜のこと。
バスルームから出てくると、彼は背を向けて髪をかきあげ、静かにバスローブを脱いだ。目を伏せて、わずかに恥じらいながら。
思わず息を飲んだ。
「カバーアップしたから、元の絵柄より一回り大きくなっちまった」
肩甲骨を覆い、背にかかるように柔らかな翼を広げたライオンが描かれていた。
髪の色に合わせて、翼の付け根から先端にかけて明るめの黄褐色から赤褐色へとグラデーションがかかっている。
カバーアップ。旧い絵柄の上から別の絵を入れ、タトゥーを消す方法の一つだ。
刻印された文字は前より濃く、強い絵でなければ消せない。
「君が……選んだことなら」
ディフは肩越しに振り向いて、囁いてきた。
「見せるのは、お前だけだ」
「……ああ。……とても……綺麗だ」
肩に腕を巻き付けて、正面から抱きついてくる。
ほんの少しだけためらってから、唇を重ねる。目を閉じて応えてきた。
何度もキスをした。角度を変えて、くり返し。合間にささやかれる。
「抱いてくれ。もっと……強く」
しっかりと抱きしめて、口づけを深めて行く。もう触れあわせるだけで終わらない。
「消してくれ……奴らの手の記憶……レオン……」
声が震えていた。
うっすら開いたまぶたの合間からのぞく瞳が潤んでいる。
「……おいで」
目元にキスをして、ベッドに横たえる。もうこれ以上我慢することはできなかった。
彼の背に彫られたライオンは、翼を広げて護っているようにも……あるいは翼に包まれて安らいでいるようにも見えた。
(ライオンと翼/了)
次へ→【3-15】サムシング・ブルー前編
主治医からもらった名刺を頼りに、チャイナタウンのスタジオを訪れた。既に前日、電話でアポイントメントはとってある。
なめらかな女性の声が答えた
「わかりました。駐車場は裏に。店内に入ったらカウンターの上のベルを鳴らしてください。それでは、明日」
言われた通りに入って行くと、柔らかな中間照明に彩られた店内にはかすかに甘い香りが漂っていた。
どことなく東洋の、それも南の国を思わせるインテリアが多い。過度に異国趣味を強調するでもなく、ロータイプの家具は見る者の目を圧迫しない。
適度に床と椅子の境目があいまいで、植物を編んで作ったらしいラグが敷かれている。さらさらとして心地よい。
何となくオティアの好みに近いものがあるな、と思った。
今回の引っ越しでわかったんだが、あの子は床の上でごろごろするのが好きらしい。
俺の住んでいた部屋はアレックスのコーディネイトのもと、双子が住みやすくなるようにリフォームされた。
居間のソファはロータイプのものに変えられ、ラグも肌触りのよい、安全な材質のものに張り替えられた。素足で上を歩いたり、寝転んだりできるように。
店内に人の気配はなかった。昨夜電話で言われた通り、木のカウンターの上に置かれた金属製のベルを鳴らす。
シャラン……と、まるで月の光が結晶して、夜の空気の中で触れあうような音がした。
奥のカーテンが揺れて、シャム猫が一匹姿を現す。そのすぐ後ろから、ほっそりした東洋系の女性が出てきた。
うりざね顔で面長、切れ長の瞳に細く整えられた眉、つやつやと赤い唇。
スパッツに覆われたふくらはぎに猫がすりより、細長い尻尾を巻き付けた。
この飼い主と猫、とてもよく似ている。
「マクラウドさん?」
「……yes」
「お待ちしてました。店主のミヤコ・ヤシマです」
奥に通される前に靴を脱ぐよう求められる。
どうやら、スタジオ内部は基本的に床に座って生活するスタイルに統一されているようだ。
「もしかして、ジャパニーズ?」
「ええ。よくおわかりになりましたね? 場所柄、チャイニーズと思われる方が多いのに」
「どちらも友人にいるんです。あなたの名前と仕草はどっちかって言うと日本的だなと思って」
「なるほど……それで、マクラウドさん」
背の低い木のテーブルの向こうから、ミヤコはすっと切れ長の瞳を細めて問いかけるような視線を向けてきた。
