ようこそゲストさん

ローゼンベルク家の食卓

【ex10-11】歪な記憶は眼を塞ぎ

2010/04/25 16:41 番外十海
 
 日本、綾河岸市、午前1:00。
 静まり返った境内に、玉砂利を踏む音が響く。一つ、二つ、三つ、四つ……鳥居の前に集合する。

「お待たせしました」
「よし、全員そろったな」

 一番軽い足音の主がくるりと振り返り、一同を見渡した。
 風見とロイは学生服。それぞれ愛用の日本刀とニンジャ道具を携えて。
 羊子は白衣に緋袴の巫女装束に身を包み、三上は神父服の上にベージュのトレンチコートを羽織っている。
 いつも背負っている十字架は左手に。
 横木のすぐ下を握り、いつでも引き抜けるように身構えて……明らかに武器とわかる持ち方をしているのは、本来の用途を隠す必要がないからだ。

「どうしたの、そのコート」
「今回の相手は水妖ですからね。一応、濡れてもいいようにと思いまして……まあ、気休め程度ですが」
「あー、だったら私も傘持って来れば良かったかな……いっそ水着とか?」
「いいですね、夏ならば」

 真顔で軽妙なやり取りを交わしつつ、悠々と本殿へと向かう。そんな大人二人に、風見とロイはひそかに感嘆した。
 社殿の扉の前には神職の装束をまとった人影が三人、厳かな面持ちで待っている。
 一人は神社の宮司であり、羊子の父でもある結城羊司。左右に控える二人の巫女のうち一人は羊子の母藤枝、今一人はサクヤの母桜子だ。それぞれ榊の枝と幣(ぬさ)を手にしている。

「……それでは、行ってまいります」
「気をつけて」

 扉の前で一礼。履物を脱ぎ、中に入って再度一礼する。
 羊子、風見、ロイ、そして三上。四人が中に入ると、背後で静かに扉が閉ざされた。
 それまで外とつながっていた空間が、不意に小さく区切られる。
 音と気配は内側にこもり、ほんの小さな息遣いさえ壁に、天井に反響し、大木の枝を鳴らす風よりもなお大きく、はっきりと聞こえる。
 扉の外で、ざざ、ざらり、としめ縄を張る気配がした。狩人たちが悪夢を祓い、再び現に戻るまで扉の開くことはない。
 この社殿そのものが、結城神社と言う大きな結界の中に作られた、もう一つの小さな結界なのだ。

 しかしながら海を越え、夢魔の待ち受ける夢の中に跳ぶには二重の結界に守られてさえ、大きなリスクが伴う。

(こんな大掛かりなドリームダイブは初めてだ……)

 風見光一はいつになく緊張していた。平常心を保とうと勤めても、どうしてもちらっと先生の顔を……始めて夢の中に跳ぶことを教えてくれた人の横顔を見てしまう。

(あ、目が合った)

 まばたき一つすると、羊子先生はにまっと笑った。いつもと同じつるりと愛らしい少女のような顔に、どこか不敵さをにじませて。
 あまつさえ右手をぐっと握り、親指を立ててサムズアップまでしている!

(……そっか。いつもやってるように、やればいいんだ)

 肩から力が抜け、全身の強張りが解けたような気がする。大きく深呼吸すると、風見は自分からもサムズアップを返した。

 羊子は小さくうなずき、再び正面に向き直る。左手の指を右手の上に重ね、背筋をピンと伸ばしてすっ、すっとすり足で祭壇の前に進み出る。
 立ったまま、深々と二礼。身を起こして両手のひらを胸の前で合わせる。しかる後右手をわずかに下方にスライドさせ、一呼吸置いてから手を打ち鳴らした。
 パァン……パァン……。
 張りのある、小気味よい音が響く。
 おもむろに羊子は神前から、一本の軸を中心に環に連ねた鈴を縦に三段、ピラミッド状に重ねた鈴……神楽鈴を取り上げ、うやうやしく両手でささげ持つ。

 一礼して後ろに下がった丁度その時、懐の携帯が鳴った。

「準備できたよ、よーこちゃん」
「OK。行くよ」
「はい!」
「御意」
「いつでもどうぞ」
 
 わずかなタイムラグの後、海の向こうから二人分、返事が返ってくる。
 
「うん」
「Yes,Ma'am」

 しゃらりん。
 3連の輪に連なった金色の鈴が鳴る。悪夢を祓い、やすらかな眠りを守る『夢守りの鈴』。祈りを込めた音が成る。

「掛まくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に」

 リィ……ン。
 サンフランシスコでは、サクヤが携帯のストラップに下げた小さな鈴を鳴らし、詠唱を重ねる。

「禊祓へ給ひし時に成り座せる祓戸の大神等 諸々の禍事 罪 穢有らむをば」

 リ、リィ………ン。
 ランドールの胸元から澄んだ音が響く。十字架に添えられた鈴が、ひとりでに鳴り始めたのだ。

「祓へ給ひ 清め給へともうす事を」
「祓へ給ひ 清め給へともうす事を」

 海を越えて二つの声が一つに溶け合う。

「聞し食せと 恐み恐みもうす………」

「神通神妙神力……」

 鈴の音が互いに呼びあい、共鳴し……遠く離れた二つの空間を結び、重ねる。

「加持奉る!」

 リ、リィン……。

 つかの間、風見たちは見た。分厚く張り巡らされた布の合間から漏れる、かすかな昼の光を。
 サクヤとランドールは、しん……と静まり返った畳敷きの部屋を感じた。
 アメリカと日本。遠く離れた昼と夜が交じり合い、境目が揺らぐ。

 リン!

