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ローゼンベルク家の食卓

【5-2】お前はレオン、俺はディフ

2011/06/13 2:24 五話十海
  • 95年10月の出来事。ディフォレスト・マクラウドはルームメイトに部屋を追い出されてしまう。
  • 他に行く当てもなく、転がり込むほど親しい友達もまだいない。困り果てて寮長に相談すると……「二人部屋を一人で使ってる二年生がいるにはいるんだ。でも気難しい子でね」
  • レオンとディフ、後に相思相愛になる二人のある意味最悪な出会い。
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【5-2-0】登場人物

2011/06/13 2:25 五話十海
 
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【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】 
 通称マックス、家族からはディーと呼ばれていた。
 聖アーシェラ高校一年、テキサス出身。
 父親の七光りから自立すべく、サンフランシスコの高校を選んだ。
 ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、鼻と頬の周辺にそばかす。
 裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
 後に生涯の伴侶となるレオンとは、まだ出会っていない。
 
 
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【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】 
 聖アーシェラ高校二年。ロスの実家を離れて学生寮で暮らしている。
 ライトブラウンの髪と瞳、ほっそりと華奢な体格、整った顔立ち。
 人との接触を好まず滅多に笑わない。
 その冴えた美貌と遺伝子レベルで組み込まれた高貴さ故に秘かに「姫」と呼ばれている。
 寮の二人部屋を一人で使っている。
 後に最愛の人となるディフの存在などこの時はまだ知る由もない。
 
  
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【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
 サンフランシスコ出身、聖アーシェラ高校一年。
 さらさらの黒髪にくりっとしたアンバーアイ、細身で愛らしい子リスのような美少年。
 五才の歳に両親と死に別れ、里親の元で育てられている。
 その愛くるしい外見と人当たりの良さ故に上級生に人気がある。
 カニが怖い。最近、テキサスから来た同級生と親しくなってきた。
  

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【結城羊子/ゆうき ようこ】
 日本出身の留学生、聖アーシェラ高校一年。
 通称ヨーコ。
 小柄でほっそりぺったん、ほとんど小学生と言っても通りそうな外見だが、れっきとした高校生。
 強気で勝ち気で歯に衣着せぬ男前女子。
 後に生涯の友となる友人達とはまだ顔見知り程度。

【マイケル・フレイザー/Michael-Frazer】
 聖アーシェラ高校三年、ガブリエル寮の寮長。
 穏やかで公平、人望もある信頼できる先輩。
 ちょっぴり天然。
 実家では犬を飼っている。

【エドワーズ巡査】
 サンフランシスコ市警察の制服警官。
 
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【5-2-1】ハロウィンにはまだ早い

2011/06/13 2:28 五話十海
 
 サンフランシスコはやたらと坂が多い。どこまでも真っ平らなテキサスとは、大違いだ。ものすごい急傾斜で、海に向かってほぼ一直線につながっている。まるですべり台みたいに。下りのケーブルカーに乗ってるとつい考えてしまうんだ。
 俺が乗ってるのは実はジェットコースターで。いきなり加速して、このまんま海に突っ込むんじゃないかって。

 10月になって、だいぶ学校にも馴染んできた。ルームメイトとはそこそこ上手くやってるし、クラスの連中の名前と顏もだいたい覚えた。一緒にランチを食ったり休み時間に他愛の無いおしゃべりをしたり、放課後ツルんで出かける友達もできた。
 クラブで一緒になる上級生もみんな親切にしてくれる。
 だが、人が大勢いればそれだけ個性も千差万別。学校の生徒が全部が全部、一人も残らず『いい奴』だ、とは限らない。

「ランチ、何食う?」
「そーだな、チーズバーガーかホットドッグ。ミートパイあったらそっちもいいな」
「お前の選択肢はそれしかないのか!」
「チリ一辺倒のお前よかマシだろ」
 
 同じクラスの男子数人と連れ立ってカフェテリアに向かう途中、廊下がやけに騒がしかった。歴史が長いだけあって、聖アーシェラ高校の校舎は新旧様々な年代の建築様式が入り交じり、ちょっとしたアメリカ建築の博物館みたいになっている。
 中でもカフェテリアに通じる一角は新しく、窓の大きなやたらと開放的な作りは学校って言うよりまるでリゾート施設だ。雨がほとんど降らないカリフォルニアだからできる事なんだろうな。(でも霧の深い日はどうするんだろう?)

 芝生に面した一階の通路は、アーチ型の柱があるだけで壁はほとんど素通し。時間帯からして混雑するのはいつものことなんだが、微妙に空気が違う。見ると女の子が三人、やたらマッチョな野郎どもに囲まれている。
 一人は浅黒い肌のインド系、もう一人はブルネット、そして三人目は眼鏡をかけた東洋系の子。人種も顔立ちも違うがいずれもけっこう可愛らしい。中でも一番小さな眼鏡の子が他の二人を背後にかばい、きっと男どもをにらみ付けていた。

「つまり、あれか。あなた方の認識ではヤれる女とヤれない女の二択しかない、と。下半身基準でしか考えられないの? そのご立派な頭蓋骨はがらんどう? 髪の毛を乗っけるためのお飾り?」
「なっ、何だと、このっ」

 たじろいだ上級生の口からは、聞くに耐えない差別的な罵声が飛び出した。思わず口元が引きつり、はらわたがよじれる。それは、俺の国籍や外見、性別とは関わりのない言葉だった。だが、よりによって俺の目の前で、女の子に向けて吐かれたってことが我慢できない。
 相手が年上だろうが、複数だろうが関係ない。今すぐその口ふさいでやる!
 かっと腹の底が熱くなり、無意識に拳を握っていた。

「おい、マックス」
「落ち着けよ」
「あ……ああ」

 だが、当の眼鏡っ子はほんの少し眉をはね上げただけだった。

「ああ、そうだ。私は日本人だ。そのことに誇りと自覚を持っている。だが貴様らは何だ? アメリカ市民か? 笑わせるな」

 あの子、見覚えがある。長い黒髪はさらさらとしてまっすぐ、小柄ながらもびしっと背筋が伸びていて、小学生と見まごうようなつるんとしたスレンダーな体つき。だが中味は鉄骨。
 ヨーコだ。同じクラスの、日本からの留学生。

「お前たちにはもはや、民主主義の恩恵に預かる資格などない。今の言葉で自ら放棄したのだからな!」

 くい、と片手で眼鏡の位置を整えると、ヨーコはびしっと人さし指を突きつけた。ほんの今し方、自分を聞くに耐えない言葉で罵った上級生を。

「己の先祖に今すぐ詫びてこい!」
「このっ、ジャパニーズ・ビッチがっ」

 先頭のひときわ体格のいい男子生徒が手を振り上げる。何て奴だ、女の子を殴るつもりだ!

「あ、おい、マックス!」

 制止の声を背後に聞きながら、飛び出していた。距離があったが、足には自信がある。

「おい」

 どうにか振り上げた手首を掴むのに間に合った。きっちりグーに握ってやがる! 最低だなこいつ。

「やめろよ」

 かろうじて上級生への敬意を払い、いきなり殴りつけるのは自粛した。しかし相手は俺を見て、あからさまに馬鹿にした口調で言い返してきた。

「引っ込んでな、カントリーボーイ!」
「おっ?」

 ぶんっと勢い良く振り払われたが、離すつもりはなかった。したたかバランスを崩し、つかんだ手を支点にぐるっと体が半回転。目の前にガラスが迫る。開放的な校舎にふさわしく、やたらと大きなガラス窓。やばい、このままだと突っ込む!とっさに左腕で顏をかばう。

 ガッシャーン!

