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ローゼンベルク家の食卓

【4-9】たとえそれが痛みでも

2009/01/05 0:55 四話十海
  • 2006年11月1日の出来事。
  • 霧のハロウィンから一夜が明けて、水曜日の朝が来た。双子は別々の部屋で目を覚まし、眠れぬ夜を過ごした”まま”はうっかり寝坊して……。
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【4-9-0】登場人物

2009/01/05 0:56 四話十海
  • より詳しい人物紹介はこちらをご覧下さい。
 
【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
 フリーの記者。26歳。
 黒髪、アンバーアイ、身長180cm、細身(と言うか貧弱)
 フレーム小さめの眼鏡着用。適度にスレたこずるい小悪党。
 オティアへの想いがようやく通じるが、それはすなわちシエンの失恋でもあり…
 
【オティア・セーブル/Otir-Sable 】 
 不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
 ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
 極度の人間不信だがヒウェルに心を開きつつあった。
 一時期空気扱いしていたがそれも気になる心の裏返し。
 とうとう想いを受け入れたがその一方で双子の兄弟と生まれてはじめての大げんかが勃発。
 ポーカーフェイスの裏側で揺れ動く心はいまだに安らげない。
 
【シエン・セーブル/Sien-Sable】
 不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
 外見はオティアとほぼ同じ。
 オティアより穏やかだが、臆病でもろい所がある。
 また素直そうに見えて巧みに本心を隠してしまう一面も。
 ディフになついている。
 自ら選んだ道だけど、失恋&双子の兄弟との生まれてはじめての本格的な仲違い、すれ違いにショックを受けて…
 
【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】 
 通称レオン
 弁護士。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ライトブラウンの髪と瞳、身長180cm、着やせするタイプで意外と筋肉質。
 一見、温厚そうな美人さん、実は腹黒。実家は金持ちだが家族への情は薄い。
 ディフの旦那で双子の『ぱぱ』。
 予定を繰り上げて出張から強引に帰宅。残務は同僚に押し付けてきました。
 
【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】 
 通称ディフ、もしくはマックス。
 元警察官、今は私立探偵。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
 裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
 レオンの嫁で双子の『まま』。
 多感な子どもたちを抱えて悩みは尽きない。
  
【オーレ/Oule】
 四話めにしてようやく本編に登場したオティアの飼い猫。
 白毛に青い瞳、左のお腹にすこしゆがんだカフェオーレ色の丸いぶちがある。
 最愛の『おうじさま』=オティアを守る天下無敵のお姫様。
 趣味はフリークライミングとトレッキング(いずれも室内)、好物はエビ。
 エドワーズ古書店の看板猫リズの末娘。
 
【アレックス/Alex-J-Owen】
 レオンの秘書。もともとは執事をしていた。
 有能。万能。41歳。
 灰色の髪に空色の瞳、故郷には両親と弟がいる。
 20歳の時からずっとレオンぼっちゃま一筋の人生。
 今はレオンさまと奥様と双子のために、そして愛する妻と子のためにがんばる。

【結城朔也】
 通称サリー。カリフォルニア大学に留学中の日本人。
 ディフやヒウェルの同級生だったヨーコ(羊子)の従弟。
 サクヤという名が言いづらいためにサリーと呼ばれているが、男性。
 実は見えてんじゃないかとか。
 何でそんなこと知ってるんだとか、いろいろ不思議なことが多い。

【エリック/Hans-Eric-Svensson】 
 シスコ市警の科学捜査官。ディフの警官時代の後輩、23歳。
 ライトブロンド、瞳は青緑色、身長186cm。
 金属フレームの眼鏡着用。
 久々に出たと思ったらこんな役。
 

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【4-9-1】慌ただしい朝

2009/01/05 0:58 四話十海
 
 11月1日水曜日、朝。
 ベッドの中で目を開けた瞬間、とてつもない不安に襲われた。痛いほどの喪失感と焦りに胸を灼かれ、寝起きの曖昧な意識の中、稲妻のように一つの言葉が閃く。

『あの子を探しに行かなければ!』

 ……落ち着け、落ち着け。オティアはちゃんと戻ってきただろう。寝る前に確かめたはずだ。
 書庫の床の上で毛布にくるまって、白い猫と身を寄せ合って眠っていた……一人で。
 次第に意識がはっきりしてくるにつれ、苦い記憶も鮮明に蘇ってくる。

 ハロウィンの夜、双子が喧嘩した。いつも一緒だった二人が今は別々の部屋に居る。原因はヒウェル……あの二人を俺たちと引き合わせた張本人。
 喧嘩の後でオティアは夜の町に飛び出して行ったが、ヒウェルが連れ戻した。その後信じられないが二人っきりで一緒に双子の部屋に居た。

 そう、『双子の部屋』だ。

 ドア一枚で繋がった隣の部屋は、5月までは壁で隔てられていて、俺の家だった。
 レオンと結婚して俺がこの家に越してくるのと入れ違いに双子が移り、二人一緒に住んでいた。昨日までは。今、シエンはこっちの家の、5月まで寝起きしていた部屋で眠っている。
 オティアと喧嘩したあと、身の回りの物を持って引っ越してきた。どうも一晩だけの仮住まいじゃなさそうだ。

 兄弟喧嘩なんてそれこそ数え切れないくらいやらかしてきた。別々の部屋で寝ても、次の日の朝にはけろっとして同じテーブルで飯食ってた。けれど、あいつらの場合は……。
 ベッドの上に起き上がり、膝を抱える。口から深いため息が漏れた。

 霧は晴れ、夜は明け、月が変わった。けれど事態はまったく進展していないのだ。
 ああ、でも今日はレオンが帰ってくる。こんな風に寝室が、ガラーンと広く感じられるのも今日限りだ。
 しかし、やけに明るいな……。

「う?」

 枕元の時計に目をやり、跳ね起きた。明るいも道理、いつもより30分も遅いじゃねえか!
 信じらんねえ、アラーム無視して寝こけちまった。

「しまった!」

 二人しかいない探偵事務所だ。俺とオティアが出勤したときが始業時間。だが、今日は朝一番に依頼人と会う約束がある。
 裁判前に弁護士に渡すための調査資料を届けなけりゃいけないのだ。約束の時間に遅れる訳には行かない、断じて。
 幸い、自宅から直に届けに行く予定だったから届けるべき書類はここにある。しかし問題は時間だ。間に合うだろうか?

 洗面所に駆け込み、ヒゲを添って顔を洗い、歯を磨く。
 パジャマを脱ぎ捨て、着替えながら頭を巡らせた。飯の支度する時間はあるだろうか……。
 
 子どもらだけに任せることもできるだろうが、昨夜喧嘩したばかりだ。適当に食え! なんて言い捨てて出かけることなんかできやしない。そんなことしたら、オティアは何も食べないかもしれない……。
 だが準備して、食卓に出せば素直に口にしてくれる。

 着替えをすませて台所に行くと、シエンが出てきたところだった。目が赤い。眠れなかったんだろうな。

「おはよう」

 ちらっとこっちを見て、抑揚のない声で返事をした。

「おはよう」
「すまん、寝坊した」

 少し遅れてオティアが入って来る。やれやれ、今朝は全員寝坊か。無理もないが。

 冷蔵庫から昨夜のカボチャのパイ(甘くないやつ)を取り出し、二切れ切り分けて皿に載せ、レンジに入れる。
 ニンジンとリンゴ、オレンジをジューサーに入れてスイッチを入れる……最低でもこれだけ口にしてくれれば。
 コップに二人分注いでテーブルに並べ、ちょうど温め終わったパイを隣に置いた。

「依頼人と会う約束があるんだ。すぐ出なきゃならん。二人で食っててくれ」
「ん」

 シエンがかすかにうなずいた。

「行ってくる」

 本音を言えば双子を置いて行くのは心残りだが、時間がない。書類鞄を抱えて玄関を飛び出した。
 
 
 ※ ※ ※ ※
  
  
「ありがとう。朝早くからすまなかったね」
「いえ、それが仕事ですから」

 けっこうギリギリだったがとにもかくにも間に合った。任務完了。
 ああ、結局、自分が飯抜いちまった。せめてリンゴの一切れ、牛乳一杯だけでも腹に入れとくべきだったか。
 幸い、近くに警官時代によく飯食いに行ってたデリがあったんでサンドイッチとコーヒーを買うことにする。店員はまだ俺の好みを覚えていてくれた。

「景気はどうだい?」
「まあまあだね。カミさん元気?」
「元気だよ。二人目が生まれた」

 5分で食って店を出て、事務所に行くと鍵が開いていた。てっきり施錠されたままだと思ったんだが。
 いつもならオティアはこんな時、俺が呼びに行くまで上の法律事務所で過ごす。だが今日は、シエンと顔あわせてるのがつらいんだろう。

「……戻ったぞ」

 中に入り、スチールの事務机に向かって一声かける。予想通りオティアはそこにいた。椅子にこしかけ、膝の上に白い小さな猫を乗せて。
 そしてもう一人、予想外の人物が待っていた。
 灰色の髪に空色の瞳、一分の隙もなくぴしっと黒のスーツを着こなした背の高い男。アレックスだ。
 オティアに付き添っていてくれたのかとも思ったんだが……。それだとシエンがデイビットと二人っきりで上に残されることになる。デイビットはその辺の気配りはできる男だと信じてはいるが、これはこれでちょっと落ち着かない。

「お帰りなさいませ、マクラウドさま」
「やあ、アレックス」

 珍しいことに、有能執事は微妙に困ったような顔をしていた。オティアがそっと目を逸らす……一体何があったんだ。

「どうした?」
「実は、シエンさまのことなのですが」
「シエンが? どうした、具合でも悪くなったのか?」
「いえ……今朝はまだ、事務所にいらっしゃっていないのです」

 がつーんと、頭を金槌でぶん殴られたような気分になった。

 何てこった!

 オティアに問いかける。

「一緒じゃなかったのか?」

 だまって首を横に振った。

「オティアさまとは途中で別れられたそうで……」

 ああ、何てこったい。時間差で来やがった、今度はシエンが家出かーっ!

