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ローゼンベルク家の食卓

【ex10-10】黒い涙は止めどなく

2010/04/25 16:40 番外十海
 
 サンフランシスコ、火曜日、AM9:00。
 ランドールとサリーは、車でバークレーの住宅街の一角に急行した。白い玄関ポーチに小さな芝生、レモン色の壁。お菓子のように愛らしく、エンピツみたいに縦に細長い小さな家。

「ここですね」
「ああ、ここだ」

 かつて若い恋人たちが仲むつまじく暮らした愛の巣。そして今、残されているのは思い出と……シモーヌ・アルベールただ一人。
 玄関のポーチに上がり、呼び鈴を鳴らす。

「おや?」

 ………応答無し。
 さらに数回呼び鈴を押し、ノックもしてみたがやはり答えは無かった。

「ここには居ないのかな……」
「いや……待て」

 ランドールは意識を集中し、自らの意識をスライドさせた。現実と重なり合うもう一つの世界へと。
 街路樹を鳴らす風の音、道路を行き交う車の音、枝の上で鳴き交わす鳥の声。周囲の色と音、空気の流れ。あらゆる感覚の波長が変わり、分厚いアクリル板を間に挟んだように、もわっと霞む。
 サリーの目にはその間、現実のランドールの姿に夢の中のイメージが重なっているように写る。
 黒いマントをまとい、青白い顔の口元から鋭い犬歯をのぞかせた、吸血鬼めいた姿が。
 
「む……」

 青い瞳が閉じられ、わずかに尖った耳がぴくり、と動く。

 ガシャン、ジャッ、バタン。ガシャン、ジャッ、バタン……

 聞き慣れた音がした。ランドールにとっては極めて身近な音。
 織り機だ。何者かが布を織っている。
 しかし奇妙なことに。機械仕掛けの自動織り機のごとき早さでありながら、あまりにその音は不規則で、背後に紛れもなく人の息遣いを感じた。いや、それどころか鬼気迫る気配を感じる。まるで髪を振り乱し、狂わんばかりの勢いで全力疾走しているような……。

 集中を解く。
 霞んでいた現実が再び戻って来る。

「彼女は中に居る。だが、既に『普通の』状態では無さそうだ」
「急がないと!」

 ドアノブに手をかけると、さしたる抵抗もなく、がちゃりと内側に開く。鍵はかかっていなかった。
 二人は無言で中に入った。玄関ホールの壁には、海を織り込んだつづれ織りが飾られていた。

 ガシャン、ジャッ、バタン。ガシャン、ジャッ、バタン……

 織り機の音を頼りに廊下を奥へと進む。ドアは開け放たれ、戸口は幾重にもつり下げた布でふさがれていた。のれんでもない。ロールアップスクリーンでも、カーテンでもない。ただ闇雲に布をぶらさげ、外界とのつながりを遮断しようとしている。
 ランドールは手を伸ばしてざっと布を払いのけ、奥へと進んだ。サリーが後に続く。

「これは……」
「まるで、巣穴ですね」

 そこは、庭に面した日当たりの良いリビングだった……本来ならば。
 大きなガラス張りの窓の前にはドアと同じく幾重にも分厚く布がつり下げられ、ふさがれていた。壁も、床も、家具の上も、あますところなく布、布、布。
 布を積み上げ、広げ、張り巡らせた薄暗い部屋の中には、湿っぽい生き物の匂いが充満していた。
 巣穴の中央には、まるでグランドピアノのように織り機が鎮座し、ひっきりなしに新たな布を吐き出している。
 今この瞬間も、猛烈な勢いで。

 織っているのは黒髪の女。この寒いのに薄い黒いローブを一枚羽織ったきり。
 長い髪を振り乱し、一心不乱に手を動かし、足で踏む。上下に別れた縦糸の間に、目にも留まらぬ早さでシャトルをくぐらせ横糸を通し、リードでがしゃん、と手前に打ち込む。その繰り返し。
 織られている布は、最初のうちこそ美しい青色をしていた。だが次第にどす黒く変色している。
 青から鈍いブルーグレイ、ついには灰色、鉛色へ。今、手元で織られている部分はほとんど真っ黒だ。
 彼女の指先からぽたり、ぽたりと黒い雫が滴り落ち、織りかけの布を染めてゆく。
 糸の青を、黒く濁らせる。

 サリーに目配せするとランドールは慎重に歩を進め、穏やかな声でゆっくりと話しかけた。

「シモーヌ?」
「だ……れ……」

 機を織る手は休めずに、シモーヌはろれつの回らない口調で返事をした。

「カルヴィン・ランドールJr。君の雇い主だよ」
「しゃ……ちょ……う?」
「そうだ」
「な……ぜ……?」
「君が心配なんだ。今日、だまって会社休んでしまっただろう? 普段は真面目な君が……」
「……も……いいの……会社にいっても、あの子はいないもの」

 ぽとり、とまた黒い雫が指先から滴り落ちる。暗がりに慣れた目がようやく、雫の出所を突き止めた。
 顔だ。
 シモーヌの顔からとめどなく黒い雫が流れ、肩から腕へと伝い落ちているのだ。着ているローブも、元から黒かったのではない。裾の方に本来の白さが残っている。

(危険だ。すぐに止めさせなければ!)