 穏やかで平和な日常が、木っ端みじんに打ち砕かれる音がした。その瞬間、理性とか躾けとか常識とか。自分を押さえつけていたいろんな鎖が一気にぶちっと切れる。
 目の前が赤く霞む。
 手首を放して、拳を握り、上級生の頬に叩き込むまでの自分の動きが、妙にゆっくりと。水飴の中でも泳ぐように感じられた。

「うわぁっ」

 腕を振り切った瞬間、いきなり時間の流れが元に戻る。
 それほど力を入れた覚えもないのに、相手の上級生は廊下にひっくり返っていた。
 のしのしと近づき、にらみ付けた。
 腫れ上がった頬を押さえると、マッチョな上級生はじたばたしながら起き上がった。
 まだやるか? 身構えると、ずざざっと後じさりして……一目散に逃げてった。
 お約束の捨てぜりふも無し。一斉に手下連中も後に続く。ある意味、潔い。

 ふうっと肩の力を抜く。足下にガラスの破片が散らばっていた。ああ、そうか。これに関わるのが嫌で逃げたんだな、あいつら。
 ぼんやりとそんな事を考えていたら、友達の一人が声をかけてきた。
 ストレートの黒髪に、リスか子鹿みたいなくりくりっとした琥珀色の瞳のきゃしゃな奴。名前はヒウェル、好物はチョコレート。シスコ生まれのシスコ育ち、だけど祖先はウェールズ人。

「なあ、マックス」
「ん?」
「お前、腕、平気なのか?」
「あ」
 
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 illustrated by Kasuri

 左腕がシャツもろとも一直線に裂けて、傷口からぼたぼたと血が滴っていた。
 器物損壊に傷害かぁ。そりゃ逃げもするよな、面倒だものな。あ、でも俺も殴っちゃったしなあ。過剰防衛になったりしないだろうか……いや、そうじゃなくて。
 まずは傷口をどうにかしないと。

「……そう言えば、ちょっと痛いような」
「いいから血、止めような」
「こう言う時って押さえるんだっけ、縛るんだっけ」
「それ以前に、布かなんか当てた方がいいと思うぞ」
「お前、ハンカチ持ってる?」

 ヒウェルは黙って首を横に振った。他の連中も顏を見合わせ、やっぱり首を横に振る。
 だよなあ。そんな気の利いたもの持ってるような柄じゃないよな、お互いに。
 
「とりあえず、あれだ、腕上げとけ、心臓より高く!」
「こうか?」

 滴る血が肩口まで流れてきて、慌てて下げた。

「おい何やってんだよ!」
「だってシャツ汚しちまうし」
「それ以上気にするような状態かーっ」

 野郎二人、右往左往していると。さっき助けた女の子のうち一人がつかつかと近寄ってきた。

「見せなさい」

 ヨーコだ。やっぱ女子だよな、ハンカチ持ってるのか? 言われるまま、素直に左手を差し出すと、彼女はまず、傷口をじっくりと観察し、小さくうなずいて。それからハンカチを取り出してあてがい、ぎゅっと押さえた。
 皮膚が引きつれ、一瞬、衝撃が走る。

「うげっ」
「我慢なさい。大丈夫、動脈も切れてないし、命に関わるような怪我じゃないわ」
「そうなのか?」

 眼鏡越しに、濃い褐色の瞳が見つめてきた。心の奥底まで見通すような不思議な瞳だった。

「そうよ」
「…………そうか」

 彼女の声を聞くうちに、ずきずきと熱く疼いていた傷口がすうっと楽になる。まるで波が引くように、痛みも衝撃も薄れて行く。
 その時になってようやく、先生が走ってくるのが見えた。

   ※
 
 ドクターの手当てを受ける間、ヒウェルはずーっと腕組みして何やら考え込んでいた。
 そして医務室を出るなり、一気にまくしたてたのだった。

「絶対、おかしい。有り得ない」
「何がだ?」
「おまえの傷、もっと深く切れてた」
「そうなのか?」
「ああ。動脈イってたね、あれは。さもなきゃあそこまで派手に血は出ない!」
「やけに自信たっぷりだな」
「観察力には自信がある」

 くいっとヒウェルは眼鏡の位置を整えた。

「あの女が何かしたんだよ。でなきゃ、いきなり軽傷になってる説明がつかない」
「単にヨーコの応急処置が適切だっただけだろ」
「いーや! そんな生易しいものじゃないね。あいつは……」

 ごくっと咽を鳴らしてヒウェルは周囲をうかがい、声を潜めた。

「きっと、魔女なんだ」
「は? 魔女?」

 一瞬、頭の中にヨーコが黒服にとんがり帽子を被ってホウキにまたがってる図が浮かぶ。

「ハロウィンにはまだ早いぞ?」
「いーや、俺は真剣だ! あの女が黒猫と話していても不思議はないね」

 何故にそこまで言い切るのかこいつは。しかも自信たっぷりに。じと目でにらみつけ、ざっくりすっぱり言ってやった。

「お前、阿呆だろ」


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【5-2-2】鍋のフタが落ちる

2011/06/13 2:28 五話十海
 
 放課後はクラブには出ず、まっすぐに寮に戻った。アイスホッケーのスティックは片手じゃ上手く握れないし、激しい動きで傷口が開いちゃ困る。とは言え、体がなまるし、せめてランニングか柔軟だけでもしようとしたらコーチに止められた。

「傷口に響くだろう。手を使わなければいいって問題じゃない! かなり出血したそうじゃないか。今日は大人しく部屋に帰れ」

 ランチタイムの一件は、既にコーチの耳に入っていたらしい。別にふらっともゆらっともしないのだけれど、素直に休むことにした。

 部屋に戻ってみると、簡易キッチンの方角からしなびたチーズみたいなにおいが漂ってきた。
 鍋がコンロの上に置きっぱなしになっている。テキサスの実家から持ってきた、分厚い鋳物にほうろう引きの、オレンジ色の鍋。フタを開けると、内側に乾いた牛乳が白くこびりついていた。朝、牛乳をあっためた時に使って時間が無かったもんだから、そのまま置きっぱなしにして学校に行っちまった。

 洗わないと。せめてシンクに浸して、このぱりぱりをどうにかしなきゃ。
 いつものように両手で鍋を持ち上げようとしたら、ずっくんっと。包帯で覆われた傷に沿って、鈍い痛みが走る。かくっと勝手に左手の指がゆるみ、手首が下がる。取り落とした鍋がコンロの金具を叩き、ガシャン、と鋭い金属音を立てた。
 何てこった、思うように力が入らない!
 