「ご存知かと思いますが私の仕事は、人の肌に直接触れることです。プライベートは尊重します。けれど……差し支えない程度でいい。聞かせたくない事は伏せたままでいい」
黙ってうなずく。タトゥーを消したい旨は既に伝えてあったが、それ以上に常ならぬ事情があるのだと察している口ぶりだった。
「できる限りの範囲でいいの。ヴェールを被ったままでかまわない。教えてください。あなたの事を」
「……夫がいる」
さらりと黒髪が揺れた。うなずいたのだ。
「名前を消してほしいんだ。二度と彼の目に触れぬよう」
「見せていただけますか? あちらのつい立ての向こうで」
背中のタトゥーを念入りに調べてから、彼女は言った。
「………これを刻んだ奴は………クレイジーね。さぞ、辛かったでしょう……」
「消せる……か?」
「消してみせる。これは言うなれば私と『彼』との1on1の真剣勝負」
赤いルージュを引いた唇の口角が上がり、艶やかに微笑う。
「負けるものですか」
その時、迷いが消えた。
タトゥーを消しても記憶は消せない、事実も消せない。彼女は信用できる。自分の技に誇りを持った人だ。
委ねてみよう。
※ ※ ※ ※
話し合った結果、施術は週に一回、三回に分けて行われることになった。ミヤコはもっと小分けにすることを勧めてくれたのだが、俺が無理を言って短縮した。
最後の施術の後はさすがに体がしんどくて。家に帰るなりソファに倒れ込み、しばらく動けなかった。
だるい。
じりじりと背中が熱い。
少し熱が出たか。
茹ですぎたブロッコリーになった気分でぼんやりしていると、ふっと明かりが陰った。
うっすら目を開ける。
「……ディフ」
心配そうな紫の瞳が見下ろしている。いつの間に来たのだろう。全く気づかなかった。
「大丈夫?」
「ああ……もうちょっとだけ……待っててくれ」
ソファに手をついて起きあがる。
アスピリン、飲んどくか。鎮痛剤が効いてくれば、動けるようになるだろう。
立とうとすると、そっと手首を押さえられた。
「治していい? これぐらいなら、俺にもできるから」
「……………………そうだな」
ゆっくりとうなずく。
ここで無理したら、余計にこの子を。レオンを心配させてしまう。意地を張るのは、やめておこう。
「頼むよ、シエン」
「……うん」
ほっとした表情を浮かべると、シエンは手を伸ばしてきた。
背中に触れられても、恐ろしいとは………思わなかった。
不思議なものだ。
医者に手当を受ける時も。ミヤコの施術を受ける時も、どうしても緊張が抜けなかったのにな。
「終わったよ」
「ああ……ありがとう。楽になった」
立ち上がり、くいっと髪の毛を一つにまとめる。キッチンに向かい、壁にかけた自分用のエプロンを手にとった。
「ディフ?」
「長い事さぼっててすまなかったな」
「ううん、料理好きだし。何つくるの?」
いそいそと自分のエプロンを身につけている。
「そうだな……」
冷蔵庫の中味を確認する。
アレックスの管理は完ぺきだ。ひき肉もある。タマネギもある。牛乳とバターは言わずもがな、冷凍庫にはちゃんとミックスベジタブルも入っていた。
「久しぶりに焼くか、ミートパイ」
「うん。パイシートあるけど、使う? それともつくる?」
「……作る」
「はーい」
シエンはいそいそとボウルと小麦粉をとりだし、準備を始めた。
いい子だ。
胸の奥が熱い。
本当に……優しい子だ。
※ ※ ※ ※
家に帰るとソファの上に、黒い肩掛けが置き去りにされていた。まるで抜け殻みたいに。
キッチンからはパイの焼ける香りがして、ちょこまかと双子が出入りしている。
そして、ディフが。
焼き上がったパイを大皿に乗せて運んできた。きっちりと髪を一つに結わえて、見慣れたグリーンのストライプのエプロンを身につけて。
俺に気づくとパイをテーブルに置き、足早に近づいて。
自分からキスしてきた。