(落ちる!)

 大切な人が、落ちる。
 手のひらをすり抜け、まっすぐに落ちてゆく。
 絶望に満ちた目で見上げ、私を呼ぶ。
 どんなに手を伸ばしても届かない。そのまま、足下からすとんと暗い水に吸い込まれた。消えてしまった。
 二度と取り戻せない。
 名前を呼ぼうにも咽が詰まり、声が出ない。封じられた叫びは内側にこもり、荒れ狂い……

 心臓を真っ二つに引き裂いた。

「っ」

 がくり、と落ちる感覚が止まり、青空が広がる。まぶしい太陽の光、赤レンガの広場、そして四角い時計台。
 頭上には高々とヤシの木がそびえ、葉擦れの音が聞こえる。
 見えるものは全て全体的に黄緑が強く、いくら目をこらしても微妙にピントも合わず、ぼやけている。

 そして、彼らは共に居た。
 まるで古びた写真にも似た、あり得ざる景色の中で。

「あ……」

 あの人に会ったら何て言えばいいんだろう。
 どこを見れば良いんだろう。いろいろ思い、悩んだけれど実際に彼の姿を見たら、憂いも悩みもどこかに消し飛んでしまった。
 ただ、今、そばに居ることが嬉しい。間近にあるサファイアブルーの瞳を見上げているだけで、胸の奥がほろほろと温かくなる。

「ヨーコ……」

 離れる日々が重なれば重なるほど、君との絆が希薄になるような気がしていた。
 ひょっとしたら、もう失われてしまったのではないかと恐れていた。
 ああ、だけど今、目の前にいる君は……

「っ、カル?」

 手を握るだけのつもりだった。けれど指先に彼女の確かな温もりを感じた瞬間。たまらず引き寄せ、抱きしめてしまった。
 すっぽりと、目の覚めるように赤い裏地の黒いマントの内側に包み込む。

「会いたかった」
「………私も……」

 ささやく声。胸に響くかすかな振動。
 確かに、彼女はここにいる。
 ここに、居るんだ……。

「あー、その」

 こほん、と誰かが咳払いした。
 青いニンジャスーツのロイは、珍しく現実世界と同じレベルのシャイさを発揮し、頬をかすかに赤らめつつあらぬ方角に目を向けている。
 浅葱の陣羽織を羽織った若武者姿の風見に至っては、完全に背を向けていた。
 サクヤは羊子とそろいの巫女姿。にこにこと静かにほほ笑み、見守っている。
 そして、トレンチコートを羽織った神父が一人。視線がかち合うとおもむろに一歩踏み出し、一礼した。

「そろそろ、よろしいですか?」
「はい、Father!」

 聖職者の姿に、条件反射でランドールは居住まいを正した。名残を惜しみつつも腕を緩めると、羊子は自分からするりと抜け出していった。

(あぁ……)
 
 あと五秒。いや、一秒でいい。離れずにいたかった。
 迷いを振り切るように、羊子は顔を上げ、きびきびした口調で告げた。

「カル、こちらは三上蓮。神父さんなの。三上さん、彼がカルヴィン・ランドールJrよ」
「お目にかかれて光栄です、Mr.ランドール」

 三上神父は左胸に手を当て、丁寧に一礼した。

「お噂はかねがね」
「お恥ずかしい。まだまだ未熟もので……」

 神父と吸血鬼は礼儀正しく握手を交わした。その時になってようやく、風見とロイは声を出すことができた。

「何だかここ、見たことがあるなぁ」
「とってもアメリカっぽいネ! この青空といい、建物の作りとイイ!」

 サクヤが答える。

「フェリービルディングだよ」
「本当だ、あの時計塔、まちがいないでゴザルよ! でも、どうしてここに出たんだロウ?」
「思い出の場所だから……かな」

 ランドールが後を続ける。

「恋人だった頃、シモーヌとグレースは毎週土曜日、ここで開かれるファーマーズマーケットにクラフトショップを出店していたんだ」

 羊子は目を伏せ、ぽつりとつぶやいた。

「……布を?」
「ああ」
「グレースが紡ぎ、シモーヌが織った」
「そうだ」

 ベネット家の玄関に飾られていたタペストリーを思い出す。空の青から海の碧へと連なるグラデーション。縫いこめられた白いカモメ。

「シモーヌさんの部屋には、彼女の織った布があふれていた」
「青い布?」
「うん。部屋中一面に敷き詰めてあった。まるで思い出を守る巣穴みたいに」
「そう………」

 サクヤは話した。
 ナイトメアに憑かれたシモーヌが、一心不乱に命を削りながら布を織り続けていた事を。真っ黒な涙を流し、青い布をどす黒く染めながら。

「胸が痛みますね……」

 厳かに十字を切ると、三上はさりげなく一歩ランドールに向けて身を乗り出し、ささやいた。低い声でぼそりと、彼にだけ聞こえるように。

「あなたですね。結城さんを泣かせた色男というのは」
「ユウキ………?」

(はて、誰のことだろう?)

