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ローゼンベルク家の食卓

【5-2-2】鍋のフタが落ちる

2011/06/13 2:28 五話十海
 
 放課後はクラブには出ず、まっすぐに寮に戻った。アイスホッケーのスティックは片手じゃ上手く握れないし、激しい動きで傷口が開いちゃ困る。とは言え、体がなまるし、せめてランニングか柔軟だけでもしようとしたらコーチに止められた。

「傷口に響くだろう。手を使わなければいいって問題じゃない! かなり出血したそうじゃないか。今日は大人しく部屋に帰れ」

 ランチタイムの一件は、既にコーチの耳に入っていたらしい。別にふらっともゆらっともしないのだけれど、素直に休むことにした。

 部屋に戻ってみると、簡易キッチンの方角からしなびたチーズみたいなにおいが漂ってきた。
 鍋がコンロの上に置きっぱなしになっている。テキサスの実家から持ってきた、分厚い鋳物にほうろう引きの、オレンジ色の鍋。フタを開けると、内側に乾いた牛乳が白くこびりついていた。朝、牛乳をあっためた時に使って時間が無かったもんだから、そのまま置きっぱなしにして学校に行っちまった。

 洗わないと。せめてシンクに浸して、このぱりぱりをどうにかしなきゃ。
 いつものように両手で鍋を持ち上げようとしたら、ずっくんっと。包帯で覆われた傷に沿って、鈍い痛みが走る。かくっと勝手に左手の指がゆるみ、手首が下がる。取り落とした鍋がコンロの金具を叩き、ガシャン、と鋭い金属音を立てた。
 何てこった、思うように力が入らない!
 
 傷口に『響く』って、こう言う意味だったんだ。
 今更ながらコーチの言葉に納得する。怪我がもう少し落ち着くまでは、無理に重たい物を持たない方がよさそうだ。
 鍋とか。鍋とか。

「むむ」

 包帯の下の疼きはまだ収まらない。うっかり刺激したせいか、妙にじりじりと熱っぽくなってきた。ドクターから処方された痛み止めを飲んで、ごろんとベッドにひっくり返る。とりあえず一眠りして、傷が落ち着くのを待とう。鍋を洗うのは明日でいいや。ルームメイトのトムはほとんどキッチンは使わないんだし。
 眠って、起きたらちょっとはよくなってると、いいな……。
 
   ※
 
 トム・スタンリーが部屋に戻ってくると、ルームメイトがすやすやと眠っていた。上半身はランニングシャツ一枚で布団も被らず、あおむけでころんとベッドの上にひっくり返って。
 熱くて無意識に脱いだのだろうか、すぐそばにくしゃくしゃになったシャツが丸まっている。どこで怪我したのやら、左手に包帯が巻き付けられていた。

「だーっ、何っつー格好で寝てるかな」

 無造作にベッドに近づき、のぞきこんでふと硬直した。白い肌が汗ばみ、うっすらと紅が注している。肩も、腕も、首も剥き出し。しかも着てるランニングシャツがよりによって濃い青で、余計に肌の白さが際立つ。

「う」

 緩んだシャツのすき間からちらっと、胸が見えている。わずかに盛り上がり、ほんのりと色が濃くなった乳首までも。
 思わずこくっと咽が鳴った。
 男だとわかっているのに、何故、こうも艶めかしいのか。ここは確かにサンフランシスコだ、だけど俺はゲイなんかじゃない。なのにどうして、目が離せないんだ。こんなにドキドキするんだ。
 こいつに、触りたいとか思っちまうんだ!

「ん?」

 ぱちっと目が開いた。うっすら緑の混じったヘーゼルブラウンが見上げてくる。とろりとして眠たげで、ほんの少し潤んでいた。

「っ!」

 慌てて後ずさりして距離を取る。

「あれ……トム、帰ってたのか」
「あー、うん」

 危ない。危ない。何事もなかった振りをしてキッチンに向かう。気付かれただろうか。じっと見ていたこと……見とれていたことに。とにかく当たり障りのないことを話そう。あいつが服を着るまでの間、目をそらすんだ!

「どーしたんだ、その、左手」
「あー、窓に突っ込んで、ガラスで切った」
「うわ、そりゃ痛いだろ!」
「うん、だから痛み止め飲んだら眠くなった」
「そーかそーか。あ、シャツ着ておけよ、風邪引くからな」
「そーだな」

 ごそごそと服を着る気配がした。やれやれ……どうやら危険物は封印されたようだ。安心したら腹が減ってきた。何か食おう。
 確か、買い置きのスープヌードル(日本で言う所のカップラーメン)がまだあったはずだ。お湯を沸かそうとしたら、一つしかないコンロの上に鍋がでんっと乗っている。

「なーマックス。これどかしていいか?」
「ああ、うん、いいよ?」

 ころっと可愛いオレンジ色の鍋。いつもこいつが軽々と動かしていた。何気なくひょいと片手で持ち上げようとしたが。

「うっ」

 カボチャ色の鍋は、見た目に反してずっしりと重かった。かろうじて手は離さなかったものの、支え切れずにぐらっと傾く。
 じょり、ぞり、ぞりぃん……
 金属のこすれる不吉な音とともに、悪い夢でも見てるみたいにゆっくりとフタがスライドし、傾き、落ちる。
 鍋の本体に負けず劣らず重たい鉄のフタが、避ける間もなく足の指を直撃した。

「いってぇえええ!」
「大丈夫かっ!」

 駆け寄ってきた。よりによって、半端にシャツを羽織ったままで。片方の肩がずり落ちた状態で。

「わああ、寄るな、触るなあっ」

 両手を振って防御すると、赤毛のルームメイトは眉をきゅうっと寄せ、叱られた犬みたいな顏をした。
 きゅんっと胸が締めつけられる。足の痛みを一瞬忘れるほど甘く、強く。
 やばい。
 抱きしめたい。

「もう、限界だ………」
「ど、どうしたんだ、トム。そんなに痛いのか、足? ごめんなっ」
「もう、我慢できない」

 よせ、そんな目で見るな! ああ、もう、これ以上こいつと一緒に居たら、俺は本気でおかしくなっちまう。
 びしっと人さし指をつきつけ、叫んでいた。

「鍋を捨てるか、部屋を出るかどっちかにしろ!」

 しゅんと肩を落とすと、マックスはフタを拾い上げ、鍋を両手で抱えこんだ。左手の傷が辛そうだ。ちょっぴり後悔したが、もう言ってしまった言葉は取り返せない。

「……わかった。部屋、出る」
 
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