「すぐ電話でお知らせしようかとも思ったのですが、オティアさまが待つようにとおっしゃいまして」
「それで、俺が戻ってくるのを待ってたのか」
「はい」

 つまり、あれか。『緊急』ではないと判断したのか、あるいは泡食った俺が運転ミスったら事だとでも思ったか。
 アレックスに口止めしたのなら、シエンが命の危機にさらされてるって訳ではないんだろうが……俺にとっては十分すぎるくらいに『緊急』だぞ?

「オティア」

 混乱しながら口を開く。出てきた声は自分でも嫌になるくらいに重い。
 オティアはのろのろと首を回し、こっちを見上げてきた。膝の上の子猫をぎゅっと抱きかかえて……いつものできぱきとした利発さは欠片もない。よほどショックなんだろう。だが、呆然としてるが反応はある。

「お前は今んとこ唯一の目撃者だ。シエンと別れた時の状況を説明しろ」

 こくん、とうなずく。素直だ。
 素直すぎるのがかえって不安をかきたてる。

 俺は。
 俺って奴は、何だって今日みたいな日に寝坊しちまったのか。子どもたちと一緒に家を出ていれば。せめて送り出していたら、こんな事にはならなかったろうに。
 
 くそ、悔やまれるぞ。
 だが、落ち込んでる暇はない。
 
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【4-9-2】迷子

2009/01/05 0:59 四話十海
「家を出た時は一緒だったんだな?」

 うなずいた。

「どこで別れた」
「ケーブルカーの駅」
「お前は歩いて来たのか」

 また、うなずく。さっきから最小限の言葉しか話さない。元々無口な子だが今は言葉を発するのがつらくてたまらないらしい。それもシエンのこととなるとなおさらに。

「シエンは……ケーブルカーに乗ったのか」
「たぶん」
「乗る所を見た訳じゃないんだな。いつも出勤に使ってる路線か」
「ん」
「時間は?」
「いつもと同じ」
「そう……か」

 オティアはまた口を閉ざしてしまった。腕の中でオーレが小さく『みゃう』と鳴いた。

 降りずにそのまま乗って行ったか。あるいは手前で降りたのか。情報はわずかだが、もっと少ない手がかりで捜査を始めた事もある。

「いかがいたしましょう。警察には……」
「俺から知らせる」
「かしこまりました。それでは私は上に戻りますので、何かご用がありましたらお申し付けください」
「ありがとな、アレックス」

 きちっと一礼すると、アレックスは事務所を出て行った。

 ノートパソコンを立ち上げて今日のスケジュールを確認する。動かせない用事は朝一番の資料提出だけ、後は一日ずらしてもどうにかなりそうだ。
 一身上の都合により本日の予定は全てキャンセル。ただ一人を探すために。

 地図を引っぱり出し、ケーブルカーの路線をたどる。沿線の管轄署を調べ、名刺入れと記憶をたぐって少しでも知ってる奴がいないかツテを探した。
 そう言や、警察辞めて警備会社に再就職した奴もいたよな……あいつ、どの辺で仕事してるだろう?
 
 十代の少年がぷいと姿を消した。いなくなってからやっと2時間経ったところ。普通なら『そこらで遊んでるんだろう』ですまされるのがオチだ。

『家出だろう?』
『よくある気まぐれさ。そのうち帰ってくるって』

 だが、関わりの深い人間が知らせれば、気にかけてくれる。

 過保護な奴だと流すことなく、ほんの少しだけ関心を強く持ってくれる。ありふれた日常の出来事から、注意すべき事柄へとシフトする。この差は決して小さくはない。
 公私混同もいいとこだが構ってられるか。シエンを見つけるためなら、どんなコネも人脈もとことん利用するさ。

 あの子は誘拐の被害者だった。恐ろしい体験が心の闇に深く根を下ろし、シエンは未だに知らない人間との接触を極端に怖れている。
 5月に俺が犯罪組織に誘拐された時も、どんなにか不安だったろう。目の前で現在進行形で展開される恐怖と生々しい過去の記憶に苛まれ、さぞ怯えただろうに。想像しただけで胸が張り裂けそうだ。
 ……それなのに、あの子は来てくれた。退院した時も、笑って出迎えてくれた。
 
 俺は今までずっとシエンに無理をさせてきていたのかもしれない。
 少しずつ降り積もってきた物が臨界点に達し、まっさらなハートがぱきりと割れた。それが、昨日の夜。
 家出ぐらいしたくもなるよな。

 だがな、シエン。いくらお前が大丈夫だと思っていても、トラブルってのは予想外のタイミングで不意に襲いかかって来る。決してお前を見逃してはくれない。
 犯罪や事故に巻き込まれた被害者は、最初っからそうしよう、そうなるだろう、なんて欠片ほども思っちゃいない。

 だから心配なんだ。

 ダメもとでシエンの携帯にかけてみたが、つながらなかった。電源を落しているらしい。 
 昨夜のオティアとは微妙にパターンが違う。あの子は今、自分の意志で行方をくらましている。だとしたら、自分のテリトリーからできるだけ遠ざかろうとするだろう。
 土地勘のない、見知らぬ場所に行こうとする。だれも自分に関心を払わない場所、自分との繋がりの希薄な場所に。
 滅多に一人で出歩かない。後ろから肩に触れられただけで恐怖が蘇り、パニック状態に陥る子がそんな場所で人ごみの中を歩き回ってると思うと……背筋が凍りつき、居ても立ってもいられなくなる。

「ハロー、久しぶり」
「やあ、マックス。元気か?」
「ああ、おかげさんでね。実は、ちょっと頼みたいことがあるんだ……」

 思いつく限りの知り合いに電話し、シエンの特徴を伝えて探してくれるように頼んだ。正式な捜索願いではないが、『見つけたら知らせてくれ』と念を押して。
 念のためサリーにも知らせておくか、とも思ったがこの時間じゃ学校か病院だろう。ランチタイムにでもかけてみるか。

 電話している間、オティアは一言もしゃべらなかった。それどころかこそりとも音を立てなかった。何もせずに、ただ座っている。
 
「……大丈夫だから……シエンは……必ず探し出す」

 俺の言ってることを聞いてるのか、聞いていないのか。相変わらずのポーカーフェイス&ノーコメント、だが顔色が良くない。オーレがしきりに体を掏り寄せている。主人の異変を感じ取っているんだ。わずかに左手が動き、白いふかふかの毛皮をなでた。

「しばらく外に出てくる。飛び込みの仕事が入ったら、今日は引き受けられない旨伝えてくれ。急ぎの場合は俺の携帯に回すように……OK?」
「…………………………………わかった」
「ペット探しの依頼が来たらこの番号にかけるように伝えてくれ」

 同業者の番号をメモして渡す。こればっかりは動物が相手なだけに一秒を争う、後回しにはできない。だからこう言う場合は互いに協力できるよう、あらかじめ取り決めを交わしてあるのだ。まさか使う羽目になるとは思わなかったが。

「シエンから連絡入ったらすぐに知らせろ。迎えに行くから。それじゃ、後は頼んだぞ」
  
 
 ※ ※ ※ ※
 

 ……行ったか。

 所長を見送ってからオティアはため息をついた。

 確かにディフはプロの探偵だが、おそらく捜索は空振りに終わる。
 誰にも知られず一人になりたいと思っている時、自分たちは人の認識から己の存在を消してしまうようなのだ。
 物理的に見えていても意識には残らない。精神的な『忍び足』とでも言えばいいか。ほとんど無意識のうちにしていることで、自分自身がそんな風に人の目を眩ませているなんて気づかなかった。
 自分はたまたま最初に『撮影所』から逃げ出す時に気づいたけれど、おそらくシエンはまだ知らない。
 あの時は傷の痛みと疲労、そして空腹で体力が極端に落ちたのと、目的地に着いたことで気がゆるんで『魔法』か解けて。最悪のタイミングで追いかけきた連中に捕まってしまった。
 今のシエンは怪我もしていないし体力もある。目的地に着くまでは、だれも彼を見つけられないだろう……。

 家出と言っても、帰って来ないつもりじゃない。ただしばらくの間、一人になりたいだけなんだ。だから邪魔しちゃいけない。
 
 今シエンのために自分ができることは、それだけしかないのだから。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 念には念を入れて古巣に顔を出し、少年課の知り合いに直接、シエンのことを頼んだ。予想通り最初は軽く受けとられたが、彼が誘拐の被害者だったこと、数ヶ月前には家族(要するに俺だ)も誘拐事件に巻き込まれていて精神的に不安定なのだと説明すると、反応が変わってきた。

「OK。パトロールの連中にもそれとなく気をつけるよう伝えておこう」
「ありがとう……感謝するよ。それじゃ」

 休憩室の前を通りかかると、ひょろ長い金髪の眼鏡野郎が背中を丸めてもそもそとリンゴをかじっていた。

「よう、元気か、バイキング」
「センパイ! お久しぶりです」

 ひょこん、と跳ね上がりこっちを見て、にこにこと子どもみたいに笑いかけてきたが……ふと表情を引きしめた。

「どうしました? すんごい最低ラインの顔してますよ」
「そうか?」
「はい。さっき少年課から出てきましたよね……何か問題でも?」

 相変わらず観察眼が鋭い男だ。恐らく、実際には口にしたことよりもっと多くのことに気づいてる。ただ、言わないだけだ。

「うちの金髪の双子の一人がさ……行方不明なんだ」
「どっちの子が?」
「シエンだよ。レオンの事務所でアシスタントしてる方の子だ」
「ああ。あの大人しそうな子ですね」

 暗にオティアはそうじゃないと言わんばかりの口調だ。

「……あの子、確か誘拐されて麻薬工場で働かされてましたよね」
「ああ」
「その前に居た施設もあんまりいい所じゃなかったし………」
「誰かにかっさらわれたって訳じゃないんだ。自分の意志で姿を消してる。原因はわかってるんだ。昨日の夜にはもう一人の子が家、飛び出してるし……いや、そっちはもう戻って来てるんだけどな」

 情けないくらいに支離滅裂だがどうにかただ事じゃない! って雰囲気は伝わったらしい。エリックは眼鏡の向こうで青緑の瞳を見開き、ちょこんと首をかしげた。

「あれあれ。かなり深刻、かつ厄介な状況みたいですね」
「ああ。深刻だ……俺、そんなに酷い面してるか?」
「はい。54時間不眠不休で追いかけた手がかりが実はスカでした、はい、一からやり直し! みたいな」
「やけに具体的だな、おい……」

