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ローゼンベルク家の食卓

【4-21-11】もう一度、ここから。

2010/12/04 20:06 四話十海
 
 夕食の後、キッチンで明日の弁当の仕込みをしていると静かな足音が入ってきた。
 レオンにしては軽い。ヒウェルはさっき帰った。おそらく双子のどちらかだ。遠慮しながらそっと近づいてくる、これは……

「……どうした?」

 エプロンの紐を解き、手の水気をぬぐいながら振り返る。予想通り、シエンが居た。

「あの……あのね」
「ん?」

 ほてほてと近づいてくる。口の中で何かつぶやいていた。声が小さいのは、何か言おうとして迷っているからだ。自分から近づいてくるのは……俺に聞かせたい事があるってことだ。ゆっくりと上体を屈め、顔を寄せる。

 小さな。
 ため息よりもかすかなささやきが、言葉として聞こえるまで。

「ディフ……」

 最初に聞き取れたのは自分の名前。続く言葉は、聞き慣れた……そう、悲しいことに聞き慣れた謝罪の言葉ではなかった。

「ありがと」
「俺は………何もしてないよ?」
「そんなことないよ」

 声がしっかりしてきた。その事実に勇気づけられ、ためらいながら受け入れる。肯定の言葉を返す。

「………そうかな」
「心配ばっかりかけて、ごめんね。俺のこといつも見ていてくれて。待っててくれて……ありがとう」

 かろうじて涙はこらえた。
 何て表現すればいいんだろう。今、この瞬間、体中を満たす温かな潤いを……ただひたすら嬉しくて、ごく自然に手を伸ばし、金色の髪の毛をくしゃっとなでた。さらさらした手触りが指の表面をくすぐる。
 シエンが抱きついてくる。胸の中に包み込み、しっかりと抱き返した。
 あったかい。
 子供の体温ってのは高いんだな……

 去年の十一月、オークランドの遊園地での出来事がまざまざと蘇る。
 ぷかぷかと響く賑やかな音楽と、お菓子みたいな鮮やかな色彩の飛び交う中、回転木馬の前に立っていた。確かに視線を合わせているはずなのに、冷めた紫の瞳は俺の存在をすり抜けて、ここではない別の何処かをさまよっていた。
 たった一度の拒絶に手足は強ばり、心臓は凍りつき……それ以上、歩み寄ることができなかった。口にする言葉は思うことの半分もくみ取ることができず、やっとの思いで吐き出した声は冷たい壁に遮られ、滑って落ちた。

 あの日手のひらをすり抜けて、透明な壁の向こう側に行ってしまったと思った大切な子が……帰ってきた。
 帰ってきてくれたんだ。

 やっと。

(お帰り、シエン)
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 朝方、街を覆い尽くしていたミルクのような霧も、お昼にはすっかり晴れた。雲ひとつない空は目にしみるほど青い。降り注ぐ太陽の光はファーマーズマーケットに行った時より一段とまぶしく、手をかかげて陽射しを遮った。
 そろそろ、帽子を被った方がいいのかもしれない。

 シエンは歩いていた。
 マーケット通りに沿って南西に、ケーブルカーの発着所に向かって。
 歩いているうちに、シャツの内側がしっとりと汗ばんできた。自然と口の中が渇き、飲み物が欲しくなってくる。

 何を飲もう。
 やっぱりソイラテがいいかな。ホットじゃなくて、アイスで。
 靴屋と薬局の前を通り過ぎる。空気に混じる濃厚なコーヒーの香りが鼻をくすぐる。目的の店はすぐそこだ。グリーンの円に白い文字、白抜きの人魚の描かれた丸い看板の下でちょっとの間、立ち止まる。
 ガラスの向こうでひょろりとした眼鏡をかけたプラチナブロンドの青年が、一人でコーヒーを飲んでいる。
 使っているのは店のカップではなく、ステンレスのタンブラーだ。かじってるサンドイッチにはきっとエビが入ってる。

 ほんの少し背中を丸めてコーヒーをすする姿が、イースターにもらったウサギの絵と重なった。
 わずかに頬を緩めるとシエンはドアを潜り、中に入った。食事はもう済ませてきた。必要なのは飲み物だけ。

「アイスのソイラテを一つ、スモールで」

 ひんやりとしたプラスチックのカップを片手に、テーブルに歩み寄る。エリックがサンドイッチから口を離し、顔をあげた、
 
「相席、いいかな」

 血管が透けて見えそうな白い肌が、さあっと赤くなる。頬骨の周りにきれいなピンク色が広がり、徐々に濃くなってゆく。眼鏡の向こうの青緑の瞳が細められる。
 口の端にマヨネーズをつけたまま、エリックは静かにほほ笑んだ。

「……もちろん!」

(テイクアウトpart2/了)
 
 
 バイキングと向かい合った席に腰を降ろすと、シエンはひょいと紙ナプキンをさし出した。

「マヨネーズ、ついてるよ?」
「……あ」

 ナプキンを受け取り、慌ててごしごしと拭っている。それから丁寧にたたんで、ぽそりと言った。

「美味しかった」
「サンドイッチが?」
「いや……あの、この間の餃子」
「そっか……よかった。そのタンブラー、自分で持ってきたの?」
「うん。入れ物持参するとちょっとだけ安くなるし、家や仕事場で飲むのにも使える。何より蓋がしっかり閉まるから、ひっくり返してもこぼさない」
「それ、便利だね」
「うん。かなり重要」
 
 コーヒーを飲む合間に他愛のない話をする。以前はただ沈黙を紛らわせ、時間を潰すためだった。
 今は違う。
 交わされる言葉の一つ一つに願いが込められている。しっかりとした一つの意志が流れている。

 知りたいから。
 知ってほしいから。
 昨日よりも。今よりも、もっと、近くへ。

「……俺も使ってみようかな」
「いいね。ここにもいろいろ売ってるよ。季節限定とか、サンフランシスコ限定のデザインもある」
「シンプルなのがいいな。こんな感じの」
「そ……そっか」

 積み重ねられる『何でもない時間』が二人の間を埋めて行く。少しずつ、少しずつ。
 やがてしっかりした橋となり、道となるその日まで……。


(第四話スパイラル・デイズ/了)

次へ→【エピローグ】気付かなかった男
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