 傷口に『響く』って、こう言う意味だったんだ。
 今更ながらコーチの言葉に納得する。怪我がもう少し落ち着くまでは、無理に重たい物を持たない方がよさそうだ。
 鍋とか。鍋とか。

「むむ」

 包帯の下の疼きはまだ収まらない。うっかり刺激したせいか、妙にじりじりと熱っぽくなってきた。ドクターから処方された痛み止めを飲んで、ごろんとベッドにひっくり返る。とりあえず一眠りして、傷が落ち着くのを待とう。鍋を洗うのは明日でいいや。ルームメイトのトムはほとんどキッチンは使わないんだし。
 眠って、起きたらちょっとはよくなってると、いいな……。
 
   ※
 
 トム・スタンリーが部屋に戻ってくると、ルームメイトがすやすやと眠っていた。上半身はランニングシャツ一枚で布団も被らず、あおむけでころんとベッドの上にひっくり返って。
 熱くて無意識に脱いだのだろうか、すぐそばにくしゃくしゃになったシャツが丸まっている。どこで怪我したのやら、左手に包帯が巻き付けられていた。

「だーっ、何っつー格好で寝てるかな」

 無造作にベッドに近づき、のぞきこんでふと硬直した。白い肌が汗ばみ、うっすらと紅が注している。肩も、腕も、首も剥き出し。しかも着てるランニングシャツがよりによって濃い青で、余計に肌の白さが際立つ。

「う」

 緩んだシャツのすき間からちらっと、胸が見えている。わずかに盛り上がり、ほんのりと色が濃くなった乳首までも。
 思わずこくっと咽が鳴った。
 男だとわかっているのに、何故、こうも艶めかしいのか。ここは確かにサンフランシスコだ、だけど俺はゲイなんかじゃない。なのにどうして、目が離せないんだ。こんなにドキドキするんだ。
 こいつに、触りたいとか思っちまうんだ!

「ん?」

 ぱちっと目が開いた。うっすら緑の混じったヘーゼルブラウンが見上げてくる。とろりとして眠たげで、ほんの少し潤んでいた。

「っ!」

 慌てて後ずさりして距離を取る。

「あれ……トム、帰ってたのか」
「あー、うん」

 危ない。危ない。何事もなかった振りをしてキッチンに向かう。気付かれただろうか。じっと見ていたこと……見とれていたことに。とにかく当たり障りのないことを話そう。あいつが服を着るまでの間、目をそらすんだ!

「どーしたんだ、その、左手」
「あー、窓に突っ込んで、ガラスで切った」
「うわ、そりゃ痛いだろ!」
「うん、だから痛み止め飲んだら眠くなった」
「そーかそーか。あ、シャツ着ておけよ、風邪引くからな」
「そーだな」

 ごそごそと服を着る気配がした。やれやれ……どうやら危険物は封印されたようだ。安心したら腹が減ってきた。何か食おう。
 確か、買い置きのスープヌードル(日本で言う所のカップラーメン)がまだあったはずだ。お湯を沸かそうとしたら、一つしかないコンロの上に鍋がでんっと乗っている。

「なーマックス。これどかしていいか?」
「ああ、うん、いいよ?」

 ころっと可愛いオレンジ色の鍋。いつもこいつが軽々と動かしていた。何気なくひょいと片手で持ち上げようとしたが。

「うっ」

 カボチャ色の鍋は、見た目に反してずっしりと重かった。かろうじて手は離さなかったものの、支え切れずにぐらっと傾く。
 じょり、ぞり、ぞりぃん……
 金属のこすれる不吉な音とともに、悪い夢でも見てるみたいにゆっくりとフタがスライドし、傾き、落ちる。
 鍋の本体に負けず劣らず重たい鉄のフタが、避ける間もなく足の指を直撃した。

「いってぇえええ!」
「大丈夫かっ!」

 駆け寄ってきた。よりによって、半端にシャツを羽織ったままで。片方の肩がずり落ちた状態で。

「わああ、寄るな、触るなあっ」

 両手を振って防御すると、赤毛のルームメイトは眉をきゅうっと寄せ、叱られた犬みたいな顏をした。
 きゅんっと胸が締めつけられる。足の痛みを一瞬忘れるほど甘く、強く。
 やばい。
 抱きしめたい。

「もう、限界だ………」
「ど、どうしたんだ、トム。そんなに痛いのか、足? ごめんなっ」
「もう、我慢できない」

 よせ、そんな目で見るな! ああ、もう、これ以上こいつと一緒に居たら、俺は本気でおかしくなっちまう。
 びしっと人さし指をつきつけ、叫んでいた。

「鍋を捨てるか、部屋を出るかどっちかにしろ!」

 しゅんと肩を落とすと、マックスはフタを拾い上げ、鍋を両手で抱えこんだ。左手の傷が辛そうだ。ちょっぴり後悔したが、もう言ってしまった言葉は取り返せない。

「……わかった。部屋、出る」
 
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【5-2-3】マイク先輩にお願い!

2011/06/13 2:29 五話十海
 
 寮の部屋を追い出された。
 正確には、引っ越し先が決まり次第出て行くことになった。
 この部屋に入って一ヶ月とちょっと、まだあまり荷物をほどいていないのは不幸中の幸いだったのかな。
 とにかく、部屋を出ると決めたその日から、本や着替えを箱に詰め直す作業を始めた。真っ先にしまったのは、オレンジ色の鍋だった。俺が生まれる前からお袋が大事にしてきた鍋だ。捨てるなんて、とんでもない!
 部屋を出るか、鍋を捨てるか。トムに問い詰められ、迷わず答えた。
 部屋を出る、って。
 だけど最大の問題は……引っ越し先のあてがまったくないって事なんだよなぁ。
 寮の他の部屋に移れるかどうか。それ以前に、寮の部屋が空いてるかどうか、だ。とにかく、寮長のマイケル・フレイザーに相談することにした。

「うーん、それは困ったね……」

 部屋を訪ねて事情を説明すると、マイク先輩はくいっと人さし指で眼鏡の位置を整えて、こつこつと人さし指でこめかみを叩いた。
 寮長って言うと、ものすごく頭の堅い真面目な生徒だってイメージがあったんだけど。このマイク先輩はちょっと違っていた。いつも穏やかな目をしていて、滅多に怒ったり声を荒げたりしない。着てるものも、きちっと完ぺき! からちょっと崩れてる。と、言うか微妙にずれている。
 くたんとしたポロシャツとか、洗い過ぎてけっこう色の抜けたジーンズとか。入寮の時の挨拶の時は、靴じゃなくてサンダルを履いていた。たまたま、その時だけかと思ったんだけど……未だに、靴を履いてるのを見たことがない。
 噂では体育の時間以外はいつもサンダル履きらしい。
 現に今も、サンダル。見るたびに微妙に色と形が違ってるから、何足も持ってるらしい。

「あいにくと、寮の部屋には今、空きがなくってね。その、どうにかトムを説得できないかな」
「それが、トムの奴ものすごく怒ってて。あれ以来、口きいてくれないんですっ」
「おやおや」
「俺が部屋に居ると、目も合わせようとしないし」
「うーん、それは深刻だねえ」

「俺、俺、サンフランシスコには親戚もいないんです。親父は寮に入るから、州外の学校に行くことを認めてくれたんだ。アパートを借りたい、なんて言ったら即刻連れ戻されちまう!」

「厳しいお父さんだね」
「頑固親父です」
「大概、こう言う時は友達の所に転がり込むのが定番なんだけど。まだ十月じゃあ、そこまで親しくなってないだろうしね」
「……です」

 がっくりと肩を落とす。
 このままじゃ、まとめた荷物は、新しい部屋じゃなくてテキサスに送り返す羽目になりそうだ。

(それでいいのか、ディフォレスト?)

「お願いします、先輩! 俺、この学校辞めたくない。テキサスに尻尾巻いて帰るのは嫌なんだ!」

(いやだ。絶対、諦めるもんか!) 

「物置の隅っこでもいい。いざとなったら、寝袋で寝るから!」
「いや、そこまでしなくても。そろそろ寒くなる頃だし」
「大丈夫、全シーズン対応のアウトドア用の寝袋です」
「……うん、君がすごく必死なのはわかったよ、マックス」

 ぽん、ぽん、と肩を叩かれた。

「実はね。空き部屋はないけれど、今、二人部屋を一人で使ってる二年生がいるんだ」
「ほんとですかっ、先輩!」
 
 上級生と同室か。ちょっと窮屈だけど、今はそんなこと言ってる場合じゃない。
 この街に居られるってだけで御の字だ。万万歳だ!

