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ローゼンベルク家の食卓

【4-21】テイクアウトpart2

2010/12/04 19:58 四話十海
  • 2007年、5月後半のエピソード。
  • イースターにエリックからカードが届いた。一人ぽつんとコーヒーを飲むウサギ。場所は始めて出会ったコーヒースタンド。彼は、待っている。こっちを見ている。あの時と変わらず、自分だけを……
  • 一歩ずつシエンは足を踏み出す。けれど、扉を潜ることができずに途中で引き返してしまう。
  • エリックもまた、次の一歩を踏み出せずに居た。もどかしい二人の姿を見て、オティアはしぶしぶ心を決めた。
  • 第四話スパイラル・デイズ、ファイナルエピソード。
  • part1はこちら
  • 人物紹介はこちらから。
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【4-21-7】ホットからアイスへ

2010/12/04 19:59 四話十海
 
 五月のよく晴れた午後、シエンはユニオンスクエアを行き交う人の流れの中を歩いていた。
 マーケット通りに沿って南西に、ケーブルカーの発着所に向かって。あと1ブロックも歩けば、見慣れたあの看板が見えてくる。グリーンの円に白い文字、白抜きの人魚が描かれたコーヒースタンド。そっと上着のポケットに手を触れる。かさり、とかすかに紙の感触……中味は白い紙に、ボールペンで丹念に描かれた絵が一枚。何度繰り返し見ただろう。もうすっかり何が描かれているか、覚えてしまった。
 眼鏡をかけた、ひょろりとのっぽの兎がテーブルに座り、ぽつんと一人で紙コップに入ったコーヒーを飲んでいる。
 場所は、これから自分が行こうとしているあの店だ。

 エリックが、待っている。ずっと自分の方を見ていてくれる。イースターに届いた絵が教えてくれた。その日から少しずつ前に進み、やっと今日、一人でここまでやって来た。
 けれど……。
 靴屋と薬局の間で足が止まってしまう。
 もう、コーヒーの香りが空気に混じっている。目的のコーヒースタンドはすぐそこだ。なのに、先に進めない。
 中に入って、エリックに会ったら何て言おう? どんな顔をすればいいんだろう?
 深いため息をつくと、シエンはのろのろと緑の看板に背を向けた。

 彼がいたらどうしよう。
 居なかったら、どうしよう。

 うつむき、とぼとぼと歩き出す。マーケット通りを北東に。今来た道を引き返す。

「……ただいま」
「お帰りなさいませ」

 法律事務所に戻ると、昼休みが終る頃合いだった。たったあれだけの距離を往復するのに、どれくらいの時間がかかったのだろう。
 何度も立ち止まりながら、少しずつ。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

 その日の夕方。
 件のコーヒースタンドではひょろりとした金髪の眼鏡男がコーヒーを頼んでいた。カウンターにMyタンブラーをことん、と乗せて。  

「ホットのソイラテ、トールで泡を多めに」

 蓋を外してタンブラーだけ渡す。この動作にもだいぶ慣れてきた。
 手紙を書こうと決めたその日の帰りに、この店で自分用のタンブラーを買った。コーヒーを飲むついでに待ってるんじゃない。シエンを待つためにここに通うのだと、自らに決意を突きつけるために。

「お待たせしました、トールのホットソイラテのお客様ー」

 赤いランプの下でマグを受け取り蓋を閉め、あらかじめ目をつけておいた席に座る。できる限りカウンターは避けることにしていた。彼が来た時、迷わず向いに座れるように。
 要するに、三月から四月を経て五月に至るまでの間、ハンス・エリック・スヴェンソンは、全力でシエンを待つ構えを続けていたのだった。

 じゅうい……とふわふわの泡をすする。
 そろそろホットだと暑いシーズンになってきた。それでもつい、頼んでしまう。時間をかけてちびちびと飲んでる途中に、シエンがひょっこり顔を出すんじゃないかって。

(こう言う所、まだ吹っ切れてないんだよな……三カ月も経つって言うのに)

 いつまで、こんな空しい宙づり状態を続けているのつもりなんだ?
 そろそろ、次の一歩を踏み出すべきなのだろうか。ああ、せめてシエンの気持ちの欠片でもいい、知ることができたのなら……まだ、来れないのか。もう、来るつもりがないのか。

「あ」

 ひょっこりと目の前に、金髪に紫の瞳が顔を出した。
 あいにくと待ち人ではなかったのだけれど。

「…やあオティア。元気?」
「まあな」

 せめて一瞬でも夢見ることができれば良かったのに。すぐに気付いてしまった自分がちょっぴり恨めしい。

「何か飲む?」
「アイスラテ」
「サイズは?」
「スモールでいい」

 アイスラテの入ったプラカップを持って戻ってくる。

「はい、おまたせ」
「ん」

 一口、二口。オティアは黙って冷たいラテをすすっている。話しかけることもできず、熱いラテをすする。OK、とにもかくにも動きはあった。ゼロではなくなった。だが、一気にマイナスに落ちない保証はどこにもない。現にこの前、彼が店に来たのが大嵐の幕開けだった。
 いや、待て、落ち着けエリック。
 タンブラーを傾ける。苦いコーヒーが泡の層をくぐり抜け、口の中に広がる。
 事態がどう動こうと、今より辛い状況にはならないじゃないか。…………よし、決めた。

 声をかけようとした刹那、オティアがぼそりと言った。

「あいつ、さ」
「ん…」

 足下をぴょいっとすくわれたような気分だ。目一杯張り詰めていた気力がすとんと抜けてしまった。どこに抜けたのかさえわからない。だが聴覚だけは研ぎ澄まされ、油断なく彼の言葉を追っていた。

「好きな奴がいたっていったろ?」
「うん、覚えているよ」
「でも、今、そいつは別の奴と付き合ってるって……」

 コーヒーをすすりながらじっと耳かたむける。あの時は、シエンが席を外している短い間だった。今は違う。聞かれて困る相手はこの店に居ない。制限時間を気にすることなく、この話題を展開することができる。
 オティアもそのつもりだ。
 だから口に出したのだ。

 ずっと、あれから考えていた。考える時間はたっぷりあった。

「……もしかして………その『別の奴』って……君のこと、かな」

 肩をすくめた。

「……そうか」

 BINGO。となると、次の予測もおそらく当たっている。口の端にまとわりつく泡を舐めとり、慎重に言葉を探した。
 静かに。静かに。焦ってはいけない。積み上げられたグラスを崩さないように。注がれた水をこぼさないように。

「………相手は」

 答えは意外に身近な所にあった。シエンとオティア、二人と同じくらい親しくて身近な存在。限られた人間関係の中で、恋愛対象となり得る相手。
 ローゼンベルク夫妻は論外だ。あの二人の間には、この世の何者も割り込む余地はない。
 と、すれば。
 残りはただ一人だ。

「……h?」

 返事はない。だが見返す瞳が雄弁に語っていた。
 ああ。
 やっぱり、あんちくしょうめか。

「そっか……そうだったんだ……」

 だから、ごめんなさい、なのか、シエン。
 失恋した相手が家族同然に毎日、夕飯食べに来るなんて。自分の双子の兄弟が今付き合ってる相手だなんて。
 忘れろなんて方が無理だ……。他の奴のものになった、もうそいつ以外見えてないってわかっていてもそう簡単に諦められるもんじゃない。
 いっそ攫って行けたらどんなに良いか。邪魔の入らない所へ。時間を巻き戻して奪い取ってやりたいと。
 心のどこかで、思わずにはいられない。いけないと分かっていても、止められるもんじゃない。どんなに時間が経っても、消し忘れた熾き火のように、ぶすぶすとくすぶり続ける……

 消せるのは、新しい炎だけ。新たな炎が強く燃えれば燃えるほど旧い熾き火は灰となり、やがて忘れ得ぬ痛みが残る。

「……待つよ」
「待ってても来ねーよ」

 あれ? 妙に挑戦的な口調だな。ほんの少しむかっとした。カフェインのせいか、アドレナリンのせいか。大人げないと知りつつ自然とこっちも口がヘの字に曲る。

「……そうかな」
「あのハンカチと、メモ。受け取ったの、俺だから」
「っ! そうなの?」
「ああ」

 予想すべきだった。あの時オティアも一緒に部屋に居たんだ!

