▼ 【5-2-1】ハロウィンにはまだ早い
サンフランシスコはやたらと坂が多い。どこまでも真っ平らなテキサスとは、大違いだ。ものすごい急傾斜で、海に向かってほぼ一直線につながっている。まるですべり台みたいに。下りのケーブルカーに乗ってるとつい考えてしまうんだ。
俺が乗ってるのは実はジェットコースターで。いきなり加速して、このまんま海に突っ込むんじゃないかって。
10月になって、だいぶ学校にも馴染んできた。ルームメイトとはそこそこ上手くやってるし、クラスの連中の名前と顏もだいたい覚えた。一緒にランチを食ったり休み時間に他愛の無いおしゃべりをしたり、放課後ツルんで出かける友達もできた。
クラブで一緒になる上級生もみんな親切にしてくれる。
だが、人が大勢いればそれだけ個性も千差万別。学校の生徒が全部が全部、一人も残らず『いい奴』だ、とは限らない。
「ランチ、何食う?」
「そーだな、チーズバーガーかホットドッグ。ミートパイあったらそっちもいいな」
「お前の選択肢はそれしかないのか!」
「チリ一辺倒のお前よかマシだろ」
同じクラスの男子数人と連れ立ってカフェテリアに向かう途中、廊下がやけに騒がしかった。歴史が長いだけあって、聖アーシェラ高校の校舎は新旧様々な年代の建築様式が入り交じり、ちょっとしたアメリカ建築の博物館みたいになっている。
中でもカフェテリアに通じる一角は新しく、窓の大きなやたらと開放的な作りは学校って言うよりまるでリゾート施設だ。雨がほとんど降らないカリフォルニアだからできる事なんだろうな。(でも霧の深い日はどうするんだろう?)
芝生に面した一階の通路は、アーチ型の柱があるだけで壁はほとんど素通し。時間帯からして混雑するのはいつものことなんだが、微妙に空気が違う。見ると女の子が三人、やたらマッチョな野郎どもに囲まれている。
一人は浅黒い肌のインド系、もう一人はブルネット、そして三人目は眼鏡をかけた東洋系の子。人種も顔立ちも違うがいずれもけっこう可愛らしい。中でも一番小さな眼鏡の子が他の二人を背後にかばい、きっと男どもをにらみ付けていた。
「つまり、あれか。あなた方の認識ではヤれる女とヤれない女の二択しかない、と。下半身基準でしか考えられないの? そのご立派な頭蓋骨はがらんどう? 髪の毛を乗っけるためのお飾り?」
「なっ、何だと、このっ」
たじろいだ上級生の口からは、聞くに耐えない差別的な罵声が飛び出した。思わず口元が引きつり、はらわたがよじれる。それは、俺の国籍や外見、性別とは関わりのない言葉だった。だが、よりによって俺の目の前で、女の子に向けて吐かれたってことが我慢できない。
相手が年上だろうが、複数だろうが関係ない。今すぐその口ふさいでやる!
かっと腹の底が熱くなり、無意識に拳を握っていた。
「おい、マックス」
「落ち着けよ」
「あ……ああ」
だが、当の眼鏡っ子はほんの少し眉をはね上げただけだった。
「ああ、そうだ。私は日本人だ。そのことに誇りと自覚を持っている。だが貴様らは何だ? アメリカ市民か? 笑わせるな」
あの子、見覚えがある。長い黒髪はさらさらとしてまっすぐ、小柄ながらもびしっと背筋が伸びていて、小学生と見まごうようなつるんとしたスレンダーな体つき。だが中味は鉄骨。
ヨーコだ。同じクラスの、日本からの留学生。
「お前たちにはもはや、民主主義の恩恵に預かる資格などない。今の言葉で自ら放棄したのだからな!」
くい、と片手で眼鏡の位置を整えると、ヨーコはびしっと人さし指を突きつけた。ほんの今し方、自分を聞くに耐えない言葉で罵った上級生を。
「己の先祖に今すぐ詫びてこい!」
「このっ、ジャパニーズ・ビッチがっ」
先頭のひときわ体格のいい男子生徒が手を振り上げる。何て奴だ、女の子を殴るつもりだ!
「あ、おい、マックス!」
制止の声を背後に聞きながら、飛び出していた。距離があったが、足には自信がある。
「おい」
どうにか振り上げた手首を掴むのに間に合った。きっちりグーに握ってやがる! 最低だなこいつ。
「やめろよ」
かろうじて上級生への敬意を払い、いきなり殴りつけるのは自粛した。しかし相手は俺を見て、あからさまに馬鹿にした口調で言い返してきた。
「引っ込んでな、カントリーボーイ!」
「おっ?」
ぶんっと勢い良く振り払われたが、離すつもりはなかった。したたかバランスを崩し、つかんだ手を支点にぐるっと体が半回転。目の前にガラスが迫る。開放的な校舎にふさわしく、やたらと大きなガラス窓。やばい、このままだと突っ込む!とっさに左腕で顏をかばう。
ガッシャーン!