「ただ、ちょっと神経質って言うか、気難しい子でね。あまり人付き合いは、得意じゃないらしい」

 気難しくて、神経質で、人付き合いの苦手な上級生。だから、最初は言わなかったのかな。

「君を入れてくれるかどうか、説得してみるよ」
「はいっ!」

 希望の光が見えた。
 寮を出なくて済む。サンフランシスコに居られる! まだ決まったわけじゃないけど、それだけでもう、胸がいっぱいになる。

「ありがとうございますっ、先輩っ!」
 
   ※

 赤毛の一年生が帰った後、マイケル・フレイザーは長い間考え込んでいた。
 マックスとトムの仲たがいは相当に深刻だ。これ以上、あの二人を一緒の部屋に置いておくのは良くない。
 マックスの抱える、のっぴきならない事情もよく分かった。この学校に居たい、辞めたくない。必死で訴えてくるヘーゼルの瞳はうっすらと緑を帯び、真剣そのものだった。
 何としても応えてやりたい。
 他の部屋の誰かしらとの交換も考えた。しかし、空いてる部屋に新たに人を入れるのと、既に落ち着いている部屋から人を移動させるのとではハードルの高さがまるで違う。動かす人数は少なければ少ない方が望ましいのだ。
 増して新学期が始まってから一ヶ月、ちょうどどの寮生も移動先で落ち着いてる頃だ。また動けと言われて、いい顏はしないだろう。

「やはり、彼に頼むしかない、か」

 意を決してマイクは廊下に出た。

 四階建ての聖ガブリエル寮の三階、突き当たりの角の部屋。ノックをすると細く扉が開いて、整った顔立ちの少年が顏を出した。
 さらさらと絹のように艶やかな明るい褐色の髪、日に透かした紅茶色の瞳は切れ長で、すうっと通った鼻筋、尖った顎に形の良い唇はさながら陶器の人形のよう。手足のすらりと伸びた華奢な体つき、だがひ弱さはない。
 優しげな色とは裏腹に瞳はあくまで冷たく透き通り、見る者をすくませる鋭さを秘めている。さながら氷柱のように。
 聖アーシェラ高校二年生、レオンハルト・ローゼンベルク。その美貌と気高さ故に、校内では秘かに『姫』と呼ばれている。この部屋の唯一の住人だ。

「やあ、レオンハルト」
「……何かご用ですか?」

 口調は丁寧だが、並の人間なら一発で回れ右して逃げたくなるだろう。かくも冷たき視線と声で迎えられれば。だがマイクは諦めなかった。穏やかな声で会話を続ける。

「実は君の部屋に」
「お断りします」
「……まだ何も言ってないよ」
「そうでしたね」

 レオンハルトはわずかに目を細めた。

「では、改めてお聞きしましょう。どうぞ」

 言外にその冷ややかな双眸が語っていた。
 聞いたところで結果は変わらないが、一応、話してみろと。

(やれやれ、相変わらずだな……)

 だが、こっちも引き下がる訳には行かない。一人の前途ある少年の。ディフォレスト・マクラウドの将来がかかってるんだから。 

「ルームメイトとそりが合わなくて、部屋を追い出された一年生が居てね。他に行くあてがないんだ。親戚もいないし、アパートを借りるのは親が許可してくれない。このままでは、学校を辞めて家に帰らなければいけないそうなんだ」
「俺には関係ないでしょう」
「路頭に迷うかどうかの瀬戸際なんだ。頼むよ、レオンハルト、君の部屋に彼を入れてやってくれないか?」
「お断りします」

 やはり答えは同じ。だが想定内だ。

「この季節だ、ぼちぼち退寮者が出る頃合いだ」
「それがいないから、わざわざ俺の所に来たのでしょう?」
「それは……その……確かにその通りなんだけど……困ったな」

 マイクは眉尻を下げて声を落とした。事実、自分でも言うように『困っている』のだろう。かろうじて笑顔を維持してはいるが。
 レオンハルト・ローゼンベルクは考えた。
 入寮して以来、マイク先輩には世話になっている。
 集団生活に付きものの煩わしいトラブルに悩まされずに済んでいるのは、少なからず彼の差配による所が大きい。
 だが。
 ただでさえ薄い壁一つ隔てた隣の住人の声や物音が煩わしくて、いらいらしているのだ。他の人間と同じ部屋で生活するなんて、考えたくもない。

「あくまで、一時的な処置だよ」
「具体的には、どれぐらいの期間ですか?」
「早ければ一週間ぐらいで空きが出る。そうしたら、マクラウドを君の部屋から移すから」

 一週間か……。
 いっそ人間だと思わなければいいのか? 動くインテリアだとでも。一週間程度なら、それでどうにか我慢できるはずだ。
 耐えられないほどの酷い相手だったら、出て行ってもらおう。先輩が何と言っても。いざとなったら、自分がホテルに移ればいい。

「…………仕方ありませんね。寮長にはお世話になってますし」
「ありがとう、恩に着るよ!」
「あくまで、一時預かりですよ?」
「ああ。充分だ。一年生の名前はディフォレスト・マクラウド、テキサス出身だ。素直でいい子だよ」
「そうですか。では」

 バタン。
 マイケル・フレイザーの鼻先でドアが閉められた。
 これにて謁見終了。

「うん、まあ、必要なことは話せたし……ね」

 くしゃくしゃっと髪の毛をかき回すと、マイクはめげずにドアの向こうに声をかけた。

「それじゃ、よろしく頼んだよ、レオンハルト!」
 
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【5-2-4】街角にて

2011/06/13 2:31 五話十海
 
 リーン……ゴーン……
 スピーカーから鐘の音が響く。授業終了の合図だ。
 聖アーシェラ高校は聖女さまの名前がついてるだけあって、この種の合図には教会の鐘の音が使われている。
 学校の敷地の中に礼拝堂まである。授業の中に「神学」なんてのがあって、生徒に礼拝が義務づけられていたのは昔の話。今は希望者のみがミサに参加し、聖歌隊もクラブ活動の一環だ。
 
 いつもなら、俺だって授業が終ると同時にまっしぐらにロッカールームに走ってく所なんだが……

「はぁ……」

 左手の包帯を見ていると、ついため息がもれちまう。やる事がないんなら、とっとと帰ればいい。だけど今の俺にはそれすらも許されちゃいない。
 ルームメイトのトムは、相変わらず目を合わせようとしないし、口もきいてくれない。必要なことがあると、メモに書いて机の上に置いてあるような状態だ。なまじ今まで上手くやって来ただけに、いたたまれない。
 出て行こうにも、新しい部屋はまだ見つからないし。
 もう、頼みの綱はマイク先輩だけだ!

(あの話、どうなったのかな。OKもらえたのかな)

「うぉーい、マックス!」

 背後からにゅっとほっそい腕が絡んできたなーと思ったら、ヘッドロックを決められていた。

「今日ヒマか? ヒマだよな?」
「うぐぐっ、ヒウェルっ?」

 不覚。よりによってこいつに技をかけられるなんて!