「イースターのカードを受け取ったのも俺」
「えーっ!」
「机の引き出しにしまったっきりだし、まだ読んでないんじゃねーの?」
「何てことしてくれたの」

 あ、そっぽ向いてるよ。見覚えあるな、あの顔は……実家の猫がよくやってた。知ったことじゃない、あるいは我関せず。

「……それじゃ……オレは………」

 事は動いた。予想外の方向ではあったけれど、少なくとも拒絶されたんじゃないとわかった。それだけで、動くには十分だった。って言うか迷う暇はない。この機会を逃しちゃだめだ。チャンスの神は前髪しかないんだから!

「オレの方から、会いに行かなきゃならないじゃないか」
「そーすれば」
「そーします」

 くいっとラテを飲み干し、ひょいと手を出す。

「コーヒー代」
「…………」

 ちゃらちゃらと出された小銭をうけとる。きっちりラテ一杯ぶん、まるで最初から用意してあったみたいな手際の良さだ。

「ありがとう、オティア」
「……………さっさと行け」

 ほとんど表情は動かない。でもしかめっ面されたなって言う程度には、彼の表情が読めるようになってきた。

「うん。ありがとう!」

 まっすぐにカウンターに歩み寄り、改めてにコーヒーを二杯注文した。

「アイスソイラテ、スモールを二つ」

 自分でもびっくりするほど、はっきりした声が出せた。


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【4-21-8】デリバリー

2010/12/04 20:02 四話十海
 
 コップが二つ入った紙袋。中味はアイスのソイラテ。揺らさぬように、こぼさぬように慎重に足を運ぶ。分析する証拠品を運ぶ時よりも慎重に、真剣に。自転車がすぐそばを追い越して行く。足を踏ん張って、とっさに立ち止まった。
 自分用のタンブラーは今回は使わない。シエンと一緒に、同じ持ち帰り用のコップで飲むことに意味がある。
 
 そう、一緒に、だ。
 
 マンションのロビーに乗り込んだ所ではたと気付く。
 その前に、越えなきゃいけない難関があるじゃないか! 燃え立つ赤毛、広い肩幅、分厚い胸板、ぶっとい腕。天下無敵のガーディアン。
 思い出したように左の頬がずくり、と疼く。冷凍グリーンピースで顔を冷やしながらケーブルカーに乗った、二月の夜。帰った頃にはすっかり溶けていて、再度凍結させる訳にも行かず、その日のうちにスパムミートと一緒に炒めて食べた。やたらとしょっぱかった。
 我ながら学習能力が無いよ……でも引き返すつもりはない。インターフォンで目当ての部屋を呼び出すと、聞き覚えのあるバリトンが答えた。

「Hello?」
「……エリックです」
「……どうした、バイキング」
「コーヒーの出前にうかがいました」
「頼んだ覚えはないぞ?」
「シエンに」

 沈黙が答える。一秒、二秒、三秒……測定している時間以上に長く感じられる。受話器の向こうでいったい、どんな顔をしているのだろう。

「上がってこい」
「了解」

 よし、最初の関門はクリアした。いざ進め。塔を登り、さらなる奥へ。
 6階でエレベーターを降りて、勢いに任せて歩き出す。
 一つ、二つ、ドアを通りすぎ、三つめで足を止め、呼び鈴を押した。
 ぎ、ぎ、ぎ……ドアが開く。腕組みした赤毛のガーディアンが待ちかまえていた。

「来たか、バイキング」

 ぎろり、とにらまれた。
 ああ、この顔には勝てる気がしない。
 大学をスキップして学位を取って、その後警察学校でも順調に訓練を終えてサンフランシスコ市警に入り、最初にぶつかったのがこの人の強面だった。噛みつかれるんじゃないかってくらいの勢いで睨まれて、思わず腰が退けた。初めて思った。警察って言うのは何て怖い所なんだろう、と。(今思えばどこかまちがってる)以来、頭があがらなかった。
 今こうしていてもつい、条件反射で謝罪の言葉が喉元までくみあげる。
 だけど引き下がるものか。これぐらいは予想の範囲内だ。ぐっと腹に力を溜めて見返した。

「……チャンス……ください。オレ、本気ですから。今度こそあきらめませんから」
「次は拳だぞ?」
「……わかってます」

 のっしのっしと歩く背中の後をついて行く。玄関からリビングを通り抜け、子供部屋のある方へ……行きかけて、どしんっとぶつかった。
 
「おっと」

 あわてて紙袋の中味を確かめる。
 良かった、こぼれてない。

「そっちじゃない」

 声をかけられて始めて気付く。自分が今し方ぶつかったのが、他ならぬセンパイの背中だってことに。

「あっ、す、すみません」
「謝るな。大したことじゃない」

 ぐいっと口をヘの字に曲げたまま、センパイはくいっと右手の親指でキッチンに通じるアーチを指さした。

「向こうにいる」
「あ……そ、そうですか」

 そう言えばそうだよな。夕食を作ってる時間だ。美味そうなにおいが漂ってくるし……うわ、もしかしてオレ、すごく不躾な時間に押しかけちゃったのか? ええい、ここまで来てひるむな。前に進め!

「じゃあ、ちょっと失礼して……行ってきます」

 早足でセンパイの隣をすり抜け、キッチンに向かう。
 ふんっと鼻を鳴らす気配がした。どうやら、リビングで待機しているつもりらしい。
 ここの家はリビングとキッチンの間は壁や家具で視線が通らないようになっているだけで、ドアで完全に隔てられてはいない。
 だから、待機なんだな。
 背中にびったり貼り付いてるんじゃなくて。

「あ」

 どぅんっと心臓が跳ね上がる。
 何てこったい、食堂に入った途端、探し求めていた相手とぱったり出会ってしまうなんて! てっきりキッチンに居るものとばかり思っていた。心の準備をするために、深呼吸する暇さえなかった!

 どっしりしたクルミ材の食卓の上には新聞紙が敷き詰められ、水を満たした小皿に、練り上げたひき肉と野菜の混合物の入ったボウル、白い薄い皮、そしてきちんと包まれた三日月形の食べ物が並んでいた。
 餃子だ。
 中華のテイクアウトでおなじみの。

 そしてシエンが。指先を粉だらけにして、包みかけの餃子を手にしたまま、固まっていた。
 夏服、着てる…出会った時は冬服だったのに。
 君と会えなくなってから、もう、それだけの時間が過ぎてしまったのか。

「や、やあ、シエン」
「……エリック……」

 紫の瞳がこっちを見た。美味そうなにおいに包まれて、オレも彼も動けず、話せない。『コーヒー一緒に飲まない?』何度も練習してきた言葉が、いくつもの細かい粒子にばらけてすぱーんっと四方に飛び散ってしまった。

 ざっしざっし。
 ざっし、ざっし。

 何だろう。どこかで、布を引っかくような音がする。

 ざっし、ざっし……

 首の後ろに、ぷにっとした柔らかい小さなものが、ぎゅーっと押し付けられる。と、思ったら、やわらかくて、あったかくて細長いものが、ふにゃっと頭に被さってきた。

「あ……」

 シエンの顔から強張りが抜ける。
 何?
 一体何があったんだ?