穏やかで平和な日常が、木っ端みじんに打ち砕かれる音がした。その瞬間、理性とか躾けとか常識とか。自分を押さえつけていたいろんな鎖が一気にぶちっと切れる。
目の前が赤く霞む。
手首を放して、拳を握り、上級生の頬に叩き込むまでの自分の動きが、妙にゆっくりと。水飴の中でも泳ぐように感じられた。
「うわぁっ」
腕を振り切った瞬間、いきなり時間の流れが元に戻る。
それほど力を入れた覚えもないのに、相手の上級生は廊下にひっくり返っていた。
のしのしと近づき、にらみ付けた。
腫れ上がった頬を押さえると、マッチョな上級生はじたばたしながら起き上がった。
まだやるか? 身構えると、ずざざっと後じさりして……一目散に逃げてった。
お約束の捨てぜりふも無し。一斉に手下連中も後に続く。ある意味、潔い。
ふうっと肩の力を抜く。足下にガラスの破片が散らばっていた。ああ、そうか。これに関わるのが嫌で逃げたんだな、あいつら。
ぼんやりとそんな事を考えていたら、友達の一人が声をかけてきた。
ストレートの黒髪に、リスか子鹿みたいなくりくりっとした琥珀色の瞳のきゃしゃな奴。名前はヒウェル、好物はチョコレート。シスコ生まれのシスコ育ち、だけど祖先はウェールズ人。
「なあ、マックス」
「ん?」
「お前、腕、平気なのか?」
「あ」
illustrated by Kasuri
左腕がシャツもろとも一直線に裂けて、傷口からぼたぼたと血が滴っていた。
器物損壊に傷害かぁ。そりゃ逃げもするよな、面倒だものな。あ、でも俺も殴っちゃったしなあ。過剰防衛になったりしないだろうか……いや、そうじゃなくて。
まずは傷口をどうにかしないと。
「……そう言えば、ちょっと痛いような」
「いいから血、止めような」
「こう言う時って押さえるんだっけ、縛るんだっけ」
「それ以前に、布かなんか当てた方がいいと思うぞ」
「お前、ハンカチ持ってる?」
ヒウェルは黙って首を横に振った。他の連中も顏を見合わせ、やっぱり首を横に振る。
だよなあ。そんな気の利いたもの持ってるような柄じゃないよな、お互いに。
「とりあえず、あれだ、腕上げとけ、心臓より高く!」
「こうか?」
滴る血が肩口まで流れてきて、慌てて下げた。
「おい何やってんだよ!」
「だってシャツ汚しちまうし」
「それ以上気にするような状態かーっ」
野郎二人、右往左往していると。さっき助けた女の子のうち一人がつかつかと近寄ってきた。
「見せなさい」
ヨーコだ。やっぱ女子だよな、ハンカチ持ってるのか? 言われるまま、素直に左手を差し出すと、彼女はまず、傷口をじっくりと観察し、小さくうなずいて。それからハンカチを取り出してあてがい、ぎゅっと押さえた。
皮膚が引きつれ、一瞬、衝撃が走る。
「うげっ」
「我慢なさい。大丈夫、動脈も切れてないし、命に関わるような怪我じゃないわ」
「そうなのか?」
眼鏡越しに、濃い褐色の瞳が見つめてきた。心の奥底まで見通すような不思議な瞳だった。
「そうよ」
「…………そうか」
彼女の声を聞くうちに、ずきずきと熱く疼いていた傷口がすうっと楽になる。まるで波が引くように、痛みも衝撃も薄れて行く。
その時になってようやく、先生が走ってくるのが見えた。
※
ドクターの手当てを受ける間、ヒウェルはずーっと腕組みして何やら考え込んでいた。
そして医務室を出るなり、一気にまくしたてたのだった。
「絶対、おかしい。有り得ない」
「何がだ?」
「おまえの傷、もっと深く切れてた」
「そうなのか?」
「ああ。動脈イってたね、あれは。さもなきゃあそこまで派手に血は出ない!」
「やけに自信たっぷりだな」
「観察力には自信がある」
くいっとヒウェルは眼鏡の位置を整えた。
「あの女が何かしたんだよ。でなきゃ、いきなり軽傷になってる説明がつかない」
「単にヨーコの応急処置が適切だっただけだろ」
「いーや! そんな生易しいものじゃないね。あいつは……」
ごくっと咽を鳴らしてヒウェルは周囲をうかがい、声を潜めた。
「きっと、魔女なんだ」
「は? 魔女?」
一瞬、頭の中にヨーコが黒服にとんがり帽子を被ってホウキにまたがってる図が浮かぶ。
「ハロウィンにはまだ早いぞ?」
「いーや、俺は真剣だ! あの女が黒猫と話していても不思議はないね」
何故にそこまで言い切るのかこいつは。しかも自信たっぷりに。じと目でにらみつけ、ざっくりすっぱり言ってやった。
「お前、阿呆だろ」
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