▼ 【5-2-5】姫と犬が出会った
別れ際に、校門の前でヒウェルはぽん、と俺の肩を叩いて言った。
「まあ、あれだ、そんなにくよくよすんなって。これで帰ってみたら、案外いい方向に話が転がってるかも知れないぜ?」
「うん……」
「いざとなったら、家に来い。俺の部屋、散らかってるけど、もう一人ぐらいなら詰め込めるからさ!」
「……うん」
嬉しかった。実際に世話になれるかどうかは別として、彼がそう言ってくれったてことが、すごく嬉しかった。
「ありがとな、ヒウェル」
先のことはわからないけど、ちょっぴり気分が明るくなった。
そうして寮に戻ってみたら、本当に事態が『転がって』いたのだ。しかもヒウェルの予言通りに、いい方向に。
「ああ、戻ったんだね、マックス」
談話室の前を通りかかったら、マイク先輩が満面の笑みで出迎えてくれた。
「君の移動先ね、決まったよ」
決まった? ってことは俺、寮を出てかなくていいんだ。サンフランシスコに居られるんだ。この学校を、辞めなくっていいんだ!
思わず先輩に飛びつき、ぎゅむっとハグしていた。
「ありがとうございますっ、マイク先輩っ!」
「……うん、良かったね」
ぽふっと手のひらが頭に乗せられる。
「新しいルームメイトはレオンハルト・ローゼンベルク、ロス出身の二年生だ。ちょっと気難しいけど、礼儀正しい子だよ。上手くやれるといいね」
「はいっ、俺、がんばりますっ」
スキップしそうな勢いですっ飛んでく赤毛の一年生を見送り、マイクは深く息を吐いた。
参ったな、まさかいきなり抱きついてくるなんて! 子どもみたいに体温の高い体が(いや、実際子どもなんだが)密着し、がっしりした骨組みが。ばいんっと張った筋肉が押し付けられる感触にくらくらした。実家のレトリバーにしがみつかれた瞬間を思い出す。
底抜けにフレンドリーで、警戒心のカケラもない。氷の『姫』とは対照的、むしろ正反対だ。
(一緒にしても大丈夫かな)
一抹の不安がないでもない。だが意外に上手く行くかもしれない。正反対であるが故に。
ともあれ、賽は投げられた。後は見守るのみ。
(いざとなったら……俺の部屋に簡易ベッドを入れよう)
マイケル・フレイザーは犬好きだった。それも、筋金入りの。
※
一時間後。
レオンハルト・ローゼンベルクは、妙に威勢の良いノックに読書を中断された。頑丈な拳で、だんだんだんっと扉を叩く。テンポから察するに、意図して乱暴に叩いてる訳ではなさそうだ。だが、込められた力が強過ぎる。
恐らく、寮長ではない。だとしたら、可能性があるのは……。
小さくため息をついて本を閉じ、ドアを開けた。
「よぉ!」
まず目に入ったのは、くるっと巻いた赤い髪の毛。そばかすの散った顏、ヘーゼルブラウンの瞳。がっちりした体つきの少年が立っていた。足下には重そうな段ボール箱、背中にナップザックを背負っている。
怪我でもしたのか、左手に真新しい包帯が巻かれていた。
「君は?」
間違いであってほしいと願いつつ、一応確認してみる。図体のでかい赤毛はくいっと親指で自分をポイントした。
「ディフォレスト・マクラウド。今日からルームメイトだ、よろしくな!」
ああ、やはりこいつだったか。
「寮長から聞いてないか?」
「聞いてる」
すっと脇に寄って道を空けた。
両手で箱を抱えて入ってくる『ルームメイト』を、レオンは冷ややかに観察した。声がでかい。動きが大ざっぱ。図体もでかい。最悪だ。よりによって、こんな騒がしい奴と同室だなんて。
「ベッドと机はそっちが君ので、こっちが俺のだ」
聞かれるより早く伝えたのは親切心からではない。自分の領域に立ち入られたくないから先手を打ったまでのこと。
「了解!」
赤毛の一年生は、にっぱーっと笑いかけてきた。目を細めて、白い歯が見えるほどはっきりと口を開けて。
それはもう、顏中が口になったんじゃないかと思うぐらいの大掛かりな笑顔だった。頬に赤みがさし、そばかすの色が、ぽうっと濃くなっている。
たかだかベッドと机の位置を教えただけなのに。つとめて冷静に、淡々と、事務的に伝えただけなのに。何だってこんなに無防備に笑っているのか。何が楽しいのか、この珍獣は。
むわっと部屋の体感温度が2〜3度上がったような錯覚にとらわれる。
実にうっとおしい。騒がしい。
相変わらずにこにこして、何か言いたげに口を開く珍獣に背を向けて、さっさと机に戻る。
「………」
どうやら、露骨に無視されても敢えて話しかけるほどの礼儀知らずでは無さそうだ。ここで一言でも話しかけたら即刻、寮長に苦情を申し立てるつもりだったのだが。
読みかけの本を開く。ページの上にぎっしり並んだ文字を追いかけるが、まるで頭にはいらない。
すぐそばで、がさごそと荷物をほどいてる奴がいるからだ!