 ふーっと息を吐く。苦笑いする気力もありゃしない。

「あの……センパイ」
「何だ?」
「オレに何かお手伝いできること、ありますか」
「……ある。頼みたいことがあるんだ」
「どうぞ、言ってください」

 メモ用紙にシエンの携帯番号を書き付け、エリックに手渡した。

「この番号の携帯、探してる。電源入ったら位置特定してくれ。できるよな?」
「そりゃあ……できますけど……」

 微妙に目、そらしてやがる。お決まりの鼻にかかった北欧式の発音が、いつも以上に内に籠って響く。迷ってるんだな、すまん、無茶言って。

「わかってるんだ。公私混同もいいとこだって。だけど……エリック……………」

 一瞬、モルグの検死台の上に乗ってるシエンの姿が脳裏に浮かび、あわてて払い除ける。
 喉が震えた。

「…………頼む」
「はい」

 ひょろりと指の長い、北欧系特有の血管が透けて見えそうな白い手を握りしめた。

「ありがとう」

 
 ※ ※ ※ ※
 
 
(はあ……やばかった)

 ディフを見送ってから、ハンス・エリック・スヴェンソンは秘かに冷や汗を拭った。

 技術的にできるってわかってる人から頼まれるとごまかせない、断れない。
 それに、あのセンパイの心配そうな顔ときたら……まるで今にも泣き出しそうで、昔みたいに肩を抱いてぽんぽんと背中を撫でたい衝動に駆られた。

 が、左手の薬指に光る指輪が。銀色の表面に刻印されたライオンが理性を呼び覚ました。

 いけない、いけない。慎みを持て、ハンス・エリック!

 手の中のメモを見る。
 無味乾燥な一連の数字に、記憶の中の少年の姿をだぶらせる。
 白人、男性、くすんだ金髪に紫の瞳、やせ形、小柄。名前はシエン・セーブル。よし、覚えたぞ。
 外に出る時も、できるだけ気を配ってこの子を探そう。
 あの人のために。


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【4-9-3】橋を渡って

2009/01/05 1:00 四話十海
 警察署を出てから携帯を確かめる。
 ……新着メールも電話着信も無し。手がかりなし、か。

 いや、考えようによっちゃ悪い知らせがなかったとも言えるだろ。しっかりしろよディフォレスト。
 ちょっとでも気がゆるむとうつむきそうになる。奥歯を噛みしめ、無理矢理ぐいっと顔を上げた。
 通り一本渡った向かいの食堂に、ぼちぼち客が入り始めている。そろそろ昼飯時か……オティアのことも心配だし、一度事務所に戻ろう。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

「戻ったぞ」

 オティアはぽつん、とデスクの前に座っていた。俺が部屋を出たときと変わらない姿勢で膝に白い猫をのせたまま、相変わらずぼんやりしている。こいつ、あれからぴくりとも動いてないんじゃないかってくらいに。
 俺が入って行くとのろのろとこっちを見て、それから応接用のテーブルに視線を向けた。

 ナプキンのかかった大皿と保温マグが二つ、銀のトレイに乗っかってる。

「アレックスか」
「……」

 こくっとうなずいた。ナプキンをめくると、ラップで包まれたサンドイッチときっちり切り分けられた果物が並んでいた。不覚にも食い物を見て初めて気づく。ランチタイムだってわかってたのに何も食うもん買ってこなかったことに。

(しっかりしろ! ヒウェルじゃあるまいし)

 人が料理をする理由は大きく別けて二つ。自分が食べたいか、だれかに食べてほしいか、だ。仕事だからとか必要に差し迫ってとかいろいろ細かな枝道はあるが、突き詰めればだいたいこのどちらかにたどり着く。
 この場合は……。
 ありがとな、アレックス。

「せっかくだからいただくか」

 声をかけると黙って立ち上がり、とことこと歩きだした。その足下を白い子猫がついてゆく。飼い主に寄り添い後になり先になり足の間をするすると、長いしっぽを巻き付けて。
 事務所の隅の簡易キッチンに行くと、オティアは蛇口をひねり、ヤカンに水を入れて火にかけた。それがすむとポットと茶葉用意して、カップを取り出し暖めて……機械みたいに手際よく紅茶を入れている。

 相も変わらずのポーカフェィス、だがとりあえずやるべきことができてほっとしているようにも見えた。
 その間にこっちはラップを外してアレックスからの差し入れを開封する。分厚く切ったライ麦入りのパンは彼の細君、ソフィアの実家のルーセントベーカリーの定番商品だ。中身は厚切りのハムにチーズ、スライスしたトマト、レタス、ゆで卵。
 こっちは俺用だな。

 薄切りの白パンに卵のペーストをはさんだ小振りのやつはオティアの分だろう。
 保温マグの中身は熱々のコーンスープ。ちゃんと栄養にも気を配っていてくれるんだ……アレックスの心づかいが疲弊した心と体に染みた。

「みゃう」

 オーレに呼ばれて顔をあげる。オティアが湯気のたつマグカップを二つ持って戻ってくるところだった。

「サンキュ」

 ことん、とテーブルにカップを置き、今度は猫用の皿にドライフードをさらさらと入れている。オーレは後足をたたんできちんと座り、行儀よく待っている。

 そして昼食を食べる。
 人間はソファに座ってテーブルの上、猫はその隣の床の上で。
 オティアも俺もしゃべらない。ただカリカリと規則正しく、オーレがドライフードをかじる音だけが響く。

 分厚いサンドイッチにかぶりつき、ほおばった。わしゃわしゃと噛んで、飲みくだす。
 …………美味い。

 不思議なもんだ。腹に物が入ってく、ただそれだけのことでなんとなく余裕らしきものができたような気がする。ついさっきまでは使い古したゴムみたいにのびきって、今にもぷちっといきそうだった。




 ちらっとオティアの方をうかがうと、小さなサンドイッチを少しずつ、もそもそと口に入れている。ほんの少しのパンと卵のペーストを長い長い時間をかけて噛んで、紅茶で無理矢理、のどの奥に流し込んでいる。
 苦い薬でも飲むみたいに。
 決して苦手なメニューじゃない。そもそもオティアはほとんど好き嫌いがない。出されたものは何でも食べる……甘すぎるものが苦手なくらいで。

 子供部屋の壁に刻まれた傷を思い出す。黄ばんだ歯、荒れた肌。

 こいつ、ストレスが消化系に出るからなあ。無理しやがって。食わないと俺が心配するから、か?

「オティア」

 だまったまま物問いたげな視線を向けてきた。

「水分、優先してとっとけ。無理に食っても消化しきれずかえって体がつらいぞ」

 こくっとうなずき、素直にお茶を口に含んだ。マグカップを両手で抱えるようにしてちびちびと。
 少しほっとしてこっちもサンドイッチの残りを頬張った。熱いスープをすすってから携帯を取り出し、開く。この時間なら、サリーに電話しても大丈夫かな……。

「ハロー、ディフ?」

 4コールで出てくれた。

「やあ、サリー。ちょっと今話してもいいかな」
「いいですよ?」
「シエン、君のとこに行ってないか?」

 阿呆か、俺は! 大学か動物病院か、どっちにいるのか確認とるのが先だろうがよ……。

「いいえ? どうかしましたか?」
「うん、実は、その……シエンがな。朝、家を出たっきりどこに居るかわからないんだ」
「え、今度はシエンですか」
「うん、今度はシエンが………って、何で知ってるんだ?」

 まるで昨夜のオティアの家出を知ってるみたいな口ぶりで、こっちも思わず知ってるものと決めてかかってするりと答えちまったが。よく考えるとサリーがあのことを知ってるはずはないじゃないか!

「昨夜、電話もらったんですよ、ヒウェルから。オティアが行ってないかって」
「……そうか」

 一応、サリーんとこにも確認入れてたのか、ヒウェルの奴。なら、納得だ。

「俺も、病院が終わったら探すの手伝いますよ」
「ああ……助かるよ。すまんな、サリー」
「どういたしまして」

 ちらりとオティアの方を見る。空っぽになったカップを抱えて、じっとこっちを見ていた。
 昨日の夜、同じようにうつろなまなざしでカップを抱えていたもう一人の姿が重なる。
 シエン。
 今頃どうしているだろう? 一人で寂しがってはいまいか。心細くて震えてはいないだろうか。一年前の今頃、心に決めた。この子たちのために自分にできることをするしかないって……。
 人を探すのには慣れている。必要以上に心を揺らさず、冷静に手がかりを追跡し、組み立てて結果にたどり着くのが俺の生業であり、心身に染み付いてるはずの習性だ。だが、今はそれさえも揺らぎそうになる。

「ディフ」
「うん?」
「大丈夫ですよ……大丈夫」

 電話の向こうから注がれるしっとりと落ち着いたやわらかな声が、乾涸びた心臓を包み込んでくれるような気がした。

「うん………ありがとう」
「それじゃ、また後で」

 携帯を閉じて顔を上げると、ちょうどお姫様はお食事を終えられて毛繕いをしていた。前足でくしくしと顔をなで回し、お次はピンク色の舌でその前足を丁寧になめる。ひげを整え、お口のまわりをぺろりとなめると、オーレは顔をあげて、とんっとオティアの膝に飛び乗った。
 首輪に下げた金色の鈴が、ちりん、と澄んだ音を立てる。まるでそれが何かの合図だったようにオティアが口を開き……ぽそりと言った。

「たぶん、橋を渡った」
「シエンが?」

 こくっとうなずく。
 橋。
 そうか、橋、か。
 サンフランシスコで『橋』と言ったら……

「ゴールデンゲイトブリッジか? それともベイブリッジ?」
「東」
「……ベイブリッジか」

 ってことは、海を渡ってオークランドまで行っちまったのか、シエン。何て遠出だ、思い切ったことを。
 だが、これで捜索範囲が絞り込めるぞ。
 慌ただしく携帯を開く。確か警備会社に転職したやつが一人、そっちに勤務していたはずだ。
 一人ぼっちの子供がふらふら歩いてもあまり気にかけられない所。
 適度ににぎやかで、人の多い場所。
 近くに来たら遊びに来いと言われたが、その頃は『チャンスがないよ、そっちから来やがれ』と笑って答えた。

