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ローゼンベルク家の食卓

【4-21-7】ホットからアイスへ

2010/12/04 19:59 四話十海
 
 五月のよく晴れた午後、シエンはユニオンスクエアを行き交う人の流れの中を歩いていた。
 マーケット通りに沿って南西に、ケーブルカーの発着所に向かって。あと1ブロックも歩けば、見慣れたあの看板が見えてくる。グリーンの円に白い文字、白抜きの人魚が描かれたコーヒースタンド。そっと上着のポケットに手を触れる。かさり、とかすかに紙の感触……中味は白い紙に、ボールペンで丹念に描かれた絵が一枚。何度繰り返し見ただろう。もうすっかり何が描かれているか、覚えてしまった。
 眼鏡をかけた、ひょろりとのっぽの兎がテーブルに座り、ぽつんと一人で紙コップに入ったコーヒーを飲んでいる。
 場所は、これから自分が行こうとしているあの店だ。

 エリックが、待っている。ずっと自分の方を見ていてくれる。イースターに届いた絵が教えてくれた。その日から少しずつ前に進み、やっと今日、一人でここまでやって来た。
 けれど……。
 靴屋と薬局の間で足が止まってしまう。
 もう、コーヒーの香りが空気に混じっている。目的のコーヒースタンドはすぐそこだ。なのに、先に進めない。
 中に入って、エリックに会ったら何て言おう? どんな顔をすればいいんだろう?
 深いため息をつくと、シエンはのろのろと緑の看板に背を向けた。

 彼がいたらどうしよう。
 居なかったら、どうしよう。

 うつむき、とぼとぼと歩き出す。マーケット通りを北東に。今来た道を引き返す。

「……ただいま」
「お帰りなさいませ」

 法律事務所に戻ると、昼休みが終る頃合いだった。たったあれだけの距離を往復するのに、どれくらいの時間がかかったのだろう。
 何度も立ち止まりながら、少しずつ。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

 その日の夕方。
 件のコーヒースタンドではひょろりとした金髪の眼鏡男がコーヒーを頼んでいた。カウンターにMyタンブラーをことん、と乗せて。  

「ホットのソイラテ、トールで泡を多めに」

 蓋を外してタンブラーだけ渡す。この動作にもだいぶ慣れてきた。
 手紙を書こうと決めたその日の帰りに、この店で自分用のタンブラーを買った。コーヒーを飲むついでに待ってるんじゃない。シエンを待つためにここに通うのだと、自らに決意を突きつけるために。

「お待たせしました、トールのホットソイラテのお客様ー」

 赤いランプの下でマグを受け取り蓋を閉め、あらかじめ目をつけておいた席に座る。できる限りカウンターは避けることにしていた。彼が来た時、迷わず向いに座れるように。
 要するに、三月から四月を経て五月に至るまでの間、ハンス・エリック・スヴェンソンは、全力でシエンを待つ構えを続けていたのだった。

 じゅうい……とふわふわの泡をすする。
 そろそろホットだと暑いシーズンになってきた。それでもつい、頼んでしまう。時間をかけてちびちびと飲んでる途中に、シエンがひょっこり顔を出すんじゃないかって。

(こう言う所、まだ吹っ切れてないんだよな……三カ月も経つって言うのに)

 いつまで、こんな空しい宙づり状態を続けているのつもりなんだ?
 そろそろ、次の一歩を踏み出すべきなのだろうか。ああ、せめてシエンの気持ちの欠片でもいい、知ることができたのなら……まだ、来れないのか。もう、来るつもりがないのか。

「あ」

 ひょっこりと目の前に、金髪に紫の瞳が顔を出した。
 あいにくと待ち人ではなかったのだけれど。

「…やあオティア。元気?」
「まあな」

 せめて一瞬でも夢見ることができれば良かったのに。すぐに気付いてしまった自分がちょっぴり恨めしい。

「何か飲む?」
「アイスラテ」
「サイズは?」
「スモールでいい」

 アイスラテの入ったプラカップを持って戻ってくる。

「はい、おまたせ」
「ん」

 一口、二口。オティアは黙って冷たいラテをすすっている。話しかけることもできず、熱いラテをすする。OK、とにもかくにも動きはあった。ゼロではなくなった。だが、一気にマイナスに落ちない保証はどこにもない。現にこの前、彼が店に来たのが大嵐の幕開けだった。
 いや、待て、落ち着けエリック。
 タンブラーを傾ける。苦いコーヒーが泡の層をくぐり抜け、口の中に広がる。
 事態がどう動こうと、今より辛い状況にはならないじゃないか。…………よし、決めた。