「ぅにゃう!」

 得意げな声が、頭の上で響いた。それこそすぐ近くで。しなやかなしっぽがにゅんっと耳のすぐそばをかすめる。ふかふかの毛皮が首筋に当たり、こしょこしょくすぐったい。近過ぎて姿は見えない。だけど正体はすぐにわかった。

「えっ? あれ、オーレ? いつの間にっ」
「気がつかなかったの?」
「うん……全然。あ、餃子作ってるの?」
「うん。夕食に」

 そっと紙袋を食卓の上に載せ、キッチンに向かう。蛇口を捻って丁寧に手を洗い、食卓へと取って返す。

「手伝うよ」
「あ……うん、ありがとう」
「包んだり、乗せたりするのは得意なんだ。でも作るのは始めてだから……お手本、見せてくれる?」
「……うん」

 シエンから椅子一つ分、空けて隣に座る。

「こうやって、スプーンで皮の上にタネを載せるんだ。大きさは、これぐらい」
「ふむふむ……」
「次に、皮の周りに水をつけて……乾かないうちに包んで、ギャザーを寄せて、くっつける」

 あっという間にタネがきちっと包まれ、餃子の形になった。

「なるほど。折り紙みたいだね」
「そうだね、似てるかも」

 仕組みと手順さえわかれば後は簡単だ。シエンの動きを思い出しながら、皮にギャザーを寄せてきゅっと包む。

「……できた」
「OK、その調子。タネの分量はもうちょっと減らした方がいいかも」
「そうなの?」
「焼くと膨らむから」
「なるほど、膨張を計算に入れるんだね……」

 二つ目は、一つ目に比べて少しほっそりと小さめに作った。

「こう?」
「そう、そんな感じ!」
「ずいぶん沢山作るんだね。これ、全部焼くの?」
「多めに作って、冷凍しておくんだ。焼いてもいいけど、今日は蒸す予定」
「ああ、だからキッチンに蒸篭が置いてあったんだね」
「うん……」

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【4-21-9】一緒にコーヒーを

2010/12/04 20:03 四話十海
 
 ほっそりした指が、白くて丸い皮を手のひらに乗せる。小さなスプーンで一杯、具をすくい取って真ん中にちょこんと盛って、濡らした指で皮の円周をくるりとなぞり、ぱたぱたとギャザーを寄せて折り畳む。あっと言う間に餃子が一つできあがり。
 君の動作を目で追いながら、自分の手で動きをなぞる。最初はぎこちなく、少しずつ滑らかに……スケートと同じだ。

「あ」

 うっかり力を入れ過ぎた。皮が破れてしまった。

「大丈夫だよ、ちょっと貸して」

 破れた餃子を手にとると、彼は指に水をつけて、ちょい、ちょいと塗って、破れた場所にもう一つギャザーを寄せた。

「わあ、直った」
「皮に水をつければ、けっこう伸びるんだ。自家製だから」
「えっ、皮から作ったの?」
「……うん」
「すごいなー。本格的だ!」

 ほんのりと頬の周りに紅が広がる。柔らかなパステルで軽く円を描いたように。嬉しいのかな。照れてるのかな? 見てると何だか自分まで咽の奥がくすぐったくなってくる。

(会いたいと願い続けた人が今、隣にいる)

 シエン。
 夢みたいだよ。君とこうして、また同じテーブルに着くことができるなんて。
 二月から三月、四月、そして五月。何を見ても何を聞いても、君を思い出さずにはいられなかった。
 三カ月の月日を経ても、君を求める気持ちは色あせない。磨かれ、余分なものが削ぎ落とされ、くっきりと輪郭が浮かび上がっている。さらに隔てられた時間とともに、痛いほどの激しさは徐々に鋭さを潜め……燃え盛る炎から、オレンジ色のロウソクの灯りへと変わっていた。
 穏やかな灯火。けれど内に秘めた熱さはいささかも変わることはない。
 どんなに隔てられていても、ずっと燃え続ける。決して消えることはない。

 好キダ。
 愛シテル。
 君ヲ離サナイ。

 今必要なのは、激しい求愛の言葉じゃない。君とオレの距離を繋ぐ、ゆるやかな空気。何でもない日、掛け替えのない日常の積み重ねなんだ……多分。
 きっと。

「これ、中味は何が入ってるの?」
「ひき肉と、白菜と、ニンニク。あとニラとネギと、ごま油」
「野菜が多いんだね」
「うん、その方がバランスとれるから」

 できあがった餃子をペーパーを敷いたトレイの上に、きちんと縦列横隊で並べて行く。
 作っている間、妙に髪の毛ががしがしと引っ張られるような感じがしたけど、今はそれどころじゃない。

(シエンと同じテーブルについて、同じことをして、同じものを見ている。一緒に、同じ作業をしている)
(これ以上に大事なことがあるか?)

「あ……これ、何となくラビオリ作るのに似てるな」
「ラビオリって?」
「パスタの一種だよ。小麦粉を練って作った皮に、スパイスと混ぜたひき肉を入れて……チーズをかけて焼いたり、ソースで煮たりするんだ」
「わあ、それじゃそっくりだね」
「うん、見た目もよく似てる?」
「じゃあ、これパスタソースかけても美味しいかな?」
「……材料も中味も同じなんだし、けっこうイケるかも? ラビオリは皮を二枚を張り合わせて作るんだ。一回茹でてから、オーブンで焼く事が多い」
「あ、じゃあちょっと違うかな。餃子は、フライパンだから」
「そうなんだ!」

 あれ、首をかしげてる。可愛いな。小鳥みたいだ。口元が自然にゆるむ。

「作ってるとこ見るのは始めてだよ……オレにとって、餃子ってでき上がってパックに入ってるか、お皿の上に乗ってる物だったから」
「そっか……」
「家に居る時もあまり、自分では料理しないしね。お粥煮るぐらいかな。ああ、あと、サンドイッチ!」

 舌の上にしっかりとしたバケットの味が蘇る。チーズと塩漬けのハム、アボカドにトマトとレタス。EEEと向き合ってかじった特大のサンドイッチ。噛んだ瞬間、バリっと音を立てて皮が割れた。

『エリック。伝えることを怠ってはいけないよ……』

 丁度その時、餃子のタネも皮も終った。何て見事なタイミング。まるで、時間の神様がとん、と背中を押してうながしているみたいじゃないか。
 さあ、言え。今を置いて時はない、と。
 粉だらけになった手を、二人並んでシンクで洗う。流れる水に指を浸しながら、勇気を奮い起こす。
 ぼんやりとした感情から思考を削り出し、息から音へ。ばらばらの声を繋げ、言葉を組み上げる。
 ずっと言いたかった。何度もシミュレートしながら、君に伝えるまでにずいぶん遠回りした『些細なひと言』を口にする。

「シエン」
「うん」
「あの紙袋……」
「ん……」
「……コーヒー…持ってきたんだ」

 きゅっと蛇口を締めて、シエンと向き合う。

「一緒に飲みたくて……だけど、だけど……つまり、それは、その……」

 えい、何てことだ。決心したはずなのに、言いたいことが上手くまとまらない。咽の奥で分解して右往左往に迷走し、するりするりと記憶のひだに潜り込む。
 一杯のコーヒーに籠めた想いは何だ? スタバで通い詰めた理由は? カフェインの補給なら署の休憩室でもできる。あの店でなければいけなかったのは何故だ?

「……君と一緒に居たかった。同じ場所で、同じ時間を過ごしたかったんだ」

 シエンはゆっくりと首をめぐらせ、食卓に置かれた袋を見た。緑の円の中に白く浮かぶアルファベット。黒を背景に描かれた人魚のロゴマークのプリントされた、茶色いざらっとした紙の手提げ袋を。

「あの店のコーヒー……もうずっと、飲んでないな」
「飲む? アイスのソイラテ」

 すたすたとテーブルに行き、コップをとり出した……あれ? 結露してる!