「ハロー? うん、俺だ。ちょっと聞きたいんだが……」

 事の次第を話していったん電話を切り、皿とカップを洗ってデスクに戻る。

「み」
「どうした?」

 オーレがぴん、と耳を立ててこっちを見上げてた。
 次の瞬間、電話が鳴る。待ちかねた相手からだった。

「マックス。いたぞ。お前さんが言った通りの子が」
「すぐ、迎えに行く! 声はかけるな、そっと見てるだけにしてくれ……人見知りの激しい子だから!」
「おいおい、落ち着けって。そんな大声出さなくってもちゃんと聞こえるぞ? まだまだ耳は達者だからな」
「あ……すまん。ありがとう、恩に着る!」

 電話を切ってから、デスクにつっぷしたまましばらく動けなかった。情けないことに一気に力が抜けちまった。
 しっかりしろ、安心するのはまだ早い。
 
「……」

 気配を感じて顔をあげると、オティアがちらっとこっちを見ていた。

「一緒に来るか?」

 尋ねると、だまって首を横に振った。

「わかった。それじゃ、留守番頼んだぞ」


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【4-9-4】すれちがい

2009/01/05 1:01 四話十海
 事務所のあるユニオン・スクエアから280号線を北東に走り、80号線に乗り換えてベイ・ブリッジを渡る。車なら早い、直通だし途中でバス停や駅に止まることもない。
 信号は守らなくちゃいけないが。

『すげえ、橋で海渡るのか!』

 高校の頃、はじめてこの橋を渡ったときの事を思い出す。どうしても自分の足で渡りたくて、バスを降りる! と騒いでたらヨーコにぴしゃりと言われた。

『この橋は車専用よ。何だったらトランスフォームでもする?』

 あきらめてバスの窓から足下の海を眺めるにとどまった。

『あきれたねー、テキサスにだって橋ぐらいあるだろーがよ』
『こんなでっかい橋はない!』
『そうかよ』

 こばかにしたような口を叩きつつなぜかヒウェルはとくいげで、日本の瀬戸大橋ができるまでは世界一の吊り橋だったのだと講釈をたれた。
 あの時はクラスの連中が一緒だったな……。一年の留学期間が終わり、ヨーコが帰国するからってんで、その前に観光地めぐりをしようってことになって。

 あの日俺が友だちと一緒に目を輝かせて渡ったこの橋を、シエンは今日、どんな気持ちでを渡ったのだろう。

 橋を渡り、サンフランシスコ市からオークランド市に入ったところで580号線に乗り換え、南東に走る。Golf Links Rd/98th Av……よし、ここだ。高速を降りて98th Avを横切るようにして左折し、Golf Links Rdに入る。すぐに右側に目的地が見えてきた。

 The Oakland Zoo(オークランド動物園)。
 園内に入ると道幅は急に狭くなり、両脇の街路樹がこんもりと密度を増す。
 駐車場に車をとめて、まっすぐに昔の知り合いの待つ事務所へと向かった。自然と早足になる。
 平日なので人は少ないが、それでもさほど広くはない園内はそれなりににぎわっていた。手をつないでポップコーンや綿菓子、風船を片手に歩く親子連れやカップルの間をざかざかとすり抜ける。

「よう、来たな、マックス……元気そうだな」
「おかげさんでな。シエンはどこに?」
「遊園地だよ。こっちだ」

 カランカラン、ぶぅーん……ボロロローン、ヒュウン、プワン、パフン。
 年期の入った遊具の奏でる、どこか間の抜けた音が聞こえてくる。

 ここには動物園だけではなく小さな遊園地もある。全体的にのんびりとした空気で絶叫系のドカーンとかバキーン!とか言うアミューズメントはあまり縁がない。
 それだけに小さな子どもをつれた家族が多い。

「ランチタイムを終えて園内を巡回してる警備員が見つけたんだ。」
「そっか……」
「運が良かった。しかし、いつの間にそこに居たのかさっぱりわからない。一人歩きの子供には係員が注意を払うようにしてるんだ。もっと手前で見つかりそうなものなのにな?」

 確かにあの年頃の子はほとんどいない。ハイティーンの子どもらはもっと派手な遊びのできる場所に行くだろうしな。そう言えば俺たちも結構浮いていた。

『やだ。あたし、ぜったいそっち行かない』
『どうしたんだヨーコ。顔ひきつってるぜ? あー……はあ、もしかしては虫類は苦手ですかぁ?』
『ヒーウェールー……?』

 は虫類舎の前を通りすぎながらくすっと笑いがこみあげる。笑顔でヒウェルのこめかみに握った拳の第二関節をぐりぐりねじ込むちっちゃな女の子を思い出して。

「今もやってんのか? ニシキヘビを首に巻いて写真撮る、あれ」
「いや。動物愛護の観点に基づき自粛中だ。何だったら特別に飼育係に交渉してもいいが」
「……遠慮しとく」

 園内には所々に芝生に覆われたなだらかな丸い斜面が広がり、家族連れが弁当を広げている。11月とは言え、まだまだ日差しが照っているとあたたかい。風もほとんどないし、絶好のピクニック日和だ。

「居たぞ。あそこだ」

 小さなメリーゴーランドと、ボール当ての屋台の間にぽつんと金髪の少年が立っている。柵に寄りかかってぼんやりと、目の前を通り過ぎるつくりものの馬や馬車を眺めて。
 沈んだ表情だ。あまり、楽しそうじゃない。にぎやかな音楽と色彩の中に、そこだけ取り残されたように色あせた『つぎ』が当たってる。
 そんな感じがした。

「まちがいない。シエンだ……」
「そうか。こっちも安心したよ」
「世話んなった。そのうち改めてお礼させてくれ」
「気にすんな」

 ばしっと大きな手のひらで背中を叩かれる。

「それが仕事だ」

 旧い友人は物陰からそれとなくシエンを見守っていた警備員に声をかけ、戻って行く。手を振って見送り、深呼吸。
 駆け出したい気持ちを押さえてまず、捜査協力を頼んだ友人たち……サリーに、エリック、そしてアレックスらに宛てて一括送信でメールを送る。『迷子は無事、保護した。協力感謝する』、と。
 送信ボタンを押して、携帯の画面の中でくるくる点滅するアイコンを見ながら次の一手を考える。

 さて、こんな時何て言って迎えに行けばいいんだろう。

 探したぞ? どこ行ってたんだ? どうしてこんなことを?

 違うな。心配したのは事実、だがそれで迷子になった子どもを責めるのはお門違いってもんだろう。
 一番心細いのは、一人でこんな遠くまで来たシエン自身なのだから。

 近づいて行くと、シエンは顔を上げてこっちを見た。紫の瞳が一瞬、ゆらぐ。涙だろうか。それとも……。

「シエン」
「ごめん……なさい……」

  どれほど心配したか、なんて言う必要もない。この子はちゃんと知ってる。わかってる。だからこんな顔して『ごめんなさい』って言うんだ。

「………無事で………よかった」

 張りつめた想いを深い息と一緒に吐き出した。こわばっていた肩がすーっと降りて、元の位置に戻るのがわかった。
 シエンと並んで、前屈みに柵に寄りかかる。ひと呼吸置いて、話しかけた。

「どうして、ここに?」
「ずっと、入ってみたかったんだ、遊園地」
「そうか。もっと早く連れてきてやればよかったな」

 首を横に振った。
 遊園地ならサンフランシスコにもいくつかある。ここまで来たのは、やっぱり遠くに行きたいって気持ちもあったんだろうか。

「せっかくだから何か遊んでくか?」
「ん……でも……」

 うつむいた。細い肩が震え、紫の瞳のふちに透明な雫がにじみ出す。手を伸ばし、そっと、そっと……距離をつめて行き、柵を握る小さな手に触れる。

「ごめん……なさい………」
「そうだな……確かに、心配した。あまり治安の良くない場所もあるし……そっちに行ってたらどうしようって」

 シエンは柵から手を離し、何かを探すように指をわずかに動かした。ためらいながら手のひらを重ねる。
 冷たいなあ……子どもの方が体温ってのは高いものなのに。ほんの少し間があって、おずおずと指に力が入れられる。
 俺もちょっとずつ力を入れた。急がぬように。強くしすぎないように。

 そしてやんわりと手を握り合った。

 ああ。
 お前は確かにそこにいるんだな。
 これは夢でも幻でもない。
 やっと、見つけた。
 
「すぐ戻るって言い残して、お前ぐらいの子どもがすーっと町ん中に消えちまうのを……何度も見てきたから」
「ひとりで……何かできたら。ちゃんと笑えるかなって………思ったんだ」
「それでこんな所まで来たのか」
「うん」
「海を渡って隣の市まで? 十分すごいよお前。で………どうだった?」
「………だめだった」

 ため息ついてやがる。何の達成感も得られなかったってことか。
 楽しげにピクニックを楽しむ家族連れやのんびりとデート中のカップルに混じって一人だけ。どれほどの時間を何もせずさまよっていたのだろう。

 この世のありとあらゆる楽しみが自分を置いてきぼりにして流れて行く。
 分厚い磨りガラスの向こう側に居る人たちはみんなにこにこと笑っている、だけど何がそんなに面白いのかちっとも聞こえてこない。
 どんなにでっかいパイが焼けても一口も口には入らない。ただ美味そうなにおいが流れてくるだけで……。

「………俺、だめだな………」
「そうかな? 何でも最初っから完ぺきに一人でやってのけられる人間なんてそうそういやしないさ、シエン。ビギナーズラックなんてそうそうあるもんじゃない」
「……でも」

 すがるようなまなざしが向けられる。
 涙をたたえた紫の瞳が必死で訴えてきた。

『ほかのみんなは、そうやってるよ?』  

 俺は何でもできます、完璧です、だめなとこなんかひとっつもありません。
 自信過剰な野郎は大嫌いだ。面と向かって自慢されたら、俺のリアクションは笑い飛ばすか殴り飛ばすの二択しかない。
 人間、多少は謙虚な方がいい。身の程を知るのは大切だ。だが今のシエンは……自分を嫌って、否定して、それでもどうにか前に進もうと必死になってもがいてる。

「実際、俺だってお前やレオンやオティアや………すんげえしゃくにさわるがヒウェルがいてどーにかやってるんだし」

 本当はまだ迷っている。自分の今していることが正しいのか。余計傷つけることになってはいまいか。
 ここで一言でもミスしたら……まちがったボタンを押しちまったら。その瞬間、俺は彼の信頼を裏切ってしまう。不安を抱えながら、表面はあくまで穏やかな表情、穏やかな声で話し続けた。

「お前が笑えるまで、疲れたら休めるように。胸貸す用意ぐらいは………いつでもある」
「……うん」

 何だ、この感じ?