「知ってるぞー。怪我が治るまでは、クラブも休みなんだろ?」
「う……確かに、そうだけど……離せよ」

 絡みつく腕に手をあてて、ぐいっと押しのける。

「うぉっととと」

 ぐらっとヒウェルはよろけて床にぺったんと尻餅をついちまった。大げさだなあ。そんなに力入れてないぞ? どんだけひ弱いんだこいつは。

「……大丈夫か」
「思いっきり社交辞令で言ってるだろそれ!」

 ひょいっと足を伸ばし、弾みをつけて立ち上ってる。うん、その分なら大丈夫っぽいな。

「とにかく、あれだ。ベンチでうじうじしてるよか、ぱーっと騒いだ方が体にいいって、絶対!」
「……そうだな」
「OKOK、それならさ! アイスの美味い店知ってんだ」

 ぺち、と俺の背中を手のひらで叩くと、ヒウェルは笑顔でくいっと教室のドアを指さした。

「行こうぜ、ディフ!」
「うん!」

 耳慣れない名前だったけど、確かに自分に向けられた呼びかけだとわかった。たぶん、ディフォレストの略だろう。
 何だかとってもうれしかった。久々に名字じゃなくて、名前の方で呼ばれたからだろうか。とにかく、こいつとの距離がぐっと縮まったような気がした。
 あれ、でも俺のこと愛称で呼んでくれたってことは、俺もこいつのこと、愛称で呼んだ方がいいのかな。

「サンクス、ヒー」
「………何だそれは」

 あれ、あれ、目が三白眼になってやがるよ。眉も寄っちゃってるし。気に入らなかったかな。

「いや、お前の愛称?」

 ぽん、ぽん、と肩を叩かれる。

「無理すんな。ヒウェルでいい。一息で言えるだろ? 略す必要はない!」
「うん、わかった、ヒウェル」
 
  ※
 
 ネイビーブルーの制服、胸に輝く七芒星のエンブレム。サンフランシスコ市警の制服警官、エドワード・エヴェン・エドワーズ巡査は受け持ち地区のパトロールに余念が無かった。今日は午前中に隣の管轄区で強盗未遂事件があったばかりなのだ。幸い怪我人こそ出なかったものの、容疑者は未だに捕まっていない。
 自分の巡回区域に逃げ込んで来ないとも限らない。いつもより心持ち注意を払いつつ歩いていると……

「ん?」

 すうっと視界の片隅を、ちっちゃな人影が過った。通り過ぎる大人たち、学校帰りの学生に紛れて小学生らしい女の子が一人、ひょこひょこと街中を歩いている!
 黒の長袖カットソーの上から渋めの赤紫色のTシャツを重ね着して、下はデニムのショートパンツ、足下は赤いバスケットシューズにくるぶし丈の白いソックス。つるりん、ぺったんとした凹凸のない体型といい、幼い顔立ちといい、どこから見ても小学生だ……自分の記憶と、感覚に照らし合わせる限り。
 しかし、黄色がかった象牙色の肌や華奢な骨格、黒いさらさらした髪の毛から察するに恐らく東洋人だ。
 見かけだけでうかつに年齢を判断するのは早急。一応、保護の前に確認しよう。

(女の子は敏感だからな。自分が何才に見えるのか)

 しかも、若く見られて喜ぶことはまず、有り得ない。少なくともまだ、今の所は。
 早足で、だが礼儀を保つ程度に穏やかに。微妙なバランスを保った速度で近づくと、エドワーズ巡査は少女に声をかけた。

「やあ、お嬢さん」

 一人で何してるのかな? 次の言葉を待たずに彼女は顏を上げ、電光石火答えた。

「私、高校生です!」

 意外な答えに一瞬、言葉に詰まったところにさらに矢継ぎ早に。まるで小鳥のさえずりだ。発音そのものは幾分ぎこちないが、奏でる音階とリズムで何となく言わんとする事のニュアンスが伝わってくる。

「じゅーろくさいなんですってば!」

 写真入りの学生証をまるで警察バッジみたいに掲げている。やけに手際がいい。
 この手の質問にはすっかり慣れているらしい。と言うか、むしろうんざりしているのだろう。

「……まだ、何も言ってないよ?」
「あ」
「それに私は少年課でもないから」
 
 学生証に記された年齢は正しく16才。写真もまちがいなく彼女だ。学校は……聖アーシェラ高校か。確かにこの時間ならあそこの生徒が歩いていてもおかしくはない。

「すみません……早とちりでした……も、何回も同じパターン繰り返したもんだからっ」

 やはりそうだったか。危ない、危ない。あやうく自分も同じ轍を踏む所だった。

「で、何かご用ですか?」
「ああ、うん」

 一つめの用事は消えたが、二つめはまだ残っている。ポケットから容疑者の写真を取り出し、彼女に見せた。

「このあたりでこんな男を見かけなかったかい?」

 少女はすっと目を細め、眼鏡の縁に手をかけて位置を整えた。濃い褐色の瞳がじっと写真の男を見つめる。

「……4分前に2ブロック手前を歩いてました。でも服装は写真と違うな……」

 目を閉じて少し考えている。記憶を探っているのだろうか。

「マスタード色の地に赤い花柄のシャツを着て、上からグレイのジャケットを羽織っていました。下は白のズボンです」
「派手な色だな」
「最初はエビかカニかと思ったんですけど、よく見たらハイビスカスでした」

 大した記憶力だ。4分の時差を飛び越えてたった今、見ているかのような証言じゃないか。

「ありがとう! 気をつけて帰るんだよ」
「さんきゅー、ぽりすおふぃさー」

 少女に手を振り、歩き出す。
 2ブロック手前、か。まだそう遠くへは行ってないはずだ。バスやケーブルカーにも乗っていなければの話だが。
 無線で署に連絡を取る。今の服装がわかった。それだけでもかなりの収穫だ! よくぞ写真の男だと気付いてくれたものだ。派手な服装に気を取られるから、普通は顔形にまで意識が回らないものを。きっと並外れて観察力の鋭い子なのだろう。助かった。
 それにしても。

『じゅーろくさいなんですってば!』

 エドワーズ巡査は秘かに胸をなで下ろした。てっきり12才ぐらいだと思っていた。迂闊に子ども扱いしなくてよかった、と……。

    ※
 
「おーい、ディフ」
「んー」

 ヒウェルに呼ばれてはっと我に返る。
 こいつの行きつけだって言うソーダファウンテンに引っ張って来られたら、客はほとんどうちの学校の生徒ばかりだった。ヒウェルはけっこう顏が広いらしく、店に入るとあっちこっちから声がかかっていた。
 ハーイ、とか、元気? とか。さすが地元出身。ほとんどが女の子だったけど。

「アイス溶けるぞ」
「うぉっと!」

 手の甲にひんやりした感覚。白い滴がつすーっと流れ落ちる。もったいない!貴重な小遣いの一部で買ったんだ、無駄にはできない。慌てて舐め取った。
 うん、確かに、美味い。こくがあって、しっかりと牛乳の味が生きてる。
 バニラコーンのシングル、マシュマロとチョコチップのオプションはヒウェルのおごり。
『こう言う時は誘った方がおごるもんだぜ!』なんて偉そうに言ってたけど、結局居合わせた上級生が出してくれたんだよな。
 金髪の魅力的な女の子が。

「どーした、ぼーっとして。可愛い子でも歩いてるのか?」
「あれ」
「お」

 くいっと窓の外を指さすと、奴は食べかけのチョコミントと同じくらい真っ青になってがたがた震え出した。

「あれは……ヨーコじゃねぇかっ」
「うん」

 紺色のシャツにズボン、胸に輝く七芒星のエンブレム。憧れのサンフランシスコ市警の警官が歩いていたから、つい目で追っていた。その金髪の制服巡査が声をかけた相手が、ヨーコだったんだ。

「すげえな、彼女! ポリスに聞き込みされて堂々と答えてるぜ!」
「見ていない。俺はなんにも見てないぞ!」

 目を背けて、取り憑かれたみたいにがつがつアイスを食ってやがる。変なヤツ。何がそんなに怖いんだ?
 そうこうするうちに、ポリスマンは手を振ってヨーコと別れて歩き出した。せかせかと足早に、無線に何か話しながら。署に連絡とってるんだろうな。

「やっぱかっこいいよな……」

 一方でヨーコはちょこまかとホットドックの屋台に向かい、はきはきした口調で話しかけてる。屋台の店員がにこっと笑ってうなずいた。
 てっきり誰かに頼まれたんだと思った。一人で六つも買ってるから。だけど俺の予想は見事に裏切られた。歩きながら彼女はおもむろにばくっと一つ目をほお張った。

(ああ帰るまで待ちきれなかったんだな……)

 甘かった。
 次の曲がり角に行くまでの間に、ホットドックは一つ残らず消えていた。ちっちゃくてつるっとした女の子の腹の中に。

「す……すげぇ」

 いったいどこに入ったんだろう?
 
