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ローゼンベルク家の食卓

【ex10-9】喪失の痛みは重なり歪み

2010/04/25 16:39 番外十海
 
 火曜日の朝。
 サンフランシスコのランドール紡績本社ビル。その最上階でシンシアはまたしても信じられない光景を目にした。
 昨日一日なら、たまたまとか気まぐれとか。あるいは年に一度の珍事で済ませることもできただろう。だが、まさか二日連続で社長が自分より早く出勤しているなんて!
 しかも、またしても熱心にパソコンに向かっている。

「やあ、おはようシンディ」
「おはようございます」
「早速ですまないが、濃いコーヒーを一杯入れてもらえるかな。ブラックで」
「いつものお茶ではなく?」
「ああ。カフェインが欲しい気分なんだ」
「かしこまりました。少々お待ちください」

 首をかしげつつシンシアは簡易キッチンに向かい、コーヒーを入れた。

「お待たせいたしました」
「ありがとう」

 カップを置きながらさり気なく画面に目を走らせる。よもや私的な目的で会社のパソコンを使っているとは思いたくないが、一応、念のため。
 画面上には一人の社員のデータが呼び出されていた。ぽってりと官能的な唇に青緑の瞳、波打つ長い黒髪の……女性。少なくとも個人的な趣味で眺めている訳ではなさそうだ。が。

「あら、この娘は……」

 ぴくっと耳を動かし、ランドールは顔を上げた。

「知りあいかい?」
「いえ、2、3度すれ違っただけです。うちの社員だったんですね」
「ってことは会ったのは社の外なんだね?」
「ええ」

 そう言って、美人秘書は艶然とほほえんだ。サンゴ色の唇からちらりと白い歯がのぞく。

「可愛い子は、忘れませんから」

 ピン、ときた。シンディがそんな表情をすると言うことは。
 シモーヌ・アルベールは同性愛者だ。彼女が愛するのは女性だ!
 霧に閉ざされていた視界がさっと晴れ渡り、知り得た情報の意味ががらりと変わる。わずかに感じていた違和感が消え、全てがあるべき位置に収まった。
 ランドールは素早く立ち上がり、美人秘書の手をとると、うやうやしく口付けた。

「……ありがとう、シンディ。君の有能さに改めてほれぼれするよ!」
「え?」

 シモーヌとグレースは学生時代からの親友ではなく、仲むつまじい恋人同士だったのだ。
 既に二人が一緒に部屋を借りていたことは調べがついている。
 休日は、二人で一緒にファーマーズ・マーケットにクラフトショップを出店していたと言う。
 グレースが糸を紡ぎ、染色し、シモーヌは布を織る。二人で一つの作品を作る時間は、恋人同士の濃密な甘い語らいの時でもあったに違いない。
 しかし、グレースは男性も女性も同じように愛せる人間だった。ランドール紡績に入社後にゴードンと出会い、魅かれて……プロポーズを受け入れた。
 女である以上、シモーヌ・アルベールはグレースと正式に結婚することはできない。愛しているからこそ二人を祝福し、これからはよき友人であろうと心に決めた……かつて自分がひっそりとアレックスの結婚を見守ったように。
 失われた恋の記憶が共鳴し、夢魔への怒りがふつふつと沸き起こる。厳しい表情で口元を引き締めると、ランドールは秘書にしばらく席を外すように命じた。

「大事な電話があるんだ」
「………」

 青い瞳に強靭な意志の力がみなぎっている。目を合わせているだけで、見えない流れにぐいぐいと押されるような心地さえする。気迫に飲まれ、シンシアは理由を問うこともできずにうなずいてしまった。

「かしこまりました」

 ドアが閉まる。
 ランドールはおもむろに携帯を開き、電話をかけた。

「Hello,サリー?」
「ランドールさん。何かわかったんですね?」
「ああ……色々とね。我々はとんだ見込み違いをしていたようだ。シモーヌ・アルベールと恋愛関係にあったのは、ゴードンではなくグレースの方だったんだ」
「えっ?」
「別に驚くことではないよ。我が社では同性愛者はそれほど珍しくはない。ここはサンフランシスコだし、私自身が就任当時からゲイであることを公表しているしているからね」

 手短に、かつ要領良く。ビジネスの時と同じくらい、いや、ひょっとしたらそれ以上の的確さでランドールはサリーに己の知り得た情報を伝えた。

「彼女たちは、自分から積極的にカムアウトはしていなかったようだが……頑なに隠してもいなかった」

 夢魔の行動基準は寄生した宿主の抱く秘かな欲望によって決まる。宿主の願いを叶えると見せかけて、より深く食い入り、吸い取るために。
 何故、彼女が心の中に歪みを生じ、夢魔を巣くわせるに至ったか。
 狩人は識らねばならない。識らねば夢魔を追いつめ、根源から断つことはできない。

「シモーヌ・アルベールは、子どもの頃に妹を地震で失った。彼女と親交のある社員たちはそう信じていたが、事実はちがっていたんだ」
「……記憶を夢魔に書き換えられたんですね」
「ああ。君の言う『現実の侵食』が起きていたようだ」