「お前がいるから……あの時、自分を無くさずにいられた」
「………うん………帰る……よ……ほんとごめん……」

 違う。
 違うぞ、シエン。
 つるつるした金属の曲面の上をころころと、水銀の玉が滑って行く。
 もう、いいんだ。しかたがないんだ。ここで終わり、家に帰ればそれでおしまい。地面の下に埋めた悲しみも痛みも全てなかったことにするつもりか。

 それじゃだめだ!

「シエン。こっち見ろ」

 顔をあげた。泣いてはいない。けれど沈んだ表情のままだ。

「なんで一人で『何か』しようとしたのか……笑おうとしたのか、聞いてない」

 返事はない。
 まだ間に合う。俺も何事もなかったフリして一緒に帰ればそれでいい。
 そうすりゃ明日からは穏やかな日々が続いて行く……真冬の寒さの中、色あせることもしおれることもないプランターに刺さったぺなぺなの、ビニールの造花みたいな空々しい『しあわせ』が。

 いいわきゃないだろ。

「赤いグリフォンのカップ、しまいこんだのと関係、あるのかな?」

 決死の覚悟でざくりと掘り下げた。ぴくっと手の中でシエンが震えた。

「だって……俺が、諦めればいいんだから。そしたら……うまくいく……から」
「シエン。人を好きだって気持ちは電気のスイッチみたいに簡単にオフにはできないぞ」
「だからって……どうしようもないじゃないか!」
「そうだな。つらいよな……苦しくて。胸ん中がきりきり締め付けられて。痛いよな」
「どうしようも……ないのに……」

 メリーゴーランドが止まり、客が入れ替わる。次の回が始まるまでの間、しばらく口をつぐんだ。
 俺も。
 シエンも。

 やがてベルが鳴り響き、ぽわぽわした音楽に合わせてつくりものの馬がぴょこぴょこ跳ね出した。
 何回まわっても結局、どこにも行けずにまた元に戻る。そのくり返し。

「………………ひとつ聞いていいか。俺が言うのもアレなんだが。何でヒウェルの奴なんぞ好きになったんだ?」
「わかんないよ、そんなの」
「口は悪いわ、手ーは早いわ。性格は軽いし、脱いだ靴下は丸めたまんまで絶対、片付けない。酒は飲む、煙草も山ほど吸う、放っときゃ部屋を平気で魔界に沈めるし、ピーマンもセロリも食えないチョコバーが主食のガキみたいな奴だぞ?」
「そんなのレオンだって、一見優しそうだけど身内にだけだし、裏真っ黒だし、敵には容赦しないし。ヒウェルよりよっぽど怖いよ」
「………見事な観察力だ」

 反論できずに舌を巻く。きりっとシエンの指に力がこめられた。爪が刺さりそうほど強く握りしめてくる。

「わかってたのにな……最初から。俺に優しいのは……ただおんなじ顔してるからだって……」
「それは、ないと思うぞ。お前とオティアの見分け、一番はっきりつけてるのはヒウェルだし。優しいのは……お前のこと、弟みたいに思ってるからだ……」
「でもオティアと兄弟じゃなかったら、そんなふうにさえ思われなかったよ」
「いや、それはない」

 ああ、シエン。自分を否定するな。
 そんな風に自分の存在を厭わないでくれ……頼むから。

 口から吐き出す言葉全てが、透明な固い壁に阻まれて空しく滑り落ちて行く。痕跡さえも残さずに。だからってここであきらめたら、最初っから見捨てるのと同じだ。

「どっちでも同じだよ。別にどうなるわけでもないし」
「好きだって言わずにこのままいるつもりか?」

 すり抜けて行く。
 すがりつく指の間から、シエンの手が抜け出し、離れてゆく……止められない。

「意味がないし」

 柵からも手を離し、一人で立ったシエンの表情からは、潤いもあたたかさも全て消え失せていた。

「何したって、駄目なものは駄目なんだ」
「駄目ってのは何に対する駄目なんだ? 確かに言ったところでヒウェルが心変わりする訳じゃない。だけどな、黙ったままでもあいつはわかってる。オティアも」
「っ」

 ぎりっとシエンが歯を食いしばり、きつく拳を握った。
 やばいな……できるものならしっぽ巻いてとっとと逃げ出したい。背を向けて歩き出したい。だが、逃げるもんか。

「何も言わないで。靴下ん中に入ったトゲみたいな痛みを抱えて穏やかな日々を過ごしてくのは………きついよ、シエン」
「いいよそれで」
「決めたんだな?」
「とっくに決めてる」

 自分が我慢すればうまく行くとお前は言った。でもな、シエン。痛みを抱えるのはお前だけじゃないんだぞ?
 ……いや、違うな。
 お前も気づいてる。意識の奥では。

(そうしてますます自分を責めるのだろう。罰するのだろう。自分でもそれとは知らぬまま)

「俺の気持ちは俺だけのもんだろ……………それが、痛みでも」
「………OK。じゃ、もう何も言わない。でも………でもな。今度一人で何かしようって時は、一言相談してくれ」

 俺じゃなくてもいい。レオンやアレックス、サリーでもいい。

「アレックスからお前が事務所に来てないって知らされたときは心臓が止まりそうになった」
「ん……わかった」
「帰ろうか」
「ん」

 素直にうなずき、歩き出す。
 落ち着いた表情だ……怖いくらいに。それが、今のお前の『本当の顔』なんだな。無理して笑ってるよりはずっといい。

 だけど。

「何か腹に入れてくか?」
「いい。おなかすいてない」
「そう……か」

 大切な何かが指の間をすりぬけてゆく。どんなに手を伸ばしても届かない。
 遊園地のイルミネーションが。賑やかな音楽が。ぼうっと遠くにかすんで行く。
 
 mokba.jpg
 

 すぐ隣を歩いているはずのシエンが、急に遠くに行ってしまったような気がした。

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【4-9-5】ぱぱ帰る

2009/01/05 1:04 四話十海
 長い長い吊り橋を東から西へ。来たときとは逆に渡る。西日がきついので帰りはサングラスをかけた。
 色の濃いレンズを通して目に見えるもの全てがうっすらと影をまとう。

 刻一刻と傾きつつある太陽の光を反射して海が濃いオレンジ色に染まっていた……何だかやけに物悲しい色に見える。散る直前のカエデの葉っぱ。あるいは、冷たい風にさらされて凍えてかじかんだ指の先。
 鮮やかであればあるほど、どこか痛々しい朱の色。

 シエンはあれから一言もしゃべらず、窓の外を流れる風景を眺めている。全身を強ばらせ、堅く引き結んだ唇の奥で歯を食いしばって……。
 車内の空気は重く、道のりは長い。話しかけることもできず、さりとて音楽をかけることもためらわれ、ただひたすら車を走らせる。

 ほんの48時間前までは、キッチンでこの子と笑いながらしゃべっていた。

『まいったな、買ってきたばかりなのにもらっちまうなんて……これじゃ、カボチャが余っちまう』
『いいよ、カボチャ美味しいし、いろいろ使えるし』
『そうだな、ハロウィンらしくていいか』
『うん。俺、ハロウィンのお祝いするの初めて!』

 眉間に皺を寄せて目をすがめる。幸い濃いサングラスのレンズに隠れて俺の表情が外に漏れることはない。
 ヘマをやらかしたのは痛いほどわかっている。親切面してシエンを傷つけた。一番、痛い傷口をえぐり出し、逃げ道をふさいで追い詰めてしまった。だけど、ここで俺が沈みこんだら……。

 レオン。オティア。シエン……そしてヒウェル。どっしりした木の食卓を囲む顔ぶれを順繰りに思い浮かべる。

(ここで俺が落ち込んだら、だれも、どこにも帰る場所を無くしてしまう。寄るべき場所を失ってしまう)

 車のエンジン音の響きが変わる。長い長い吊り橋を渡り、サンフランシスコへ戻ってきた。
 するとシエンが小さく息を吐き、表情をやわらげた……ほんの少しだけ。
 その瞬間、腹を決めた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

「やあ、お帰り!」
 
 事務所に戻ると、オティアと意外なことにデイビットが待っていた。

「なんで……ここに?」
「うん、アレックスに頼まれてね。空港に行く間、オティアと一緒に居てくれってね」
「空港に? 何でまた」
「レオンを迎えに」
「あ………そうか……そうだよな……」

 ばしばしと背中を叩かれた。

「どうした、ディフ。しっかりしたまえ。君らしくないなあ……」

 くっきりしたラテン系の顔いっぱいに親しみと共感をにじませながらデイビットは俺の目をじっと見て、それから何やら納得したようにうなずいた。

「今日はもう、子どもたちを連れて帰った方がいいね。君のスイートハニーがお待ちかねだよ?」
「うん……そうする」

 オティアがのろのろと帰り支度を始める。その隣ではシエンがペットキャリーを準備していた。いつものように言葉もかわさず、目配せもなく、淡々と。

「あれ、そう言えばレイモンドは? レオンと一緒じゃなかったのか?」
「うん、彼は、まだ仕事が残ってるそうだから」
「じゃ、今、事務所は空っぽなのか」
「大丈夫、大丈夫! 戸締まりはきちんとしてきたよ。留守番電話と言う便利なものもあるし、客の来る予定もない。アポ無しで来るような相手なら、多少待たせてもそれほど心は痛まないしね!」

 豪気と言うべきか、大雑把と言うべきか。

「幸い、ランドール紡績の二代目も最近はやっと電話とFAXの利便性に気づいたようだし……問題ないよ、うん」

 戸締まりをすませ、帰り支度を整えた双子を連れて廊下に出る。
 エレベーターを待ってる間にデイビットがぽつりと言った。

「無事でよかったよ、シエン」
「ごめんなさい、心配かけて」
「うん、心配したね! でも帰ってきたから安心したよ。それじゃ!」

 ちょうど上がってきたエレベーターに乗り込み、デイビットは上へと。ジーノ&ローゼンベルク法律事務所へと戻って行った。
 その時になってはじめてオーレがちっちゃな声で「んにゃっ」と鳴いた。
  