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【5-2-5】姫と犬が出会った

2011/06/13 2:31 五話十海
 
 別れ際に、校門の前でヒウェルはぽん、と俺の肩を叩いて言った。

「まあ、あれだ、そんなにくよくよすんなって。これで帰ってみたら、案外いい方向に話が転がってるかも知れないぜ?」
「うん……」
「いざとなったら、家に来い。俺の部屋、散らかってるけど、もう一人ぐらいなら詰め込めるからさ!」
「……うん」

 嬉しかった。実際に世話になれるかどうかは別として、彼がそう言ってくれったてことが、すごく嬉しかった。

「ありがとな、ヒウェル」

 先のことはわからないけど、ちょっぴり気分が明るくなった。
 そうして寮に戻ってみたら、本当に事態が『転がって』いたのだ。しかもヒウェルの予言通りに、いい方向に。

「ああ、戻ったんだね、マックス」

 談話室の前を通りかかったら、マイク先輩が満面の笑みで出迎えてくれた。

「君の移動先ね、決まったよ」

 決まった? ってことは俺、寮を出てかなくていいんだ。サンフランシスコに居られるんだ。この学校を、辞めなくっていいんだ!
 思わず先輩に飛びつき、ぎゅむっとハグしていた。

「ありがとうございますっ、マイク先輩っ!」
「……うん、良かったね」

 ぽふっと手のひらが頭に乗せられる。

「新しいルームメイトはレオンハルト・ローゼンベルク、ロス出身の二年生だ。ちょっと気難しいけど、礼儀正しい子だよ。上手くやれるといいね」
「はいっ、俺、がんばりますっ」

 スキップしそうな勢いですっ飛んでく赤毛の一年生を見送り、マイクは深く息を吐いた。
 参ったな、まさかいきなり抱きついてくるなんて! 子どもみたいに体温の高い体が(いや、実際子どもなんだが)密着し、がっしりした骨組みが。ばいんっと張った筋肉が押し付けられる感触にくらくらした。実家のレトリバーにしがみつかれた瞬間を思い出す。
 底抜けにフレンドリーで、警戒心のカケラもない。氷の『姫』とは対照的、むしろ正反対だ。

(一緒にしても大丈夫かな)

 一抹の不安がないでもない。だが意外に上手く行くかもしれない。正反対であるが故に。
 ともあれ、賽は投げられた。後は見守るのみ。

(いざとなったら……俺の部屋に簡易ベッドを入れよう)
 
 マイケル・フレイザーは犬好きだった。それも、筋金入りの。 

   ※
 
 一時間後。
 レオンハルト・ローゼンベルクは、妙に威勢の良いノックに読書を中断された。頑丈な拳で、だんだんだんっと扉を叩く。テンポから察するに、意図して乱暴に叩いてる訳ではなさそうだ。だが、込められた力が強過ぎる。
 恐らく、寮長ではない。だとしたら、可能性があるのは……。
 小さくため息をついて本を閉じ、ドアを開けた。

「よぉ!」

 まず目に入ったのは、くるっと巻いた赤い髪の毛。そばかすの散った顏、ヘーゼルブラウンの瞳。がっちりした体つきの少年が立っていた。足下には重そうな段ボール箱、背中にナップザックを背負っている。
 怪我でもしたのか、左手に真新しい包帯が巻かれていた。

「君は?」

 間違いであってほしいと願いつつ、一応確認してみる。図体のでかい赤毛はくいっと親指で自分をポイントした。

「ディフォレスト・マクラウド。今日からルームメイトだ、よろしくな!」

 ああ、やはりこいつだったか。

「寮長から聞いてないか?」
「聞いてる」

 すっと脇に寄って道を空けた。
 両手で箱を抱えて入ってくる『ルームメイト』を、レオンは冷ややかに観察した。声がでかい。動きが大ざっぱ。図体もでかい。最悪だ。よりによって、こんな騒がしい奴と同室だなんて。

「ベッドと机はそっちが君ので、こっちが俺のだ」

 聞かれるより早く伝えたのは親切心からではない。自分の領域に立ち入られたくないから先手を打ったまでのこと。
 
「了解!」

 赤毛の一年生は、にっぱーっと笑いかけてきた。目を細めて、白い歯が見えるほどはっきりと口を開けて。
 それはもう、顏中が口になったんじゃないかと思うぐらいの大掛かりな笑顔だった。頬に赤みがさし、そばかすの色が、ぽうっと濃くなっている。
 たかだかベッドと机の位置を教えただけなのに。つとめて冷静に、淡々と、事務的に伝えただけなのに。何だってこんなに無防備に笑っているのか。何が楽しいのか、この珍獣は。
 むわっと部屋の体感温度が2〜3度上がったような錯覚にとらわれる。
 実にうっとおしい。騒がしい。

 相変わらずにこにこして、何か言いたげに口を開く珍獣に背を向けて、さっさと机に戻る。

「………」

 どうやら、露骨に無視されても敢えて話しかけるほどの礼儀知らずでは無さそうだ。ここで一言でも話しかけたら即刻、寮長に苦情を申し立てるつもりだったのだが。
 読みかけの本を開く。ページの上にぎっしり並んだ文字を追いかけるが、まるで頭にはいらない。
 すぐそばで、がさごそと荷物をほどいてる奴がいるからだ!
 クローゼットを開けて着替えを詰め込み、机の引き出しを開けて教科書や文房具を入れている。
 引っ越して来たばかりなのだから仕方ない。わざと騒がしくしている訳ではないのだ。己に言い聞かせて、じっと終わるのを待つ。
 たかだ五分足らずでこれだ。
 イライラしてると、クローゼットをぱたんと閉じる気配がした。どうやら荷物の移動が終わったらしい。
 ほっと息をつく間もなく、何やらキッチンの方へとだっかだっかと大股で歩いて行った。
 ばっくん!

(え?)