 目をぱちくりさせて首をかしげ、真顔で考え込んでいる。三上は秘かに舌打ちした。

(しまった、ファーストネームで呼ぶのがあちらさんの流儀でしたっけ……それにしても、ここまで天然だったとは)

 どうやら変化球は通じないらしい。作戦を変更した方がよさそうだ。

「Missヨーコのことですよ。何やら愛の伴わない行為をされた、と聞き及んでおりますが」
「っ!」

 一瞬、ランドールはぎょっと青い瞳を見開いた。深く、深く息を吸い、ゆっくりとまばたき一つ。

「その、通りです。Father」

 キスへの言い訳、理由付けはもはやチャーリー相手に出尽くした。この期に及んで何を言っても逃げになる。素直に認めるしかない。

 泣かせた、と彼は言った。

(彼の前で泣いたのか、ヨーコ?)

 いつも凛としている君が。時にもろく、か弱い面も見せる。だがそれは、あくまで自分の前なればこそ、と思っていた。

(私とキスした時の事も……このFatherに話したのか)

 告解室で打ち明けたのかとも思ったが、そんな事はあり得ない。神父が告解を漏らすはずは無い。
 だとしたら……

「つかぬ事をお聞きしますが、神父様」
「何でしょう?」

 ちらり、とヨーコの後ろ姿に視線を向ける……まばたきよりも短い間。サリーとコウイチ、ロイと熱心に話している。
 きりっとした横顔には、いささかの迷いもないように見えた。

「彼女とは……ヨーコとは、いったいどのようなお知り合いなのですか?」

 言ってから気付く。分かり切ったことを聞いてしまった。ハンター仲間、それ以外に何があると言うのか。

「んー……先輩と後輩、と言った所ですかね?」

 予想は裏切られた。どうやら、単なるチームメイトではないらしい。

「以前、同じ人に師事していたんですよ。その縁で、今は結城さんのご両親のところでご厄介になっています」

 自らの名を聞き留めたのだろう。ヨーコがひょい、と神父の背後から顔をのぞかせる。

「よく言う。久々に会ったらころっと忘れてたくせに!」
「あれは忘れてた訳じゃありませんよ。最初に会った頃とは見違えるように可愛くなっててわからなかっただけです」

 神父は肩越しに振り返り、彼女にほほ笑みかけた。

「ちゃんと後でわかったじゃないですか……和尚に『メリィ』って言われたからですが」
「だーかーらーメリィちゃん言うなっつーとろぉがああ」
「私は『ちゃん』まではつけてませんよ……っと」
 
 頭から突っ込んでくるヨーコを神父はコートを翻し、闘牛士さながらにやり過ごした。実に鮮やかな手際だ。

「そっちこそ『あの事』をころっと忘れていたくせに」

 身をかわしつつ、さらりと言ってのける。

「わーったったたった、それは無し、言わないでーっ」

 効果てきめん。ヨーコは真っ赤になっておろおろ、右往左往。一体、何があったのか。

「あの事?」
「ああ、大したことじゃありません。メリィちゃんはね。初めて会ったとき……」
「すとっぷ、すとーっぷ!」
「私に、プロポーズしたんです」

(そうか………そうだったのか……)

 ようやく合点が行った。先刻の彼の言葉の意味。愛の無い行為と断じた理由も。
 なるほど。意外な所に伏兵が居た、と言う訳か。
 年上で、中々に頭の切れる人物と見た。ヨーコに言いくるめられないだけの器量も。守るだけの腕も備えているようだが、果たして生涯の伴侶としてはどうだろう?

「つまり……その……」

 いささか年が離れすぎてはいないか? それに、彼はカトリックの神父だ。本来なら生涯、独身を通すはずの身ではないか!

「しかし、Father……あなたは、クリスチャンではありませんか?」
「問題ありません、日本ではキリストもお釈迦様も等しく八百万の一柱扱いですよ? 結城神社さんは女系で、今の宮司さんも婿養子ですからねえ」
「みーかーみーっ!」

 暴れヒツジの突進をするりとかわし、再度向き直る頭を手のひらで軽く押さえてしまった。
 押さえ込まれて近づけず、ヨーコは手足をじたばたさせるばかり。

「くーっ、はーなーせーっ」
「はい、どうぞ」
「わっ」

 急に手を離され、前につんのめる体をぽふっと受け止めている。ランドールは苦笑しつつ差し伸べた手で空をつかみ、引っ込めるしかなかった。

「おや? 景色が変わりましたね。潮の香りが強くなった」
「ふぇ?」

 いつしか青い空には濁った鉛色が混じり、沖合から冷たい風が吹き始めていた。

「ここは……どこなんでしょうね?」


次へ→【ex10-12】あり得ざる橋は崩れ
拍手する