 
 ※ ※ ※ ※

 
 オティアとシエンを車に乗せて駐車場を出る。
 定時であがって帰りに買い物をして、それからクリーニングを出しにゆく。水曜日のいつもの習慣だが、今日は予定を変更して直接家に帰ることにした。
 二人ともものすごく疲れてる。一秒でも早く、部屋に戻してやりたかった。
 食料は……幸い、カボチャが大量にある。ストックしてある野菜とベーコンとでシチューにするか……それともポトフのがいいかな。
 やわらかくて、あったかくて、水気があるから食べやすい。

 車の後部座席で双子は一言もしゃべらず、視線も合わせない。キャリーの中で時折オーレが身動きし、チリンと鈴が鳴るのが聞こえた。
 
「ただいま」
「お帰り」

 玄関をくぐり、愛しい人の名前を呼ぶより先にキスで口を塞がれた。子どもたちが見ている。だけど……。
 テニスラケットのガットみたいに張りつめていた神経が、ぷつん、と弾ける。目を閉じてレオンの背に腕を回し、すがりついていた。
 髪をなでる優しい指先に身を委ねていた。

(レオン)
(レオン)
(レオン……)

 唇が離れてから目を開けると、オティアもシエンも姿が見えなかった。
 行き先は……わかってる。キスの間、ひそやかな足音が二つ、通り過ぎて行った。一つは境目のドアを抜けて隣の部屋へ。もう一つはリビングを横切り逆方向に。

「確かに別々の部屋に住むつもりのようだね、二人とも」
「……ああ」
「アレックスから聞いたよ。大変だったね」

 そんな事ないさ、と笑っても、きっとお前にはわかってしまう。大切な人だからこそ、あえて弱さは隠さずいよう。
 
「ん…………そうだな……ちとしんどかった」

 さすがに朗らかさ全開、とはいかなかったが、それでも自然と微笑むことができた。
 くしゃっと髪の毛をかきあげられ、そのまま頭をなでられた。
 まだ、することが残ってる。夕飯の支度とか、洗濯とか、その他細々した用事がいろいろと……でも今はもう少しだけ、彼の腕の中に居たい。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

 いつものように6Fに上がり、晩飯を食いに行ったら部屋の空気がえらく重かった。

「……よう」

 食卓を拭いてるオティアに声をかけると、俺の顔を見て何か言おうとした。が、シエンが入ってくると口をつぐんでしまった。
 そのまま二人して黙々と夕飯の皿を並べ始める。いつものようにぴったり息の合ったコンビネーションで、目配せすらせずに。
 
 だが、何かがちがう。まるで互いに目をあわせることを避けてるようじゃないか! レオンはレオンで俺の顔見てにこやかに笑ってるし……何か、そこはかとなく(いや、露骨に)、怖い。

 唯一の救いはディフの奴がいつもと変わりなく大雑把で、ぶっきらぼうで、そのくせ世話だけはちゃんと焼いてることだった。双子も、レオンも俺のことも。
 そのはずなんだが。

(……どうしたんだよ)

 一日でげっそりやつれてる。ままも。オティアも。シエンも。別に頬がこけたとかやせ衰えたとか、そう言った肉体的な変化ではなく、何と言うか……精神的にえっらく消耗してるような。毛並みがパサパサ、しっぽはくたんと垂れ下がり、鼻も乾いてるって感じだ。
 いったい何があったってんだ?
 ってなことを考えてたら、食ってる最中にポテトがスプーンからごろりと転げ落ちてポトフの皿に落下。あっつあつのスープが盛大に跳ね上がり、眼鏡のレンズにべっとり栄養満点のシミをこしらえてくれた。
 見えないのと熱いのとで硬直していると、ずい、とティッシュが数枚、手の中に押し付けられる。

 かすかに指先をかすめる小さな手、細い指。これは、多分、ディフじゃない。レオンじゃないことも確かだ。眼鏡を外してレンズを軽く拭い顔を上げる。
 オティアと目が合った。

「……さんきゅ」

 やわらかく煮込んだ野菜とベーコン、ふわふわの焼きたてのコーンブレッド。小さな器に少しだけ盛りつけられた夕食を、オティアとシエンは少しずつ時間をかけて食べて……片付けが終わると、ひっそりと部屋に戻っていった。
 一人は白い猫を連れて境目のドアを抜けて隣の部屋へ。もう一人は5月まで双子の過ごしていた部屋へ。

「おやすみ」

 声をかけるとオティアだけが振り返り、小さくうなずいた。
 子どもたちが部屋に引き上げてしまうと、入れ違いにレオンが酒の瓶を片手にやってきた。

「おみやげだよ」
「……ああ、スコッチか。いいね」

 まただ。
 ディフの奴、微笑んでるけど、表情が今ひとつ冴えない。どうしたってんだ、お前がレオンの前でそんな冷たい水かぶった犬みたいな不景気なツラするなんて!

「君も飲んでいくだろう?」
「あ、いや、お邪魔しちゃ申し訳ないと……」

 あ、あ、何かな、その無駄に爽やかな笑顔は。勘弁してくれ、あなたはそう言う顔してるときが一番怖ぇえんだよっ。

「飲んで行きたまえ、せっかくだから」

 どうやら俺に拒否権は無いらしい。

「……………つまみ作ってきます」

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【4-9-6】反抗期は必要だよ

2009/01/05 1:05 四話十海
 そそくさとキッチンに退避し、冷蔵庫をのぞくとここにも異変があった。えらく買い置きが少ないじゃないか。っかしいな、今日は水曜日、買い出しの日のはずじゃなかったのか?
 とりあえず、卵があるからこいつでデビルズエッグにして……。
 久しぶりに無茶な飲み方になりそうな予感がする。一応、飯食った後ではあるが、タンパク質多めにとらせて、胃袋に防護膜を張っておこう。

 ボイルして横1/2に切った卵から黄身を取り除き、マスタードとマヨネーズであえてからまた白身に詰めて、仕上げにパプリカを散らす。
 これだけじゃ足りなさそうなんでついでに薄切りにしたチーズとキュウリをクラッカーにのっけた。

 できあがったつまみを大皿に盛りつけ、冷蔵庫から氷をざらっとアイスペールに取り分けて、グラスを三つ用意して。準備万端整えてリビングに引き返すと……既にいい感じにできあがってるやつがいたりするわけで。
 そーいやグラスは居間のバーカウンターにもあったんだよなあ、うん。
 ああ、まーた自分たちより年季の入った酒をストレートで惜しげもなくがぶ飲みしてるよこの人たちは!

「ったく、相変わらず雑な飲み方しやがって……」
「だまれ、諸悪の根源」
「俺のことか!」
「ああ、お前のことだ」

 とろん、としたヘーゼルの瞳の奥にちらちらと緑の炎がゆれている。いったい俺が卵ゆでてる間にこいつはどれだけ飲んだのか。

(ってかレオン、あんたが飲ませたな?)

 じとっとねめつけるが当人、嫁にぴったり寄り添って片手で肩なぞ抱きながら涼しい顔でくいくいと琥珀色の液を流し込んでいらっしゃる。せっかく持ってきたアイスペールにゃ見向きもしない。割るつもりはないってことですかい。
 ため息をついてると、いきなりぐい、とタイをひっつかまれた。

「おいこら! 人の話を聞けい!」 
「ぐええっ、苦しいっ、息がつまるっ!」

 問答無用に引き寄せられ、至近距離で睨みつけられる。瞳の中に揺らめく緑の炎が一段と強くなっていた。

「俺がいったい何をした?」
「シエンが落ち込んでオティアとお前の空気が明らかに変わってんだよ。何があったか一目瞭然だろーがよ」
「っ」

 一瞬、言葉に詰まったが目はそらさなかった。臑に抱えた傷は片手の指では足りない俺だが、この件に関してはこいつに対して恥じ入るようなことはしていない。それだけは自負してる。

「伝えたんだよ。お前が好きだって……今度こそ逃げずに、真剣にな」
「そうかよ」

 ディフはすねたような顔でそっぽを向いた。その結果、どうなったかは言わずとも知れている。確認のためにあえて言葉にする必要もない。

「おめでとう、と言うべきなんだろうね。でもね、ヒウェル」

 レオンがさらりと言った。

「未成年者に手を出したら犯罪だよ。たとえ同意の上でも」
「………わかってます、よーっく」

 うーわー、すっげえ爽やかな笑顔。背筋がぞわわっと総毛立つ。
 何度も言うが、この手の顔してる時がいちばん怖いんだよこの男は!

「たとえここがフロリダでも、君の場合は年齢差があるからね」

 わざわざフロリダの州法まで引き合いに出しやがって念入りなこった!(※未成年でも十六歳以上の場合は相手が二十四歳以下でなおかつ合意の上なら合法と見なされる)微妙に腹が立つもののさりとてこちらも後ろ暗いところがある。

 そうとも、シエンが『ああなった』のは俺のせいだよ。だけど俺が恋してるのはオティアであって他のだれも代わりにはなれないんだよ。たとえ同じ顔、同じ遺伝子の持ち主でも。
 言い訳する気は毛頭ないし、これから待ち受ける試練からも逃げるつもりはない。

 こうなったら、とことん飲んでやらぁ。
 自腹じゃ到底、買えないレベルの高い酒なんだ。こいつらに雑な飲み方される前に一滴でも俺が飲むのが功徳ってもんだ!

