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ローゼンベルク家の食卓

【4-9-1】慌ただしい朝

2009/01/05 0:58 四話十海
 
 11月1日水曜日、朝。
 ベッドの中で目を開けた瞬間、とてつもない不安に襲われた。痛いほどの喪失感と焦りに胸を灼かれ、寝起きの曖昧な意識の中、稲妻のように一つの言葉が閃く。

『あの子を探しに行かなければ!』

 ……落ち着け、落ち着け。オティアはちゃんと戻ってきただろう。寝る前に確かめたはずだ。
 書庫の床の上で毛布にくるまって、白い猫と身を寄せ合って眠っていた……一人で。
 次第に意識がはっきりしてくるにつれ、苦い記憶も鮮明に蘇ってくる。

 ハロウィンの夜、双子が喧嘩した。いつも一緒だった二人が今は別々の部屋に居る。原因はヒウェル……あの二人を俺たちと引き合わせた張本人。
 喧嘩の後でオティアは夜の町に飛び出して行ったが、ヒウェルが連れ戻した。その後信じられないが二人っきりで一緒に双子の部屋に居た。

 そう、『双子の部屋』だ。

 ドア一枚で繋がった隣の部屋は、5月までは壁で隔てられていて、俺の家だった。
 レオンと結婚して俺がこの家に越してくるのと入れ違いに双子が移り、二人一緒に住んでいた。昨日までは。今、シエンはこっちの家の、5月まで寝起きしていた部屋で眠っている。
 オティアと喧嘩したあと、身の回りの物を持って引っ越してきた。どうも一晩だけの仮住まいじゃなさそうだ。

 兄弟喧嘩なんてそれこそ数え切れないくらいやらかしてきた。別々の部屋で寝ても、次の日の朝にはけろっとして同じテーブルで飯食ってた。けれど、あいつらの場合は……。
 ベッドの上に起き上がり、膝を抱える。口から深いため息が漏れた。

 霧は晴れ、夜は明け、月が変わった。けれど事態はまったく進展していないのだ。
 ああ、でも今日はレオンが帰ってくる。こんな風に寝室が、ガラーンと広く感じられるのも今日限りだ。
 しかし、やけに明るいな……。

「う?」

 枕元の時計に目をやり、跳ね起きた。明るいも道理、いつもより30分も遅いじゃねえか!
 信じらんねえ、アラーム無視して寝こけちまった。

「しまった!」

 二人しかいない探偵事務所だ。俺とオティアが出勤したときが始業時間。だが、今日は朝一番に依頼人と会う約束がある。
 裁判前に弁護士に渡すための調査資料を届けなけりゃいけないのだ。約束の時間に遅れる訳には行かない、断じて。
 幸い、自宅から直に届けに行く予定だったから届けるべき書類はここにある。しかし問題は時間だ。間に合うだろうか?

 洗面所に駆け込み、ヒゲを添って顔を洗い、歯を磨く。
 パジャマを脱ぎ捨て、着替えながら頭を巡らせた。飯の支度する時間はあるだろうか……。
 
 子どもらだけに任せることもできるだろうが、昨夜喧嘩したばかりだ。適当に食え! なんて言い捨てて出かけることなんかできやしない。そんなことしたら、オティアは何も食べないかもしれない……。
 だが準備して、食卓に出せば素直に口にしてくれる。

 着替えをすませて台所に行くと、シエンが出てきたところだった。目が赤い。眠れなかったんだろうな。

「おはよう」

 ちらっとこっちを見て、抑揚のない声で返事をした。

「おはよう」
「すまん、寝坊した」

 少し遅れてオティアが入って来る。やれやれ、今朝は全員寝坊か。無理もないが。

 冷蔵庫から昨夜のカボチャのパイ(甘くないやつ)を取り出し、二切れ切り分けて皿に載せ、レンジに入れる。
 ニンジンとリンゴ、オレンジをジューサーに入れてスイッチを入れる……最低でもこれだけ口にしてくれれば。
 コップに二人分注いでテーブルに並べ、ちょうど温め終わったパイを隣に置いた。