「餃子つくってたから……時間たっちゃったね」

 氷はすっかり溶けてしまっていた。アイスと言うより、もはや室温だ。

「そうだ、冷たい牛乳を足せばっ!」
「……ソイラテに?」
「ああっ、そうだったっ」

 ソイミルクは植物性。
 牛乳は動物性。
 どちらもミルクだから相性は悪くないけれど、混ぜたら牛乳の風味がソイミルクの味を飲み込んでしまう。

「それじゃ意味ない!」

 何のためにソイラテにしたんだか!

「えーっと、えーっと、氷……入れたら薄くなっちゃうし、水……もだめかっ」

 冷蔵庫の前でおろおろしていると、くすっと笑う気配がした。
 今、キッチンにいるのはシエンとオレだけだ。自分が笑った自覚はない。と、言うことはつまり……
 そろりと振り返る。眼鏡のフレームと裸眼の視界、そのぎりぎりの境目に彼の笑顔が見えた。

「いいよ、そのままで。せっかく持ってきてくれたし」
「う、うん………」

 笑った。シエンが笑ってる。
 ぎくしゃくとコップを持ったまま体の向きを変える。クリアな視界の真ん中で、君の姿を捉える。

「はい、コーヒー……室温だけど」
「ありがとう」

 夢じゃない。現実だ。本物の、生きた君がオレの目の前で笑ってる!
 ラッキー。ハレルヤ! ウラーーーーーッ!(※デンマーク語で『万歳』)

「月ごとの限定メニューとか一通り試してみたんだけど……結局、これに落ち着いた」

(あれ? 何でオレ、どうでもいいこと説明してるんだろう……)

 こくっと一口飲むと、シエンはあれっと首をかしげた。

「こう言う味だったかな? 何だか、覚えてる味よりあっさりしてる」
「ソイラテだから……って言うか、氷も溶けちゃってるしね!」

 頬が熱い。たぶん今、顔の真ん中に真っ赤な斑が広がってるだろうな……血管に沿ってじわじわと、クレヨンで書きなぐった謎の地図みたいにくっきりと。北欧系はこう言う時、すぐ顔に出る。

(熱い……Hot……あ、そうだ)

「ホットビスケットもあった方が良かったかな」
「ううん。いいよ、自分で作った方が早いし」
「そ、そっか、そうだね、ここ、でっかいオーブンもあるし!」
「うん、大きいから火力が強いんだ。だから最初に焼いた時は、ちょっと生地がぼそぼそしちゃった。でも今はもう完璧に覚えたよ。オーブンの癖をつかんだから!」
「使いこなしてるんだね」

 オーブンに軽く触れながらシエンは誇らしげに胸を張った。
 
「Yes!」

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【4-21-10】にらまれてもキニシナイ

2010/12/04 20:04 四話十海
  
 スモールサイズのラテは小さい。緊張してのどが乾いていたせいもあるんだろう。だんだん底が見えてきた。もうすぐ、飲み終わってしまう。オレがこの場に居る理由が、だんだん残り少なくなって行く。
 刻一刻と減って行くラテをにらみながら次に言うべき言葉を探していると、シエンの方から声をかけてきた。

「今度は……さ」
「ん?」
「氷が溶ける前に飲みたいな」

 こくっとコーヒー味の残る唾を飲み下す。たった今、耳から入ってきた言葉を頭の中で整理して、何度も復唱する。

「それ……また……会ってくれるってこと……かな?」

 語尾に力が入らない。抱えた願いの大きさに、声が震える。我ながら何て大それたことを口にしてるんだ!

「……」

 あ。あ。あ。
 うなずいた!

「俺も一人だと……寂しかったみたい」

 神様。天使様。ヴァルハラのご先祖さま。
 ひょっとしてオレ、今、この先の人生全ての幸運を使い切っちゃったかもしれない……ああ、それでも悔いはない!

「うれしい………よ……」

 君のいなかった時間。色も、温かさも、味さえも失われていた灰色のざらざらした記憶が、一気に息を吹き返す。鮮やかな色彩を取り戻し、枯れた川を澄んだ水が駆け巡る。乾いた大地に一斉に緑の草木が芽吹き、花が開く。

「ごめんね……会いに………行けなくて。俺……どうしても……」
「ん………あ、ああ……オレも……勇気出せずにいたら……ある人が背中押してくれた」

 もぞ、と頭の上で小さな生き物が動く気配がした。

「いや、蹴りかな?」
「オティア、気にしてたから」
「……うん……聞いた……いでっ」

 オティアの名前に反応したらしい。ちっちゃな口が髪の毛をくわえ、思いっきり引っ張った。
 がし、がし、がしっと。
 あ、爪が入った。

「オーレ、だめだよ!」
「は、はは平気平気、大丈夫だよこれぐらい!」

 飲み終わったコップを片づけ、できあがった餃子の一部を平たいタッパーに詰める。

「重ならないようにね。くっついちゃうから」
「OK」

 並べた餃子がずれないよう、慎重に冷凍庫にしまった。静かに、静かに、慌てずに。タッパーを安置して、ぱたりとドアを閉める。

「エリック」
「はい?」
「そのうちに……聞いてほしいな。色々、あったから」
「うん。聞かせてください。君のことなら、なんでも聞く」

 ごんごん、と低い音が響く。扉がないから壁を叩いたらしい。なんとも豪快なノック……ガーディアンのお出ましだ。

「エリッーーーク」

 わあセンパイ、その笑顔が怖いよ。

「明日の朝、早いだろ?」

 暗に、いや露骨に言ってる。『そろそろ帰れ』と。

「いや俺、ナイトシフトで…」
「エリック?」

 微妙に声にドスがきいてる。指をバキボキ鳴らす前に、大人しく退散した方がよさそうだ。

「……そろそろ帰らなきゃいけないみたいだ」
「あ、ちょっと待って」

 シエンが冷凍庫を開けて、ついさっきしまったばかりのタッパーを取り出した。

「夕飯、まだなんでしょ?」
「うん」

 ちらっとセンパイの顔をうかがい、それとなく付け加える。

「食べてく時間も無いし」

 シエンはいそいそとフライパンを取り出し、コンロに火を入れて油を引いている。

「焼くから、ちょっと待ってて」
「えーと、もしかしてテイクアウト用?」
「うん。蒸すと、べしょべしょになっちゃうから」
「え……あ……ありがとう」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

「本当は何か主食も着けたいんだけど、ご飯、まだ炊けてなくて……」  
「十分だよ。それじゃ、シエン。またね」
「うん……お仕事、がんばってね」
「うん!」

 焼き上がった餃子をタッパーに詰めて、来る時持ってきた紙袋に入れてくれた。
 ほかほかと美味そうなにおいのする袋を抱えて居間に引き返す途中で、腕組みをしたオティアに出くわした。

「あ」

 しゅたん、と肩からオーレが飛び降り、飼い主の腕の中へ。ずーっと乗っかっていたもんだから首の周りが何となくすーすーする。軽いからほとんど居るって意識してなかったよ。
 オティアはぎろりとこっちをにらんで、キッチンへと入って行った。

 ありがとう。

(きっと言葉に出すと、またにらまれるんだろうな)

 居間を通り抜け、玄関に向かう途中でまた誰かとすれ違った。

「あ、どーも……」

 軽く挨拶して、はたと気付く。

「やあ、スヴェンソンくん」
「こ、こんばんわ、ローゼンベルクさん」

 いつ帰ってたんだ!? ものすごくいい笑顔だ。怖い。怖いよ。取調室で対面してる時の比じゃないよ!