「氷、使わないのか。冷蔵庫にソーダもあるぞ?」
「いい酒はストレートで飲めってだれかさんそう言いませんでしたっけか?」
「……ふん」

 結局、準備した氷はひとかけらも使われないまま、ただ酒だけが減って行った。
 瓶が半分ほど空になったところでやっと、ディフがぽつりぽつりと吐き出してくれた。今日、何があったのか。

「シエンが家出したってっ! どうしうて知らせてくれなかったんだよ!」
「すまん、それどころじゃなかった……」
「ったく。しっかりしてくれよ、まま……」
「ヒウェル」
「何すか」
「知らせたところでどうにかなったかい? そもそもの原因は君なんだから」
「だからって!」
「知らせなくて正解だったんだ。君もわかってるだろう」
「うー………」

 がばっとグラスの中身を一気にあおる。ああ、こんな上等な酒をもったいない。
 濃密な木の樽の香りと、数多の歳月を溶かし込んだ芳醇なアルコールがのどを焼き、むせ返る。だが、それでも腹の底からわき起こるやるせなさをまぎらわせるには到底足りなかった。

 黙って杯を重ねていると、ディフがぼそりと言った。

「お前は、最初っからオティアしか眼中になかったもんなあ。救いようのない馬鹿もやらかしたが、どんなに冷たくされようが無視されようが、徹頭徹尾絶対、心変わりしなかった。少なくともその点だけは立派だよ」
「そりゃどーも」
「シエンも……わかってた……わかってるつもりでいたんだ……だけど、まだやっと十七になったばかりの子どもだぞ? 感情が、理屈にはいそうですかっておとなしく従うかよ。それなのに、俺は………」

 くしゃっと顔を歪めるディフをレオンが抱き寄せ、額に口づけた。キスされた方は目を細めてレオンのなすがまま、されるがまま。こいつら、もう俺が居ようが居まいがおかまい無しだ。

「反抗期は必要だよ。ただあの子は極端な方向に走りかねないから、そこは注意しないとね」
「ああ。それが心配なんだ。特にシエンは思いつめる子だからな」
「……反抗できるのはさ。どんなに逆らっても絶対見捨てない、離れてかない相手だと思ってるからだろ。そーゆー意味では、何つーか、お前に甘えてんだよ」

 しぱしぱとまばたきすると、ディフはうつむいてしまった。

「……それで、関係の切れる相手ならそれでもいいって、見限られてるだけかも」
「だーっ、辛気くせぇ方に考えんなっ! 超絶ポジティブ野郎が珍しく弱気だなおい……ほら、飲め」
「うん……飲む」

 あーあー、こいつは、もう、両手でグラスかかえてちびちび飲んでるし……それ、スコッチだよ? ミルクじゃないんだぞ?

「子どもが居心地のよい安全な場所に居たいと思うのは生き延びるための本能だ。あいつらがこの家がそうだと思ってくれてるのなら……」
「思ってるって」
「そうかな……そうだと……いいな……」

 ……ソファの上で膝抱えてるし。

「だったら、俺は、それだけでいい」

 レオンが黙ってスコッチを注ぐ。ディフはグラスをかかげ、琥珀色の液体をひといきに流し込んだ。左の首筋の、薔薇の花びらみたいな火傷の痕が一段と赤く浮かび上がる……白い肌の下にたかまる熱を透かして。

「ここでやめてしまったらまたゼロに戻る。欠けていたものを、欠いたままで終わってしまう。だから……俺はバカになり切ることにするよ」
「それ以上バカになってどうするよ」
「言ってろ」

 にやっと、微かな笑みが口元に浮かぶ。それは俺がこの日初めて見る、奴のにごりのない笑顔で……見ていてほっとした。

「『俺はここにいる』って。『お前を見ている。守りたい。決して見捨てたりしない』って……想い、行動し、伝える。そのことだけはやめない」
「ふーん? それで、具体的にはどうするつもりだよ」
「飯作って、声かける。朝はおはよう、夜はおやすみ。送り出す時はいってらっしゃいってな。帰ってきたら……おかえりって、迎える。待ってる。いつか、あの子が俺を迎えてくれたときみたいに」

 ああ。今さらだけど、こいつ、本物のバカだ。

「俺の、自己満足なのかもしれないけど……」
「阿呆。少なくとも食生活は一定のレベル維持できてるだろーがよ。それってかなり大事なことだよ?」
「そうかな」
「そうだよ」

 これからもこいつはほほ笑んで食卓を整え、翼を広げて子どもらを迎え入れるのだろう。
 時にぶっきらぼうに見える朴訥さで、何があっても変わらずに……胸を食む鈍い痛みも、空しささえも飲み込んで。

(そうして時々、レオンの前でだけ弱音を吐くのかもしれない)

 まったく、どんなお人好しだ。そう言う意味では『信じらんねぇ』よ、ディフ。

「飲め」

 酒瓶をとって、とくとくと大ぶりのグラスに注ぐ。

「……うん」

 こくん、とうなずき、両手でかかえてちびちび飲んでる。

 嫌な事、悲しい事があったからって酒に逃げるってのはベストの選択肢とは言いがたい。
 わかっちゃいるが、今だけは。酔っぱらってる間だけでもいいから、こいつを解放してやりたいと思った。
 法による義務も、血縁による強制もない。本当に自由に、自分の意志で親として愛情を注ぐことが許される……こいつにとって双子はそんな存在なのだ。そうすることが彼の願いであり、喜びなのだろう。

 ああ、まったくお前って奴は。

「つまみも食えよ」
「うん。美味いな、これ」

 そうして俺たちはぐだぐだと飲み続けた。双子と出会う前によくしていたように、居間に座り込んで延々と。やがてディフがぱたりとソファにつっぷしてすやすやと寝息を立て始め、しばらくしてムクっと起き上がる。

「俺のクマどこ?」

 久々に出たな。やっぱ心細いんだな、こいつ。

「ほら、ここだよ」

 レオンが差し出したクマを彼の腕ごと抱え込むと、ディフは安心したようにもふもふと顔を埋めてまたすやっと眠っちまった。その隣では嫁を抱きかかえたままレオンがすーすーと行儀よく眠ってたりするわけで。
 はたと気づくとテーブルの上には明らかに土産にしては多すぎる数の酒瓶が転がり、まるでボーリング場みたいな有様になっていた。
 
「……ダメな飲み方してるなあ……」

 グラスの底に残った酒をひとすすり。床にばったんとひっくり返り、目をとじる前にかろうじて眼鏡を外して高いところに置いて。
 後は一気にブラックアウト。

(ああ、まったくこれ以上ないってくらいにダメな飲み方だ) 
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 翌朝。
 少し早めに目を覚ましたシエンがリビングに入って行くと、カオスが広がっていた。

 ローテーブルの上にはグラスと空っぽになった酒瓶と大皿が散乱し、床の上にだれかが落ちている。

「……ヒウェル?」

 一瞬、ぎょっとしたが体の具合が悪い訳ではなさそうだ。ある意味、とてつもなくバッドコンディションではあるのだろうけれど。
 気配を察したのか、ひょろ長い手がローテーブルの上をまさぐり、眼鏡を取り上げて顔に乗せた。

「あー……もう朝かぁ?」

 ソファの上ではレオンとディフがぴったりと身を寄せ合って眠っていた。よく見るとディフはクマのぬいぐるみを抱えていて、レオンはクマもろともディフをしっかりと抱いていた。すっぽりと自分の胸の中に包み込むようにして。二人とも目をさます気配はない。

 シエンは静かにリビングを通り過ぎ、キッチンへと入って行った。

 今日は木曜日。みんな仕事のある日だ。
 ディフがこんな状態じゃ、朝ご飯は自分で作るしかない。パンを焼いて、買い置きのキュウリとトマトでサラダにして。
 卵は……スクランブルでいいや。

 その間にリビングでは、だめな大人3人がようやく状況を把握しつつあった。

「レオン……ディフ……朝……」
「あー……」
「うん……」

 目をこすりながら起き上がり、テーブルに手をのばすレオンをヒウェルが押しとどめる。

「いや、あなたは手伝わなくいいですから……顔洗ってきてください」
「ああ……すまないね」
「お前もシャワー浴びてこい。ここは俺がやっとくから……今日、外に出る予定ないし」
「うん……」

 支え合って寝室に歩いて行く二人を見送り、のそのそと宴の後を片付けているところにオティアが入ってきた。
 一目見て、怪訝そうな顔をして首をかしげる。

 どうしてこいつがここにいるんだろう? よれよれの服(昨日と同じ)で、珍しく髪の毛をほどいた状態。朝食をたかりにきた訳ではなさそうだ。まさか、あのまま泊まっていったんだろうか?

 ぼさぼさに乱れまくった髪の毛を手ぐしでかきあげ、輪ゴムで結い直しているヒウェルと目が合う。ぼーっとしていた顔に生気がもどり、口が動いた。 

「おはよう」 
「………」

 おはよう、って言った。
 今は朝だ。挨拶を返しておこう。わずかに口を開きかけると、琥珀色の瞳が見開かれた。
 思わずのどが震え、舌先に用意した言葉が止まる。

 するとヒウェルが目を細め、笑った。いつもの口角を引っ張り上げる皮肉めいた薄笑いとは明らかに質が違う。
 それはさらさらした細かい砂の間からわき出す、温かい澄んだ水のような微笑みだった。
 手を浸していつまでも、指先をなでる優しい砂と水の動きに触れていたいような……。

 ほんの少し勇気を出して、一度止まった声を送り出そうとした、その時だ。

「つくっといたから、好きに食べて」

 抑揚のない声が呼びかける。
 戸口に立つシエンからは、笑顔も潤いも消え失せていた。

「何?」
「朝食」

 それだけ言うと、シエンはくるりと背を向けて部屋に戻って行く。自分の分はもうすませたらしい。オティアは口をつぐむとのろのろと食堂へと歩いてゆく。

 おはようって言ったら、返事をかえそうとしてくれた。いつものあいつなら、絶対、渋い顔してにらみそうな状況なのにな。
『朝まで酒盛りかよ』って。
 寝起きだからまだ頭が回ってないのかもしれないが、さすがに一緒に飯食ってたら気づかれるだろうな……酒くさいって。

 どうしたものか。
 くんくんとシャツのにおいをかぎつつ一人残されて立ち尽くしていると、身支度を整えたレオンとディフが入ってきた。

「何ぼーっとしてる」
「え、いや……別に」
「ついでだ、朝飯食ってくか?」
「それは……シエンが用意してくれたから」
「……そう……か」

 だめな大人3人は顔を見合わせ、食堂へと歩いて行く。微妙な静寂を共有したまま。

 そして、後にはクマが一匹残された。
 真っ黒なボタンの目に刺繍の口、ソファの上にころりと転がる、明るい茶色のテディベア。


(たとえそれが痛みでも/了)