 ランドールはさらに一歩、また一歩とシモーヌに近づく。彼女は相変わらず見向きもせずに一心不乱に織り続けている。
 その後ろ姿を見て、ふと違和感を覚えた。
 おかしい、写真の彼女の髪の毛は肩を覆う程度の長さだった。だが目の前のシモーヌの髪はさらに長く伸び、床にまで広がっている……。
 さらに近づく。もう少し。手を伸ばせば、彼女の肩に触れる。

 その時、気付いた。

(これは髪の毛ではない。影だ!)

 その瞬間。床を這う髪の毛がぶわっと生き物のようにかま首をもたげ、ランドールに巻き付き、締め上げた。

「うっ」
「ランドールさん!」

 ねっとりと湿り気を帯びた糸の束が手に、足に、胴体に、首に絡みつき、ぎちぎちと容赦なく締め上げる。
 しかも先端は釣り針のように尖り、顔や手足の皮膚を掻きむしっている。

「く……うう」

(落ち着け。攻撃してくると言うことは、実体があると言うことだ……)

 シモーヌが、ばっと立ち上がり、振り向いた。青緑の瞳は真っ赤に充血し、とめどなく黒い涙が流れ落ちる。

「ひ……あ……あ……」

 ぎくしゃくと口を開き、絶叫した。泣き叫んでいるのか、それとも笑っているのか……。

「あー、あー、あー、あーーーーーーーーーっ、い、いひぃ、あーーーーーーあああぅううううぃーーーっ」
「シモ……ヌ………」

 確実なことが一つある。彼女は、苦しんでいる。

(止めなければ)

 ランドールの指先からぱらぱらと小さな粒が落ちた。床に転がり、芽吹き、トゲをまとった蔓となる。
 一本、二本と絡み合い、すんなりと彼の手のひらに収まった。くっと拳を握るやいなや、ランドールは無造作に茨の鞭を振るった。

 ざん!

 絡みつく黒い糸が切れ切れに飛び散る。まるで飴細工打ち砕いたように、あっけなく。
 床に飛び散り、水銀みたいにころころ転がり、凝縮して行く。

 ぞろり。
 髪に溶け込んでいた影が全て集まり、一つになった。
 それは、上半身はシモーヌ・アルベールそのものの美しい女の姿をしていた。ただし、額にころん、と丸みを帯びた小さな角状の突起が生えている。
 美しい緑色の瞳は絵の具で描いた人形の目のようだ。うすっぺらで立体感がまるでない。見えているのかすらも定かではない。
 そして、腰から下は巨大な水蛇だった。びっしりと真珠のきらめきをまとった鱗に覆われたその姿は、背筋を逆なでされるほど美しい。
 サリーがかすれた声でつぶやいた。

「メリジューヌ……」

 ずるり、と真珠色の蛇体がくねる。両腕を広げ、夢魔(ナイトメア)はじりじりとランドールの前に立ちはだかり、のびあがり……覆いかぶさった。

「む」

 茨の鞭を振るい、迎え撃つ。確かに横になぎ払ったはずなのに……
 ランドールの一撃は夢魔の体を素通りし、髪の毛一筋ほどの傷もつけられない。まるで流れる水を通り抜けたような感触だった。
 からかうようにメリジューヌは後ろに反り返り、ゆらり、ふらりと体を左右にくねらせる。

「くっ……どうなってるんだ」

 唇がめくれあがり、ちらりと尖った歯が覗いた。笑っている。いや、あざ笑っている。

「ランドールさん、下がって!」

 とっさに横に飛び退き、道を空けた。

「神通神妙神力、加持奉る!」

 ぱしん、と華奢な手のひらが打ち鳴らされた刹那、サリーの体からパリっと青白い光が立ち上り………電光一筋走り抜け、真っ向から夢魔の体を貫いた。

「キッシャアアアアアアアアア!」

 じゅうっと蒸気を発すると、メリジューヌの体は一瞬で崩れ去り、ばしゃり、と床に広がる。

「ごぼっ、ぐぷっ、う、けほっ」

 崩壊した夢魔は一塊の黒い水となってシモーヌの口に流れ込み、完全に姿を消した。
 まるでフィルムの早回しを見ているようだった。最後の一滴が消えると同時にシモーヌの体から力が抜け、がくりと崩れ落ちる。
 素早くランドールは駆け寄り、受け止めた。

 ……軽い。
 げっそりとやつれ、やせ細っている。一体どれほどの間、彼女は織り続けていたのだろう。己自身の命を。魂を削りながら……。
 
「ランドールさん」

 涼やかな声に名を呼ばれ、はっと我に返る。

「急ぎましょう。彼女を助けないと」
「ああ……そうだったね」

 サリーはてきぱきと用意してきた道具をとり出した。小さく切った和紙、塩の詰まったジップロック、お神酒を満たしたボトル。

「シモーヌさんを、そこに」
「わかった」

 横たえたシモーヌを囲むように東西南北の四隅に塩を盛り、お神酒を注ぐ。次いでランドールと共に結界の中に立ち、携帯を取り出した。

「準備できたよ、よーこちゃん」


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