 予想外の音にぎょっとして顏を上げると。備え付けの冷蔵庫を開けている!
 自分はせいぜいボトル入りの水ぐらいしか入れていない。まさかそんな所に用事があるとは思わなかった。紙パックの牛乳……それも500mlサイズのを二本、突っ込んでいる。
 ……と。途中で手を止めて一本取り出し、かぱっと開けて、飲んだ。
 直に。
 紙パックに口をつけて、直に。
 
 思わず眉をひそめた。
 何て飲み方だ! お世辞にも行儀がいいとは言い難い。
 一緒の部屋で暮らすと言うことは、これからもこいつが視界の中で飲み食いする姿を見なければいけないのだ。ぐびぐびと咽を鳴らしたり、くちゃくちゃと物を噛む音を聞かねばならないのだ。

(最悪だ)
 
「マクラウド」

 滅多に感情を表に出さないレオンハルトだったが、声がいつもより幾分低くなっていた。

「ん?」

 くりくり赤毛の珍獣は顏をあげ、口の端についたミルクをぐいっと手の甲で拭った。
 眉間の皴がさらに深くなる。

「すぐにまた移動することになるんだから、荷物を広げすぎないほうがいい」
「ミルクは冷蔵庫に入れとかないと、やばいだろ?」

 確かにその通りだが。どうやら肝心なことは、右の耳から左の耳にすーっと抜けてしまったらしい。
 
「あー、俺のことはマックスでいいぜ。長い名前は舌噛みそうだろ?」
「………」

 ますます渋い顏になるレオンハルトを見て、赤毛の一年生はちょっとだけ考え直した。
 どうやら、あまりお気に召さないらしい。知り合いに同じ名前の奴がいるのかもしれない。だったら別の呼び名を教えた方がいいのかな。だけどさすがに『ディー』は、なあ。子供っぽい。つか、この名前で呼ばれると、ちっちゃい頃に逆戻りしたみたいな気がしちまう。
 そうだ。もう一つ愛称があったっけ。できたてのほやほや、今日の放課後、ヒウェルが着けてくれたやつ。

「ディフでもいいぞ。好きな方で呼んでくれ」
「ああ、わかった、マクラウド」

 あれ。あれ。結局名字か。ま、いっか。クラスのみんなからもマックスって呼ばれてるし、こっちのが言いやすいんだろうな。

「お前のことは何て呼べばいい?」
「レオンハルト・ローゼンベルク」

 うん、それはわかってる。ロスからやってきた二年生。でもマイク先輩は肝心なことは教えてくれなかった。
 さらさらの明るい茶色の髪は部屋の灯に透き通り、まるで後光が差したみたいに輝いている。すうっと通った鼻筋、整った唇は、まるで陶器の人形みたいだ。肌もすべすべして滑らかで、実家の食器棚に置かれたロイヤルコペンハーゲンを思い出す。それに、この切れ上がった紅茶色の瞳と来たら!

(ついてるな。ルームメイトが、こんなにきれいな子だなんて)

「長い名前だなー。レオンでいいか?」
「………好きにしろ」
「OK、レオン。よろしくな!」

 レオンはため息をついた。
 いちいち煩い奴だ。もう相手にするのもわずらわしい。無視するのが一番だ。
 動くインテリアだと思えばいい。
 それにしても一時的にしろ、他人と。しかもよりによってこんな煩い奴と同じ部屋で生活しなければならないなんて。実に気が重くなる。覚悟していたのより騒がしいし、何より自分以外の人間が動いているのが気になる。見た目、音、におい、振動、何もかも全てが煩わしい。

(できるだけ早く出て行ってほしいものだ)

 美貌のルームメイトの心のうちなど知る由もなく。ディフは箱の一番下からオレンジ色の鍋をとり出すと、大事に大事に両手で抱えて運び、シンク下の扉を開け……うやうやしく収めたのだった。

「よし、完璧!」
 
(お前はレオン、俺はディフ/了)

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お父さんの眼鏡

2011/06/13 2:34 短編十海
 
  • 拍手お礼用短編の再録。執事と眼鏡と愛妻とのサイドエピソード。
  • 2007年サンフランシスコ。ディーンくん(4才)はどうやらお父さんの新しい眼鏡が気になって仕方がないようです。
 
 ディーンはパパが大好きだ。
 パパは最高にかっこよくて、いつだってパーフェクトなのだから。
 
 土曜日の夜。
 夕ごはんの後、パパはいつものようにソファに座って新聞を読みはじめた。すかさずディーンも絵本を持ってきて、となりに座る。パパはちらっとディーンを見て、静かに笑って。また新聞を読みはじめた。
 ディーンもマネして絵本をひらく。
 目を細め、まゆの間にしわをよせてページをにらむ。しぱしぱとまばたきをしてから、背中をんーっとそらして絵本を顔から遠ざける。
 クリスマスを過ぎたころから、パパの新聞の読み方がちょっと変わった。
 だからディーンも同じ読み方をする。
 何てったってパパは最高にかっこよくて、いつだってパーフェクトなのだから。

「ディーン……」
「なに、パパ?」
「私は、いつもそんな風に新聞を読んでいるのかい?」
「うん!」
 
   ※

 日曜日。
 パパとママといっしょに朝からお出かけ。行き先は眼鏡屋さん。
 ママはとっても楽しそう。ずらりとならんだ棚の間をくるりくるりと飛び回り、パパの元へと眼鏡を運ぶ。
 まるでミツバチみたいに。バレリーナみたいに。
 パパはちょっぴりこまったような顔をして、次々と眼鏡を顔に乗せていた。

「これは、どうだろう、ソフィア」
「それだわ、アレックス!」

 眼鏡をかけたパパを見て、ママは顔中で笑った。ぱあっとやわらかな、オレンジ色の光があふれるみたいなすてきな笑顔。すごく、すごくうれしそうだ。

「上のラインがね、あなたの眉に沿っていてとも自然なカーブを描いているの! 色もいいわ。顔色に馴染んでいる。優しい色合いね」
「そ……そうかな」
「ええ、そうですとも!」

 ママがうれしいと、ディーンもうれしくなる。

「ディーン。どう思う?」
 
 ディーンはぱちぱちとまばたきして、うで組みして考えた。
 何て答えよう。ママと同じことを言ったんじゃ、つまらない。
 にあってる? サイコーにカワイイ? うーん、ちょっとちがうな。パパなら、そう、やっぱり……

「かっこいい」

 これだ。

「そうか」
「パパは、それが一番かっこいい」
 
   ※
 
 回転木馬でぐるぐる回って、アイスクリームを食べているあいだにパパの眼鏡はできあがっていた。
 すぐにかけるのかな? ちょっぴりどきどきしながら見守ったけれど、新しい眼鏡はケースにしまわれたままだった。

 でも、その後、ランチを食べに入ったレストランでメニューを選ぶ時、パパは眼鏡をかけた。
 ママは目をきらきらさせて、携帯で写真をとった。何枚も、何枚も。

(そうか、あれは字を読むときに使う眼鏡なんだ)

 家に帰って、夕食の後。パパはいつものようにソファで新聞を読み始めた。すかさず絵本を持って隣に座る。

(あ)

 パパはもう、目を細めてもいなければ、首を後ろにそらしてもいない。新聞を顔から遠ざけてもいなかった。
 どうやら、新しい眼鏡には、すっごいパワーがあるらしい。
 新聞を読み終わると、パパはテーブルの上に眼鏡を置いたまま行ってしまった。

 ディーンにとって、眼鏡自体はそれほど珍しいものじゃない。
 おじいちゃんも、友達のヒウェルも、ベビーシッターのサリーもかけている。だけど、パパがかけているとなると話は別だ。とても、気になる。
 どんな風に、見えるんだろう?
 試してみたい。
 ちょっとだけ。ちょっとだけなら。

 そーっと手にとる。
 軽い!
 パパのマネをして、ツルを左右に開いて鼻に乗せる。

「わっ」

 がいんっと頭をどこかにぶつけたような気がした。痛くないけど、くらくらする。天井がゆがんでる。壁がぐにゃぐにゃ曲がっている。

「ふええ……」

 大変だ。早く、どこかにつかまらなきゃ!
 両手をじたばたさせていると。

「ディーン!」

 あ、ママの声だ。
 ひょい、とほっそりした手がのびてきて、眼鏡を外した。

「ふわわわわぁ……」

 まだ世界がぐるぐるまわっている。回転木馬に乗ったときよりすごい。

「ディーン?」

 ママがにらんでいた。

「パパの眼鏡を勝手にいじっちゃだめよ? 大切な物なんだから」
「はぁい……」

 怒られた。

「ごめんなさい」
 
   ※
 
 ディーンは一つ学んだ。眼鏡をかけると、すごいことが起きる。
 いつも自分が見てるのとは、ぜんぜん違う景色が見えるのだ、と。
 一度知ってしまうと、気になってくる。

(ヒウェルの眼鏡は、どうなっているんだろう?)