「……おじゃましてます」

 表情一つ動かさずに彼は玄関の方角を視線で示し、ただひと言。

さようなら、スヴェンソンくん」
「さ、さようなら」

 そそくさと玄関に向かう。扉の前にセンパイが腕組みして立っていた。口をヘの字に結んでぎろりとにらみ付けてくる。
 深々と頭を下げて一礼する。

「………ありがとうございました」
「俺は、何もしていない」

 じろっと手の中の紙袋に視線を落とし、ふーっと息を吐いた。肩から力が抜け、ヘーゼルブラウンの瞳から鋭い光が消えた。

「またな、エリック」
「……はい!」
 

 ※ ※ ※ ※
 
 
 その夜、サンフランシスコ市警察ではちょっとした異変が起きた。
 早めに出勤してきた夜勤の署員と、慌ただしく業務の締めくくりにかかる遅番の署員とでごった返す署内を、金髪のひょろながバイキングがふよふよと歩いて行く。
 それ自体は別に珍しいことじゃない。ハンス・エリック・スヴェンソンはここで働いているのだから。勤務態度も真面目で、少し早めに出勤してくるのもよくある事だ。
 だが……
 スターバックスの紙袋を手に、にへにへとゆるみ切った笑顔で歩いてくる様子は傍から見てあまりにも「異様」だった。しかもどこに頭を突っ込んだのやら、ただでさえつんつんに堅い髪の毛がぐしゃぐしゃのもしゃもしゃ。そのくせ、全身から幸せそうなオーラがだだ漏れなのだ。

(酔ってる?)
(まさか、何か危ない薬をやってるとか……ないよな?)
(実験で何かヤバいもの吸い込んだか?)

 白っぽい上着を羽織ったエリックがへにょへにょと歩いて行く先々で、さあっと人波が左右に別れる。さながら映画「十戒」の1シーン。無言のうちに離れてゆく人々の中、ドレッドヘアーのアフリカ系の男性が思い切って声をかけた。

「エリック」
「……やあ、キャンベル」
「お前……ニンニクくさいぞ?」
「え?」

 きょとんとするエリックのすぐ脇を、黒い長毛のシェパードがハンドラーを引きずり、全速力で駆け抜けて行った。

「あ……ヒューイ……」
「中華料理でも食ってきたのか?」
「ううん。まだだよ」

 答えながらエリックは、手にした紙袋を撫で、ほわほわと幸せそうに笑うのだった。

「……それ、何だ?」
「うん、餃子」
「餃子……か」
「夕飯、食べてくる暇なかったから……ね。テイクアウトしちゃった」

 休憩室のテーブルに袋を置き、幸せそうにコーヒーを注ぐバイキングをキャンベルは見守った。やや遠巻きにして。

「イタダキマス」

 どこで覚えたんだろう。
 コーヒーを飲みながら、ミニサイズのクロワッサンを食うみたいにばくばく餃子をほお張ってる。
 餃子オンリー、ちまきもシュウマイも蒸かし饅頭も無し。ひたすら餃子、餃子一筋。
 この間のミルク粥といい、何だってこいつの持参する弁当は妙な方向に偏ってるんだろう? いや、料理自体はおかしくないんだ。ただ、こいつの持ってきかたと言うか、食い方に問題があるだけで……。 
 
「エリック」
「ん?」

 ニラを口の端にくっつけ、ゆるみ切った顔で振り返るエリックを見た瞬間、キャンベルは悟った。如何なる突っ込みも今は無意味なのだと。

「……食い終ったら、歯、磨けよ」
「あー、うん、そうだねー。虫歯になったら困るものね……」
「そうじゃないんだけど……」
「ふぇ?」
「あ、いや、何でもない」

 やれやれ。
 ヴァルハラのご先祖が見たら、嘆くだろうなあ……いや、斧で全力突っ込みか?

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【4-21-11】もう一度、ここから。

2010/12/04 20:06 四話十海
 
 夕食の後、キッチンで明日の弁当の仕込みをしていると静かな足音が入ってきた。
 レオンにしては軽い。ヒウェルはさっき帰った。おそらく双子のどちらかだ。遠慮しながらそっと近づいてくる、これは……

「……どうした?」

 エプロンの紐を解き、手の水気をぬぐいながら振り返る。予想通り、シエンが居た。

「あの……あのね」
「ん?」

 ほてほてと近づいてくる。口の中で何かつぶやいていた。声が小さいのは、何か言おうとして迷っているからだ。自分から近づいてくるのは……俺に聞かせたい事があるってことだ。ゆっくりと上体を屈め、顔を寄せる。

 小さな。
 ため息よりもかすかなささやきが、言葉として聞こえるまで。

「ディフ……」

 最初に聞き取れたのは自分の名前。続く言葉は、聞き慣れた……そう、悲しいことに聞き慣れた謝罪の言葉ではなかった。

「ありがと」
「俺は………何もしてないよ?」
「そんなことないよ」

 声がしっかりしてきた。その事実に勇気づけられ、ためらいながら受け入れる。肯定の言葉を返す。

「………そうかな」
「心配ばっかりかけて、ごめんね。俺のこといつも見ていてくれて。待っててくれて……ありがとう」

 かろうじて涙はこらえた。
 何て表現すればいいんだろう。今、この瞬間、体中を満たす温かな潤いを……ただひたすら嬉しくて、ごく自然に手を伸ばし、金色の髪の毛をくしゃっとなでた。さらさらした手触りが指の表面をくすぐる。
 シエンが抱きついてくる。胸の中に包み込み、しっかりと抱き返した。
 あったかい。
 子供の体温ってのは高いんだな……

 去年の十一月、オークランドの遊園地での出来事がまざまざと蘇る。
 ぷかぷかと響く賑やかな音楽と、お菓子みたいな鮮やかな色彩の飛び交う中、回転木馬の前に立っていた。確かに視線を合わせているはずなのに、冷めた紫の瞳は俺の存在をすり抜けて、ここではない別の何処かをさまよっていた。
 たった一度の拒絶に手足は強ばり、心臓は凍りつき……それ以上、歩み寄ることができなかった。口にする言葉は思うことの半分もくみ取ることができず、やっとの思いで吐き出した声は冷たい壁に遮られ、滑って落ちた。

 あの日手のひらをすり抜けて、透明な壁の向こう側に行ってしまったと思った大切な子が……帰ってきた。
 帰ってきてくれたんだ。

 やっと。

(お帰り、シエン)
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 朝方、街を覆い尽くしていたミルクのような霧も、お昼にはすっかり晴れた。雲ひとつない空は目にしみるほど青い。降り注ぐ太陽の光はファーマーズマーケットに行った時より一段とまぶしく、手をかかげて陽射しを遮った。
 そろそろ、帽子を被った方がいいのかもしれない。

 シエンは歩いていた。
 マーケット通りに沿って南西に、ケーブルカーの発着所に向かって。
 歩いているうちに、シャツの内側がしっとりと汗ばんできた。自然と口の中が渇き、飲み物が欲しくなってくる。

 何を飲もう。
 やっぱりソイラテがいいかな。ホットじゃなくて、アイスで。
 靴屋と薬局の前を通り過ぎる。空気に混じる濃厚なコーヒーの香りが鼻をくすぐる。目的の店はすぐそこだ。グリーンの円に白い文字、白抜きの人魚の描かれた丸い看板の下でちょっとの間、立ち止まる。
 ガラスの向こうでひょろりとした眼鏡をかけたプラチナブロンドの青年が、一人でコーヒーを飲んでいる。
 使っているのは店のカップではなく、ステンレスのタンブラーだ。かじってるサンドイッチにはきっとエビが入ってる。

 ほんの少し背中を丸めてコーヒーをすする姿が、イースターにもらったウサギの絵と重なった。
 わずかに頬を緩めるとシエンはドアを潜り、中に入った。食事はもう済ませてきた。必要なのは飲み物だけ。

「アイスのソイラテを一つ、スモールで」

 ひんやりとしたプラスチックのカップを片手に、テーブルに歩み寄る。エリックがサンドイッチから口を離し、顔をあげた、
 
「相席、いいかな」

 血管が透けて見えそうな白い肌が、さあっと赤くなる。頬骨の周りにきれいなピンク色が広がり、徐々に濃くなってゆく。眼鏡の向こうの青緑の瞳が細められる。
 口の端にマヨネーズをつけたまま、エリックは静かにほほ笑んだ。