「……ただ今」
「お帰り」
※ ※ ※ ※
その夜のこと。
バスルームから出てくると、彼は背を向けて髪をかきあげ、静かにバスローブを脱いだ。目を伏せて、わずかに恥じらいながら。
思わず息を飲んだ。
「カバーアップしたから、元の絵柄より一回り大きくなっちまった」
肩甲骨を覆い、背にかかるように柔らかな翼を広げたライオンが描かれていた。
髪の色に合わせて、翼の付け根から先端にかけて明るめの黄褐色から赤褐色へとグラデーションがかかっている。
カバーアップ。旧い絵柄の上から別の絵を入れ、タトゥーを消す方法の一つだ。
刻印された文字は前より濃く、強い絵でなければ消せない。
「君が……選んだことなら」
ディフは肩越しに振り向いて、囁いてきた。
「見せるのは、お前だけだ」
「……ああ。……とても……綺麗だ」
肩に腕を巻き付けて、正面から抱きついてくる。
ほんの少しだけためらってから、唇を重ねる。目を閉じて応えてきた。
何度もキスをした。角度を変えて、くり返し。合間にささやかれる。
「抱いてくれ。もっと……強く」
しっかりと抱きしめて、口づけを深めて行く。もう触れあわせるだけで終わらない。
「消してくれ……奴らの手の記憶……レオン……」
声が震えていた。
うっすら開いたまぶたの合間からのぞく瞳が潤んでいる。
「……おいで」
目元にキスをして、ベッドに横たえる。もうこれ以上我慢することはできなかった。
彼の背に彫られたライオンは、翼を広げて護っているようにも……あるいは翼に包まれて安らいでいるようにも見えた。
(ライオンと翼/了)
※エピソード【3-13】+【3-14】の別バージョンが「まどろむダンデライオン〜カリフォルニア警察物語〜【イラスト入り】 (スイート蜜ラブBL文庫)」として電子書籍化されました。
※詳しくは→こちらからどうぞ
次へ→【3-15】サムシング・ブルー前編
▼ ぼくのクマどこ?
- 拍手御礼用短編の再録。
- 8歳のディー坊やをお兄ちゃんから見たお話。この兄弟、子どもの頃はこんなんでした。
俺には弟がいる。名前はディー、年は8歳、3つ下。
ママそっくりのくるくるの赤毛にヘーゼルアイ、鼻と目のまわりにはそばかすが散っていて、いつも犬みたいに後をくっついてくる。
「にーちゃん、あそぼー」
「よし、フリスビーしよう」
「わーい」
「そら、行くぞっ」
力一杯投げたフリスビーを夢中になって追いかけて、木に激突したことがあった。ものすごい音がして、びっくりして駆け寄った。
「大丈夫かっ」
「うん、へーき」
けろっとしてるけど、おでこから血がだらだら流れていた。
「………そうか、平気か。でもいちおう洗っておこうな」
「うん」
「消毒もしような」
「しみる」
「がまんしろ」
こんなことはしょっちゅうある。傷を洗って、消毒して、絆創膏をぺたっとはった。
「にーちゃん、ありがとー」
「どういたしまして」
家族はみんな慣れっこだ。俺も、父さんも、母さんも。週末ごとに遊びに行く伯父さんの家でも。
洗面所にはいつも、ディー専用の絆創膏が徳用箱でキープしてある。
このごろは本人も覚えてきて、ちょっと切った程度では自分でさっさと手当するようになってきた。
ちょっとさみしい。前はケガするたびに俺のとこに飛んできてたのにな。
これだけ丈夫な弟だけど、一つだけ変わったクセがある。
寝る時は必ず、クマのぬいぐるみと一緒じゃないとダメなんだ。
茶色のふかふかしたクマ。目は黒いボタン。ディーが生まれた時におじいちゃんが買ってきた、古いぬいぐるみ。ちっちゃい頃からこいつがぶんぶん振り回したり、投げ飛ばしたおかげで耳がかたっぽとれている。
それだけワイルドに扱ってるくせに、寝る時だけは別。
いつも大事そうに抱えてベッドに入る。
これ、隠したらどうなるんだろうな………。
※ ※ ※ ※
部屋で本を読んでいたら、ばたばたとディーが駆け込んできた。