クローゼットを開けて着替えを詰め込み、机の引き出しを開けて教科書や文房具を入れている。
引っ越して来たばかりなのだから仕方ない。わざと騒がしくしている訳ではないのだ。己に言い聞かせて、じっと終わるのを待つ。
たかだ五分足らずでこれだ。
イライラしてると、クローゼットをぱたんと閉じる気配がした。どうやら荷物の移動が終わったらしい。
ほっと息をつく間もなく、何やらキッチンの方へとだっかだっかと大股で歩いて行った。
ばっくん!
(え?)
予想外の音にぎょっとして顏を上げると。備え付けの冷蔵庫を開けている!
自分はせいぜいボトル入りの水ぐらいしか入れていない。まさかそんな所に用事があるとは思わなかった。紙パックの牛乳……それも500mlサイズのを二本、突っ込んでいる。
……と。途中で手を止めて一本取り出し、かぱっと開けて、飲んだ。
直に。
紙パックに口をつけて、直に。
思わず眉をひそめた。
何て飲み方だ! お世辞にも行儀がいいとは言い難い。
一緒の部屋で暮らすと言うことは、これからもこいつが視界の中で飲み食いする姿を見なければいけないのだ。ぐびぐびと咽を鳴らしたり、くちゃくちゃと物を噛む音を聞かねばならないのだ。
(最悪だ)
「マクラウド」
滅多に感情を表に出さないレオンハルトだったが、声がいつもより幾分低くなっていた。
「ん?」
くりくり赤毛の珍獣は顏をあげ、口の端についたミルクをぐいっと手の甲で拭った。
眉間の皴がさらに深くなる。
「すぐにまた移動することになるんだから、荷物を広げすぎないほうがいい」
「ミルクは冷蔵庫に入れとかないと、やばいだろ?」
確かにその通りだが。どうやら肝心なことは、右の耳から左の耳にすーっと抜けてしまったらしい。
「あー、俺のことはマックスでいいぜ。長い名前は舌噛みそうだろ?」
「………」
ますます渋い顏になるレオンハルトを見て、赤毛の一年生はちょっとだけ考え直した。
どうやら、あまりお気に召さないらしい。知り合いに同じ名前の奴がいるのかもしれない。だったら別の呼び名を教えた方がいいのかな。だけどさすがに『ディー』は、なあ。子供っぽい。つか、この名前で呼ばれると、ちっちゃい頃に逆戻りしたみたいな気がしちまう。
そうだ。もう一つ愛称があったっけ。できたてのほやほや、今日の放課後、ヒウェルが着けてくれたやつ。
「ディフでもいいぞ。好きな方で呼んでくれ」
「ああ、わかった、マクラウド」
あれ。あれ。結局名字か。ま、いっか。クラスのみんなからもマックスって呼ばれてるし、こっちのが言いやすいんだろうな。
「お前のことは何て呼べばいい?」
「レオンハルト・ローゼンベルク」
うん、それはわかってる。ロスからやってきた二年生。でもマイク先輩は肝心なことは教えてくれなかった。
さらさらの明るい茶色の髪は部屋の灯に透き通り、まるで後光が差したみたいに輝いている。すうっと通った鼻筋、整った唇は、まるで陶器の人形みたいだ。肌もすべすべして滑らかで、実家の食器棚に置かれたロイヤルコペンハーゲンを思い出す。それに、この切れ上がった紅茶色の瞳と来たら!
(ついてるな。ルームメイトが、こんなにきれいな子だなんて)
「長い名前だなー。レオンでいいか?」
「………好きにしろ」
「OK、レオン。よろしくな!」
レオンはため息をついた。
いちいち煩い奴だ。もう相手にするのもわずらわしい。無視するのが一番だ。
動くインテリアだと思えばいい。
それにしても一時的にしろ、他人と。しかもよりによってこんな煩い奴と同じ部屋で生活しなければならないなんて。実に気が重くなる。覚悟していたのより騒がしいし、何より自分以外の人間が動いているのが気になる。見た目、音、におい、振動、何もかも全てが煩わしい。
(できるだけ早く出て行ってほしいものだ)
美貌のルームメイトの心のうちなど知る由もなく。ディフは箱の一番下からオレンジ色の鍋をとり出すと、大事に大事に両手で抱えて運び、シンク下の扉を開け……うやうやしく収めたのだった。
「よし、完璧!」
(お前はレオン、俺はディフ/了)
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