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奥津城より

2009/01/05 1:23 短編十海
  • 拍手お礼用の短編の再録。
  • ほんのり和風テイストの怪奇譚。
 
 友だちが病気になった。高校は別だけど、小学校から中学校までずっと一緒だった女の子。
 学校帰りに倒れているのが見つかって、それきり目を覚まさない。

 放課後、お見舞いに行った。彼女の好きな白い百合の花を持って。
 花屋に寄っていたら少し遅くなったので、近道をすることにした。

 竹やぶの脇の細い道を通り、崩れ落ちた家の横を抜ける………家と言っても、ずっと昔に火事で焼け落ちて、今は黒く煤けた柱と平べったい石がいくつか、残っているだけなんだけど。
 夏の盛りでも、ここには草一本生えない。芽吹いたそばから黒く干涸びねじくれて、後に残るのは燃えかすみたいな草の亡きがら。
 犬も、猫も、スズメもカラスも。虫さえもここには入ろうとしない。まるで目に見えない線が引かれてるみたいに。

 足早に通り過ぎようとしたその時。

 カラ……カラ……カサリ。

 空気がゆらいだ。真っ黒に干涸びた枯れ草が互いにこすれ合い、かすかな音を立てる。

 カラ、カラ、カサリ。

「あ………」

 誰かいる。
 白いワンピースの裾と、肩まで伸びた髪の毛を風になびかせて……彼女だ。

「すずちゃん」

 名前を呼ぶと、すうっとこっちを振り返り、ぼんやりと見つめてきた。まばたき一つせずに。

「こうちゃん?」
「うん……病気になったって言うから、心配した」

 すずちゃんは俺の抱えた花束を見てふわっとほほ笑んだ。

「きれい……それ、あたしに?」
「うん。お見舞い」
「うれしいな……」

 雲の中を歩くような足どりで近づいて来る。

「すずちゃん、君、靴はいてない!」
「うん、わすれちゃった」

 よく見ると着ているのもワンピースじゃなくて寝間着……ネグリジェだった。いったいどうしたんだ、すずちゃん。

「こんなとこで、何やってるの?」
「……よばれたの」
「呼ばれた?」

 こくっとうなずいた。

「知ってる? ここで昔、火事があったの」
「うん……聞いたことある」
「みんな燃えて……」

 ぶわっと視界が赤く染まる。夕陽よりもなお赤く。頬がじりじりと焼ける。熱い!
 燃えている。
 辺り一面、火の海だ!

「すずちゃん?」

 いない。どこに行った?
 
「うわ……ああ」

 すぐそばまで炎が迫っている。
 髪の毛の焦げるにおいを嗅いだ。

 早く逃げなければ!
 走っても、走っても炎が追って来る。それどころか近づいて来る。

 ……違う。
 燃えているのは、俺だ!

 手が燃えている。足が、髪が、体が。ごうごうと炎をあげて燃えている。
 熱い。熱い。熱い!

「うわぁっ」

 口の中が焼けただれる。目の前で手が炎に包まれ、皮膚が焼け落ち、肉が爛れる。血は流れない。じゅわじゅわと泡立ち、沸騰して蒸発してしまうから。

『みんな燃えて……死んだの』
             『死んだの』
『死』
                『死』
『死』
          『死』

 赤い炎がくねって伸びて、手に、足に絡み付く……動けない。はっきりと悪意を感じた。憎しみを感じた。

『 あ な た も こ こ で 死 ぬ の 』

(いやだ!)

 叫ぶ喉の奥に熱気が流れ込み、はらわたが焼ける。
 このまま焼けてしまうのか、俺は。骨まで残さず燃え尽きて、先祖代々の奥津城に眠ることさえ叶わずに。
 いやだ、いやだ、いやだ!
 恐ろしい。恐ろしい!

 炎が笑う。
 声の無い声で。

 胸が、喉が、顔が、皮膚も肉も一塊にごぞりと崩れ落ちる。
 ああ、それでも意識が消えない。
 ぱちん、と片方の眼球が弾けてどろりと溶け落ちた。

 炎が笑う。
 幼い子どもみたいに甲高い、調子の外れた無邪気な声で。
 笑いさざめきひらひらと、空ろになった目の玉の、くぼみの中で踊っている。

 左手はもう、ほとんど筋一本で繋がってるだけだ。
 鼻が崩れ、耳が落ちる。
 それでもまだ倒れない。立ったままぼうぼうと、松明みたいに燃えている。

 俺はいつまで燃えてるんだろう……。

「惑わされるな!」

 シャリン!

 鈴が鳴る。
 月の光が薄く結晶し、しん、と冷えた夜の空気の真ん中で触れあうような澄んだ音。

 さらり。

 緑の枝が揺れた。
 葉っぱの先から水晶みたいな雫が散って、ざあっと降り注ぐ。
 優しい雨が染み通る。

「………み…………」

 だれかがよんでる。

「しっかりしろ……お前は燃えてなんかいない………」

 本当だ。
 手も、足も、顔も髪も胴体も、燃えてなんかいない。

「………ざ……み……」

 りん、とした呼び声。とても良く知っているだれかの声が俺の名前を呼ぶ。
 その瞬間、風が走った。俺を中心にうずを巻き、迫る炎を押し戻す。
 
 そうだ……。
 風よ、走れ。もっと早く、もっと強く。こんな、憎しみに満ちた炎なんか………

「消してやる!」

 意志が力となり、形を成す。

「行けぇっ」

 降り注ぐ雨が風の螺旋に乗って広がり、紅蓮の炎を鎮めた。
 
「風見!」
「はっ」

 目蓋を上げる。
 焼け跡にいた。

「大丈夫か?」

 情けないことに俺は地面に仰向けにのびていて、小柄な女性がそばにいた。
 ハーフアップにした長い髪。赤い縁の眼鏡の奥から、黒目の大きなくりっとした瞳がのぞきこんでいる。

「え? 羊子先生? 何で、ここに?」
「お前のことがちょいと気になってな。後、ついてきた」
「………先生、それ、ちょっとストーカーっぽい……」
「おばか」

 こん、と握った拳でおでこを軽く小突かれる。

「一人で突っ走るなっつっただろ?」
「すみません」
「そら、これ」

 さし出された百合の花束を受けとった。花びらも、茎も、葉も、しゃんとしてる……よかった。

「あ……そうだ、すずちゃん!」

 起きあがり、慌てて見回すが……いない。どこに? 

「……佐藤さんなら入院中だぞ。今朝、お前が言ってたじゃないか」
「あれ……そうでしたっけ」
「しっかりしろ」

 ぱふぱふと背中を叩かれた。
 あんな事があった直後なのに、落ち着いてるなあ……見かけは俺よりちっちゃいのに、やっぱり大人なんだ。
 羊子先生はとことこと歩いて行くと、煤けた石を見下ろし、小さくうなずいた。
 さっきまですずちゃんが立っていた場所だ。

「どうしたんです?」
「うん……ちょっと……ね……」

 先生は肩にかけたバッグから手帳を取り出し、ぱらりと開いて中に挟んであったものを手にとった。
 白い紙……和紙かな。何となく、人の形に切り抜かれているように見える。
 羊子先生は人型の紙で、ちょい、ちょい、と石を撫でるとまた元のように手帳に挟み込んだ。

「さてと……ここの近くに、お墓とか、ないか?」

 何で知ってるんだろう。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 竹やぶの手前で道を右に曲がり、まっすぐ進むと墓地がある。畑と住宅地の間にぽっかりと思い出したように墓石の並ぶ空間が広がっているのだ。
 羊子先生はしばらくちょこまかと墓地の中を歩き回っていたが、やがて一つのお墓の前で立ち止まった。

 四角柱の形の墓石。これは、まあ普通だ。けれど先端がピラミッドみたいに尖っているのは珍しい。
 墓石の前に、線香立てじゃなくて小さな棚があるのも変わってる。

「変わった形ですよね、これ」
「神道式の墓だよ。奥津城(おくつき)って言うんだ……そら」
「ほんとだ」

 墓石には確かに『佐藤家之奥津城』と刻まれていた。

「佐藤さんが倒れてたのって、もしかしてここじゃない?」
「……そうです」

 墓石の台座の部分にわずかに開いたすき間を指さす。

「そこをのぞきこむようにしてうずくまってたって」
「だろうね」
「何なんです、それ」
「ああ、ここは、床下収納庫みたく開くようになっていてね」
「……収納庫って……何、しまうんですか」
「お骨」

 そうだよ……な。お墓なんだし。

「さて、と」

 羊子先生は手帳に挟んであった人型の紙を取り出すと、墓石のすき間に押し込み、とん、と軽く押した。
 すう………すとん。
 まるで吸い込まれるみたいに落ちて行った。それがそこにあったことすら、夢だったみたいにあっけなく。

「……帰りたかったんだね……」
「でも、こんなに近くにあったのに、何で?」
「縛られてたんだよ。あの場所でずっと」
「あ」

 手足に絡み付いた炎を思い出す。

「あいつか……」
「そう言うこと。さてと、病院に行こうか? たぶん、彼女も目を覚ましてるよ」
「はい……あ、ちょっと待って」

 花束から一輪、白い百合を取り出し、墓前に手向けた。

「OK。行きましょうか」
「ん……」

 羊子先生は満足げにうなずくと目元をなごませ、笑いかけてきた。

「優しいな、風見」
「何も無いのも寂しいし、幼馴染の家のお墓ですから。」
  
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「……そんなことがあったんだ」
「うん。俺がまだ駆け出しだった頃にね」
「そ、それで、コウイチ。その、佐藤サンは?」
「先生が言った通りだったよ。病院に訪ねてったらすっかり元気になっていた」
「そ、そう……良かったネ」

(そうじゃないんだ。ボクが知りたいのはっ)

 後ろからにゅっと羊子先生が顔をつっこんできた。

「佐藤さんなら二つ隣の駅の学校だぞ。毎朝、彼氏と仲睦まじく登校してる」
「ちなみにその彼氏も幼馴染」
「そうなんですかっ。ああ、良かった………安心しましタっ!」

 爽やかにほほ笑むロイを見守りながら風見光一は思った。見知らぬ女の子のためにこんなに親身になって心配するなんて。

「ロイ。お前ってほんと、いい奴だな!」


(奥津城より/了)

inspired from "The Tomb" (by H.P.Lovecraft)