 夢魔は人の記憶と認識を歪ませる。真実を歪め、己の作り出した『現実』を割り込ませて行く。
 最初は宿主の周囲の人間から。侵食の範囲が広まるにつれ、本来の現実は希薄になって行く。やがて限界を超えた時……悪夢が現実に取って代わるのだ。

「シモーヌの実家はオークランドだ。1989年10月17日に、サンフランシスコのロマ・プリータ地震を体験している」
「今25歳だから……8歳の時、ですね」
「ああ。あの地震の事は私もよく覚えているよ……」

 それまで安全だと信じていた自分の世界が崩れ去り、根底から覆される恐怖。ニュース番組で繰り返し報道された崩落したベイ・ブリッジの映像は、幼いランドールの記憶に強烈に焼き付いた。

「だが、奇妙なことに、ロマ・プリータ地震の犠牲者の名簿に、彼女の妹に該当する少女の名前はないんだ。彼女の両親も、遺族会には参加していない」
「よく、わかりましたね」
「顔はそれなりに広いからね。それに、私はシモーヌ・アルベールの雇用主なんだ」

 夢魔による現実の侵食は、まだ宿主の周囲の人間の記憶を書き換えるのにとどまっている。
 彼女から離れた所にあり、認識の薄い公的な記録を書き換えるのには至らなかったのだ。

「シモーヌには確かに妹がいる。だが、その子は地震のあった日は、サンフランシスコにいなかったんだ。1987年に両親が離婚して、母親は妹を連れて北欧に移住していたんだよ」
「そんなに、遠くに?」
「ああ。もともと母親は北欧出身だったらしいね」
「それじゃあ、シモーヌさんの妹は、地震で亡くなったんじゃなくて……」
「両親の離婚で生き別れになったんだ」

 夢魔はその記憶を、より悲惨に書き換えた。
 恋人だったグレースと、妹。現在と過去、二つの喪失の痛みが混在し、あいまいになり……奪った者=ゴードンへの憎しみを増長する。

「俺の方でもお知らせすることが」
「何だい?」
「ゴードンさんたちの住んでいた近所で聞き込みをしてみたんですけれど……シモーヌさんは執拗に二人に付きまとっていたらしいです」
「そんな事までしていたのか」
「はい。夜遅くに、じっと外に立って中をのぞき込んで、無言電話をかけたり。捨てられたゴミをこっそり持ち帰ったり。グレースさんが外出する度に、後をつけていた、とも」

 サリーの情報源はホモ・サピエンスのみに留まらない。
 犬や猫、そして鳥、もちろんリスも。動物たちは実に率直に己の見たまま聞いたまま、人間たちの行動を語ってくれた。

「ストーカーそのものじゃないか。ベネット夫妻は警察には相談しなかったのかい?」
「……おそらくは」

 少しずつ、彼女は歪んでいたのだろう。夫妻のよき友人を演じている間にじわじわと……。
 夢魔に侵食され、次第に常識を逸脱してゆくシモーヌから逃れるため、ベネット夫妻は日本への移住を決意したのだ。

「だいぶ、見えてきましたね」
「ああ。では、この事を君からヨーコたちに伝えてくれるかい?」
「いいですけど……」

 どうしてランドールさんは自分で電話しないんだろう。

『意外に似てないんだな、と思ってね』

 あんなこと言うくらいなら、直接、話せばいいのに。
 よーこちゃんはよーこちゃんで、最初に連絡してきたときに「カルに伝えてね」なんて言ってたし。
 二人とも何って言うか……

「素直じゃないなあ」

 思わず日本語でつぶやいていた。ランドールがあっけにとられた声で問い返してくる。

「What's?」
「いえ、何でもありません。それじゃ、また」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

 水曜日、午前0時。

「……うん、わかった。ありがとう」

 サンフランシスコのサクヤからの電話を受け、結城羊子は即座に風見とロイ、三上を招集した。深夜ではあったが3人は速やかに寝床から起き上がり、着替える間も惜しんで居間に集った。

「確定したな。ナイトメアに寄生されているのは奥さんの元恋人シモーヌ・アルベールだ」
「海を隔てても『恋人を奪った男』への憎しみは尽きなかった、と言うことですね」
「返せ、って言うのはMrs.ベネットのことだったんだ」
「確かに恋人本人じゃなくて相手に祟ってる……」
「見事な洞察力です、結城さん」
「う、ううん。そんなんじゃないよ」

(私も、同じ……だから)

「ひゃっ」

 懐の携帯が震える。良くない知らせだと開く前に分かった。

「どうしたの、サクヤちゃん」
「シモーヌさんが無断欠勤してる。これから、すぐにランドールさんと彼女の家に向かう」
「OK。気を付けて」

 羊子はきりっと表情を引き締め、一同を見渡した。

「サクヤちゃんとカルがレミング(夢魔の宿主)の確保に向かった。ただちにドリームダイブの準備に取り掛かる。OK?」
「はい!」
「御意」
「では、仕度して来ます」
「私もちょっくら水浴びてくる」

 羊子は足早に風呂場に行き、しゅるりと紐をほどいて寝巻きを脱ぎ捨てた。
 本来なら奥の泉に行きたい所だが、あいにくと時間が無い。手おけに水を満たし、浴びる。冷たい水が肌に触れ、ゆらいでいた意識がはっきりと定まった。
 
 為すべきことは一つ。
 夢魔を狩り、人を救え。


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