 声をかけようとした刹那、オティアがぼそりと言った。

「あいつ、さ」
「ん…」

 足下をぴょいっとすくわれたような気分だ。目一杯張り詰めていた気力がすとんと抜けてしまった。どこに抜けたのかさえわからない。だが聴覚だけは研ぎ澄まされ、油断なく彼の言葉を追っていた。

「好きな奴がいたっていったろ?」
「うん、覚えているよ」
「でも、今、そいつは別の奴と付き合ってるって……」

 コーヒーをすすりながらじっと耳かたむける。あの時は、シエンが席を外している短い間だった。今は違う。聞かれて困る相手はこの店に居ない。制限時間を気にすることなく、この話題を展開することができる。
 オティアもそのつもりだ。
 だから口に出したのだ。

 ずっと、あれから考えていた。考える時間はたっぷりあった。

「……もしかして………その『別の奴』って……君のこと、かな」

 肩をすくめた。

「……そうか」

 BINGO。となると、次の予測もおそらく当たっている。口の端にまとわりつく泡を舐めとり、慎重に言葉を探した。
 静かに。静かに。焦ってはいけない。積み上げられたグラスを崩さないように。注がれた水をこぼさないように。

「………相手は」

 答えは意外に身近な所にあった。シエンとオティア、二人と同じくらい親しくて身近な存在。限られた人間関係の中で、恋愛対象となり得る相手。
 ローゼンベルク夫妻は論外だ。あの二人の間には、この世の何者も割り込む余地はない。
 と、すれば。
 残りはただ一人だ。

「……h?」

 返事はない。だが見返す瞳が雄弁に語っていた。
 ああ。
 やっぱり、あんちくしょうめか。

「そっか……そうだったんだ……」

 だから、ごめんなさい、なのか、シエン。
 失恋した相手が家族同然に毎日、夕飯食べに来るなんて。自分の双子の兄弟が今付き合ってる相手だなんて。
 忘れろなんて方が無理だ……。他の奴のものになった、もうそいつ以外見えてないってわかっていてもそう簡単に諦められるもんじゃない。
 いっそ攫って行けたらどんなに良いか。邪魔の入らない所へ。時間を巻き戻して奪い取ってやりたいと。
 心のどこかで、思わずにはいられない。いけないと分かっていても、止められるもんじゃない。どんなに時間が経っても、消し忘れた熾き火のように、ぶすぶすとくすぶり続ける……

 消せるのは、新しい炎だけ。新たな炎が強く燃えれば燃えるほど旧い熾き火は灰となり、やがて忘れ得ぬ痛みが残る。

「……待つよ」
「待ってても来ねーよ」

 あれ? 妙に挑戦的な口調だな。ほんの少しむかっとした。カフェインのせいか、アドレナリンのせいか。大人げないと知りつつ自然とこっちも口がヘの字に曲る。

「……そうかな」
「あのハンカチと、メモ。受け取ったの、俺だから」
「っ! そうなの?」
「ああ」

 予想すべきだった。あの時オティアも一緒に部屋に居たんだ!

「イースターのカードを受け取ったのも俺」
「えーっ!」
「机の引き出しにしまったっきりだし、まだ読んでないんじゃねーの?」
「何てことしてくれたの」

 あ、そっぽ向いてるよ。見覚えあるな、あの顔は……実家の猫がよくやってた。知ったことじゃない、あるいは我関せず。

「……それじゃ……オレは………」

 事は動いた。予想外の方向ではあったけれど、少なくとも拒絶されたんじゃないとわかった。それだけで、動くには十分だった。って言うか迷う暇はない。この機会を逃しちゃだめだ。チャンスの神は前髪しかないんだから!

「オレの方から、会いに行かなきゃならないじゃないか」
「そーすれば」
「そーします」

 くいっとラテを飲み干し、ひょいと手を出す。

「コーヒー代」
「…………」

 ちゃらちゃらと出された小銭をうけとる。きっちりラテ一杯ぶん、まるで最初から用意してあったみたいな手際の良さだ。

「ありがとう、オティア」
「……………さっさと行け」

 ほとんど表情は動かない。でもしかめっ面されたなって言う程度には、彼の表情が読めるようになってきた。

「うん。ありがとう!」

 まっすぐにカウンターに歩み寄り、改めてにコーヒーを二杯注文した。

「アイスソイラテ、スモールを二つ」

 自分でもびっくりするほど、はっきりした声が出せた。


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