「にーちゃん!」
「どうした、ディー」
「ぼくのクマがいないんだ。どっかいっちゃったんだ」
ものすごく真剣な顔をしてる。笑い出したいのをこらえて、真面目な顔で答えた。
「そうか、大変だな」
「そうさくねがいってどうやって出すの?」
難しい言葉がさらっと出るのは、パパが警察官だからだ。
「捜索願いは出せないけど、捜索隊はつくれるぞ」
「どうすればいいの? おしえてよっ」
シャツのすそをぎゅっとにぎって見上げてくる。ぱたん、と本を閉じて立ち上がった。
「よし、では捜索隊を結成するぞ! 隊長は俺、隊員はお前」
「えー。ぼくも隊長がいいー」
不満そうだ。口をへの字に曲げて、頬をふくらませてる。
「こういうのは年上がなるんだぞ。パパがいたらパパが隊長だな」
「……わかった、にーちゃん隊長OK。ぼく隊員」
こくこくうなずいた。ほんと、素直なやつだ。
「よし、それじゃ、捜索隊出発だ」
「おー!」
二人で家中、クマを捜索した。
地下室、パントリー、客用寝室、パパの書斎、ランドリールーム、屋根裏の物置。
いつもは開けちゃいけませんって言われてる扉の中にもディーはもぐりこみ、夢中になって中身を引っぱり出している。
「たいちょー、ここにもいませんっ」
「あわてるな。こう言う時は……現場に戻ろう」
「はいっ」
そして、ディーの部屋に戻る。
「こんなに、さがしてもいない……クマ……どこいっちゃったんだよぉ……」
ぐしぐしと鼻をすすって、半分べそをかきながら探してる。ディーがベッドの下にもぐりこんでる隙に、こっそりとクローゼットの中にクマを置いた。
わざと半分、はみ出すようにして。
もそもそとベッドの下から這い出してクローゼットの方を見るなりディーはぱあっと目を輝かせた。
「あ、いた!」
「やった、クマ救出だな!」
「きゅうしゅつかんりょー」
ぎゅっと両手でクマをかかえて、ディーはうれしそうに笑った。顔いっぱいに、ヒマワリが咲いたみたいな笑顔で。それから、クマをかかえたまましがみついてきた。
「にーちゃんありがとー」
すごくあったかい。子犬みたいだ。ああ、頼られてるんだなって気持ちで胸がいっぱいになる。
「よーし、ジュースで乾杯だー」
「おー!」
キッチンに行って、リンゴジュースで乾杯していると、ママが入ってきた。
「ジョニー。ディー。ちょっといらっしゃい」
二人してごちゃごちゃになった客間に連れて行かれて、きっちり怒られた。
しょんぼりしていると、ディーがママのエプロンをつかんで言った。
「にーちゃんは悪くない、ぼくのクマさがしてくれたんだから、おねがい、にーちゃんはしからないで!」
ママはじっと俺の顔を見て、それからディーの顔を見て。しばらく考えてからディーの頭をなでた。
「そう……わかったわ。あなたは部屋に戻ってなさい」
「……うん」
ディーは何度も俺の方を振り返りながら部屋に戻っていった。しっかりとクマを抱えて。
「さて、と」
ぱたん、とドアを閉めるとママはかがみ込み、まっすぐに俺の目を見つめてきた。
「クマが一人で歩く訳ないでしょう? 本当のこと言いなさい。何があったの?」
「う……」
思わず目をそらしたけれど、逃げられない。すきとおったヘーゼルアイが追いかけてくる。
「ジョナサン。ママの目を見て」
「………ごめんなさい」
※ ※ ※ ※
あんなに大事にしていたクマなのに、高校に進学して家を出るとき、ディーのやつは家に置いていった。
もう自立するんだから、クマから卒業するんだ、と言って。
あいつの置いていったクマはその後、俺の妻の手で修理されて。
ギンガムチェックの耳をつけ、今では娘のナンシーの大事なお守り役になっている。
それでも不思議なもので、時々、遠く離れたサンフランシスコでディーがこいつを探してるような気がするんだ。
「ぼくのクマどこ?」……って、ね。
※月梨さん画「にーちゃんと弟」
(ぼくのクマどこ?/了)