「依頼人と会う約束があるんだ。すぐ出なきゃならん。二人で食っててくれ」
「ん」

 シエンがかすかにうなずいた。

「行ってくる」

 本音を言えば双子を置いて行くのは心残りだが、時間がない。書類鞄を抱えて玄関を飛び出した。
 
 
 ※ ※ ※ ※
  
  
「ありがとう。朝早くからすまなかったね」
「いえ、それが仕事ですから」

 けっこうギリギリだったがとにもかくにも間に合った。任務完了。
 ああ、結局、自分が飯抜いちまった。せめてリンゴの一切れ、牛乳一杯だけでも腹に入れとくべきだったか。
 幸い、近くに警官時代によく飯食いに行ってたデリがあったんでサンドイッチとコーヒーを買うことにする。店員はまだ俺の好みを覚えていてくれた。

「景気はどうだい?」
「まあまあだね。カミさん元気?」
「元気だよ。二人目が生まれた」

 5分で食って店を出て、事務所に行くと鍵が開いていた。てっきり施錠されたままだと思ったんだが。
 いつもならオティアはこんな時、俺が呼びに行くまで上の法律事務所で過ごす。だが今日は、シエンと顔あわせてるのがつらいんだろう。

「……戻ったぞ」

 中に入り、スチールの事務机に向かって一声かける。予想通りオティアはそこにいた。椅子にこしかけ、膝の上に白い小さな猫を乗せて。
 そしてもう一人、予想外の人物が待っていた。
 灰色の髪に空色の瞳、一分の隙もなくぴしっと黒のスーツを着こなした背の高い男。アレックスだ。
 オティアに付き添っていてくれたのかとも思ったんだが……。それだとシエンがデイビットと二人っきりで上に残されることになる。デイビットはその辺の気配りはできる男だと信じてはいるが、これはこれでちょっと落ち着かない。

「お帰りなさいませ、マクラウドさま」
「やあ、アレックス」

 珍しいことに、有能執事は微妙に困ったような顔をしていた。オティアがそっと目を逸らす……一体何があったんだ。

「どうした?」
「実は、シエンさまのことなのですが」
「シエンが? どうした、具合でも悪くなったのか?」
「いえ……今朝はまだ、事務所にいらっしゃっていないのです」

 がつーんと、頭を金槌でぶん殴られたような気分になった。

 何てこった!

 オティアに問いかける。

「一緒じゃなかったのか?」

 だまって首を横に振った。

「オティアさまとは途中で別れられたそうで……」

 ああ、何てこったい。時間差で来やがった、今度はシエンが家出かーっ!

「すぐ電話でお知らせしようかとも思ったのですが、オティアさまが待つようにとおっしゃいまして」
「それで、俺が戻ってくるのを待ってたのか」
「はい」

 つまり、あれか。『緊急』ではないと判断したのか、あるいは泡食った俺が運転ミスったら事だとでも思ったか。
 アレックスに口止めしたのなら、シエンが命の危機にさらされてるって訳ではないんだろうが……俺にとっては十分すぎるくらいに『緊急』だぞ?

「オティア」

 混乱しながら口を開く。出てきた声は自分でも嫌になるくらいに重い。
 オティアはのろのろと首を回し、こっちを見上げてきた。膝の上の子猫をぎゅっと抱きかかえて……いつものできぱきとした利発さは欠片もない。よほどショックなんだろう。だが、呆然としてるが反応はある。

「お前は今んとこ唯一の目撃者だ。シエンと別れた時の状況を説明しろ」

 こくん、とうなずく。素直だ。
 素直すぎるのがかえって不安をかきたてる。

 俺は。
 俺って奴は、何だって今日みたいな日に寝坊しちまったのか。子どもたちと一緒に家を出ていれば。せめて送り出していたら、こんな事にはならなかったろうに。
 
 くそ、悔やまれるぞ。
 だが、落ち込んでる暇はない。
 
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