「……もちろん!」

(テイクアウトpart2/了)
 
 
 バイキングと向かい合った席に腰を降ろすと、シエンはひょいと紙ナプキンをさし出した。

「マヨネーズ、ついてるよ?」
「……あ」

 ナプキンを受け取り、慌ててごしごしと拭っている。それから丁寧にたたんで、ぽそりと言った。

「美味しかった」
「サンドイッチが?」
「いや……あの、この間の餃子」
「そっか……よかった。そのタンブラー、自分で持ってきたの?」
「うん。入れ物持参するとちょっとだけ安くなるし、家や仕事場で飲むのにも使える。何より蓋がしっかり閉まるから、ひっくり返してもこぼさない」
「それ、便利だね」
「うん。かなり重要」
 
 コーヒーを飲む合間に他愛のない話をする。以前はただ沈黙を紛らわせ、時間を潰すためだった。
 今は違う。
 交わされる言葉の一つ一つに願いが込められている。しっかりとした一つの意志が流れている。

 知りたいから。
 知ってほしいから。
 昨日よりも。今よりも、もっと、近くへ。

「……俺も使ってみようかな」
「いいね。ここにもいろいろ売ってるよ。季節限定とか、サンフランシスコ限定のデザインもある」
「シンプルなのがいいな。こんな感じの」
「そ……そっか」

 積み重ねられる『何でもない時間』が二人の間を埋めて行く。少しずつ、少しずつ。
 やがてしっかりした橋となり、道となるその日まで……。


(第四話スパイラル・デイズ/了)

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【ex12】進路指導

2010/12/04 21:12 番外十海
  • 拍手お礼用短編の再録。2007年春の出来事。
  • 四月と言えば日本では新学期。最上級生への進級を控えて、日本組の高校生たちは進路指導を受ける事に。
  • 一方、よーこ先生もまた……

【ex12-1】進路指導 (生徒編)

2010/12/04 21:16 番外十海
 
 戸有高校の第二校舎の西の片隅に、小さな部屋がある。窓は大きく、壁には品の良い油絵が飾られ、ふかふかのソファとテーブルが向かい合うように設置されている。場所が場所なだけに西日が差し込むとまぶしいが、それ以外はいたって快適な部屋だ。窓の外は芝生の生い茂る中庭で、春には満開の桜を間近に見上げることができる。

 この小さな部屋の入り口には、こんな札がかかっていた。

『進路指導室』

 時は三月、桜のつぼみはまだ堅く、学年ごとに差はあれど、生徒は皆、誰しも己の将来に思い巡らせる季節。
 折しも進路指導室では、結城羊子がちょこんとソフアに浅く腰かけ、生徒の一人と神妙に向き合っていた。 
 ここの椅子は柔らか過ぎて、うっかり深く座ろうものならずぼっと奥に沈み込んでしまうのだ。

「えーと……改めて確認するが、遠藤始」
「はいっ」
「お前さんの第一志望は……」
「正義の味方です」

 さらっと言いやがった。何の気負いも、力みもなく、ごく普通にさらりと。それ故にわかるのだ……こいつは本気だ、と。

「前々から言おうと思ったんだが、それは、その、何と言うか……行動が結果的に示す生き様であって、職業じゃないぞ?」
「じゃあ、スーパーヒーロー」
「同じだ、同じ! って言うかお前、第二志望も第三志望も、全部『正義の味方』だろう!」
「他に選択肢はありませんから!」
「…………」

 羊子は額に手を当ててうつむいた。
 落ち着け、落ち着け。こいつはふざけてる訳じゃない。大まじめに考えた結果がこれなのだ。だとしたら、自分の務めは遠藤の希望に沿った進路に導いてやることだ。

「なあ、遠藤。お前はさ。変身すれば今だって十分ヒーローだろ? 今話し合ってるのは変身前のことなんだ」
「そ、そうだったーっ!」

 がく然とした表情で遠藤は拳をにぎり、ふるふると震え、天井をあおいで吠えた。

「何と言う不覚っ! 自分の未熟さが恥ずかしいです、先生っ」
「うんうん、そのための進路指導だからね……それで。高校を卒業してからは、どうしたい? その、変身前の『世を忍ぶ仮の姿』は」

 その言葉で遠藤は瞬時に復活。しゃきっと背筋を伸ばし、目をきらきらさせて言い切った。

「世の中の為になる仕事をしたいです」
「ってーと、あれか。警察官とか、レスキュー隊員とか……」
「ですねっ!」
「だったら、もーちょっと社会の仕組みとか法律を学んでおいた方がいいと思うな」
「おおっ! その通りです! 俺はまだまだ学びたい! ヒーローとして、一皮剥ける為に!」
「うんうん。その心意気やよし……」
「ってことで、進学を希望します」
「了解。じゃ次、風見を呼んで来てくれ」
「フラッシュ!」

 サムズアップを決める遠藤の口もとで、きらっと白い歯が光る。これはすなわち、『OK』と言う意味なのだった。
 

 ※ ※ ※ ※
 

「それで……この間の調査票では、進学ってことだった訳だが……今もその意志に代わりはないか?」
「はい、先生」

 風見光一は赤い眼鏡の奥の瞳をしっかりと見返し、うなずいた。

「文系かな。理系かな? ってか、大学で何を勉強したいか、もう決めてあるのか?」
「はい」

 すう、と息を吸い込むと、風見ははっきりと告げた。

「俺、民俗学をもっと詳しく勉強したいんです。だから、大学は社会系の学部がしっかりした所に進みたい」
「なるほど、そう来たか」
「ハンターとして、自分の立ち向かう相手のこと……夢魔や妖しのことをしっかり学びたいし、神社のこととか、ご祭神の十六夜姫のことも知りたいんです」
「確かに、民俗学だな、うん」
「それから……学校の先生の資格を取りたいなって、思って」
「え?」

 羊子先生はぱちぱちとまばたきをして、小さく首をかしげた。

「ってことは、その、将来は……社会科の先生になりたいと」
「……できれば」
「民俗学で、社会の教師って……」

 メモを取る手を休めると、かすかに頬を染めて、ペンをくるっとバトンみたいに回している。さらに、くすぐったそうに肩をすくめた。すごく、照れ臭いんだ。

「それ、私と同じじゃないか!」
「あー………」

 言われて、改めて気付く。確かにその通りだ。

「そう言えば、そうですね……」

 別に意識してた訳じゃなかったんだけど、何だか急にこっちまで照れ臭くなってきた。

「あーその、べ、別に先生のマネしてる訳じゃないですから!」
「う、うん、それは、わかる。そう言うことなら、相談に乗りやすいかなー、こっちとしても! 私の頃とはいろいろ変わってるかもしれないけど」
「そ、そーですねっ、はは、はははっ」

 差し込む西日が部屋の中を赤々と染め上げている。かっかと熱い頬の赤みも、きっと今なら目立たない。
 ……って思いたい。

「OK、それじゃ風見は文系、進学っと……」

 カリカリと手元のノートに書き込み、きゅっと眼鏡の位置を整えた。

「じゃ、次。藤島を呼んで来てくれ」
「はい!」
 
 ※ ※ ※ ※

「藤島は音楽科希望、か」
「はい。もっと声楽を続けたいし……あと音楽の先生もいーかなーって……」
「……だから第二希望に教育学部、と」
「はい! よーこ先生見てたら、若い子を教えるのもやりがいありそうって思って」
「こらこら、高校生が若い子って……」
「んー、小学生とか?」
「ま、確かに小学校の教員試験は音楽もあるしな……OK、藤島も進学、と……じゃ、次はロイ呼んできてくれ。多分、部室にいるから」
「はーい」  
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 開口一番、ロイはきっぱりと言い切った。