 試すチャンスは意外に早く訪れた。
 幼稚園から帰ってきて、家のある5階に上がろうとママと一緒にエレベーターに乗ったら、ドアの閉まる直前に急ぎ足で歩いてくる、ひょろ長い姿が見えた。
 ママは『Open』のボタンを押して、ヒウェルがやって来るのを待った。

「さんきゅ、ソフィア。助かった!」
「どういたしまして。三階でいいの?」
「あ、いや、六階で」
「OK。それじゃ、ついでに家にも寄っていってくれない? クロワッサンを焼いたの」
「おお! サンキュー、それすっごい嬉しい!」
「チョコレートワッサンもあるよ!」
「やったね!」

 のびあがってぺしっとハイタッチ。ヒウェルは大人だけど、ディーンに負けないくらい、チョコレートが大好きなのだ。
 
 エレベーターが動いてる間、ヒウェルの頭をじっと見上げる。
 ヒウェルはずっと髪の毛が長かった。でもこの間、急に短くなっててびっくりした。その前は、くりんくりん。いきなりくりんくりん。Mr.ランドールみたいにくりんくりん。

「……どーした、ディーン」

 ヒウェルはくしゃっと自分の後ろ頭をなで上げた。

「やっぱまだ慣れないか、この髪形」
「うん」
「しゃあないさ、俺もまだ慣れてないくらいだからな。妙にスースーするっつーか、落ち着かないっつーか」
「じゃあ、どうしてみじかくしたの?」

 いきなり黙ってしまった。

「………いろいろあったんだよ」

 エレベーターを降りた後で、ヒウェルがぽそりと言った。

「いろいろ……ね」

 廊下を歩く間もちょっと元気がなかった。何だか大変らしい。

「ちょっと待っててね、今、袋に入れるから」
「OKOK。ついでにディフんとこにも配達するよ」
「ありがとう」

 家に戻ると、ママはすぐ台所に行ってしまった。今がチャンスだ。

「あのね、あのね、ヒウェル」
「ん、どーした、ディーン」
「眼鏡……ちょっとだけ、かして」
「へ? 眼鏡?」
「うん」
「わーったよ」

 にまっと笑うとヒウェルは眼鏡を外して………

「そら、気を付けてな」

 膝を折って屈みこみ、ひょい、とディーンの顔に乗せてくれた。ご丁寧にツルがちゃんと耳にかかるようにして。

 その瞬間、世界が歪み、ディーンは再びノックアウトされた。
 パパの眼鏡の時より、ずっと、ずっと強い! 目に見えるものが全部、二重にぶれてる。床も、壁も、天井も、ヒウェルの顔も。しかも、こっちに向かって押し寄せてくる!

「ふえ、ふえふええ……」

 にやにや笑いながらヒウェルはゆらゆらゆれるちっちゃな体を抱き留め、眼鏡を外してやった。

「ちょっとばかり刺激的だったろ?」

 ぱちっと片目をつぶってウィンクして、元通り眼鏡をかけた。ディーンはぺたんと床にすわりこみ、ごしごしと目をこすった。
 
   ※
 
 二度にわたり眼鏡に挑み、二度ともノックアウトされてもディーンの探求心は、いささかも衰えることはなかった。

 次の週末。

「ではサリー様、行って参ります」
「ディーンをよろしくね」
「はい。行ってらっしゃい」
「いってらっしゃーい」

 デートに出かけるパパとママを見送るなり、ディーンはくいくいっとサリーの服のスソをひっぱった。

「サリー、サリー」
「ん、どうしたの?」
「ちょっとでいいから、眼鏡、かして?」
「うん、いいよ。でもその前に」

 サリーはソファに深く腰かけ、ぱたぱたと隣をたたいた。

「ここに座って、ディーン」
「OK」
「じゃあ、目を閉じて」

 ディーンがしっかり座ったのを確認すると、サリーは自分の眼鏡を外して、ゆっくりとディーンの小さな顔にかけてやった。真ん中を鼻に乗せて、左右のツルを耳にかける。

「OK、ディーン。もう目をあけてもいいよ」

 ディーンはいきおいよく目を開けた。

 今度は大丈夫……かな?

 パパの眼鏡やヒウェルの眼鏡のように、ぐらぐらしたりしない。
 ほっそりしたフレームに縁取られ、まるで小さな窓から世界を見ているような気がした。
 おもしろくて、めずらしくて、くるくる部屋中見回していると……

(あれ?)

 何だろう、これ。
 ぐいぐいと、目玉を押されてるような感じがする。何もさわっていないのに。目に見えない指が、ぐいぐいと押してくる。
 何度まばたきしても、取れない。

「大丈夫?」
「目がいたい」
「じゃあ、そろそろ外そうね」
「うん」

 元通り眼鏡をかけるサリーの姿を、ディーンはじっと見守った。

「サリーは……それ、かけてていたくないの?」
「うん。平気だよ」

 うでぐみして考える。不思議でしょうがない。

「パパがね」
「うん」
「ずっとこーやって新聞読んでたのに」

 絵本を手にとり、ぐーっと首を後ろにそらす。

「眼鏡かけたら、そうじゃなくなったんだ。だから、きっとすっごいパワーがあるんだって」
「だから、試してみたの?」
「うん」

 パパと、ヒウェルと、サリー。三人の眼鏡を試してみたけど、全然よく見えなかった。くらくらして、ぐらぐらして、ヒリヒリした。

「どうして、みんな、平気なんだろう……」
「あのね、眼鏡はそのひとのために一個づつつくるんだよ。だからだれかの眼鏡をかけても、ディーンには使えないんだ」
「そ、そうだったのか!」
「お父さんが眼鏡をつくってもらったの、見てたんでしょう?」
「……うん」

 パパはお店の人と二人で、むずかしそうな機械をのぞきこんで話していた。背中しか見えなかったけれど、とっても真剣な声だった。

「ディーンも将来必要になるかもしれないけど、今はなくてもいいものだからね」
「わかった。もう、他の人のめがね、かけない」

 他の人の眼鏡を使っちゃいけない。
 ディーンくん(4才)は三度目にしてようやく学習した。

 しかし、四ヶ月後のハロウィンで……

「はっはっは、待ってたぞ、ディーン・パン!」
「………………ちがう」
「え?」
「メガネ、外して」
「あ、ああ、そうか。海賊が眼鏡かけてちゃおかしいものなー。なかなかチェック厳しいぜ……っておい、ディーン、何クレヨン出して、あ、あ、ああーっ!」

 ヒウェルの眼鏡が、ものの見事に被害に遭う訳なのだが……
 サリーに教えられた教訓はしっかりと活きていた。

 なるほど、確かにイタズラはした。だけど自分では、かけなかったのだから。

(お父さんの眼鏡/了)
 
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