「コウイチと一緒です」
「………まだ何も聞いてないぞ?」
「他に選択肢はアリマセン」
「いや、こっちとしても、そーゆー訳にも行かんから」

 にゅっとのびあがると羊子はぱたぱたと教え子の肩を叩いた。

「まずは落ち着け、な?」
「……はい」
「さて、と」

 きゅっと足を組み、羊子はほんの少し体を前に乗り出した。

「お前さんの場合、まずは卒業後にアメリカに戻るか、このまま日本にいるかってチョイスがある訳だが、それはもう決めたのかな?」
「ハイ! おじい様も、納得するまで修業して来いと言ってマシタ」
「なるほど……ちなみに風見はな、大学で民俗学を勉強したいそうだ」
「民俗学!」

 ぱあっとロイの顔が輝く。

「Fantastic! 日本の神秘。歴史。素晴らしいデス! ボクも、もっと詳しく勉強シタイ!」
「うーむ、さすが日本大好き少年……」
「はい、日本、ダイスキです!」
「じゃ、ロイも文系、大学進学っと……」

 かりかりと書き込みつつ、羊子先生は『にま』っと口角を上げてほほ笑んだ。

「ってことは多分、来年も君らの担任だな」
「Oh! 嬉しいですっ! よろしくお願いしマス!」
「うん、うん。三年は忙しいぞー。何てったって六月には修学旅行がある」
「修学旅行!」
「今じゃ大抵の学校は、二年の秋に行くけどな。うちの学校は古式にのっとって三年の六月に行くんだ」
「行き先は? 沖縄ですか? それとも北海道?」
「うんにゃ。京都と奈良」
「おおおおおおおおっ!」

 その瞬間、ロイの背後には東本願寺の鐘の音がおごそかに鳴り響き、清水の舞台から白いキジの群れが飛び立っていた。

「キョウト! ナラ! フジヤマ! ゲイシャ!」
「混ざっとる混ざっとる」
「金閣寺! 銀閣寺! 興福寺の阿修羅像! 薬師寺! 広隆寺の弥勒菩薩! 三十三間堂! 正倉院! 法隆寺! 奈良の大仏!」
「うん、うん、順番ワヤになってるけどその通り」
「太秦の映画村!」
「……そうだね、それがあったね……」
「素晴らしいです。修学旅行バンザイ!」
「うんうん、よかったよかった」

 んしょっと立ち上がり、羊子先生は感動に打ち震える金髪頭をなでた。

「でも春休み中に一回ぐらい帰国しとけ? おじい様もご両親も、きっと寂しがってるから」
「あ……」
「お前、結局クリスマス休暇も新年も、家族に会ってないだろ」
「そのことならご心配無く。おじい様が日本に来る予定になっています」
「え、そうなの?」
「映画のキャンペーンで来日するそうデス。コウイチのおじい様にも会いたいと」
「マジか!」
「ぜひ、先生にも、神社の皆さんにもご挨拶したいと言ってマシタ!」
「おーおーおー、そいつは楽しみだ……うん、喜ぶよ、母さんたちが」
「光栄デス」
 
 ロイの祖父ウィリアム・アーバンシュタインは、ハリウッドの映画スター。うかつに地方都市なんぞを訪問したら大騒ぎは必至。もちろん、本人もその事を心得ているから変装するつもりなのだろうが……
 元が元なだけに、どうしても人目を引いてしまう。

「現地に溶け込むよう、和装で来ると申してオリマシタ」
「……いや、それ、余計に目立つから」

 それ以前の問題でした。
 
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【ex12-2】進路指導(よーこ先生編)

2010/12/04 21:17 番外十海
 
 今日で受け持ちのクラスの進路指導が全て終った。
 三年のクラス分けは進路希望に沿って行われる。生徒の中には、来年からは羊子の担任から外れる者も何人かいたし、逆に他のクラスから新しく入ってくる者もいる。そして、結果として三年間、担任することになる生徒も。
 
 初めて自分の将来とリアルな形で向き合い、悩み、あるいは目標に向かって手探りで進む。そんな彼らが愛おしくもあり、また頼もしくもあった。

(一年生の頃は、それこそでっかい水槽に落とされた金魚みたいに右往左往してたってのにな……)

 間もなく高校の第二学年が終わり、彼らは最上級生になる。それだけ別れも近づくのかと思うと、清々しい寂しさがじわっと胸の奥からにじみ出すのを感じた。
 しかしながら、一方で小さな手はてきぱきと自らの帰り支度を進めていた。ノートや手帖、筆記用具を愛用の鞄に詰め込み、よいしょっと肩にかける。コートはとっくにお役御免、薄いハイネックのカットソーの上にキャラメル色のジャケットを羽織るだけで十分に温かい。
 じきにハイネックがVネックになり、ジャケットも薄く軽くなって行くことだろう。

「お疲れさまでしたー!」

 同僚の先生たちに挨拶して教員室を出る。廊下を通り抜け、玄関を出て、校門を潜る所で携帯が鳴った。賛美歌103番 「牧人 羊を」……彼だ。

「こちら羊子。何かあった?」
「ああ、そんな怖い声出す必要ありませんよ、別に事件じゃありませんから」

 相変わらず、のほほんとした……と言うか、飄々とした、と言うか。教会で静かに聖書を朗読するときのような口調だ。もっとも、仮に夢魔の襲来を告げる時でも三上蓮は同じ口調、同じ声で喋るだろう。
 そう言う人だ。

「近くまで出てきたものですから、久しぶりに外で食事をしようと思いましてね……夕飯、まだでしょう?」
「うん、まだだけど」
「『トゥリパーノ』と言う店をご存知ですか? 一人では、いささか味気ないものですから。それでは、お待ちしています」

 切れた。
 まだ返事もしていないのに。しかも、件のイタリア料理店には歩けばほんの15分ほどで着いてしまう……自宅より、近い。

「参ったな……」

 こんな誘い方されたんじゃ、すっぽかす訳にも行かないじゃないか。
 しばし考える。そこそこの値段でしっかりと美味いピッツァとパスタの食べられる店だ。今日は金曜日だから、確かグラスワインのサービスがついてくる。そして、大仕事を終えた直後で羊子の胃袋はいい感じに空っぽだった。

 
 ※ ※ ※ ※
 

 緑色の木枠にガラスのはまったドアを潜ると、ほわっと温かな蒸気と、焼ける小麦、とろけるチーズとトマトの香りが押し寄せてきた。空っぽの胃袋がきゅうっと跳ねる。

「いらっしゃいませ、お一人様ですか?」
「いえ、人と待ち合わせしていて……」

 禁煙席の方へと視線を走らせるが、神父服姿の糸目の男の姿はない。
 ……あれ? と思った瞬間、グレイの上着を着た背の高い青年がこっちを見て軽く手を振った。

「……あ」

 椅子に座るなり、羊子は切りだした。

「何で私服着てるの?」
「いやだなあ、いくら私でも、年がら年中神父服で出歩いている訳ではありませんよ?」
 
 101205_0222~01.JPG
 illustrated by Kasuri
 

 内側のシャツは、濃紺の地に上着と同じ明るめのグレイの細いストライプ模様。ネクタイは締めず、ボタンを上一つ外している。さらに良く見ると、シャツのストライプにはわずかに、水色のラインが混じっていた。
 悪くないセンスだ。野暮でもないし、かと言って華美にもならず、過度に贅沢にもならず……堅苦しさもない。

「………意外」
「まさか、寝る時も神父服、とか思ってましたか?」
「ちょっとね」
「やれやれ……神社にご厄介になってた時は、神官服も着てたでしょうに……あ、どうぞ」
「さんきゅ」

 さし出されたメニューにさっと目を通す。

「いきなりドルチェから始めますか」
「一番大事だよ?」
「……はいはい」

 即断即決、注文を決めると羊子はやってきたカメリエーレーにすらすらと自らの食べたいものを詠唱した。

「えーっと……エビのパイ皮包みスープにシーザーサラダにシェフのお勧めパスタ、ラビオリとラザーニャとピザ・マルゲリータにホットのカプチーノ、ドルチェは洋梨のジェラートとティラミスの盛り合わせで」
「あ、私はパスタとスープとコーヒーをお願いします」

 カメリエーレは顔色一つ変えずに注文を全て記録し、最後にさらりと付け加えた。

「取り皿は二つお持ちしますか?」
「あー……一応、お願いします」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 本日のお勧めパスタはイカ墨だった。真っ黒なパスタをくるくるとフォークで巻き取る。

「これ、最初に食べようとした人は偉大よね」
「まあ、確かに真っ黒な食べ物は西洋ではあまり、馴染みがありませんからねえ」
「海苔なんかもそうだよね……あ、あと黒豆も?」
「羊子さん」
「はい?」

 結城さん、じゃない。羊子さんって呼んだ、今。

「先日のお見合い、断ったそうですね」
「あー、うん、あれはねー。お見合いってほどのものじゃないよ? お父さんの知り合いの宮司さんの息子、紹介されて、ちょっとお食事でも一緒にどうですかって言われてー」
「今の調子で食べまくった、と」
「うん、普通に」

 羊子の食べているパスタは既に二皿め、ピザに至っては三皿めだった。(一部三上とシェアしたからだ)
 
「なんか先方もあまり乗り気じゃなかったっぽくて。断りの電話したらほっとしてたみたいだよ?」
「そうなるように、あなたが自分で仕向けたのでしょう?」
「やーねー、人聞き悪い!」

 イカ墨のパスタをくいっと白ワインで流し込むと、羊子はにゅーっと眉を寄せた。

「だってこれが私の『普通』なんだよ? 下手にとりつくろった所で、結婚したらどーしたってバレるじゃない。この程度でビビるような相手と、どうして添い遂げることができますかってんだ」
「一理ありますね。ですが何も初手から飛ばさずとも……」
「最初が肝心」
「執行猶予って言葉ご存知ですか? あるいはお試し期間とか」
「まどろっこしい」
「しかしですね」

 開きかけた三上の口に、ずぼっと折り畳まれたピザが押し込まれる。けっこうな量があったのだが彼は顔色一つ変えずに咀嚼し、平然と飲み込んだ。

(かっわいくない! あぢーっとか、何するんですか、とか、ちょっとは慌てればいいのに……)

 だが、言わんとすることは伝わったらしい。以後は静かに口と手を動かし、合間に交わされる会話は料理の感想と当たり障りのない話題へと移って行った。
 
「遠藤は世の中の役に立つ仕事をやりたいって言ってた」
「おや、彼のことだからてっきりヒーローを目指すものと」
「……うん。だから、変身前の話」
「ああ、そう言う意味ですか」
「風見は大学で民俗学をやりたいんだって」
「なるほど、彼らしいですね」
「ロイは風見と一緒」
「そうでしょうね……ああ、そう言えば風見くんの幼なじみの彼女、藤島さんは?」
「音楽科」
「ふむ。では、来年も風見くんやロイくんと一緒のクラス、と」
「そゆことになるかな?」
 
 デザートのジェラートの最後の一口まできれいに平らげ、食後のコーヒーが出たところでこほん、と三上が咳払いをした。

「ところで、羊子さん」

 まただ。
 また、名前で呼んできた。

「何?」
「私、今年の9月29日で三十才になるんです」
「そうなんだ。おめでとう」
「ええ、ですからね」

 くい、と丁寧にナプキンで口を拭うと、三上蓮はまっすぐに羊子の目を見つめ、厳かに告げたのだった。

「そろそろ結婚しませんか?」

 ごぼっと飲みかけのカプチーノが逆流しそうになった。

「だ、だ、だ……誰が?」
「もちろん、私と貴女です」
「無茶言うな! あなた、神父でしょうがっ!」
「問題ありません。うちの宗派は妻帯も許可されていますし……何でしたら私が婿養子に入ると言う方法もあります。いや、むしろそうするべきなのでしょう」

 糸のように細い目が開かれる。瞼の合間から注がれる鋭い眼光に、羊子は氷柱を飲み込んだような冷たさを覚えた。

「結城の血筋を受け継ぎ、夢守り神社を守るために……ね」
「あ……」
「それが、あなたの為すべき務めだ。よもやお忘れではないでしょう?」
「忘れてなんか……忘れる訳なんか………」

 でも。でも、三上さん。私の気持ち、知ってるはずなのに、どうして?
 時が止まる。
 普通の人間には感知できない夢と現の狭間、すうっと三上が顔を寄せてきた。
 ……近い。だが逃げられない。強い意志の光を宿した瞳に射すくめられ、指一本動かせない。
 耳元でささやかれる。

「私なら、知っていますからね。貴女がかつて誰を愛し、今、誰を想っているか……」
「あ……」
「滅多にいるものではありませんよ? 何もかも全て知った上で、受け入れることのできる男なんて」

 時間が再び動き出す。
 
「ひどいよ、三上さん」
「……そうですね……少なくとも、イカ墨パスタを食べた直後にする話ではありませんでした」
「っ!」

 もわもわと髪の毛を逆立たせ、羊子はごっしごっしとナプキンで口を拭った。
 
「ぎゃーっ、ナプキンが黒いーっ」

 
 ※ ※ ※ ※
 

 アパートに帰るなり、速攻で歯を磨いた。吐き出す泡が、まだちょっぴり黒かった。

「ふー……」

 洗面所の鏡をにらむ。
 別れ際、三上に言われた言葉がまだ、耳の奥から抜けない。

『お忘れなく。最初にプロポーズしたのは、あなただ。私はただ、あの時の返事をしただけ』

 無意識のうちに、きゅっと胸元の勾玉を握りしめていた。白桃色に一筋混じる、サファイアの青を。
 
『9月までにはまだ時間がある。考えておいてください』
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 一方、その頃教会では……

「ただ今戻りました」
「お帰りなさい……あら?」

 見習いシスター高原小夜はちょこん、と首をかしげた。かすかにワインの香りがする。しかも教会の入り口の階段を上がる足取りが妙に軽やかだった。

「兄さん、何かいいことでもありました?」
「おや、どうしてです」

 三上がライトグレイのジャケットから袖を抜くと、小夜はすかさず慣れた手つきで受け取った。ミサの準備をする時とまったく同じ手順と動きで軽くブラシをかけてハンガーにかけ、クローゼットにしまう。

「……楽しそうな顔をしてます」
「いえ、ちょっと迷える子羊の背中を押してきたので」

 あたふたしながらナプキンで顔をごっしごっし拭っていた。よほど慌てたのだろう。滅多に見られるものではない。

「今後が楽しみだなーと」
「兄さんの事ですから、どうせ橦木(しゅもく/お寺の鐘を突く木の棒)でどつくくらいのことをやったんですよね」
「……また、酷い言いようですね」
「でも、そう外してる訳でもないでしょう?」

『ひどいよ、三上さん』

 確かに。去年の十二月にかました豆鉄砲の比でなかったことは確かだが……

「まぁ、否定はしませんよ」

 きっちり勘定は割り勘だった。
 うん、大丈夫。メリィちゃんは、確実にタフになっている。
 
 ※ ※ ※ ※
 
 そして四月。
 
「諸君、進学おめでとう。私が今日から君たちの担任になる結城羊子だ!」

 眼鏡をかけたちっちゃなよーこ先生が教壇に立ち、んっしょっと伸び上がって見渡す教室には、ロイ・アーバンシュタインと風見光一、遠藤始、そして……藤島千秋の姿があったのだった。


(進路指導/了)

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